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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

茨の冠を被せられたもうイエズス・キリスト、苦しみの第三玄義の黙想

2023年01月30日 | お説教・霊的講話

2022年10月29日(土)大阪での説教

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

今日は土曜日の聖母のミサを行っています。10月のロザリオの最後の土曜日です。また明日は王たるキリストの祝日です。ですから今日は王たるキリストの祝日に関係のあるロザリオの玄義を一緒に黙想いたしましょう。

特に茨の冠を被せられ給(たも)うイエズス・キリスト、苦しみの玄義の真中の玄義、第三玄義を一緒に黙想いたしましょう。

イエズス様は、私たちの罪を償うために人となられました。罪を償うために、苦しみの十字架の道をお歩みになりました。第二のアダムとして私たちの罪を贖おうとされました。アダムが最初の罪を犯した時から、全宇宙は人間に逆らい始め、大地さえも逆らいました。大地からは茨が生え出て、そして額に汗をして、労苦して、糧を得なければならなくなりました。その茨をイエズス様は自分の頭(かしら)に、額に受けました。

旧約聖書では最初にアブラハムが、ヤーヴェからイサアクを生贄に捧げるようにと命じられた時に、その通りにしました。アブラハムがイサアクを屠(ほふ)ろうとしたその瞬間、ヤーヴェからストップの声が掛かります。その代わりに茨に頭が絡まっていた子羊がみつかり、これを代りに捧げろと、言われました。

私たちの代わりに捧げられる子羊には茨の冠が被せられなければなりませんでした。天主の小羊である主が茨の冠を被るべきことは、すでに予告されていたのです。イエズス・キリストはまことの天主、まことの王です。しかしローマ兵はこれを喜劇・嘲笑(あざわら)い・冗談の、王の戴冠式と替えてしまいました。ローマ兵にとってはこの戴冠式は嘲(あざけ)りの戴冠式でした。しかし、イエズス・キリストはまさに茨の冠を被ることによって、私たちの本当の王となるべきでした。贖いの王となるための本当の戴冠式でした。

この戴冠式の前には準備がありました。

戴冠式の準備のために、ゲッセマネの園で弟子たちから捨てられて、たった一人で主に祈らなければなりませんでした。

戴冠式の準備のために、体全体は鞭で打たれなければなりませんでした。血で赤く染まらなければなりませんでした。

戴冠式が終わった後は、王としてポンシオ・ピラトによって宣言されました。ナザレトのイエズス、ユダヤ人の王、と十字架の上に捨て札が書かれて、ラテン語とヘブライ語とギリシャ語と三つの言語で宣言されました。つまりローマ当局によって世界を代表する言語で普遍的に王と宣言されました。

この茨の冠という王冠を被った主は十字架の道を歩まれます。私たちの御母マリア様は主に従いました。そして十字架のもとにたたずみ、決してその王のもとを離れようとしませんでした。

私たちの主は茨の王冠を被ったまま、贖いの王として、十字架のベッドで死の眠りにつきます。もしも私たちの本当の王が贖い主が茨の冠を被ったのならば、ご自分の王冠とされたのならば、私たちはなぜそれ以外のオリーヴ冠、月桂冠、あるいは宝石の王冠を選ぶことができるでしょうか。

ぜひマリア様にお祈りいたしましょう。私たちの王に倣うことができますように。私たちの王の良き臣下として僕(しもべ)として、主の御国にいるものとして、同じ十字架の御旗のもとに主と共にいることができますようにお祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ユダ「愛するものよ、ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰のために戦えと、あなたたちにすすめる」

2023年01月30日 | お説教・霊的講話

2022年10月28日(金)大阪での説教

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

今日は、聖シモンとユダの使徒の祝日を祝っています。

多くの祝日が続いています。今日の使徒の祝日、主日は王たるキリストの祝日、火曜日11月1日は諸聖人の大祝日、また11月2日は死者の日です。できるだけミサに与るようになさってください。特に、ハロウィンの罪の償いをするためにもミサに与ってください。

では今日は、聖使徒シモンと聖ユダの祝日です。
この使徒たちはどのような人たちだったのでしょうか。一緒に黙想して遷善の決心を立てましょう。

典礼によるとすでに4世紀の頃から、聖シモンと聖ユダは、一緒に祝っています。離れることなく同じ日に祝っています。

聖シモンはカナネアの人で、熱心なシモンというあだ名が付けられていました。この聖シモンはエジプトに行って最初に宣教して、ついにはペルシャに行きました。

聖ユダはタデオとも言われており、新約聖書の中に聖ユダの手紙というのがありますが、それを書いた人です。ユダの書簡では自分を「イエズス・キリストのしもべ、ヤコボの兄弟ユダ」として、ヤコボの兄弟と言っています。聖ヤコボの手紙を書いたあのヤコボです。

聖ユダはメソポタミアで宣教して、そしてペルシャに行きました。ペルシャで聖シモンと遭って、そして二人一緒に働いてついに殉教した、と伝えられています。

聖ユダの書簡のなかには、伝えられた教えから離れて悪魔に身を売ってしまった、身体を汚してしまった人々について警告をしています。そのような人々には罰があると、ソドムとゴモラのことを思いださせています。ちょうどこの日に、私たちがこの頃に聖シモンと聖ユダの祝日を祝うのは、まさに私たちが信仰から離れてしまわないように、この世が私たちを憎んだとしてもそれに驚いてはいけない、ということを思い起こさせてくれています。

「愛するものよ、私は、私たちの共同の救霊についてあなたたちに手紙を書こうと心掛けていたが、ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰のために戦えと、あなたたちにすすめる手紙を書く必要を感じた。あなたたちの間に、ある人々がしのびこんだからである。かれらは、古くから、かの裁きに定められている人々であり、私たちの恩寵を淫乱に変え、私たちの唯一人の師であり主であるイエズス・キリストをいなむ不敬な人々である。あなたたちがすべてを知っているにしても、私は、主がエジプトの地から人々を救い出してから不信仰な人々を亡ぼされたことを、あなたたちに、もう一度思い出させたい。また自分たちの優先権を守らず、自分の席をすてた天使たちを、主は永遠の鎖でしばり、偉大な日の審判までくらやみの底にとどめられた。ソドマとゴモラと同様にその付近の町々も、淫行にふけり、異なる肉におぼれたので、見せしめのために永遠の火の罰をうけた。この人たちも気が狂って肉を汚し、天主の主権を軽んじ、光栄あるものたちをののしる。…」

この世はイエズス様の愛を、イエズス様の愛の掟を、全く理由もなく憎みます。イエズス様を憎む者は御父を憎む者であって、イエズス様を受けないものは御父をも受けません、知りません。彼らは残念ながら、闇・サタンの悪魔の支配下のもとに知らないうちに入ってしまっています。昨今のハロウィンというのもおそらくその現象の一つに違いありません。主を離れた霊魂たちが、もともとは諸聖人の祝日であったものを別の形で悪魔を祝うかのように、世界中で大騒ぎしています。是非聖シモンとユダにお祈りいたしましょう。私たちがイエズス・キリストの愛に留まりますように、信仰に留まりますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


一人の王官がイエズスを探しに来て「主よ、あの子が死なないうちにすぐに来てください」と願った。どのような道徳的な意味を持っているのか?

2023年01月30日 | お説教・霊的講話

2022年10月23日主日 東京での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の福音では、一人の王官がイエズスを探しに来て「主よ、あの子が死なないうちにすぐに来てください」と願いました。今日のこの出来事が私たちにとってどのような道徳的な意味を持っているのか、一緒に黙想いたしましょう。
特に理性が霊魂の王であるということについて、また霊魂を病に至らせる情念passioということについて一緒に黙想いたしましょう。

聖トマス・アクィナスによると、今日の福音の箇所の道徳的な意味は次の通りだと言っています。聖書の道徳的な意味というのは、“頭(かしら)であるキリストが行ったので私たちもしなければならない”意味と言います。そのようなことを、道徳的な意味で解釈する、と言います。

(1)理性は人間の王

さて聖トマス・アクィナスによると、理性というのは、知性と意志のことです。理性は、霊魂の王です。何故かというと理性が人間の全てを支配するからです。人間の愛情も、何を愛するかということも、理性によって導かれています。霊魂の他の全ての力も理性に従います。ですから、もしも私たちが理性に従っているのならば、秩序が生まれ、人間全体といういわば「王国」が保たれることになります。しかし、理性ではなくて無秩序な情念に導かれてしまうならば、あるいはそのような情念に抵抗しない時、つまり理性が「王」として支配しない時、すると私たちの愛情、つまり「息子」も病に陥ってしまいます。善から離れて悪に傾いてしまうのです。

どこで息子が病気になったのか、どこで熱が出て死にそうかというと、カファルナウムでした。カファルナウムというのは、ヘブライ語では「豊かさ」とか「慰め」という意味です。つまり、物質的な豊かさが霊魂の情念をふるい起たせてしまって、そしてこの病気の原因となったと、聖トマス・アクィナスは説明しています。こういう意味に適応できると、説明しています。

(2)悪しき情念をコントロールする

聖アルフォンソ・デ・リゴリは、理性が情念に抵抗しないと霊魂が死に至ってしまうということを教えて、私たちが情念をコントロールしなければならないということを説明しています。

聖アルフォンソ・デ・リゴリは、情念それ自体は罪ではない、悪ではないと言っています。もっと正確に言うと、情念passioが理性に支配されている限り、これは霊魂にとって善を為すと言います。しかし、これがコントロールされていない時に、すべてが情念によって支配されてしまうので、善と悪との区別ができなくなってしまって、病に陥ると言います。そして私たちは情念の奴隷となってしまう。真理が暗んでしまう、と説明します。

どういうことかというと、理性が正しく情念を支配しない時、例えば「悲しみ」というのを例にとってみましょう。他人の善を「自分の悪」だと考える時に、他人の善を喜ぶ代りに悲しんでしまいます。するとこれは嫉妬です。

しかし情念を正しくコントロールするなら、よいことになります。たとえば、おなじ悲しみを例にとってみると、他人の悪をみて自分の悪として悲しむならこれは憐れみになります。あるいは自分の過去の罪を自分の現在の悪として悲しむのならば、これは痛悔です。ですから理性が情念を正しく支配しなければならないのです。

ではどのようにしたらよいのでしょうか。どのようにしたら情念の奴隷状態から抜け出せることが、あるいは情念の奴隷とならないようにすることが、できるでしょうか。

聖ヤコボはこう言います。「私たちが馬を御するためにその口にくつわをはめれば、その全身を御する。」(ヤコボ3:3)

聖アルフォンソ・デ・リゴリは、この言葉を引用して、私たちは情念を馬のように取り扱わなければならない、つまり悪い悪しき感情が、情念が出るや否や、理性の轡(くつわ)をはめてコントロールしなければならない、もしもその代わりに情念の要求のままに従ってしまうのならば、私たちは野獣のレベルにまで落ちてしまう、理性の賜物をいただいて生まれてきていながら、情念に従って野獣のようになってしまうのは、人間の品格を貶(おとし)めて、恥ずべきことである、といいます。

もしもそれを続けるのならば、つまり理性と天主とを軽んじて情念のままに従って生きてしまうのならば、天主はついには罰としてその邪欲のままに私たちをうち捨てておかれるだろう、といいます。
ローマ人への手紙の中で、聖パウロはこう書いています。「天主は、かれらのよこしまな心のままに、不当なことをおこなうにまかせられた。…」
これは最大の罰です。ですから私たちはこの状態からすぐに出なければなりません。

(3)「自分の主要な悪しき情念」を見出してこれを征服する

この悪しき情念というのは、聖アルフォンソ・デ・リゴリによると 自己愛から生じています。ですから自己愛という雑草を抜き取らなければなりません。どうして抜き取るかというと主は言われます。「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。」(マテオ16:24)

聖アルフォンソ・デ・リゴリによると、「自分の主要な悪しき情念」を見出してこれを征服するならば、他のものも簡単に制御できると言っています。「主要な悪しき情念」とは人によっていろいろ異なっていますけれど、まず自分にとって一番強く感ずる悪い情念のことです。しかし、そのままにのさばらすと火が付いたように熱がでたようにますます燃え広がってしまいます。

聖アルフォンソ・デ・リゴリの指摘によると、ヘロデ王は、野心のままに子供たちの命を幼子たちのいのちを奪った。あるいはイギリスのヘンリー八世は、女性に対する情念から、国全体を教会から離れさせ、また聖なる人々を処刑した。そしてついには最期に信仰を失った。情念に目をくらまされて、自分の快楽だけを追求してしまった。

ですから私たちは小さなうちに、できるうちに、情念を制御しなければなりません。傷口もすぐに閉じないと治癒できない腫瘍になってしまいます。あるいは、木もまだ小さいうちならば簡単に引き抜くことができますが、根が張った大木になってしまえば、それを引き抜くのは非常に困難です。

(4)祈る

ではどうしたらよいでしょうか。自己愛を捨てて イエズスの十字架に従うほかには何をしたら良いでしょうか。
聖アルフォンソ・デ・リゴリは、その最高の方法は天主に祈ることであると教えています。特にこの情念が激しい時には、ますます祈るべきである、と教えています。

では遷善の決心を取りましょう。私たちにとって悪しき情念とはいったい何でしょうか?これを見いだして、私たちがすべてを理性でコントロールすることができるお恵みを請い求めましょう。いつも理性が制御している状態を請い求めましょう。

今日の王官のように、霊魂が死なないうちに主に来ていただいて癒してくださることを願わなければなりません。が、主がお望みになれば主が来ていただかなくても癒すことができます。でも私たちは主の方に馳せ寄り、これを請い願わなければなりません。

聖伝のミサに与ることによってイエズスのもとに馳せ寄り、主に祈りましょう。最後にロザリオを通して、いつも情念を理性の支配下におかれて罪の汚れをまぬがれていたマリア様に倣って生活することができるようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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