Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

もしも麦が地に落ちないならば、そして死なないならば、そのまま残るけれども、しかし地に落ちて死ぬのならば、多くの実りを結ぶ

2022年04月18日 | お説教・霊的講話

2022年4月9日(土)御受難の週の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、あと一週間で聖金曜日、私たちの主の十字架の御苦しみの神秘に到達します。

今日福音では、イエズス・キリストを、そしてその為に皆がイエズス・キリストに従っているラザロを、亡き者にしようと、ユダヤ人たちが計っている場面が読まれました。それと同時にイエズス様は、聖父に、天主聖父に祈ります。「聖父(ちち)よ、時が来ました。栄光を表して下さい。」

つまり、イエズス・キリストが、私たちの罪の贖いの為に苦しみを受けて、御血を全て流し、命を捧げるその時が来た、ということです。

「もしも麦が地に落ちないならば、そして死なないならば、そのまま残るけれども、しかし地に落ちて死ぬのならば、多くの実りを結ぶ」と主は言われます。「もしも自分の命を救おうと思うならば、彼はそれを失い、私の名の為にそれを失う者があれば、それを救うだろう」と。

私たちも、イエズス様の御受難の御跡に従うことに致しましょう。私たちが永遠の命に辿り着くには、主が辿った道しかありません。つまり十字架の道です。

--- もしも私たちが自分の命を、自分の快楽、自分のやりたいことを、自分がこうあってほしいことを、と、このイエズス様から受けられた十字架を受け取らないならば、私たちは生命を失ってしまうことになる。

しかし、イエズス・キリストの為に十字架を取るならば、送られた十字架を受けて、この自分に死ぬのならば、命を受ける。

私たちの命を受けるのみならず、永遠の命を受けるのみならず、多くの実りをも結ぶことができる。多くの霊魂を救うことができる。イエズス・キリストの贖いの業に参与することができる。永遠の命の為に多くの霊魂たちを導くことができる。--- 

私たちが十字架を受ける時には、苦しみを受ける時は、非常に辛い、苦しいものですが、イエズス・キリストがその私たちの先頭に立って私たちを導いて下さいます。主は私たちを決して見放すことがありません。いつも私たちの傍にいて支えて下さっています。マリア様もそうして下さっています。

ですから今日、良い決心を立てることに致しましょう。

明日、枝の主日で、勝利の棕櫚を持って、キリストを王として迎えるのですから、この王に従って最後まで突き進む、天国にまで進む力と、特別の御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母もイエズス様と同じことを祈っていたに違いない。「聖父よ、彼らをお赦し下さい。イエズスよ、彼らを赦してあげて下さい。」

2022年04月18日 | お説教・霊的講話

2022年4月8日(金)童貞聖マリアの七つの御悲しみのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日、悲しみの聖母の記念を行なっております。この聖母は特に、聖ピオ十世シスター会の守護の聖人で、聖ピオ十世会の私たちも一級の特別の祝日として祝っています。今日は是非シスターたちの為に、聖ピオ十世会のシスターたちの為にお祈り下さい。

特に日本から初めての召命、シスター・マリ・エスペランスは、来たる白衣の主日(4月24日)に初誓願を立てるとのことです。シスターの為にお祈り下さい。また日本から多くの召命が、修道士・修道女が出ますようにお祈り下さい。

マリア様の御悲しみ、今日それを垣間見ることに致しましょう。マリア様は十字架の足元に立ち留まっておられました。マリア様の汚れなき御心の中には一体、どんな思いがあったのでしょうか?

私たちはともすると、不正義を見て怒りにかられます。「何でこんなに苦しむのか? 他の人は安楽な生活をしているのに、バラバは赦されたのに、イエズス様は無罪なのになぜ十字架なのか?なぜ、無罪のみならず、こんなに聖なる方が、なぜ極刑を死刑を受けなければならないのか?なぜこんな傲慢が許されるのか?どこにそんな法律があったのか?裁判はどれほどいい加減だったのか?夜中の裁判は許されていなかったはずだ。お祭りの日には裁判を開くことができないはずだ。あまりにも不法だ!矛盾している!無効だ!」

もしかしたら私たちはともすると、そのような怒りや、復讐や、憤りの念にかられてしまうかもしれません。時々には、車を運転しただけでも、追い越し方が悪いとか、あるいは走り方が悪いということで、窓を開けて怒る人もいます。

そのような、イエズス様が受けたその不当な裁判、不当な宣告、その拷問、血だらけの御姿をご覧になって、十字架の下に佇んだマリア様は、どれほどの思いがあったことでしょうか。

ともすると私たちは、「あぁ、なぜ天主よ、こんなことが起こったのか?私が一体何を悪いことをしたのか?」等と不平を言うような人もいるような状況だったかもしれません。マリア様はもしかしたら、その苦しみがあまりにも残酷で、ひどく、もしかしたらもう目を向けることもできずに、ここからもう去ってしまいたい、もうこのような所から立ち去りたい、と思われたかもしれません。マリア様は一体何を思ったのでしょうか?

しかしマリア様は、私たちが考えるようではなく、イエズス様と同じことを思ったに違いありません。イエズス様は仰います。最初の言葉はこうでした。「聖父よ、彼らをお赦し下さい。」

マリア様も、イエズス様と同じことを祈っていたに違いありません。「聖父よ、彼らをお赦し下さい。イエズスよ、彼らを赦してあげて下さい。」

聖母は決して、十字架の下を逃げようとせずに、離れようとせずに、その苦しみを、イエズス様と共にお捧げしていました。

悔い改めた盗賊を赦すイエズス様の言葉、おそらくマリア様は、この盗賊たちの為に祈っていたに違いありません。「彼らもイエズスの方に、イエズスを信じて、イエズスから憐みを受けるように。」一人は、マリア様のその祈りに動かされて、主に憐れみを乞いました。

十字架に釘付けにせられて、頭も体も動かすこともできずに、声も絶え絶え、息絶え絶えの血まみれのイエズス様は、それでも最後の力を振り絞って、私たちのことを考えました。愛する兄弟姉妹の皆さんと、私のことを考えて下さいました。

「天主聖父を父と呼んで、『我らの聖父(ちち)よ』と呼べ。こうやって祈れ」と教え、御聖体を以って御自分の御体を全て与え尽くして、御血を全て流し尽くして、最後の最後まで私たちに全てを与えようとした時に、最後に、最大の愛の御方マリア様をも、私たちの母として与えようと思われました。

私たちにマリア様を与える時に、まずマリア様に仰います。「女よ、お前の子、ここにいる」と。「お前の子供を見よ。」私たちのことです。

マリア様はその時、確かに私たちを、本当のマリア様の子供として受け取って下さいました。イエズス様とははるかに違う、天主の子ではなくエヴァの子、罪人の子ではありました。しかし私たちの永遠の救霊の為に、これから母として心を砕こうと、イエズスを愛するがように、私たちを愛そうとされます。

そしてイエズス様は、十字架の上から、喘ぐ声で私たちの方に声をかけます。「汝の母、お前の母がここにいる。お前の母を見よ。」

「マリア様こそ、お前の母だ。永遠の命に産んでくれる母親だ。母として大切にしてくれ。私の形見だ。お前の母だ。お前はこの母の子だ。」マリア様は、このイエズス様の言葉を聞いて、どれほど私たちに対する愛に燃えて下さったことでしょうか。

私たちはそれを知りつつも、あたかもマリア様がいらっしゃらなかったかのように、マリア様は私たちに関係なかったかのように、母の心を傷つけて、あるいは無関心で、冷たい心で、マリア様をどれほど取り扱ってきたことでしょうか。マリア様にどれほど悲しい思いをさせてしまったことでしょうか。

それにも関わらず、マリア様は常に優しい母の心で、私たちを見守って、私たちの為に祈り、私たちの為に取り次いで、涙を流しながら、イエズス様にお願いをして下さっています。

愛する兄弟姉妹の皆様、ではこの悲しみの聖母を、私たちの母として今日もう一度、感謝と愛を以って受け入れて、そして良き子となる恵みを乞い求めましょう。そして私たちも受ける、受けている、あるいは将来受けるかもしれない、あるいは将来あるかもしれない辛いことや十字架、悲しみ、あるいは不当な悪口や嫌がらせ、あるいは病気、事故、あるいは死別など、主の御旨のままに、マリア様を通してお捧げ致しましょう。私たちのこの捧げものが、私たちの罪と世の罪の償いとなりますように、贖いの為の一滴となりますように、今日その御恵みを乞い求めましょう。

イエズス様とマリア様にいつも寄り添う御恵みを乞い求めましょう。私たちの心に、マリア様の御悲しみと、イエズス様の悲しみがいつも深く刻まれますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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