Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖体の礼拝は救い主に対する冒瀆(ぼうとく)の最善の償いである

2020年05月20日 | お説教・霊的講話
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
聖体礼拝の理由
 
聖体の礼拝は救い主に対する冒瀆(ぼうとく)の最善の償いである
 
 礼拝 万物の主である天主を認めないで、信仰の教えるところに反して天主をあなどる者は、天主の御稜威の冒瀆(ぼうとく)者である。そればかりでなく、天主が人となって地上においでになり、この世にお住みになったのであるから、彼らは同時に、天主且つ人イエズス・キリストの冒瀆者である。
 
 彼らは主が天主であることを否み、主の童貞マリアからお生まれになったことを信ぜず、主のご生涯を物語とみなし、主、および、主が世の終わりに至るまで人類の光明として建設された聖会の権威をけいべつする。また彼らは主の制定されたいっさいの秘跡をあざけり、主が模範を示されたすべての信心のわざをあなどる。
 
 彼らによると、天主とはひとつの空虚な名称にすぎず、イエズス・キリストは幻覚にとらわれた狂人で、天啓はすべて虚偽であって、教会は人間の権利を侵害する野心家の団体にほかならない。以上の事がらは公に説かれて多数の人々に信用され、紙上の論説となって大衆の間に広がってゆく。
 
 すべてこれらは、全世界をおおう濁流である。ちょうど地獄が口を開いてすべての悪魔を出だし、彼らの呪いを地上に吐かせたようである。
 
 侮辱は賛美を、憎悪は愛を、冒瀆(ぼうとく)は礼拝を要求する。
 
 だから、主を信じている私たちは、まことの天主、まことの人なるイエズス・キリストが生き、またこの中にお住まいになっている聖体の秘跡を礼拝しよう。
 
 聖体の前にひれ伏して、できるかぎりの信仰と愛とをもって、主キリストが唯一まことの天主、聖の聖なる御者でおいでになり、天地の創造主であることを公言しよう。
 
 主が万物のはじめであり、終わりであること、天においても地においても、いっさいの天使と人類とは、みな主に属し、主に服従し、主の御おきてをあがめ、主のみ前に礼拝しなければならないことを告白しよう。
 
 主が天主の御ひとり子のペルソナと合わせられたまことの人で、いっさいの徳、いっさいの能力をそなえておいでになることを主張しよう。
 
 このような信徳と愛徳との祈りを繰り返し、この祈りをイエズスご自身にほかならぬ尊いホスチアにささげよう。そして、もしできれば、これによってあの恐ろしい冒瀆(ぼうとく)が主に達しないために、賛美をもってホスチアを包囲しよう。
 
 感謝 絶えず繰り返される無数の冒瀆(ぼうとく)は、主の愛と御稜威を考えるとき、まことに極悪無道の行ないであるといわなければならない。私たちはこの事実を前にして、心の張り裂けるのをおぼえる。かの恐ろしい冒瀆を償い、無礼を除く方法を案出しなければ、私たちはとうてい安心することができない。
 
 ところがこの方法は、私たちの手の届くところに存在する。すなわち至聖なる聖体の礼拝がこれである。
 
 天主のみ前において、善業の功徳は冒瀆を消す。だから天主は、賛美をもって汚聖を、尊敬をもってけいべつを、けんそんな信仰をもって不信を、愛をもって憎悪を償わせたもうのである。
 
 ところが聖体の礼拝は、これらの善業のすべてを含んでいる。すなわち私たちが聖体を礼拝するのは、イエズス・キリストのうちに存在する神性の完徳を認め、イエズス・キリストのもっておられる天主的主権を認めるからである。またそれは、イエズス・キリストによって、天主がいっさいの恩恵の恵み豊かな与え主でいらっしゃることを、喜びと感謝とをもってお認めするからである。なおそのうえ、御血であがなわれた人々が繰り返し犯す罪によって破ったイエズスのみ心をお慰めするためである。これらすべては、冒瀆(ぼうとく)の正反対である賛美、信仰、愛徳、その他の善業でなくて何であろうか。
 
 そのうえ、主のおいでになる場所に来て、直接にイエズスにこのけいけんな務めをささげるのであるから、私たちの礼拝はいっそう完全になる。なぜなら、他の事がらをさしおいて主のみもとに来るためには、私たちはたびたび、かなり大きなぎせいをはらわなければならないからである。
 
 このように確実で容易な、しかも完全な償いの方法を与えてくださった主の御慈悲を感謝し、同時にこれを利用して、尊い救い主に冒瀆が加えられるのを見るたびに私たちが感ずる心の苦しみを、これによって慰めようではないか。
 
 償い 心からいっさいの冒瀆を悲しみ嘆こう。心に、この悪魔的行為の醜さと恐ろしさとをよく刻みつけよう。なぜ冒瀆がこのように忌まわしいかというと、冒瀆は、ただ愛によってのみ私たちを造り、すべてのよいものを私たちに与えることを唯一の喜びとしておられる天主に対して直接の反逆となるからである。
 
 天主は愛によって私たちと同じ人間となり、いっさいの恩恵と天国の相続権とを私たちに与えるために、そのご霊魂をすべての悲哀のなかにひたし、そのご肉身をすべての苦痛にわたし、そのご生命をいとも悲惨な死によって失われたのである。
 
 天主の愛から出たこの大いなるお恵みを、冒瀆者のあざけりと不信とに対比しよう。このようにあわれみ深い天主を無理に冒瀆するとは、いかなる憎悪いかなる盲目の結果であろうか。
 
 主のために同情し主のために嘆こう。また御許しを願おう。聖母が十字架のもとに立って、御子の苦悩を見守りながらお感じになった御苦しみをわかとう。自分の償いを補うために、聖母の償いをおささげしよう。
 
 祈願 冒瀆者の陥っている悲惨な状態、彼らが招いた天主の激しい御怒りと、彼らを待っている恐ろしい刑罰とを考えるなら、どうして彼らのために熱心に祈らないでいられるだろうか。
 
 彼らがついに目ざめて、あなどられたもう天主を知ることができるようお願いしよう。冒瀆が地上にあとを断って、この世から消失することをお願いしよう。聖母とともに祈り、聖母とともに冒瀆者のために泣こう。祭壇の上で絶えずささげられるイエズスご自身の祈りに声をお合わせしよう。『父よ彼らを許したまえ。そは彼らそのなすところを知らざればなり』と。
 
 実行 聖体のうちにおいでになる天主に対し、大いなる反逆を償う心をもって、すべての善業を行なおう。

















聖母への真の信心の効果がどれほど素晴らしいか、最初の二つの効果

2020年05月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2020年5月17日(主日)復活後第5主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ
「聖母への真の信心の効果がどれほど素晴らしいか、最初の二つの効果」をご紹介いたします。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、5月は聖母聖月、マリア様の月です。

この前は、「マリア様に対する真の信心」、聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールの真の信心をするその理由を少しお話しました。「8つある」という事をお話しました。

ところで、同じ本の中で、聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールは、「その効果がどれほど素晴らしいものか」という事を説明しています。聖人は「7つ」その効果を説明していますけれども、その一つ一つがとても深くて、そしてその説明を7つ目になればなるほど効果が、後になればなるほど、そのものすごいという事が分かります。

最初の、その小さな効果の内の最初の2つを、今日一緒に黙想する事を提案します。

聖グリニョン・ド・モンフォールによると、「最初の効果は、自分の無価値さ、自分が何でもない、という事を理解するようになること」と言っています。

多くの罪は、傲慢とか利己主義とか、自分のやりたい通りにやりたい、天主を無視する、という事で犯されます。

しかし「この真の信心をする事によって、聖霊の花嫁であるマリア様からの特別な光をもらって、『私たちが一体何であるか』という事をよく理解できるようになる。つまり『私たちは被造物であって、何の価値もないものだ。天主の前で無である』という事を理解できるようになる。」

するとどうなるかというと、私たちがたとえ軽蔑されても、私たちがバカにされても、別に怒ったりもせずに、それは何でもなくなります。いや、むしろ「私たちはその謙遜を愛するようになる」と説明します。「そうする事によって私たちはますます、マリア様の御謙遜に深く一致する事ができるようになる」と説明します。

これが第1の効果です。

第2の効果は、「マリア様の信仰に与る事ができること」といいます。

マリア様がこの地上で生活していた間は、非常に素晴らしい信仰をお持ちでした。アブラハムの信仰は偉大でしたが、それを遥かに超えたものでした。大聖人、あるいは殉教者、その他多くの偉大な聖人たちの信仰を、マリア様の信仰は遥かに超えた、深い、生き生きとしたものでした。

マリア様の信仰は、本当に天の星々の数が数え切れないように、海原の真砂が数え切れないほどの、ものすごいものでした。

マリア様の信仰はまさに、生き生きとした、愛に満ちたものであって、純粋に天主に対する愛だけによって生かされていました。

マリア様の信仰はまさに、確固としたものであって、どのような困難があっても、苦しみがあっても、あるいは台風があっても、震える事なくガッシリとしていて、そして微動だにする事がありませんでした。確固とした信仰。

マリア様の信仰はまさに、非常に活動的なものであって、そして天主の神秘の中に深く深く入る事ができるものでした。ちょうど、コンピューターのパスワードがあれば、あるいは鍵があれば、どんな深くでも入っていく事ができるかのように、マリア様の信仰はまさに、天主様の一番奥深くまで行くような信仰でした。

マリア様の信仰はまさに、非常に勇敢で果敢であって、そしてどんな事でも、どんな難しい事であったとしても、困難があったとしても、霊魂の救いの為に、あるいは天主の栄光の為にそれをやってのける、それに向かっていく、というものでした。何ものにもひるまないものでした。

「この信仰、これを、私たちが聖母に対する真の信仰によって参与する事ができる、分かち合う事ができる」と教えています。

聖母聖月、あとまだ半分残っています。マリア様のこの信心をする事によって更にもっと深い効果がありますけれども、それは皆さん本を読んで、じっくりと黙想なさって下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。









教会の精神に従って、私たちの主の昇天の祝日の準備を致しよう

2020年05月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2020年5月17日(主日)主の復活後第5主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は主の復活後第5主日です。

あと数日で、来たる木曜日には、主の昇天の祝日があります。

私たちの主は、40日の断食の後に、悪魔に対して勝利を収めました。復活の後には、40日間弟子たちに現れて、御自分が真に復活したという事を、その勝利を見せびらかして、そして最後には、ちょうど凱旋門をマーチする優勝チームのその監督のように、天に昇られました。御自分の力で、凱旋的に昇られました。そして天主聖父の右の座に、永久に座しました。

これは、天主御自身が、人となった天主御自身が、人間性を以って、最も高いところまで地位まで上げられた、という事です。人間として上げられた、という事です。こうして御自分の大勝利を、確実に、永久に、絶対的に確立された、という事です。この祝日を、あと数日で祝います。来たる木曜日です。私たちは何と喜ばしい事でしょうか。

私たちはこの御昇天の祝日を目前に、では一体どこに行けば良いのか?という事を確実に知る事ができます。「天の国」です。私たちの主が座って、私たちを待って、私たちの為に祈り取り次いでおられる天の国です。

そしてどの道を通っていけば良いかも分かります。「イエズス・キリスト」という道を通って、イエズス・キリスト様が教えて下さった「十字架の道」を通って行く事です。

イエズス様が私たちの為に勝利を収めた、復活の勝利を収めた、悪魔に対する勝利を収めた、死と罪に対する大勝利を収めたというのは、まさに「祈り」と「謙遜」と「十字架」、人間のこの弱い、この弱さを以っての大勝利でした。

私たちは確実に知っている事が1つあります、「私たちにはただ1人、イエズス・キリストしか真の救世主がいない」という事です。「真の勝利がない」という事です。

もしもこの真理を、事実を拒否するのならば、今これを受ける事ができないならばどうなるでしょうか?

救世主としてではなく、裁判者として、この世の終わりにもう一度、イエズス・キリストに会わなければならなくなりません。今では憐みの主として、今では私たちを助ける、天国へと導く者としていらっしゃいますけれども、しかしその時には、既に時は遅かりし、私たちを正義によって厳しく審判する裁判者として、裁判官として、生ける者と死せる者を裁く為に来たり給う裁判官として、会わなければなりません。この方以外に、人類を裁く方はいません。イエズス・キリストです。

では愛する兄弟の皆さん、この教会の精神に従って、教会と共に、カトリック教会と共に、私たちの主の昇天の祝日の準備を致しましょう。私たちの弱さにもかかわらず、この天の国に導かれる事ができますように。

どうしたら良いでしょうか?

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様はファチマでこう仰いました、「私の汚れなき御心は、あなたたちを天に導く道である。天主へと導く道である」と。願わくは、マリア様が私たちをいつも助けて下さいますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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