Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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離教にあらず、破門にあらず 1988年6月30日の司教聖別の考察:時間と空間を超えた教会の伝えられた真の一致を守るために

2020年10月15日 | カトリックとは

離教にあらず、破門にあらず

Courrier de Rome, 1988年9月号より

引き裂かれたカトリック信者たち

 第二バチカン公会義以来、カトリック信者たちは真理と「従順」とを選ぶ必要に迫られている。つまり言い換えると、異端となるべきか、それとも離教徒となるべきか、との選択である。

 従って、例えば、カトリック信者は聖ピオ十世の回勅Pascendiと現在のあからさまな現代主義な教会の指針とを選ばなければならない。 現代主義をすべての異端の汚水溜めだと言って排斥した聖ピオ十世か、現在の現代主義と現代主義者とを称えて止まず、聖ピオ十世を軽んじている今の教皇庁か、を。聖ピオ十世の回勅は、その死後70周年を記念して、こう言われた。 「歴史的観点から捉えることもしなかった単なる暴き立て」であると。

 または、テイヤールドシャルダンを排斥した1962年の教皇庁の警告を選ぶか、又は、現在の教会の風潮を選ぶかである。1962年の排斥警告書によれば、彼の論文などの書き物は「全くあいまいな表現が使ってあり、誤謬に満ちている。 それは、あまりにもひどいもので、カトリックの教えを傷つけている」と言うのに、今では教皇聖下の演説の中でさえも彼の書いたものを引用するのに何もためらうことがない。 この背教者の生誕100周年記念には、聖座国務政事官カザロリ枢機卿は、「彼の考えの豊かさ」と「他に例を見ない宗教情熱」とを賛美し、ある一部の枢機卿らの反対をさえ呼び起こした。

 あるいは、既に明らかにされた英国聖公会の司祭叙階が無効であることを信ずるか、あるいは現今の教会の風潮を信じるか、である。1982年には、教皇は歴代始まって以来カンタベリーのカテドラルで聖公会の典礼に与かり、この異端かつ離教の分派の平信徒の最高長上とともに王冠を祝福した。この最高長上は、自分のことを「カトリック英国」のカトリックの宣教者であるカンタベリーの聖アウグスチヌスの後継者としてはばからなかった。この歓迎の演説を聞いておられた教皇は何の反対もされなかった。

 更には、マルチン・ルターを不可謬的に(ex cathedra)排斥したレオ十三世を選ぶか、現今の教会の風潮を選ぶかのどちらかである。現在の教会では、このドイツの異端者の生誕500周年を祝い、教皇聖下ヨハネ・パウロ二世はその手紙の中で、「カトリックとプロテスタントとの学者らの共同の研究により、ルターの深い宗教性が現れてきた。」とはっきり言っている。

 我々はまた、聖福音が歴史的に真理を語っていると信じるか、それとも、現今の教会の指針に従い、声高らかにそのことを否定するか、のどちらかである。「聖にして母なる公教会が決定的にかつ絶対的に、常に変わらず肯定して来た」ように聖福音が歴史的に真理であることを認めるべきか、それとも、ユダヤ教徒との宗教関係に関する、教皇庁立委員会が1985年6月24日に発表したように、それを否定するべきなのか。

 聖福音に従い無信仰のユダヤ教を「天主から憎まれたもの」と宣言する聖書を取るか、あるいはユダヤ会堂を歴代最初に訪れた教皇聖下の演説にあるとおりに、無知なるカトリックの「兄」と呼ぶのか。

 あるいは天主の十戒の最初の戒律である「汝我が前に異国の神々をもつなかれ。」を選ぶか、それとも、アシジのカトリック教会においてなされたように、ひどいことにも、迷信さえも含めたすべての形式の礼拝を認めるべきなのか。すなわち、この聖寵の満ちみてる新約の時代において、キリストを否定していながらも真の天主を礼拝しているとうそぶく偽りのユダヤの礼拝を認めるべきなのか。御聖体ランプが灯り、主の現存が明らかなのにもかかわらず、仏像を祭壇に載せることを許し、仏教徒がその己の偶像を礼拝するのを認めるべきなのか。

 「教会の外に救いなし」とする聖会の教義を信ずるか、それとも、非キリスト教さえも天主への運河であり、多神教さえも敬うべしとする今の教会の指針に従うべきか。

 《異端者》、あるいは/かつ、《破門されたもの》は「カトリック教会の外にいる」のか、それとも、「さまざまなキリスト教と呼ばれる団体」は「深さが」異なるのみで、全き交わりの中にいるのか。したがって、これらさまざまな異端の、あるいは/かつ、破門された党派も、「教会として、又は、教会的団体として」「尊敬すべき」なのか。

  ここらで、もう列挙するのをやめなければならない。一々挙げていたら、きりがないからである。この現代における異端については、Romano Amerioと言う人が、636ページにわたるIota Unumという本を書いている。

「信仰の感覚」(Sensus Fidei)の選択

 「従順」と真理との見かけ上の葛藤において、少しよく知っているカトリック信者は自分のもつ、「信仰の感覚」によって、安心して真理を選んだ。なぜなら、真理こそが「目に見えない教会の頭」であるキリストとの一致を確実にするからである。

「聖伝支持のカトリック信者」として、「使徒伝来の神的聖伝」と「人間の伝承」とが区別できないとされ、不従順に問われている。彼らは聖会の聖伝の中で変わり得るものと変わり得ないものこの区別がつかないとされ、教会の教義が内容を変えずに発展することと、内容を変えつつ進化することとの区別がつかないとされている。更には、今日では、彼らは離教者として破門されている。しかし、彼らは、これらのことが何一つとして現実と真理とに一致していないとよく知っている。

 まず、彼らは自分たちが離教者ではないとよく知っている。─── すなわち、"Volentes per se ecclesiam constituere singularem" (注1)ではないことをよく知っている。彼らは自分自身のためにもう一つ別の教会を作ろうなどとはまったく考えていないからである。反対に、キリストの教会、唯一のキリストの教会に留まるために現在の教会の指針に抵抗しているのである。「全体の一部として行動することを拒み」「教会の中で教会に従って、考え、祈り、行動し、つまり一言で言えば、生きること」を望まないものは、彼らの中にだれもいない。彼らは自分の施行、祈り、行動の規律を自分自身で決めようとする言わば自治体ではない。むしろ、「教会の中で教会に従って、考え、祈り、行動し、つまり一言で言えば、生きること」を絶やさないようにするためにこそ、教会によって守られ、伝え続けられてきた教義と信仰の実践から逸れる限りにおいて、今の新しい教会の指針、風潮に抵抗しているのみである。

 更に、subesse capiti (注2) することを、つまり「教会の頭に服すこと」を拒むものではない。何故なら、こうすることによって離教徒になってしまいうるからである。むしろ反対に、まさに目に見えない「教会の頭」に従順であるために彼らは今の教会の指針に抵抗している。(この教会の指針が教皇によって許されていようと、励まされていようと、求められていようと今ここでは問題ではない。)彼らはそうして、教義上のいかなる点においても妥協することなく、現在の教会位階制度、特にキリストの代理者との一致が一刻も早く実現されることを願って止まない。

(続く)

(注1) :聖トマス・アクィナスが「離教」Schism の定義として使った表現。 "Volentes per se ecclesiam constituere singularem" とは、「自分自身のためにもう一つ別の教会を作ろうと欲する」ということ。Saint Thomas : in IV Sent., dist. XIII q. II a 1 ad 2. 

(注2):聖トマス・アクイナスは別のところでは、subesse renuunt summo pontifici (教皇に服することを拒む) を「離教」Schism の定義として使っている。Saint Thomas, IIa-IIae q. 39, a. 1.  

Ni schismatiques, ni excommuniés

Article du « Courrier de Rome » N° 285 - Septembre 1988

District of Switzerland

 

 


タルチシオ菊地大司教様への2020年10月7日付のお手紙(3)終わりに

2020年10月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

タルチシオ菊地大司教様へのお手紙の最後を分かち合うことをゆるしてください。今回の事態を機会に教会共同体の意味を再考することを私たちに促してくださったことを、あらためて心から大司教様に感謝いたします。

大司教様のお言葉に従って、
一昨日は、最初の考察(1)「すべてのいのちを守る」ということの意味を一緒に考え
昨日は(2)「教会の共同体としての一致」の意味について考えました。

昨日は「教会の共同体としての一致」について、
信仰者がひざまずくことによって「使徒たちや殉教者たちと共に、宇宙全体と共に、イエズス・キリストご自身との一致のうちにとどまる」、ひざまずくことこそ「宇宙的典礼」「本当の"文化"」「真理の文化の核心」というベネディクト十六世の言葉も黙想しました。

それでは、最後の考察に移ります。

今回、教会法の究極の目的である「超自然の霊魂の救い」のために私たちは何をすべきか、信仰者としてのふさわしい判断とは何か、を考えています。

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(3)終わりに

多くの人々が信仰を捨ててしまっている現代こそ、変わることのない信仰による、真の教会共同体の霊的一致を取り戻さなければなりません。そのためには、聖伝の信仰を取り戻すことがどうしても必要な急務であると、私どもは信じて行動しております。

大司教様は、ミサの公開を中止にするという緊急の措置に関して、「趣旨をご理解いただけず協力いただけなかったケースもいくつか報告されています。教会の霊的一致の観点からは残念なことでありました。」と書いておられます。

この「趣旨をご理解いただけず協力いただけなかった」信徒の方々は一体何を思っていらっしゃったのでしょうか?そのような信徒の方々は、ひょっとすると、ご自分の永遠の命を守るため、やむにやまれず永遠の命の糧であるミサの秘蹟を求めていらっしゃったのではないでしょうか?

タルシチオ菊地大司教様の守護聖人は御聖体の殉教者聖タルシチオでいらっしゃいますが、御聖体の尊厳を守ることに尽された聖人にならって、タルシチオ菊地大司教様も、たとえ仲間からは非難されるかもしれないとしても、日本でこれほどまで貶められてしまった御聖体の尊厳を取り戻すために、立派に働かれる大司教様であることを信じております。

大司教様は公示で、「信徒が同会のミサに参加することは、現時点で推奨することは出来ません」とおっしゃっておりますが、きっと大司教様も、信徒が私どもの聖伝のミサに参加することこそが良いことである、としてくださるにふさわしい時が来るものと信じております。何故なら、私どもは聖伝に従って教会がやり続けてきたことをそのまましているだけなので、カトリックの司教様が聖伝の御ミサに与る事を信徒に推奨するのが難しいとは、ありえないと確信するからです。

何故なら、聖伝のミサは廃止された、あるいは禁止された、という嘘が世の中に出回っていた時も、聖ピオ五世の勅令に基づいて聖伝のミサは決して廃止されることができないと私どもは確信しておりましたが、はたして、その通り、2007年にはベネディクト十六世がこの聖伝のミサがけっして廃止されたものではないことを確認されたからです。世界中で絶えることなく捧げられてきた聖伝のミサこそが、御聖体の尊厳を守るミサであり、真の教会共同体に霊的な一致をもたらすものであるということが全ての方々に正しく認識される日が必ず来ると信じているからです。

その時には、東京大司教区で超自然の命を守るために、聖伝のミサを捧げ続けてきたことを良くやったと、聖ピオ十世会にお褒めの言葉を下さるものと信じております。コロナ禍のさなかに、ミサの回数を増やして、多くの霊魂たちの霊的ケアをよくしてくれた、と喜んでくださり、聖ピオ十世会の聖伝のミサに与ることを選んだ信徒たち一人ひとりが信仰者としてのふさわしい判断をしていた、とお思いになることを信じております。

教会法の目的は救霊にあります。Salus animarum suprema lex. 自然のいのちを救った杉原がそうしたように、天主のお恵みにより、聖ピオ十世会も教会法の精神に従って、永遠の命の救いを最高の法として考えております。

最後に、教会共同体の意味を再考する機会を与えてくださった大司教様に感謝申し上げます。
永遠の命のための信仰という原点に立ち戻って考える機会が与えられたことを、天主に、そして聖母に感謝いたします。

大司教様の祝福を私どもの上にお願いしつつ、ここに筆をおきます。
良き聖なるロザリオの聖月をお過ごしください。

2020年10月7日

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 

タルチシオ菊地大司教様への2020年10月7日付のお手紙(1):「すべてのいのちを守る」ということの意味 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、タルチシオ菊地大司教様には、感謝の気持ちを込めて2020年10月7日付のお手紙を送付い...

タルチシオ菊地大司教様への2020年10月7日付のお手紙(1):「すべてのいのちを守る」ということの意味 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

 

タルチシオ菊地大司教様への2020年10月7日付のお手紙(2):「教会の共同体としての一致」の意味 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、タルチシオ菊地大司教様へのお手紙の続きを分かち合わせてください。今回の事態を機会に教会...

タルチシオ菊地大司教様への2020年10月7日付のお手紙(2):「教会の共同体としての一致」の意味 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

 

【再掲】東京大司教区のSSPXに関する公示への回答 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!東京大司教区のSSPXに関する公示への回答【これは2020年10月3日に発表したものです。】カ...

【再掲】東京大司教区のSSPXに関する公示への回答 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

 

Our Response to the 'Public Notice Concerning "The Society of Saint Pius X"' - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

 


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