Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【訃報】天主様に召されたステファノ濱尾枢機卿様の霊魂の安息のために

2007年11月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は死者の月ですね。

【訃報】

 日本人では5人目の枢機卿、前教皇庁移住・移動者司牧評議会議長であったステファノ濱尾枢機卿様は永遠の世界へに霊魂が召されたそうです。枢機卿様の霊魂の永遠の安息をお祈り致しましょう。主よ、永遠の安息をかの霊魂に与え給え!

(くわしくはカトリック中央協議会ウェッブ・サイトをご覧下さい。)

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
聖ステファノ、我らのために祈り給え!

「指針『贖いの秘跡』104項(拝領者がホスティアを御血に浸す方法)・・・」のコメントを読んで

2007年11月07日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、

 数週間前に、「つぶやき」というタイトルで「あるブログで、指針『贖いの秘跡』104項(拝領者がホスティアを御血に浸す方法)の記事を見た。コメント欄に登場した○○司教。HNと思いきや、途中から権威をもって語りだした。しかし、・・・その内容は、目を覆いたくなるほどお粗末。ニセモノであれば・・・、と願った。」というコメントをいただきました

 最初、何のことか分からなかったのですが、これが「頬白親父の一筆啓上」というブログであることを教えてもらいました。

 またヘレナ(仮名)さんからのメールで、日本のある教会では、御聖体拝領に関して、毎主日『あがないの秘跡』104項で認められていない両形態の方法がとられているということも教えていただきました。未成年者に対してもそうなのだそうです。拒否している信徒の方々は、片手で数えることが出来るだけです。

 これらのことを知り、いろいろなことを思いましたが、まず、手による聖体拝領、女性の侍者、と同じパターンだ、と思いました。

 手による聖体拝領は、バチカンが「禁止、禁止、禁止」と繰り返していましたが、司教様たちは「無視、無視、無視」と繰り返し、結局「容認」となり、過去禁止されてきたことが今では「通常の形式」となり、ほぼ事実上「義務」となってしまいました。

 女性の侍者も、同じ道をたどりました。バチカンが「禁止、禁止、禁止」と繰り返していましたが、司教様たちは「無視、無視、無視」と繰り返し、結局「容認」となり、過去禁止されてきたことが今では「通常の形式」となり、ほぼ事実上「義務」となってしまいました。(例えば韓国では、ある司祭は、女性の侍者を拒否したために司教様から厳しく罰せられ、「再教育」を受けることになりました。私はこの神父様と会ってお話しをしたことがあります。)

 聖伝のミサについても、聖ピオ五世の大勅令が無視され続けてきたことを見ると同じことが言えるでしょう。


 第2に思ったことは、信徒の方々の御聖体への信仰・信心がどれ程深く傷つこうと、バチカンの「認可」があるから全ては問題がない、という「法至上主義」です。

 ピオ十二世教皇様は1944年こう訓話をしたことがあります。
「教会は、天主からの起源と天主の という固有の性質を持っている。そこから教会における司法的生命は、それ固有の特徴、方針、究極の目的、考え方、及び最高の超自然の永遠の善を持っている。・・・霊魂の救いは、導き手として最高の絶対に安全な規範を持つ。法と天主の御旨である。」(1944年10月2日、教会最高裁への訓話)

"La Chiesa ha un proprio particolare carattere di origine e di impronta divina. Da cio deriva anche nella sua vita giuridica un tratto a lei proprio, un orientamento, fin nelle ultime conseguenze, verso pensieri e beni superiori, oltremondani, eterni. ... La salute delle anime possiede come guida una norma suprema assolutamente sicura: la legge e la volonta di Dio."
DISCORSO DI PIO XII, AL TRIBUNALE DELLA SACRA ROMANA ROTA, 2 ottobre 1944

 つまり、教会法は霊魂の救いのため、霊魂が正統信仰を保持することが出来るように助けるために存在するのであって、教会法のために霊魂が存在するのではない ≪Leges propter homines, et non homines propter leges≫ ということです。

 日本でもこのことはよく知られているはずです。例えば、「教会は「家庭」をどう見てきたか」(編者:日本カトリック宣教研究所 初版1993年)の中には、「教会法から見た家庭 稲川保明(東京教区司祭)」という文章が掲載されています。

 稲川神父様は、以前の教会法を「法至上主義」だと非難しつつも、新教会法ではそうではない、「法至上主義」を捨てた、と強調しているからです。

「1983年の新しい教会法典は、教会的性格を持つ方です。・・・全部で2414条あった教会法が、今は1752条に縮められました。数として約4分の1は減っています。条文の数が減ったことを心配する人たちがいます。新しい法典にはいろいろなことが書かれていない、どうしたらいいか。法に書いてあればどんなことでも許され、法に書いてなければ許されない。それはおかしいことです。このような法至上主義的な感覚がありました。」(167ページ)

「イエスのいわれた、新しい唯一の掟の精神は、この新しい法典の最後に、いわばピリオドのようにおかれています。それは Suprema lex salus animarum つまり、「最高の法規とは、人間の救いを目ざすものである」ということです。最も素晴らしい法律は何か。それは、人間の救いに役立つもの、それを目ざすものです。ですからその最後に書かれているひと言が、この新しい教会法典の正確と物語っており、新しいカノンの精神を表していると思います。」(169-170ページ)

 しかし、実際に起こっていることは、信徒の方々の信仰がどうなっても「認可」があるから全ては問題がない、という日本の教会の「法至上主義」です。

 教区長の許可をとって行われる、或いは教区長自身の捧げる、形の上では「合法的な」ミサであっても、内容はカトリック信仰とはますますかけ離れたものとなっており、「新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられ」、「しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめ」ています。しかし、「典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々を深く傷つけて」いるのにもかかわらず、司教たちの許可によって、事実上、推進されています。私たちはこのような権力の濫用によりカトリック信仰の生活を送ることを極めて困難にさせられてしまっています。日本では「憲法9条を世界の宝に」とか「トリエント・ミサは必要ない」などというプロパガンダだけが幅をきかせているのです。

 「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」しかしながら、現実には、以前のやり方のまま信仰を守ろうとする信徒の方々は、いわば、少なくとも心理的に「突然すべて禁じられ」「有害なものと考えられ」「一致を妨げる」と非難されるのです。

 主よ、我らを憐れみ給え!


「黙想 
 重い十字架の下にイエスはまたお倒れになります。三度もお倒れになったということについて、何を言うべきでしょうか。おそらく、人間の一般的なつまずきについて、多くに人のキリスト離れについて、神不在の世俗主義に向かう時流について考えなければならないでしょう。しかし、私たちは、キリストがご自分の教会において苦しんでおられることを考えなくてもよいのでしょうか?
 キリストの現存である聖なる秘蹟(=御聖体のこと)が、どんなに濫用されていることか、しばしば、虚ろな心や悪意に満ちた心の人にも拝領されているのです。
 私たちはどれほど、イエスについて何の意識も持たないまま、ただ自分たちのミサを行っていることでしょう。
 どれほど神のことばがないがしろにされ、濫用されていることでしょう。
 多くの理論・学説にわずかな信仰、何といむなしい言葉。
 何とひどい汚れが、教会の中に、またすべてイエスのものであるはずの司祭たちのあいだに見られることか。
 何という傲慢、自己満足。
 何という、ゆるしの秘蹟に対する尊敬の足りなさ。イエスがそこで、私たちの罪から立ち直らせるために待っておられるというのに。
 これら全てが、イエスの受難の中に現存しているのです。弟子たちの裏切り、イエスの御体と御血の不謹慎な拝領は、確かに、贖い主の最大の苦痛であり、彼の心(=聖心のこと)を刺し貫くものです。
 魂のもっとも奥深いところから主イエスに向かって、主よ、憐れんで下さい、と、叫び声を上げるほかありません。「主よ、私たちを救って下さい」。

祈り
 主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。しかし、それは私たち自身の汚れです。私たち自身、大きなことを言うたびに、大げさに振る舞うたびに、あなたを裏切っているのです。・・・」
「教皇ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」(女子パウロ会)

私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ)

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【関連記事】

■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

2007年11月06日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 いかがお過ごしでしょうか。
 今月も兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 

(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ五世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエント・ミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、とも呼ばれ、ベネディクト十六世教皇によれば、「かつての典礼の形式」、「1962年にヨハネ二十三世が発布したローマ・ミサ典礼書」のミサ、「1970年の改革以前のローマ典礼」のミサ、「祈りの法の特別な表現」、「あがむべき古くからの典礼」、「福者ヨハネ二十三世によって発布され、決して廃止されたことのないローマ・ミサ典礼書規範版に従って、教会の典礼の特別な形式としてミサのいけにえ」、「以前の典礼の伝統」、「以前のローマ典礼の形式に従った典礼」、「教皇ヨハネ二十三世の権威のもとで1962年に公布され、公会議中も使用された、公会議前のローマ・ミサ典礼書」・・・などとも呼ばれています。)


聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


■何故なら、聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』

■聖伝のミサは、五世紀以来の教皇たちが使徒聖ペトロに由来するものだからという理由で要求してきた「ローマ典文」をそのまま何も手を付け加えずに使用しています。教皇たちはこの典礼様式は使徒からの聖伝に基づくと何度も繰り返し述べています。

■何故なら「教皇には教会の最高牧者として聖伝の典礼様式を廃止する権能があると述べられている文章は、カトリック教会法典を含めて一つも存在していない」(モンシニョール・ガンバー)からです。

■聖伝のミサは、ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡によって確認された通り、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭です。

■従って、「トリエント・ミサはバチカン公会議で廃棄された」という「学者全般の解釈」は、全くのウソだからです。何故なら、これこそ「福者ヨハネ二十三世が1962年に公布した且つ決して廃止されていないローマ・ミサ典書の規範版に従ったミサ聖祭の犠牲(いけにえ)」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)だからです。

■従って、「福者ヨハネ二十三世が1962年に公布した且つ決して廃止されていないローマ・ミサ典書の規範版に従ったミサ聖祭の犠牲(いけにえ)」は、第二バチカン公会議後も、1969年以降も、それ以前と同じいわばカトリック教会における「普通のミサ」としての法的地位を保っているべきであるからです。従って、1962年の「ローマ式典礼様式のミサ」は、「聖ピオ十世会のような人たちのため」だけではなく、全てのカトリック司祭、全てのカトリック信徒の方々のためのものであり、全世界のカトリック教会で「普通のミサ」としてなければならないからです。何故なら「(聖ピオ五世によって公布され福者ヨハネ二十三世によって改訂されたローマ・ミサ典書は)その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)からです。

■聖伝のミサは、聖ピオ五世の大勅令『クォ・プリームム』によって、永久に義務化された有効なミサ聖祭であったにもかかわらず、また、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭であったにもかかわらず、事実上は、法に反して、「トリエント・ミサはバチカン公会議で廃棄された」と主張する「学者全般の解釈」の欺瞞がまかり通ってきました。

■聖伝のミサは、第二バチカン公会議の最中も、1969年以降も、それ以前と同じカトリック教会における「普通のミサ」としての法的地位を保っていたにもかかわらず、その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない典礼様式であったにもかかわらず、司教たちの権力の濫用によって、事実上禁止されてしましました。

■法の上では、「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続ける、それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえない」にもかかわらず、現実には、司教たちの権力の濫用によって、実際に迫害されてきていました。これがカトリック教会において、異常な緊急状態をつくり出してきました。


(ヴェルサイユの司教ジャン・シャルル・トマ司教(Bishop Jean-Charles Thomas)の命令により、聖伝のミサを執行したという理由でミサ聖祭の最中であったが、警察により信徒たちの見ている前で強制的に祭壇から引き離されたブルノ神父。
1987年3月30日、ポール・マルリーのサンルイ教会にて。くわしくはここを参照のこと。)


■多くのカトリック司祭たちは、聖伝のミサを捧げているという理由だけで、追放され、捨てられ、排斥され、処罰され続けてきました。聖ピオ五世の荘厳な大勅令は、骨抜きされ、有名無実化し、「従順」の名前のもとに、不従順が強要されてきました。

■ルフェーブル大司教様は、この権力の濫用に対して、「教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与え」続けてきました。ルフェーブル大司教は、いわば体を張ってまでも、自分を犠牲にしても、聖伝のミサという「当然の敬意が払われなければならない典礼様式」を守ってきました。ルフェーブル大司教がいなければ、エクレジア・デイ委員会も生まれなかったでしょうし、ベネディクト十六世も、今回のスンモールム・ポンティフィクムを出す力が無かったでしょう。

聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


■ベネディクト十六世教皇様は、上記のような典礼改革による典礼の崩壊が原因で、現在カトリック教会に危機が存在していると警告しています。

■何故なら、現在、日本で現在広く使われている「パウロ六世のミサ」は、たとえそれがラテン語で唱えられようとも、ベネディクト十六世(当時ラッツィンガー枢機卿)によれば、「捏造された典礼」であり「数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度、制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物」であるからです。

■何故なら「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされないもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ)からです。

■何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。そして「新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることがあたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような疑いは既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまう」からです。

■何故なら、聖なるものに対する敬意、天主の御稜威の超越性、この世への軽蔑、私たちが原罪によって傷ついていること、私たちが罪人であること、霊的な戦いの必要性、償いと犠牲を捧げる必要性、超自然の秩序を明らかに認めること、天主の権威に基づく権威への敬意、などの代わりに、新しいミサでは「自由」「平等」「進歩」「世俗化」「人権」「人間の尊厳」というフリーメーソン的なスローガンに基づく改革がなされているからです。

■例えば、地獄とか悪魔という言葉は変更を加えられ(死者のためのミサの中の続誦 Dies irae や、聖霊降臨後第17主日の集祷文、聖ニコラオの集祷文、レリスの聖カミロの集祷文など)、原罪(王たるキリストの集祷文)、償い(聖レイモンド・デ・ペニャフォルテ、聖ヴィアンネ、灰の水曜日後の木曜日の集祷文など)、この世のことに対する軽蔑(アシジの聖フランシスコ、待降節第2主日の集祷文、復活後第3主日の密誦など)、罪の償いの必要性(イエズスの聖心の祝日の集祷文)、教会の(聖十字架の祝日の聖体拝領誦、聖ピオ五世、カピストランの聖ヨハネの集祷文など)、誤謬の危険(離教者や異端者のための聖金曜日の祈り、聖ペトロ・カシニウス、聖ロベルト・ベラルミノ、カンタベリーの聖アウグスチノの集祷文など)、諸聖人の奇蹟(聖ニコラオ、聖フランシスコ・ザベリオ、聖レイモンド・デ・ペニャフォルテ、聖ヨハネ・デ・デオ、ローマの聖フランシスカの集祷文)などが無くなってしまっているからです。


聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


■新しいミサが導入されて以降、カトリック教会は、今、教会の歴史始まって以来の信仰の危機を苦しんでいます。教区長の許可をとって行われる、或いは教区長自身の捧げるミサとその説教の内容を見て下さい。形の上では「合法的な」ミサではありますが、内容はカトリック信仰とはますますかけ離れたものとなっており、「新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられ」、「しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめ」ています。しかし、「典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々を深く傷つけて」いるのにもかかわらず、司教たちの許可によって、事実上、推進されています。私たちはこのような権力の濫用によりカトリック信仰の生活を送ることを極めて困難にさせられてしまっています。

■従って、私たちがカトリック信仰を守るためには、緊急救命作業が必要です。カトリック教会が、その聖伝の信仰を大切にする正常な状態になるのを待っている間、霊的な死の危険にさらされている霊魂に、出来る限りの緊急の救命援助が必要です。カトリック教会で最も大切なのは、霊魂に永遠の命を与える正統な聖伝信仰だからです。

■何故なら、カトリック教会にとって最も大切なのは、信仰であり、救霊だからです。Suprema lex salus animarum. カトリック教会法典の最高法規は、救霊を目ざすものである、ということです。教会法のために霊魂があるのではなく、霊魂の救いのために教会法が存在しているからです。カトリック教会は「法至上主義」ではないからです。
 この教会の最高の法「霊魂の救い」は、今までは不文律でしたが、カトリック新教会法典にはそれが成文化されています。(Can. 1752 - ... prae oculis habita salute animarum, quae in Ecclesia suprema semper lex esse debet. )

■何故なら、私たちには、カトリック教会に純粋な信仰を求め、それを守る権利と義務があるからです。「捏造された典礼」でも「平凡でその場しのぎの産物」ない、「信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実な典礼」を求める権利と義務があるからです。

聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


■何故なら「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません。」そのような司祭や司教様は、たとえ嫌々でも、このままほっておいたのでは日本からは自然に生まれることはないでしょう。何故なら、日本では「憲法9条を世界の宝に」とか「トリエントのミサにこだわる必要はない」などという宣伝だけが幅をきかせているからです。

■ルフェーブル大司教の血の滲むような努力がなければ、聖伝のミサという「教会の信仰と祈りの中で成長してきた富」(教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙)はカトリック教会から絶滅していただろうように、日本におけるカトリック教会の将来を憂慮する愛する兄弟姉妹の皆様の努力と行動に、日本のカトリック教会の本当の再生がかかっていると信じているからです。「教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与える」(教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙)ことがどんな犠牲を払っても必要だからです。



聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!


<2007年11月の予定>


【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

09日(金)午後5時半 至聖救世主の大聖堂の奉献(2級祝日)白
10日(土)午前11時  証聖者アヴェリノの聖アンドレア(3級祝日)白
11日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半  聖霊降臨後第24主日(二級)緑
     ミサ後の祈りの後  霊的講話 カトリック教養講座

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

【!】17日(土)の聖伝のミサは、都合によりミサのみキャンセルになりました。ご了承下さい。

17日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会
     午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
18日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半  聖霊降臨後第25主日(二級)緑
     午後2時半  霊的講話 カトリック教養講座
     午後4時   グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課
19日(月)午前7時 寡婦聖エリザベト(3級祝日)白
20日(火)午前7時 証聖者ヴァロワの聖フェリクス(3級祝日)白

それでは、皆様のおこしをお待ちしております。

 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
 などをご覧下さい。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2007, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2007" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/

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【関連記事】

聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
何故カトリック教会にとって聖伝のミサがそれほど大切なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 新しいミサについて(第二ヴァチカン公会議が始まるわずか数年まえのピオ十二世の言葉)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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