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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

5月21日、主の昇天の祝日の午後3時北京は突然の暗闇に包まれたそうです。

2020年05月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

【参考情報】
5月21日、主の昇天の祝日の午後3時00分、北京では、今まで明るかったのに、突然の暗闇に包まれたそうです。





主よ、憐れみ給え!


【参考資料】


【参考資料】2000年6月にバチカンが発表した「ファチマの第3の秘密」

2020年05月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

【参考資料】
2000年6月にバチカンが発表した「ファチマの第3の秘密」と言われているものによると、次の通りです。

“J.M.J.

 天主よ、私は御身への従順のためにこれを書きます。御身はレイリアの司教様と、いとも聖なる御身の御母にして私の母なる聖母マリアとを通して、私にそうすることを命じ給います。

 私がすでに説明した2つの部分の後で、聖母マリアの左の少し上に、私たちは、左手に炎の剣を持つ一位の天使を見ました。この剣はこの世を火で焼くことができるかのように見える炎を出して燃えていました。が、これらの炎は聖母マリアがその右の手からこの天使へと向けて輝き出す輝きに触れて消されてしまいました。天使は、右の手で地上を指し示しながら大きな声で叫びました。「償い!償い!償い!」 そして私たちは巨大な光を見ましたがそれは天主様でした。(人々が鏡の前に立つと、自分の姿が鏡に映されるような様子と何かにていることです。)白い服を着た一人の司教様(私たちはこの司教様は教皇様であるという印象を受けました)、その他の司教様たち、神父様たち、男性、女性、修道者たちが山の上に登っています。その頂上には、樹の皮の付いたコルクの樹の幹を荒く切り倒して作った大きな十字架がありました。そこに辿り着く前に、教皇様は、苦しみと悲しみとで半分震えて半分躊躇する足取りで、半分崩壊した巨大な都市を通り抜け、その途上で出会った死体の霊魂らのために祈っていました。山の頂上に到着すると、大きな十字架の元にひざまずき、彼に向けて弾丸と矢を放った一軍の兵士たちによって殺害されてしまいました。そして同じように、その他の司教様たち、司祭たち、修道士、修道女達、そして様々な階級と職種の平信徒の人々も次々にそこで死んでいきました。十字架の二つの腕の下にいた二位の天使たちは、殉教者達の血を集めて水晶で出来た灌(かん)水器に入れて手に持ち、それで聖水のように天主へと道を進む霊魂たちに振りかけていました。

« J.M.J.

A terceira parte do segredo revelado a 13 de Julho de 1917 na Cova da Iria-Fátima.

Escrevo em acto de obediência a Vós Deus meu, que mo mandais por meio de sua Ex.cia Rev.ma o Senhor Bispo de Leiria e da Vossa e minha Santíssima Mãe.

Depois das duas partes que já expus, vimos ao lado esquerdo de Nossa Senhora um pouco mais alto um Anjo com uma espada de fôgo em a mão esquerda; ao centilar, despedia chamas que parecia iam encendiar o mundo; mas apagavam-se com o contacto do brilho que da mão direita expedia Nossa Senhora ao seu encontro: O Anjo apontando com a mão direita para a terra, com voz forte disse: Penitência, Penitência, Penitência! E vimos n'uma luz emensa que é Deus: “algo semelhante a como se vêem as pessoas n'um espelho quando lhe passam por diante” um Bispo vestido de Branco “tivemos o pressentimento de que era o Santo Padre”. Varios outros Bispos, Sacerdotes, religiosos e religiosas subir uma escabrosa montanha, no cimo da qual estava uma grande Cruz de troncos toscos como se fôra de sobreiro com a casca; o Santo Padre, antes de chegar aí, atravessou uma grande cidade meia em ruínas, e meio trémulo com andar vacilante, acabrunhado de dôr e pena, ia orando pelas almas dos cadáveres que encontrava pelo caminho; chegado ao cimo do monte, prostrado de juelhos aos pés da grande Cruz foi morto por um grupo de soldados que lhe dispararam varios tiros e setas, e assim mesmo foram morrendo uns trás outros os Bispos Sacerdotes, religiosos e religiosas e varias pessoas seculares, cavalheiros e senhoras de varias classes e posições. Sob os dois braços da Cruz estavam dois Anjos cada um com um regador de cristal em a mão, n'êles recolhiam o sangue dos Martires e com êle regavam as almas que se aproximavam de Deus.

Tuy-3-1-1944 ».

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“J.M.J.

I write in obedience to you, my God, who command me to do so through his Excellency the Bishop of Leiria and through your Most Holy Mother and mine.

After the two parts which I have already explained, at the left of Our Lady and a little above, we saw an Angel with a flaming sword in his left hand; flashing, it gave out flames that looked as though they would set the world on fire; but they died out in contact with the splendour that Our Lady radiated towards him from her right hand: pointing to the earth with his right hand, the Angel cried out in a loud voice: ‘Penance, Penance, Penance!'. And we saw in an immense light that is God: ‘something similar to how people appear in a mirror when they pass in front of it' a Bishop dressed in White ‘we had the impression that it was the Holy Father'. Other Bishops, Priests, men and women Religious going up a steep mountain, at the top of which there was a big Cross of rough-hewn trunks as of a cork-tree with the bark; before reaching there the Holy Father passed through a big city half in ruins and half trembling with halting step, afflicted with pain and sorrow, he prayed for the souls of the corpses he met on his way; having reached the top of the mountain, on his knees at the foot of the big Cross he was killed by a group of soldiers who fired bullets and arrows at him, and in the same way there died one after another the other Bishops, Priests, men and women Religious, and various lay people of different ranks and positions. Beneath the two arms of the Cross there were two Angels each with a crystal aspersorium in his hand, in which they gathered up the blood of the Martyrs and with it sprinkled the souls that were making their way to God.

Tuy-3-1-1944”.




聖体降福式は聖体中の主に光栄を帰する最上の方法である

2020年05月23日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】

聖体の顕示に関する黙想

聖体降福式は聖体中の主に光栄を帰する最上の方法である

 礼拝 聖体顕示器を中心とする荘厳な礼拝の祭式の間に、秘跡のおおいのもとに隠れておいでになる主イエズス・キリストを礼拝しよう。
 主の御稜威の前にひれ伏して、私たちの天主を礼拝しよう。聖櫃の神秘的な隠れ家の中に、光栄に包まれておいでになる救い主を、尊敬と謙そんと聖なる怖れとをもって礼拝しよう。主は顕示台上にあらわれ出でて、あなたに近づいて、あなたのもとにおいでになる。その光輝ある人性は、聖体の陰に隠されているものの、今こそ主は自分でお選びになった牢獄からお出になったのである。主はかつて御墓の石を除かれたように、今、黄金のチボリウムのふたを取り去られ、秘跡的存在の御姿をここにあらわされる。

 あなたは主を宿すホスチア、このいとも妙なる礼拝すべき秘跡であるホスチアを、今、何ものも妨げるものなく直接に眺めることができるのである。だから聖体降福式は『隠れし天主』である主を、あなたにあらわす最も完全な方法であるといわなければならない。

 教会が聖体降福式を許可した理由のひとつは、聖体の中に実在されるイエズス・キリストに対して、ふさわしい賛美をささげさせるためである。ミサ聖祭にあずかることが、新約の生贄(いけにえ)としての聖体を敬うことであり、また、聖体拝領が、生命のパンの無限の御恵みを尊ぶことであると同様に、聖体降福式は、聖体の中でのイエズス・キリストの絶え間ない実在をあがめることにほかならない。

 この祭式の荘厳さ、聖所と祭壇との美しい装飾、連らなるろうそくの輝き、高い玉座の上に安置された顕示器の燦燦(さんさん)たる金色など、すべてがこの事実を示し、聖体に人々の注意と尊敬とを集める。

 また聖会は、それが可能な場合には、聖体の絶えない礼拝も許可している。これは、司祭や信者たちが交替して、昼夜をわかたず顕示されている聖体のみ前にひれ伏し、見えない天使の群れとともに、天主である聖体を礼拝し、これに公の尊敬をささげるのである。

 すべてこれらの祭式は、秘跡の中でのキリストの実在、またその永遠の天主的生命を賛美し、礼拝することを目的とするのである。

 だから私たちは、できるかぎりたびたびこの祭式にあずからなければならない。なぜなら私たちはみな聖体の中でのイエズスの愛の実在に負うところが多いからである。

 感謝 私たちの母である教会が制定するすべての事がらは、すべてイエズス・キリストの聖心が私たちにお与えになる御恵みである。聖体降福式もそのひとつである。

 まず第一に、それは私たちの弱い信仰にとって大きな助けとなる。もちろん、聖体中のイエズスの実在が顕示式によって増すのではない。しかし、私たちはイエズスを包み、イエズスを示すホスチアの外観を、まのあたり眺めて、いっそうこの実在をよく理解し感得することができるようになる。

 これは実に大きな助けである。肉身と霊魂とからなっている私たちは、信仰によるほかに、肉眼によって主を仰ぎ見るとき、主がいっそう私たちに近いのをおぼえるからである。信仰はその対象を見て強められ、ささえられるのである。

 第二に、聖体のいうべからざる光栄と、会衆の敬虔な雰囲気とによって、祈りはもっとたやすくなり、心の散ることも少なくなる。このようにして、これにふさわしい清さと善意とをもって聖体のみ前に出るとき、私たちの霊魂はおのずから不思議な恩恵と信心とを体験するようになる。

 主がはっきりと御姿を示され、ともすると主を忘れようとする私たちの怠惰な心を呼びさまそうとされるのは、はなはだ特殊な恩恵であるといわなければならない。主は私たちが主を絶えず覚え、主のみ前にあって感激することを望まれる。これは、主が私たちを深く愛されるあまりの聖なるご要求なのである。

 償い 聖体降福式の大いなる祝福にも感激せず、あわれみ深い主のご出現に対しても冷淡な者は、まことに信者の名にふさわしくない者である。

 主が聖体顕示の時に私たちをお招きになっても、これに応ぜず、特殊な恩恵をいただいても、これを評価することを知らず、また、主の新たな愛のご努力にも注意せず、主が実在を明示して求められるこのうえない完全な礼拝を拒むのは、主の聖心を傷つけるとともに、いとも高貴にして豊かなる恩恵をむだにすることである。救い主が聖女マルガリタ・マリアに聖心をあらわし、人々の冷淡と忘恩とを嘆かれたのは、聖体の祝日後の聖体顕示の日においてではなかっただろうか。

 聖体降福式にあずかったときのこれまでの不熱心をよく糾明し、自分の忘恩を償い、天主にてまします生贄に深くご同情申しあげよう。

 祈願 世界各国に公の顕示式が広まるように熱心に祈ろう。それはとりもなおさず、主のみ国の実現することを願い、また、主の聖なる人性に大いなる光栄の帰せられるよう祈ることである。同時にそれは、地上で主のご実在がもっと豊かな効果を結ぶことを祈ることにもなる。『父よ、御子に光栄あらしめたまえ。イエズスよ、御身の聖体のみ国の来たらんことを。』 これこそ私たちらの絶え間ない希望であって、私たちの奮発の理由でなければならない。

 実行 私たち自身の奮発と聖なる奉仕とによって、至聖なる公の聖体降福式が広く行われるように努力しよう。




1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である

3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である

7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である

私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
 「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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