Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

六旬節の説教 アダムとエバの子どもたちについて

2021年02月08日 | お説教・霊的講話
六旬節の説教 アダムとエバの子どもたちについて

はじめに

先週の主日に、教会は、四旬節への準備である七旬節の期節に入りました。先週の聖務日課とミサの朗読を通して、教会はアダムとエバの創造、原罪と楽園の喪失、また原罪の後、天主はどのようにして私たちを聖性と永遠の救いに再び招いておられるのかについて語りました。原罪の前よりも困難になっていますが、私たちには天国に行く第二のチャンスが与えられています。

先週の主日、聖パウロは私たちの地上での生活をオリンピックの競技に例えています。賞を取ることが、競技において多くの肉体的な努力をすることによってのみ可能であるように、天国という報いを勝ち取ることは、地上での生活の中で、多くの霊的な努力と犠牲を払ってのみ可能なのです。

本日の聖務日課の朗読の中で、教会は私たちに、アダムとエバの子どもたちの話を読ませます。四旬節に向けての良き決心を適切にすることができるように、この聖書の一節から得られる霊的な教訓を見てみましょう。

1.二つの陣営

アダムとエバは楽園から追放された後、最初の子どもたちをもうけました。カインとアベルです。カインは農夫で、アベルは羊飼いでした。二人とも天主にいけにえを捧げていました。カインは農場の産物を、アベルは羊の群れを捧げていました。聖書には、「主はアベルとその供え物をご嘉納になったが、カインとその供え物はご嘉納にならなかった」(創世記4章4節)と書かれています。

実際、私たちが天主にいけにえを捧げるとき、天主はまず私たちの心の意向を見ておられ、アベルの意向が優れていたのなら、カインの意向は悪しきものでした。カインは嫉妬にかられて弟を殺すまでになりました。それが、犯された初めての殺人でした。カインには子どもたちがいましたが、聖書には、その子どもたちが彼の悪しき行いに従ったと書かれています。それは、殺人、一夫多妻、高慢、怒り、復讐であり、地上のことばかりを気にしていたのです。天主から離れて生きていた人間は、聖書では「人々の子ら(原文の「人々の娘ら」は「人々の子ら」を想定している)」(創世記6章2節)と呼ばれています。

その一方で、聖書には、エバが「子を生み、セトと名づけ」たとあり、「『カインが殺したアベルの代わりに、天主はもう一人の子をくださった』。セトにも子が生まれ、エノシュと名づけた。主の御名をこいねがい始めたのは、そのときからである」(創世記4章25-26節)と言っています。そして、セトの子どもたちが天主の律法に従って生きようと努力したことが書かれています。そのうちの一人、エノクは非常に聖なる人で、天主は彼をこの世から生きたまま連れ去られ、世の終わりに地上で宣教するためにどこかに保存しておられるのです。天主の律法に従って生きようと努力する人間は、聖書によって「天主の子ら(filii Dei)」と呼ばれています。

私たちは、この聖書の一節からどのような霊的な教訓を引き出すことができるでしょうか?

第一に、カインとセトの対立は、人類を二つのグループに分けるというイメージです。それは、創造主であり主権者たる主人である天主を拒否する人々と、天主に進んで服従する人々です。

大洪水の前にあったような天主の子と人の子の間のこの対立は、今日でも現実のものです。人類は、互いに根本的に対立する二つの陣営に分かれています。それは、天主の掟を守る人々の陣営と、天主から離れて天主を拒否し天主に依存せずに生きている人々の陣営です。

私たちは、同時にこの二つの陣営に属することはできません。イエズスは「私の味方でない人は私に背く」(マテオ12章30節)と言われました。ですから、私たちは天主の子でいたいと望んでいるのですから、人の子が私たちに敵対しているのを見ても、悪魔やこの世があらゆる手段を使って私たちにカトリックの信仰と道徳を失わせようとしているのを見ても、驚かないようにしましょう。この世や歴史の中でカトリック信者に対する肉体的、社会的な迫害を見ても、驚かないようにしましょう。


第二に、天主の子と人の子との間にあるこの対立は、原罪以来、私たちが自分自身の中で抱えている内なる対立というイメージです。実際、私たちの内側には、二つの陣営があるのです。それは、私たちを罪に陥れようとする私たちの無秩序となった傾向と熱情を意味する、聖パウロが「肉」と呼ぶものと、天主の掟に従って生きようとする私たちの善意を意味する、聖パウロが「霊」と呼ぶものです。

本日の書簡で皆さんは、偉大な聖パウロでさえも、この内なる対立にさらされていたことを聞きました。「肉」と「霊」は両立できないものです。一方が他方を支配しなければなりません。肉が支配するならば、私たちは最後には地獄に行き、霊が天主の助けによって支配するならば、私たちは天国に行くのです。

これが、第一の教訓です。私たちの内側と外側に霊的な戦いがあります。そして、私たちはそれを好むと好まざるとにかかわらず、必然的に両方にかかわっているのです。中立という立場はないのです。


2.私たちの激しい内なる弱さ

次に、聖書にはこう書かれています。「地の面に人間が増え始め、娘たちが生まれてくると、天主の子らは人間の娘たちを見て気に入り、好きなのをみな妻にした」(創世記6章2節)。そして、天主の子は、結婚を通じて人の子と結んだ密接な関係のために堕落してしまい、ですから聖書は「天主の御目にとって、この世は腐敗し、暴力に満ちていた」(創世記6章11節)と書いています。

ここに、見るべき第二の現実があります。私たちは原罪によって弱まってしまったため、悪しき人々と関わりすぎると、最終的には彼らによって堕落してしまうのです。同様に、私たちが自分自身の中で抱えている霊と肉との間の内なる戦いについても、もし私たちの「霊」が「肉」と戦うのをやめて、「肉」と平和的に共存しようとするならば、「肉」は私たちの「霊」を乗っ取ってしまうことになります。これは覚えておくべき重要なポイントです。私たち自身によって、私たちは弱く、信じられないほど弱くなっているのです。そして私たちの日々の罪は、この私たちの内なる弱さを永遠に思い出させるだけなのです。

このことは、私たちが誘惑に抗うことができず、必然的に罪に陥るしかないということでしょうか? 人の子と結びついた天主の子の堕落に言及した後、聖書は、すべての民の中で、一人の人間が正しい人であることを見いだしたと言っています。「しかし、ノアだけは主の御前に恩寵を受けていた…ノアは正しい人であり、そのころの人々の間でも申し分のない人とされ、天主とともに歩んでいた」(創世記6章9節)。「ノアだけは主の御前に恩寵を受けていた」。

この聖霊の言葉は、天主が地上のすべての人々を注意深くご覧になった後、突然、喜んで、ノアがご自分の掟を守っていたことを発見されたかのように理解すべきではありません! そうではなく、天主は、他の人々を彼らの悪しき望みに従わせ、ますます大きな罪に陥らせるままにさせておられた一方で、天主の恩寵によってノアを、彼を取り巻く悪しき影響から、また彼自身の情欲による悪しき衝動から守っておられたと理解すべきです。こうして、ノアは非常に悪しき社会の真っただ中で生きていたにもかかわらず、「彼は正しい人であり、申し分のない人…天主とともに歩んでいた」のです。

悪魔や、私たちの周りの悪しき人々、そして私たち自身の情欲から来る悪しき影響に対する霊的な勝利は、天主の特別なご保護と恩寵によってのみ可能なのです


3.祈りと苦行

では、今、私たちは天主のご保護と恩寵を得るために何をしなければならないのでしょうか? 私たちの主イエズスは「誘惑に陥らぬように目を覚まして祈れ」(マテオ26章41節)と言われ、他のところでは、「私は言う。あなたたちも悔い改めないなら、みな同じように滅びるだろう」(ルカ13章3節)と言われました。

祈りとは、天主を愛していること、天主に感謝していること、天主に赦しと助けを願っていることを天主に伝えるための天主との会話であり、悔い改めとは、私たちの罪のために天主に捧げる償いですから、この二つは、私たちが誘惑に陥らないようにするために、天主が私たちに求めておられる二つの主要な心構えです。

おそらく時折、皆さんは自問するかもしれません。私は死んだ後、天国に行くのだろうか? 私は地獄に行くのだろうか? 
実際、皆さんはこれらの質問に自ら答えることができます。
皆さんは信仰と天主を喜ばせる確固たる意志を持って毎日祈っていますか? 
毎日ロザリオを祈っていますか? 

もし皆さんが「いいえ」または「そうでもない」と答えたなら、その質問の答えは明らかです。聖アルフォンソ・リグオリは「祈る者は救われ、祈らない者は呪われる」と言いました。

皆さんは自分の罪のために定期的に悔い改めをしていますか? 皆さんは、食べ物を控えるという断食の犠牲、教会や貧しい人々のために行う慈善活動という犠牲、週にミサにあずかるという犠牲を捧げていますか?  皆さんは定期的に告解に行きますか? 人生の試練を辛抱強く、不平不満を言わずに受け入れ、罪の償いとして天主に捧げていますか? 

もし皆さんがこれらの質問に「いいえ」と答えたならば、「私は死んだ後、地獄に行きますか?」という質問に対する答えは、おそらく「はい」となるでしょう。なぜなら、皆さんが悔い改めをしない場合には、私たちの主は「悔い改めをしないなら、みな滅びる」と言われたからです。

次のように言う人々がいるかもしれません。「私たちの生きているこの世はとても堕落しているため、試みに抗うことは不可能です」。何と悪い言い訳でしょうか…。

ノアの時代の世はとても堕落していたため、天主はすべての人を殺すことにお決めになりました。しかし、ノアはこの堕落した社会の真っただ中で生きていた「正しい人であり、申し分のない人だった」のです。

次のように言う人々がいるかもしれません。「私は自分があまりにも弱いと感じているので、自分の情欲の悪しき望みに抗うことができません」。ここでも再び、悪い言い訳です…。

天主はノアのためにされたように、皆さんを助け、情欲によって無秩序になった望みから皆さんを守ることができないのでしょうか? ノアは皆さんのような原罪を持った人でしたが、天主の恩寵によって聖性のうちに生きていました。「彼は正しい人であり、申し分のない人だった」のです。


結論

教会は、特に祈りと悔い改めに捧げられる時期である四旬節の準備をしています。教会は私たちに、悪魔との戦い、この世との戦い、私たち自身の情欲との戦いという、霊的な戦いの現実を思い出させてくれます。私たちが祈り、悔い改めをするならば、天主はその恩寵で私たちを助けてくださり、恩寵によって私たちは最終的な勝利を得ることができます。それは、本日の書簡において、天主が聖パウロに「あなたには私の恩寵で足りる」(コリント後書12章9節)と言っておられるようにです。

皆さんがこの霊的な戦いが難しすぎると思っているのなら、童貞聖マリアを見てください。皆さんのために、皆さんの永遠の救いのために、聖母は御子イエズスを十字架の上に死に至るまでお捧げになり、ご受難の間、御子イエズスに従い、十字架の下に3時間もたたずんでおられました。聖母にとって簡単なことだったと思いますか? 

確かに簡単ではありませんが、聖母がそれをなさったのは、まず天主への愛のためであり、また皆さんへの愛のためでもあります。

ですから、落胆している時には、聖母を見て、聖母に話し、聖母に自分を委ねてください。そうすれば、聖母は続けるのに必要な強さを皆さんに与えてくださり、永遠の至福へと皆さんを導いてくださるでしょう。アーメン。




2021年2月7日、ドモルネ神父による謙遜についての短い説教

2021年02月08日 | お説教・霊的講話
2021年2月7日、ドモルネ神父による謙遜についての短い説教

はじめに

本日の聖パウロの書簡を読むと、聖パウロが自分のことを自慢しているように感じるかもしれません。もちろん、そうではありません。謙遜の実践について少し説明しましょう。

謙遜という概念

「謙遜」(humility)という言葉は、ラテン語で 「土」を意味する「フミス」(humis)に由来しています。「謙遜」には、「土にまで降りる」、つまり自分を低くするという考えがあります。人間には、名声を求める自然の望みがあります。

この望みは、それ自体では悪いことではありませんが、しかしながら無秩序になることがあります。つまり、正しい理性と天主のご計画に従わなくなることです。これを私たちは、高慢の罪と呼んでいます。例えば、ルチフェルは、どうにかして天主のように偉大になりたいと思っていました。それ自体は悪いことではありません。なぜなら、天主は永遠のいのちを分け与えようと私たちをお召しになっているからです。しかし、ルチフェルは天主のご計画に従わずに、天主に依存することなく偉大になりたいと望んでいたのです。謙遜とは、偉大かつ善きものへの望みを制限する私たちの霊魂の徳あるいは善き性質のことです。

謙遜の基礎

謙遜は、どのような要素に基づいて助けを得て成長していくのでしょうか? まず私たちが自分自身では無であるということを認識すること、そして第二に、私たちがすべてのものを受ける天主への大いなる敬意を持つことに基づいているのです。謙遜の徳は、天主を中心とすることが欠かせないのであり、創造主である天主と被造物である私たちとの間に絶え間のない比較を行うのです。

天主への謙遜の実践

私たちは、どのようにして謙遜の徳を実践するのでしょうか? 私たちが持っている善きものはすべて天主から来ており、私たちが持っている悪はすべて私たち自身から出ているという理由によって、天主の御前に自らを低くすることで、私たちは謙遜の徳を実践するのです。私たちは天主から、私たちのいのち、人間の本性、霊的および肉体的な性質、技術、物質的な財、天国への召命、そして私たちが受けるすべての恩寵を得ていますが、天主に依存することなく、自分自身の意志によって、私たちは弱さや苦しみ、失敗、罪、悪徳を得たのです。

ですから、謙遜の実践とは、まず第一に、私たちが持っているものはすべて天主にすべての栄光と感謝を捧げ、天主がおられなければ私たちには何も善きものがないことを心から認めることです。マグニフィカトにある聖なる童貞の模範を取り上げましょう。聖母は天主の御母であるという偉大な特権を拒否なさいませんでしたが、それは決して自分のために栄光を求めるのではなく、それが天主から来たものであることを告白し、天主を讃美なさいました。ルチフェルはその反対のことをしました。自分に与えられた偉大さのことで天主を讃美することなく、天主に依存しないようにしようと望みました。

隣人への謙遜の実践

謙遜を実践するということは、天主の御前で自分を低くすることです。しかし、隣人の中にある善きものはすべて天主から来たものであるという意味で、天主は隣人の中にもおられます。

ですから、謙遜の実践をすれば、私たちは自分自身と隣人との比較をすることになります。天主が隣人にお授けになった目に見えるもの見えないものすべての善きものと、私たち自身の過失によって自分の中にある罪や失敗、能力のなさといった悪とを比較することです。この比較をした結果、私たちは、隣人に対して全面的な判断を下したり、隣人に対して自分のことを自慢したりすることをやめるようになるのです。

謙遜であるということは、明らかな真実を否定することでも、世間知らずであることでもありません。両目のある謙遜な人は、片目の人よりも目がいいと認めるでしょう。賢くて謙遜な人は、自分が他人よりも賢いことを認めるでしょう。正直で謙遜な人は、自分はこの他人のように嘘つきで泥棒ではないと言うかもしれません。謙遜な人は、明らかに真実であるそのような特定の判断をすることがあるかもしれません。

しかし、謙遜な人は、天主がご自分の善を隣人にもお授けになっていること、そして、天主だけがその隣人の善あるいは悪を知っておられることを常に心に留めているため、隣人に対して全面的な判断を下すことは決してないでしょう。どんなに惨めな人でも、私たちよりも優れている性質があるかもしれません。だからこそ、聖パウロはフィリッピ人へこう書いているのです。「謙遜に他人が自分より優れていると考えよ」(フィリッピ2章3節)。逆に、高慢な人は、たとえ話に出てくるファリザイ人のように、天主が自分の隣人にお与えになった善きもののことを考えず、この隣人を軽蔑するのです。

結論

ですから、本日の書簡で聖パウロは、高慢から自らを自慢するのではなく、天主を讃美するために、またコリント人に謙遜を教えるために、天主から受けた恩寵について述べているのです。

聖パウロが、謙遜の徳を実践するよう、私たちのために取り成し、私たちを助けてくださいますように。




カトリック聖伝のミサの報告 東京 大阪 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka SSPX Japan

2021年02月07日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日、東京では日本26聖殉教者の荘厳祭を行いました。東京では、今日のミサに来られた方は、子供達も入れて合計88人でした。

大阪ではドモルネ神父様がミサを捧げてくださいました。大阪では19人がミサに与りました。日本では合計107人でした。

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the 3 masses in Tokyo today was 88, including children.

09:00 mass
M: 23 (incl. 4 children)
F: 24 (incl. 5 children)
Total: 47 (incl. 9 children)

11:00 mass
M: 19 (incl. 2 children)
F: 16 (incl. 5 children)
Total: 35 (incl. 7 children)

12:30 mass
M: 4 (incl. 0 child)
F: 11 (incl. 1 child)
Total: 15 (incl. 1 child)

Total of 3 masses (excl. 9 people who participated in multiple masses)
M: 42 (incl. 6 children)
F: 46 (incl. 11 children)
Total: 88 (incl. 17 children)








2021年2月7日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for February 7, 2021

2021年02月07日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年2月5日(金)6日(土)7 日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 2月5日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 2月6日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 2月7日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭(ドモルネ神父)【ミサの開始が午前に変更になりました。ご注意ください。月曜日のミサはありません。】

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

2月7日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of February 7, 2021.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Fri, February 5: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, February 6: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, February 7: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30


















私たちは日本二十六聖殉教者と同じ信仰を保ち続けているでしょうか?Sermon of Sexagesima| Sermon sur les enfants d'Adam et Eve

2021年02月07日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年2月7日は六旬節の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「六旬節の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


主よ、我、御身を我が屋根の元に入れるに相応しき者にあらず。ただ一言のたまえば、我が霊魂は癒えん

2021年02月06日 | お説教・霊的講話
2021年1月24日(主日)御公現後第3主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、今日福音でイエズス様は、例外的な特別な事を2つなさいました。

まず1つは、いつもあるパターンは、何か頼まれると、それをただなさるだけですけれども、イエズス様は今回だけは、状況を告げられて、「じゃあ私がこうしてあげよう。私が行って、治してあげよう」と提案しました。

もう1つは、イエズス様は百夫長の信仰を見て、感嘆しました、感心しました。そして褒めました。イエズス様はそういう事をする方ではありません。なぜ感嘆したかというと、びっくりしたのではなくて、この「私たちも同じように、イエズス様と同じように、この深い信仰を感嘆して、褒めるように、私たちもできれば真似するように」という事を、模範を見せようとしたからです。

では、この百夫長の信仰を、3つのポイントだけ簡単に見てみます。

まず1つは、百夫長はイエズス様に深い信頼を持っていたので、この「状況」を、「私のしもべが病気です」と言っただけでした。「さぁ、あなたはこれやって下さい、あれやって下さい」とは頼みませんでした。「私のしもべが病気で苦しんでいます。」ピリオド。それで終わりです。

するとイエズス様は、「じゃあ、行ってあげよう」と感動されます。胸を打たれます。

第2に、百夫長は、その「行って下さる」と言った時に、更に深い信仰を見せて、「いえ、主よ、わざわざ御足労下さる必要はありません。私の家に来るにはそれほどの価値はありません。それに相応しくありません。ただ、ここに居て一言仰って下さい。そうすればしもべは治ります。一言あなたが言うだけで、全能の御言葉で、ただ望むだけで良いのです。それをなさって下さい、それで結構です。」

それを見て、イエズス様は感嘆します。「素晴らしい信仰だ」と。

第3の点は、この百夫長はもちろん、軍人で自分の元に100の兵士がいましたから、色々な問題もあった事でしょう。自分の事も問題があったかもしれません、もっと給料が上がれば良いな等と、もしかしたら。

でも百夫長はその事よりも、まず自分のしもべの事を、イエズス様に頼みました。愛の深い人でした。

ところで、この素晴らしいこの信仰の言葉は、ミサで使われます。御聖体拝領の直前で私たちは、3回繰り返して言います。
「主よ、我、御身を我が屋根の元に入れるに相応しき者にあらず。ただ一言のたまえば、我が霊魂は癒えん」と。
“Domine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum:sed tautum dic verbo,et sanabitur anima mea."と3回。
これは公教会が、百夫長のその信仰に真似ようと思ったからです。イエズス様の言葉に従って、それを称讃して、それを取り入れたわけです。

ですから私たちは、ただ言葉だけでなく、その態度も真似る事にしましょう、御恵みによって。

百夫長のように、イエズス様は私たちの御霊魂の中に、「行こう」と仰って下さっています。
「私を食せよ。私がお前の霊魂の中に入ろう」と、「肉体を以って入ろう」とされます。

その時に私たちは、それに相応しくないという事を告白致しましょう。ですから、より少なく、相応しくないようになりますように、お願い致しましょう。

そして深い信仰を持って下さい。御聖体は、本当の天主、真の天主、イエズス・キリストです。

天主ですからこの御聖体には何でもできます。全能の天主が、私たちの元にやって来られます。全世界の帝王、天皇陛下、どこかの国の大統領などをはるかに超える、全能の天主が、私たちに全ての御恵みを持ってやって来ます、「さあ。」

ですから、私の霊魂が癒されるように、私たちの罪から、罪への愛着が綺麗に立ち切れる事ができますように、浄められますように、そして心が愛で燃えますように、そして私たちの愛する人々、家族の方々と友人、職場の方々、あるいは全ての方々の為に、「あぁ、この方々も苦しんでいます。主よ、彼らも御覧下さい」と、お祈り致しましょう。

きっと、私たちの信仰に従って、イエズス様はあっという間に、瞬間的に、全てを癒して下さる事ができます。その信仰を持つ事ができますように、マリア様にお祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




聖ピオ十世会ドモルネ神父の自己紹介

2021年02月06日 | お説教・霊的講話
2021年1月17日(主日)御公現後第2主日
聖ピオ十世会司祭 小野田神父とドモルネ神父メッセージ



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【小野田神父】
愛する兄妹姉妹の皆様、今日は私たちは本当に嬉しいニュースがあります。ドモルネ神父様を皆さんにご紹介したいと思います。

神父様は、聖ピオ十世会の司祭で、2007年にエコンで叙階されました。

では、神父様に自己紹介をしてもらいます。

【ドモルネ神父】
(日本語で)こんにちは、初めまして。よろしくお願いします。フランス人です。

私はジュネヴァの近くの出身です。私の最初の任地はアフリカのガボンでした、1年間です。それからアフリカの東のケニアに6年間任命されました。それから3年半、南アフリカに任命を受けました。それからその後に、シンガポールに任命を受けました。シンガポールの後は、日本です。ここに今到着しました。

日本と韓国の為に、新しい修道院を創立する為にここに来る事ができて、本当に嬉しく思っています。この新しい修道院が開設されたというのは、天主様の御摂理の現れで、これは「イエズス様の御国が、日本と韓国に広がる、発展する事を望んでいる」という事です。

ですから、小野田神父の良き協力者となりたいと思っています。そして二人とも天主様の良い道具となってこの使徒職を遂行したいと思います。どうぞ私たちの為にお祈り下さい。

それから皆さんが歓迎のプレゼントとしてなさって下さった霊的花束を感謝したいと思います。

(日本語で)ありがとうございます。

【小野田神父】
では愛する兄妹姉妹の皆さん、続けて私たちの為に、たくさんお祈りでサポートして下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




今日、2021年2月3日は、一月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2021年02月03日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2021年2月3日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。今年は、聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


この世界の秩序が、この来たる数年の間に、もう想像できないほど変わるような時代になるかもしれません。

2021年02月02日 | お説教・霊的講話
2021年1月8日(金)主の御公現の平日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

一言、感謝を申し上げたいと思います。
来日されたドモルネ神父様と一緒に修道生活が始まりました。感謝します。

天主様に、マリア様に、聖ヨゼフに、全ての聖人、聖ピオ十世、ルフェーブル大司教様、そして全ての恩人の方々に感謝します。

今日のミサは御公現と同じミサですけれども、3人の博士が、イエズス・キリストが、「真の天主」であり、「私たちの為にいけにえとなる子羊」であり、そして「王」である、という事を宝物で、その贈り物で表明しました。

私たちもこの博士たちに倣って、イエズス様に、「イエズス様こそが私たちの真の王であって、真の天主、そして私たちの罪を贖って下さったいけにえである」という事を告白致しましょう。

今年こそ、その「イエズス様が一体どなたであるか」という事を、私たちの愛と、祈りと、犠牲で、ますます表明する事ができるように、お祈り致しましょう。

今の世界の状況を見ると、イエズス様はますます無視されて、あたかも何でもないかのように、人間が王であるかのように、人間が神であるかのように、取り扱いを受けています。

苦しみは、犠牲は、罪の償いはいらないかのように、マスコミも、政府も動いています。

今の世界の状況を見ると、あるいはカトリック教会の中で、イエズス様が、御聖体が、マリア様が、どのように取り扱われているかというのを見ると、このまま世界がそのままあり続けるのだろうか?ますます考えざるをえません。

今このように「コロナがどうだ」、あるいは「選挙の不正がどうだ」というニュースを聞く度に、天主が私たちを目覚めさせるように、何かこの辛い時代が、厳しい時代が迫っているとますます考えざるを得なくなっています。

私たちはお祈りをして、犠牲を捧げて、「何とか」してほしい、「何とか避けたい」と思っていた事も、しかし主の御旨は私たちに、更なる償いを果たすように要求されつつあるかのようです。

フランス革命の直前に、一体誰が、王国が滅びてしまう、滅亡して王がギロチンにかけられて共和国ができる等と想像したでしょうか。ヨーロッパがぐちゃぐちゃになると誰が思ったでしょうか。

今、この世界の秩序が、この来たる数年の間に、もう想像できないほど変わるような時代になるかもしれません。

それを見るにつけて、私たちはますますイエズス様に、愛と、祈りと、犠牲の贈り物を御捧げ致しましょう。

ファチマのマリア様も私たちに、7月13日、「私たちがいけにえを捧げる時に、犠牲を捧げる時には、『あぁイエズスよ、これは御身を愛する為、罪人の回心の為、教皇聖下の為、またマリアの汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です』と捧げなさい」と仰いました。

ですから私たちも、今年は東の博士に倣って、聖ヨゼフに倣って、イエズス様にますますの愛と祈りと犠牲を御捧げ致しましょう。

最も私たちが贈る事ができる最高の愛と、祈りと、犠牲、これは『聖伝のミサ聖祭』です。ですから、これをますます愛を込めて捧げ続けましょう。

そして御憐れみによって、私たちが、日本が、そして世界が、主の御怒りを縮める事ができますように、あるいは和らげる事ができますように、あるいは特別に私たちには憐れみを、特別の憐れみを下さる事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





「善き出来事のマリア様」について 聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

2021年02月02日 | お説教・霊的講話
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、

ぜひ「善き出来事のマリア様」についての話をするのを許して下さい。

善き出来事のマリア様は、20世紀の私たちの為に、特別にいけにえの霊魂を求めました。そしてその選ばれた清い霊魂が、マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トレス (Mother Mariana de Jesús Torres y Berriochoa)という方でした。非常に寛大で、非常に愛された霊魂でした。そしてこの彼女の、地獄をも体験するような、そして病と、苦しみと、いけにえと、祈りの、礼拝の人生を通して、20世紀の私たちの為に、特別の恵みを準備して下さいました。

エクアドルという国は、私たちにもほとんど知られていない国ですけれども、多くの聖なる寛大な、イエズス様の愛に燃える霊魂たちをたくさん生み出した国だ、という事を、特に20世紀の為に、私たちの為に準備されていた国だ、という事をひしひしと私は体験しました。

そこでぜひ皆さんに、「そのような霊魂がいた」という事、そして「私たちの為に、今、この現代の私たちの霊魂が救われる為に、特別な天主の御計らいがあった」という事をよくご存知になって下さい。

⑴今日、そのマザー・マリアナが受けたメッセージというものを、少しだけご紹介させて下さい。

⑵そして、エクアドルには他にもどのような事があったのか、という事を簡単に話させて下さい。

⑶最後に、では私たちは今、そのような霊魂たちからの特別の犠牲と、特別の苦しみの為に、私たちが今何を受けたのか、そして私たちは何をすべきなのか、という事を黙想致しましょう。


⑴マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トレスという修道女は、修道院長となって、また幼少の頃から特別に、マリア様からのメッセージなどを受けました。今回私のぜひ紹介させて頂きたいと思うのは、この人生の終わりに、亡くなる1年くらい前の1634年の3月に受けたメッセージです。

マザー・マリアナは、いつも朝早く早朝から、例えば朝の3時とかから起きて、御聖体礼拝、黙想などをしていました。
三位一体の神秘。聖父・聖子・聖霊、三位一体が区別されていて、しかし唯一の天主である事。
あるいは、この三位一体の聖子が、三位一体の第二のペルソナ聖子が、御聖体の内に真に在す事。
あるいは、その御聖体の内に真に在す全能永遠の天主が、私たちをどれほど愛されているか。
また、三位一体が、マリア様の事をどれほど愛されているか。罪の汚れ無く、聖アンナの胎内に宿された事。
あるいは、イエズス・キリスト共に、マリア様が人類の罪の償いの為の共償者となった事。
等よく黙想されていました。そしてその神秘の中に深く入っていました。

すると、天の元后マリア様が、マザー・マリアナに御現れになります。特にマリア様にマザー・マリアナは、「善き死を遂げる事ができるように」とお願いしていました。

すると、ちょうどこの祭壇のように、綺麗に飾られた御聖堂が、この教会のランプで照らされていたランプが、その御聖堂のランプが、突然消えてしまいます。そして真っ暗になります。何とかローソクの火を点けようとするのですけれども、マザー・マリアナの体は動きません。

すると突然、超自然の光が祭壇に輝いて、そして昼間のように明るくなります。マリア様が御現れになって、そしてお言葉をこう下さいます。


「私の御心の愛された娘よ。私は、善き出来事のマリア、あなたの母、あなたの守護者です、そして私の御子イエズスを私の左手に、そして右の手に司祭杖を持ち、私はあなたに、善い知らせを告げる為にやって来ました。その善い知らせとは、10ヶ月と数日後、あなたはこの世の地上の光に目を閉じ、永遠の光を見る為に目を開く、その日がやって来るるでしょう。」

「あぁ、死すべき全ての人々が、もしも『天国がどのようなものである』という事を知っていたなら!もしも『天主を所有する』という事の幸せがどれほど素晴らしいものかを知っていたなら!この人生をどれほど変わって生きていた事でしょうか!そして永遠を得る為に、天主を得る為に、どのような犠牲も省略したりする事はなかったでしょう!」

「今、祭壇の前に燃えている至聖所のランプが消えたのには、いつくかの意味があります。」

「第一の意味は、19世紀の終わりと20世紀のほとんどには、この時期になると、多くの異端がすでに自由共和国となったこの地に広がり、そしてそこを支配していた信仰の貴重な光が消え失せるでしょう。これは、道徳が全く腐敗した為です。この時には、肉体的にも、精神的にも、公にも、個人的な生活においても、多くの困難があるでしょう。」

「教会とこの地上の国を、異端の奴隷状態から解放する為に、私の愛する御子の特別な憐みの愛によって復興のために選ばれた霊魂があります。この霊魂は、復興させる為に、非常に強い意志と、持続心と、勇気と、天主に対する信頼を持たなければならないでしょう。そして義人のこの信仰と、天主に対する信頼を試す為に、見かけ上全ては失われて、全ては麻痺してしまうように思われる時がやって来るでしょう。しかしその時にこそ、完全な復興の、幸せな始まりの時です。」

「ランプが消えた第2の意味は、この私の愛する共同体が数においても非常に少なくなり、言う事のできない苦々しい、苦しみの海の中に投げ込まれるであるだろうからです。間違った、偽りの愛徳の名前によって、不正義が行なわれるでしょう。私のこの閉ざされた庭においてでさえ、忠実な娘たちにおいてでさえ、私の隠された霊魂たちにおいてでさえ、霊魂たちを座礁させるでしょう。」等々。

「このランプが消えた第3の理由は、この時には、19世紀と20世紀のほとんどには、不潔の精神で大気が汚染されるからです。そして汚らしい海のように、不潔が街中を汚染するでしょう。広場も、道も、公の所にも、驚くべき自由放埒によって汚染されるでしょう。そしてこの世には、童貞を保つような霊魂たちがほぼいなくなってしまうでしょう。」

「嫉妬深い疫病のような悪魔が、自分の悪意のある傲慢を以て、修道院の閉ざされた庭にも入って来るでしょう。この悪魔の鉤のような爪に、自分をあえて晒すかわいそうな霊魂たちは何と不幸な事であるでしょうか。そしてその他の霊魂たちは、この世に戻り、霊魂たちの滅びの為の、悪魔の道具となってしまうでしょう。」

「祭壇のランプが消えた第4の理由は、フリー・メイソンのセクトが、この社会の色々な階級を乗っ取ってしまい、そして非常にずる賢いやり方で家庭の中に入り、そして子供の子供らしさ、子供の純粋無垢を破壊してしまうでしょう。その子供たちの心の、デリケートなその心が失われてしまうでしょう。この恐るべき時には、子供たちの無邪気さがほとんど見つける事ができなくなるでしょう。その為に司祭召命は、ますます失われてしまうでしょう。」

「しかしその時には、ある修道会たちの規律、その会則遵守は、光り輝く事でしょう。その時に、祭壇に仕える聖なる聖職者たちは、隠れながらも、しかし美しい霊魂を以て、そして私の御子と私によって特別に愛される花のように、英雄的な聖徳を持って、不敬虔に対して戦いながら、彼らは祭壇に仕えるでしょう。彼らに対して不敬虔は、残酷な戦いを挑むでしょう。そして彼らを断罪し、讒言をし、そして彼らの悪口を言う事でしょう。そして彼らがその聖務を行なう事を妨害するでしょう。」

「しかしこのような聖職者たちは、柱のように、微動だにとも不動で、そして謙遜の精神を以て、犠牲の精神を以て、自分に与えられた、聖子(おんこ)イエズス・キリストの無限の御功徳によって与えられた、自分の聖務をやり遂げる事でしょう。彼らは私の御子の最も聖なる、そして優しい聖心のデリケートな、愛された者となるでしょう。」

「ところで、在俗の司祭たちには、多くの欠如が見出されます。彼らは自分の聖務をなおざりにするだろうからです。天主の羅針盤を失った彼らは、天主から与えられた道から外れてしまう事でしょう。そして彼らは金に愛着し、そしてそれを得ようとあまりにも多くの努力をする事でしょう。その時教会は、父のような愛・優しさ・強さ・健全な判断力・賢明さをもって聖職者たちを指導する、高位聖職者かつ父親の欠如の為に、多くのひどい暗闇を苦しむ事でしょう。多くの司祭たちはその精神を失い、そして彼らの霊魂は大きな危険に晒される事でしょう。」

「倦まず弛まず祈りなさい。あなたたちの心の秘密の隠れ家で苦い涙を流して、天主聖父に、イエズス・キリストの御聖体の聖心への愛によって、寛大にも流された聖子のいと尊き御血の功徳によって、聖子の御受難と御死去の深い悲しみと苦しみによって、祈りなさい。天主の為に働く聖職者たちを憐れんで下さるように、そしてできるだけ早くこの暗闇が終わる事ができるように、この災害の時が終わる事ができるように、教会に司祭職の精神を復興させるべき、かの高位聖職者を、一人の聖職者を送って下さるように祈りなさい。」

「私の御子と私は、私の息子であるこの高位聖職者を、特別の愛で愛しています。彼には、滅多にない特別の謙遜の心と、従順と、天主の息吹に対する従順と、そして教会の権利を守る為の力強さを与える事でしょう。そして彼には特別の優しい同情の心がある事でしょう。それは第二のキリストとして、彼が不幸な人々を軽蔑する事なく、光と導きを与える事ができる為です。そして司祭たちに、その義務を果たす事ができる勧告を与える事ができる為です。天主の優しさを以て彼が、天主の奉仕の為に、主のくびきを彼らに重くのしかからせることなく修道生活において聖別された霊魂たちを導くためです。主は"私のくびきは快く私の荷は軽い"言われました。私は、彼の手に天主の天秤を置き、そして天主が栄光を受けるように取り図らう事でしょう。」


「しかし、司祭の身分また修道者の身分において天主に捧げられた全ての霊魂たちの生ぬるさの為に、この高位聖職者が私たちに与えられるのは遅れるでしょう。この生ぬるさの為に、サタンは天主なる聖子の聖心(みこころ)に奉献された共和国の晴れた空を暗くするくらい雲のように、信仰のない多くの外国人たちを使って、この地の多くの地域を自分たちのものとして支配する事でしょう。

これらの信仰の無い人々によって、全ての悪徳が導入されるでしょう。その結果、ありとあらゆる天罰が下されるでしょう。疫病、飢餓、あるいは内的な国内の、あるいは他の国々との戦い、戦争、あるいは背教などによって、数多くの霊魂たちは失われてしまう事でしょう。そしてこのイエズス・キリストにとってとても大切な、私にとっても大切な、多くの霊魂は失われてしまう事でしょう。」

「この暗闇を取り除く為に、そして教会が、自由のはっきりとした陽の光を楽しむ事を妨げているこの暗闇を取り除く為に、将来、市民あるいは外国人、あるいは修道者、あるいは世俗の司祭たちの多くの血が流されるべき、恐るべき戦争が起こる事でしょう。その夜は最も恐るべき日、人間の目にとって、悪が大勝利を収めたと思える日がやって来るでしょう。」

「しかしその時、私の時が到達します。私は全く驚くべきやり方で、傲慢な、そして呪われたサタンを破壊します。そして彼を私の足の元に置き、彼を永遠の地獄の底に葬り尽くします。そして教会と国は最後に、この恐るべき暴君から解放される事でしょう。」

「教会のランプの火が消えた第5の理由は、それは、この世の富を持っている人たちが無関心だからです。教会が迫害されていても、聖徳が圧迫を受けていても、悪が勝利をしていても、信心深く自分たちの富を、この悪の破壊の為に使おうとせず、信仰の復興の為に使おうとしないからです。その無関心の為に、多くの国々は、天主の名前が少しずつこの地上から消えていくのを許してしまう事でしょう。そして彼らは悪徳と情念に自分の身を委ねてしまう事でしょう。」

「あぁ、私の愛する娘よ、もしもあなたがこの恐るべき時に生きなければならないとしたとしたら、あなたは悲しみの為に、すぐに死んでしまう事でしょう。しかし、私たちの遺産であるこれらの地に対して私の御子と私が持つ愛によって、今、このあなたのいけにえ、そしてあなたの祈りを、来たるべき時の苦しみを短くする為に使います。」

こういう事を言うと、マリア様の御訪問は終わりました。しかしこの言葉を聞いたマドレ・マリアナは、この将来起こるべき、教会と世界に対するものすごい苦しみを見て、あたかもの死んだかのようになってしまって、三日間、そのまま気を失ってしまいます。

これはマザー・マリアナが受けたビジョンの一つですが、しかしそのような霊魂たちが、既に21世紀に今、現在生きている私たちの苦しみがより短くなるように、これ以上私たちが苦しまないようにと、多くのいけにえと、犠牲と、苦しみと、断食と、祈りを捧げて下さっていた、その一生を捧げていた、そういう霊魂たちがたくさんいる、という事をぜひ知って下さい。


⑵ エクアドルにはまだその他にも、多くの寛大な霊魂らがいました。例えばガルシア・モレノです。

彼は、フランスに留学していた時に、フランスでイエズス様の聖心の信心の事を深く知りました。「フランスの王が、せっかくイエズス様の聖心からフランス王国を奉献するように頼まれたにも関わらず、それをしなかった」という事を聞いて、イエズスの聖心について学びました。

彼が大統領になった時には、エクアドルという共和国を、イエズス様の聖心に、国会を通して、法律を以て、奉献しました。その為に、彼は、ついには暗殺さえもされました。しかし何と寛大に、イエズス様の聖心を慰めたいと思った事でしょうか。

あるいは、エクアドルには有名な、マリア様の汚れなき御心、悲しみのマリア様(La Dolorosa de Quito)の御影があります。皆さんもきっとご覧になった事があると思います。

1906年4月20日に、イエズス会の学校である聖ガブリエル高校の食堂に飾ってあった、悲しみのマリア様の目が、瞼が、15分ほど、開いたり閉じたり、その天の方を向いて、エクアドルの為にお祈りをしているかのように動きました。奇跡があったのです。マリア様が目を開いたり閉じたりしただけだったのですが、大きな影響がありました。

すぐに教会の公式の調査があって、さらには医学的にも精神科の病院で「誰も狂ったのではなくて、本当にそういう事実があった」という事が、教会法的に確立されました。1906年6月3日(主日)、一万人以上がこの聖母の御影をもって聖母行列します。それを35,000人が見守っていました。

その時に、実はエクアドルには、反カトリックの政治家、フリーメーソンのアルファロ(Eloy Alfaro)という男がカトリック教会の迫害を引き起こしていました。リベラルのアルファロは、リベラルの政府に反対して革命を起こします。リベラル対リベラルの戦いでした。武力で大統領の地位を奪ったアルファロは、カトリック教育に反対する政策(公立の学校でのカトリック教理の勉強を廃止する)を発表し、イエズス会をエクアドルから追放しようとさえします。しかし、聖母の奇跡によって、信仰をよみがえらせたエクアドル市民たちは、アルファロに公然と反対します。

マリア様は、ご自分の目を開いたり閉じたりする事で、エクアドルをカトリックである事として守りました。

アルファロは1911年の選挙で負けて、パナマに逃げて行きます。新しい大統領エミリオ・エストラーダが大統領職について4か月後に死亡すると、1912年1月に新しい大統領選挙のためにエクアドルに戻ります。しかし捉えられて投獄され、リンチを受け、殺されてしまいます。

聖母の奇跡の25周年、あるいは50周年には、エクアドルではものすごい大きな記念行事が開かれました。「マリア様がその目を開いたり閉じたりして、ウインクして、守って下さった」と。

1931年の奇跡の銀祝には、この奇跡が国を挙げて祝われました。エクアドル最初の聖母大会が開かれ、この御影はエクアドルの各地に持ち運ばれました。

1956年の奇跡の金祝には、教会法による聖母の戴冠式が行われました。ピオ十二世教皇は、書簡を送り、教皇の名と権威によって、エクアドルのカトリック教育の元后として、聖母に黄金の冠を被せることを命じました。聖母の戴冠式の機会に、40名の外交的代表者たちの前で、エクアドルの新大統領はエンリケは選挙の勝利を天主と聖母に感謝しました。

⑶では、私たちは一体今日、今回どのような事を考えたら良いでしょうか?

まず、「私たちが今ここで、聖伝のミサをする事ができる」、あるいは「教会の復興の為に今、何かをする事ができる」という事に感謝致しましょう。

今の日本の教会をご覧になって下さい。

残念ながら、イエズス様の三位一体の神秘、イエズス様が御聖体の内に真に在し給うというその玄義、信仰の真理、あるいはマリア様が無原罪の御孕りであられるという事、あるいはマリア様のその終生童貞であるという事、天主の御母であるという事、あるいはマリア様がイエズス様と共に共償者として、第2のエヴァとして私たちの為に、私たちの霊的な母として共に苦しまれて、私たちの為に特別の救霊の役割を果たされたという事、あるいは聖霊の浄配であるという事、あるいはそのマリア様のその天と地の元后であるという、素晴らしいものすごい役割とその力、三位一体の天主こそが唯一の天主であって、全人類の歴史を支配しておられて、私たちを無から創造して、永遠の命の為に、永遠の昔から私たちを愛されておられるという事、これらの事を、今、教会で一体誰が教えて下さるでしょうか。

カトリックの最も基本的な信仰の話が話されていません。一体関心があるのは何かというと、全く別の事です。憲法9条とか、インカルチュレーションとかです。

霊魂の救霊、祈り、犠牲について話す、という事はどこで聞かれるでしょうか?

キトでは、400年前にマリア様が祈りと犠牲についての事を、特別な愛を受けた霊魂に話されました。ところで日本はキトよりも恵まれています。この21世紀に生きる私たちの為に、マリア様は特別に日本を選ばれて、日本の私たちに語りかけておられます。

特に秋田に来られて、マリア様はこう仰いました、「今、御子と共に、御父の御怒りを宥める霊魂を求めております。御父の怒りの手を何とか抑えようとしています。犠牲の霊魂が必要です。祈りと犠牲を捧げて下さい。」

秋田ではマリア様は涙をこめて訴えます、「先程も申しましたように、御父はこの地上を、ノアの洪水よりも更に恐ろしい罰で罰しようとしています、この世の罪の為に。もしもこれ以上人類が罪を犯し続けるならば、罪の赦しが無くなってしまうでしょう。」

「教会の祭壇は荒らされるでしょう。枢機卿と枢機卿は対立し合うでしょう。司教と司教は対立するでしょう。私に聖別された霊魂は失われるでしょう。私を敬う司祭たちは軽蔑されるでしょう。」

御聖体は、ますますなおざりにされています。御聖体を跪いて礼拝する事は、日本では禁止されています。

このマリア様がそのように私たちに警告されて、約50年経ちます。

しかし、マリア様の話は全く無視されています。誰もそれに応えようとしません。

エクアドルでは、マリア様が目を開いた閉じたというだけで、司教様たちは感謝の行事を、25周年、50周年と盛大に祝いました。

しかし、マリア様は日本で涙を101回流されたにも関わらず、何の反応もありません。無視されています。

あと数年でもう既に50年経とうとしますが、誰も関心を払いません。

天使は言います、「マリア様の御心に日本は捧げられているけれども、誰もそれに関心を払わないので、マリア様は非常に悲しんでおられる。」

では、私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?この「400年前にマドレ・マリアナが一生懸命、死の、地獄のような苦しみを受けて、そして祈りを捧げたから、もう私たちは関係ない。私たちの為にやってくれたから、いいんだ」で良いのでしょうか?

マリア様が天から私たちの元、日本にやって来て、こう言われています。
「さぁ、これから大変な時が来る。罪が今地上に溢れている。このままでは天主御父が、本当は嫌なのだけれども、目を覚まさせる為に、罰をせざるを得ない。何とかそれを防ぎたいのだけれども、犠牲の霊魂が必要だ。」

私たちは一体どのようにしたら良いでしょうか?

ぜひ今日はこのミサを、マリア様の御心を慰める為に、罪の償いの為にも御捧げ下さい。

そしてもしもできれば、今年の5月に、マリア様の秋田の元に私たちは馳せ寄って、巡礼をしましょう。

もちろんお金も時間も犠牲も捧げなければなりませんが、ぜひマリア様が、私たちと日本を憐れんで下さるように、多くの司祭、修道者が、イエズス様をますます愛する道に立ち戻りますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【参考資料】
Ninth Apparition: March, 1634

Mother Mariana was praying at three o’clock in the morning in the upper choir, in front of the tabernacle, saying, “… kneeling in the dust I adore Thee as My Father and Spouse, and this love is victorious in its confidence … whereby I will be purified with Thy Precious Blood, through the hands of the Empress of Heaven, Blessed Mary, of whom I ask good success in my dying moments. In the definitive sentence upon which my happy eternity depends …”

Having said these words, she saw the sanctuary lamp, which burns next to the tabernacle, go out, leaving the altar completely in darkness. Mother Mariana tried to get up in order to light a candle, but she was unable to move. Then a supernatural light enlightened all the choir and the Virgin Mary appeared, who lit the sanctuary lamp, stood in front of her and said to her, “Beloved daughter of my heart, I am Mary of Good Success, your Mother and Protectress, who, carrying My Blessed Son in my left arm and the crosier in my right arm, come to give you the happy news that within ten months and some days, your eyes will finally close to the earthly light of this world, in order to open to eternal light.

“Oh, if all mortal men … knew what Heaven is, what the possession of God is! How differently they would live and never omit any sacrifice to possess it!

“The lamp which burns before the altar, and which you saw go out, has several meanings:
“The first meaning is that at the end of the nineteenth century and for a good part of the twentieth century, various heresies will be spread in this land, already constituted a free republic, and the precious light of faith reigning over it will go out, due to the complete corruption of morals. In this period there will be great physical and moral calamities, both in public and in private …

“In order to free [the Church and their country] from the slavery of these heresies, those whom the merciful love of my Blessed Son will destine for the restoration, will need great strength of will, constancy, courage and much confidence in God. And to put this faith and confidence of the just to the test, there will be occasions in which, apparently, all will be lost and paralyzed; and then will be the happy beginning of the complete restoration.[23]

“The second meaning is that this community of mine, being reduced in the number of persons, will be submerged in a sea of unfathomable and unspeakable bitterness …
“In these fateful times, injustice, covered with the name of false charity, will wreak havoc in souls, even in this closed garden of mine … in my faithful daughters, in my hidden souls … They will weep in secret, complaining to their God and Lord … asking Him to shorten such fateful times for the love of the Divine Prisoner.

“The third reason why the sanctuary lamp went out is because in these times the atmosphere will be saturated with the spirit of impurity, which, like an unclean sea, will spread through the streets, plazas and public places with an astounding liberty, such that there will be almost no virgin souls in the world.

“The envious and pestilential devil will attempt, in his malicious pride, to enter into these closed gardens of the religious cloisters … Alas! There will be unwary souls who will voluntarily put themselves into his claws, and others, returning to the world, will be the devil’s instruments for losing souls.

“The fourth reason for the sanctuary lamp going out is that the sect [of Masonry] having taken over the social classes, will have enough cunning to introduce itself into domestic households, so that, by ruining childhood, the devil shall glory in being fed with the exquisite delicacy of children’s hearts.

“In these fateful times, childhood innocence will scarcely be found, in this way vocations to the priesthood will gradually disappear…

“At that time observance of the Rule in communities will shine forth,[24] and there will be holy ministers of the altar, hidden and beautiful souls in whom my Blessed Son and I will take pleasure in the exquisite flowers and fruits of their heroic sanctity, against whom impiety will wage a cruel war filling them with condemnations, calumnies and vexations to prevent them from fulfilling their ministry. They, like firm columns, will remain immoveable, facing everything with that spirit of humility and sacrifice with which they will be vested in virtue of the infinite merits of my Blessed Son, who loves them like the most delicate fibers of His Most Holy and most tender Heart.[25]

“In the secular clergy there will be much to be desired in this period, because priests will neglect their sacred duty. Losing the Divine compass they will stray from the path marked out by God for the priestly ministry and they will become attached to money, and to gain it, they will make too much effort.

“Then the Church will suffer the dark night from the lack of a prelate and father to watch over [the secular clergy] with paternal love, with sweetness, strength, sound judgment and prudence. Many of them will lose their spirit, placing their souls in great danger.

“Pray with insistence, cry out without tiring and weep with bitter tears in the secret recess of your heart, begging our Heavenly Father, for the love of the Eucharistic Heart of my beloved Son, for the Most Precious Blood poured out with such generosity and for the deep grief and pains of His bitter Passion and death, to have pity on His ministers and put an end, as soon as possible, to such disastrous times, by sending to the Church the prelate who shall restore the spirit of his priests.[26]

“My Son and I will love this beloved son of mine with a love of predilection, since we will give him rare qualities of humility of heart, of docility to divine inspirations, of strength for defending the rights of the Church and a tender and compassionate heart; so that, like another Christ, he may care for the great and the small, without despising the most unfortunate, to whom he will give light and counsel in their duties and sorrows. And so that, with Divine sweetness, he may guide consecrated souls to the service of God in their religious life without making the Lord’s yoke to weigh heavily upon them, Who said, ‘My yoke is sweet and my burden light,’[27] I will put the balance of the sanctuary in his hand so that all may be done with weight and measure, and God may be glorified.

“The tepidity of all souls consecrated to God in the sacerdotal and religious state will impede having this prelate and father sooner. This same tepidity will be the cause of accursed Satan taking possession of these regions, who will acquire all of them by means of so many foreign people without faith, who like a black cloud will darken the clear sky of the republic then consecrated to the Sacred Heart of my Divine Son.

“With those people all the vices will be introduced which will draw down, as a result, all kinds of punishments, like plagues, hunger, conflicts both internal and with other nations, and apostasy, the cause of the loss of a considerable number of souls, all very dear to Jesus Christ and to me.

“In order to dispel this black cloud, which prevents the Church from enjoying the clear day of liberty, there will be a tremendous and frightful war in which the blood of citizens and foreigners, of religious and secular priests, and also of religious will flow. That night will be most horrifying, because, to human eyes, evil will seem to triumph.

“Then my hour shall have arrived, in which I, in an astonishing manner, will destroy the proud and accursed Satan, placing him under my feet and burying him in the infernal abyss, while the Church and country finally shall be free of his cruel tyranny.

”The fifth reason is that it is due to carelessness; it is due to the neglect of persons who, possessing substantial wealth, will view with indifference the Church being oppressed, virtue persecuted, wickedness triumphing, without piously using their wealth for the destruction of evil and the restoration of the faith. And owing to this indifference of the nation in allowing the name of God to be wiped out little by little and by adhering to the spirit of evil, [they will] give themselves over to vices and passions.

“Oh, my beloved daughter, if it were given to you to live in that frightful time, you would die of sorrow upon seeing happen all that I reveal to you now. Such is the love that my Blessed Son and I have for these lands, our inheritance, to which we wish from now on to apply your sacrifices and prayers for shortening the duration of the time of such a terrible catastrophe.”

After these words, Mary of Good Success ended her visit. Nevertheless, Mother Mariana had a vision of all that the Virgin had said would come to pass, and this affected her so much that she remained in the choir as though dead, with her forehead on the ground and arms outstretched, and so the sisters found her and brought her to her bed. She remained in this state for three days and three nights. On the third day, at three o’clock in the morning, Mother Mariana sat up, saying, “Yes, Wounded Seraph and my dear father, I thank you.”

Mother related the apparition of the Virgin to her spiritual director and confided to him that when she was unconscious, she saw Saint Francis of Assisi, who said to her, among other things,

“A few months are left for you to bring to a close your painful exile … During your last moments, at your side will be Beatriz, the foundress of your Order, I and all the sisters of the Seraphic family, and Blessed Ignatius of Loyola, whom you love so much for the ardent love that he had during his life for Jesus Christ, and that gave Him so many souls at the cost of great sacrifices. He is a servant much loved by God, and the military character that motivated his entire spiritual life, and which his Society has received from him, will remain in his Society. In it there will always be great scholars, great saints and great martyrs. They will possess discretion and the discernment of spirits as a special gift of the Divine bounty, and so the serpent’s tail will not be able to be hidden from them …

“Great afflictions, persecutions and calumnies await this convent so dear to God and our Blessed Mother, which will refine the fervent and faithful souls, and will expel the tepid, since they are unworthy of receiving these valuable gifts …”

[23] This last sentence has been added from Vida Admirable de la Madre Mariana, vol. 3, p. 28.

[24] This sentence has been completed from Vida Admirable de la Madre Mariana, vol. 3, p. 31.

[25] This need not be the majority of Communities, but it would seem that some traditional communities will exist at this time that will follow their Rule with great fidelity.

[26] Archbishop Marcel Lefebvre referred to this prophecy during his sermon when consecrating four bishops on June 30, 1988, as follows: “Just recently, the priest who takes care of the Society priory in Bogota, Colombia, brought me a book concerning the apparition of Our Lady of Buen Suceso,—of ‘Good Success’—to whom a large church in Quito, Ecuador, was dedicated. They [the prophetic words of Our Lady] were received by a nun shortly after the Council of Trent, so you see, quite a few centuries ago. This apparition is thoroughly recognized by Rome and the ecclesiastical authorities; a magnificent church was built for the Blessed Virgin Mary wherein the faithful of Ecuador venerate with great devotion a statue of Our Lady, whose face was made miraculously. The artist was in the process of painting it when he found the face of the Holy Virgin miraculously formed. And Our Lady prophesied for the twentieth century, saying explicitly that during the nineteenth century and most of the twentieth century, errors would become more and more widespread in Holy Church, placing the Church in a catastrophic situation. Morals would become corrupt and the Faith would disappear. It seems impossible not to see it happening today.
“I excuse myself for continuing this account of the apparition, but she speaks of a prelate who will absolutely oppose this wave of apostasy and impiety—saving the priesthood by forming good priests. I do not say that prophecy refers to me. You may draw your own conclusions. I was stupefied when reading these lines but I cannot deny them, since they are recorded and deposited in the archives of this apparition.”

[27] Matthew 11:30. Omitted wording supplied from Vida Admirable de la Madre Mariana, vol. 3, p. 32.

【再掲】2019年2月2日(初土) 童貞聖マリアの御潔めの祝日 説教 「ローソクと行列、御潔めの祝日の意味」

2021年02月01日 | お説教・霊的講話
2019年2月2日(初土)童貞聖マリアの御潔めの祝日のミサ
小野田神父 説教


【ロウソク行列の前の説明】
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は童貞聖マリア様の御潔めの祝日です。ミサの前に、ロウソクの祝別と、ロウソク行列があります。

簡単に説明をします。
この「ロウソク」というのは、「イエズス様」です。そして今日私たちはシメオンとなって、聖殿において、主の、人となった天主の憐れみを受け取ります。このロウソクを持って、この御聖堂から出て、一周回ってからまた戻ります。それは、「この地上での、イエズス様と共にこの地上で生活して、天国にまた行くのだ」という意味です。
では儀式が始まります。

【説教】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

愛する兄弟の皆さん、今日は聖母の御潔めの祝日です。そこで、この御潔めの祝日の中に深く入る事に致しましょう。

今日の御潔めの祝日には、2つの重大な、重要な要素があります。

1つは、御降誕から始まって、人類が救い主を迎え受けたという、人類が救い主と出会ったという事が、今日クライマックスになります。

御降誕の時には、救い主イエズス様、人となった全能の天主、救い主、約束されたメシアは、マリア様と聖ヨゼフ様、そして選ばれた野宿していた羊飼いたち、牧場の牧者たちに知らされました。少数の人々に知らされました。

御公現には、エルサレムがそれを知りました。光の町として輝いて、そして異邦人の人々も群れをなして、ラクダを連れて、お土産を持って、預言された通り、救い主を拝み、礼拝しにやって来ました。

そして今日、選ばれた民の熱心な人々に、そして私たちの手に、私たちの心に、救い主がお越しになります。そればかりではなく、私たちはその救い主を持って、教会の外を回りました。そして「救い主は真に生まれた。私たちの元にいる」という事を証して、また天国の象徴であるこの御聖堂に戻ってきました。入祭誦で、戻った時に入祭誦でこう歌いました、「教会の真ん中で、人となった天主の憐れみを、私たちは受けた。」

私たちがロウソクを受けたという事は、ちょうどシメオンがイエズス様を、神殿の真ん中で、救い主だと認めてマリア様の手から受けたように、「私たちは確かに、救い主を受けた。」

そして行列の最中の時には、“Adorna thalamum”「だから私たちは主と一致した。天主イエズス様は私たちの花婿、私たちは花嫁で、イエズス様と私たちはこれでこの出会いを受けて、もう決して離れる事がないように、その花嫁の部屋をさぁ飾れ。そして王であるキリストを受ける準備をせよ、受けよ」と歌います。

そう歌いながら私たちは、この世の人々にイエズス様の光を照らしながら、人々に言います、「私たちの救い主は来られた。王であるキリストを受けよ。私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、私たちの寝室にイエズス様が入るように、それを綺麗に飾れ。」

ちょうどこの私たちがロウソクを受けたのは、また洗礼の時に受けたロウソクを思い出させます。教会は私たちに毎年1回、このロウソクの、御潔めのロウソクを受けさせて、「イエズス様を受けた」「イエズス様の花嫁になった」「イエズス様の子供になった」という事を思い出させます。「悪魔の支配の手から逃れて、天主の子供となった」という事を思い出させます。「そしてその事を世の人々に知らせるように」と招いています。

こうして今日私たちが書簡書で読んだ、マラキアの預言が実現した事を記念します、「支配者が来るだろう。すぐに来るだろう。そして契約の使者が神殿に来るだろう」という事を、「それが実現した」という事を私たちは記念します。確かにイエズス・キリストは、預言を全て成就された御方です。

第2の要素は、最初クリスマスの時には私たちは、「世の光であるイエズス様がお生まれになった」という事を祝いましたが、それは馬小屋で照らされていました。
そしてこの光は今度は御公現の時には、エルサレムを照らします。
ところが今日は、御降誕から40日後のお潔めの時には、光である新しい光、栄光の光の王であるイエズス様は、全世界を輝かせようと、全世界に光ろうと御望みになります。

そのイエズス様の光は、真の真理の光は、愛徳の光は、憐れみの光は、全世界を輝き出さなければなりません。これがイエズス様の御望みです。それがこの典礼の光がますます広がっていく様子を表しています。ですから私たちは今日、ロウソクをただ受けたのみならず、それを持ってこの世を輝かし出しました。

この2つの要素を見ると、私たちはどんな事を今日は思わなければならないのでしょうか?

よく考えてみると、イエズス様の御望みというのは、「御自分が真の救い主であるという事を世に知らせて、そして多くの人が、できれば全ての人が、その光を受け入れて、その光を認めて、天国にへと入る」そして「イエズス様が御血を流された全ての霊魂たちが、イエズス様を花婿として自分の寝室に迎え入れて、イエズス様をお愛しする、イエズス様を救い主として、その御血の潔めを受ける、その御血によって罪を赦される」それを御望みであるという事が分かります。「その真理の光が、愛の光が全世界に輝かされる」という事を御望みであるという事がよく分かります。

そしてその為にイエズス様は、私たちをお使いになりたいと思っているのです。つまり、私たちは道具にならなければなりません。

カトリックの司祭を見て下さい。カトリックの司祭は、単なる道具にすぎません。なぜ単なる道具かというと、カトリックの司祭がいくら逆立ちをしても、いくら何をしても、イエズス様の御恵みがなければ、何もする事ができません。いくら綺麗な話をしても、イエズス様の御恵みがなければ、人の心に響くところはありません。いくら綺麗な祭服を着て、いくら綺麗な言葉を話しても、御恵みがなければ、イエズス様が働かなければ、超自然の命を与えて下さらなければ、何もできません。ですから道具にすぎません。

しかしイエズス様は、この道具がなければミサをする事もできないし、道具がなければ洗礼を授ける事も、あるいはイエズス様の御言葉を伝える事も、あるいはこの道具がなければ、御聖体として私たちと共に居る事もできません。この道具を通して、霊魂を救おうと、永遠の命を救おうと思っています。ですからイエズス様は、非常に深い知恵を以って、この儚い人間というものを使って、永遠の命を救おうと御望みになりました。

もしもこの道具が、「イエズス様の仕事をするのが嫌だ!」と言えば、それによって永遠の地獄に落ちてしまう人が存在します。この道具が道具として使われるのを拒否したが為に、救われない人々もいるという事です。それにもかかわらず、その道具を使う事を御望みになりました。

もしも私たちが、「このロウソクを持って行くのは、ちょっと嫌だ」と言えば、その光を見ない人がいます。それと同じように、私たちに道具になるように御望みになっています。ちょうど私たちはピアノのオルガンのようです。イエズス様が演奏者ですから、素晴らしいオルガニストです。世界最高の音楽を演奏する事ができるオルガニストです。しかし素晴らしい最高のオルガニストも、オルガンがなければ何もする事ができません。どうしてもオルガンが必要です。どんなに安いものでも、鍵盤だけでも、最高の何百万円もするようなものでなくても、ちゃちなものでも必要です。

もしかしたら私たちは、道具としてあまりにも惨めで、みすぼらしくて、本当なら半音の黒い所が欠けていたり、あるいはちょっと音が外れている鍵盤もあるかもしれませんが、しかし最高のオルガニストであるイエズス様は、その音が外れているのもよく知っているので、どこが外れているか、どこが無いかを知っているので、あたかも最高のオルガンであるかのように弾く事が、演奏する事ができます。

イエズス様の能力は、どのような、この世の目から見るとスタンダードから見ると、「何でこんな道具を?」というようなみすぼらしいものを使って、最高の作品を、最高の結果を出す事ができるほどのアーティストであって、演奏者であって、そしてその道具を支配する事ができる使う事ができる有能な天主です。

しかしそれにもかかわらず、どうしても道具が必要なのです。唯一私たちに求められている事は、「道具となる」という事を、「イエズス様の御望みのままに使われる」という事をイエズス様が、ちょうど私たちが、典礼が要求するように、「さぁ、外に出て行列をしなさい」と言えば、「はい」と言って、そのままやったように、イエズス様が御望みのように、私たちがする、それだけが必要です。

いつも「道具である」という事を自覚していなければなりません。しかし私たちの本性はあまりにも自分中心なので、非常にしばしば、そしてすぐに私たちは「道具である」という事を忘れてしまいます。あたかも自分がやっているかのように、あたかも自分が中心であって、自分が、ピアノの演奏家よりもピアノの方が価値があるかのように、何の為に存在しているかを忘れてしまいます。ちょうど花瓶がお花の為にあるのだけれども、でもお花の事は全く忘れて、みすぼらしい花瓶が偉ぶっているかのようです。演奏者があまりにも素晴らしいという事を忘れて、半分壊れたようなオルガンが偉ぶっているかのようです。

しかし、私たちがいつも「イエズス様の道具である」という事を思えば思うほど、「素直であろう」と思えば、「従順であろう」と思えば思うほど、「イエズス様の御望みを叶わせよう」と思えば思うほど、私たちはその道具として素晴らしい結果を、多くの霊魂を光り輝かす事ができますし、そしてそれに感動を与える事もできますし、イエズス様へと引き寄せる事もできますし、イエズス様の平和と喜びを伝える事ができます。

つまり私たちは、「イエズス様の道具となる」というものすごい栄誉を持っている、という事です。考えてもみて下さい。もしも日本の特命大使として、日本の名前の為に、何か日本政府によって特別に依頼されて、任命されて外国に行って、あるいはトランプ大統領に会った、あるいは他の人と会った、「日本の特命大使です。政府からそれを受けてます。」何という名誉でしょうか。私たちはその大使として、特別の依頼を受けています。イエズス様の、王の王である救い主の大使として、この道具として、イエズス様の名前によって、イエズス様御自身を、私たちではなくイエズス様を輝かせるように、イエズス様を運ぶように。

もちろんミサの前に行列するのは簡単でしたが、「それを、私たちが天国に行く日まで、 イエズス様を持って、イエズス様の光と愛の炎を輝かせながら、この地上を歩きなさい。いつもイエズス様の道具である事を意識しなさい。」素晴らしい使命を与えられています。

今日、私たちはシメオンとなりましたから、このイエズス様を決して離す事なく、天国に行く日まで、この光を守らなければなりません。

その秘訣は、マリア様です。マリア様は終わりまでこのようになさいました。マリア様が私たちを助けて下さいますように、汚れなき御心のマリア様に、それができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






【再掲】Adorna thalamum tuum, Sion(シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ)の歌詞とその日本語訳

2021年02月01日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 Adorna thalamum tuum, Sion(シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ)の歌詞とその日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Κατακόσμησον τὸν νυμφῶνά σου Σιών,
Adorna thalamum tuum, Sion,
シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ

καὶ ὑπόδεξαι τὸν Βασιλέα Χριστόν,
et suscipe Regem Christum:
しかして王たるキリストを迎え入れよ

ἄσπασαι τὴν Μαριάμ, τὴν ἐπουράνιον πύλην·
amplectere Mariam, quae est coelestis porta:
天の門なるマリアを抱擁せよ

αὕτη γὰρ (θρόνος Χερουβικὸς ἀνεδείχθη,
αὕτη) βαστάζει τὸν Βασιλέα τῆς δόξης, νεφέλη φωτὸς
ipsa enim portat Regem gloriae novi luminis.
マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い

ὑπάρχει ἡ Παρθένος, φέρουσα ἐν σαρκὶ Υἱὸν πρὸ Ἑωσφόρου,
Subsistit Virgo adducens manibus Filium ante luciferum genitum:
明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う

ὃν λαβὼν Συμεὼν ἐν ἀγκάλαις αὐτοῦ ἐκήρυξε λαοῖς, Δεσπότην αὐτὸν
quem accipiens Simeon in ulnas suas praedicavit populis Dominum eum,
その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり

εἶναι, ζωῆς καὶ τοῦ θανάτου, καὶ Σωτῆρα τοῦ κόσμου.
esse vitae et mortis, et Salvatorem mundi.
この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。


霊的な生ぬるさに冒された霊魂にはどのような特徴があるか

2021年02月01日 | お説教・霊的講話
家の主人とぶどう畑のたとえについての短い説教(七旬節)

ドモルネ神父様

本日の福音のたとえについて少し考察しましょう。

1.福音のたとえの提示

家の主人は天主です。ぶどうの木は、二つのものを意味しています。まず、集会書が言っているように、私たちの霊魂のことです。「ぶどうの木として、私は心地よい香りをもたらした」(集会書24章23節)。

もう一つは、聖グレゴリオが言っているように、教会のことです(詩篇79章9節参照)。働く人を雇うために出かける家の主人は、愛徳というぶどう酒を造るために、私たちの霊魂を育て、教会で働くように私たちをお召しになっている天主であり、この愛徳によって、天主はすべてに超えて愛され、ほめたたえられるのです。働く人に与えられる賃金は、永遠の幸福という報酬です。

2.私たちの審判の基準

夕方に来た働く人は、朝から働いていた人たちと同じ賃金をもらいましたが、それは、彼らが最初の人たちよりも天主への奉仕に熱心で寛大だったからです。このことは、私たちの主イエズス・キリストの審判が、私たちの奉仕の長さよりも、私たちが天主のために尽くす熱意と完徳にかかるであろうことを示しています。

若い頃から天主の掟を守りながらも、福音的勧告の道において私たちの主に従うことを拒んだ金持ちの若者の態度と、公の罪人でありながら、回心後は十字架まで忠実に主に従った聖マリア・マグダレナの態度を思い出し、比較してみてください。

3.生ぬるさへの警告

本日の書簡と福音を通して、教会は私たちを霊的な熱意へ向かうよう奨励し、霊的な生ぬるさに陥らないよう警告しようと望んでいます。

霊的な生ぬるさに冒された霊魂にはどのような特徴があるでしょうか。それは、福音に不満を持った働く人に見られるものです。天主への生き生きとした内的な愛を持たずに、外見上の宗教的な義務を果たしていること、善き主が私たちに要求なさったことが難しくて疲れることを不満に思っていること、善き主が私たちに報酬として決して十分には与えてくださらないことを不満に思っていること、天主と隣人のために寛大かつ飽くことなく献身している人々をうらやましく、妬ましく思うことです。

4.霊的な生ぬるさへの薬

このような生ぬるさから抜け出すためにはどうすればよいのでしょうか。私たちは、このたとえの中で最後に来た働く人たちが示していることをまねるべきです。それは、天主に対して善意を捧げること、自分は役に立たないしもべであり、天国に招かれるにふさわしくないことをしばしば思い起こして謙遜でいること、他人から何の評価も期待せずに、彼らのために働いて助けること、聖パウロの言葉「受けるよりも与えることに幸せがある」(使徒行録20章35節)を思い起こすことです。

最後に、何よりも私たちの主イエズスのご受難をしばしば黙想することです。そこでは、愛徳の火が非常に強いため、私たち自身が火の中に入らずには近づけません。そこでは、私たちの主の寛大さは非常に英雄的であるため、私たちは自分の自己中心を恥じることしかできません。

共同受難の聖母が、天主への奉仕にさらに熱心であるよう私たちを導いてくださいますように。アーメン。




ドモルネ神父の「信仰に関する近代主義者の原理についての説教」

2021年02月01日 | お説教・霊的講話
御公現後第三主日 

信仰に関する近代主義者の原理についての説教

ドモルネ神父様

はじめに

本日の福音で、教会は私たちに、私たちの主イエズス・キリストの超越性について考えさせます。

主はらい病人を奇跡的に癒やされ、百夫長が主の前で深い敬意の念を持ってへりくだり、主は主の神性に信仰を持たない者は誰であれ地獄に落ちると宣言なさったのです。これらすべてのことは、私たちのうちに、私たちの主イエズスに対する畏敬の念を呼び起こすのにふさわしく、同時に私たちに対する主の大いなる御あわれみを示しています。

今日、私たちは、ひざまずいてご聖体を受けることを禁じる司教や司祭がいるというところまで来たカトリック教会を含めて、私たちの主イエズス・キリストがどれほどこの世で軽んじられているかを考えると、どのようにしてこのような状況にまで来てしまったのだろうかと思うかもしれません。

福音の百夫長の態度と、あまりにも多くの聖職者やカトリック信徒による私たちの主に対する態度は、完全に二分されています。前者には深い敬意とへりくだりがあり、後者には不注意と愚かな傲慢があります。その理由は、カトリックの聖職者と信者の多くを駄目にしてしまった近代主義の異端にあるのです。

1.不可知論

この異端の出発点は不可知論です。「不可知論」(Agnosticism)とは、否定を意味する「A」と、知るという行為を意味する「gnosis」に由来しています。したがって、「
Agnosticism 不可知論」とは、「知ることができない」ことを意味します。不可知論とは、自分の外にあるものを知ることができないという誤った考えです。
不可知論によれば、私たちは知覚や感覚を持っていますが、現実には何であるのかを知ることはできないとされます。例えば 、私が一切れの肉を見て、触って、匂いを嗅いで、食べます。私はさまざまな感覚を持っていて、私が見て、触って、匂いを嗅いで、食べるこの物体を「肉」と呼んでいるのですが、実際にはそれが現実に何なのか分からない、この物体が現実には何なのかを知ることができないと主張するのです。

多分、皆さんは、それは非常に奇妙な教えであると言うでしょうし、皆さんは正しいでしょう。なぜなら、それは不合理だからです! 誤謬には常に何らかの不合理がつきものです。だから、不可知論者にとって、私たちは自分自身の外側にあるものを知ることはできず、内面的に感じるものを知ることしかできないのです。言い換えれば、私たちは自分自身で考え、感じていること以外は何も知らないのです。ですから、不可知論者によれば、私たちは天主が存在するかどうかを知ることはできない、つまり、自分の周りにある被造物についての知識で推論し、それを使うことで天主が存在するかどうかを知ることはできないのです。

これは誤った教えです。なぜなら、人は自分の周りにあるものを本当に知り、この世にあるものを知ることによって天主を知るようになるからです。聖パウロはローマ人にこう言っています。「天主の不可見性は、世の創造の時以来、そのみわざについて考える人にとって見えるものである」(ローマ1章20節)。しかし、この不可知論こそが近代主義の教えの出発点なのです。

2.生命的内在

さて、第二段階に入ります。その問いはこうです。天主が存在するかどうかを、私たちの身の周りの被造物の知識で推論し、それを使うことで知ることが不可能であるならば、人間の生活における宗教の起源や存在をどのように説明することができるのでしょうか? 近代主義者の答えは、宗教とは、人間の霊魂の奥底に根ざした、ある種の自然な心の感情から来る生き方であり、知的な精神では触れることができないとされるのです。そして、その必要性は、人生におけるある決然とした好ましい状況の中で現れると答えています。

人間の霊魂の奥底から来るこの心の感情を、近代主義者たちは複雑な表現で「生命的内在」(Vital Immanence)と名付けました。つまり、この感情は人間の霊魂の中にひとりでに存在し、誰かや何かによって加えられるものではないのです。私たちは、宗教的生活のこの感情、この必要性を持って生まれてくるのです。

近代主義者のこの教えは誤りです。宗教が存在するのは、被造物である人間が創造主を敬うことが、自然で厳格な義務であるからです。

3.天主との一致は、生命的内在による(近代主義)

第三段階に移りましょう。近代主義者は、この生命的内在、この心の感情こそが天主との接点であると言います。私たちは理性では天主を知ることはできませんが、この心の感覚を通して天主に到達することができるのです。近代主義者によると、この感情を体験することによって、天主は天主ご自身を直接知らせてくださるのです。私たちがこの感情を経験したとき、私たちは信仰を持つことになります。

このようにして、近代主義者は、宗教を厳密に個人的で経験的な問題に矮小化します。近代主義者は、啓示をもはや天主から与えられ、教会によって伝達される客観的な教えではなく、人々の良心の中にある感情の表現とします。近代主義者は、信仰を、もはや天主から与えられた啓示を理性によって同意することではなく、宗教的な感情の経験とするのです。

4.近代主義による私たちの主イエズス・キリスト

こういったすべてにおいて、私たちの主イエズス・キリストについてはどうでしょうか?! さて、近代主義者によると、私たちの主は、実際にはただの人間であり、宗教的感情による無比の体験をした、並外れた才能のある人間であり、彼の死後、人々が彼の物語を理想化させ、天主の力と奇跡という並外れた行いを彼のものとする成功を収めて、彼の周りの人々に宗教的感情による無比の体験を感じさせました。そして、イエズスの宗教的な感覚の体験は、キリスト教と呼ばれる特定の宗教的な生き方を生んだのです。近代主義者によれば、「聖伝」とは、この経験の伝達を意味します。すなわち、イエズス・キリストが与えて下さった教えの伝達ではなく、イエズス・キリストが始められた宗教的感情の経験の伝達なのです。

このように、近代主義者は、私たちの主イエズス・キリストの神性を否定するようになり、キリスト教を宗教的な感情を経験する特殊な方法に過ぎないものとしてしまうのです。同じいのちの内在から来ているものとして、イスラム教、仏教、神道、ユダヤ教、ヒンドゥー教のような他の経験がありますが、近代主義者にとっては、すべてが根本的に同じなのです。近代主義者によれば、福音は、実際に起こり、多数の証人によって確認された事実を報告する歴史書ではなく、読み手の宗教的感情を刺激する意図を持つ黄金伝説にすぎないのです。

これらはすべて誤りであり、地上での私たちの主イエズス・キリストの統治を破壊しようと望む変質した心の実りでしかありません。本日の福音が私たちに思い起こさせてくれる単純な真理を、すぐに見てみましょう。

福音書は、イエズスが群衆に彼の教理の本質を説いた「山から下りられた」(マテオ8章1節)
と書いています。

このことは、私たちの主イエズスが私たちに、霊と真理によって聖三位一体を礼拝するよう教えられるために、また天国への道を教えられるために、地上に降りられた天主の御子であることを思い起こさせてくれます。らい病人と百夫長の中風の下男の二つの癒やしは、私たちの主イエズスが、霊的に中風を起こしていて自分では天国に行くことができない私たちを、私たちの罪というらい病から清め、私たちに天国に行く能力を与えてくださる唯一のお方であることを思い起こさせてくれます。

しかし、気を付けていただきたいのは、私たちの主イエズス・キリストが二人の病人を癒やされたのは、彼らが主の神性に対する信仰を持っていたからだということです。私たちの主は、主の神性を信じる者だけを癒やすことがおできになり、へりくだって知性を主の教えに委ね、意思を主の掟に委ねる者だけを癒やすことがおできになります。これは、天主が確立され、聖パウロが次のように表現した法です。「天主はイエズスを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみなひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『主イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章9〜11節)。ユダヤのファリザイ人のように、私たちの主イエズス・キリストの神性を公言することを頑なに拒む者は誰でも、地獄に落ちることになります。「国の子らは外の闇に投げ出され、そこで泣いて歯ぎしりするだろう」(マテオ8章12節)。

結論

愛する信徒の皆さん、近代主義の異端が世界中でカトリック信仰を癌のように破壊しつつあり、私たちの主イエズスが多くの司祭や司教によって裏切られ、主の神性とその権利がすべての国によって拒否されているこの困難な時代において、教会の招きに応じて、本日、福音の百夫長に霊的に一致しましょう。

イエズスの前にへりくだってひれ伏し、イエズスの神性に対する私たちの信仰と、いかなる犠牲を払っても死に至るまで快くイエズスに従うことを堅く宣言しましょう。

そうすれば、イエズスは私たちの罪を清めてくださり、イエズスに倣う力を与えてくださいます。陣立てを整えた軍隊のように強い無原罪のマリア様が、私たちの模範となり、私たちの星となり、この人生とこの近代主義との戦いの間、私たちの支えとなってくださいますように。アーメン。


近代主義について詳しく知るには、聖ピオ十世教皇の回勅をご覧下さい。





カトリック聖伝のミサの報告 東京 大阪 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka SSPX Japan

2021年02月01日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日、1月31日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計97人でした。大阪では25人でした。日本では、総計122人でした。天主様に感謝いたします。

天気もよく、多くの方々にとっては、ミサに与りやすかったのだと思います。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべも、大阪で午前のミサを行いました。ミサの直後には、聖体降福式も行いました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the 3 masses in Tokyo today was 97, including children.

09:00 mass
M: 18 (incl. 2 children)
F: 18 (incl. 2 children)
Total: 36 (incl. 4 children)

11:00 mass
M: 19 (incl. 4 children)
F: 21 (incl. 8 children)
Total: 40 (incl. 12 children)

12:30 mass
M: 12 (incl. 1 child)
F: 16 (incl. 2 children)
Total: 28 (incl. 3 children)

Total of 3 masses (excl. 7 people who participated in multiple masses)
M: 46 (incl. 7 children)
F: 51 (incl. 9 children)
Total: 97 (incl. 16 children)




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】