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ウクライナの戦争の多くの苦しみの原因は何か?なぜ天主は、彼らを苦しめ、死なせるのか?なぜ天主は、戦争とその惨状を止めるために介入なさらないのか?

2022年04月14日 | お説教・霊的講話

苦しみの原因についての説教

ドモルネ神父(2022年4月3日受難節第一主日)

はじめに

1月末以来、ウクライナの現政権に対するロシアの軍事作戦が行われています。現地のジャーナリストが送ってくる報道を通じて、私たちは、破壊されたり、被害を受けたりした多くのインフラを目にします。そして何より、すべてを失った人々、爆撃や暴力を目の当たりにしてやつれた人々、負傷した人々、拷問を受けた人々、殺された人々を、目にします。そのような光景を見ると、これほど多くの苦しみが存在することに、いくつかの疑問を抱くかもしれません。今日は、そういった疑問のうちの三つについて、お話ししたいと思います。

1.私たちの苦しみの原因

第一の疑問は、こうです。「これほど多くの苦しみの原因は、何だろうか?」。地政学的な理由を挙げることはできます。しかし、それは根本的な理由ではありません。私たちは、さらに昔を振り返らなければなりません。聖パウロは、こう言っています。「悪を行って生きるすべての人の上には、患難と苦悶がある」(ローマ2章9節)。これは、罪を犯したすべての人の上には、という意味です。聖霊は、聖書の中で、義人ヨブを通して、こう言っておられます。「思い返せ、罪なくして滅ぼされた者があったか。正しい人がどこで敗北したか。私の知る限り、悪のすきを使う者、罪をまく者たちは、それを刈り入れる。彼らは天主の息吹で滅び、その怒りの一吹きで消え去る」(ヨブ4章7-9節)。苦しみと死が、罪に対する罰であるのは明らかです。

原罪は、私たち全員にとって、苦しみの第一の原因です。天主が人類を創造されたとき、天主は、善意から、私たちが道徳的な正しさを保つ助けを与え、そして私たちを苦しみや死から守る特別な賜物を与えてくださいました。原罪のせいで、私たちは、これらの特別な賜物を失い、今や私たちは、罪を犯しやすくなり、苦しみと死にさらされるようになったのです。

次に、私たちの個人的な罪が、苦しみの第二の原因です。私たちが罪を犯すとき、私たちは、天主の法に背くのです。言い換えれば、私たちは、自分の意志を、天主のご意志と対立させるのです。正義が要求するのは、私たちが、自ら犯した罪に対する罰を受けることです。ですから、私たちは、自分が望むものを奪われることによる罰を受け、そのことが、私たちを苦しめるのです。私たちは、幸福、他人との平和な暮らし、行動の自由、物質的な財物、健康、生命などを奪われるのです。

2.罪のない人々の苦しみ

第二の疑問は、こうです。「この戦争に責任のない人々がいる。なぜ天主は、彼らをこの戦争で苦しめ、死なせるのだろうか?」。第一の答えは、原罪の結果を免れる人は誰もいない、ということです。ですから、誰もが戦争の苦しみを受ける恐れがありますが、それは、天主のせいではありません。戦争の恐ろしさをみて、私たちは、原罪の深刻さについて、また、これを機に、天主に対して犯す罪の深刻さについて、思いを巡らせるべきです。実際、原因と結果は、釣り合うものです。原罪の結果がこれほど恐ろしいものであるならば、原罪とは、どれほど悪しきものなのでしょうか!

また、すべての人は罪人です。すべての人は、自分が犯す罪のために、当然、罰を受けるべきものです。しかし、天主だけが、その無限の正義と知恵により、この世で、あるいは来世で、それぞれの人が償わなければならない罰の種類と厳しさを、割り当てることがおできになります。私たちは、罪の悪を十分に理解していないため、自分の苦しみは厳しすぎる、不公平だと思うかもしれません。しかし、私たちは、謙虚になって、天主が無限に正しく、賢く、善いお方であることを思い出すべきです。私たちは、天国でのみ理解できることがたくさんあることを、認めるべきです。

しかし、幼い子どもたちの苦しみはどうでしょうか? 子どもたちの苦しみは、とても不公平に見えます! しかし、ここでもまた、それは誰のせいなのでしょうか? 原罪と個人の罪によって、人間自身に、その責任があるのです。子どもたちが苦しんでいるという、私たちの胸が張り裂けそうな光景を見て、私たちは、あらゆる罪、特に私たち自身の罪を、もっと強く嫌うようにならなければなりません。

3.天主のご介入

三つ目の疑問は、こうです。「なぜ天主は、戦争とその惨状を止めるために介入なさらないのだろうか?」。第一に、天主は人間を、自由なものとして、創造なさったことを忘れてはなりません。私たち人間の尊厳は、私たちの自由、すなわち、善いことを、進んで選択する能力にかかっているのです。聖霊は、聖書の中で、こう言っておられます。「天主は、誰にも、悪人になれと命じられたことはなく、誰にも、罪を犯す許可を与え給わない」(集会書15章20節)。私たちは、幸福を選ぶか、あるいは不幸を選ぶかを、自ら選択し、その選択についての責任を負います。天主は、聖書の中で、こう言われます。「人間の前には、生命と死、善と悪がある。望みのままに、そのいずれかが与えられる」。(集会書15章17節)。もし、人間が間違ったことをしないように、天主がいつも介入なさるならば、人間は、本当の意味で、自由ではないことになってしまいます。

第二に、天主は、その知恵により、人間の罪によって起こる苦しみを、善に変える方法をご存じであることを忘れてはなりません。私たちの罪による戦争の苦しみは、天主の正義を明白に表しているのです。聖パウロは、ガラツィア人に、こう言いました。「天主を侮ってはならない。人は、蒔くものを収穫するからである」(ガラツィア6章7節)。また、戦争の苦しみは、しばしば、多くの人々が天主に回心し、罪深い生活をやめる良い機会となります。ですから、天主は、霊魂の永遠の救いのために、こういった、この世での一時的な苦しみを、許されるのです。最後に、戦争の苦しみは、回心と罪の償いをするようにという、天主がすべての人にお与えになる、すべての人のためになる警告なのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、ウクライナの戦争の苦しみを目にすると、胸が張り裂ける思いがします。なぜなら、それは、本物であり、現実であり、ひどいものであるからです。しかし、人間的な感情だけに動かされないようにしましょう。私たちの霊魂にとって有益なものを、引き出しましょう。第一に、非常に多くの苦しみの原因である罪の悪を、もっとよく理解しましょう。この世の最大の悪である罪を嫌いましょう。

第二に、次のことを忘れないようにしましょう。戦争の苦しみは、それをすべて合わせて考えても、私たちの主イエズス・キリストと童貞聖マリアのご受難の際の御苦しみに比べれば、取るに足りないものです。ですから、戦争の恐ろしさを目の当たりにすることで、私たちが、特にこのご受難節に、イエズスとマリアの御苦しみを、さらに深く黙想することができますように。そして、その黙想により、私たちが、イエズスとマリアと一致して、さらに寛大な罪の償いをお捧げすることができますように。

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アブラハムの二人の妻サラとアガル、二人の息子イスマエルとイサク:その文字通りの意味と、寓意的な意味

2022年04月14日 | お説教・霊的講話

アガルとサラ(四旬節第四主日)についての説教

ドモルネ神父(2022年3月27日四旬節第四主日)

はじめに

書簡の中で、聖パウロは、アブラハムの二人の妻、サラとアガル、そして二人の息子、イスマエルとイサクについて語っています。聖パウロは、こう言っています。「そのことは、寓話として語られている。すなわちこの女たちは二つの契約である」(ガラツィア4章24節)。聖パウロは、聖書に載せられている言葉や出来事には、いくつかの意味があることを、はっきり述べているのです。今日は、そのうちの二つの意味、文字通りの意味と、寓意的な意味について、簡単にお話ししたいと思います。

1.アガルとサラ:文字通りの意味

聖書の中の第一の意味は、使用されている用語から直接現れてくる意味で、これは、いつも存在するものです。この第一の意味は、「文字通りの意味」と呼ばれます。アガルとサラの話の、文字通りの意味とは、何でしょうか? サラはアブラハムの妻でした。サラは不妊でしたから、子どもを授かることができませんでした。アガルは、サラの奴隷でした。当時有効だった法に従って、サラはアブラハムに、自分の奴隷であるアガルを、第二の妻として与え、それによって、アガルの子どもが、法的に自分の子どもとなるようにしました。当時、天主は、一夫多妻制を許しておられたのです。そこで、アブラハムはアガルと結婚し、アガルは自然の法則に従って、アブラハムのために、イスマエルという名の息子を生みました。その後、天主はサラに、 子どもを生む力を奇跡によって授けられ、サラは、アブラハムのために、イサクという名の息子を生みました。イサクは、当然の権利によって、アブラハムの全財産の相続人となりました。

2.アガルとサラ:寓意的な意味

聖書には、文字通りの意味に加えて、時々、神秘的寓意的意味と呼ばれる、隠された意味が存在することがあります。聖書に記されている言葉や出来事を通して、聖霊は、未来の出来事や人々、特にイエズス・キリストや教会について、告知されます。アガルとサラの話の、寓意的な意味は、何でしょうか? 聖パウロは、こう言っています。奴隷のアガルは、旧約、つまりシナイ山で、モーゼを通して、天主とヘブライ人たちの間に結ばれた契約を表しており、自由民の女サラは、新約、つまりシオン山で、私たちの主イエズス・キリストを通して、天主とすべての民族の間に結ばれた契約を表しています。この寓意について、もう少し説明しましょう。

天主は、救い主イエズス・キリストと新約の到来を告知し、それを準備するために、ヘブライ人たちと、旧約を結ばれたのです。その旧約のすべての律法は、この目的のためにあったのです。イエズスが地上に来られたとき、多くのユダヤ人は、イエズスを、天主が約束されていたメシアだと認め、イエズスに従いました。例えば、使徒たちがそうでした。しかし、ほとんどのユダヤ人は、キリストを拒絶しました。今日に至るまで、彼らは旧約の律法に従い、また自分たち自身で作り出した習慣にも従い続けています。このユダヤ人たちの行っていることは、霊的に空しく、束縛や重荷となり、また、自分たちを永遠の命に導くことのできないものです。これが今日、私たちが「ユダヤ教」と呼んでいるものです。ユダヤ教は、アガルに象徴される奴隷制度にほかならず、その信者たちを、イスマエルに象徴される単なる奴隷にするものです。

天主と人との間の、真の、完全な契約は、私たちの主イエズス・キリストによって打ち立てられた契約です。私たちは、それを、新約と呼んでいます。真の天主であり真の人間であるイエズス・キリストは、人間を天主と一致させる唯一かつ普遍的な仲介者です。イエズス・キリストは、ご自分の教えを私たちに伝え、私たちを天主の子とし、私たちを天主の至福直観と永遠の幸福へと導くために、地上に来られ、カトリック教会を創立されたのです。カトリック教会の真正な教えを実践する者は、誰でも自由になります。自分の情欲、悪徳や悪魔の奴隷状態から解放され、常に、真、善、美を愛する自由を得るのです。この理由により、カトリック教会は、自由民の女サラに象徴されており、キリスト教徒は、アブラハムの相続人イサクに象徴されているのです。

3.イスマエルのイサクへの迫害:文字通りの意味

ここで、聖パウロが書簡の中で触れているもう一つの点、すなわち、イサクに対するイスマエルの迫害について見てみましょう。この箇所の文字通りの意味は、何でしょうか? イスマエルとイサクは、一緒に成長しました。しかし、年上で力の強いイスマエルは、年下で力の弱いイサクを、迫害するようになりました。そこでサラは、アブラハムに、アガルとイスマエルを追い出すように要求しました。「この奴隷女とその子を追い出してください。この奴隷女の子が、私の息子イサクとともに遺産を受けることがあってはならないのですから」(創世記21章10節)。天主はサラの願いを認められ、アブラハムに、アガルとその子イスマエルを追い出すように命じられました。アブラハムは、それを実行しました。

4.イスマエルのイサクへの迫害:寓意的な意味

さて、この箇所の寓意的な意味は、何でしょうか? アガルは、キリストの死以降行われてきたユダヤ教を、表しています。ですから、アガルの息子イスマエルは、ユダヤ教を実践しているすべての人々を象徴しています。サラは、カトリック教会を表しています。サラの息子であるイサクは、すべての真のキリスト教徒を表しています。イスマエルのイサクに対する迫害は、ユダヤ教のカトリック教会に対する迫害、ユダヤ人のキリスト教徒に対する迫害を表しています。聖パウロの時代から今日まで、ユダヤ教の信者たちがキリストの教会を破壊しようと戦ってきたことは、実際に歴史が示しています。

天主のご命令により、アブラハムは、アガルとイスマエルを追い出し、サラとイサクを、自分のもとにとどめました。これは、ユダヤ教を実践する者は、天主がアブラハムとその子孫に約束なさった祝福にはあずかれない、という意味です。アブラハムの真の子、つまりアブラハムと一緒にとどまり、アブラハムになされた約束にあずかる者は、イエズス・キリストへの真の信仰を持つ者なのです。(ヨハネ8章56節参照)。

聖パウロの教えに照らせば、ヨハネ・パウロ二世やベネディクト十六世といったカトリックの教皇が、ユダヤ教の会堂に祈りに行くことが、いかに、つまずきを与えるものであるかが、ご理解いただけるでしょう。1986年、ヨハネ・パウロ二世は、ユダヤ教に関する第二バチカン公会議の教え(ノストラ・エターテ)に自ら言及し、ローマのラビにこう告げました。「あなたたちは私たちの親愛なる兄弟であり、ある意味で、私たちの兄と言えるかもしれません」。

これは誤りです。今日のユダヤ教は、その信者を天主の子とはしませんし、信者を永遠の幸福に到達させることも、できないのです。

結論

四旬節の一番初めに、教会は、キリストの砂漠での誘惑の物語を、私たちに読ませました。その時、私たちの主イエズスは、サタンにこう言われました。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。聖書は、書き記された天主のみ言葉です。ですから、私たちは、聖書を読み、それによって霊的に養われるべきです。聖書を読むことによって、私たちは、旧約と新約の歴史的事実を知り、私たちの主イエズス・キリスト、聖母、聖なる天使たち、聖人たちをさらによく知って愛することを学び、自分のカトリック信仰をさらに強め、祈ること、そしてあらゆる聖徳を実践することを学び、永遠の命へのますます強い希望に生きるのです。

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イエズス・キリストとサタンの戦いは決してやむことがない。サタンに固く立ち向かうためにイエズスと強く一致する必要がある。サタンよりも強いイエズスの強さは私たちの強さだ。

2022年04月14日 | お説教・霊的講話

キリストとサタンの戦い(四旬節第三主日の福音)についての説教

ドモルネ神父(2022年3月20日四旬節第三主日)

はじめに

今日の福音で、ファリザイ人は、イエズスが、悪魔の力によって悪霊を追い出したと非難します。私たちの主は、この非難が不合理であることを示して、こう反論されました。「サタン同士争っているなら、どうしてその国が存在を保てよう」(ルカ11章18節)。そしてイエズスは、ご自分が、いかに、実際にはサタンと正反対の立場におられ、サタンと戦う人々の指導者であり、また、その人々を勝利へと導かれるかを、説明されます。私たちの主イエズスのこのお言葉の意味を、もう少し詳しく見てみましょう。

1.「強い人たち」

私たちの主は、第一の強い人について、こう言われます。「強い人が武装して自分の邸(やしき)を守れば、その持ち物は安全である」(ルカ11章21節)。この強い人とは、サタンのことです。サタンが強いのは、サタンが天使であり、天使の生まれ持った力が、人間の生まれ持った力より、はるかに強いからです。しかし、サタンが、とりわけ私たちに対して強いのは、私たちが、自分自身の罪によって、サタンに、私たちを支配する力を与えてしまうからです。サタンの邸とは、この世のことです。サタンは、しっかり武装しています。サタンの武器とは、サタンが、私たちを誘惑して陥らせる、あらゆる種類の大罪であり、それによって、サタンは、私たちを奴隷として支配するのです。したがって、サタンが所有しているのは、大罪の状態にある霊魂たちです。大罪の状態にある霊魂は、自分自身ではその状態から抜け出せないため、サタンは、その霊魂を、平穏無事に所有しているのです。その霊魂は、罪の完全な償いを、天主に捧げることができません。天主から離れた霊魂は、もはや誘惑に抵抗するのに十分な力を持っておらず、罪の中に、ますます深く沈んでいくのです。その結果、サタンは、その霊魂に対する支配力を、ますます強めるのです。

次に、私たちの主は、第二の強い人について、こう言われます。「しかし、さらに強い人が来て、その人に勝てば、その人が頼みとしていた武器を、すべて奪い取り、分捕り品を渡すだろう」(ルカ11章22節)。このサタンよりも強い人とは、イエズス・キリストご自身のことです。イエズス・キリストがサタンより強いのは、イエズス・キリストが天主であるからであり、また、人として、罪を完全に免れ、完全に天主と一致しておられるからです。サタンは、イエズスを罪に陥れようと、つまり、天主のみ旨に背かせようと、あらゆる手を尽くしました。しかし、イエズスは、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われ」(フィリッピ2章8節)ることによって、また、父なる天主に、ご自分の命という無限に尊い犠牲をお捧げになることによって、サタンに打ち勝たれたのです。イエズス・キリストは、サタンの武器を、すべて奪い取られたのです。これは、私たちの主が、すべての人のすべての罪のための、完全な償いを、お捧げになったことを意味します。主は、私たちがすべての誘惑に打ち勝つために必要な、すべての恩寵を獲得されました。サタンから奪い取られた分捕り品とは、イエズス・キリストを信じ、そしてイエズスの甘美なる愛の法に自ら従うことによって、サタンの奴隷状態から解放された、すべての人々のことを意味します。イエズスが、分捕り品を渡されるというのは、イエズスがお救いになる霊魂を、永遠の幸福へと導くために、善き天使たちやご自分の教会に、お委ねになることを意味します。

2.キリストとサタンの全面的な戦い

しかし、イエズスの勝利の実にあずかるためには、私たちは、固い決意をもって、イエズスと共に立たなければなりません。サタンのわざと、キリストのみわざは、完全に対立しています。聖ヨハネ・クリゾストモは、こう述べています。「サタンは、霊魂を奴隷にしようと望み、イエズスは、霊魂を自由にしようとお望みになる。サタンは、霊魂を偶像崇拝に導き、イエズスは、天主への礼拝に導かれる。サタンは、霊魂を悪徳に導き、イエズスは、聖徳に導かれる」。中立は、あり得ないのです。キリストの側に立たないということは、サタンの側に立つということなのです。このため、イエズスは、「私とともにいない人は私の敵である」(ルカ11章23節)と言われます。しかし、イエズスは、さらに進んで、こう言われます。「私とともに集めぬ人は、散らす人である」。私たちが、イエズス・キリストにお捧げせずに行うあらゆる仕事、肉体的または霊的な活動は、永遠の命のためには、無益なものなのです。そのような活動は、時間とエネルギーの浪費、天主が私たちに与えてくださった才能や恩寵の浪費に過ぎません。ですから、朝、その日のすべての活動を天主にお捧げして、またその日のあいだ、頻繁に、その捧げ物を更新することが重要なのです。

3.私たちの主の警告

その次に、私たちの主は、重大な警告を与えられます。「汚れた霊は、人から出ると、休みを求めて荒れ地をさまようが、それを見つけないので、『私の出てきた元の家に帰ろう』と言う」(ルカ11章24節)。サタンは、キリストに敗れたにもかかわらず、キリストとの戦いを、あきらめません。サタンは、キリストの勝利を、できるだけ多くの霊魂にとって無益なものにしようと、懸命に努力するのです。ですから、もし霊魂が、イエズス・キリストによって解放されたとしても、サタンは、その霊魂が再び罪に陥り、自分の力の下に戻るようにするために、あらゆることをします。サタンは、自分よりも邪悪な七つの悪魔とともに、その霊魂を攻撃します。つまり、七つの悪徳を通して、これまで以上に激しく霊魂を攻撃するのです。このため、成聖の恩寵の状態にある人が、大罪の状態で生きている人よりも、悪魔から、より激しい攻撃にさらされるのは、驚くべきことではありません。

残念ながら、イエズスによって解放された霊魂が、再びサタンの力の下に落ちてしまうことがあります。イエズスは、その霊魂の後の状態は、前の状態よりも悪くなる、と言っておられます(ルカ11章26節)。しかし、悪魔が、以前よりもさらにひどい奴隷状態にすることができる霊魂とは、どのような霊魂なのでしょうか? 聖マテオの福音の言葉によると、それは、サタンが、「空いていて、掃き清められ、整えられている」のを見つけた霊魂です(マテオ12章44節)。これらの霊魂は、掃き清められ、整えられている、つまり、洗礼によって、すべての罪が清められ、成聖の恩寵で豊かにされているのです。しかし、これらの霊魂は、空いているのです。どのように、空いているのでしょうか? イエズス・キリストへの真摯な愛がなく、空いているのであり、キリスト的生活の要請に応じて生きる寛大さもなく、空いているのであり、霊的な戦いを行う勇気もなく、空いているのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、イエズス・キリストとサタンの戦いは、決してやむことがなく、私たちも、必然的に、その戦いに巻き込まれています。私たちが、キリストと共にいるならば、サタンは、あらゆる方法で、私たちを攻撃し続けることでしょう。これに固く立ち向かうために、私たちは、イエズスと強く一致していなければなりません。イエズスの強さは、私たちの強さです。ですから、四旬節の努力を新たにしましょう。その目的は、まさに、私たちの罪の償いをすることであり、私たちの主イエズスへの愛と、イエズスとの一致を、強めることなのです。そして、毎日、頻繁に祈願を行い、なんらかの霊的な読書をして、一日中、イエズスとの一致を保つように努めましょう。私たちがこれを行うにあたって、 童貞マリア、私たちの保護の聖人や守護の天使が、私たちを助けてくださいますように。アーメン。

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