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福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その3

2022年04月05日 | カトリックとは

福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その3

福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その1

福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その2

シスター・エレナはイタリアに18の修院を設立した。「聖なる修道女」との聖徳の評判は、県知事グイド・パルマルディタがムッソリーニに福者シスター・エレナのことを話したところ、ムッソリーニがこれに強い関心を示し、コセンツァの修院に援助を送ってきたほどであった。

興味深いのは、1929年にムッソリーニがバチカンとラテラノ条約を結び、イタリア国家と教皇庁の数十年にわたる争いに終止符を打ち、バチカン市国の独立を認め、ピオ九世から始まった「バチカンの囚人」の時代を終わらせたことである。

ムッソリーニの慈善事業が、たとえ民衆を味方につけるための私利私欲にまみれていたかもしれないとしても、主が彼に恵みのしるしを与えたのは、この条約とシスター・エレナの修道会に対する彼の寛大な援助によるものであったことは間違いないだろう。

どんな善行も、天からの報いを受けないことはない。彼は自分自身とイタリアを救うために、警告のメッセージを送られたのだ。シスター・エレナがムッソリーニのために書いた手紙は、ムッソリーニの妹であるエドヴィジェ・ムッソリーニ(Edvige Mussolini)に渡された。エドヴィジェはそれを、数日後の1940年5月6日、つまり第二次世界大戦前夜に彼に届けた。

「政府首相ベニート・ムッソリーニ閣下へ

ドゥーチェ

天主の御名において、主が私に啓示されたこと、そして主が閣下にお望みのことをお伝えするために、閣下のもとに参りました。閣下にお手紙を書き申し上げることを望んではおりませんでしたが、昨日の22日(つまり4月22日)に、主が再び私に現れになり、次のことを知らせるよう強くお求めになりました。

『世界は廃墟と化している。それは、天の聖父の正義の御前に頂点に達した膨大な罪の数々、特に不潔の罪のためである。

そこでおまえ(シスター・エレナ)は世界のために、特に私の代理者たる教皇の座のあるイタリアのために苦しみ、罪を償うためのいけにえとならなければならない。わが王国は平和の王国である;他方で世界は戦争状態にある。

民衆を統治する者たちは、新たな領土の獲得に執着している!哀れな盲目の者たちよ!...天主を排除したところに征服はありえないことを彼らは知らない!彼らの心には邪悪さだけがあり、私を憤慨させ、私を軽蔑するだけである。彼らは不和の悪魔であり、民族の破壊者であり、この恐ろしい惨劇の中でイタリアを打ち倒そうとしているのだ。多くの霊魂たちの中には、天主がおられ、また天主の代理者である天使的牧者(ピオ十二世)がいるこのイタリアを。

私の聖心に非常に親愛なるフランスは、その多くの罪のために、すぐに廃墟と化すだろう、そして忘恩であったエルサレムのように、次々と荒廃していくだろう。イタリアには私の代理者の座があるため、私はイタリアをその奈落の底から救うためにベニート・ムッソリーニを送った。さもなければ、イタリアはロシアと同じ状況に陥っていたことだろう。

多くの危険の中で、私はいつも彼(ムッソリーニ)を守ってきた。今、彼はイタリアを戦争に巻き込まないようにしなければならない。なぜなら、イタリアには文明があり、地上の私の代理者の座があるからだ。もし彼がそうするならば、私は彼に特別な恩恵を与え、他のすべての国を彼と同盟させるだろう。一方、彼は宣戦布告を決意したが、もしそれを止めなければ、私の正義によって罰せられることを彼は知らなければならない!』

これは、主が私に仰せられたことです。とりわけ、おおドゥーチェよ、私が政治に関与しているとは思わないでください。私は小さな孤児たちの教育に忙しい者、あなたの救いと私たちの祖国の救いのために多くの祈りを捧げている貧しいシスターにすぎません。

心からの尊敬をこめて、シスター・エレナ・アイエロ。」


1943年5月15日、福者シスターエレナは、エドヴィジェ・ムッソリーニに再び手紙を送った。

「閣下、

私の長い沈黙は、私があなたのことを忘れたのだと思わせてしまったかもしれません。しかし、私は毎日、貧しい祈りの中であなたのことを思い、いつも私たちの美しきイタリアの痛ましい出来事の後を追っています。(中略)この手紙を書いた理由は、1940年5月、私がルッジ男爵夫人の紹介でローマに参りましたときと同じように、ドゥーチェに関して私が受けた主の啓示を文書であなたにお伝えするためであります。

1940年5月6日、ドゥーチェが戦争に参戦する決断をしたと仰ったとき、私の手紙によって主が、イタリアを戦争から守らなければならない、さもなければ彼は天主の裁きの厳しさを受けることになるとお知らせになったのを覚えておられますか?

イエズス様は仰せられました。『多くの危険の中で、私はいつも彼(ムッソリーニ)を守ってきた。今、彼はイタリアを戦争に巻き込まないようにしなければならない。なぜなら、イタリアには文明があり、地上の私の代理者の座があるからだ。もし彼がそうするならば、私は彼に特別な恩恵を与え、他のすべての国を彼と同盟させるだろう。一方、彼は宣戦布告を決意したが、もしそれを止めなければ、私の正義によって罰せられることを彼は知らなければならない!』

ああ!......もしドゥーチェがイエズス様の御言葉に耳を傾けておられたなら、イタリアは今こんなに悲惨な状況にはなっていなかったでしょうに!...…花園であったイタリアが、苦しみと死でひしめく砂漠と化してしまったのを目の当たりにして、ドゥーチェはさぞかし嘆いておられることでしょう。しかし、イエズス様が、誰も本当の勝利を得られない、と仰せられたのなら、なぜこのようなひどく残酷な戦争を続けるのでしょうか?

ですから、親愛なるドンナ・エドヴィジェ様、私の代わりにドゥーチェに、これは主が彼に送られる最後の警告であることを仰ってくださいませんか。もしドゥーチェがすべてを聖父の御手にお委ねになるのならば、彼はまだ自分を救うことができます。

もし彼がそうしないなら、やがて天主の裁きが彼に下るだろう、と主は仰せになりました。わが代理者の助言と指示に耳を傾けない他の国家元首たちも、私の正義の影響を受け、罰せられるだろう、と。

昨年の7月7日、あなたは私に、ドゥーチェはどうなるのかとお尋ねになられたことを覚えておられるでしょうか?そして私は、もし彼が教皇と同盟を結ばなければ、ナポレオンよりも悪い結末を迎えるだろう、と答えたことを。

今、私は同じ言葉をあなたに繰り返して申し上げます:もしドゥーチェが、教皇から助言され勧告されたことに信頼してイタリアを守らないなら、すぐに彼は倒れるでしょう。ブルーノさえも、イタリアの救いとあなたの兄の救いを乞い求めているのです。(注:ブルーノ‥これは、1941年8月7日、試験飛行で爆撃機を操縦中に航空事故死したムッソリーニの息子のことを指しているのだろう。これは彼の霊魂が救われ、父親とイタリアのためにとりなしていたことを示しているようだ)。

主はしばしば、イタリアは、この惨劇の罪を償うためのいけにえである教皇によって救われる、また教皇によらなければ、平和と人々の救いの道はない、と仰せられています。

親愛なるドンナ・エドヴィジェ様、実現した主のお言葉のすべてをよくお考えになってください。イタリアの破滅の原因となったのは誰でしょうか?主イエズス・キリストの御言葉に耳を傾けようとしなかったドゥーチェではないでしょうか?主が仰せられたことを実行することによって、ドゥーチェはそれを取り返すことができます。私といたしましては、祈り続けさせていただく所存でございます。」

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歴史を見ればわかるように、ムッソリーニはこれを聞き入れず、アドルフ・ヒトラーと一緒になり、戦争末期にはナポレオンより酷い目に遭った。ナポレオンは遠い島へ追放され、死ぬ前に教会と和解し、最終的には敗れたものの、またどんな過ちを犯したにせよ、歴史的な意味での偉大な人物とみなされている。

一方、ムッソリーニは完全に不名誉な死を遂げた。1945年4月末、ほぼ完敗したムッソリーニは愛人のクララ・ペタッチとともにスイスに逃亡を図ったが、イタリア共産党のパルチザンに捕まり、4月28日にコモ湖近くで銃殺刑に処されたのである。ムッソリーニの遺体はミラノに運ばれ、ガソリン・スタンドに逆さに吊るされ、彼の屈辱的な敗北を公に確証することになった。

福者シスター・エレナに話を戻すと、彼女の人生は苦しみと聖徳の増加の内に続き、また預言の賜物もあった。彼女は自分の死も預言した。

1961年、通常の肉体的苦痛に加え、高熱も続き、医師はその原因を見つけられなかった。

1961年6月12日、マザー・エレナはローマのサン・ジョバンニ病院に搬送された。6月12日から13日の夜、看護婦たちは彼女が入院している部屋から強い芳香がすることに気づいた。看護婦たちが、「マザー、明日は聖アントニオの祝日です、必ずあなたの癒しを得られるでしょう」と告げた。すると、エレナは大いなる平安の内にこう答えた。「明日は聖アントニオも、聖リタも、聖母さえも、奇跡を起こさないでしょう。」

6月18日(主日)午前2時頃、フランコ神父の助力により、シスター・エレナに終油の秘跡が施され、共に臨終の祈りが唱えられた。午前5時30分頃、フランコ神父はマザーの部屋のほぼ向かいにある礼拝堂でミサを行なった。ミサが終わった後、1961年6月19日、シスター・エレナは息を引き取った。60歳であった。その死は預言されていたとはいえ、驚きの出来事であった。彼女の遺体は、白い花で飾られたチャペルに移された。6月21日、遺体はコセンツァに到着した。

福者エレナの訃報は瞬く間に広まり、大勢の人々が最後の讃辞を送るために訪れた。

エレナの列聖への道は1982年に開かれ、1991年に尊者とされ、2011年に列福された。


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