Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖霊降臨後第二主日

2009年06月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2006年6月の聖霊降臨後第二主日の聖伝のミサ聖祭(東京にて)の説教が、聖ピオ十世会の日本語のサイトの「説教集」のコーナーにアップされています。ご参照までに。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ニュー・マニラでは、今日のミサ聖祭の直後に御聖体行列がありました。

皇帝の新しい旗 その3

2009年06月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アンデルセンの童話『皇帝の新しい服』をもじったお話『皇帝の新しい旗』の続きです。

 カルロス皇帝の統治の間に、伝統と栄光ある「永遠で決して滅びない」と言われた帝国は、凋落して行きました。カルロス皇帝の後継者となるべきプリンス(と言ってもカルロス皇帝の統治と寿命の長さゆえに年をとった王子です)であるフランツヨーゼフさえ、帝国のことを「沈みつつある船」にたとえたことがある程の失墜ぶりでした。

 帝国の弱体化に引き替え、カルロス皇帝の人気は抜群でした。カルロス皇帝が崩御した時、世界中の革命的でリベラルなリーダーたちは、その死を惜しみました。

 社会主義評議会連邦の党中央執行委員会発行のプラウダ紙は、カルロス皇帝を賛美して追悼していました。セントラル共産主義人民共和国だけは、カルロス皇帝を赦そうとしませんでしたが、世界中の国は、カルロス皇帝の葬儀に最高の代表を送って、その業績をたたえ、愛着を示そうとしました。これほどの人気は、かつてこの帝国の転覆を図って何百人もの秘密のエージェントを送って来た外国の国々が何十年もかけて破壊工作をしてもどうしてもできなかったことを、カルロス皇帝は一人でやりのけてしまったからだったのでしょうか!?人々は次第にカルロス大帝と呼ぶようになりました。

 しばらく喪に服した後、フランツヨーゼフが新しい皇帝となりました。世界中が彼の出方を見守っていました。

 フランツヨーゼフ皇帝は、就任の時、長い間忘れられていた帝国の言葉で演説しました。「朕、惟ふに、偉勲高けり先帝の轍を忠実に歩まんとす!」と。

 就任の最初の年のクリスマスのお言葉では、新しい帝国旗の大切さを述べ、新しい帝国旗を見て古い帝国旗を読み取り、新しい姿の下に、昔の帝国旗を理解しなければならない、新しい旗も古い旗も同一視しなければならない、と説きました。お話の内容は、つまり、黒を見て白を理解せよ、黒が黒ではなく白であると見て本当の帝国旗理解だ、ということでした。(フランツヨーゼフ皇帝は、王子時代に、新しい帝国旗と古い帝国旗とは、矛盾していると言っていました。この矛盾の乗り越える理解をするようにということでしょうか。)

 就任の翌年の七夕に、いきなり、フランツヨーゼフ皇帝は、古い帝国旗は決して廃止されていない、誰でも自由に古い帝国旗を掲げることができる、新しい帝国旗は、帝国の特別様式の旗だ、と発表があったのです。しかし、一般の帝国民にはこれが何を意味するのか良くは分かりませんでした。

 しかし、何はともあれ、40年間、天の川の洪水が帝国の過去と現在とを引き離してしまったかのようでしたが、すでにカササギのような白髪を帯びた皇帝は、天高く栄る帝国の過去と失墜した帝国の現在とをその時、結び付けようと努力したのでした。

 この旧皇帝旗復活の勅令が出された時、ルーブル大臣はすでに故人となっていました。フランツヨーゼフ皇帝はルーブル大臣のことを、皇太子時代から良く知っていました。フランツヨーゼフ皇帝はこの勅令を出しながら、何を思っていたのか、皇帝の個人的感傷は、皇帝という公務ゆえに、人民には知るよしもありませんでした。

 ルーブル大臣は、亡くなる直前に、帝国の基礎と皇帝とを革命勢力から守るように、自分の養子であるエコン氏に全てを委ねていました。エコン氏は帝国近衛兵の大将で、部下にウィルファインドザトゥルース氏やケント伯コルディリオ氏など、300名の軍人がいました。(ハリウッドの映画のスパルタの300とは全く関係がありません!)ただ、彼らは帝国のリア皇帝の永久法に従って旧旗を使い続けていたのでした。そして、そのために反逆罪の嫌疑がかけられ、カルロス大帝の統治下で、大将のエコン氏やケント伯コルディリオ氏またウィルファインドザトゥルース氏そしてルーブル大臣の4名には不当に「非国民」のレッテルが張られてしまったのです。全ては、帝国のため皇帝のためだったのにもかかわらず。しかし、故ルーブル大臣とその他の3名は、全てを帝国と皇帝とのために耐え忍ぶことでしょう。

 就任の翌々年、1月21日聖アグネスの日には、今度は、3名の名誉回復の勅令を出しました。以前の「非国民」発表は金輪際無効である、と。彼ら嫌疑をかけられた4名は、罪無くほふられた小羊(アニュス)であったが彼らの犠牲といけにえとほふりによって帝国に恵みがあったということを意味しているのでしょうか。

 しかし、全てがうまく行ったのではありません。

 これら一連の動きに、帝国内の県知事たちは不満を爆発させたのです。

(続く)

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2009年4月5日にアメリカでの、フェレー司教様のインタビューの動画

2009年06月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2009年4月5日にアメリカの聖トマス・アクィナス神学校でなされたフェレー司教様とのインタビューの動画をご紹介します。

Interview with H.E. Bernard Fellay:During an interview given at St. Thomas Aquinas Seminary on Palm Sunday 4/5/2009, the superior general of the Society of St. Pius X addresses questions regarding Bishop Williamson, the current and possible future situation of the SSPX, and the use of the Internet.

第1部 Part 1
http://www.gloria.tv/?media=27430

第2部 Part 2
http://en.gloria.tv/?media=27739


【関連記事】

【近況】ニュー・マニラの「勝利の聖母教会」で赤ちゃんの受洗:兄弟姉妹の皆様からのお手紙

2009年06月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは!今日、フィリピンのニュー・マニラの「勝利の聖母教会」では生後一週間のマリウス・セバスチアン君が洗礼を受けました。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。
(下のビデオは今回の洗礼とは直接は関係ありません)

Our Lady of Victories Church, New Manila, Quezon City, Philippines



 ブログに書くネタが切れてしまったというわけではないのですが、今日は幾つかの読者の方々からのお手紙をご紹介させて下さい。とくに御説教を書き起こしてタイプを打って下さり、ウェッブ・サイトに掲載して下さっている兄弟姉妹の愛徳の業に深く感謝をしたいと思ったからです。(但し、お便りの中、固有名などが出てくるところなどは、一部削除などをいたしました。)

 本当は、いろいろな美しい感動的なお話しやメールなどもありますが、転載無用となっております。

*****


+JMJ , Ave Maria ! ☆
小野田神父様、三位一体の大祝日おめでとうございます。
日々のブログをありがとうございます。

小野田神父様にお願いしようとしていたことがかなえられました。
それは、聖ピオ十世会の司教様・小野田神父様のお説教を掲載していただいたことです。
(浦川司教様のお説教はマニラのeそよ風に掲載くださっていましたね。)
のどから手が出るほど渇望していることを叶えてくださって
ほんとうにマリア様に感謝いたします。

早速、掲載されたお説教を家族に朗読して皆で読みました。
三位一体の天主様についてのお説教は、「そうだ、イエズス様が初めて人間に教えてくださったのだ!」と
はっとしました。そしてイエズス様に感謝しました。
私達の霊魂が、罪を避け、三位一体の天主様の生ける神殿となり、日々生きなければならない。
マリア様のような完全な神殿に少しでも似ることによって。とわかりました。
今日の三位一体の主日は、今までで一番、三位一体の天主様を思いあこがれて
迎えることができました。

どのお説教も真珠のように美しく、心に染み込んで参ります。
私達平信徒は、聖伝の聖なる司祭・司教様のお説教のおかげで、
どれほど三位一体をお愛しし、礼拝し、イエズス様をお愛しし、マリア様をお愛しする心に
なることでしょうか。イエズス様の御受難の酷さを知れば知るほど、
イエズス様をお愛しするようになりましたし、マリア様の偉大さを知れば知るほど、
マリア様をお愛しし信頼するようになりました。

いままでのお説教を全部読めたら、どんなにかすばらしいことでしょう!
(欲を出してしまいました^。^;)

天主の御母なる聖母マリア様、小野田神父様のご健康・ご活動をお護りください。
無原罪の御宿りなる聖母マリア様、御身の汚れなき御心の凱旋のため、
ロザリオと犠牲、徳の花を日々お捧げできますように御力をおあたえください。
私たちの本当の母なる愛する聖母マリア様、弱き罪人なる私達のために祈りたまえ。

---------


小野田神父様
 大阪での結婚講座の後、少しはお休みになられましたか。
秋田巡礼とその後の御ミサでお疲れになったのではないでしょうか。
 私は多くのブログの記事の中で、特に神父様の第二バチカン公会議文書と聖伝の教え対照の記事を大変楽しみにしております。

 私はあの記事を読んだ時、これはすごい、と思わず声を上げました。
というのは、殆ど全てのNovus Ordo信者が知らない事が、第二バチカン公会議文書や聖伝の引用と共に丁寧に書かれているからです。N O 信者が疑問もなく生きている体制が、第二バチカン公会議というあやふやな土台の上に立っており、実はそれはカトリックの聖伝の教えでないからである、という事が明らかにされています。・・・・

 残念ながら殆どのNovus Ordo の信者は、まずヨハネ二十三世の第二バチカン公会議のオープニングスピーチを読んだ事が無いから、その意図を知らない、第二バチカン公会議文書その物を読んだことが無い、トリエント公会議か、聖ピオ十世の公教要理を知らない、カテケージスで聖伝の教えを聞いたことが無い、最初から第二バチカン公会議体制の下で生きているから、これがカトリックとして異常な状態だと知らない、と無い無い尽くしなのです。

 特に、第二バチカン公会議文書は「第2 バチカン公会議公文書全集」という形でサンパウロから出ていますが、何人の信者がそれを家に備えているでしょう。

 この文書全集には、ヨハネ二十三世とパウロ六世の第二バチカン公会議に関するスピーチ集が載っていません。ですからヨハネ二十三世は最初からエキュメニズム、信教の自由など、新しい教えを導入する意図を持っていた事や、この公会議には司牧的公会議でインファリビリティが発動していない、というパウロ六世の発言も知る事ができません。(ご存知の通り、ヨハネ二十三世が共産主義諸国の高位聖職者を呼ぶためにソ連と取引した事も殆どの信者は知らないでしょう。使者は将来のパウロ六世でしたが、この取引に関してのヨハネ二十三世のイニシアチブは教会の恥部だと思います。)・・・

 ・・・・この「蟻の一穴」こそが神父様の記事であります。次回の記事も楽しみにしております。

【御返事】
 ご愛読をありがとうございます。
 最近の報道(Stampa)によれば、ティスラン枢機卿によってなされたソ連と聖座との秘密の協定(1962年)があったことは、そして将来のパウロ六世もそれに関わっていたことは、もう公然と事実として疑う余地がなくなりましたね。

 これからもよろしくお願いします。

至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
聖アントニオ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.


赦しの十字架像(Pardon Crucifix)をご紹介します

2009年06月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪で聖伝のミサに与る方から「赦しの十字架像(Pardon Crucifix)」についての翻訳とそれについての複数のメールを戴きました。「赦しの十字架像」の説明を、少し手を加えてご紹介いたします。

赦しの十字架像(Pardon Crucifix)


この赦しの十字架像を身に付け、崇敬する事によって、私達は隣人を赦しながら天主から赦されることを望みます。この赦しの十字架像の背面の銘には、「見よ、それほど人類を愛したこの聖心を。父よ、彼等を赦したまえ。」と書いてあります。聖ピオ十世はこの赦しの十字架像に豊かな贖宥を与えています。これを身に付け、または携帯すると、1日に300 日の贖宥が与えられます。それに接吻する毎に100 日の贖宥が与えられます。自身の罪の赦しを天主に求めながら、死の間際にこれを崇敬した時、そして教会の秘蹟を受けた或いは受けることを望んだ後、全贖宥が与えられます。贖宥聖省の長官は、十字架に接吻する時、以下の意向を持つ事を推薦しています。我等の主と童貞聖マリアへの愛を証しする為。私達の教皇聖下への感謝の念。罪の赦免を懇願する為。煉獄の霊魂の救い。信仰へ国家が立ち返ること。キリスト教徒間の赦しと、カトリック教会の成員の間での和解。この十字架は上に述べられた全ての贖宥を獲得する為に、十字架の印しによる司祭の祝別だけが必要です。教皇聖ピオ十世は、更に、赦しの十字架像に付随する贖宥は煉獄の霊魂達にも適用できると宣言しました。






-----------

 また、これに関して多くのメールも戴きました。以下に一つに編集してご紹介いたします。


おはようございます、小野田神父様

 先日の御ミサの後で、祝別をお願いしたあのPardon Crucifix に興味を持たれた方がいらっしゃいました。

 準秘蹟は数限りなくあります。

外国では有名なようですが、こんなに贖宥が付いていて、しかもとても美しいデザインのPardon Crucifix が日本で有名でないのは残念です。

私も、2005 年にHoly Cross seminary で2006 Traditional Liturgical Calendar  Sacramentals with proper feasts for Australia で写真と説明を見るまで知りませんでした。

その全文と翻訳の打ち込みをしたのですが、1時間半もかかってしまいました。

 聖ピオ十世が豊かな贖宥を付けられた、この日本では知られていない素晴らしい信心を、日本の聖ピオ十世会が広めるというのは良いと思われませんか。

日本にこれが手に入るウェブショップがあるのですが、問題は、2, 3 ドル足らずの物が数十倍以上のぼったくり値段で売られていることです。

こんなのに騙されてしまうと信者が可哀想です。

 祝別していただいたPardon Crucifix は、スターリングシルバー製、ステンレスチェーン、指輪が入っているようなボックス入りで52 ドル、送料は23 ドルで、コンサバNovus Ordo のEternal World television Network (EWTN) から手に入れました。(配送は10 日ぐらい、UPS経由でヤマト運輸が持って来ました。)

EWTN で取り扱っている物が最も美しく、しかもスターリングシルバーなのでここを選びましたが、アドレスだけをお教えすれば、欲しい方は御自分で買われるでしょうか。

私はスペアを買うつもりですが、神父様もご購入なさりたいですか。
祝別していただいた車のバイザークリップ版(ピューター製)は早速私の車に付けました。
停車中や駐車の際に目を少し上げれば、この美しい十字架をいつでも見る事ができます。
この車用セットも良いです。(12 ドル)

Pardon Crucifix の共同購入についてですが、神父様もいかがですか。
また大阪の信者のどなたか、手に入れたい方はいらっしゃいませんか。
私がたまたまスペアを買う機会があるのでこの提案をしておりますから、今回限りの提案です。


 スターリングシルバー(純銀製)なので本体価格は一つ$52.00 、送料は総計$50.01 ~ 75.00 = $23.00 ですので一個あたり$75.00 になります。

二つ購入いたしますと、送料は$100.01 ~ 200.00 = $30.00 ですので一個あたり$67.00 で手に入ります。三つですと$62.00 になります。

四つですと送料$200.01 ~ = $40.00 なので同じく$ 62.00 になります。

 円高のおかげで個人輸入が増えていますが、それと同時に個人輸入代行業者による、高い手数料を払ったのに商品が届かないなどのトラブルが増えているそうです。

私はその馬鹿高い手数料なんかを払いたくないので、一度も使ったことも無く、おかげさまで今まであった多くのトラブルも自分で解決しています。

私と一緒に共同購入なさると、長所があります。
大阪の信者の方々限定ですので、直接お渡し、直接支払いです。

$1.00 = 100 円であらかじめ計算して代金をいただき、クレジットカードの請求が来た時点で、2 円の円高ならその分をお返しし、円安ならその分をいただきます。

当然高い手数料を請求して暴利を貪ったりしません。
先払いで代金を受け取っておきながら、その後とんずらする事もありません。
もし関税が発生したなら私がお支払いします。
トラブルが起こった場合、私が交渉します。

問題は、私は円高を狙って注文しますが、普通は注文日が決済日なのに、EWTN の代金の決済は注文後何日も経ってからされる事です。

前回も円高を狙って注文したのですが、数日経った円安状態の時に決済されてしまいました。
ですから今回もその可能性があります。

 この美しくて豊かな贖宥付きの十字架が、日本では知られていないのは勿体無いと思われませんか。

この十字架に接吻する時の、薦められている意向は大変良いものばかりです。

日本ではこれが東郷平八郎の、“皇國ノ興廢此ノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ”のZ 旗信号になるかもしれません。

そして東郷は日本海海戦に勝つのです。

私も良い信心を自分だけで独占せずに、皆様と分かち合いたいと思っております。

 私の持っている銀メッキの指ロザリオは、6 年で銀が剥がれてきました。
しかもこの十字架はメッキでなく金張りですので、早く金が剥がれるのではないでしょうか。
ですから純銀バージョンの方が良いと思います。
同じ純銀でも、$ 34.00 の方はあまりイエズス様のお顔が美しくないのです。
しかしネックは、最低でも約6200 円という価格です。
最も美しくて純銀製だという事で、この価格に皆様は納得されるでしょうか。

 個人輸入の醍醐味は、外国の珍しい物を手に入れる楽しみと、いかに円高を見定めてお得に手に入れるかです。
ですから円安の為替レートで計算されてしまった時、大変くやしいです。
この十字架の共同購入は、円高が続く限りお待ちすることができます。
いかに安く手に入れるかが、腕の見せ所です。
良い信心が、大阪から発信されますように。

昨日は晴れ、朝日の下で早速デジカメを引っ張り出して撮影してみました。
説明書と首っ引きで撮影したのですが、写真って何て難しいのでしょう。
ピントが合えばフラッシュが光って全部真っ白け、フラッシュを止めるとピンボケしました。
マクロ、絞りなど、至近距離からピンボケしない写真を撮るのは大変なのですね。
まばたきもせず、一回に二十枚以上撮影しましたが・・・。

 やはりセンスが無いせいで、思ったような美しい写真は撮れません。
この十字架の美しさは、やはり実物を見ていただかないと・・・。
エコンの聖務日課とこの十字架は、今のところ残念ながらいわゆるレアアイテムです。
私だけが持っているなんて何て勿体無い。
聖伝の信者必携になればいいと思います。

エコン出版の聖務日課と赦しの十字架像。

外国の皆様は良くご存知でいらっしゃいます。
次は日本人が聖ピオ十世会を通じてこの信心を知る番でございます。

【関連記事】

クリストファー・フェラーラ著「ファチマと秋田 Fatima and Akita」(レンムナント)

2009年06月12日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 クリストファー・フェラーラさんが「ファチマと秋田 Fatima and Akita」という文章をレンムナントに寄稿しています。ご参考までに。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

【関連記事】ファチマとロザリオの十字軍

御聖体の祝日の続唱ラウダ・シオン(LAUDA Sion Salvatorem,)の日本語と韓国語

2009年06月11日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は御聖体の祝日です。聖伝のミサでは有名な続唱(Sequentia)があります。「ラウダ・シオン」という言葉で始まるもので、大変有名です。日本語訳も付けてご紹介します。また、最後には、韓国語では大変上手く翻訳されていますので、韓国語の翻訳もご紹介します。

 また、エコンの神学生たちが歌っている「ラウダ・シオン」をスイスの美しい風景を添えてYouTubeでご紹介します。(この動画については、三上教授の「けれど」で教えてもらいました。感謝!)

Lauda Sion Salvatorem


LAUDA Sion Salvatorem,
lauda ducem et pastorem,
in hymnis et canticis.

シオンよ、救い主を讃えよ、
指導者を、牧者を讃えよ、
賛歌と頌歌によって。

Quantum potes, tantum aude:
quia maior omni laude,
nec laudare sufficis.

力のかぎり、大胆になれ、
全ての賛美に優る方であるが故に、
単なる賞賛では足りぬから。

Laudis thema specialis,
panis vivus et vitalis
hodie proponitur.

賛美の特別のテーマは、
命を与える生けるパン、
これが、今日、提示される。

Quem in sacrae mensa cenae,
turbae fratrum duodenae
datum non ambigitur.

聖なる晩餐の食卓で、
十二の兄弟たちの群れに
明らかに与えられたそれだ。

Sit laus plena, sit sonora,
sit iucunda, sit decora
mentis iubilatio.

賛美は満ちあふれ、響きわたれよ、
喜びにあふれ、歓喜の精神の
美しさよあれ。

Dies enim solemnis agitur,
in qua mensae prima recolitur
huius institutio.

実に、それは荘厳な日のこと、
その日に、この制定が
最初に食卓に収穫した。

In hac mensa novi Regis,
novum Pascha novae legis,
phase vetus terminat.

新しい王のこの食卓で
新しい契約の新しい過越は、
古い過越を終わらせた。

Vetustatem novitas,
umbram fugat veritas,
noctem lux eliminat.

新しさは古きを
真理は影を追い払い
光は夜を除去した。

Quod in coena Christus gessit,
faciendum hoc expressit
in sui memoriam.

キリストが晩餐で行われたことを、
御自分の記念として
これを行うよう命じられた。

Docti sacris institutis,
panem, vinum in salutis
consecramus hostiam.

聖なる制定により教えられ
パンとぶどう酒とを
私たちは救いのホスチアと聖別する。

Dogma datur christianis,
quod in carnem transit panis,
et vinum in sanguinem.

キリスト者たちに、ドグマが与えられた、
パンが肉となり、
ぶどう酒が血と変化する、と。

Quod non capis, quod non vides,
animosa firmat fides,
praeter rerum ordinem.

あなたが理解せず見えないことを、
通常の秩序の外にあることを
生きた信仰は堅固にする。

Sub diversis speciebus,
signis tantum, et non rebus,
latent res eximiae.

いろいろな外見のもとに
物ではなく、しるしだけのもとに、
貴重な現実が隠れ給う。

Caro cibus, sanguis potus:
manet tamen Christus totus
sub utraque specie.

肉は食べ物、血は飲物に、
しかし、全キリストは
両形色のもとましまし給う。

A sumente non concisus,
non confractus, non divisus:
integer accipitur.

拝領者によって、切断されず、
裂かれず、分かたれず、
完璧に領受される。

Sumit unus, sumunt mille:
quantum isti, tantum ille:
nec sumptus consumitur.

一人が拝領しても、千人が拝領しても、
この人が受けたように、あの人も同じく、
尽き果てることがない。

Sumunt boni, sumunt mali:
sorte tamen inaequali,
vitae vel interitus.

善人が拝領するのと、悪人が拝領するのとでは、
しかし、命の或いは内的な
結果は異る。

Mors est malis, vita bonis:
vide paris sumptionis
quam sit dispar exitus.

悪人には死が、善人には命が
同じ受領が、どれ程の異なる
結末となるかを見よ。

Fracto demum sacramento,
ne vacilles, sed memento
tantum esse sub fragmento,
quantum toto tegitur.

ついに秘跡がさかれても、
ゆるがされずに、思い出せ、
一片のもとにも、
全体のもとと同じように、包まれている。

Nulla rei fit scissura:
signi tantum fit fractura,
qua nec status, nec statura
signati minuitur.

現実はさかれない、
しるしだけが砕かれる、
それによって意味された方の
状態も背丈も小さくならない。

Ecce Panis Angelorum,
factus cibus viatorum:
vere panis filiorum,
non mittendus canibus.

見よ、天使達のパンを、
旅人の糧となったこれを、
正に子らのパンであり、
犬へ投げやってはならない。

In figuris praesignatur,
cum Isaac immolatur,
agnus Paschae deputatur,
datur manna patribus.

前表において、既に予告されていた。
イザクが屠られるとき、
過越の子羊が食されるとき、
太祖らにマンナが与えられるとき。

Bone pastor, panis vere,
Iesu, nostri miserere:
Tu nos pasce, nos tuere,
Tu nos bona fac videre
in terra viventium.

よい牧者よ、まことのパンよ、
イエズスよ、われらをあわれみたまえ。
われらを牧し、われらを守り、
生きる人々の地において、
我らをして善を見させ給え。

Tu qui cuncta scis et vales,
qui nos pascis hic mortales:
tuos ibi commensales,
coheredes et sodales
fac sanctorum civium.

御身は、すべてを知り、おできになり給う、
ここで死すべき我らを牧し給う。
あそこで御身と共に食卓に着く者として
共に天の遺産の相続者としてまた友人として、
諸聖人の市民として我らをなさしめ給え。

アーメン、アレルヤ。

1.
시온이여 찬송하라.
목자시요 인도자신
구세주를 찬양하라.

2.
만유 위에 높으시다.
미약하온 우리 인생
찬송할 능 부족하다.

3.
초성생명 주시도다.
천상양식 묘한 성사
오늘 특히 찬송하라.

4.
거룩하온 저녁이라,
열두 종도 이 양식을
주 예수께 영하였다.

5.
유쾌하게 찬미하라.
즐겁고도 명랑하게
용약하며 찬송하라.

6.
기념하올 저녁이라,
오주 예수 이 잔치를
설정하신 날이로다.

7.
새 임금의 잔치로다.
새 희생이 새 법으로
낡은 예식 없이하다.

8.
새것 오니 옛것 간다.
진리 광명 찬란하니,
암흑미망 간데없다.

9.
주 예수의 명이시다.
저녁상에 행하신 예
기념하여 계속하라.

10.
거룩하온 명이시라,
떡과 술을 축성하여
희생으로 봉헌하다.

11.
오묘하온 도리로다.
떡과 술로 주 예수의
살과 피를 이룸이라.

12.
우리 지식 못미친다.
오직 굳센 신덕으로
이 도리를 믿을찌라.

13.
다만 면주 형상이나
만유위에 높이실 이
그 가운데 계시도다.

14.
피와 살을 음식하나,
그 둘 안에 그리스도
온전하게 계심이라.

15.
주 예수를 영함이라,
저의 체는 나누지도
없애지도 못하도다.

16.
단 한 사람 영하거나,
천만 사람 영하거나,
같은 체를 영함이라.

17.
선인 악인 다 영하나,
선인에겐 영생이요,
악인에겐 멸망이라.

18.
선한이겐 생명이나
악한이겐 죽음이니,
그 효과는 각각이라.

19.
면병 천만 나누어라.
나누어진 떡속마다,
오주 예수 계시도다.

20.
주의 체는 못나눈다.
오직 면형 나누나니,
오주 항상 완전하다.

21.
천상떡을 볼찌어다.
인생양식 되셨으니,
개에게는 주지 말라.

22.
이사악의 희생이나
바스카나 만나 역시
이 성사로 표하도다.

23.
참 목자신 예수시라,
우리 인생 기르시며
영생 인도하옵소서.

24.
전능 전선 오주시라,
천당 잔치 영복 속에
우리들을 들이소서.

아멘. 알렐루야.

【関連記事】

2009年の聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真を幾つかご紹介します。

2009年06月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様。

 2009年の聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真を幾つかご紹介します。

 これらは、全てLa Porte Latineにあります。

2009年の聖ピオ十世会(SSPX)による聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真 Pilgrimage of Catholic Tradition.

2009年の聖ピオ十世会(SSPX)による聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真 Pilgrimage of Catholic Tradition.

2009年の聖ピオ十世会(SSPX)による聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真 Pilgrimage of Catholic Tradition.

2009年の聖ピオ十世会(SSPX)による聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真 Pilgrimage of Catholic Tradition.

2009年の聖ピオ十世会(SSPX)による聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真 Pilgrimage of Catholic Tradition.

2009年の聖ピオ十世会(SSPX)による聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真 Pilgrimage of Catholic Tradition.

2009年の聖ピオ十世会(SSPX)による聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真 Pilgrimage of Catholic Tradition.


From: Dominus vobiscum

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2009年3月22日付のカトリック新聞(第3996号)の記事「全世界の司教に書簡で」を読んで

2009年06月10日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇ベネディクト16世は、「ルフェーブル大司教に叙階された4司教の破門解消について」と題された書簡を、カトリック教会の全ての司教らに宛てて記されました。

 この書簡は2009年3月10日付のもので、バチカンの広報局を通して、3月12日に発表されました。それについて、聖ベネディクトの祝日に当たって、教皇様のお手紙を読んで思ったことを私はひとり言のように述べたことがあります

 その後、3月の東京の私たちの聖伝のミサの時に、私は2009年3月22日付のカトリック新聞(第3996号)の一面のコピーをいただきました。それを見て感想を述べることを今回はお許し下さい。

 私たちには、カトリック教会一般の態度を見て、次の二つに一つしか選択の余地がありません。つまり「自己矛盾をしている」それとも「論理一貫している」のどちらかです。

 どういうことかというと、次の譬えを聞いて下さい。これは単なるたとえばの話です。
 例えば、日本の漁業実習船『えひめ丸』が米国の攻撃型原子力潜水艦『グリーンビル』に激突され沈没した時は、アメリカに「正義」の名前をかざして非難囂々の声を挙げつつ、北朝鮮の工作船が日本海域を侵犯しそれを咎めた日本の巡視船に攻撃を仕掛けても、その時には沈黙をしている、というのは、本当の「正義」なのでしょうか?「正義のダブルスタンダード」であり「自己矛盾」のように思われます。

 それともある意味における「正義」という一つの論理に従って動いているのかも知れません。つまり「貧しい側は必ず正義だ、金持ちの側は必ず悪だ」という論理です。つまり、このような「正義」を振りかざしている人々の態度をみると、「自己矛盾をしている」それとも「論理一貫している」のどちらかであると言えるのではないでしょうか。

 或いは、北朝鮮が原子力爆弾を開発するなら、北朝鮮が悪いのではない「核を保有することがあたかも自国を守る最大の武器であるという誤った論理」に騙されているだけだ、北朝鮮のみならず国際社会が騙されているのが悪い、北朝鮮はその論理に従っただけだ。だから、まず国際社会が「核兵器が戦争の抑止になる」というような考え方とは決別すべきであり、核を保有する国、核開発を試みようとするすべての国が、まず一切の核開発と保有を放棄するだ、というのは、本当の「正義」なのでしょうか?

 それともある意味における「正義」という一つの論理に従って動いているのかも知れません。つまり「貧しい国は必ず正義だ、それ以外は必ず悪だ」という「正義」という名前を振りかざす論理です。

 さて、カトリック新聞に話を戻します。カトリック新聞は、しかめっ面をして聖ピオ十世会の話題を掲載します。

 この第一面のトップ記事は、「教皇」が「遺憾を表明」した内容についてです。私は教皇様のこの書簡の日本語訳の全文を数日前に参考資料としてご紹介しました。しかし、このカトリック新聞の記事を読んだだけでは、何が何のことだかさっぱり分からないようになっています。何故なら、いきなりウィリアムソン司教の話が挙げられ、見出しは「全世界の司教に書簡で」「4司教の破門赦免で起きた混乱に対応」となっており、ネガティヴなことだけが強調されており、全体像がつかめないようになっているからです。

カトリック新聞


 また「教皇は・・・聖ピオ十世会が教会との完全な交わりに復帰するには第二バチカン公会議の受け入れが条件になると指摘した」としていましたが、教皇様は書簡の中でそうは言っていません。これは全くのウソでした。何故なら、どこにもそうは書いてないからです。

 教皇様はこう言っています。「このジェスチャーは該当者が教皇と教皇の牧者としての権威の原理を認めることを彼らが表明したことで可能だったのです。それは、たとえその教義上の権威と第二バチカン公会議の権威とへの従順について、留保をつけてであったとしてもです。

 何故なら、教皇様御自身1988年7月13日に、教理と信仰聖省の長官として、第二バチカン公会議がいかなる教義をも決定したわけではないこと、単なる司牧公会議としてあることを選んだことについて、チリのサンチアゴで、司教評議会にこう言っているからです。

「ルフェーブル大司教に反対して第二バチカン公会議を有効であり[ママ]教会を建設するものとして守ることは必要な仕事です。確かに、第二バチカン公会議を孤立化する狭いメンタリティーがありますが、それがこの反対を挑発したのです。その多くの例があり、それは第二バチカン公会議以後全てが変わってしまった、そして公会議以前のものは全く価値がないか、あるいは良くても第二バチカン公会議の光のもとにしか価値がないという印象を与えています。第二バチカン公会議は、教会の生ける全聖伝の一部としてではなく、単に聖伝の終わりとして、ゼロからの新しい始まりとして取り扱われてきました。真理は、この公会議はいかなる教義をも決定したわけではない、ということです。そして故意に、単なる司牧公会議としての慎ましいレベルに止まることを選んだのです。しかしながら、多くの人々はこれをそれ自身で、その他の全ての(公会議の)重要さを取り除くある種の超教義(スーパー・ドグマ)であるかのように取り扱っています。

 また、「カトリック教会の教導の権威を1962年で凍結することは出来ません。 ---- このことは聖ピオ十世会にとっても明らかでなければなりません。」という文章は、これは第二バチカン公会議の無条件の飲み込みを意味したことではないということが、教皇様にも聖ピオ十世会にも誰にも明らかです。

 聖ピオ十世会総長はすぐにこう報道発表しています。
「聖伝を1962年において停止させてしまおうなどと思うどころか、私たちは第二バチカン公会議と公会議後の教えを、聖伝の光に照らして、つまり過去との断絶のない完全に同質な発展におけるものとして聖ヴィンチェンチオ・デ・レラン(Saint Vincent de Lérins)が「常にどこででも全てによって信じられてきたこと」(コンモニトリウム)として定義したこの聖伝の光によって考察することを願っています。このようにしてこそ、私たちは、主イエズス・キリストから要求された福音宣教(マテオ28:19-20)に効果的に協力することができることでしょう。」

 また、フェレー司教はインタビューに答えて、こう言います。
「私たちは聖伝を1962年でストップさせようとは望みません。私たちが教会の全ての教えに、その全ての発展とともに、その誕生から1960年代まで従うことができたのは、私たちはよく言われるように「固定」しているわけではないということを意味しています。
 私たちが第二バチカン公会議を問題としているのは本当です。しかしながら第二バチカン公会議自身が「司牧公会議」として自分を定義したのであって「ドグマを決める公会議」として規定したのではなかったのです。このことは聖伝の継続においていかなる革新も生まれてこなかったということ、聖伝の継続においていかなる革新も挿入することが明白にできないということによっています。
 聖伝とは、教会の教えによれば、天主からの啓示の源泉であり、人間の手のなかのおもちゃではない(それが聖伝主義者たちの手であれ)ということを思い出しましょう。
 この聖伝の領域の発展は同一性を保たなければなりません。暗示的なことから明示的な表現へと歩むことでもありうるのです。しかし数世紀もの間教えられてきたことの反対ではありえません。教会の存在理由は、教皇によって指導されつつ、私たちの主イエズス・キリストによって委ねられた信仰の遺産の保全であります。」


 カトリック新聞によって捏造された「聖ピオ十世会が教会との完全な交わりに復帰するには第二バチカン公会議の受け入れが条件になる」という条件ですが、例えば、第二バチカン公会議の最初の文献「典礼憲章」(1963年12月4日)には何と書かれているのでしょうか? 

22(典礼の規制権)「従って、他の何人も、たとえ司祭であっても、自分の考えで、典礼に何かを加え、除去し、変更してはならない。」
36(典礼言語)「ラテン語の使用は、ラテン典礼様式において遵守される。」
116(グレゴリオ聖歌と多声音楽)「教会は、グレゴリオ聖歌をローマ典礼に固有な歌として認める。従ってこれは、典礼行為において、他の同等のものの間で、名誉ある地位を占めるべきである。」
とあります。

 日本ではこれらの第二バチカン公会議の規定が守られている教会は一つもありません。これが意味することは、日本の諸教区は第二バチカン公会議を完全に受け入れていないのであり、日本の教会は、カトリック教会との完全な交わりにはないのでしょうか?

 それでは「第二バチカン公会議を受け入れる」とはどういうことなのでしょうか?

 カトリック新聞の振りかざす正義である「第二バチカン公会議を受け入れる」とは、いったい何のことなのでしょうか? この条件がなければ、微笑んでもくれず、厳しい顔つきで睨まれたままで、教会内でいかなる発言権もなく、意見も言うことが許されず、会談も出来ず、ただ無視され続けなければならない、というその正義とはいったい何なのでしょうか?

 同じ2009年3月22日付のカトリック新聞(第3996号)の一面には、教皇様がイスラエルのユダヤ教主席ラビであるシャエルヤシュフ・コーエン師と笑顔で会談している写真が掲載されています。

 カトリック新聞は同じ紙面で、大きなニコニコ顔で、その隣に、「教派越え、神学生集う」「出会い、気付き、励まされた」という記事を載せています。

プロテスタントと聖公会、カトリックの神学生に交流の機会を提供しようと、日本クリスチャンアカデミー関東活動センターは、3月9日から11日、東京三鷹市にあるナザレ修女会(日本聖公会)で、第一回「神学生交流プログラム」を行った」と、日本基督教団の関田寛雄牧師が「校長」となり、七つの神学校から二人づつ神学生が十四名集って「学びや意見交換を通じて親交を深めた」とあります。当初は不安もあったと言うが、最終日には「出会いの中で気づき、励まされたと喜びの声が次々に上がった」とし、「カトリックの宮内毅神学生は立場の違いを超えて交わる中での恵みは多く、「変えられること」の大切さを感じたと話した」と積極的で好意的な報道をしています。写真の説明に「最終日、率直な話し合いに笑顔も」ともあります。

 同じ2009年3月22日付のカトリック新聞は、日本キリスト教連合会定例会の報道もしています。日本キリスト教連合会は、2月26日、東京・西早稲田のキリスト教会館で2008年度第2回の定例会を開き、カトリック、プロテスタント各教派教団から20人余りが集まったとしています。

 カトリック新聞の振りかざす正義である「第二バチカン公会議を受け入れる」とは、いったい何のことなのでしょうか? この条件がなければ、微笑んでもくれず、厳しい顔つきで睨まれたままで、教会内でいかなる発言権もなく、意見も言うことが許されず、会談も出来ず、ただ無視され続けなければならない、というその正義とはいったい何なのでしょうか? しかし、カトリック教会とは全く無関係に機能し組織を持ち動いている、第二バチカン公会議なども存在しないはずの(?)プロテスタントや聖公会には、同じキリスト教だとニコニコ顔で、出会い、意見を交換し、励まされ、立場の違いを超えて交わることが許されるという正義とは、いったい何なのでしょうか?

 同じ2009年3月22日付のカトリック新聞は、「正平協ソマリア沖自衛隊派遣に抗議」という記事も掲載しています。

「日本カトリック正義と平和協議会(会長=松浦悟郎司教)は3月13日、アフリカ・ソマリア沖の「海賊対策」のための海上自衛隊派遣に反対、抗議する声明文を出した。声明は麻生太郎内閣総理大臣に宛てたもので、「海賊問題」は、内戦で職を失ったソマリアの漁師たちの自己防衛と、大国の海洋支配への反発が原因と指摘」とあります。

 それなら、日本のあらゆる教区の教会で(第二バチカン公会議の規定に反して)、司祭が自分の考えで、日本語で、典礼に何かを加え、除去し、変更し、手による聖体拝領を強制し、手作りの教会を作っているからこそ、また、決して廃止されたことのない聖伝のミサが事実上廃止・禁止されているからこそ、行く教会を失った日本の信者たちが、自己防衛のために、しかたなく、人々は生き残り作戦をとらざるを得なくなっているは、また、リベラリズムと進歩主義と団体主義とエキュメニズムと異端によって教会が支配されていることが原因で、信仰を守るためには、仕方なく、生き残り作戦をとらざるを得なくなっているのは、どうなのでしょうか?


 だから、私たちには、カトリック教会一般の態度を見て、次の二つに一つしか選択の余地がありません。つまり「自己矛盾をしている」それとも「論理一貫している」のどちらかです。

 カトリック教会とは全く無関係に機能し組織を持ち動いている、第二バチカン公会議なども存在しないはずの(?)プロテスタントや聖公会には、出会い、意見を交換し、励まされ、立場の違いを超えて交わることが許され、カトリック教会が昔から2000年間信じ続けてきたことを信じ、愛し続けてきたことを愛そうというカトリック教会の息子たちは、教会内でいかなる発言権もなく、意見も言うことが許されず、会談も出来ず、ただ無視され続けなければならないという事実です。

 これは「自己矛盾」なのでしょうか? それともある意味における一つの論理に従って動いているのでしょうか? つまり、カトリック新聞にとって、本当の友かつ味方は「カトリック教会とは全く無関係に機能し組織を持ち動いている非カトリック宗教」であり、本当の敵は「カトリック教会の聖伝」であるという論理、つまり、もはや実質上カトリックではない論理にしたがっているのでしょうか?(つづく)

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

【関連記事】2009年3月10日の手紙

御聖体の祝日

2009年06月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明後日は、御聖体の祝日です。世界中で捧げられる聖伝のミサ聖祭に心を合わせて、御聖体にまします私たちの主イエズス・キリストを賛美してください。

 また、明日からは、来週の金曜日の私たちの主イエズス・キリストの聖心の祝日の準備のノベナ(九日間祈祷)が始まります。

 ちなみに、ここケソン・シティーでは、明日の午前9時から午後9時ごろまで、停電の予定だそうです。よろしくご理解をお願いいたします。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

皇帝の新しい旗 その2

2009年06月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 新しいことが大好きだった皇帝は、新しい旗を発表すると間もなく崩御し、新しい旗にふさわしい新しい皇帝の御世になりました。

 若くして玉座を後継した新皇帝カルロスは、帝国の新しい時代を始めました。父君の偉功を続けるために、第二帝国旗にふさわしい新しい方針を打ち出しました。新しい帝国旗に合わせて、帝国憲法を改訂しました。教育勅語を改訂しました。学校制度も変わりました。州が、多数の小さな都道府県になり、県知事の数が増えました。選挙制度も変わりました。軍隊の制度を改訂しました。帝国の国語も方言中心に多様化させました。国技も改訂しました。多くの人権委員会が出来ました。帝国内にあった十字架を出来る限り卍型に変えました。ヘビもつけました。

 皆は、これらの変化を第二帝国旗の精神と呼んでいました。これは魔法の言葉で、誰も逆らうことが出来ませんでした。おかしいな、と思っても、帝国は変わりがない、良くなっている、昔と同じだと互いに言いあっていました。

 とりわけ目立った変化は、今まで帝国の敵対国と考えられ、帝国の版図を常に縮小させようと狙い、一方的に侵略を試みていた国々に対して、融和政策を打ち出し、それらの国民たちに一方的に選挙権と参政権を与えたことです。さらに、帝国領土も開かれた土地として、外国に自由に占拠させ使用を促したのです。学校では、帝国の言葉よりも、外国の言葉で勉強するのが普通になりました。

 すべては、第二帝国旗の精神です。

 今までは想像することさえ出来ないこと、口にすることさえ恐ろしいことでしたが、皇帝は自分は帝都の都知事で県知事の一人に過ぎない、と言い出し、古代から伝わった皇帝の権威の象徴の神器である三種の冠を放棄しました。

 カルロス皇帝は、近隣諸国に帝国の過去の歴史を一方的に謝罪しました。友愛のしるしに、帝国の皇后陛下以外の女性たちとの親しい交流が始まりました。皇后陛下は悲しい思いをしていたはずですが、報道されませんから国民は知りませんでした。これは、昔なら考えられなかったことです!!

 国民は当惑しましたが、新しい時のしるしを読め、新しい建国だ、おまえは皇帝よりも偉いのか、皇帝よりも帝国的なのか、と言いあっていました。

 ある人々は真理などない、と言いました。ある人々は、いや、真理はある、しかし誰にも分からない、と言いました。またある人々は、真理はあるが、真理などどうでもいいのだ、真理も間違いも同じく良いものだ、大事なのは、人数だ、権力だ、と言いました。仕事ができて、メシが食えて、みんなと楽しくあれば、真理なんかどうでもいいのだ、真理、真理などというから大同団結できなくなる、それでは数が取れない、帝国を動かせない、私たちにはそれが何であれ御旗が必要だ、錦の御旗がありさえすればいい、勝てば官軍だよ!と言う人もいました。

 カルロス皇帝の御世は、年ごとに凋落していきました。安い給料の公務員になりたい青年たちがいなくなりました。医者や看護婦さんになりたい青年たちもいなくなりました。特に、看護婦さんたちが真っ白の慎み深い制服をやめて、普通のおばさんのようになった病院では、とみにそうでした。警察官になりたい青年たちもいなくなりました。軍隊に入隊したいなどという青年は、ほとんどなくなってしまいました。軍人さんの平均年齢は年々増加し、しばらくすると65歳とも70歳とも言われるようになります。その時は、あと数年で帝国から帝国軍が消滅すると噂されることでしょう。だから、その時に備えて、国民たちが射撃訓練をしたり、病院にボランティアに行ったりし始めたのです。

 問題はそれだけでなく、多くの帝国民は外国に移民を始めたことでした。特に昔から皇帝に対する忠誠心の強かった地域では反動的に反帝国的、反皇帝的になってしまいました。今まで自分たちは間違いをしていた、帝国主義は懲りた、と無関心になった多くの国民がいました。

 若きカルロス皇帝に危機について進言する人々は、いなかったわけではありません。ルーブル大臣は、時あるごとに、皇帝にその憂慮を伝えていました。しかし、皇帝にはよく理解出来なかったように思われます。カルロス皇帝は、先祖の皇帝たちの偉業はほとんど語らず、父君と新しい帝国旗のことだけを語り続けたからです。

 ルーブル大臣は、皇帝から煙たがられるようになってしまいました。マスメディアは、これを機会にルーブル大臣を非難する報道を開始します。記事の見出しはだいたい、非国民ルーブル、です。マスメディアにとって売れれば良いのですから、ますますセンセーショナルな記事を書きたてていました。

 不幸中の幸いは、マスメディアによって、ますますルーブル大臣の存在が国民に知られるようになったことです。中には、シャーロック・ホームズの国からわが帝国に移民してきたウィルファインドザトゥルース氏や、バチカン近衛兵を多く生み出した永世中立国の名門家系からのエコン氏、帝国の名門ケント伯コルディリオ氏などが出て、ルーブル大臣を助けるようになったことです。

 ルーブル大臣は、誤解されても皇帝のため、帝国のため、それだけを考えていました。彼は、以前、帝国一の帝国大学を主席で卒業し、帝国の皇帝代理、帝国全権大使、州知事などの要職を歴任し、皇帝に使えてきた人です。帝国史や法令のことに精通していました。

 ルーブル大臣は、帝国旗が建国の当時からの歴史があること、今から500年ほど前に内乱があった時、当時の皇帝リアが昔の旗を永世の旗して定めたこと、第二帝国旗は法令的にはいかなる義務化もないこと、昔からの帝国旗は法令によって一度も廃止されていないこと、また新しい旗は帝国の基礎である天主教を暗黙のうちに否定し、新しい民主教に入れ替えられている、などの事実を指摘したのですが、誰も耳を貸そうとしませんでした。ルーブル大臣を非難し排斥するだけでした。

 こうして、カルロス皇帝の40年という長い御世が過ぎていきました。帝国始まって以来の、苦しみの時代、内乱や戦争や疫病や飢饉よりも恐ろしい急激な失墜の時代でした。

(続く)

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会による2009年の聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)の写真をご紹介します。

2009年06月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様。

 2009年の聖霊降臨の巡礼(シャルトル・パリ)は今年も成功裏に終わりました。幾つかの写真のある場所をご紹介します。

Reportages 2009 du Pèlerinage du Sacré Coeur

●2009年5月30日シャルトルにて、約5000名が聖伝のミサに参加しました。



 出発の時の様子


2009年5月30日その3


2009年5月30日その4


2009年5月30日その5

2009年5月30日その6


●2009年5月31日、聖霊降臨の主日


ビデオ:フェレー司教様のお話し


 2009年5月31日、聖霊降臨の主日その2

 2009年5月31日、聖霊降臨の主日その3


司教荘厳ミサ

フェレー司教様の御説教を聞くには、ウェッブ・サイトの写真をクリックして下さい。


●2009年6月1日


パリに到着

パリにて、エッフェル塔の下を行進する。


2009年6月1日のミサ聖祭その1

2009年6月1日のミサ聖祭その2

パリ市内行列のビデオ(↓これを是非ご覧下さい!すごい!)
Etraits de l'arrivée du pèlerinage Chartres-Paris dans les rues du XVème arrondissement de Paris à proximité de l'Ecole militaire, en direction de la place Vauban.

パリ市内行列のビデオ:エッフェル塔に到着(↓これも是非ご覧下さい!すごい!)
Arrivée du pèlerinage Chartres-Paris entre le Trocadéro et la Tour Eiffel.



ドイツ管区のフォト・リポート

【関連記事】写真

皇帝の新しい旗

2009年06月07日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 有名なアンデルセンの童話がありますね。日本では普通、『裸の王様』と言われていますが、その直訳は『皇帝の新しい服』と言います。そこで私は「服」を「旗」に取り替えて似た話を考えてみました。

 新しいものが大好きな皇帝のもとに、何人かの詐欺師がやってきます。一人は、もし正確に名前を聴きとったなら、カーブ・ランナー、もう一人はイブス・コンガーリ、またウォーター・カストールなどという名前でした。まだまだいましたが名前は覚えきれません。

 詐欺師らは皇帝に、自分たちは帝国の昔の旗を新しい旗に変える必要があると言います。昔ながらの旗はそのままで、ただ現代人に合う旗を作ってみよう、新しい御旗は義務化しない、昔のと同じ意味だ、ただ現代人のメンタリティーに合わせて作ってみるすることができると言いました。Googleのロゴだって、時には変わるが、同じGoogleだ、人々はロゴではなくサービスを求めている、旗もデザインではなく内容だ、と口説いたそうです。

 ただ付け加えて、新しい御旗は特別で、皇帝に逆らう心を持っている人には違う意味に取れ、正しく理解できない、と詐欺のデザイナーたちは言いました。

 そこで新しいアイデアに従って、旗のデザインが変えられました。今までは旗に十字架のデザインがありましたが、カトリックではない人々を傷つけないように、仏教の卍型のようにしました。(ナチスの逆卍ではありません!)赤十字のしるしもこの頃は変わったからと言って、卍には、はい上るヘビも付け加えました。

 十字架の上にはイエズス・キリストがかかって描かれてましたが、これからは磔られた姿ではなく万歳をしている復活の姿になります。

 今まではラテン語で、周りに信仰、希望、愛と書かれていましたが、詐欺師たちはラテン語は誰も分からないからと帝国の国語で、自由、平等、博愛と書きました。帝国の臣民たちは、少数の例外を除くと、意味が変わったことに気がつかず、ラテン語でないことだけに注意が向けられるだけでしょう。

 旗の生地はまっ白でしたが、青、黄色、赤と三色にしました。なぜなら他の共和国の旗がそうだから、それにならって三形色にしたそうです。しかし一般には、ノエの子孫らを代表し、青は白人、黄色は黄色人種、赤は肌の色が濃い人々を象徴すると言われていました。

 他の国の旗には月が描かれているのもあるので、カーブ・ランナーの提案で、三日月が付け加えられました。

 別のウォーター・カストールの考えで、帝国内の労働者のしるしにサンダルも描かれました。これは俗に「阿倍野55の提案」と言われているそうですが、詳しいことはよく分かりません。

 新しい旗の余白には、自由にどんなデザインでも好きに入れて良いことになりました。他国との対話と多様性の豊かさと建築的世界、開かれた心を象徴するためだそうです。これはイブス・コンガーリの考えです。そのために、今まで描かれていた聖母マリア様の姿は消えることになりました。

 新しいデザインを見て、皇帝は少し不安になったようでしたが、旗を現代化する(イタリアの言葉でアジョルナメントとも言われていました)ことにとらわれていたようです。どっちみち、旗は義務化されないので、帝国が世界中の国から理解されて愛されるために、皇帝としては旗をどうしても新しいデザインにしたかったと思われます。

 皇帝の大臣の中には、例えばオクタビスルノ大臣のように反対する者もありました。ルーブル大臣も反対意見でした。特に、シンボルが変わり意味も変わってしまうと主張していました。

 しかし、皇帝がこれでも良いとしてしまい、デザイナーらの主張によると皇帝に逆らう人は正しい理解が出来ない不思議のデザインだというので、人々はおかしく見えてはならないと信じてしまいました。

 こうして華々しく、帝国の御旗は認可され、デビューしました。第二帝国旗時代が始まったのです。帝国は、ますます栄え、臣民は豊かになり、春のような開花の時代が来るだろうと噂されました。

(続く)


天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2009年3月10日付けベネディクト十六世教皇聖下の手紙:破門解除について

2009年06月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 翻訳をするのに、今まで手間取ってしまっておりましたが、2009年3月10日付けのルフェーブル大司教によって聖別された四名の司教の破門解除に関するベネディクト十六世教皇聖下のカトリック教会の司教たちへの手紙の日本語訳をご紹介したいと思います。

 コンピューターのスクリーンでも読みやすいように、原文では一段落のところでも幾つかの段落に区切ってあります。

ベネディクト十六世教皇聖下のカトリック教会の司教たちへの手紙
ルフェーブル大司教によって聖別された四名の司教の破門解除について


司教聖務における親愛なる兄弟たちよ、

 ルフェーブル大司教によって聖座の許可なしに1988年に聖別された四名の司教たちの破門を解除は、多くの理由により、カトリック教会の内外において、激しい論争を引き起こしました。この激しさは極めて長い間もはや無かった程でした。この出来事は、突然引き起こり、今日のカトリック教会の問題と責務とにおいて肯定的に位置づけるのは難しいものであり、多くの司教たちを困惑させました。

 多くの司教たちと信者たちは、言われるまでもなく(アプリオリに)、教皇の和解への態度を肯定的に捉えるよう準備が出来ていたとしても、しかしながら、現代における信仰生活の本当の緊急性に直面して、そのようなジェスチャーが適宜なものであるかという疑問がそれに反対していました。

 むしろその反対に、ある複数のグループは教皇をして、第二バチカン公会議以前の時代に後戻りしようと望んでいるとあからさまに攻撃しました。そこから、激しい抗議の大波が引き放たれ、その苦々しさは現在を遡る古傷を現していました。

 親愛なる兄弟の司教たちよ、だからこそ私はあなたたちに何らかの説明を与えるように導かれたのです。この説明は私自身をしてまた聖座の担当期間をしてこの一歩を踏み出すように導いた意向を理解する助けとなるでしょう。私はこうしてカトリック教会における平和に寄与することを期待します。

 ウイリアムソンの件が破門の解除と重なりあった事実は、私にとって予測のできない悲惨なことでした。有効に叙階された、しかし非合法的に叙階された四名の司教に対する慎み深い憐れみのジェスチャーが、突如として全く別のものとして現れたのです。つまり、キリスト者とユダヤ教徒の間の和解の否定として、従って、このことについてのカトリック教会の道行きのために第二バチカン公会議が明らかにしたことの撤回として現れたのです。


 離別の過程に巻き込まれている教会の一グループとの和解への招きは、こうしてその反対のものと変容したのです。つまり、第二バチカン公会議以後なされたキリスト者とユダヤ教徒たちとの和解の全ての歩みに関して、見かけ上の後ろ戻りすることに変容したのです。ところでこの歩みは、その分かち合いと促進は、最初から、私の神学者としての個人的な仕事の対象だったのです。

 これら二つの相反する過程の重なりが起こったこと、そしてこれがキリスト者とユダヤ教徒との間の平和を、そしてカトリック教会内の平和を一時揺るがしたことは、私にとって深く嘆くばかりのことです。インターネットによってアクセス出来る情報を注意深く追っていたなら、問題を直ぐに知ることが出来ただろうと言われました。私はこのことから教訓を得て、将来、聖座において、私たちはこの情報源にもっと注意を払うべきでしょう。

 私は、カトリック者でさえも、それが何であったのか、奥深くもっと良く知ることができたはずのカトリック者でさえも、いつでもあからさまに出来る敵意を持って私に侮辱しなければならないと考えたことという事実に苦しみました。

 正にこのためにこそ、すぐに誤解を打ち消し友情と信頼の雰囲気 --- ヨハネ・パウロ二世の時にそうであったように、そして私の教皇職の全ての時期にわたっても存在していたし、ティシエ・ド・マルレ司教様の御恵みによって存在し続ける友情と信頼の雰囲気 --- を再建しようと助けてくれたユダヤ教の友人たちに感謝します。


 私を心から悲しませるもう一つ別の誤りは、2009年1月21日の措置の範囲と限界が、その発表の時に充分明確なやり方でコメントされていなかったという事実にあります。破門は個人に関わるもので、組織に関わるものではありません。教皇の許可(mandatum)無しの司教叙階は、離教の危険があることを意味します。何故ならこれは、教皇とともにある司教団の一致に疑問を投げ掛けることだからです。だからこそ、カトリック教会は破門という最も厳しい罰則によって対応しなければならないのです。それは、このやり方で罰を受けた人々を後悔と、一致とに呼ぶ目的のためです。

 叙階後二十年がたちましたが、この目標は残念ながら達成されていません。破門の解除は、罰がなされる同じ目的を目ざしています。つまり、もう一度、四名の司教を回帰に招くことです。

 このジェスチャーは該当者が教皇と教皇の牧者としての権威の原理を認めることを彼らが表明したことで可能だったのです。それは、たとえその教義上の権威と第二バチカン公会議の権威とへの従順について、留保をつけてであったとしてもです。

 私はここで個人と組織との区別に話を戻します。破門の解除は、教会規律の領域における一措置でした。教会の最も厳しい罰が構成する良心の重荷から個人が解放されました。この規律の水準と教義上の領域とを区別しなければなりません。聖ピオ十世会がカトリック教会内で教会法上の地位(position canonique)を持っていないことは、結局のところ、規律上の理由ではなく、教義上の理由に基づいています。

 聖ピオ十世会がカトリック教会の中で教会法上の地位をもたない限り、その役務者らは教会の中で合法的な役務(ministères légitimes)を行っていないことになります。次に、個人としての個人にかかわる規律のレベルと、その役務と組織がそこにある教義上のレベルとをと区別しなければなりません。

 さらにもう一度正確に言うと、教義に関する問題が明確にならない限りは、聖ピオ十世会はカトリック教会内で如何なる教会法上の地位(statut canonique)も持たず、そしてその役務者達は、 --- 彼らが教会法上の罰から解放されたとしても --- カトリック教会中のいかなる役務も合法的に行使してはいません。


 この状況の光のもとに、将来、エクレジア・デイ教皇庁立委員会 --- 1988年以降、聖ピオ十世会或いはそれと似たグループに由来する、教皇と全きの交わりに立ち返りたいと望む共同体と個人のための担当組織ですが --- を教義信仰聖省に所属させる意向をもっています。かくして、現在、取り扱われるべき問題は、本質的に教義上の本性を持ったものであり、特に、第二バチカン公会議と公会議後の教皇たちの教導権の受入れに関するということが明らかとなります。

 団体的諸組織(organismes collégiaux)、--- 教義信仰聖省はこれらと共に提示される問題に取り組むのですが --- (特に、毎週水曜日の枢機卿たちの会合と毎年の或いは二年ごとの総会)は、ローマ諸聖省の長官たち、また世界中の司教の代表たちが、なすべき決定をするに当たってその参加を保証します。 カトリック教会の教導の権威を1962年で凍結することは出来ません。 ---- このことは聖ピオ十世会にとっても明らかでなければなりません。しかしながら、自らを第二バチカン公会議の偉大な擁護者として宣言する人々の一部に、第二バチカン公会議がカトリック教会の教義の全歴史を包含していることを思い起こさせる必要があります。第二バチカン公会議に従順であることを望む人は、数世紀にわたって宣言された信仰を受入れなければならず、生きている木の根を切ることは出来ません。


 親愛なる司教兄弟たちよ、以上で、2009年1月21日の措置の肯定的な意味とその限界が明らかにされたと期待します。しかしながら、今、次の疑問が残っています。この措置は必要だったのか?
これは本当に優先課題だったのか?もっとより重要なことは無いか?確かに、より重要でより緊急なことはあります。

 私は、教皇登位の最初に述べた講話のなかで、私の教皇職の優先課題を強調したことを考えています。その時私が言ったことは、変わることなく私の行動方針であり続けています。ペトロの後継者にとって、第一の優先課題は、最後の晩餐の時、私たちの主によってはっきりと定められました。「おまえは兄弟たちの信仰を堅めよ」(ルカ22:32)と。ペトロ自身も、この優先課題を自分の第一の手紙の中で、新しいやり方で次のように表明しました。「あなたたちのうちにある希望の理由をたずねる人には、やさしく、うやまいつつ常に答える準備をせよ」(ペトロ前書3:15)と。

 現在、地上の広大な地域で、信仰がもはや燃え尽きてします炎のように消え去ってしまう虞がある私たちの生きている時代において、何より先になされるべき優先的ことがらは、この世に天主を現存させ、天主へ近づくことが出来るように人々に開くことです。誰彼の区別ない或る神ではなく、シナイの山で語り給うたこの天主へ、私たちがその御顔を認めるのは、極みまでの愛において -- 十字架につけられ復活し給うたイエズス・キリストにおいて -- である天主へ、です。私たちの歴史のこの時点において、本当の問題は、天主が人々の水平線から姿を消し、また一方で天主からの光が消えるとどうじに、他方で人類は方針を欠き、ますます自分の内部に人類を破壊するような結果が現れ出ていることです。人々を天主へと導くこと、聖書において語り給う天主に導くこと、それが今日、カトリック教会とペトロの後継者との最高で基本的な優先課題なのです。そこから、論理的結果として、私たちが信者たちの一致を心におかなければならないということが帰結します。実に、信徒たちの内部的な不一致や対立は、彼らが天主について語るところの信憑性を疑わせるだけです。だからこそ、エキュメニズムによってキリスト者たちの信仰の共通の証のために努力をすることが最高の優先課題に含まれているのです。このことに、天主を信じる全ての者たちが、共に平和を探し求め、たとえ天主のイメージは違っていても、光の源へと一緒に行くために、お互いが近づくように試みる必要が付け加わります。これが諸宗教間の対話です。天主を「極みまでの」愛として告げるものは、愛の証をも与えなければなりません。つまり、苦しむ人々に愛を込めて自己を奉献し、憎しみと敵意を遠ざけること、これがキリスト教の信仰の社会的次元です。これについては私は回勅『デウス・カリタス・エスト(Deus Caritas Est)』の中で語りました。

 もしも、この世において、信仰、希望、愛のための熱心な参与が、この時(そして、いろいろな形においては、いつも)カトリック教会にとって本当の優先課題であるなら、大小様々な和解も、その一部をなすのです。手を差し伸べるたという謙遜なしぐさが、大騒ぎの元にあり、それで和解とは反対となっていることは、私たちが記憶しなければならない事実です。しかし、私は今こう尋ねます。この場合にも、「何かあなたに対してふくむ所がある」(マテオ5:23)兄弟に会いに行き、和解を求めることは本当に間違っていた、間違っているのでしょうか?市民社会もまた、過激化を予防し、ありうるかも知れない過激化の賛同者たちをして、社会生活を形づくる大きな力の中に --- 出来る限り --- 受け入れるように試みなければならないのではないでしょうか? それは差別とその全ての結果とを避けるためです。心を頑なにすることや狭めることを弱めようと努力する事実は、これは全体のために、肯定的なことや回復されるべきことにこうやって場所を与えるためという目的でなされるのですが、完全に間違っていることがあり得るでしょうか?


 私自身、1988年以降、以前はローマから離れていた複数の共同体が戻ってきたおかげで、これらの共同体の内的雰囲気が変化したこと、偉大で広大な共通の教会へと戻ってきたことが、一方的な立場を越えさせ、頑なな態度は和らげ、続いて全体にとって肯定的な勢力としてそこから姿を現したということを見てきました。その中に、491名の司祭、215名の神学生、6つの神学校、88の学校、2つの大学、117名の修道士、164名の修道女、そして何千人もの信者を数える共同体を、私たちは全く無関心でいることが出来るでしょうか。彼らがカトリック教会から遠くを漂流するのをそのまま何も感じずに放置すべきなのでしょうか?私は、例えば491名の司祭たちのことを考えています。私たちには、彼らの動機のもつれを知ることは出来ません。しかしながら、もしも、歪んだ病的な様々の要因を別にして、キリストへの愛と、キリストと、キリストと共に生きておられる天主を告げ知らせようという意思を持っていなかったならば、司祭職へと決意していなかっただろうと私は考えます。私たちは、単純に、彼らを重要でもない先鋭グループの代表として、和解と一致とを求めることから排除することが出来るでしょうか? その後はどうなるのでしょうか。


 確かに、以前から長い間、そしてまたこの具体的な機会に、この共同体を代表する人々から、多くの不調和なことを聞かされてきました。--- 満足と思い上がり、一方的主張に凝り固まっていること、などです。真理への愛によって、私はこう付け加えなければなりません。それは、私は感謝の感動的な一連の証言をも受け取ったということです。これにおいて、彼らの心が開かれていることが見て取れます。それでも、偉大なカトリック教会は、同じく寛大になり、自分が持っている巨大な包容力を意識して、教会に対してなされた約束を意識することを自らに許してはならないのでしょうか?私たちは、良き教育者として、好ましくない様々なことには注意を向けないでいられるようにし、心の狭さから出るように努力をするべきではないでしょうか? そして私たちは、教会の中にも、何らかの不調和があることを認めるべきではないでしょうか?

 時として、私たちの生きている社会は、少なくとも一つのグループを必要としているように思えますそれにはいかなる寛容も与えられないグループ、これに反対しては平然と憎しみ投げつけることが出来るグループを。そして、誰であれこのグループに敢えて接近するなら、---- 今回は、それは教皇でした ---- その近づいた人も寛容の権利を失い、彼もまた憎しみとともに、畏れも遠慮もなく取り扱われうるのです。


 親愛なる司教の兄弟たちよ、この手紙を書こうと考えが私に起こったその日々の間、たまたま私はローマの神学校にいて、ガラチア人への手紙の5:13-15の箇所を解釈し注解しなければなりませんでした。私は驚きながら、次の言葉が私たちに現在のことを語っているその直接さ(l' immediatezza)に気づきました。「ただその自由を、肉への刺激としてつかってはならない、むしろ愛によってたがいに奴隷となれ。なぜなら全律法は、「自分とおなじように隣人を愛せよ」という一言に含まれているからである。たがいに噛み食って、ともにくいつくされないように注意せよ。」

 私はいつも、この言葉を、聖パウロの中に時々ある修辞的誇張と考える傾きがありました。
ある観点から見ればそうでありえます。しかし、不幸にしてこの「噛み食ってくいつくす」ということは、間違って解釈された自由という名前のもとに、カトリック教会の中にも今日存在します。私たちもガラチア人より優れているとは言えないことは驚きでしょうか? 少なくとも、私たちは同じ誘惑を受けているのではないでしょうか? 私たちは常に新しく自由の正しい使い方を学ぶべきではないでしょうか? そして常に新しく私たちは最高の優先課題である愛を学ぶべきではないでしょうか?

 私がそのことをローマの大神学校で話したその日、私たちは「信頼の聖母」の祝日を祝っていました。事実、聖母マリアは私たちに信頼を教えてくれます。聖母は私たちをして聖子に導き給い、私たちは聖子に全きの信頼を置くことが出来るのです。聖子は、私たちを導いて下さるでしょう。たとえ喧噪の時代であったとしても。私は、こうして、心を込めて、これら全ての司教たちに感謝をしたいと思います。彼らは、この(大変な)期間に、私に信頼と愛情との感動的なしるしを与えてくれ、特に私に自分たちの祈りを約束してくれました。この感謝は、最近、聖ペトロの後継者に対する変わらない忠誠を証してくれた全ての信者の皆様にも同様に申し上げます。

 願わくは、主が私たちを全てを保護し給い、私たちを平和の道に導いき給わんことを!これこそが、この四旬節の始まりにあたって、私の心から自然と湧き上がる願いであります。四旬節は特に内的の清めのためにふさわしい典礼の時節であり、私たち全てを、新たな希望とともに復活祭の光に満ちた対象へと眼差しを向けるようにと招待しています。

特別の使徒的祝福をもって、もう一度言います、私は、

主においてあなたたちのもの

ベネディクト十六世
バチカンにて、2009年3月10日

LETTRE DE SA SAINTETÉ BENOÎT XVI AUX ÉVÊQUES DE L’ÉGLISE CATHOLIQUE
au sujet de la levée de l’excommunication des quatre Évêques consacrés par Mgr Lefebvre


Lettre de Sa Sainteté Benoît XVI aux évêques de l’Église catholique
au sujet de la levée de l’excommunication des quatre Évêques consacrés par Mgr Lefebvre


Lettre de Benoît XVI aux évêques du 10 mars 2009
«À notre époque, dans de vastes régions de la terre, la foi risque de s’éteindre comme une flamme qui ne trouve plus à s’alimenter»


LETTERA DI SUA SANTITÀ BENEDETTO XVI AI VESCOVI DELLA CHIESA CATTOLICA RIGUARDO ALLA REMISSIONE DELLA SCOMUNICA DEI QUATTRO VESCOVI CONSACRATI DALL’ARCIVESCOVO LEFEBVRE

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松本聖香ちゃんに似た境遇の子供

2009年06月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 悪いことをした子供を親が上手に叱るのは、愛徳の業です。

 異端説をふれ回す異端者を、カトリック教会の教導権が叱責するのも、愛徳の業です。

 悪いことをした子供を親が野放しにしているのなら、良い機会を見つけて上手に善導しようとしないならば、親は、親の責任を放棄しています。

 異端説をふれ回す異端者を、もしも、カトリック教会が野放しにするなら、真理をわざと曖昧に言って異端を許容するような言い方にするなら、教会は責任を放棄することになってしまいます。

 悪いことをしたのでもない子供を、お前は要らないと言って虐待するような親は、親としての言葉を発してはいません。子供は、そんな言葉を真に受ける必要はありません。

 カトリック教会の過去2000年の聖伝を、教会が過去信じ愛し実践してきたことを、もう要らないやってはいけない、と言うような教会指導者は、教会指導者としての言葉を発していません。

 もしも親が子供に、不幸にして、児童ポルノや姦淫の罪を勧めたとしたら、たとえ「家族」や「平和」のためであっても、それに子供は従ってはなりません。そのような親の勧めに従うことは、本当の従順ではありません。

 もしも不幸にして、教会の指導者たちが、人間には他の神々に拝む権利がある、「人類」や「平和」のために諸宗教が一緒に不特定の神に祈ろう、と言ってもそれは私たちの主イエズス・キリストの教えではありません。そのような、イエズス・キリストの教えではない人間の教えに従うことは、真の従順ではありません。

 もし、松本聖香ちゃんに似た境遇の子供がいて、親から姦淫しろ、してはならないことをしなさい、と言われたらどうすれば良いのでしょうか。

 もしその子が、悪いことだから出来ない、と言ったために親からもしお前は子供ではない、出て行け、お前のような子供はいなくなれ、と言われてしまったら、どうすれば良いのでしょうか。

 学校の先生も、近所の人々、お友達も、その親に従って、皆がこぞってその子をいじめだして、仲間はずれにし、孤立化させたなら、その子はどうすれば良いのでしょうか。

 もし、その親が対外的には、どこの家の子供でも好きだ、家に遊びにおいで、家の違いを超えて子供たちが集まろう、出会い、気づき、励まされよう、差別をなくそう、小さくされた人々を大切にしよう、外国人を受け入れよう、他宗教の人々を受け入れよう、個人の自由を大切にしよう、外国の子供たちを助けよう、などとたくさんのスローガンのもとに活躍中の活躍家の親で、しかし同時に、この子を差別し、受け入れず、無視し、排斥し、お前などうちの子供ではない、来るな、という対応をしたら、この子はどうすれば良いのでしょうか!?

 この親が、ソマリアで世界中の舟を攻撃して人命と財産を強奪する恐ろしい海賊についても、内戦で職を失ったソマリアの漁師たちの自己防衛だ、海賊が悪いのではない、と発言しているような親だったら、しかし、自分の子供が自己防衛をしようとすると、親子の縁を切る、赤の他人だ、子供としての一切の地位を持たない、家の中で合法的にご飯を食べることが出来ない、親子の完全な交わりのためには、自己防衛行為をせずに、親の指導が何であれ受け入れることが条件だ、と言うなら、その子は一体、どうすれば良いのでしょうか!?

 私の言わんとすることを、理解できる方は、どうぞ理解してください。本当にそんな子供がいたら、愛する兄弟姉妹の皆様は一体何と感じますか!?

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】