アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。
今週末:2021年2月5日(金)6日(土)7 日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。
【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)
2月5日(金) 17:30 ロザリオ及び告解 18:00 ミサ聖祭
2月6日(土) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭
2月7日(日) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭(ドモルネ神父)【ミサの開始が午前に変更になりました。ご注意ください。月曜日のミサはありません。】
【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図 )
2月7日(日)主日ミサが三回捧げられます。
午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。
【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】
Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of February 7, 2021.
Mass schedule in OSAKA:
Fri, February 5: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Sat, February 6: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Sun, February 7: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2021年2月7日は六旬節の主日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「六旬節の主日の説教」の動画をご紹介いたします。
ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。
この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、2021年2月3日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。今年は、聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。
初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。
聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。
また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。
聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。
初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。
聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph
聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び
1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。
2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。
3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。
4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。
5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。
6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。
7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。
交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)
V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。
祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。
参考リンク
●サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。
英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.
i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.
ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.
iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.
iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.
v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.
vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.
vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.
Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.
V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.
Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
愛する兄弟の皆さん、
善き出来事のマリア様は、20世紀の私たちの為に、特別にいけにえの霊魂を求めました。そしてその選ばれた清い霊魂が、マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トレス (Mother Mariana de Jesús Torres y Berriochoa)という方でした。非常に寛大で、非常に愛された霊魂でした。そしてこの彼女の、地獄をも体験するような、そして病と、苦しみと、いけにえと、祈りの、礼拝の人生を通して、20世紀の私たちの為に、特別の恵みを準備して下さいました。
エクアドルという国は、私たちにもほとんど知られていない国ですけれども、多くの聖なる寛大な、イエズス様の愛に燃える霊魂たちをたくさん生み出した国だ、という事を、特に20世紀の為に、私たちの為に準備されていた国だ、という事をひしひしと私は体験しました。
そこでぜひ皆さんに、「そのような霊魂がいた」という事、そして「私たちの為に、今、この現代の私たちの霊魂が救われる為に、特別な天主の御計らいがあった」という事をよくご存知になって下さい。
⑴今日、そのマザー・マリアナが受けたメッセージというものを、少しだけご紹介させて下さい。
⑵そして、エクアドルには他にもどのような事があったのか、という事を簡単に話させて下さい。
⑶最後に、では私たちは今、そのような霊魂たちからの特別の犠牲と、特別の苦しみの為に、私たちが今何を受けたのか、そして私たちは何をすべきなのか、という事を黙想致しましょう。
⑴マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トレスという修道女は、修道院長となって、また幼少の頃から特別に、マリア様からのメッセージなどを受けました。今回私のぜひ紹介させて頂きたいと思うのは、この人生の終わりに、亡くなる1年くらい前の1634年の3月に受けたメッセージです。
マザー・マリアナは、いつも朝早く早朝から、例えば朝の3時とかから起きて、御聖体礼拝、黙想などをしていました。
三位一体の神秘。聖父・聖子・聖霊、三位一体が区別されていて、しかし唯一の天主である事。
あるいは、この三位一体の聖子が、三位一体の第二のペルソナ聖子が、御聖体の内に真に在す事。
あるいは、その御聖体の内に真に在す全能永遠の天主が、私たちをどれほど愛されているか。
また、三位一体が、マリア様の事をどれほど愛されているか。罪の汚れ無く、聖アンナの胎内に宿された事。
あるいは、イエズス・キリスト共に、マリア様が人類の罪の償いの為の共償者となった事。
等よく黙想されていました。そしてその神秘の中に深く入っていました。
すると、天の元后マリア様が、マザー・マリアナに御現れになります。特にマリア様にマザー・マリアナは、「善き死を遂げる事ができるように」とお願いしていました。
すると、ちょうどこの祭壇のように、綺麗に飾られた御聖堂が、この教会のランプで照らされていたランプが、その御聖堂のランプが、突然消えてしまいます。そして真っ暗になります。何とかローソクの火を点けようとするのですけれども、マザー・マリアナの体は動きません。
すると突然、超自然の光が祭壇に輝いて、そして昼間のように明るくなります。マリア様が御現れになって、そしてお言葉をこう下さいます。
「私の御心の愛された娘よ。私は、善き出来事のマリア、あなたの母、あなたの守護者です、そして私の御子イエズスを私の左手に、そして右の手に司祭杖を持ち、私はあなたに、善い知らせを告げる為にやって来ました。その善い知らせとは、10ヶ月と数日後、あなたはこの世の地上の光に目を閉じ、永遠の光を見る為に目を開く、その日がやって来るるでしょう。」
「あぁ、死すべき全ての人々が、もしも『天国がどのようなものである』という事を知っていたなら!もしも『天主を所有する』という事の幸せがどれほど素晴らしいものかを知っていたなら!この人生をどれほど変わって生きていた事でしょうか!そして永遠を得る為に、天主を得る為に、どのような犠牲も省略したりする事はなかったでしょう!」
「今、祭壇の前に燃えている至聖所のランプが消えたのには、いつくかの意味があります。」
「第一の意味は、19世紀の終わりと20世紀のほとんどには、この時期になると、多くの異端がすでに自由共和国となったこの地に広がり、そしてそこを支配していた信仰の貴重な光が消え失せるでしょう。これは、道徳が全く腐敗した為です。この時には、肉体的にも、精神的にも、公にも、個人的な生活においても、多くの困難があるでしょう。」
「教会とこの地上の国を、異端の奴隷状態から解放する為に、私の愛する御子の特別な憐みの愛によって復興のために選ばれた霊魂があります。この霊魂は、復興させる為に、非常に強い意志と、持続心と、勇気と、天主に対する信頼を持たなければならないでしょう。そして義人のこの信仰と、天主に対する信頼を試す為に、見かけ上全ては失われて、全ては麻痺してしまうように思われる時がやって来るでしょう。しかしその時にこそ、完全な復興の、幸せな始まりの時です。」
「ランプが消えた第2の意味は、この私の愛する共同体が数においても非常に少なくなり、言う事のできない苦々しい、苦しみの海の中に投げ込まれるであるだろうからです。間違った、偽りの愛徳の名前によって、不正義が行なわれるでしょう。私のこの閉ざされた庭においてでさえ、忠実な娘たちにおいてでさえ、私の隠された霊魂たちにおいてでさえ、霊魂たちを座礁させるでしょう。」等々。
「このランプが消えた第3の理由は、この時には、19世紀と20世紀のほとんどには、不潔の精神で大気が汚染されるからです。そして汚らしい海のように、不潔が街中を汚染するでしょう。広場も、道も、公の所にも、驚くべき自由放埒によって汚染されるでしょう。そしてこの世には、童貞を保つような霊魂たちがほぼいなくなってしまうでしょう。」
「嫉妬深い疫病のような悪魔が、自分の悪意のある傲慢を以て、修道院の閉ざされた庭にも入って来るでしょう。この悪魔の鉤のような爪に、自分をあえて晒すかわいそうな霊魂たちは何と不幸な事であるでしょうか。そしてその他の霊魂たちは、この世に戻り、霊魂たちの滅びの為の、悪魔の道具となってしまうでしょう。」
「祭壇のランプが消えた第4の理由は、フリー・メイソンのセクトが、この社会の色々な階級を乗っ取ってしまい、そして非常にずる賢いやり方で家庭の中に入り、そして子供の子供らしさ、子供の純粋無垢を破壊してしまうでしょう。その子供たちの心の、デリケートなその心が失われてしまうでしょう。この恐るべき時には、子供たちの無邪気さがほとんど見つける事ができなくなるでしょう。その為に司祭召命は、ますます失われてしまうでしょう。」
「しかしその時には、ある修道会たちの規律、その会則遵守は、光り輝く事でしょう。その時に、祭壇に仕える聖なる聖職者たちは、隠れながらも、しかし美しい霊魂を以て、そして私の御子と私によって特別に愛される花のように、英雄的な聖徳を持って、不敬虔に対して戦いながら、彼らは祭壇に仕えるでしょう。彼らに対して不敬虔は、残酷な戦いを挑むでしょう。そして彼らを断罪し、讒言をし、そして彼らの悪口を言う事でしょう。そして彼らがその聖務を行なう事を妨害するでしょう。」
「しかしこのような聖職者たちは、柱のように、微動だにとも不動で、そして謙遜の精神を以て、犠牲の精神を以て、自分に与えられた、聖子(おんこ)イエズス・キリストの無限の御功徳によって与えられた、自分の聖務をやり遂げる事でしょう。彼らは私の御子の最も聖なる、そして優しい聖心のデリケートな、愛された者となるでしょう。」
「ところで、在俗の司祭たちには、多くの欠如が見出されます。彼らは自分の聖務をなおざりにするだろうからです。天主の羅針盤を失った彼らは、天主から与えられた道から外れてしまう事でしょう。そして彼らは金に愛着し、そしてそれを得ようとあまりにも多くの努力をする事でしょう。その時教会は、父のような愛・優しさ・強さ・健全な判断力・賢明さをもって聖職者たちを指導する、高位聖職者かつ父親の欠如の為に、多くのひどい暗闇を苦しむ事でしょう。多くの司祭たちはその精神を失い、そして彼らの霊魂は大きな危険に晒される事でしょう。」
「倦まず弛まず祈りなさい。あなたたちの心の秘密の隠れ家で苦い涙を流して、天主聖父に、イエズス・キリストの御聖体の聖心への愛によって、寛大にも流された聖子のいと尊き御血の功徳によって、聖子の御受難と御死去の深い悲しみと苦しみによって、祈りなさい。天主の為に働く聖職者たちを憐れんで下さるように、そしてできるだけ早くこの暗闇が終わる事ができるように、この災害の時が終わる事ができるように、教会に司祭職の精神を復興させるべき、かの高位聖職者を、一人の聖職者を送って下さるように祈りなさい。」
「私の御子と私は、私の息子であるこの高位聖職者を、特別の愛で愛しています。彼には、滅多にない特別の謙遜の心と、従順と、天主の息吹に対する従順と、そして教会の権利を守る為の力強さを与える事でしょう。そして彼には特別の優しい同情の心がある事でしょう。それは第二のキリストとして、彼が不幸な人々を軽蔑する事なく、光と導きを与える事ができる為です。そして司祭たちに、その義務を果たす事ができる勧告を与える事ができる為です。天主の優しさを以て彼が、天主の奉仕の為に、主のくびきを彼らに重くのしかからせることなく修道生活において聖別された霊魂たちを導くためです。主は"私のくびきは快く私の荷は軽い"言われました。私は、彼の手に天主の天秤を置き、そして天主が栄光を受けるように取り図らう事でしょう。」
「しかし、司祭の身分また修道者の身分において天主に捧げられた全ての霊魂たちの生ぬるさの為に、この高位聖職者が私たちに与えられるのは遅れるでしょう。この生ぬるさの為に、サタンは天主なる聖子の聖心(みこころ)に奉献された共和国の晴れた空を暗くするくらい雲のように、信仰のない多くの外国人たちを使って、この地の多くの地域を自分たちのものとして支配する事でしょう。
これらの信仰の無い人々によって、全ての悪徳が導入されるでしょう。その結果、ありとあらゆる天罰が下されるでしょう。疫病、飢餓、あるいは内的な国内の、あるいは他の国々との戦い、戦争、あるいは背教などによって、数多くの霊魂たちは失われてしまう事でしょう。そしてこのイエズス・キリストにとってとても大切な、私にとっても大切な、多くの霊魂は失われてしまう事でしょう。」
「この暗闇を取り除く為に、そして教会が、自由のはっきりとした陽の光を楽しむ事を妨げているこの暗闇を取り除く為に、将来、市民あるいは外国人、あるいは修道者、あるいは世俗の司祭たちの多くの血が流されるべき、恐るべき戦争が起こる事でしょう。その夜は最も恐るべき日、人間の目にとって、悪が大勝利を収めたと思える日がやって来るでしょう。」
「しかしその時、私の時が到達します。私は全く驚くべきやり方で、傲慢な、そして呪われたサタンを破壊します。そして彼を私の足の元に置き、彼を永遠の地獄の底に葬り尽くします。そして教会と国は最後に、この恐るべき暴君から解放される事でしょう。」
「教会のランプの火が消えた第5の理由は、それは、この世の富を持っている人たちが無関心だからです。教会が迫害されていても、聖徳が圧迫を受けていても、悪が勝利をしていても、信心深く自分たちの富を、この悪の破壊の為に使おうとせず、信仰の復興の為に使おうとしないからです。その無関心の為に、多くの国々は、天主の名前が少しずつこの地上から消えていくのを許してしまう事でしょう。そして彼らは悪徳と情念に自分の身を委ねてしまう事でしょう。」
「あぁ、私の愛する娘よ、もしもあなたがこの恐るべき時に生きなければならないとしたとしたら、あなたは悲しみの為に、すぐに死んでしまう事でしょう。しかし、私たちの遺産であるこれらの地に対して私の御子と私が持つ愛によって、今、このあなたのいけにえ、そしてあなたの祈りを、来たるべき時の苦しみを短くする為に使います。」
こういう事を言うと、マリア様の御訪問は終わりました。しかしこの言葉を聞いたマドレ・マリアナは、この将来起こるべき、教会と世界に対するものすごい苦しみを見て、あたかもの死んだかのようになってしまって、三日間、そのまま気を失ってしまいます。
これはマザー・マリアナが受けたビジョンの一つですが、しかしそのような霊魂たちが、既に21世紀に今、現在生きている私たちの苦しみがより短くなるように、これ以上私たちが苦しまないようにと、多くのいけにえと、犠牲と、苦しみと、断食と、祈りを捧げて下さっていた、その一生を捧げていた、そういう霊魂たちがたくさんいる、という事をぜひ知って下さい。
⑵ エクアドルにはまだその他にも、多くの寛大な霊魂らがいました。例えばガルシア・モレノです。
彼は、フランスに留学していた時に、フランスでイエズス様の聖心の信心の事を深く知りました。「フランスの王が、せっかくイエズス様の聖心からフランス王国を奉献するように頼まれたにも関わらず、それをしなかった」という事を聞いて、イエズスの聖心について学びました。
彼が大統領になった時には、エクアドルという共和国を、イエズス様の聖心に、国会を通して、法律を以て、奉献しました。その為に、彼は、ついには暗殺さえもされました。しかし何と寛大に、イエズス様の聖心を慰めたいと思った事でしょうか。
あるいは、エクアドルには有名な、マリア様の汚れなき御心、悲しみのマリア様(La Dolorosa de Quito)の御影があります。皆さんもきっとご覧になった事があると思います。
1906年4月20日に、イエズス会の学校である聖ガブリエル高校の食堂に飾ってあった、悲しみのマリア様の目が、瞼が、15分ほど、開いたり閉じたり、その天の方を向いて、エクアドルの為にお祈りをしているかのように動きました。奇跡があったのです。マリア様が目を開いたり閉じたりしただけだったのですが、大きな影響がありました。
すぐに教会の公式の調査があって、さらには医学的にも精神科の病院で「誰も狂ったのではなくて、本当にそういう事実があった」という事が、教会法的に確立されました。1906年6月3日(主日)、一万人以上がこの聖母の御影をもって聖母行列します。それを35,000人が見守っていました。
その時に、実はエクアドルには、反カトリックの政治家、フリーメーソンのアルファロ(Eloy Alfaro)という男がカトリック教会の迫害を引き起こしていました。リベラルのアルファロは、リベラルの政府に反対して革命を起こします。リベラル対リベラルの戦いでした。武力で大統領の地位を奪ったアルファロは、カトリック教育に反対する政策(公立の学校でのカトリック教理の勉強を廃止する)を発表し、イエズス会をエクアドルから追放しようとさえします。しかし、聖母の奇跡によって、信仰をよみがえらせたエクアドル市民たちは、アルファロに公然と反対します。
マリア様は、ご自分の目を開いたり閉じたりする事で、エクアドルをカトリックである事として守りました。
アルファロは1911年の選挙で負けて、パナマに逃げて行きます。新しい大統領エミリオ・エストラーダが大統領職について4か月後に死亡すると、1912年1月に新しい大統領選挙のためにエクアドルに戻ります。しかし捉えられて投獄され、リンチを受け、殺されてしまいます。
聖母の奇跡の25周年、あるいは50周年には、エクアドルではものすごい大きな記念行事が開かれました。「マリア様がその目を開いたり閉じたりして、ウインクして、守って下さった」と。
1931年の奇跡の銀祝には、この奇跡が国を挙げて祝われました。エクアドル最初の聖母大会が開かれ、この御影はエクアドルの各地に持ち運ばれました。
1956年の奇跡の金祝には、教会法による聖母の戴冠式が行われました。ピオ十二世教皇は、書簡を送り、教皇の名と権威によって、エクアドルのカトリック教育の元后として、聖母に黄金の冠を被せることを命じました。聖母の戴冠式の機会に、40名の外交的代表者たちの前で、エクアドルの新大統領はエンリケは選挙の勝利を天主と聖母に感謝しました。
⑶では、私たちは一体今日、今回どのような事を考えたら良いでしょうか?
まず、「私たちが今ここで、聖伝のミサをする事ができる」、あるいは「教会の復興の為に今、何かをする事ができる」という事に感謝致しましょう。
今の日本の教会をご覧になって下さい。
残念ながら、イエズス様の三位一体の神秘、イエズス様が御聖体の内に真に在し給うというその玄義、信仰の真理、あるいはマリア様が無原罪の御孕りであられるという事、あるいはマリア様のその終生童貞であるという事、天主の御母であるという事、あるいはマリア様がイエズス様と共に共償者として、第2のエヴァとして私たちの為に、私たちの霊的な母として共に苦しまれて、私たちの為に特別の救霊の役割を果たされたという事、あるいは聖霊の浄配であるという事、あるいはそのマリア様のその天と地の元后であるという、素晴らしいものすごい役割とその力、三位一体の天主こそが唯一の天主であって、全人類の歴史を支配しておられて、私たちを無から創造して、永遠の命の為に、永遠の昔から私たちを愛されておられるという事、これらの事を、今、教会で一体誰が教えて下さるでしょうか。
カトリックの最も基本的な信仰の話が話されていません。一体関心があるのは何かというと、全く別の事です。憲法9条とか、インカルチュレーションとかです。
霊魂の救霊、祈り、犠牲について話す、という事はどこで聞かれるでしょうか?
キトでは、400年前にマリア様が祈りと犠牲についての事を、特別な愛を受けた霊魂に話されました。ところで日本はキトよりも恵まれています。この21世紀に生きる私たちの為に、マリア様は特別に日本を選ばれて、日本の私たちに語りかけておられます。
特に秋田に来られて、マリア様はこう仰いました、「今、御子と共に、御父の御怒りを宥める霊魂を求めております。御父の怒りの手を何とか抑えようとしています。犠牲の霊魂が必要です。祈りと犠牲を捧げて下さい。」
秋田ではマリア様は涙をこめて訴えます、「先程も申しましたように、御父はこの地上を、ノアの洪水よりも更に恐ろしい罰で罰しようとしています、この世の罪の為に。もしもこれ以上人類が罪を犯し続けるならば、罪の赦しが無くなってしまうでしょう。」
「教会の祭壇は荒らされるでしょう。枢機卿と枢機卿は対立し合うでしょう。司教と司教は対立するでしょう。私に聖別された霊魂は失われるでしょう。私を敬う司祭たちは軽蔑されるでしょう。」
御聖体は、ますますなおざりにされています。御聖体を跪いて礼拝する事は、日本では禁止されています。
このマリア様がそのように私たちに警告されて、約50年経ちます。
しかし、マリア様の話は全く無視されています。誰もそれに応えようとしません。
エクアドルでは、マリア様が目を開いた閉じたというだけで、司教様たちは感謝の行事を、25周年、50周年と盛大に祝いました。
しかし、マリア様は日本で涙を101回流されたにも関わらず、何の反応もありません。無視されています。
あと数年でもう既に50年経とうとしますが、誰も関心を払いません。
天使は言います、「マリア様の御心に日本は捧げられているけれども、誰もそれに関心を払わないので、マリア様は非常に悲しんでおられる。」
では、私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?この「400年前にマドレ・マリアナが一生懸命、死の、地獄のような苦しみを受けて、そして祈りを捧げたから、もう私たちは関係ない。私たちの為にやってくれたから、いいんだ」で良いのでしょうか?
マリア様が天から私たちの元、日本にやって来て、こう言われています。
「さぁ、これから大変な時が来る。罪が今地上に溢れている。このままでは天主御父が、本当は嫌なのだけれども、目を覚まさせる為に、罰をせざるを得ない。何とかそれを防ぎたいのだけれども、犠牲の霊魂が必要だ。」
私たちは一体どのようにしたら良いでしょうか?
ぜひ今日はこのミサを、マリア様の御心を慰める為に、罪の償いの為にも御捧げ下さい。
そしてもしもできれば、今年の5月に、マリア様の秋田の元に私たちは馳せ寄って、巡礼をしましょう。
もちろんお金も時間も犠牲も捧げなければなりませんが、ぜひマリア様が、私たちと日本を憐れんで下さるように、多くの司祭、修道者が、イエズス様をますます愛する道に立ち戻りますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
【参考資料】
Ninth Apparition: March, 1634
Mother Mariana was praying at three o’clock in the morning in the upper choir, in front of the tabernacle, saying, “… kneeling in the dust I adore Thee as My Father and Spouse, and this love is victorious in its confidence … whereby I will be purified with Thy Precious Blood, through the hands of the Empress of Heaven, Blessed Mary, of whom I ask good success in my dying moments. In the definitive sentence upon which my happy eternity depends …”
Having said these words, she saw the sanctuary lamp, which burns next to the tabernacle, go out, leaving the altar completely in darkness. Mother Mariana tried to get up in order to light a candle, but she was unable to move. Then a supernatural light enlightened all the choir and the Virgin Mary appeared, who lit the sanctuary lamp, stood in front of her and said to her, “Beloved daughter of my heart, I am Mary of Good Success, your Mother and Protectress, who, carrying My Blessed Son in my left arm and the crosier in my right arm, come to give you the happy news that within ten months and some days, your eyes will finally close to the earthly light of this world, in order to open to eternal light.
“Oh, if all mortal men … knew what Heaven is, what the possession of God is! How differently they would live and never omit any sacrifice to possess it!
“The lamp which burns before the altar, and which you saw go out, has several meanings:
“The first meaning is that at the end of the nineteenth century and for a good part of the twentieth century, various heresies will be spread in this land, already constituted a free republic, and the precious light of faith reigning over it will go out, due to the complete corruption of morals. In this period there will be great physical and moral calamities, both in public and in private …
“In order to free [the Church and their country] from the slavery of these heresies, those whom the merciful love of my Blessed Son will destine for the restoration, will need great strength of will, constancy, courage and much confidence in God. And to put this faith and confidence of the just to the test, there will be occasions in which, apparently, all will be lost and paralyzed; and then will be the happy beginning of the complete restoration.[23]
“The second meaning is that this community of mine, being reduced in the number of persons, will be submerged in a sea of unfathomable and unspeakable bitterness …
“In these fateful times, injustice, covered with the name of false charity, will wreak havoc in souls, even in this closed garden of mine … in my faithful daughters, in my hidden souls … They will weep in secret, complaining to their God and Lord … asking Him to shorten such fateful times for the love of the Divine Prisoner.
“The third reason why the sanctuary lamp went out is because in these times the atmosphere will be saturated with the spirit of impurity, which, like an unclean sea, will spread through the streets, plazas and public places with an astounding liberty, such that there will be almost no virgin souls in the world.
“The envious and pestilential devil will attempt, in his malicious pride, to enter into these closed gardens of the religious cloisters … Alas! There will be unwary souls who will voluntarily put themselves into his claws, and others, returning to the world, will be the devil’s instruments for losing souls.
“The fourth reason for the sanctuary lamp going out is that the sect [of Masonry] having taken over the social classes, will have enough cunning to introduce itself into domestic households, so that, by ruining childhood, the devil shall glory in being fed with the exquisite delicacy of children’s hearts.
“In these fateful times, childhood innocence will scarcely be found, in this way vocations to the priesthood will gradually disappear…
“At that time observance of the Rule in communities will shine forth,[24] and there will be holy ministers of the altar, hidden and beautiful souls in whom my Blessed Son and I will take pleasure in the exquisite flowers and fruits of their heroic sanctity, against whom impiety will wage a cruel war filling them with condemnations, calumnies and vexations to prevent them from fulfilling their ministry. They, like firm columns, will remain immoveable, facing everything with that spirit of humility and sacrifice with which they will be vested in virtue of the infinite merits of my Blessed Son, who loves them like the most delicate fibers of His Most Holy and most tender Heart.[25]
“In the secular clergy there will be much to be desired in this period, because priests will neglect their sacred duty. Losing the Divine compass they will stray from the path marked out by God for the priestly ministry and they will become attached to money, and to gain it, they will make too much effort.
“Then the Church will suffer the dark night from the lack of a prelate and father to watch over [the secular clergy] with paternal love, with sweetness, strength, sound judgment and prudence. Many of them will lose their spirit, placing their souls in great danger.
“Pray with insistence, cry out without tiring and weep with bitter tears in the secret recess of your heart, begging our Heavenly Father, for the love of the Eucharistic Heart of my beloved Son, for the Most Precious Blood poured out with such generosity and for the deep grief and pains of His bitter Passion and death, to have pity on His ministers and put an end, as soon as possible, to such disastrous times, by sending to the Church the prelate who shall restore the spirit of his priests.[26]
“My Son and I will love this beloved son of mine with a love of predilection, since we will give him rare qualities of humility of heart, of docility to divine inspirations, of strength for defending the rights of the Church and a tender and compassionate heart; so that, like another Christ, he may care for the great and the small, without despising the most unfortunate, to whom he will give light and counsel in their duties and sorrows. And so that, with Divine sweetness, he may guide consecrated souls to the service of God in their religious life without making the Lord’s yoke to weigh heavily upon them, Who said, ‘My yoke is sweet and my burden light,’[27] I will put the balance of the sanctuary in his hand so that all may be done with weight and measure, and God may be glorified.
“The tepidity of all souls consecrated to God in the sacerdotal and religious state will impede having this prelate and father sooner. This same tepidity will be the cause of accursed Satan taking possession of these regions, who will acquire all of them by means of so many foreign people without faith, who like a black cloud will darken the clear sky of the republic then consecrated to the Sacred Heart of my Divine Son.
“With those people all the vices will be introduced which will draw down, as a result, all kinds of punishments, like plagues, hunger, conflicts both internal and with other nations, and apostasy, the cause of the loss of a considerable number of souls, all very dear to Jesus Christ and to me.
“In order to dispel this black cloud, which prevents the Church from enjoying the clear day of liberty, there will be a tremendous and frightful war in which the blood of citizens and foreigners, of religious and secular priests, and also of religious will flow. That night will be most horrifying, because, to human eyes, evil will seem to triumph.
“Then my hour shall have arrived, in which I, in an astonishing manner, will destroy the proud and accursed Satan, placing him under my feet and burying him in the infernal abyss, while the Church and country finally shall be free of his cruel tyranny.
”The fifth reason is that it is due to carelessness; it is due to the neglect of persons who, possessing substantial wealth, will view with indifference the Church being oppressed, virtue persecuted, wickedness triumphing, without piously using their wealth for the destruction of evil and the restoration of the faith. And owing to this indifference of the nation in allowing the name of God to be wiped out little by little and by adhering to the spirit of evil, [they will] give themselves over to vices and passions.
“Oh, my beloved daughter, if it were given to you to live in that frightful time, you would die of sorrow upon seeing happen all that I reveal to you now. Such is the love that my Blessed Son and I have for these lands, our inheritance, to which we wish from now on to apply your sacrifices and prayers for shortening the duration of the time of such a terrible catastrophe.”
After these words, Mary of Good Success ended her visit. Nevertheless, Mother Mariana had a vision of all that the Virgin had said would come to pass, and this affected her so much that she remained in the choir as though dead, with her forehead on the ground and arms outstretched, and so the sisters found her and brought her to her bed. She remained in this state for three days and three nights. On the third day, at three o’clock in the morning, Mother Mariana sat up, saying, “Yes, Wounded Seraph and my dear father, I thank you.”
Mother related the apparition of the Virgin to her spiritual director and confided to him that when she was unconscious, she saw Saint Francis of Assisi, who said to her, among other things,
“A few months are left for you to bring to a close your painful exile … During your last moments, at your side will be Beatriz, the foundress of your Order, I and all the sisters of the Seraphic family, and Blessed Ignatius of Loyola, whom you love so much for the ardent love that he had during his life for Jesus Christ, and that gave Him so many souls at the cost of great sacrifices. He is a servant much loved by God, and the military character that motivated his entire spiritual life, and which his Society has received from him, will remain in his Society. In it there will always be great scholars, great saints and great martyrs. They will possess discretion and the discernment of spirits as a special gift of the Divine bounty, and so the serpent’s tail will not be able to be hidden from them …
“Great afflictions, persecutions and calumnies await this convent so dear to God and our Blessed Mother, which will refine the fervent and faithful souls, and will expel the tepid, since they are unworthy of receiving these valuable gifts …”
[23] This last sentence has been added from Vida Admirable de la Madre Mariana, vol. 3, p. 28.
[24] This sentence has been completed from Vida Admirable de la Madre Mariana, vol. 3, p. 31.
[25] This need not be the majority of Communities, but it would seem that some traditional communities will exist at this time that will follow their Rule with great fidelity.
[26] Archbishop Marcel Lefebvre referred to this prophecy during his sermon when consecrating four bishops on June 30, 1988, as follows: “Just recently, the priest who takes care of the Society priory in Bogota, Colombia, brought me a book concerning the apparition of Our Lady of Buen Suceso,—of ‘Good Success’—to whom a large church in Quito, Ecuador, was dedicated. They [the prophetic words of Our Lady] were received by a nun shortly after the Council of Trent, so you see, quite a few centuries ago. This apparition is thoroughly recognized by Rome and the ecclesiastical authorities; a magnificent church was built for the Blessed Virgin Mary wherein the faithful of Ecuador venerate with great devotion a statue of Our Lady, whose face was made miraculously. The artist was in the process of painting it when he found the face of the Holy Virgin miraculously formed. And Our Lady prophesied for the twentieth century, saying explicitly that during the nineteenth century and most of the twentieth century, errors would become more and more widespread in Holy Church, placing the Church in a catastrophic situation. Morals would become corrupt and the Faith would disappear. It seems impossible not to see it happening today.
“I excuse myself for continuing this account of the apparition, but she speaks of a prelate who will absolutely oppose this wave of apostasy and impiety—saving the priesthood by forming good priests. I do not say that prophecy refers to me. You may draw your own conclusions. I was stupefied when reading these lines but I cannot deny them, since they are recorded and deposited in the archives of this apparition.”
[27] Matthew 11:30. Omitted wording supplied from Vida Admirable de la Madre Mariana, vol. 3, p. 32.
小野田神父 説教
【ロウソク行列の前の説明】
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は童貞聖マリア様の御潔めの祝日です。ミサの前に、ロウソクの祝別と、ロウソク行列があります。
簡単に説明をします。
この「ロウソク」というのは、「イエズス様」です。そして今日私たちはシメオンとなって、聖殿において、主の、人となった天主の憐れみを受け取ります。このロウソクを持って、この御聖堂から出て、一周回ってからまた戻ります。それは、「この地上での、イエズス様と共にこの地上で生活して、天国にまた行くのだ」という意味です。
では儀式が始まります。
【説教】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さん、今日は聖母の御潔めの祝日です。そこで、この御潔めの祝日の中に深く入る事に致しましょう。
今日の御潔めの祝日には、2つの重大な、重要な要素があります。
1つは、御降誕から始まって、人類が救い主を迎え受けたという、人類が救い主と出会ったという事が、今日クライマックスになります。
御降誕の時には、救い主イエズス様、人となった全能の天主、救い主、約束されたメシアは、マリア様と聖ヨゼフ様、そして選ばれた野宿していた羊飼いたち、牧場の牧者たちに知らされました。少数の人々に知らされました。
御公現には、エルサレムがそれを知りました。光の町として輝いて、そして異邦人の人々も群れをなして、ラクダを連れて、お土産を持って、預言された通り、救い主を拝み、礼拝しにやって来ました。
そして今日、選ばれた民の熱心な人々に、そして私たちの手に、私たちの心に、救い主がお越しになります。そればかりではなく、私たちはその救い主を持って、教会の外を回りました。そして「救い主は真に生まれた。私たちの元にいる」という事を証して、また天国の象徴であるこの御聖堂に戻ってきました。入祭誦で、戻った時に入祭誦でこう歌いました、「教会の真ん中で、人となった天主の憐れみを、私たちは受けた。」
私たちがロウソクを受けたという事は、ちょうどシメオンがイエズス様を、神殿の真ん中で、救い主だと認めてマリア様の手から受けたように、「私たちは確かに、救い主を受けた。」
そう歌いながら私たちは、この世の人々にイエズス様の光を照らしながら、人々に言います、「私たちの救い主は来られた。王であるキリストを受けよ。私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、私たちの寝室にイエズス様が入るように、それを綺麗に飾れ。」
ちょうどこの私たちがロウソクを受けたのは、また洗礼の時に受けたロウソクを思い出させます。教会は私たちに毎年1回、このロウソクの、御潔めのロウソクを受けさせて、「イエズス様を受けた」「イエズス様の花嫁になった」「イエズス様の子供になった」という事を思い出させます。「悪魔の支配の手から逃れて、天主の子供となった」という事を思い出させます。「そしてその事を世の人々に知らせるように」と招いています。
こうして今日私たちが書簡書で読んだ、マラキアの預言が実現した事を記念します、「支配者が来るだろう。すぐに来るだろう。そして契約の使者が神殿に来るだろう」という事を、「それが実現した」という事を私たちは記念します。確かにイエズス・キリストは、預言を全て成就された御方です。
第2の要素は、最初クリスマスの時には私たちは、「世の光であるイエズス様がお生まれになった」という事を祝いましたが、それは馬小屋で照らされていました。
そしてこの光は今度は御公現の時には、エルサレムを照らします。
ところが今日は、御降誕から40日後のお潔めの時には、光である新しい光、栄光の光の王であるイエズス様は、全世界を輝かせようと、全世界に光ろうと御望みになります。
そのイエズス様の光は、真の真理の光は、愛徳の光は、憐れみの光は、全世界を輝き出さなければなりません。これがイエズス様の御望みです。それがこの典礼の光がますます広がっていく様子を表しています。ですから私たちは今日、ロウソクをただ受けたのみならず、それを持ってこの世を輝かし出しました。
この2つの要素を見ると、私たちはどんな事を今日は思わなければならないのでしょうか?
よく考えてみると、イエズス様の御望みというのは、「御自分が真の救い主であるという事を世に知らせて、そして多くの人が、できれば全ての人が、その光を受け入れて、その光を認めて、天国にへと入る」そして「イエズス様が御血を流された全ての霊魂たちが、イエズス様を花婿として自分の寝室に迎え入れて、イエズス様をお愛しする、イエズス様を救い主として、その御血の潔めを受ける、その御血によって罪を赦される」それを御望みであるという事が分かります。「その真理の光が、愛の光が全世界に輝かされる」という事を御望みであるという事がよく分かります。
そしてその為にイエズス様は、私たちをお使いになりたいと思っているのです。つまり、私たちは道具にならなければなりません。
カトリックの司祭を見て下さい。カトリックの司祭は、単なる道具にすぎません。なぜ単なる道具かというと、カトリックの司祭がいくら逆立ちをしても、いくら何をしても、イエズス様の御恵みがなければ、何もする事ができません。いくら綺麗な話をしても、イエズス様の御恵みがなければ、人の心に響くところはありません。いくら綺麗な祭服を着て、いくら綺麗な言葉を話しても、御恵みがなければ、イエズス様が働かなければ、超自然の命を与えて下さらなければ、何もできません。ですから道具にすぎません。
しかしイエズス様は、この道具がなければミサをする事もできないし、道具がなければ洗礼を授ける事も、あるいはイエズス様の御言葉を伝える事も、あるいはこの道具がなければ、御聖体として私たちと共に居る事もできません。この道具を通して、霊魂を救おうと、永遠の命を救おうと思っています。ですからイエズス様は、非常に深い知恵を以って、この儚い人間というものを使って、永遠の命を救おうと御望みになりました。
もしもこの道具が、「イエズス様の仕事をするのが嫌だ!」と言えば、それによって永遠の地獄に落ちてしまう人が存在します。この道具が道具として使われるのを拒否したが為に、救われない人々もいるという事です。それにもかかわらず、その道具を使う事を御望みになりました。
もしも私たちが、「このロウソクを持って行くのは、ちょっと嫌だ」と言えば、その光を見ない人がいます。それと同じように、私たちに道具になるように御望みになっています。ちょうど私たちはピアノのオルガンのようです。イエズス様が演奏者ですから、素晴らしいオルガニストです。世界最高の音楽を演奏する事ができるオルガニストです。しかし素晴らしい最高のオルガニストも、オルガンがなければ何もする事ができません。どうしてもオルガンが必要です。どんなに安いものでも、鍵盤だけでも、最高の何百万円もするようなものでなくても、ちゃちなものでも必要です。
もしかしたら私たちは、道具としてあまりにも惨めで、みすぼらしくて、本当なら半音の黒い所が欠けていたり、あるいはちょっと音が外れている鍵盤もあるかもしれませんが、しかし最高のオルガニストであるイエズス様は、その音が外れているのもよく知っているので、どこが外れているか、どこが無いかを知っているので、あたかも最高のオルガンであるかのように弾く事が、演奏する事ができます。
イエズス様の能力は、どのような、この世の目から見るとスタンダードから見ると、「何でこんな道具を?」というようなみすぼらしいものを使って、最高の作品を、最高の結果を出す事ができるほどのアーティストであって、演奏者であって、そしてその道具を支配する事ができる使う事ができる有能な天主です。
しかしそれにもかかわらず、どうしても道具が必要なのです。唯一私たちに求められている事は、「道具となる」という事を、「イエズス様の御望みのままに使われる」という事をイエズス様が、ちょうど私たちが、典礼が要求するように、「さぁ、外に出て行列をしなさい」と言えば、「はい」と言って、そのままやったように、イエズス様が御望みのように、私たちがする、それだけが必要です。
いつも「道具である」という事を自覚していなければなりません。しかし私たちの本性はあまりにも自分中心なので、非常にしばしば、そしてすぐに私たちは「道具である」という事を忘れてしまいます。あたかも自分がやっているかのように、あたかも自分が中心であって、自分が、ピアノの演奏家よりもピアノの方が価値があるかのように、何の為に存在しているかを忘れてしまいます。ちょうど花瓶がお花の為にあるのだけれども、でもお花の事は全く忘れて、みすぼらしい花瓶が偉ぶっているかのようです。演奏者があまりにも素晴らしいという事を忘れて、半分壊れたようなオルガンが偉ぶっているかのようです。
しかし、私たちがいつも「イエズス様の道具である」という事を思えば思うほど、「素直であろう」と思えば、「従順であろう」と思えば思うほど、「イエズス様の御望みを叶わせよう」と思えば思うほど、私たちはその道具として素晴らしい結果を、多くの霊魂を光り輝かす事ができますし、そしてそれに感動を与える事もできますし、イエズス様へと引き寄せる事もできますし、イエズス様の平和と喜びを伝える事ができます。
つまり私たちは、「イエズス様の道具となる」というものすごい栄誉を持っている、という事です。考えてもみて下さい。もしも日本の特命大使として、日本の名前の為に、何か日本政府によって特別に依頼されて、任命されて外国に行って、あるいはトランプ大統領に会った、あるいは他の人と会った、「日本の特命大使です。政府からそれを受けてます。」何という名誉でしょうか。私たちはその大使として、特別の依頼を受けています。イエズス様の、王の王である救い主の大使として、この道具として、イエズス様の名前によって、イエズス様御自身を、私たちではなくイエズス様を輝かせるように、イエズス様を運ぶように。
もちろんミサの前に行列するのは簡単でしたが、「それを、私たちが天国に行く日まで、 イエズス様を持って、イエズス様の光と愛の炎を輝かせながら、この地上を歩きなさい。いつもイエズス様の道具である事を意識しなさい。」素晴らしい使命を与えられています。
今日、私たちはシメオンとなりましたから、このイエズス様を決して離す事なく、天国に行く日まで、この光を守らなければなりません。
その秘訣は、マリア様です。マリア様は終わりまでこのようになさいました。マリア様が私たちを助けて下さいますように、汚れなき御心のマリア様に、それができるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
Adorna thalamum tuum, Sion(シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ)の歌詞とその日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
Κατακόσμησον τὸν νυμφῶνά σου Σιών,
Adorna thalamum tuum, Sion,
シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ
καὶ ὑπόδεξαι τὸν Βασιλέα Χριστόν,
et suscipe Regem Christum:
しかして王たるキリストを迎え入れよ
ἄσπασαι τὴν Μαριάμ, τὴν ἐπουράνιον πύλην·
amplectere Mariam, quae est coelestis porta:
天の門なるマリアを抱擁せよ
αὕτη γὰρ (θρόνος Χερουβικὸς ἀνεδείχθη,
αὕτη) βαστάζει τὸν Βασιλέα τῆς δόξης, νεφέλη φωτὸς
ipsa enim portat Regem gloriae novi luminis.
マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い
ὑπάρχει ἡ Παρθένος, φέρουσα ἐν σαρκὶ Υἱὸν πρὸ Ἑωσφόρου,
Subsistit Virgo adducens manibus Filium ante luciferum genitum:
明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う
ὃν λαβὼν Συμεὼν ἐν ἀγκάλαις αὐτοῦ ἐκήρυξε λαοῖς, Δεσπότην αὐτὸν
quem accipiens Simeon in ulnas suas praedicavit populis Dominum eum,
その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり
εἶναι, ζωῆς καὶ τοῦ θανάτου, καὶ Σωτῆρα τοῦ κόσμου.
esse vitae et mortis, et Salvatorem mundi.
この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。
近代主義について詳しく知るには、聖ピオ十世教皇の回勅をご覧下さい。