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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「天の国は、王子の婚宴の準備をする王に似ている」という婚宴の譬えの意味は何か?譬えの礼服というのは何なのか?私たちが礼服を着るには?

2023年01月04日 | お説教・霊的講話

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2022年10月16日、聖霊降臨後第19主日のミサを行っています。

お知らせが幾つかあります。
一つは、今日のミサの後にいつもの通りに御聖体降福式があります。どうぞ皆さん、参加なさってください。御聖体を讃美いたしましょう。

そのもう一つのお知らせは、11月の7日と8日の月・火と、この御御堂にアジア管区長のサマーズ神父様という方が来られて、夕方のミサと朝のミサ、早朝のミサをされます。是非、皆さん、管区長の訪問の時のミサに与ることができればとてもうれしく思います。

また11月は別なお客様の神父様も来られます。聖ピオ十世会の総長様でパレリャーニ神父様です。11月の28日の月曜日、それから29日の火曜日に、聖ピオ十世会の秘書長とともに、私もお供して参ります。その総長様にもぜひお会いになられミサに与ってそのお話を聴けたら、うれしく思います。

来年のお話ですが、1月の27日28日、金・土と、今度はもと聖ピオ十世会の総長であるフェレ―司教様もいらっしゃいます。特にまだ堅振の秘跡を受けていない方には、昔の通りのやり方に従って堅振の秘跡を授けるためにいらっしゃいます。

子供もまだ受けていない子供たちもいらっしゃるので受けるようにしてください。この堅振の秘跡を受けるためには、いまプログラムをいま考えています。お説教の中で、あるいは良い準備をしてから、いったい堅振の秘跡とは何かを、そしてどんなお恵みがあるのか、ということをよく学んで、受けていただきたいと思っています。それは皆さんがこの堅振の秘跡の恵みをよく受けるためです。

今日、福音では、イエズス様は譬えを話しました。天の国は、息子の王子の婚宴の準備をする王に似ている、と。

今日はこの婚姻の宴会、つまり婚宴の譬えの意味を一緒に黙想しながら、遷善の決心を立てましょう。

(1) 婚宴の譬えの意味

教父たちによると、最初に招かれた人たちはユダヤ人のことを意味しています。招いた王様というのは、天主三位一体です。御父です。王子の婚宴というのは、その王子というのは天主御子の天主の御言葉のことです。三位一体の第二のペルソナのことです。天主の御子、結婚する、婚姻をするというのは何かというと、この天主の御言葉が天主でありながら、天主の本性を保ちながら、人間の本性を自分のペルソナにおいて一致させること、天主が人間となること、天主が天主の本性と人間の本性が合体すること、これを結婚だと譬え、そしてこれを婚姻の宴会に人々を招いたということです。

最初に招かれたのは、ユダヤ人たちでした。ユダヤ人たちには、聖パウロのへブライ人の手紙によると、何度も何度もいろいろな方法で預言者が送られました。そしてユダヤ人たちにいろいろな方法で招きを送りました。しかし残念なことに選ばれたユダヤ人たちはその招待に応ずることを拒みました。望みませんでした。

もう一度「さあ来てください」と預言者が送られましたが、忙しい、仕事がある、この地上のことでいっぱいだ、と言って、部活がある、塾がある、お金儲けだ、と言って行きませんでした。

さらに「お願いですからきてください」と預言者を送ると、今度はその送られた預言者たちさえも殺害してしまいました。そしてそれを聞いて怒った天主は、このユダヤのエルサレムを本当に軍隊を送って、御摂理によって送って破壊してしまいます。それはちょうどローマが、西暦70年にエルサレムを滅亡させてしまった、という史実にぴったり合っています。

そこで選ばれた人たちはふさわしくなかった、ユダヤ人たちはあれほど招かれていたにもかかわらず来るのを拒んだ、だから今度は、そのさらに外に行って、招かれていなかった人々を全て誰でもかれでも出会う人を全て呼んでこいと弟子に僕(しもべ)に言います。そうして私たち異邦人がユダヤ人ではない私たちが、招かれました。善いものも悪い者もすべて主の宴会の席に連なるようにと招かれました。

(2)礼服を着ていない人とは?

宴会の席に行って天主御父はその招かれた人たちに出合おうと挨拶しようとやってくると、礼服を着ていない人を見て、「なぜ礼服を着ずに来なかったのか」と問います。するとかれは何も答えることができませんでした。

教父によると、礼服を着てこなかったというのは婚姻の結婚した人の新郎新婦の名誉のためではなくて、自分のために来たということを意味するからだと言っています。

ではこの礼服というのはいったい何なのでしょうか。

教父たちによると、これは成聖の恩寵のことです。成聖の恩寵というのは何かというと、私たちが罪を赦されて、イエズス・キリストの超自然のお恵みを受けて、私たちから決して離れることがない特別の天主の命を受けて、そしてその天主の友として友人として天主の子どもとして、私たちが天主の命に生きている特別な状態です。罪を全て許されたという状態です。成聖の、私たちを聖とすることができる特別の超自然のお恵みの状態にいる、これが礼服、新約の私たちが着るべき礼服です。

天主御子がご自分のペルソナにおいて天主の本性と人間の本性を一つに合体させた、これが婚宴ならば、私たちはそれに与るためには天主の恩寵、成聖の恩寵を身に着けていなければなりません、それを霊魂に宿していなければなりません。そうしなければ私たちはその婚宴の式に一致して与ることができないのです。

(3) 私たちの礼服とは?礼服を着るには?

いったい私たちはどうしたらその礼服を着ることができるのでしょうか。それは洗礼の秘跡を受けることによってです。罪を全て赦されて、天主の三位一体のお恵みが私たちの霊魂に注がれることによって、この礼服を着ることができます。

今日聖パウロの書簡では新しい人を着よ、とあります。これはもう古いアダムではなくて新しいアダム、イエズス・キリストを着よ、成聖の恩寵を身につけよ、という意味です。

でも私たちは洗礼を受けたからそれでよいのではありません。もしも大罪を犯してしまうと、私たちの身に着けていた成聖の恩寵はすべて失われてしまいます。なぜかというと、天主の命と罪の状態とは共存することができないからです。罪を犯すことによって私たちは天主の恩寵を脱ぎ捨ててしまって、そしてそれを捨て去ってしまうことになります。悪魔は私たちをしてこの成聖の衣を脱ぎ剥がそうと、そしてその脱がして永遠の暗闇である地獄に落とそうと企んでいます。

もしも不幸にして成聖の恩寵を失ってしまったら、私たちはどうしたらよいのでしょうか。お恵みの状態でなくなってしまったら、どうしたらよいのでしょうか。そのときにはイエズス様は特別の秘跡を私たちにくださいました。それが告解の秘跡です。悔悛の秘蹟です。罪を痛悔して、それをイエズス・キリストの代理である司祭に告白することによって、罪の赦しが与えられて、成聖の恩寵、礼服は私たちに回復します。天国の宴席に連なるその服をもう一度着ることができるようになります。なんというお恵みでしょうか。

(4) 遷善の決心

遷善の決心を立てましょう。マリア様はこの成聖の恩寵を、この充満を着ておられました。大天使ガブリエルは、マリア様にこう挨拶しました。『めでたし聖寵満ち満てる御方、主は御身とともにまします。』この天使祝詞を私たちはロザリオの月である十月に毎日唱えています。たくさん唱えています。マリア様の御取り次ぎによって、マリア様に倣って、この成聖の恩寵をいつも保っていることができますように、婚姻の席に御子の婚姻の席に連なることができますように、そのお恵みを請い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【参考資料】フランク・ペイヴォン神父への教会法上の制裁に関するヴィガノ大司教の声明

2023年01月04日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】フランク・ペイヴォン神父への教会法上の制裁に関するヴィガノ大司教の声明

2022年12月22日(木曜日)

Viganò’s Declaration on the Canonical Sanctions Imposed on Father Frank A. Pavone

【訳者注】フランク・ペイヴォン神父(Father Frank Pavone)は、アメリカのプロライフ運動の中心的でリーダー的なカトリック司祭です。1993年以来、オコナー枢機卿(Cardinal John O’Connor)の許可により胎児の生命尊重のために献身的に働いてきました。バチカンもペイヴォン神父を支援してきました。

しかし、今回、突然、何の警告もなく、上告もできずに、教皇だけがすることができる決定で、「SNSでの冒涜的な発言」と「不従順」の罪(この二つの告発に対してペイヴォン神父は反論しています)の罰として、平信徒に還俗させられました。しかし教会法によれば「冒涜」の罪も「不従順」の罪も、還俗の罰は想定されていません。

自分を守ることができない胎児たちを守っていた(ヘロデ王の手からイエズス・キリストを守るために、聖母とともにエジプトに避難した聖ヨゼフのように)がゆえに、「あわれみの教皇」からの極めて異例な厳しい罰を受けたのです。他方では、同性愛を促進するような聖職者たちは、何らの処罰を受けずにおり、ペイヴォン神父の受けた制裁について、シスター・ディディ・バーン【ディアドラ・バーン(Deirdre Byrne)修道女】は、茶番だと呼んでいます

そのようなペイヴォン神父の受けた処罰について、ヴィガノ大司教が声明を出しています。参考情報としてお知らせいたします。

カルロ・マリア・ヴィガノ

「Agere sequitur esse.――行うは有るに従う」。スコラ哲学は、そう教えています。いかなる存在の行動も、その存在の性質に左右されます。したがって、ある人の行動は、その人が何者であるかということと矛盾しません。この存在論の原則は、何十年もの間、妊娠中絶という恐ろしい犯罪との戦いに身を捧げてきた、評価の高い有名なプロライフの司祭、フランク・A・ペイヴォン神父に対して最近聖座が課した教会法上の制裁において確認することができます。

もしローマの省【司教省】が、一人の司祭を平信徒に格下げし、天主への冒涜と非難し、教会法上の裁判で合法的に弁護する能力を持たせないようにして電気椅子の【司祭としての】死刑にすることを決定するならば、また同時に、悪名高い異端で、堕落した、姦淫の聖職者たちに関して同様の決定がなされないならば、このような迫害行為は、迫害の心を明らかにしているのだろうか、または、中絶に反対するために熱心に働いてきた善き司祭に対する行為は、善とそのために戦う人々に対する迫害者の憎悪を明らかにしているのだろうか、と問うのは見当違いではないでしょう。この不当で非合法な罰は、人類の敵【悪魔】が、罪のない子どもたちを殺すことによって、幼子なる王を殺したがっていることを考えるならば、聖なるクリスマスが近づくにつれて、いっそう憎むべきものとなります。

ベルゴリオのセクトは、指導的地位を傲慢にも占有することによって、カトリック教会【という太陽】を日食で覆っており、教会のかしらである私たちの主が意図なさった目的とは反対の目的のために、その権威をつまずきを与えるほど濫用しています。教理、道徳、規律、典礼のどの分野も、その破壊行為の対象になっていないものはありません。第二バチカン公会議の活動によって60年間にわたって組織的に解体された後、わずかに残ったものは何も救われておらず、過ぎ去った日々の栄光を思い出させる朽ちかけたものとして残っているのは、新しくてさらに悪い荒廃の脅威に常にさらされているのです。

したがって、ローマの最高法院(サンヘドリン)――その活動はバチカンの事件を最も慎重に解釈する者たちをも困惑させます――には、善人を迫害し悪人を助長するという目的があることは明白です。ペイヴォン神父の「取り消し」のケースは、聖職者たちの間に恐怖の雰囲気を増大させて、彼らに卑屈でおびえた服従の態度を取らせるために、また、信者や教会を道徳的基準とみなしている人々の間に混乱とつまずきを生じさせるために、この目的が猛烈な頑強さで実行されていることを証明していますし、何度目になるのか分からないほどです。

このすべては、イエズス会司祭マルコ・イヴァン・ルプニックが、自動破門(latæ sententiæ)の罰を伴う非常に重大な教会法上の犯罪に対する判決が係争中でありながら【破門の刑罰を受けたが、教皇によって赦されたとする説もある】、サンタマルタ館に住むイエズス会士の同僚兼仲間【教皇フランシスコ】によって教会法上の刑罰が免除されているのと同時に、一方では、ローマ教皇庁に、堕落した異端の同性愛者や姦通者として悪名高い人々がはびこっているときに、起こっているのです。ベルゴリオの従者たちは、罪が重ければ重いほど、より名誉ある地位に就くという形で、他と区別されています。

正義および統治の賢明という最も基本的な原則に対する違反、そして〈法の意向に反して〉(contra mentem legis)行動する位階階級の最高レベルによるあからさまな決定に直面して、必要とされるのは、枢機卿たちや司教たちが、彼らの共犯的沈黙がもたらす非常に深刻な結果を理解し、教会の健全な部分を守るために勇気を持って声を上げることです。この義務は、侵害されたカトリックの真理に対する敬意によって、自らの高位聖職者たちにより辱められた聖にして母なる教会の名誉によって、そして、自分たちに属するのではなく、むしろ神秘体のかしらである王にして大司祭なるキリストに属する権威を簒奪する悪しき牧者たちの言動によって危険にさらされた霊魂の永遠の救いによって、課されたものです。

この背教の時代に、教会に奉仕して、無垢なる被造物【胎児】の命を守ることが、聖職者の身分から解任されるに値する罪となり、一方で、中絶やジェンダー・イデオロギーを助長し、奉献された童貞たちを侵害すること【ルプニックの事件】が破門に値するとはみなされないとするならば、ペイヴォン神父はこの恥ずべきバチカンの決定を、私たちの救い主の次の言葉を思い出して一つの誇りと思うべきです。「私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである」(マテオ5章11節)。

また、善人に対するこの迫害の共犯者として自ら罪を負った者は誰であれ、その後に自らを待ち受ける審判を思って震えなければなりません。「Deus non irridetur――天主を侮ってはならない」(ガラツィア6章7節)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年12月22日

Photo Credit

英語版

Viganò’s Declaration on the Canonical Sanctions Imposed on Father Frank A. Pavone

イタリア語版

Viganò, Frank Pavone: Punizione Ingiusta e Illegittima. Vescovi e Cardinali Protestino.

【参考記事】

Fr. Pavone's laicization came from Pope Francis himself: canon lawyer - LifeSite

Fr. Pavone's message to Pope Francis: 'I want to continue serving as a faithful priest' - LifeSite

Sr. Dede Byrne: Fr. Pavone's laicization is a 'travesty' - LifeSite

【ルプニック神父の事件に関する記事】

The complex case of Fr Marko Rupnik, explained


2023年1月4日は、1月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年01月04日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年1月4日は、1月の初水曜日(月の初めての水曜日)でもあります。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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