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【拡散希望】バーク枢機卿「同性愛関係の法的承認に関する教皇の発言は聖書と聖伝に『反している』」

2020年10月29日 | カトリック・ニュースなど
バーク枢機卿「同性愛関係の法的承認に関する教皇の発言は聖書と聖伝に『反している』」
 
 
 
 
新しいドキュメンタリー映画で教皇フランシスコは同性愛関係の法的承認を合法化するよう呼びかけた。
 
 
2020年10月22日(木曜日) 米東部標準時間9時間12分
 
 
【ローマ映画祭で上映された映画の中でインタビューの中での教皇フランシスコの同性愛に関する発言】
 
 
【2020年10月22日(CardinalBurke.com)】教皇フランシスコが同性愛の状態にある人々について、彼らが天主の子として「家族を持つ権利を有し」、そして「誰もそれを原因として追い出されたり、惨めな思いをさせられたりしてはならない」と宣言して、これまでの路線を変更したというニュースを世界中のメディアが大きく強調して報道しています。さらに、教皇が「私たちが確立しなければならないのは、(その関係の)法的承認です。そうすれば、彼らが法的な保護を受けられるでしょう。私はこれまでもこれを支持してきました」と宣言したと、それらのメディアは報じています。これらの宣言は、2020年10月21日にローマ映画祭(Festa del Film di Roma)でプレミア上映されたドキュメンタリー映画「フランチェスコ(Francesco)」のエフゲニー・アフィネエフスキー監督とのインタビューの中で行われたものです。
 
 
【教皇の宣言は聖書と聖伝の教え(信仰の遺産)に反し、教会の教導職の教えにも反し、霊魂たちに混乱を引き起こしている。司教・司祭らは信徒らに明確に説明する義務がある。】
 
 
このような宣言は聖書と聖伝の教えに反し、また聖書と聖伝に含まれる信仰の遺産全てを守り、保護し、解釈するために教会が与えてきた最近の教導職の教えにも反しているため、それはカトリック信徒の間に大きな当惑を生み出し、混乱と誤謬を引き起こします。
 
この宣言は、カトリック教会が教えることを真摯に知りたいと望む善意の人々の間に、教会の教えに関する疑問と誤謬を引き起こします。
 
したがって、この宣言により、霊魂の牧者たちには、人々のために適切かつ必要な明確化を行わなければならないという良心上の義務が課されています。
 
 
【この発言は、単なる個人的見解であって、教導職としての権威はなく、信者は信じる義務がない。むしろ信者は、聖書と聖伝、教会の通常教導権の教えに従う義務がある。】
 
 
まず第一に、このような宣言がなされた文脈と状況のゆえに、この宣言には教導職としての重みはいささかもありません。
 
これらの宣言は、それを述べた人の単なる個人的見解として解釈することが適切です。これらの宣言は、いかなる形においても信者の良心を縛るものではなく、信者はむしろ、聖書と聖伝、そして教会の通常教導権がその問題について教えることに対して宗教的従順をもって従う義務があります。特に、次のようなことに注意しなければなりません。
 
 
【同性愛の「行為」は、自然法に背き、秩序を乱し、受け入れられない。罪を憎むべき。】
 
1.「同性愛の行為を重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに『同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの(intrinsically disordered)』であると宣言してきました(『カトリック教会のカテキズム』2357番。教理省『Persona Humana、性の倫理に関する特定の問題に関する宣言』VIII番[1])。
 
同性愛の行為は自然法に背き、生命という賜物から閉ざされ、真の感情的・性的補完性を欠いているためです。したがって、これを認めることはできません。
 
 
【同性愛の「人々」については、受け入れられるべき。罪びとは愛するべき。】
 
2.特定の、そして時には同性愛の根強い傾向を持っている、同性愛の条件にいる男性や女性がいます。この条件は彼らにとっては試練ではあるけれども、それ自体は罪を構成しないかもしれませんが、それにもかかわらず、客観的には、これは秩序を乱す傾向です(『カトリック教会のカテキズム』2358番、教理省『Homosexualitatis problema、同性愛者の司牧的ケアに関するカトリック教会の司教への手紙』3号[2])。
 
したがって、彼らについては、不当な差別を避けて、敬意と思いやりと感受性をもって受け入れられるべきです。カトリックの信仰は、信者に罪を憎み、しかしながら罪人を愛することを教えています。
 
 
【信徒や政治家は、同性関係の法的承認に反対する義務がある。】
 
3.信徒、特にカトリックの政治家は、同性関係の法的承認に反対する義務があります(教理省『Considerations Regarding Proposals to Give Legal Recognition to Unions between Homosexual Persons, Diverse questioni concernenti l'omosessualita』10号[3])。
 
家族をつくる権利は主張さるべき私的な権利ではなく、人間を性的な差異(ちがい)のうちに「男と女とに天主がつくりだされ」(創世記1章27節)、人を、つまり男と女を、生命の伝達にお呼びになる創造主のご計画に対応したものでなければなりません。
 
「結婚した夫婦は(父、子供、孫、曾孫などと)世代世代の継続継承を保証するので、抜きん出て公共の利益に合致します。そのため、市民法は夫婦の結婚に制度的な承認を与えます。
 
一方、同性関係は、この機能を公共善のために果たさないため、法的観点から特別な注意を払う必要はありません」(同上9号[4])。結婚した夫婦間の結合と同じ意味において同性間の結合を語ることは、実際には、非常に大きな誤解を招くことになります。なぜなら、同性の人の間にはそのような結合は存在しえないからです。司法の運用に関しては、同性愛の状態にある人は、他のすべての市民と同じように、自分の私的権利を保護するために、常に法律の規定を利用することが可能です。
 
 
【教皇の個人的な意見が教会の不変の教えに不一致であり、きわめて悲しい。これは、つまずきや動揺、混乱や誤謬という司牧的な懸念の源でもある。】
 
報道機関によって非常に大きく強調されて報道された、教皇フランシスコのものだとされる個人的な意見が、聖書と聖伝に表わされ、そして教導職によって守られ、保護され、解釈される教会の不変の教えに一致していないことは、最も深い悲しみの源であり、また差し迫った司牧的な懸念の源です。
 
また同様に悲しく、かつ懸念されることは、カトリック教会が路線変更をした、すなわちそのような基本的かつ重要な問題について教会の永続する教えを変更した、という完全に誤った印象を与えることによって、一般的に言えば、それらが引き起こすつまずきに加えて、カトリック信徒の間に引き起こされる動揺、混乱、誤謬です。
 
 
レイモンド・レオ・バーク枢機卿
2020年10月22日、ローマにて
 
 
脚注
 
[1] “... suapte intrinseca natura esse inordinatos.” Sacra Congregatio pro Doctrina Fidei, Declaratio, Persona humana, “De quibusdam quaestionibus ad sexualem ethicam spectantibus,” 29 Decembris 1975, Acta Apostolicae Sedis 68 (1976) 85, n. 8. English Translation, p. 5, VIII.
 
[2] Cf. Congregatio pro Doctrina Fidei, Epistula, Homosexualitatis problema, “Ad universos catholicae Ecclesiae episcopos de pastorali personarum homosexualium cura,” 1 Octobris 1986, Acta Apostolicae Sedis 79 (1987) 544, n. 3. English Translation, pp. 1-2, no. 3.
 
[3] Congregatio pro Doctrina Fidei, Nota, Diverse quaestioni concernenti l’omosessualita, “De contubernalibus eiusdem sexus quoad iuridica a consectaria contubernii,” 3 Iunii 2003, Acta Apostolicae Sedis 96 (2004) 48, n. 10. English translation: English Translation, pp. 5-6, no. 10.
 
[4] “Poiche le coppie matrimoniali svolgono il ruolo di garantire l’ordine delle generazioni e sono quindi di eminente interesse pubblico, il diritto civile conferisce loro un riconoscimento istituzionale. Le unioni omosessuali invece non esigono una specifica attenzione da parte dell’ordinamento giuridico, perche non rivestono il suddetto ruolo per il bene comune.” Ibid., 47, n. 9. English translation: Ibid., p. 5, no. 9.
Also published at the Daily Compass, October 22, 2020.
 




私たちが、悪魔の汚染から逃れ、そして御身天主のみを、純粋な心で、良い心で従う事ができますように

2020年10月29日 | お説教・霊的講話

2020年9月27日(主日)聖霊降臨後第17主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日このミサの後の感謝の祈りの後に、小さな生まれたばかりの赤ちゃんの洗礼式がある予定です。この赤ちゃんの為に、天国にちゃんと導かれて、良い立派な聖なる一生を送る事ができますように、お祈り下さい。

今日御ミサの時に、私たちは集祷文で、とても美しい祈りを見ました。
「私たちが、悪魔の汚染から逃れ、そして御身天主のみを、純粋な心で、良い心で従う事ができますように」と。
“Da, quǽsumus, Dómine, pópulo tuo diabólica vitáre contágia : et te solum Deum pura mente sectári.”

そして今日はこのお祈りを、心を込めて唱える事にしましょう。そして真の天主を心から礼拝致しましょう。純粋な心を以って、御身天主のみを礼拝致しましょう。

ところで今日皆さんに知って頂きたいのは、「天主の礼拝」という事に関して、それに反対する罪はたくさんありますが、その内よく見かけるのが「迷信」という罪です。そこで今日は皆さんに「迷信という罪は何か?」という事を知ってもらいたいと思っています。

「天主の礼拝」という事は、目的は3つあります。

1つは、天主を礼拝する事によって、主の栄光をいや増す事、讃美する事です。

第2には、主を礼拝する事によって、主からの正しい真理の教えを、啓示を受け取って、知性を照らす、真理を知る、という事。天主のみが、私たちを真理に導いて下さる事ができるからです。

第3の目的は、私たちが礼拝する事によって、天主からの教えを受けて、行動も体も、頭だけではなく体全体が、善を行なって、掟に従い、主を愛し、そして行動を律して、そして私たちの目に見える世界に、善をもたらすという事です。

天主の栄光、
そして、知性を真理で照らし、
そして、行動を正しく、そしてこの周りに善を施す。

悪魔はこの「天主の礼拝」に、猿まねをします。これの劣化コピーをします。これのものまねをします。

どうするかというと、それが「迷信」です。真の天主を礼拝する代わりに、誤った事を私たちに信じさせて、そして下らない事をさせます。これが迷信と言われているものです。

では、それにはどういうものがあるかというと、おもに3つあります。

「天主の名誉を、栄光を高める」代わりに、それに反対をするものが、迷信の内の1つです。
これは「偶像崇拝」と言われます。偶像崇拝というのは、偽りの神々に礼拝を捧げさせる事です。

ですから考えてもみて下さい。ある王国に、王様がいるにも関わらず、誰かが「あ、別の王様がいる。別の王様に税金を払って、別の王様の為に軍隊を作って、別の王様の法律に従わなければならないよ」と言ったら、その国は全く反逆、反乱罪がいる事になってしまいます。

その反逆を、天主に対する反逆をさせようとするのが「偶像崇拝」です。大体はおどろおどろしい偶像が、恐ろしい形相の偶像が作られます。象の鼻を付けていたり、猿の姿をしたり。

そして第2に、「礼拝によって真理を得る」という事の代わりに、そのものまねをするのが、「占い」です。

占いというのはたくさんあります。非常に危険です。例えば占星術、あるいは手相、人相、あるいは水晶の玉を覗いて、あるいはタロットカードで、あるいはサイコロで、あるい火の形を見て、あるいは鳥がこう鳴いた、あるいはくしゃみの仕方はこうだとか、あるいは「あなたの生まれた土地は何ですか?うん、それは良くないね。あなたの先祖には獣が付いている。」

大体下らない、荒唐無稽の話をして、私たちを迷わせます。そして下らない行為をさせます。「あなたはその試験をやめたほうがいい。」「あなたはそうしない方がいい。」「これはダメだ。」

全く根拠がありませんし、全く虚しい、下らない話です。そういう話がたくさんあります。「方向が悪い。」

全く危険な事です。なぜかというと、その背後に悪魔が潜んでいるからです。そして少なくとも悪魔が潜んでいなかったとしても、それは理性に反しています。それが「占い」です。

そして、「行動を律する、礼拝によって私たちの行動を良くして、正しくして、周りに善を施す」、それの猿まねが、「魔術」です。

魔術を行なって、何か自分の利益を得ようとする事です。非常に危険です。特にこれには悪魔が関わっている場合があります。

皆さんの所に誰かが来て、「さぁ、このペンダント付けてもらえますか。そうすると、金運が回ってくるよ。お金持ちになるよ。」「交通安全」「これをすると出世します。」「試験が受かります。」「これを付けると、病気になりません。」「これを付けると、コロナに勝ちます。」「これを…。」

皆さん、みんなこれは迷信であって、嘘であって、信じないで下さい。

私たちがそのような悪魔からの悪い汚染に浄められて、純粋に、真の天主三位一体、私たちをいつも愛して下さる方を信頼して、その天主にのみ礼拝する事ができるように、お祈り致しましょう。

来たる火曜日29日は、大天使聖ミカエルの日です。「誰が天主に如く者あるぞ!」と、そして悪魔を打ち払いました。

私たちの愛する祖国から、そして世界中から、悪魔の働きが追い払われて、そして本当の天主イエズス・キリストを、愛と真理を以て礼拝する、その喜びがますます広がりますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




謙遜というのは「私たちが真理に根付いている」という事、つまり「私たちが創造主から創られた単なる被造物であること」

2020年10月29日 | お説教・霊的講話
2020年9月20日(主日)聖霊降臨後第16主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父(東京)


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音でイエズス様は、「謙遜がどれほど大切か」という事を教えて下さいます。

謙遜の反対は傲慢です。傲慢によって、光の天使であったルチフェルは、サタンになりました。傲慢によって、アダムとエヴァは、天主から命じられた事を、禁止されている事に反して、善と悪の知恵の実を食べてしまいました。傲慢な人は、必ず辱められます。

しかし、マリア様はとても謙遜でした。謙遜というのは一体何なのでしょうか?

謙遜というのは、「私たちが真理に根付いている」という事です。真理に根付いているという事は、「私たちが天主から、創造主から創られた単なる被造物であって、無に過ぎない。全て私たちの持っているものは、与えられたものだ」という事を、そのまま認める事です。

私たちが持っているものは全て、良いものは全て与えられました。私たちが持っているもので、与えられなかったものはありません。その事を感謝して、それを認める事、これが謙遜です。

私たちは全て与えられた、無に等しい者。私たちは誇る理由は全くない、という事です。

マリア様に、私たちが謙遜である御恵みを求めましょう。謙遜であればあるほど、ますます御恵みを受けて、ますます高められます。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】