Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちの生活の深い意味を与えるのは、イエズス・キリスト。すべては復活のためであって、私たちがイエズス・キリストとともに王位につくため。

2023年01月31日 | お説教・霊的講話

2022年10月30日大阪(主日)説教

聖母の汚れなき御心の聖堂にようこそ!

今日は2022年10月30日、王たるキリストの祝日を祝っています。

今日、教皇ピオ十一世の命に従って御聖体降福式の時に、毎年のようにイエズス・キリストの聖心に全人類を奉献する祈りをお捧げいたします。

来年の一月には、フェレ―司教様が日本にいらっしゃいます。私たちに堅振の秘跡を授けてくださいます。堅振を聖伝の典礼様式に従って受けていらっしゃらない方、それをご希望の方は、是非この機会に堅振の秘跡を受けるようになさってください。申込用紙は入り口にあります。

愛する兄弟の皆様、今日は王たるキリストの祝日ですから、イエズス・キリストが王であるというという意味について黙想いたしましょう。なぜ王であって、そしてそれは私たちにどのような意味があるかを黙想して、最後に王たるキリストに忠実であるために遷善の決心を立てましょう。

【1:イエズス・キリストは第二のアダムとして、私たちのために王位を回復してくださる王である】

第一のアダムは、創造された時に、すべての被造物を支配する王でした。アダムは、天主のもとに置かれ、成聖の恩寵の状態に生き、天主の友として、そして永遠の命を受けるべき、永遠の世継ぎを得るべき、天国の遺産を受けるべきものとして創造されました。アダムは動植物にさえも命令をすることができました。すべてはアダムの支配下にありました。

しかし、アダムとエヴァは罪を犯し、この秩序を破壊してしまいました。それは何を意味したかというと、王の地位を失ってしまったということです。もう、もはやアダムは命令しても自分の身体さえも、肉欲は反抗するようになり、自然界もアダムに茨を生み出し、そしてすべては苦しみを生み出すようになってしまいました。死を生み出してしまいました。王の地位は失われてしまいました。

アダムは、第二のアダム・贖い主を待つべき者となりました。私たちアダムの子孫は、すべて贖い主を待つ者となりました。それは来るべき第二のアダムが、救い主が、私たちにもう一度王位を回復してくださるべき方であるからです。

アダムに起こったことは、これは来るべきイエズス・キリストの前兆でした…聖ボナヴェントーラは言います…アダムはたった一人でいるのはよくないと天主が思われたので、アダムは眠りにつかされます。眠っているアダムの間から、そのわき腹から、骨からエヴァがつくられます…聖ボナヴェントーラは言います…いったい天主はなぜエヴァをアダムの骨からしか作られなかったのか? アダムのように土からも作れたのではないか? アダムに痛みを与えずに骨をとることもできたのではないか? なぜわざわざアダムは眠らされなければならなかったのか?…聖ボナヴェントーラはいいます…これは、アダムの眠りがイエズス・キリストの死を、第二のアダムの死を、十字架の上での死を意味させるためにわざと、ご計画のうちに眠りにつかせたのだ、と聖ボナヴェントーラ解説しています。

旧約聖書に行われてきたすべての出来事はイエズス・キリストを予告するものでした。つまりイエズス・キリストの受難を予告するものであって、私たちがどのようにして超自然のいのちを回復するかについて予告するものでした。それは第二のアダム、イエズス・キリストにおいて、その御血において回復されるものでした。

【2:イエズスは王として十字架によって王国を回復してくださった】

では第二に、どうやってイエズス様は私たちのために、王国を、超自然の完璧さを、回復してくださったのでしょうか。

ちょうど私たちに超自然のお恵みがないということは、成聖の恩寵がないということは、最も大切なものを欠いているということです。車にタイヤがない、あるいは飛行機に羽がない、あるいはコンピューターにその最も大切な部品がない、まったく役に立たない、それと同じです。

私たちにもしも超自然のお恵みが無かったら、この人生の最も大切な意味がなくなってしまうからです。

イエズス様はこれを回復しようとしました。その回復はご受難でした。十字架の木によるものでした。

イエズス様は王として、十字架の上に磔になります。イエズス様を王として茨の冠を被せられます。イエズス・キリストは、ですから私たちをこの十字架の御旗のもとにお呼びになっています。私たちもイエズス様とともに王位につくように。イエズス・キリストの天の遺産を王として支配するように、招いています。しかしそれにはたった一つの道しかありません。

旧約時代の全ての神秘を理解する鍵はイエズス・キリストであるように、私たちのいま生きている人生の人類の歴史の私たちの生活の深い意味を理解するのは、そしてこれに意味を与えるのは、イエズス・キリスト以外に何もありません。

なぜ私たちは病になるのか、なぜ苦しむのか、裏切られるのか、辱めを受けるのか、なぜここでこのようなことが起こるのか、すべてイエズス・キリストが私たちの人生に意味を与える鍵を持っています。

すべては復活のためであって、永遠の命のためであって、私たちがイエズス・キリストとともに王位につくためです。

イエズス・キリストの受けた茨の冠の王冠、あるいはその王の玉座である十字架、これを見ると私たちもこれを拒否することは出来なくなります。私たちの愛する贖い主・王が私たちに模範を見せてくださったのですから、どうして私たちがこの世のプリンス、この世の支配者、悪魔の提供する王冠を、甘い快楽の王冠を被って、イエズス・キリストからくださる王冠を捨てることができるでしょうか。

【3:遷善の決心】

最後に、王たるイエズス・キリストに忠実である恵みを請い求めましょう。遷善の決心を立てましょう。

もちろんイエズス・キリストは、この地上において諸国の全世界における王として、国際社会の王として、認められなければなりません。しかしその前に、イエズス様は私たちの家庭の王として、私たちの王として認められて、そして従順に愛されて従われなければなりません。

私たちの生活がすべてが、イエズス様を王として宣言するものとなりますように、マリア様にお祈りしましょう。なぜかというと、マリア様こそ、全生涯がそうであったからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


眠りの聖化について:それはどういう意味か、なぜそうしなければならないのか、その方法はどんなものか

2023年01月31日 | お説教・霊的講話

眠りの聖化についての説教

ドモルネ神父

はじめに

今日のミサの福音は、嵐を静める奇跡についてのものです。この話には、興味深い点があります。イエズスは、舟の中で眠っておられました。しかし、私たちの主の行いはすべて聖なるものですから、それには主の眠りも含まれるのです。ナツィアンツォの聖グレゴリオは、私たちの主が御自ら眠りに従うことを望まれたのは、私たちに自分自身の眠りを聖化することを教えるためであった、と述べています。

そこで今日は、おそらくあまり一般的ではないテーマ、眠りの聖化についてお話しします。それはどういう意味でしょうか、なぜそうしなければならないのでしょうか、そして、その方法はどんなものでしょうか。

1.眠りの聖化

自分の行動を聖化するということは、その行動を聖なるものにするという意味です。私たちの行いが聖なるものとなるのは、それが天主のご意志に従い、私たちの天主への愛から行われたときです。天主のご意志は、おもに、天主が宇宙に定められた自然法則、十戒、私たちの主が創立されたカトリック教会の教え、そして私たちの身分に応じた義務を通して、私たちに示されます。私たちが天主への愛から行動するというのは、まず成聖の恩寵によって天主との友情を持つ状態にあり、次にその行動の間中、私たちの精神と心を天主に向けることです。私たちが何をするにしても、それは天主の栄光のため、そして天主への私たちの愛の証しとして行わなければなりません。

さて、眠りの問題に移りましょう。眠りは、食べたり、働いたり、勉強したりといった、私たち人間の行動の一部です。私たちは、他の様々な行動を聖化しなければならないように、私たちの眠りも聖化しなければなりません。言い換えれば、私たちの眠りは天主のご意志に適ったものでなければならず、眠っているとき、私たちの心は天主の方を向いていなければなりません。

2.眠りを聖化する理由

眠りを聖化することは重要です。なぜでしょうか? 第一に、眠りは、私たちの人生の中で大きな部分を占めているからです。眠りを聖化しないということは、私たちの霊的生活を発展させるための時間のうち相当な部分を失ってしまうことを意味します。さて、覚えておいていただきたいのは、地上での生活の中で、私たちの霊魂に成聖の恩寵が増加していくということは、永遠の栄光が増加していくことを意味する、ということです。ですから、私たちは時間を無駄にしてはならず、人生の一秒一秒を、成聖の恩寵を増加させるために使わなければなりません。

第二に、私たちを罪に導くような誘惑や官能的な動き、あるいは危険な想像に身をさらさないようにするために、私たちは眠りを聖化するように気をつけなければならないということです。実際、私たちの冷酷な敵である悪魔は、決して眠りません。私たちが眠りを聖化しないのなら、それは、戦いのときに見張りをしないで眠ってしまう兵士のようなものです。敵が来れば、その無防備な兵士を見つけて、簡単に倒してしまうでしょう。

最後に、自分の眠りを聖化することは、死を準備する一つの方法です。眠りが、私たちの一日の最後の行動であるように、死は、私たちのこの世での最後の行動だからです。眠っているとき、私たちは、死にとても似た状態にあります。また、人が分からないうちに眠りから死に至ることは、実際、それほど珍しいことではありません。夜、眠ったあと、目覚めなかった人も多くいます。私たちのうち誰が、自分が夜、眠ったあと、朝には必ず目が覚める、と確信をもっていうことができるでしょうか? 眠っている間に死ぬということは、死の準備をする時間がありませんから、恐ろしい死です。大罪の状態で眠りについた人は、地獄で目を覚ますのです。ですから、眠りを聖化すること、つまり天主と和解せずに眠りにつくことが決してないようにすることが重要なのです。

3.眠りを聖化する方法

眠りを聖化することがいかに重要であるかを申し上げましたが、次の論理的な疑問は、それを行う方法です。そのためには、外的な心構えと内的な心構えが必要です。

外的な心構えの一つ目は、決められた時刻に正確に床につくことです。これは一種の自己犠牲であり、怠惰に陥らないために、また、疲労とそれによる時間の浪費を避けるために、必要なことです。必要な時に眠らなければ、私たちは、自分の身分に応じた義務を果たすことができなくなります。

外的な心構えの二つ目は、衣服を脱いで床につくとき、常にキリスト教的な慎み深さを守り、品位に欠けるようなことは、すべて注意深く避けることです。また、ベッドに入った後は、官能や不純な誘惑につながるような柔らかいものを避けるように注意しなければなりません。

外的な心構えの三つ目は、もちろん、夕の祈りを忘れないことです。この祈りは、できればベッドの上ではなく、ひざまずいて行うべきです。そしてこの祈りの間に、自分の良心を調べ、その日の罪の赦しを天主に願い、翌日再びその罪に陥らないことを約束することを、怠ってはなりません。聖水で十字架のしるしをし、聖水をベッドに少し撒いておくのもよいことです。

これらの外的な心構えに加えて、床につくときには、敬虔な思いを抱いて、祈ることが勧められます。寝る前の短い霊的読書は、この点で非常に有益です。

私たちの主イエズス、童貞聖マリア、私たちの保護の聖人、そして私たちの守護の天使に自らを捧げ、祈りながら眠りにつくことは、眠りを聖化するための優れた内的な心構えです。私が子どもの頃、守護の天使と一緒に祈りながら眠りにつくと、私たちが眠っている間中、守護の天使がその祈りを続けてくれると聞いたことがあります。なるほど、その考えは、それほどおかしなものではありません。この例と比べてみましょう。家庭では、夕の祈りの最中に、幼い子どもたちが眠ってしまうことがよくあります。そのとき、両親や年上の子どもたちは、自分たちのため、そして寝てしまった幼い子どもたちのために祈りを続けます。彼らは、自分たちの上にだけでなく、眠ってしまった幼い子どもたちの上にも、天主の恩寵を引き出すのです。では、両親が幼い子どもたちのためにするよりも、私たちの守護の天使が私たちのためにしてくれることのほうが少ない、ということはあり得るでしょうか? 悪魔が決して眠らず、常に私たちを敗北させようとしているのですから、他方、私たちの守護の天使も決して眠らず、私たちを守り、私たちのために天主に祈ることを、決してやめはしないのです。ヤコブのはしごの幻視(創世記28章12節)を思い出してください。ヤコブが眠っていると、地にはしごが立てられていて、その頂が天にまで達しているのを見ました。天主の天使たちもそのはしごを上ったり下りたりし、天主ははしごに寄りかかっておられ、ヤコブを祝福されました。

最後に、眠りを聖化するための最後の勧めです。夜中に目が覚めたなら、再び眠りにつく前に、少し呼祷をして、心を天主に上げることを覚えておきましょう。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの主イエズスは、地上での生活の間、眠られましたが、その眠りは聖なるものでした。私たちの眠りも、聖なるものでなければなりません。私たちは、臨終の時にそうあることを望む状態で、毎晩眠りにつくようにしましょう。私たちの善き母であるマリアの祝福によって、いつも私たちの主の聖心の上で眠りにつくようにしましょう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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