Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

教皇フランシスコの考えを理解する:カトリックの信仰生活はどう変わるか?

2020年04月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。

私たち、すでに教皇フランシスコの新しさであると同時に、第二バチカン公会議の展開を見て、

さらに、教皇フランシスコの、教皇職を動かす原理・設計図「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」について考察しました。

「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた」という原理から帰結される究極の倫理基準は「大自然と調和している」ことです。この世と「対話」するとは「聞く」ということであり、この世に聴従し、「弟子」として「姉妹」としてこの世に従うということです。

天主に対する信・望・愛、礼拝と救霊について語らず、むしろリサイクルとか森林保全とかについて語るのが、人類の最高権威である教皇の役割なのでしょうか? これは何を意味するのでしょうか?

まず「司祭職」が、この世の「まつりごと」に飲み込まれてしまいます。言い換えると政治的になります。何故なら、超自然の方向性・要素がなくなるからです。天ではなく、大地に向かうからです。全道徳と倫理すべては、大自然と調和していることにあるとされるからです。だから「エコロジカルな回心」が求められています。

ですから、天主が大地と決定的に一致しており、私たちもその大地の一部であるから、資源の再利用をして自然を保全することが、「私たち人間の尊厳を表明する愛の行為」となりうるといわれるのです。

しかし、その時、人間が大自然と全被造物においておかれている特別の場所・地位は忘れられてしまいます。知性と意志の自由決定能力とをもつ特別な理性的存在、ということが忘れ去られます。

また、始原もなく終わりもない天主の超越性も忘れ去られます。いかなる意味でも被造物とは混同されることのなく、被造物をいま、ここに有らしめている天主については、語られません。

人間は、理性を使って、この全自然を超越する天主であるいと高き主を認識し信じ、創造主のみに捧げるべき礼拝を捧げるために、特別に創造されました。自然保護よりももっと更に崇高な理性的存在である人間のみができる行為、これが天主を礼拝することです。

人間だけが、理性を使って、自然を超越する天主を礼拝することができます。理性的存在だけが、天主と人間との間の無限の隔たりを認識するがゆえに、天主が有りて在るものであり、人間が有らしめられて在る無に等しいものであると理解するがゆえに、天主に礼拝を捧げることができます。

天主の御言葉は人となりましたが、それは大地と一致するためではありませんでした。天主御父の御旨(みむね)を果たすためです。「キリストは世にはいるときいわれた。"…そこで私は、"私について巻物に書きしるされてあるとおり、天主よ、私はあなたのみ旨をおこなうために来る"といった。"」(ヘブレオ10章)

人となった天主の御言葉は、私たちに天主に対する絶対従順の模範を示されました。イエズス・キリストの御人性(人間としての本性)は、私たちに礼拝を教える道具となりました。天主に死に至るまで従順であること、しかも十字架の死に至るまで従うことを教えてくれました。イエズス・キリストの存在はその最初の瞬間から十字架の死に至るまで、絶えざる天主御父に対する従順であり、礼拝でした。

人間にとっての最大の悪は、環境汚染でも地球温暖化でもありません。人間にとって最大の悪であり不幸は、罪を犯して天主を侮辱すること、その結果永遠の地獄に堕ちることです。

しかし、エコロジカルな回心はこれの全く反対を私たちに説きます。何故なら、自然を超えるものについて目をそらさせるからです。

目に見えない天主の超越性、自然を超える超越性を認めることができないとき、絶対の超越する天主に対する礼拝は、捧げることができなくなります。

これが道徳基準に適応されると、環境保護と自然保全こそが、天主に対する礼拝や天主の掟の遵守よりも重大なことになってしまいます。エコロジカルである限り、その他のことは何でも許されて当然と考えられる危険があります。

例えば、絶滅危惧種を守るために闘争することが善とする一方で、母の胎内にいる胎児を堕胎したり老人を安楽死させたりするのは問題としなかったり、自然を守ると言いながら自然に反する同性の結合には賛成したり、殺虫剤や化学薬品の使用に絶対反対と言いつつ避妊薬には賛成したり、二酸化炭素の削減のために、子供たちが多い大家族に反対したりすることでしょう。

アマゾン・シノドスの最終文書でも言われたように「青年を神学的場所として認め、また、対話に専心しエコロジーに敏感で「共通の家」に注意深い青年らを "希望の預言者" として認める」とき、教会は、新しい「預言者」たち、新しい「宣教師」たちをすでに認めているのかもしれません。例えば、その中にはまだ16歳にしかならないけれども、全ての国家元首に働きかける使命を天から受けたと信じている人もいるのかもしれません。

その時、天主がモーゼにシナイ山の上で与えた「天主の十戒」とは似て非なる新しい「エコロジカルな十戒」が作り上げられるかもしれません。たとえば、以下は、まったくの想像で書いてみます。

第一 大自然はなんじの主なり。大自然を保全すべし。
第二 なんじ、水も食べ物も電気もプラスチックも紙もみだりに使うなかれ。
第三 なんじ、絶滅危惧種を保護すべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、再生エネルギーの開発を敬うべし。
第五 なんじ、地を汚すなかれ。
第六 なんじ、海・川を汚すなかれ。
第七 なんじ、リサイクルをせずに捨てるなかれ。
第八 なんじ、公共交通機関を使わずに移動するなかれ。
第九 なんじ、ごみの分類をせずに捨てるなかれ。
第十 なんじ、電気・石油の使用をみだりに望むなかれ。

回勅『ラウダート・シ』の「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」ので「エコロジカルな回心」をしようと、これをそのまま受け入れるところでは、天主への礼拝が、カトリックの信仰生活を送ることが、不可能になってしまいます。

カトリックの信仰生活の道というよりか、新しい道です。「天主の愛は私たちを常にいくつもの新しい道を見出させてくれる。」(回勅『ラウダート・シ』245)

主よ、我らを憐れみ給え!

聖母よ、我らをして、この地が「追放」「逐謫」の場所であると理解させ給え!
聖母よ、我らをして、この地が、つかの間の儚い「涙の谷」であると理解させ給え!

元后あわれみ深き御母、われらの命、慰め、望みなるマリア、
われら逐謫の身なるエワの子なれば、御身にむかいて呼ばわり、この涙の谷に泣き叫びてひたすら仰ぎ望み奉る!

(続く)


修道女というのは何か?その人たちは一体なぜ、人生をかけてそうするのか?

2020年04月22日 | カトリックとは
「聖なる修道者の召命について」
2020年4月19日(主日)白衣の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は白衣の主日で、フランスのルフェックという修練院で、またアメリカのブラワーヴィルという所にある聖ピオ十世会の修練院で、ある女性は着衣式を、そしてまた同時にある修道女は初誓願を立てます。またある修道女は終生誓願を今日立てます。
皆さんどうぞ、この修道女たちの為にお祈り下さい。コロナウィルスで色々混乱がありますけれども、もしも何もなければ全てがうまくいくならば、彼女たちはそのような儀式をするはずです。
ところで、今年の白衣の主日は、とても日本にとっては歴史的な日です。
なぜかというと、岩手県出身の私たちの姉妹の一人が、今日フランスのルフェックという所で着衣式をするからです。
着衣式というのは、修道女になる為に、誓願を立てる為に、その準備として、修練女として、ベールをかぶり、そして修道女としての服を、黒い、「この世に死んだ」という黒い服を着て、そしてスカプラリオをかぶり、また修道女としての特別な衣装を服を着ます。
でも一体、修道女というのは何でしょうか?
修道女というのは、天主様に身を捧げられた特別な方です。どうやって身を捧げるかというと、三つの誓願を立てます。この三つの誓願を立てる事によって、正式な修道女になります。
一つは「清貧」の誓願。第二は「貞潔」の誓願。第三は「従順」の誓願です。
「清貧」というのは、お金や、この地上の物事が与える快楽から離脱して、それを放棄する事です。
「貞潔」の誓願というのは、この肉体の喜び、あるいは快楽、あるいは家庭を築く、というものを放棄して、それをイエズス様の為に捧げる、という事です。
「従順」の誓願というのは、私たちの自由意志を、私たちの思いも捧げて、イエズス様の代理者である長上に従順に従う、という事です。
この三つの誓願を以って初めて、修道女となります。
一体、でもこの「修道女になる」というのは、あぁこれもダメ、あれもダメ、あれもダメ、という否定的なものだけなのでしょうか?
この世が嫌いで、この世から逃げるのでしょうか?違います。全く違います。全くそういうものではありません。
そうではなくて、「修道女になる」というのは、「イエズス様の愛に惹かれて、イエズス様の近くに行きたい」と思って、「イエズス様が私たちの為に、私たちの救いの為に、御自分の尊い命を与えて下さって、御自分の尊き御血を全て流されて、十字架の下で苦しまれて、そして私たちを天国に導いて下さった、その愛を、愛で応えよう」と思っている方々です。
この世で、私たちにたった1つの名前しか与えられていません。私たちが救いを得る為には、この1つの名前しか、天上天下与えられていません。それは、『イエズス・キリスト』です。私たちの主イエズス・キリスト。
このイエズス・キリストにこそ、天と地の全ての権力が与えられています。この「イエズス・キリストに、愛で従いたい、愛で仕えたい」と思っている方々が、修道女です。修道士です。そして司祭です。
そして歴史上、どれほど多くの童貞女たちが、自分の身分は高貴であったにも関わらず、皇帝の娘であったにも関わらず、王様の娘でもあったにも関わらず、高貴な貴人から求婚されたにも関わらず、どれほど多くの方々が、それを拒否して、イエズス・キリスト様の為に、自分の一生を捧げた方がいるでしょうか。
どれほど多くの殉教者たちが、自分の命を全くイエズス・キリストに捧げて、そして全てを捧げて、その信仰によって信じ、死を以って、命を捧げた事でしょうか。
そればかりでありません。歴史上多くの、数多くの若い命たちが、若い方々が、イエズス様の愛に応えようと、イエズス様に奉仕しようと、自分の一生を捧げていきました。
このような方々は、病院で一生懸命、貧しい人に、あるいは病気の人、あるいは癩病の人、あるいは苦しんでいる人の為に奉仕して、あるいは一生をかけて公教要理を教えたり、イエズス・キリストの愛を教えたりした方々、あるいは宣教師のように自分の故郷を離れて、そしてイエズス・キリストの教えを、福音を教えようと、はるばる海を越えて、危険を冒して、命がけで宣教した方、数万、数え切れられないほどの霊魂たちがいます。
その人たちは一体なぜ、人生をかけてそうしたのでしょうか?ただその隣人を助けたい、という社会福祉の為だけだったのでしょうか?
いえ、唯一その方々が持っていたのは、「イエズス・キリストを愛する為」です。イエズス・キリストに従う為でした。イエズス・キリストだけを求めて、彼らは命を捧げました。
なぜかというと、イエズス・キリストだけが、私たちが全てを捧げる価値があるからです。
そして今日、シスターたちが、聖ピオ十世会のシスターたちが、そのイエズス様の愛に、愛で応えようと、着衣式をして、誓願を立てて、一生を捧げようとされます。
もしもイエズス様への愛がなければ、もしもイエズス・キリストの為でなければ、どれほど美しいベールも、どれほど美しいシスターの修道服も、あるいは指輪も、あるいはその他も、全く意味をなしません。
願わくは、今日着衣式を受けるシスターたち、そして誓願を立てる、あるいは終生誓願を立てるシスターたちが、ますますイエズス様の愛に燃え立ちますように、イエズス様に終わりまで付き従いますように、忠実に従いますように、そして日本からも、世界中からも、このような霊魂たちがたくさん生み出されますように、お祈り致しましょう。
なぜかというと、このような霊魂がたくさんいればいるほど、生まれれば生まれるほど、イエズス様の栄光はますます輝きますし、そして公教会はますます発展するからです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




教皇フランシスコの考えを理解する:「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」(回勅「ラウダート・シ」)の意味

2020年04月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。

前回は、教皇フランシスコの新しさであると同時に、第二バチカン公会議の展開を指摘しました。

教皇フランシスコの、教皇職を動かす原理・設計図はこれです。彼の実質的な最初の回勅『ラウダート・シ』の最後の一節(245)です。
「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた。」

カトリック中央協議会訳では「主はご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれた」となっています。
この意味を探りつつ、考察しましょう。

【教皇ヨハネ・パウロ二世】

ヨハネ・パウロ二世は、その最初の回勅『人間の贖い主』で、自分の教皇職の原理・設計図・基本方針を発表しました。

それは「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」です。

これを土台・原理として、新しい教会の使命が説かれました。

「キリストはすべての人間と一致している」のだから、全ての人はすでに救われている。
しかし「キリストはすべての人間と一致している」ことは目に見えないので、教会は天主を目に見える形で現存させることがふさわしい、ただし、教師として人類に教えるのではなく、超越的な現実を証しするというやり方でそれをなす、とされます。

従って、教会の使命とは、証(あかし)となること、証人となることだとされます。これが教会の預言者としての役割とされます。

聖伝によれば、教会は教導教会(Ecclesia docens)と聴従教会(Ecclesia discens)の二つに区分されます。しかし第二バチカン公会議の新しい神学によれば預言者の役割は、全教会の役割とされます。

第二バチカン公会議の『教会憲章』 Lumen Gentium によれば、教会は人類の一致の「秘蹟」(秘義)であり、教会全体で目に見えない現実を証(あか)しする印(しるし)となる、とされます。世俗の世界で生活しながら、生活において、キリストを現存化させる、これが「新しい福音化」であり、模範によってどうしたら真の人間となるかを証しすることである、とされます。

ところで「キリストはすべての人間と一致している」ので、そしてこの一致はどのようなことがあっても失われないので、全ての人格(ペルソナ)は崇高なものとされます。

そこでヨハネ・パウロ二世においては、人間の人格の崇高さ(尊厳)を倫理道徳の基礎に置きます。キリストが自分を人間に与えたように、人間の人格は、自らを他者に与えることによって完成させられる、とされます。そこで、倫理基準は、その要求度がまだ高く、自分を他者に与えるために、自由が必要であるとされます。

【教皇フランシスコ】

しかし、フランシスコは、ヨハネ・パウロ二世を乗り越えます。ヨハネ・パウロ二世のさらに上を行きます。
「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた。」

この原理から帰結される倫理基準は「大自然と調和している」ことです。

人間も環境(大自然・森林・大地・大洋・ジャングル・空気などなど)も、同じ被造物であり、人類は大自然に含まれているその一部に過ぎないのだから、人間は大地や大自然を大切にすべきである、これが道徳と倫理の基準になります。

大地は神聖にして犯すべからず。

従って、たとえば次のように結果に至ります。「アマゾン地域は、教会にとって、そして世界にとって、『全体のための一部 pars pro toto として、一つのパラダイムとして、全世界のための希望として』奉仕するべきである。」(アマゾン・シノドス討議要綱 37) 

「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた」のであるから、例えば、アマゾン地域が、または別の先住民地域あるいは共有地域が、"信仰にとって意味を持つ場所" または "歴史の中での天主についての経験"であり、「天主の啓示の特定の源泉」であり、神学の基礎的原理や源泉についての「神学的場所」 loci theologici であるとされます。

アマゾン地域だけでなく「青年たち」も同じく一つの「神学的場所」(羅 locus theologicus, 西 un lugar teológico, 仏 un lieu théologique, 伊 luogo teologico, 英 a theological topic) とされます。

アマゾン・シノドスの最終文書(33)には次のようにあります。
Quiere ser compañera a la escucha reconociendo a los jóvenes como un lugar teológico, como "profetas de esperanza", comprometidos con el diálogo, ecológicamente sensibles y atentos a la "casa común".
「(…)アマゾン地域の教会は、青年たちの伴侶でありたく、また彼らの言うことをよく聞きたいと望む。青年を神学的場所として認め、また、対話に専心しエコロジーに敏感で「共通の家」に注意深い青年らを "希望の預言者" として認める。」

教会は、もはや能動的に人類に対して証人であろうとさえしません。

教皇フランシスコによれば、教会は受け身の立場であり、この世の言うことを弟子のように聞く(a la escucha)だけです。

教会は、聖伝によって伝わる役割、つまり「天主の垂れた啓示を人類に教える、超自然の真理で人類を教導するという権能・役割・カリスマ」を放棄します。そうではなく、聞くだけです。そうすることで「エコロジカルな市民性」(ラウダート・シ 211)を目指します。

もはや教会が言うことは、あまりにも平凡でありきたりのことに成り下がってしまいました!教皇フランシスコが私たちに回勅で訴えることを聞いてください。
「もっと経済的な余裕があっても、暖房をより少なく使い、温かい服を着る、…プラスチックや紙を使うことを避ける、水の消費を削減する、ごみを区別して出す、食べることができるだけ料理する、他の生き物に気をかける、公共の交通手段を使う、木を植える、無駄な電気を消す、… すぐに捨ててしまうのではなく再利用をする、これが正しい理由のために行われたとき、私たちの尊厳を表明する愛の行為となりうる。」(ラウダート・シ 211)

教会の最高の権威が、ごみのリサイクルについて話しています。霊魂の永遠の救いについて、ではなく。超自然の天主を信じ、礼拝し、希望し、天主を愛することではなく。天主の十戒についてではなく。
この地球をきれいに保つ、それはそれでよいことですが、天主の掟を守るというさらに良いことは忘れられています。「よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。」たとえ環境汚染を終わらせて全宇宙を保全したとしても、永遠に霊魂を失うのなら何の益があるでしょうか?

現在の教会は、世俗のことがらを聖なるものとしようとするかのようです。

それと同時に、教会それ自身は、自らを非神聖化していきます。教皇フランシスコは教皇としての権威を自ら破壊しようとしてます。

カトリック教会が今まで大切にしてきたもの、愛してきたものにたいして、フランシスコは「非神聖化」を行います。

例えば、最近では、2019年12月12日グァダルーペの聖母の祝日では、教皇フランシスコは自分の司祭叙階50周年を祝いつつ(1969年12月13日叙階)、聖母について次の称号のみ本質的として認めました。つまり「女」「母」「婦人」「弟子」です。グァダルーペの聖母については「混血」としました。カトリック教会の聖伝の教えを「ばかげた話」だと反対して、とてもショッキングな発言もします。

「聖母は、自分の師(キリスト)つまり自分の御子である唯一の贖い主に忠実であり、自分のために御子から何かを取ろうとは望まなかった。聖母は自分を決して共同の贖い者(共贖者)として提示しなかった。そうではない。弟子だった。」
Virgen de Guadalupe: María “se mestizó para ser Madre de todos”Homilía del Santo Padre
"Fiel a su Maestro, que es su Hijo, el único Redentor, jamás quiso para sí tomar algo de su Hijo. Jamás se presentó como co-redentora. No, discípula."

この説教の終わりには、教皇フランシスコはこうも付け加えています。
「人々が私たちのところにやってきて、これこれを宣言すべきだとか、あれこれを教義にすべきだという話を持ってくるとき、私たちはそのようなばかげた話に道を迷わないようにしましょう。マリアは女性であり、私たちの婦人であり、御子の母であり、位階制の母なる教会の母であり、混血、私たちの民々の婦人、また、何と天主と「混ざった」方か。」

"Cuando nos vengan con historias de que había que declararla esto, o hacer este otro dogma o esto, no nos perdamos en tonteras: María es mujer, es Nuestra Señora, María es Madre de su Hijo y de la Santa Madre Iglesia jerárquica y María es mestiza, mujer de nuestros pueblos, pero que mestizó a Dios."


あるいは、「教皇庁年鑑」の最新版において、教皇の称号として「キリストの代理者」が取り除かれ、単なる「歴史的称号」(昔はそうだったが今はそうではない)として取り扱われています。教皇庁年鑑では、いまでは「ローマ司教、フランシスコ」だけが保存されて残りました。教理省元長官ミュラー枢機卿は「これは神学的野蛮行為だ」と表現しています。

つまり、教皇フランシスコは、教皇としての権威や名誉や品格をあえて破壊しようとするかのようです。何故なら教会の教導職とはもはや必要がないからです。教会は、天主から受けた啓示を人類に教えるのではなく、教会は人類の言うことを、大自然が言うことを聞くことが使命だ、とされるからです。

何故なら「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」からです。

続く


私たちもイエズス様の脇の傷口に、私たちの手を入れてミサの黙想をしよう。

2020年04月21日 | お説教・霊的講話
2020年4月19日(主日)白衣の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教
 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
 
愛する兄弟の皆さん、今日は白衣の主日、疑い深いトマスが、信仰を失って、イエズス様を信じなくなった、復活を信じなかったトマスが、「イエズス様の脇腹に手を入れるように」と招かれた福音が読まれた主日です。
 
私たちも一緒に、イエズス様の脇にイエズス様の傷口に、私たちの手を入れて、今日このミサの黙想する事に致しましょう。
 
「イエズス様の傷」というのは、一体何でしょうか?
これは、イエズス様が私たちに対して持っている、憐れみ深い、「愛の証拠」です。
 
その昔、旧約時代には、イスラエルの民を救う為に天主は、モーゼを使って、紅海、紅い海を開かせて、そしてイスラエルの民を救い、そしてファラオとそのエジプトの大群を海の中に沈めました。
 
新約の今、イエズス様は私たちを救う為に、御自分の脇腹と、そして手と足の傷口を大きく開き、そして私たちを御自分の御血と御水で、そこから流れた血と水で救い、そして悪魔と罪を埋めてしまおうと、滅ぼしてしまおうと思われました。
 
この傷は、イエズス様の体に付いている傷は、3時間の十字架の上で付けられた、苦しい、その肉体的な、精神的な苦悩、私たちの為に受けた苦悩の証拠です。
 
かと言ってイエズス様は、その苦しみの間、不平不満を言ったわけではなく、苦々しかった大洋を通ったわけではなく、イエズス様の御父、天主、その御旨を果たしたい、というその従順の心、離脱の心、平和の心、そして甘美な心でそれを受け止めていました。
 
奉献、そして御捧げ、従順、「我になれかし。御旨の通りに、私のではなく、御父の御旨がなされますように」という愛に満ちた捧げ物でした。
 
イエズス様はですから、この世間の人たちの、あるいはイスラエルの旧約の大司祭たちの嘲りや、告発、あるいは嘘の挑発など、黙って、沈黙の内に捧げていました。
 
イエズス様が受けたその辱め、屈辱、全て御捧げになりました。イエズス様が体に持っているその傷は、それら全てを、その苦しみ全てを、私たちに証拠として出しています。
 
では私たちが、「その傷に私たちの手を入れる、トマスと一緒に手を入れる」という事はどういう事でしょうか?
 
それは、「私たちも、イエズス様が私たちに対して持っている、そのとてつもない大きい無限の憐れみ深い愛を認めて、そしてそれを信じる」という事です。「それに信頼する」という事です。「それから逃げるというのではなくて、それに近寄って、私たちをそれに合わせる、それに触れる」という事です。
 
聖ペトロが今日言います、「私たちは幼子のように、清らかな乳を飲み、そして古い人間を捨てて、新しい人を着るように」と。
 
聖ペトロもやはり同じ事をしました。ペトロの場合には、どうやってイエズス様を否んだかというと、色々な段階がありました。
 
まず第1は、「お祈りをしろ」と言われたにも関わらず、お祈りの時に眠りこけていました。
 
第2に、イエズス様は、お祈りをする事を大切にしていたのに、霊的な手段を大切にしていたのにも関わらず、ペトロは人間的な手段に頼ろうとしました。敵が来たらすぐに剣を取って、それで敵を打ち倒そうとしました。イエズス様はそのようなペトロを叱ります、「剣を鞘に収めよ。」主からこのように叱られてしまって、どうしようもなくなったと思った彼は、私たちの主を打ち捨てて逃げてしまいます。
 
第3には、それでもイエズス様の跡を追おうとしますけれども、どうなったのかと知ろうとしますけれども、しかし遠くから離れて従います。つまり冷淡だったという事です。もう熱心はありませんでした。イエズス様の近くに居たいという熱心はありませんでした。
 
第4には、そのような熱心がなくなって冷淡になったペトロは、今度は主の愛の暖かさの代わりに、物理的な温かさを求めました。焚き火にあたって、そして「あぁ、疲れた」と言って座って、その時でした。
 
最後に、ある召使いの女性が、「あぁ、あなたは、この人と一緒にいたではないか」と言うと、「違う!」と、イエズス様を否みました、世間体の為でした。
 
しかし、ペトロは回心します。
 
ちょうど聖トマスに、疑ったトマスにイエズス様が現れて、イエズス様がそのトマスを愛深い眼差しをかけて、そして、「さぁ、私の傷に、傷跡に手を入れよ」と仰ったように、ペトロも目が覚めます。
 
それは鶏が鳴いた時でした。その時に目が覚めました。
 
イエズス様を見ると、イエズス様はペトロの方を愛深く、憐れみ深く御覧になっていました。この愛の眼差しを見て、ペトロの心は動揺しました。そしてその場所を、罪の場所をすぐに逃げて、そして涙を、熱い涙を流して、そして悔悛しました。
 
後で、復活の後にイエズス様から尋ねられて、3つの愛の告白をします、「主よ、私は御身を愛しています。」
 
今日同じくマグダラのマリアも、弟子たちにペトロとヨハネに、「主がもう墓にいない」と言ってきたマグダラのマリアも、同じように悔悛した女性でした。
 
「罪の女」と言われた、罪の町に住んでいた有名な女性でしたが、彼女は「イエズス様の元に行く」、その事しか考えませんでした。
 
ある日、イエズス様がシモンの家にいた時に、世間体など顧みず、ただ一つの事しか願っていませんでした、それは、「イエズス様の足の元に居たい」と、そして「痛悔の涙でその足を洗いたい」と、「イエズス様に自分の悔悛の心を捧げたい」と、それだけでした。
 
このマグダラのマリアは、十字架の下でも同じ事をします。イエズス様の足元に留まって、そして自分の為にどれほどイエズス様が苦しまれた、というかを見て、そして悔悛の涙を流します。罪の痛悔の涙を流します。そして自分の小さないけにえを、イエズス様の傷口に添えたに違いありません。
 
今日私たちも聖トマスと同じように、私たちの手をイエズス様の傷口にそっと入れる事に致しましょう。
 
痛悔の心で、そしてイエズス様を愛する心で、私たちの罪の償いを添えて、イエズス様にお捧げ致しましょう。一言もおしゃべりなどせず、熱い涙を流して、そして十字架の下に留まりましょう。イエズス様の傷の元に留まりましょう。
 
イエズス様の苦しまれた、その御苦難を黙想して、そのすぐそばを触れる事に致しましょう。そして願わくは、決してそれから離れる事がないように。
 
聖パウロは言います、「キリストは『私』を愛して、『私』の為に御自分を御捧げになった」と。
 
聖トマスも、聖ペトロも、聖マグダラのマリアも、同じ事を考えていたに違いありません、「イエズス様は、私をここまで愛して、私の為にこれほど苦しまれた。だから私も、この自分の苦しみを、イエズス様に御捧げしたい。黙って捧げたい」と。「イエズス様に愛を捧げたい」と。
 
愛は私たちに、更にイエズス様に対する同情と、イエズス様と同じく、私もイエズス様のように苦しみたい、という感情を起こすようにさせてくれます。
 
では私たちも聖ペトロのように、またマグダラのマリアのように、そして疑い深いトマスのように、私たちの手を、イエズス様の脇腹に、イエズス様の傷口に乗せる事に致しましょう。
 
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 
イエズス様の愛と、憐れみと、その無限の優しい、私たちを赦したい、というその心を信じる事ができますように、そしてそれと同時に、ペトロと、そしてマグダラのマリアがしたように、熱い痛悔の涙を流す事ができますように、そしてイエズス様の御跡に従って、イエズス様の足元にいつも、十字架の足下にいつも留まり続ける事ができますように、お祈り致しましょう。
 
「私たちがイエズス様の傷口に手を入れる、手を触れる」というのはまさに、「イエズス様の御傷に、私たちの痛悔、私たちの悔悛、私たちのいけにえを一緒に、それと添えて捧げる」という事に他ならないからです。「イエズス様の捧げる十字架に、ミサ聖祭に与る」という事に他ならないからです。
 
そして私たちがそれをする事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。
 
マリア様は決して、十字架の足下を離れませんでした。私たちもいつもこの傷口を離れる事がありませんように、イエズス様の無限の憐れみ深い愛を信じる事ができますように。
 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





 




フランシスコ教皇に対する理解を深めるために:教皇フランシスコの新しさと第二バチカン公会議の展開

2020年04月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)の機会を利用して、フランシスコ教皇の思想(在位2013 - 現在)をよく理解するように努めましょう。

昨年は、教皇の訪日以外にも、アマゾン・シノドスやパチャママ、ドイツのシノドスの道、などの報道が大きくなされました。では、私たちの現教皇であるフランシスコは、これからカトリック教会をどのようにしようとするのでしょうか?

教皇フランシスコは、ヨハネ・パウロ二世とは違った道を行こうとするのでしょうか?それとも、同じ方向に動いているのでしょうか?

私たちは、教皇フランシスコは、第二バチカン公会議の路線を忠実に歩んでいる、と主張します。ただし、その進み方が加速度的に早まり、第二バチカン公会議の中に種子として小さく潜んでいたものが、花を咲かせ、実を付けつつあるという意味で「新しさ」も生じています。

これまでの7年にわたる在位期間での活動や発言を振り返り、フランシスコ教皇に対する理解を深めたいと思います。

第二バチカン公会議以後の教皇たちの行動の指針となる原理は、人間中心主義です。第二バチカン公会議が訴えた新しいヒューマニズムです。

「近代」の特徴は、世界が天主から離れること、この世を聖なるものと切り離すこと、世界の世俗化です。市民社会から教会とキリストと天主とを引き離すことです。聖なるもの(宗教)が、世俗の市民社会(政治)を指導することがないように、それ以前は両者のうちにあった調和を否定して、分離させることです。これは革命によってなされました。

新しいヒューマニズムは、革命によって引き起こされてしまった教会と国家の分裂を乗り越えようと、世俗のことがら(環境問題、移民政策、など)に言及し、それを聖なるものとしようとするかのようです。世俗と宗教の混同です。

もはや教会は、天主から啓示された超自然の真理を、世界や世俗の政治指導者たちに教えようとはしません。そうではなく、教会は世俗と対話し、世俗に聴従します。

人間中心主義の原理がどのように適応されるかについては教皇によって違いがあるとはいえ、しかし、公会議後の教皇たちは皆、同じ原理に従って動いています。

ここでは、図式的に第二バチカン公会議の思想の流れを見てみましょう。

【第二バチカン公会議:現代世界憲章 Gaudium et spes, 22】
「事実、天主の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」
Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit.
スペイン語訳:El Hijo de Dios con su encarnación se ha unido, en cierto modo, con todo hombre.)

それが👇こうなる

【教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅『人間の贖い主』 REDEMPTOR HOMINIS, 8 & 13】
「キリストは自分自身をすべての人間と一致させた。」

【カトリック教会の公教要理 432】
「キリストは、御托身を通して、自分自身をすべての人間と一致させた。」

それが👇こうなる

【教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』LAUDATO SI, mi Signore, 245】
「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた。」
「主はご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれた」(カトリック中央協議会訳)
245. ((Dios) se ha unido definitivamente a nuestra tierra.

お気づきになられたでしょうか?

ヨハネ・パウロ二世の「キリストは自分自身をすべての人間と一致させた」ということを乗り越えて、
フランシスコは「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」と主張しています。

これが教皇フランシスコの新しさであり、それと同時に、第二バチカン公会議の中にあった種子が成長した部分です。

これについて、さらに考察を続けましょう。

(続く)






イエズス様は、沈黙のうちに天主に讃美と礼拝ができる「砂漠」聖母マリアのもとに留まる。聖母はイエズスの十字架のもとに留まる

2020年04月20日 | 聖伝のミサの予定

2020年4月10日(金)聖金曜日のメッセージ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父様

“Stabat Mater Dolorosa.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖金曜日です。四旬節の最高潮、クライマックスに到達しました。

まず第1です。
四旬節の最初、私たちはイエズス様に付いて、砂漠に、荒野に行きました。この世を離れて、この世の喧騒、この世の楽しみから離脱して、友達と一緒に飲みに行くのも、友達と一緒に会食をするのも、避けた年でした。

そしてこの世から距離を置いて、あたかも離れ離れになったかのように生活しました。私たちは特に、離れ離れになったと言っても、それは隣人を嫌いになったわけではなくて、私たちは天主様を求めて、天主様と一緒にいる事を求めて、四旬節の中に入りました。

砂漠に、荒野に行きました。イエズス様と一緒に砂漠に行きました。

第2の点は、イエズス様にとって最も好きな、最も大切な砂漠の場所、沈黙と、この世の喧騒を離れて、天主に讃美と礼拝ができる場所とは一体、どこだったでしょうか?

それは「マリア様のいらっしゃる所」でした。

イエズス様は、この世に来られるその最初から、マリア様の御胎内におられました。御胎内において、礼拝と、沈黙と、天主の現存において、生活を始められました。

なぜかというと、マリア様こそ、最も神聖な、聖寵に満ち溢れた、聖なる神殿であったからです。生ける天主の神殿であったからです。そこにおいては、ただ天主の栄光を求める愛のみがありました。イエズス様とマリア様は、決して離れる事ができないものでした。

イエズス様がこの世に来られた時、こう言いました。イザヤの預言にこう書いてあります、聖パウロがそう言っています。“Ecce, Venio.”「見よ、私は来る。」

マリア様も、聖ガブリエルの言葉を聞いた時に、同じ事を仰います、“Ecce”“Fiat”「主の婢女、ここに在り。」「仰せの如く、我になれかし。」

この二人は、天主の栄光のみを追求していました。天主を愛する事だけを考えていました。讃美し、そして感謝し、そして祈りをする事だけを考えていました。
これほど素晴らしい砂漠、荒野が、他にどこにあるでしょうか?

第3の点は、イエズス様がマリア様の元に留まったように、マリア様はイエズス様の元に留まります。十字架の下に立ち留まります。イエズス様の元に、イエズス・キリストへの愛を込めて、苦しみに満ちて、留まりました。

なぜかというと、マリア様は聖寵に満たされた者であり、十字架に満ちた御方であるからです。

十字架の道行きの最初から、その極めてその初期から、マリア様はイエズス様の御跡を慕って歩きました。

マリア様は見ると、キレネのシモンが、強制的に十字架を担わされたではないですか。するとこのシモンは、嫌々ながら、ローマ人たちを恐れて、十字架を担います。

しかし、マリア様はおそらく、それよりももっと先に、もっと母の心に打たれて、「あぁ、この子ではなく、私が代わって十字架を担いたい。この子の代わりに、イエズスの代わりに、私が命を捧げたい」と、どれほど思った事でしょうか。

マリア様はでも、それができませんでした。なぜかというと、マリア様が今マリア様であるのは、この十字架のおかげであるからです。人となった天主が、罪の償いの為に、御血を流し、十字架を担ぎ、そして命を捧げられ、いけにえとなられる、それが為に、マリア様はマリア様としてある、この世の救いがなされる、と知っていたからです。

マリア様にとって、イエズス様を助ける事ができない、そして沈黙の内に、祈りの内に、礼拝の内に、ただ十字架に従う、という事は、どれほど大きな苦しみだったでしょうか。

イエズス様はベロニカからタオルを受けました。そして顔を拭く事ができました。マリア様はそれを見て、どれほどベロニカに感謝した事でしょうか。

しかし、もっとそれよりも前から、マリア様は何とか、イエズス様のその御体を拭きたい、きれいにさせてあげたい、と思われた事でしょうか。

イエズス様は、エルサレムの婦人を慰めます。しかし、御自分の御母は慰められませんでした。マリア様はその苦しみを深く、天主聖父に、イエズス様と共に御捧げしなければならなかったからです。

愛に満たされて、苦しみに満たされて、イエズス様の十字架の下に佇みます。

それは、愛する兄弟の皆さんと、私の罪の償いの為、この世の罪の償いの為、イエズス様と共に、共同贖い者(Corredemptrix)となる為でした。

マリア様の苦しみに思いを馳せつつ、マリア様と共に、イエズス様の十字架に佇む事ができる御恵みを乞い求めましょう。

“Stabat Mater Dolorosa.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2020年4月19日の白衣の主日 聖伝のミサの報告 YouTubeの動画

2020年04月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日(2020年4月19日)の白衣の主日の説教は「テレワーク」方式で、YouTubeでの録画でした。

もうご覧になった方々もおられると思いますが、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

こんな報告をいただきました。感謝いたします。

【報告】【大阪】
4月19日白衣の主日の御ミサには、19人の方々がごミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!
You Tubeにお説教をアップしてくださり、ありがとうございます。お説教をミサの前に聴いてから御ミサに預かりました。
ペトロの否みに、5つの段階があると云う黙想は、初めて聞いたお話しでした。まず最初の段階の、祈りを欠くと、次の罪へ容易く誘われよるという事がよくわかりました。お祈りは、やっぱり大切ですね。頑張ります。
イエズス様のおん脇腹の傷に手を入れる意味の黙想は、目からウロコでした。
ミサの奉献では、その事を黙想しました。


【写真】聖ピオ十世会のシスター会の着衣式 フランスにて

2020年04月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

日本から最初の聖ピオ十世会のシスター会への召命として、フランス時間の昨日、着衣式が執り行われました。

世界中で、同時に着衣式を受けたのは五名です。この日は七名が終生誓願を立て、二名が初誓願を立てた、とのことです。

日本からの姉妹の隣にいるのは、オーストラリアの女性です。

主よ、多くの聖なる修道士、修道女を与え給え!
主よ、多くの聖なる修道士、修道女を溢れるばかり与え給え!
主よ、日本からの多くの聖なる修道士、修道女を溢れるばかり与え給え!













【速報】聖ピオ十世会のシスター会 フランスのリュフェックにある修練院で

2020年04月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

ニュースがあります。フランスのリュフェックにある聖ピオ十世会のシスター会の修練院では、今日の白衣の主日に、予定通り全ての儀式が執り行われました。

只今、連絡を受け取りました。

本日、日本の姉妹も一人、着衣式を受け、修道名として、マリ・エスペランスという名を頂いた、とのことです。

このシスターの為に、また世界中の聖ピオ十世会のシスターの方々の為に、愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

トマス小野田神父


下の写真は去年のアメリカでのものです。


下の写真は植物です。




2020年4月19日白衣の主日の聖伝のミサの報告

2020年04月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日は、白衣の主日で、東京では45名の方々(三回のミサの総計)が、大阪では19名の方々が、ミサに与りました!天主に感謝いたします!

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

09:00のミサ
男: 13人(内、子供1人)
女: 6人(内、子供2人)
計: 19人(内、子供3人)

11:00のミサ
男: 10人(内、子供1人)
女: 4人(内、子供2人)
計: 14人(内、子供3人)






12:30のミサ
男: 4人(内、子供0人)
女: 9人(内、子供0人)
計: 13人(内、子供0人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの1人を除く)
男: 26人(内、子供2人)
女: 19人(内、子供4人)
計: 45人(内、子供6人)

天主と聖母に深く感謝いたします。




2020年4月19日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass April 19, 2020

2020年04月19日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週末:2020年4月17日(金)18日(土)19日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 4月17日(金)  復活の金曜日(1級)白 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 4月18日(土)  白衣の土曜日(1級)白 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 4月19日(日)  白衣の主日(1級)白 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 4月20日(月)  平日(4級)白  6:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更します。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

4月19日(日)白衣の主日(1級)白 ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。9:00のミサには比較的に参加者が少ないことが予想されるので、なるべく9時のミサにいらしてください。】

【お知らせ】

来月に予定されていた 「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」は、新型コロナウイルスの感染拡大回避のための緊急事態宣言が発令され、巡礼はその対応期間となってしまったために、状況を鑑みて、延期とさせていただきます。楽しみにしておられた愛する兄弟姉妹の皆様におかれては、大変申し訳ございません。ご理解と御譲歩をよろしくお願いいたします。

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of April 19, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
Mass location:
Iriya Hall 3F
Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations)
Map and directions: Please see the pdf file.

Mass schedule in OSAKA:

Fri, April 17 : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, April 18 : Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, April 19 : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, April 20 : Holy Sacrifice of the Mass at 06:30


『選ばれた人々に』 シスター・ジョゼファ・メネンデス“愛の招き”の抜き書き

2020年04月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

こんにちは!

ミサに与りたいけれども、どうしてもコロナウイルスの為に与ることができず、辛い思いをしている方が、次の小冊子を書き写して下さいました。

愛する兄弟姉妹にも御紹介いたします。



選ばれた人々に
シスター・ジョゼファ・メネンデス“愛の招き”の抜き書き

「人々がわたしの仁慈に信頼し、わたしの愛隣にすべてを期待しわたしがゆるしたいと待っていることを、決して疑わないように」(シスター・ヨゼファへのみ主のみことば)

この小書にあるみことばは、聖心会のシスター・ヨゼファ・メネンデスに、み主が託せられたメッセージから、抜粋したものである。

み主の「愛の使徒」として選まれたこのシスターは、スペイン人であるが、故国を去って、フランスのポアチエにあったファインの聖心会修道院で、沈黙のうちに隠れた生活をおくった。
イエズスは、愛に燃ゆるみ心をシスターに啓示され、その秘密を語られた。贖罪事業にあずからせるため、お望みのままにシスターをあしらわれた。またその念願を、シスターに打ち明けられて、世に伝えるよう頼まれた。

この小書の目的はそのお望みに応じて、み主から特に、選ばれ、身を奉献した多くの人々にそのメッセージを伝え広めるためである。

その人々がこのメッセージを受けて読み、日々の光と力を見いだし、み主の愛のご事業の協力者となり、全世界を燃やさんと来たりたもうたみ主の愛の炎を、燃やすまきとならんことを! そのお望みに従って、心の愛の連鎖を、つまり、愛の火に燃え、み主に信頼し、すべてを、み心に期待して、全世界を愛の火に燃やさんことを!


*******

私は愛である。わたしのみ心はやきつくすばかりの炎を、もはや包み隠しておくことはできない。わたしは人々を愛するあまり命さえも犠牲にした。その愛のために、パンの形式のもとに、小さいオスチアの中に、昼夜かくれて、忘恩も孤独も、あざけりも、冒涜も、はずかしめも、無礼も、愛によって堪え忍びながら、二十世紀にわたって住んでいる。

人々を愛するあまり、告解の秘跡を定めた。一度ならず、二度ならず、幾たびでも恩恵を取りもどしたいと望むたびごとに、ゆるしを与えてあげる。わたしはその人々の罪の汚れを水で洗うのではなく、わたし自身の血で清めたいと待っている。

人類に対する愛をいつの時代にも、いろいろの方法で知らせた。救霊の望みがどれほどわたしのみ心をもやしつくすかを示した。わたしの聖心を現わした。このみ心への信心は全世界を照らす光となって、今日それは人々の心を感激させ、み国の来たらんことのために働く人を助けている。

しかし今わたしが願うことがもう一つある。愛に報ゆるに愛をもってすることを求めるばかりでなく、皆がわたしの慈悲深いことを信じ、わたしの愛隣に全く期待し、罪のゆるしを少しも、疑わないことをせつに望む。

わたしは天主であるが、愛の天主で、また父である。しかもやさしく愛する父で、きびしい者ではない。わたしのみ心は無限にとうといが、またさといから、人間の弱さやみじめさをよく知っていて、罪人には無限の愛隣をたれる。
へりくだって、ゆるしを求める罪人を、わたしは愛するばかりでなく、二度目の罪でも、またたとえ同じ罪を千たび、万たび繰り返して犯したとしても、ほんとに泣き悔やむ者を、ゆるし、愛して、最初の時と同じように、わたしの血でぬぐってあげる。

わたしは救霊の仕事にうむことはない。わたしのみ心にのがれてくる者を、よろこんで待っている。それがみじめな者であればあるほどなおさらに! 父はじょうぶな子よりも病気の子のめんどうをみる。病人こそ注意深く看護する必要がある。病める子に対しては心配も多く、やさしくするように、わたしも罪人に対しては義人よりも、あわれみも深く、なおやさしくする。

わたしが皆に語りたいのは次のことである。
み心の愛隣は限りないことを罪人によく知らせてほしい。わたしのみ心は無関心な、冷たい心を燃やす火である。そのような人々をもわたしは心から愛している。

信心深い者にとってわたしのみ心は、完徳への道、天国に行くたしかな道である。

最初に、わたしに奉献された、司祭、修道者、その人々はわたしから特別に選まれたので、その人々に、わたしが愛を求め、わたしの愛を疑わず、深い信頼をもって、わたしの仁慈を決して忘れないようにと願う。

わたしのみ心にすべてを期待することは、ごくやさしい! わたしの事業が、無であり、みじめさそのものの上に築かれ、永遠より人々を救うためにとそなえられた愛の鎖の最初の輪となることを知らせよう。

またわたしのみ心がどこまで人々を愛するか、ゆるすかを知らせよう。わたしは霊魂の奥底までもみぬくから、わたしをよろこばせたい、慰めたい、わたしに光栄を帰したいと、望むことをよく知っている。……そのうえ、おのれのあまりにも不忠実なのをみて、心からへり下るようになることこそ、かえってわたしを慰め、わたしの光栄となる。

彼らの弱さなどかまわない。……わたしが足りないところを補おう。失われてゆく多くの霊魂を救うために、わたしのみ心は、その弱ささえも利用する。

罪に倒れた者に対して、わたしの愛と慈悲には限りがない。わたしはゆるしたい。……わたしはゆるしてこそ、心を安んずるのである。わたしに来る者をいつも愛をもって待っている。……勇気を落としてはならない。おいで! わたしの愛のかいなに身をなげよ! なにも恐れることはない。わたしはおまえの父である。

天主を全く知らないで、深いやみの中に沈んでいる霊魂や、真の生命を与えてやりたいと、わたしがどんなに望んでいるかも、全く知らない人々を、わたしのみ心に引きよせるため、たくさんのことをすることができるのを、理解しない者が多い。修道者たちの中にも。だからヨゼファ、わたしはおまえに愛の秘訣を教えてあげよう。そうしておまえ自身が、わたしの愛隣の生きた一例となる。みじめさ、無にすぎないおおまえを、こうもわたしが寵愛するならば、おまえより、はるかに寛大な霊魂を、どうしてわたしが愛さずにいられよう!

わたしのみ心の中におはいり! 無にとって愛のふちに、身を沈めるほどやさしいことはない! そうしてわたしはおまえの、弱さ、欠点をだんだんに焼きつくそう。わたしがおまえの中に働き、おまえを通じて語り、おまえによって、わたしのことを知らせよう。

わたしのことばをきいて、多くの人々が生命を見いださんことを! もしわずかな奮発心、忍耐、清貧の行いなどが、わたしのみ心に多くの霊魂を贖う宝となることを知れば、どれほど多くの人々が勇気を得るだろう。わたしは行為をみないで動機をみる。愛をもってする最小の行為もたくさんの功徳をたて、わたしにたくさんの慰めを与える! わたしのみ心はそのようなごくわずかな行いにも、無限の価値を与える。わたしがほしいのは愛で、愛だけを捜し、愛のほかは求めない。
*******

わたしが要求するすべてを物惜しみなく与えてくれる霊魂は自分のためにも他人のためにもたくさんの功徳をつみ、多くの人々を滅びの道から奪い取る。

わたしのみ心が選んだ人々はその犠牲と愛とでわたしの恵みを世にふりそそぐ役目を持っている。
世俗には危険がいっぱいだ。あわれな罪人は絶えず悪にいざなわれるから、見える助け、見えない助けが必要だ。

わたしの選んだ人々が物惜しみをすればどんな宝を失い、また人にも失わせるか、よくわかっているだろうか? わたしはもう一度強調したいのだ。

わたしに選ばれたのだから当然欠点や弱さがなくなるはずだなどと思ってはならない。その人々も一度ならず罪を犯すであろう。しかしへり下って自分のつたなさを認め、その罪を、物惜しみない愛の小さな行いで償おうと努力し、再びわたしのみ心に信頼するならば、わたしのみ心は大いなる光栄を得、罪を犯さなかったよりも、もっと他人を助けることができるのだ。
いくじなさや、みじめさはたいした問題ではない。わたしが人々に求めるのは愛だ。

そのみじめさにもかかわらず、わたしは気も狂うほどに愛することができる。しかしここでわたしがいう罪は不注意や弱さからくる過失のことで、あらかじめ知って承諾した罪のことをいうのではない。ほんとうにわたしが人々から愛されるようにと願う心をいつももって、不完全な者ながら身をささげ、選ばれた人々が普通の行ないと日常の努力とによって、どんな美しい使命を果たすことができるかがわかるよう。ほかの人々よりも特に愛されたのは、徳が高いからではなく、みじめな者であるからだということを、決して忘れてはいけない。わたしは愛そのもので、わたしの心にもえるその愛は、すべての欠点を焼いてしまう。またおまえにわたしのみ心の秘密を語ろう……わたしがいつも知らせたいと、あせっているのは、皆がわたしのみ心をもっともっと知るということなのである。

*******

日々の生活をわたしの生活と絶えず一致させることを知る者は、わたしの光栄となり、救霊のために偉大な働きをする。たとえばそれ自身なんの価値もないことをしたとしても、それをわたしの血に浸し、またわたし自身が地上で行ったわざに合わせれば、救霊のためにどれほどのみのりをもたらすかわからない! それは全世界をめぐって説教する以上の収穫となる。学ぶにせよ、話すにせよ、書くにせよ、又は針仕事をしても、掃除をしても、休息するにしても同じ効果がある。それらのわざが命ぜられたことであるとか、義務であるとかであって、ただ気ままにするのでないならば。次にわたしの血に浸して、清い意向をもって、わたしと緊密に一致して行うならば、どんなわざでも偉大な価値あるものとなる。

この事実を多くの者が理解するようにせつに望む。行為それ自身になにか価値があるのではなく、それを行なう動機とわたしとの一致がたいせつなのである。わたしがナザレットの仕事場で掃除をしたり働いたりした時、のちに公生活ちゅうに説教したと同じように天の御父に光栄を帰し奉ったのである。

世間に出てりっぱな仕事をして需要な地位についている人々が、わたしのみ心に大いなる光栄を与えていることも事実であるが、卑しい働きに世の目から隠れた、多くの人々もわたしのぶどう畑にまことに有用な働き手である。彼らこそ愛に動かされて働き、その最小の行為さえもわたしの血を浴びて、超自然的黄金とかえることを知っているからである。

朝まだきよりわたしと深く一致してその一日をわたしが人々の救霊に役立てるようにと懇願し、愛をもって、その義務を一瞬一瞬果たすならば、一日にどれほどの宝を積むことができるであろう!

*******

わたしの愛をもっともっと彼らに現わそう。わたしの愛は、つきることなく、愛する者にとって、愛に導かれるままにするほど容易なことはない。

わたしのみ心は愛のみで、その愛はすべての人々を抱く、そうして特に選んだ人々をどれほど愛し、また世の危険にさらされている霊魂や、多くの罪人を救うために、どのように手伝ってもらいたいかをわからせることができるであろうか?

そのためにわたしがどんなに、彼らが完徳に進むことであるかを渇望しているかを、またこの完徳とは日常の平凡な行ないをわたしと親しく一致してすることであることを告げたい。もしこれをよく悟るならば、その全行為を聖化することができる。聖化された一日の価値は、いかばかりであろう!

人々が愛したいという望みにかられる時は、なにごとも困難ではない。しかし心がつめたく気力がないとすべてが苦しくつらくなる。……その時こそわたしのみ心へきて、勇気をとりもどすがよい。わたしにその無気力をささげよ! わたしを燃やす愛の熱に心を合わせて安心するがよい。その一日は人々の救霊のため計りがたいとうといものとなる。わたしのみ心は人々のすべてのみじめさを知りいつも深く同情している。わたしは人々がただばく然とわたしと心を合わせるばかりでなく、お互いに相愛しあって、いっしょに暮している人々のような、絶え間ない親しみを望んでいる。そのふたりは絶えず話し合っているわけではないが、少なくとも、お互いにいっしょにいて、愛し合い、こまやかな注意、愛情を傾けつくす。

心が平和で、慰めのなかにある時、わたしのことを考えるのは容易である。しかし無味乾燥となり、苦悩におちいる時も、恐れないで、ただわたしを仰ぎみるがよい。わたしはよくわかっている。その一瞥はわたしのみ心のいともやさしい同情をひきつける。

わたしは繰り返して、いかに人々を愛するかを告げよう。わたしは彼らがわたしをよく知りぬいて、わたしが託する霊魂に、わたしのことを教えてほしい。いつでもわたしを仰ぎみて、目をそらさないように。なまぬるい心の人があるのは、わたしの愛について誤った考え方をしているからである。そんな心のないように。わたしのみ心を愛することはむずかしくもつらいことでもなく、かえってやさしい心地よいことである。愛の高い峯に達するには別段特殊なことをする必要はない。ただ行為の大小を問わず、清い志を持ち、わたしのみ心と親しく一致しながらすれば、愛が他のすべてのことを補う。

ほんとにわたしこそ霊魂をやさしく愛するイエズスなのだ。人々を呼び、保護し、世話するこのみ心を見よ。人々から愛されることを、特に私が選んだ者たちから、愛されたいとの念願に燃えるみ心を見よ!

わたしのみ心は単に愛の深淵であるばかりでなくさらに慈悲の深淵である。天主からいとも愛される霊魂さえも、人間のみじめさをもっていることを知って、わたしは彼らがいかほどささいな行為でも世の救済のため、わたしによって無限の価値を帯びるようにと望んでいる。だれもかれもが皆説教をすることができない。また遠く未開地へ福音をのべ伝えることもできないが、皆ほんとにだれでもわたしのみ心を知らせ愛させることができる。……だれでも互いに助けあいながら選ばれる人々の数をふやすことができる。つまり多くの霊魂が失われることを防ぐことができる。そうしてこれはわたしのみ心の愛と仁慈の結果だからである。もし惜しみなく私の求めるすべてを与えるならば、自分と他人のためにばくだいな宝を積み、多くの者を滅びの底からとりもどすことになる。わたしが選んだ人々に、わたしの愛はもっと多く行うことができることを語ろう。

人々は日常生活のわずかな行ないを利用することができるばかりでなく、救霊のために、みじめさ、過失、罪さえも役だてることができる。ほんとに愛はすべてを変化し、聖化し、あわれみはすべてをゆるす。彼らに対するわたしの愛は、もっと深い。いかにささいな行為にも、聖なる価値を与えて日常生活を生かして行くばかりでなく、そのみじめさ、弱さ、過失さえも、世の救いのためにわたしは利用したいと思う。つまり自分がみじめさに満たされていることを知っている霊魂はどんな善をも自分のてがらとしないで、かえってその不完全さを見いだすことによって、いっそう謙虚な気持ちを抱くようになる。

またその使徒的働きや職務についても、おのが無能をはっきり感じ、人々を自分がまだ達しえない道にまで、助けなければならぬことを心苦しく思い、自然とへり下るようになる。そうしてもしこの弱さを、謙そんに自覚して、わたしのもとにかけより、努力の足りないことをわび、力と勇気をわたしの聖心に願うならばどんなに深く愛のまなこをそそぎ、またどんなに、わたしが、その働きを有効なものにするか、計り知れないほどである。ある者は毎日の努力や犠牲を一瞬ごとに、心惜しみなくささげることを知らない。その一生は約束ばかりでなにも実行せずに過ぎてしまうものが多い。
しかしここに差別がある。もしこの種の人々が、約束することが一つの習慣となってしまい、実行するために少しの無理も押し通さず、愛を表わすために何もしないなら、わたしは次のことばをいうほかはない。
「おまえがその穀物倉に積み重ねた藁(わら)に火がつかないように注意せよ。また風が一瞬にして吹き飛ばしてしまわぬよう警戒せよ」と。
しかしわたしがここでいうのは他の種類の人々で、どうかしてその愛を表わそうと善意をもってせつに望みながらその日を始める、そうして「この機会には自分を忘れて、物惜しみなくいたしましょう。こんな場合には」と約束する。しかしその折りがくると、もちまえの性質や、自愛心、また心持ちの悪さとか、何かに負けてしまい、数時間前にあんなに心から約束したことを、実行できなくなる。しかし心をとり直してへり下ってその弱さを認め、ゆるしをこう。そうしてふたたびわたしのみ心に信頼し、より頼んで決心を新たにし。愛や寛大な行ないをもって、償おうと努力する。この霊魂は、あやまちを犯さなかった者より私に光栄を帰するであろう。

註(み主はこれによって、承諾したり、又は直そうと努力しない習慣的となった過失と、人間的弱さからでるもの、また償った過失とを明らかに区別された。心のこもった償いは弱さから起こる過失のないことよりも、み心を慰めることを、説明された。実際償いが含む謙そん、信頼、寛大は、弱さから犯す過失の中にはないほどのはっきりした意志がなければ果たせない。)

わたしはゆるしたい。わたしは人々を治め、王となって、世界のはてまで、平和をひろめたい。わたしは英知であり、幸福そのものである。わたしは愛であり仁慈である。わたしは平和そのもので、世を統治しよう。人々の忘恩をぬぐい去るためのめぐみの雨をふりそそごう。その罪悪を償い、ゆるしを求めるいけにえを選ぼう。ほんとにわたしをよろこばせたいと願う人が世の中にもたくさんいる。また持てるすべてをささげて、わたしの欲するように、望むままに役立ちたいと、願う寛大な心の人がいる。わたしは愛と平和のうちに治めよう。まず皆の上に慈悲をたれることから始めよう。これこそわたしの目標で、これが愛の大事業である。
わたしは万民によびかける。身を奉献した者にも、世俗に住む人々にも、義人にも罪人にも、学問のある人にも、無学な人にも、命ずる者にも、従う者にも。めいめいにわたしは告げに来た。……もし富を望むならば、わたしこそ無限の富だ。もし平和を欲するならばわたしのうちにのみ平和を見いだす。もし幸福を追うならば、わたしのうちに見つけることができる。わたしは慈悲であり、愛である! そうしてわたしのみが最上の王である。

わたしがせつに願うことは人々の心を愛の火でもやすことで……全世界の人々を……悲しいことには皆がこの炎に背を向ける、だがわたしは勝って、皆わたしの民となり、わたしは王となる。世の人々がわたしを知り、わたしのもとに来るよう、いっしょに苦しんでおくれ、苦しみによって愛は勝利をうる。
真の光が人々の心にさし込むようにと願うわたしを知らずに、霊魂のとうとさに無知無関心のまま成長する無邪気な子供たちの心をかち得たいし、ほんとにわたしの喜びであるこれらの小さい心がわたしを知り、おきてを守り、わたしのみ心の愛を学ぶ園が欲しい。
わたしは愛の力で人々の心を征服したい。よき道徳心を目ざまし、人々が地上のためのみでなく、天に心をあげ、そこへ向かって生きて行くようにと望むのである。これは人間社会の進歩を妨げるどころか、かえってわたしは人々がその知恵や、才能や、力を利用することをせつに望むが、人間的知識の上に天主に対する知識を加えて、地上の幸福を求めながらも何が人を真に偉大にし、幸福にするかを悟ってもらいたいのである。
わたしはおまえたちをこの愛の事業の助け手として選んだ。わたしの念願はおまえたちが、わたしが全世界に燃えひろめようとする愛の火のまきとなるということである。火をつけても燃やすものなしでは炎も役にたたない……それゆえわたしは次から次へと炎をうつす愛の連鎖をつくりたい。わたしのみ心に信頼しすべてを期待する愛、その炎にもえて全世界の果てまで燃やしつくすため。

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十字架以外のことを語ろうとはしない。十字架をもってわたしは世を救った。今わたしはまた十字架によって世を、信仰と愛の道に連れもどそう。
おまえたちにわたしの念願を打ち明けよう。わたしが十字架の上から世を救ったというのは苦しみによってということである。罪は天主に対する無限の侮辱で、無限の償いを要求する。だからわたしはおまえたちが忍ぶ苦しみや働きをわたしのみ心の無限の功徳に合わせてささげるようにと願うのである。わたしのみ心はおまえのものであるからそれを取って償いとし、ささげるがよい。おまえたちに近づく人々に愛と信頼の念をふき込み、わたしの愛のうちに彼らを浸すよう、み心の仁慈、愛隣への信頼に浸すよう。わたしのことを語り知らせる機会があるたびに、いつもわたしは愛の天主で、なにも恐れることはないと告げておくれ。
わたしは三つのことをおまえたちに特にすすめる。
聖時間の信心。それは御子イエズス・キリストの仲介によって無限の償いを御父にささげることのできる一つの方法である。
五つの傷をあがめて五たび主祷文を唱える信心、このおん傷を通じて世は救われた。
最後にみ心の功徳への絶えざる一致、こうしてこそすべての行ないに無限の価値が与えられる。
わたしの生涯、わたしの血、わたしの聖心を絶えず利用すること……恐れず、うまずわたしのみ心に信頼すること。この秘訣を多くの者が十分に理解しない。お前たちこそこれを知って利用するように。

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わたしの愛が太陽のように人々を照らし、暖めるようにと願う。わたしのことばが皆に知れわたり、わたしは愛の天主で、慈悲深くゆるすことを願っていることを知ってほしい。一番みじめな者も恐れず近づき、わたしがどんなにゆるしたいと望んでいるかを全世界の人々に知ってもらいたい。もっとも罪深い者もわたしから遠ざからないで、皆がわたしに来るように、わたしは父のごとく両手を広げ、生命と真の幸福を与えようと待っている。

世の人々にわたしの仁慈を知らせるため、わたしのみ心を開いて、教える使徒が欲しい。が、まずわたしのことを、よく知らなければ、どうして他人に知らせることができよう。だからここ二、三日の間わたしは司祭、修道者、修道女たちに語ろう。みんながはっきりとわたしが欲することを悟るように。ささげられた霊魂たちが愛に団結して一つとなり世の果てまで、わたしの愛と仁慈をのべ伝えてほしい。世の人々は罪に走ってゆく。ゆえに信者やことに選まれた人々は償いの必要と望みに目ざめて、ますます償うように。ほんとに今世界の国々は天主の正義の御怒りを招いているが、愛のみ国の来たらんことを望みたもう主は、選まれた人々、ことにこの国の人々によびかけたもう。まずゆるしをこい、償いを求め、この民の上に新しいめぐみを降ろしたもうようにと。(この国とはフランスの意)わたしのみ心を知り、その信心を広めたのはまずこのフランスであった。

わたしは世の救いを求める。平和と一致の御代が来ることを。わたしは世を治めることをせつに望むが、それは選まれた人々の償いとわたしの愛と仁慈を皆が更に悟ってこそ、治めるようになる。

わたしのことばは数知れぬ人々に光と命を与えるであろう。すべて印刷され、読まれ、ひろめられる。わたしは人々の心を照らし聖化する特別の恩寵を与えよう。

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今日はまたわたしに身を奉献した者に語りたい。罪人と世の人々にわたしのことを知らせることができるように。

まだ奉献した人々のうちにさえ、わたしの心情を深く、くむことを知らない者がいる。わたしをあたかも、どこか遠くに住む者、よく知らない人、あまり信頼できない人のように取り扱う。わたしはその人々が信仰をあつくし愛をかきたて、愛し、また愛される御者と、親しく、信頼して暮らすよう、願うのである。

普通家庭では、総領の子が一番よく父の心持ち、秘密などを知っている。父もまた彼に全く信頼する。年下の子は、まだ重大な事柄について、心をくばることもできないし、ものごとの深いことはわからない。もし父親が死ねば、その意志、望みなどを兄弟に伝えるのは、兄の務めである。わたしの教会にも年長者がいる。それはわたしが特に選んだ人々である。司祭職や修道誓願によって奉献された者は、わたしと一番親しく暮らし、特別の恩寵をこうむり、わたしもまた秘密を打ち明ける。彼らの弟、妹であるわたしの子供たちを直接、間接に教え導き、わたしの望みを伝えるのも彼らであり、その義務なのである。

これらの選まれた人々が、まことにわたしを知るならば、他の人々にわたしを知らせることができる。知らなければどうして教えることができよう。ひとつたずねるが,あまりよく知らない人を愛することができるであろうか? 縁遠い者、信頼のおけぬ人のことを真の親しみをもって語ることができるであろうか? わたしはもっと親しくとりなしてもらいたい。霊魂が恩恵に浴していれば聖霊の神殿であることを知って、わたしを心の中に求めてほしい。心の中にほんとにわたしがいることを考えてもらいたい。天主、しかも愛の天主が。愛が恐れに打ち勝ち、ことにわたしが愛していることを決して忘れないように。多くの者は特別愛されて、選ばれたことをよく承知しているが自分のみじめさ、過失に悲しみ沈んで、前のようには愛されないなどという考えに捕われてしまう。この人々はわたしをよく知らないから、そんなことを思うのだ。わたしのみ心がなんであるかを了解しない。そのみじめさ過失こそ、わたしの慈悲をよびくだすのではないか。おのが弱さを認める時にこそ、へり下り、信頼をもって、わたしにくることができる。その時こそ過失を犯した前よりも、もっとわたしに光栄を帰することになる。

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自分のため他人のために祈る時も、きき入れられないかと、疑ったりすれば、同じように、わたしのみ心を尊敬することにならない。百夫長が、わたしのもとにきて、召使いの病気をなおしてくださいと願った時、彼は謙そんしていった。「主よ、われは主がわが家に入りたもうにはふさわしきものにはあらず」と。しかし信仰と信頼にみちたことばをつけ加えた。「されど主よ、ただひと言をだにのたまわば、わがしもべはいえん」と。この人はわたしをよく知っていた。わたしに期待する者の懇願を、拒みがたいことを知っていた。謙そんに加えて、堅い全き信頼があったから、わたしのみ心にたいへん光栄を帰した。ほんとにこの人はわたしのみ心を知りぬいていた。でもわたしは選まれた人々にしたように、彼にわたしを示したわけではなかった。

信頼こそ、つきぬ恩寵を、自分のためにも他人のためにもうるのである。心の底まで、わたしみ心を了解して、わたしをまだ知らないあわれな人々にその仁慈を示しておくれ。

わたしはふたたび繰り返す。今語ることはなにも新しいことではないが、ちょうど火を燃やし続けるためにまきが必要であるように霊魂も進歩し、新たに鼓舞するためには、新しい刺激がいる。わたしに身をささげた人々の中にも真の信頼を持っている者が少ない。それはわたしと緊密に一致して、暮らさないからである。わたしはあるがままの姿で皆を愛していることを知ってもらいたい。弱いから一度ならずつまずくであろう。たびたび約束したことを守らないであろう。でも更によくしようとの善意はわたしの光栄となる。またころんだのちに、へり下りわたしに信頼をおくこともわたしをたたえることとなるので、わたしのみ心は、その人々の上にめぐみの雨をふりそそぐのである。

どれほど、わたしは皆が、この親しい生活を更に新しい気持ちで始めたいと望んでいるかを知ってもらいたい。ただ祭壇のもとにある時ばかり、わたしと語ることに満足しないで、わたしはほんとに聖櫃の中にいるが、また彼らのうちにも生きているから。すべてのことをいっしょにしなければ気がすまない。なにごともわたしに語り、相談し、なんでもわたしに願うように。……わたしは彼らのうちの生命となって生き、力となって住んでいる。その心の中で親しく会合し、談話し、愛し、わたしの愛に答えるのを待っている。

多くの者が毎日黙想をするが、それは愛の密談よりも、一つの形式的なことにすぎないのではなかろうか? ミサにもあずかり聖体も受けるけれども、ひとたび聖堂から出ると、自分の仕事に夢中になって、ひと言もわたしに呼びかけようと思いもしないのではなかろうか? この人々の心の中で、わたしはさばくに住んでいる心地だ。わたしになにもいわず、なにも願わない……慰められたいと思う時、彼らの中にいる間近かの創造主であるわたしをさしおいて、被造物の他人に走ってゆく。これは一致も内的生活もないので、つまり愛のないことではなかろうか。

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再びわたしに身をささげた人々に言おう。どんなに特別にわたしが彼らを選び、わたしと親しく暮らし、わたしの心を痛めるすべての人に代わって、わたしを慰め、償ってもらうためであるか。その人々にわたしは、み心をよく学び、その心情をくみ、その念願をできる限り実現するつとめがあることを思い出させたい。

農夫は自分の畑を耕す時には、まず雑草をぬき、よい畑となるよう、どんな困難辛苦もいとわない。同じように選ばれた人々はわたしの念願を知った以上、熱心にこれをかなえるよう励み、わたしの光栄を増し、世の罪を償うため、どんな努力も苦しみも、いとわないように。ことにわたしと親しく一致して、わたしをひとりぼっちにしないこと、ああわたしをひとりしないこと! ……ある人々はこれを了解しないで、相手となって、わたしを慰めるはずであることを忘れている。……
最後にわたしのみ心の中に一つとなって、すべての人が、真理の光に浴し、罪のゆるしをうるために、愛の連盟をつくるようにと願う。

わたしが受ける屈辱を見て、悲しみに貫かれれば、選ばれた者たちは、身をささげて、これを償い、わたしの事業のために働くにちがいない。その時こそ全き信頼を持って願え。わたしはその願いをしりぞけることはできず、すべてかなえてあげる。

ゆえに皆がわたしのみ心を学ぶように努力し、わたしを深く愛し、親しくわたしに語り、相談するように。またその行為をわたしの功徳でおおい、わたしの血に浸し、その一生を人々の救済と、わたしの光栄のためにささげるよう。自分の小さな考えに、ちぢこまってしまわないで、わたしの血、わたしの功徳の力強さを身にまとうことのできる喜びに満ちて、おのが力ではなにも大きいことはできないが、わたしといっしょに、わたしの名によって、わたしの光栄のために働くならば、どんなに力強いことであろう。

奉献された者たちは、償いの望みをいきいきとさせ、信頼をもって聖なる王の御代の来ることを願え。わたしが全世界の王となるよう。なにも恐れず、わたしに信頼し、わたしに期待せよ。罪人の改心の熱愛にもえ、彼らに同情して祈り、やさしさを尽くすよう。いかにわたしが同情深く、愛であり、仁慈であるかを世の人々に語るように。

祈りと苦業に身をかため、ことに信頼をあつくして、おのが力にたよらず、常にともにいるわたしのみ心の力と仁慈にすべてを期待して、使徒的働きに向かうよう。
わたしの使徒たちは貧しい。無知な者であったが、天主の富と英知に満たされて賢い者となり、「み主のみ名によりて、働くゆえに、なにごともできるようになるでしょう」と。
わたしは身を奉献した者から三つのことを願う。……

償い ― 償いは聖なる贖主と親しく一致して生活することで、彼と共に彼のために、彼の中に、その感情、念願に心をぴったりと合わせて、償いの精神をもって働くことである。
愛 ― 愛とは、被造物の愛を求め、その低きにまで下りたもうた御者、全き愛にまします御者と親しく暮らし、愛をささげることである。
信頼 ― 信頼とは善にましまし、あわれみ深き御者により頼み、その御者と昼夜生活することで、わたくしをよく知り、わたくしも知り奉る御者……わたくしを愛し、わたくしも愛する御者……選まれた人々を特に招きたもう御者と共に暮らし、そのみ心をよく知りすべてを期待することである。 

昭和37年12月5日初版発行 聖心女子学院編 









復活の徹夜祭で歌われる有名なEsultet 復活の讃歌をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします

2020年04月18日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

復活の徹夜祭で歌われる有名なEsultet 復活の讃歌をラテン語と日本語の対訳でご紹介いたします。

「私たちが生まて来たことは、キリストによって贖われなかったなら、いかなる利益もなかった!」

おお!かくも偉大でかのような贖い主をいただけるとは、何と幸せな罪であったか!

Exsúltet iam angélica turba cælórum: exsúltent divína mystéria: et pro tanti Regis victória tuba ínsonet salutáris. 天の天使たちの群れよ、すでに喜び踊らんことを、天主の神秘らよ、喜び踊らんことを、かくも偉大な王の勝利のために救いのラッパを響かせんことを!
Gáudeat et tellus, tantis irradiáta fulgóribus: et ætérni Regis splendóre illustráta, tótius orbis se séntiat amisísse calíginem. 地も喜ばんことを、かくも大いなる閃光を放ち、永遠の王の輝きに照らし出され、全地球は邪悪を失ったと感じるが良い。
Lætétur et mater Ecclésia, tanti lúminis adornáta fulgóribus: et magnis populórum vócibus hæc aula resúltet. かくも大いなる光の輝きに飾られた母なる教会も喜ばんことを、諸民族の大きな声でこの部屋は喜ぶが良い。
Quaprópter astántes vos, fratres caríssimi, ad tam miram huius sancti lúminis claritátem, una mecum, quæso, Dei omnipoténtis misericórdiam invocáte. 従って、臨席のあなたたち、いとも愛する兄弟たちよ、この聖なる光のいとも驚くべき輝きへと、全能の天主の憐れみを私たちとともに、請い求めよ、と私はお願い申し上げる。
Ut, qui me non meis méritis intra Levitárum númerum dignátus est aggregáre, lúminis sui claritátem infúndens, cérei huius laudem implére perfíciat. それは、私の功徳によるのではないがこの私を聖職者の数の中にかたじけなくも入れ給うた方が、御自分の光の輝きを注入し給い、この蝋の賛美を満たすことを完成し給うためである。
V/ Dóminus vobíscum. V/ 主は、あなたたちと共に
R/ Et cum spíritu tuo. R/ またあなたの霊と共に
V/ Sursum corda. V/ 心を上に挙げよ
R/ Habémus ad Dóminum. R/ 我らは主へ挙げ奉る
V/ Grátias agámus Dómino Deo nostro. V/ 我らは主なる我らの天主に感謝しよう
R/ Dignum et iustum est. R/ それはふさわしく正しいことなり。
Vere dignum et iustum est, invisíbilem Deum Patrem omnipoténtem Filiúmque eius unigénitum, Dóminum nostrum Iesum Christum, toto cordis ac mentis afféctu et vocis ministério personáre. 目に見えない聖父なる全能の天主とその御一人子私たちの主イエズス・キリストを心をこめて愛情を尽くして声の役務により賛美を響かせることは、実にふさわしく正しいことなり。
Qui pro nobis ætérno Patri Adæ débitum solvit, et véteris piáculi cautiónem pio cruóre detérsit. イエズス・キリストは、私たちのために永遠の聖父にアダムの罪の負債を支払い、いにしえの負債帳を尊き血潮で破り引きちぎった。
Hæc sunt enim festa paschália, in quibus verus ille Agnus occíditur, cuius sánguine postes fidélium consecrántur. これこそ実に過ぎ越しの祭りである。この祭りにおいて本当のあの子羊はされ、その血によって信者たちの家の入り口は聖別される。
Hæc nox est, in qua primum patres nostros, fílios Israel edúctos de Ægypto, Mare Rubrum sicco vestígio transíre fecísti. この夜こそ、御身が、エジプトから導き出された私たちの祖先であるイスラエルの子らが、紅海を乾いた足跡をのこして渡るようになし給うた夜である。
Hæc ígitur nox est, quæ peccatórum ténebras colúmnæ illuminatióne purgávit. 故に、この夜こそが、罪人たちの暗闇を光る雲の柱で輝かせて清めた夜である。
Hæc nox est, quæ hódie per univérsum mundum in Christo credéntes, a vítiis sæculi et calígine peccatórum segregátos, reddit grátiæ, sóciat sanctitáti. この夜こそが、今日、全世界で、この世の悪習と罪の邪悪とから区別されたキリストを信じる者たちを、聖徳と結びつけ、聖寵を再び与える夜である。
Hæc nox est, in qua, destrúctis vínculis mortis, Christus ab ínferis victor ascéndit. この夜こそが、死の鎖を打ち壊し、キリストが勝利者として地獄から上った夜である。
Nihil enim nobis nasci prófuit, nisi rédimi profuísset. 私たちが生まて来たことは、キリストによって贖われなかったなら、いかなる利益もなかった。
O mira circa nos tuæ pietátis dignátio! おお!御身の私たちに対する何と驚くべきかたじけなき優しさよ!
O inæstimábilis diléctio caritátis: ut servum redímeres, Fílium tradidísti! おお!評価を絶する愛徳の深さよ!御身が奴隷を買い戻すために、御身は御自分の子を渡し給うた!
O certe necessárium Adæ peccátum, quod Christi morte delétum est! おお!キリストの死によってそれが破壊されるために、確かに、アダムの罪は必要であった。
O felix culpa, quæ talem ac tantum méruit habére Redemptórem! おお!かくも偉大でかのような贖い主をいただけるとは、何と幸せな罪であったか!
O vere beáta nox, quæ sola méruit scire tempus et horam, in qua Christus ab ínferis resurréxit! おお!じつに幸せな夜である、この夜だけがキリストが地獄からよみがえり給うたその時と時間を知ることが出来たのだから!
Hæc nox est, de qua scriptum est: Et nox sicut dies illuminábitur: et nox illuminátio mea in delíciis meis. この夜こそ、聖書に記されている夜であり、「夜が真昼のように照らし出されるであろう、私の甘美さにおける私の照らし出しの夜」と。
Huius ígitur sanctificátio noctis fugat scélera, culpas lavat: et reddit innocéntiam lapsis et mæstis lætítiam. Fugat ódia, concórdiam parat et curvat impéria. 故に、この夜の聖化は、極悪を逃げ去らせ、罪を浄め洗う、また失った者たちに無罪を返し、悲しむ者たちには喜びを戻す。憎しみを追放し、心の一致をもたらし、おごり高ぶる者を低める。
In huius ígitur noctis grátia, súscipe, sancte Pater, laudis huius sacrifícium vespertínum, quod tibi in hac cérei oblatióne solémni, per ministrórum manus de opéribus apum, sacrosáncta reddit Ecclésia. Sed iam colúmnæ huius præcónia nóvimus, quam in honórem Dei rútilans ignis accéndit. 故に、この夜の恩寵において、聖なる父よ、この荘厳な蝋の奉献において、蜜蜂の働きから役務者の手を通して、神聖にして犯すべからず教会が御身に捧げるこの夕の賛美のいけにえを受け入れ給え。
Qui, lícet sit divísus in partes, mutuáti tamen lúminis detrimenta non novit. Alitur enim liquántibus ceris, quas in substántiam pretiósæ huius lámpadis apis mater edúxit. しかし、既に天主への誉れのために火が付けられたこの蝋の柱の予告を私たちは知っている。これは、部分には分けられるかもしれないが、光に変わった部分の損失はない。火は、母なる蜂がこの貴重な明かりの材料を運んだ融けた蝋によって養われる。
O vere beáta nox, quae exspoliavit Aegyptios, ditavit Hebraeos! Nox, in qua terrénis cæléstia, humánis divína iungúntur! おお、実に幸せな夜よ、エジプト人たちから奪い取り、ヘブライ人たちを豊かにした夜!この夜において地上のものは天上のものに、人間的ものは天主的ものに結びつく!
Orámus ergo te, Dómine, ut céreus iste in honórem tui nóminis consecrátus, ad noctis huius calíginem destruéndam, indefíciens persevéret. Et in odórem suavitátis accéptus, supérnis lumináribus misceátur. Flammas eius lúcifer matutínus invéniat. Ille, inquam, Lúcifer, qui nescit occásum. Ille, qui regréssus ab ínferis, humáno géneri serénus illúxit 従って、主よ、私たちは御身に祈る。御身の御名の名誉のために聖別されたこの蝋が、この夜の邪悪を破壊するために、壊されずに守られるように。そして甘美な香りを受け入れ給い、天上の光に混ざり合わされるように。明けの明星がその炎を見いだすように。私は言う、つまり、かの沈むことを知らない明けの明星、キリストのことである。地獄から再び戻ってきた、平和の内に人類を照らしだしたかのキリストである。
Precamur ergo te, Domine: ut nos famulos tuos, omnemque clerum, et devotissimum populum: una cum beatissimo Papa nostro Benedicto et Antistite nostro N. quiete temporum concessa, in his paschalibus gaudiis, assidua protectione regere, gubernare, et conservare digneris. 従って、主よ、私たちは御身に祈願する。私たち御身のしもべたちと全ての聖職者、いとも敬虔な民を、至福な私たちの教皇フランシスコおよび私たちの司教 N. と一つに、平和な時が与えられて、この復活祭の喜びにおいて、御身が堅い守りにおいてかたじけなくも君臨し、統治し、保存し給わんことを。
Respice etiam ad eos, qui nos in potestate regunt, et, ineffabili pietatis et misericordiae tuae munere, dirige cogitationes eorum ad iustitiam et pacem, ut de terrena operositate ad caelestem patriam perveniant cum omni populo tuo. さらに、私たちを権力をもって統治する人々をご覧になり、御身のえもいわれぬ優しさと憐れみとの賜で、彼らの考えを正義と平和へと導き給え。それは地上の業から天上の祖国へと御身の民と共に彼らが到達することが出来るためである。
Per eumdem Dominum nostrum Jesum Christum Fílium tuum : qui tecum vivit et regnat in unitate Spiritus Sancti Deus : 御身と共に聖霊との一致において生きかつしろしめし給う御身の御子、私たちの同じ主イエズス・キリストによりて、
Per omnia sæcula sæculórum. 代々に至るまで
R/ Amen. R/ アメン


主イエズス・キリストの御復活のお慶びを申し上げます 小野田神父メッセージ SSPXJAPAN 聖ピオ十世会

2020年04月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

御復活の喜びのメッセージを申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父


「キリストの御魂、我を聖ならしめ」で始まる有名な「キリストに向かう祈り」

2020年04月17日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

「キリストの御魂、我を聖ならしめ」で始まる有名な「キリストに向かう祈り」は、よく聖イグナチオに帰されています。

しかし、聖イグナチオの時代には、すでに皆が良く知っていた祈りだったということが分かっています。

すでに14世紀の祈祷書の写本にもこの祈りがあり、スペインのセビリアにあるスペイン王室のアルカサル宮殿(14世紀)の門の一つにも書かれています。

この祈りは、次の通りです。

Anima Christi, sanctifica me.

Corpus Christi, salva me.
Sanguis Christi, inebria me.
Aqua lateris Christi, lava me.
Passio Christi, conforta me.

O bone Jesu, exaudi me.
Intra tua vulnera absconde me.
Ne permittas me separari a te.
Ab hoste maligno defende me.

In hora mortis meae voca me:
Et Jube me venire ad te,
Ut cum Sanctis tuis laudem te,
In saecula saeculorum. Amen.

キリストに向う祈
(聖なる救い主に向かう祈り)

願わくはキリストの御魂、我を聖ならしめ、
【贖いの御業を通して】
キリストの御体、我を救い、
キリストの御血、我を酔わしめ、
キリストの御脇腹より滴りし水、我を清め、
キリストの御受難、我を強めん事を。
【愛による一致を通して】
慈愛深きキリスト、我が願いを聞き入れ、
御傷の内に我を隠し給え。
主を離るるを許し給わず、
悪魔の罠より我を守り給え。
【栄光における一致を通して】
臨終の時に我を招き、
主の御許に至らしめ、
諸聖人と共に、主を讃美する事を得しめ給え、
世々、とこしえに。
アーメン。









--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】