Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き14)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き14)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き14)


(f)聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包合されている (2/2)

われわれの感嘆すべき教皇であって父なる聖ピオ十世は、“頻繁な聖体拝領”の教皇であられると同時に、内的生活の教皇でもあられる。
 「いっさいを、キリストにおいて回復する Instaurare omnia in Christo」(エフェゾ1・10)とは、とりわけ、使徒的事業にたずさわる人びとに向かって、お叫びになったかれの第一声である。これこそは、聖体に生きる使徒の、実践すべきプログラムなのだ。これこそはまた、教会内におけるその事業の成功を、人びとを聖体的生活に進歩させる、その進歩の度合いにのみ見ようとする使徒の、プログラムでなければならない。
 当世のもろもろの使徒的事業よ、おまえは数こそ多いが、しかしあまりにしばしば、かんじんの実を結んでいない。なぜおまえは、現代社会を、改革することができないのか。われわれもこれを認めるのだが、おまえはこれまでの世紀にくらべて、数がいちじるしくふえている。それなのに、おまえは、家父の畑を荒らす無宗教・不道徳の加担者らを、撃退することができない。前世紀にくらべて、おそろしいぐらいそれができない。いったい、どうしたことか。
 それができない理由は、いったい、何なのか。――おまえが、内的生活に十分にひたっていない、そのためである。聖体的生活に、じゅうぶん理解された典礼生活に、おまえがりっぱに生きていない、そのためである。
 おまえがみちびき、おまえを運営する人びとは、なるほど条理のとおった、りっぱな議論をたたかわすことはできた。おのれの才能を見せびらかすことはできた。ある程度の信心さえも、人びとに吹き込むことはできた。
 かれらは、福音の光りの波を、人びとの上にそそぎ、いからかの信心を、かれらに実行させる所まではこぎつけた。これだけでも、すでにりっぱな収穫であるにはちがいない。
 しかし、かれらは、生命の泉から十分に汲みとり、飽くまで飲むことを怠ったがために、人びとの意志に決断力をあたえるこの“熱愛”を、他の人にもわけあたえることができなかった。目にみえないで、しかし不可抗力的にはたらくこの使徒的奮発心を、人びとの心にもそそぎ入れようと努力したが、無駄だった。生き生きとして活動力にみちた、信者の集合体のパンダネなる、エリートの信者をつくろうと望んだが、無駄だった。“熱愛”というこの超自然的引力――かけがえのない、そして音もなく、やすみもなく働くこの超自然的引力の源が、かれらのまわりに炎々たる天主の愛の熱火を放ち、この同じ熱火が、それに燃焼されることのできる各階層の人びとの心にも、燃えうつることを望んだのだが、それもやはり無駄だった。
 これらの収穫をあげるためには、かれらの生活――イエズスのご生命に生きるという、かれらの生活――が、あまりに浅薄だったからである。

 前世紀の罪悪から、人びとの霊魂を予防するためには、普通の信心で、間にあったろう。だが、何百倍にも勢をました現世紀の悪の病菌――悪魔と世間の加担者たちから注射された現世紀の悪の病菌を予防するためには、前のより幾層倍も強力な、注射液が必要なのだ。
 それなのに、現世紀の使徒たちには、よくきく解毒剤をつくる実験室がないので、あるいは、現世紀の使徒的事業は、ただ感情的な熱心、点火されるとすぐに消えてしまう大いなる熱心を生み出すことに限定されていた。
les œuvres se sont bornées à procurer la ferveur du sentiment, grands élans presque aussi vite éteints qu'allumés.
あるいは、事業はほんの少数にしか影響を及ぼすことができなかった。
elles n'ont pu atteindre que d'infimes minorités.

 神学校も、修練院も、聖体の愛に酔っている熱烈な司祭、修道者、修道女の大群をつくりだすことができなかった。だからこそ、これら精鋭の霊魂たちによって、使徒的事業に献身する信徒の心の火が、いまだに燃えあがらないでいる。いつまでも灰の中にくすぶっている。むろん、現世紀の使徒養成機関は、敬けんな使徒たちを、数おおく主の教会に送りだすことはできたろう。だが、その送りだされた使徒たちの中で、聖体的生活に生きる信者、すなわち、心の取り締まりと奮発心においては完全で、そのうえ熱心で、活動的で、いかなるぎせいも惜しまない大きな心をもち、かつ実効的であるこの信心、いいかえれば、”内的生活“をもった者は、ごく少なかったのではないか。

 人はよく教会を評価しているのを聞く。この教会は“優秀”だ、あの教会は“最も優秀”だ、何故なら、信者が神父にていねいに挨拶をする。神父に対して敬意を払って話をする、何らかの敬慕の情を披歴する、必要があればよろこんで神父にお手伝いをするからだ、と。しかし、この教会では、多くの信者が、日曜日にミサにあずかるかわりに、労働し、聖体や告解などの秘跡がうとんじられ、カトリックの宗教については無知、不品行、天主への冒涜、道徳はゆるんではいないだろうか?なんとあわれなことか!
これが"最も優秀"な教会なのか?未信者の生活となんの変わりもない生活を送っているこういう人々を、キリスト信者と呼ぶことができるのだろうか?

On entend parfois qualifier de bonne, d'excellente, une paroisse, parce que les gens y saluent poliment le prêtre, lui répondent avec déférence, lui manifestent quelque sympathie, lui rendent même au besoin volontiers service, mais où le plus grand nombre remplace par le travail l'assistance à la messe du dimanche, où les Sacrements sont abandonnés, où régnent l'ignorance de la Religion, l'intempérance et le blasphème, où la morale laisse fort à désirer. Quelle pitié! Excellente paroisse? Peut-on appeler chrétiens ces gens à la vie toute païenne?

 福音の労働者であるわれわれは、この悲しむべき結果をなげく。なぜ、われわれは御言葉が説教者たちに教えるこの学校【つまり御聖体】にもっとひんぱんに通わなかったのだろう!なぜわれわれは、聖体の天主イエズスと心と心を合わせて、生命の言葉をもっと深く汲みとらなかったのだろう!天主はわれわれのくちびるを通してお語りにならなかった。これこそが致命的なことだった。われわれの人間の言葉がほとんどなんの実も結ばなかったと、驚くのを止めよう。

Ouvriers évangéliques, nous qui déplorons ces tristes résultats, que ne sommes-nous allés davantage à cette école où le Verbe enseigne les prédicateurs ! Que n'avons-nous puisé plus profondément dans le cœur à cœur avec le Dieu de l'Eucharistie, la parole de vie! Dieu n'a pas parlé par notre bouche. C'était fatal. Cessons de nous étonner que notre parole humaine soit restée presque stérile.

 われわれは、霊魂たちの目に、キリストとイエズスの命を教会に反映する者としてはうつらなかった。人々がわれわれを信じるために、われわれのひたいのまわりに、後光のようなものが輝いていなければならなかった。ちょうどシナイ山から降りてイスラエルの民へと戻っていくときに輝いていた後光が。この後光は、ヘブライ人たちの目にとって、かれをつかわされた御者とかれとの親密さを証しするものだった。

Nous ne sommes pas apparus aux âmes comme un reflet de Jésus et de sa vie dans l'Eglise. Pour que le peuple crût en nous, il eût fallu que brillât autour de notre front quelque chose de l'auréole qui illuminait Moïse, lorsque descendant du Sinaï il revenait vers les Israélites. Cette auréole était aux yeux des Hébreux un témoignage de l'intimité du représentant avec Celui qui l'envoyait.

われわれの使命を果たすためには、われわれがただ正直な信念の人と見えるだけでは足りなかった。
聖体の光線が人々をして、生ける天主を――だれもこれに抵抗することのできぬ全能の天主を、思わせるようにしなければならなかったのだ。われわれが、どんなに優れた修辞学者、演説家、講演者、伝道者、教師だったとしても、不完全にしか成功しなかった。何故なら、われわれが天主との親しさを反映しなかったからだ。

Il eût fallu pour notre mission que nous apparussions non seulement hommes probes et convaincus, mais qu'un rayon de l'Eucharistie laissât deviner au peuple de Dieu vivant auquel rien ne résiste. Rhéteurs, tribuns, conférenciers, catéchistes, professeurs, nous n'avons réussi qu'imparfaitement, parce que nous n'avons pas reflété l'intimité divine.

 事業の使徒でありながら、かんじんの事業に失敗したわれわれである。だからといって、いつまでも嘆いていてはならぬ。人間は、だれでも、幸福にあこがれている。幸福へのあこがれには、どんな人でも、心を動かされる。この事実をつきとめて、さてわれわれは、おのれに問うてみるのもよかろう。――はたして聴衆は、われわれのうちに、天主の永遠無限の幸福の反映を見いだしただろうかと。聖櫃の内に、かくれておいでになる御者との一致こそは、この幸福の反映を、われわれにあたえてくれたはずだ。イエズスこそは、天国のよろこびそのものであられるから。
 使徒たちにとって、このよろこびの糧がどんなに大切だかは、イエズスご自身、それをお忘れにならなかったほどである。「わたしが、これらのことを話したのは、わたしのよろこびが、あなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたのよろこびが、満ちあふれるためである。Haec locutus sum vobis ut gaudium meum sit m vobis et gaudium vestrum impleatur.」(ヨハネ15・11)――最後の晩餐の直後、イエズスは使徒たちに、こう仰せられた。それは、聖体が、地上におけるあらゆるよろこびの源泉であることを、かれらに銘記させるためだったのだ。

 われわれは、キリストのしもべとして、教会の聖役者として、自他ともに任じている。
 だが、そういうわれわれにとって、聖櫃は声なき牢獄でしかない。
 祭壇の石は、氷のように冷ややかである。
 主のご逝去の記念たる聖体は、なるほど尊敬はするだろう。
 だが、それは、ほとんど生命なき寺院の宝物にひとしい。
 われわれ教会の司牧者らが、こんなにだらしがないからこそ、信徒をわるい道に、ふみ迷わせてしまったのではないか。かれらを禁断の快楽のドロ沼から引きあげるために、いったいったいわれわれはなにをなし、なにができたろうか。われわれは、宗教のあたえるよろこびについて、善き決心のあたえる安心と喜悦について、かれらによく話をしてきかせたものだ。
 だがしかし、われわれ自身、天主の子羊の生ける泉からじかに飲んで、じゅうぶんに魂の渇きをいやす、すべを心得ていなかったものだから、われわれの語る言葉には熱がなかった。確信がなかった。生命の躍動がなかった。いいつくせない霊のよろこびについて語っても、それはちょうど赤ん坊が、なんやらしどろもどろ、口ごもりするのと同じだった。人の心が生まれながらに欲求する幸福を語るときにこそ、地獄の話をするときの恐ろしい言葉にもまして、いっそう効果的に、かれらを傲慢と肉欲と物欲の鉄鎖から、解放することができるのに……。
 天主は愛である。天主においては、いっさいが愛である。
 それなのに、人びとは、われわれが天主について語るところによって、天主は厳格な立法者である、いかめしい審判者である、その判決がひとたびくだされたら、絶対に撤回できない恐ろしい裁判官である、その宣告する刑罰は、世にまたとない残酷なものである、というふうに、天主のうちにただ恐怖の一面だけを眺めるのだった。われわれのくちびるは、イエズスの聖心――人類を愛して、これがために生命を捨てられたイエズスの聖心に、波うつ愛の言葉を、語ることができなかった。

Nos lèvres n'ont pas su parler le langage du Cœur de Celui qui aime les hommes, parce que nos entretiens avec ce Cœur étaient aussi rares que peu intimes.

 イエズスの聖心と、心から心へと語りあうことが、ごくごくまれだったからである。語ったからとて、それにはなんの親しさも、なんのむつましさなかったからである。
 そんなわけで、つまらないのはわれわれ司牧者なのだから、信徒がいくらかんばしくないからといって、その過ちを現代社会の深刻な道徳的腐敗になすりつけてはならぬ。なぜなら、こういう実例も、ふだんに見せつけられているではないか。すなわち、すでに非キリスト教的となりおわった小教区が、ここにある。そこに、良識があり、熱心で、活動的で、やり手で、とりわけ、聖体的生活の愛好者である神父たちが行って伝道する。またたくまに、信者たちは心を入れかえて、熱心になる。悪魔の加担者たちが、ありったけの努力をかたむけて、どんなに神父たちを妨害しても、いっこう平気である。
 悪魔にとって、戦慄すべき者となっている神父たち(不幸にも、かれらの数はごく少ない!)は、いっさいの力のみなもとなる聖ヒツのイエズスから、霊戦に要するちからを汲みとっている。そして、聖体的生活という常識の武器を、いつもピカピカみがいているので、悪魔がどんなに大ぜい集まって、かれらに攻撃をしかけても、けっして勝つことができないのである。

 祭壇のもとでする、かれらの念祷は、このとおり、絶対に無駄ではなかったのだ。今こそかれらは、アシジのフランシスコがいった左の言葉を、身にしみて理解したろう。
 「念禱――これこそは、恩寵の貯水池なのだ。説教は、われわれが、天からいただいた恩寵を、人びとの心にみちびき入れる水道管である。天主のお言葉を述べつたえるために、天の大王から選ばれた教役者は、かれら自身、おのれの口から、わけても聖櫃のそばで学び、かつ収穫したものを、他の人びとにも、わけあたえてやらねばならぬ者である」
L'oraison, c'est la source de la grâce. La prédication c'est le canal qui distribue les grâces que nous avons reçues du Ciel. Les ministres de la parole de Dieu sont choisis du grand Roi pour porter cmx peuples ce qu'ils auront appris et recueilli eux-mêmes de sa touche, SURTOUT PRES DU TABERNACLE.

 いまや事業の使徒の世紀が、大いなる希望のかがやきを放って、明けそめようとしている。
 これらの使徒は、たんに聖体を拝領する者の行列を、盛んにすることに満足できないで、理想をもっと高くもち、どうすれば聖体を拝領する者が、ほんとうに霊生の完成を、わが身に実現するのを容易にすることができるか、そのすべをちゃんと心得ているのである。

  (第四部 終了)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】