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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考情報】ヴィガノ大司教の聖家族の主日の説教:聖家族は、天主の王権が社会で実現されるために必要不可欠な前提である、キリスト信者の家庭のモデルを示している

2023年01月21日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教の聖家族の主日の説教:聖家族は、天主の王権が社会で実現されるために必要不可欠な前提である、キリスト信者の家庭のモデルを示している

2023年1月12日(木曜日)

Archbishop Viganò’s homily for the Sunday of the Sacred Family

カルロ・マリア・ヴィガノ

ET ERAT SUBDITUS ILLIS
イエズスは二人に従われた

イエズスは二人に従われた。
その母はこれらの記憶をみな心におさめておいた。
そしてイエズスは、天主と人の前に、
その知恵も背丈も寵愛もますます増していかれるのだった。(ルカ2章51-52節)

イエズス・キリストに讃美。

御公現の八日間に、聖なる教会は、イエズス、マリア、ヨゼフの聖家族をお祝いし、この祝日を私たちの主の神性の表明の直後に置いています。しかし、羊飼いたちや東方の博士たちが礼拝した幼子なる王の天主の王権が明らかにされるまさにそのときに、家族生活の周りで守られるべき親密さと愛情という神秘、聖家族の記念をお祝いしなければならないのは、なぜなのでしょうか。

その理由は、家族――自然な家族であるのは確かですが、それ以上に、婚姻の秘跡によって聖化され、また、両親が聖母と家長ヨゼフであり、御子がご托身のみ言葉であるという最高度に聖化された家族――は、私たちの主イエズス・キリストの社会的王権に必要な前提となる秩序が、愛徳のうちに実現される場所であるからです。家族は、教会のかしらとその神秘体の間の愛をモデルとする上下関係にある夫婦を一つにするものです。家族は、「社会の細胞」として正しく認識されているこの「小宇宙」(microcosm)において、子どもたちを、善きキリスト信者、勇敢なキリストの兵士、誠実な市民、賢明で思慮深い支配者となるように準備させるものなのです。

家族なくして秩序ある社会はありえず、キリスト信者の家族なくして、キリストの主権が認められるキリスト教社会はありえません。家族の中で、両親は天主の御名において自分の子どもたちに対して権威を行使します。それゆえ、この権威が正当化され、子どもたちの中に従順を見いだすために身分に応じた恩寵を利用することができるのは、天主の法の枠組み内においてなのです。そして、この家長権(potestas、自然法によって認められる)は、御父が御子を愛し、御子が御父を愛する無限の愛、ペルソナとしての力を有する天主の愛、すなわち天主なる聖霊に動かされるとき、超自然の次元を獲得するのです。人間がその能力(記憶、知性、意志)において創造主の三位一体の刻印を見せるように、家族もある意味で至聖なる三位一体の鏡です。なぜなら、家族には御父の創造の力、御子の贖いの従順、聖霊の聖化する愛が見られるからです。しかし、私たちは、自分自身のアイデンティティーと伝統に対する認識(記憶)、それらを心にとどめて現在の試練に立ち向かう能力(知性)、夫婦間や親子間の愛の絆(意志)をも見いだすのです。

主祷文で「御国の来らんことを、御旨の行われんことを」と祈るとき、私たちはこの言葉に注意を払わないで祈ることがよくあります。私たちは、キリストの国家に対する主権が肯定されるように願っているのです。なぜなら、キリストが支配されるところでのみ、平和と正義が支配するからです。〈Oportet autem illum regnare donec ponat omnes inimicos sub pedibus ejus〉(コリント前書15章25節)――彼は、すべての敵をその足の下に置くまで支配せねばならぬ【私は敵をあなたの足台としよう】(詩篇109篇1節)。しかし、キリストが社会において支配されるためには、支配者と臣民が善きキリスト信者でなければなりません。また、そのためには、世俗の共同体の中に、「家族教会」、つまり人生の学校である家族が必要なのです。子どもたちが受胎し、生まれ、聖化され、教育され、善きキリスト信者、誠実な市民、そして子どもたちに将来の親になるための準備をさせるのは、カトリックの家族の中においてです。そして、誤って導かれた家族の中では、すなわちLGBTQのイデオロギーによって作られた悪魔による家族のパロディーの中では、子どもたちは心身ともに殺され、変質者とされ、堕落させられ、その悪徳が社会と教会をも堕落させてしまいます。

私たちがグローバリストのレヴィアタンに対して戦っている歴史的な戦いは、その目的として、私たちがよく知っているように、その支持者自身が認めているように、霊魂、家族、社会からキリストの存在のあらゆる痕跡を組織的に破壊し、それをサタンの支配と反キリストの支配という暗黒の恐怖に置き換えます。この戦いにおいて、私たちは、強力で解き放たれた敵軍によって包囲されているだけでなく、教会の内部や政府の各地位にさえ、私利私欲、脅迫、臆病から新世界秩序(New World Order)の地獄の計画を支持する第五列【敵、裏切者】によっても包囲されているのです。中絶、離婚、安楽死、ジェンダー・イデオロギー、同性愛、新マルサス主義は、社会を破壊する道具にほかなりませんが、それ以前に、それらは家族を破壊しようと意図されているのです。なぜなら、家族の中にこそ、足並みをそろえた思想による独裁に対する抵抗の形が実現し、そのおかげで、人は勇気を持って自分の信仰とアイデンティティーを守る決意を保つことができるからです。

最近のパンデミックの茶番劇を通じて行われたグレート・リセットの大衆操作において、彼らが高齢者を愛する者から、両親を子どもから、祖父母を孫から引き離そうとしたのは偶然ではありません。こうした家族関係や上下関係の喪失は、こうした関係に伴うあらゆるものを含めて、人々を孤立させ、心理的に弱め、精神的に弱め、それによって従わざるを得なくさせることができるようにするために必要な段階だったのです。よく観察してみると、この腐敗した野蛮なこの世が人々に押し付けるものはすべて、常に支配と服従に向けられています。そして、天主の法の優しいくびきを振り払うことによって自由が高められるはずのちょうどそのときに、サタンの専制政治の鎖が私たちの手首を締め付けているのです。

一方、私たちを命と恩寵に導く永遠の天の御父と、天主なる御子の玉座で私たちの代願者となられる母を指し示す父と母からなる制度を、つまり家族を、いかに敵が愛することができるというのでしょうか? 天主の敵どももまた、天主の御名を消し去り、「親1号」「親2号」に置き換えようとしているのは、まさに、天主を「アッバ、父よ」と呼びかけ、天の天主の御母を「母よ」と呼びかける以外にはできないこれらの祝福された名を排除するためであっても、驚くには当たりません。また、教会および世俗の長上たちも父と呼ばれ、父としての振る舞いをする義務があるように、天主の権威の原型である父親像に対する憎悪が存在することも驚くことではありません。

この黙想の冒頭で、教会はなぜ御公現の八日間の主日に聖家族の祝日を設けようとしたのか、と問いかけました。その答えは、聖家族が、私たちの主の天主の王権が社会で実現されるために必要不可欠な前提である、キリスト信者の家庭のモデルを示しているからです。そして、御公現のミサで聞いた次の詩篇作者の預言が成就するものであるからです。〈Et adorabunt eum omnes reges terræ; omnes gentes servient ei〉(王たちはみな、彼を拝み、異邦の民はみな、彼に仕える)(詩篇71篇11節)。

ですから、私たちの主、聖母、聖ヨゼフに祈り、私たちの家族を守ってくださるよう、家族を天主の恩寵のうちに保ってくださるよう、御摂理の計画において家族が信仰と愛徳をもって協力することができるようにしてくださるよう、お願いしましょう。キリストが家族において支配されるならば、キリストは世俗社会においても支配されることでしょう。〈Adveniat regnum tuum; fiat voluntas tua.〉(御国の来らんことを、御旨の行われんことを)。

アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2023年1月8日
イエズス、マリア、ヨゼフの聖家族の祝日
Sanctæ Familiæ Jesu Mariæ Joseph

英語版 Archbishop Viganò’s homily for the Sunday of the Sacred Family

イタリア語版 Mons. Viganò. Omelia per la Sacra Famiglia. Battaglia Epocale contro il Globalismo.

 


至福八端に関する聖ピオ十世教皇の「公教要理」からの抜粋

2023年01月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

至福八端に関して、聖ピオ十世教皇の「公教要理」からの抜粋をご紹介します。

The Beatitudes 至福八端
1 Q. Name the Beatitudes? 927 至福八端にはどのようなものがありますか。
A. The Beatitudes are eight: (1) Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven. (2) Blessed are the meek, for they shall possess the land. (3) Blessed are they that mourn, for they shall be comforted. (4) Blessed are they that hunger and thirst after justice, for they shall be filled. (5) Blessed are the merciful, for they shall obtain mercy. (6) Blessed are the clean of heart, for they shall see God. (7) Blessed are the peace-makers, for they shall be called the children of God. (8)Blessed are they that suffer persecution for justice' sake for of such is the kingdom of heaven. 至福八端は次の通りです。(1) 心の貧しい人は幸いである。天国はかれらのものである。(2) 柔和な人は幸いである。かれらは地を受け継ぐであろう。(3) 苦しむ人は幸いである。かれらは慰めを受けるであろう。(4) 義に飢えかわく人は幸いである。かれらはあかされるであろう。(5) あわれみのある人は幸いである。かれらはあわれみを受けるであろう。(6) 心の清い人は幸いである。かれらは天主を見るであろう。(7) 平和のために働く人は幸いである。かれらは天主の子と呼ばれるであろう。(8) 義のために迫害を忍ぶ人は幸いである。天国はかれらのものである。
2 Q. Why did Jesus Christ propose the Beatitudes to us? 828 イエズス・キリストはなぜ至福八端をお示しになりましたか。
A. Jesus Christ proposed the Beatitudes to us to make us detest the maxims of the world, and to invite us to love and practise the maxims of the gospel. イエズス・キリストが至福八端をお示しになったのは、信者が世俗的な教えを嫌い、すすんで福音の教えを実行するためです。
3 Q. Who are they whom the world calls happy? 929 俗世間で、幸いといわれるのはどのような人ですか。
A. The world calls those happy who abound in riches and honours, who lead a pleasant life, and who meet with no occasions of suffering. 俗世間で幸いといわれるのは、巨大を富と名誉を有し、生活を満喫し、苦しみを味ったことのない人です。
4 Q. Who are the poor in spirit whom Jesus Christ calls blessed? 930 イエズス・キリストが幸いだとおおせになった心の貧しい人とはどのような人たちですか。
A. The poor in spirit are, according to the gospel, those whose hearts are detached from riches; who make good use of riches should they have any; who do not seek them too eagerly, if they have none; and who suffer the loss of such things with resignation when deprived of them. イエズス・キリストが幸いだとおおせになった心の貧しい人とは、富から離脱した心を持ち、富を有するときはこれを正しく用い、富のないときは特にこれを求めず、富を失ったときには耐え忍ぶことのできる人たちです。
5 Q. Who are the meek? 931 柔和な人とはどのような人たちですか。
A. The meek are those who act tenderly towards their neighbour, bear patiently with his defects, and accept the offences and injuries they receive from him without contention, resentment, or vengeance. 柔和な人とは、やさしく人に接し、他人の欠点や侮辱を忍び、不平を言ったり、恨んだり、復讐したりしない人たちです。
6 Q. Who are they that mourn, yet are called happy? 932 苦しんでいるにもかかわらず、幸せであると言われる人はどのような人たちですか。
A. They that mourn, yet are called happy, are they who suffer tribulations with resignation, and who mourn over sins committed, over the evils and scandals that prevail in the world, over Paradise because it is so distant, and over the danger there is of losing it. 苦しんでいるにもかかわらず、幸せであると言われる人は、苦難を耐え忍び、この世にある罪や悪や中傷を見て心を痛め、天国への道は遠く、しかも天国を失う危険のあることを嘆き悲しむ人たちです。
7 Q. Who are they that hunger and thirst after justice? 933 義に飢えかわく人とはどのような人たちですか。
A. They that hunger and thirst after justice, are those who ardently desire to increase daily more and more in divine grace and in the exercise of good and virtuous works. 義に飢えかわく人とは、天主の恩寵と善業にたえず成長することを熱心に望む人たちです。
8 Q. Who are the merciful? 934 あわれみのある人とはどのような人たちですか。
A. The merciful are those who love their neighbour in God and for God's sake, compassionate his miseries, spiritual as well as corporal, and endeavour to succour him according to their means and position. あわれみのある人とは、天主を愛し、天主のために人を愛し、霊的、物的に困っている人たちをあわれみ、自分の力と地位に応じて助けの手をさしのべる人たちです。
9 Q. Who are the clean of heart? 935 心の清い人とはどのような人たちですか。
A. The clean of heart are those who retain no affection for sin aqnd keep aloof from it, and who above all else avoid every sort of impurity. 心の清い人とは、罪を忌みきらい、罪のない清い生活を送り、特に貞潔に反する罪をすべて避ける人たちです。
10 Q. Who are the peace-makers? 936 平和のために働く人とはどのような人たちですか。
A. The peace-makers are those who preserve peace with their neighbour and with themselves, and who endeavour to bring about peace and concord between those who are at variance. 平和のために働く人とは、心の平和と人との平和な関係を保ち、相敵対する人々を和解させる人たちです。
11 Q. Who are they that suffer persecution for justice' sake? 937 義のために迫害を忍ぶ人とはどのような人たちですか。
A. They who suffer persecution for justice' sake are those who patiently bear derision, reproof, and persecution for the sake of the faith and of the law of Jesus Christ. 義のために迫害を忍ぶ人とは、信仰とイエズス・キリストの御教えゆえに、人の侮辱、冒涜、迫害を耐え忍ぶ人たちです。
12 Q. What do the various rewards promised by Jesus Christ in the Beatitudes denote? 938 イエズス・キリストが、至福八端において約束しておられる種々の報いは究極的には何のことですか。
A. The various rewards promised by Jesus Christ in the Beatitudes all denote under different names the eternal glory of Paradise. イエズス・キリストが、至福八端において約束しておられる種々の報いは究極的には天国の永遠の栄光のことです。
13 Q. Do the Beatitudes procure us the glory of Paradise alone? 939 至福八端は天国における永遠の栄光だけを与えますか。
A. The Beatitudes not only procure us the glory of Paradise, but are also the means of leading a happy life, as far as this is possible here on earth. 至福八端は、天国における永遠の栄光を与えるだけではなく、この世においてできるだけ幸福な生描を送るための手段ともなっています。
14 Q. Do those who follow the path of the Beatitutdes receive any reward in this life? 940 至福八端の教えに従う者は、この世においても報いを受けますか。
A. Yes, certainly; those who follow the path of the Beatitudes do receive a reward even in this life, inasmuch as they enjoy interior peace and contentment, which is the beginning, even though an imperfect one, of the happiness of heaven. 至福八端の教えに従う者は、この世においても報いを受けます。それは、至福八端に従うことによって、不完全であるとは言え、永遠の幸福のはじまりである内的な平和と満足を享受できるからです。
15 Q. Can those who follow the maxims of the world be called truly happy? 941 俗世間の教えに従う者が幸せであると言えますか。
A. No, because they have no true peace of soul, and are in danger of being lost eternally. 俗世間の教えに従う者は、霊魂の真の平和を持たず、大きな罰を受ける危険に身をさらしていますから、幸せであるとは言えません。


聖伝による堅振の秘跡の式次第:羅和対訳

2023年01月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖伝による堅振の秘跡の式次第を羅和対訳でご紹介します。

Ordo Ministrandi Sacramentum Confirmationis 堅振の秘跡の式次第
聖ピオ十世会では、司教は祭壇の前で司教杖を離し司教冠を脱ぎ跪く。司教はズケットを脱いでVeni Creator を歌いだす。会衆一同も跪いて司教に続く。第一節目は跪いて歌い、第二節目からは立ち上がる。
Veni Creator Spiritus, 創造主なる聖霊よ、来たり給え、
Mentes tuorum visita, 御身の信者らの心を訪れ給え、
Imple superna gratia, 彼らの心を御身が創造し給うた
Quae tu creasti, pectora. 上からの聖寵で満たし給え。
Qui diceris Paraclitus, 御身は慰め主、
Altissimi donum Dei, いと高き天主のたまもの、
Fons vivus, ignis, caritas, 活ける泉、火、愛、
Et spiritalis unctio. 霊的注油と言われてまします。
Tu septiformis munere, 御身は七つのたまものにより、
Digitus Paternae dexterae, 聖父の右手の指、
Tu rite promissum Patris, 聖父の由緒正しき御約束、
Sermone ditans guttura. 言葉を発する舌なり。
Accende lumen sensibus, 五官に光をつけ給え、
Infunde amorem cordibus, 心に愛を注ぎ給え
Infirma nostri corporis 我らの体の弱さを
Virtute firmans perpeti. とこしえの力で強め給え。
Hostem repellas longius, 敵を遠くに押しやり、且つ
Pacemque dones protinus; 素早く平和を与え給え。
Ductore sic te praevio, 御身はを統率者として、戦いにおいて
Vitemus omne noxium. 我らは全ての害悪を避けよう。
Per te sciamus da Patrem 御身によりて我らは聖父を知り、
Noscamus atque Filium; 且つ聖子を知り、
Teque utrius que Spiritum そして聖父と聖子からの御身を知り、
Credamus omni tempore. 常に信じる恵みを与え給え。
Deo Patri sit gloria, 聖父に栄光あれかし
Et Filio, qui a mortuis 死によみがえられ給いし聖子に
Surrexit, ac Paraclito そして慰め主なる聖霊に栄光が、
In saeculorum saecula. 代々とこしえにあれよかし。
Amen. アメン
V. Emitte Spiritum tuum, et creabuntur V. 主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずの物は造られん。
R. Et renovabis faciem terrae. R. 地の面は新たにならん。
Oremus Deus, qui corda fildelium Sancti Spiritus illustratione docuisti : da nobis in eodem Spiritu recta sapere, et de ejus semper consolatione gaudere, per Chrisum Dominum nostrum. R. Amen. 祈願 聖霊の光りをもって信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊をもってわれらに正しきことを悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。R. アーメン。
歌い終わると司教は司教冠をかぶり、司教杖を手に持ち、受堅者たちに説教をする。説教が終わると司教は司教杖を離し、司教冠を脱ぎ、受堅者たちの方に向いて、両手を胸の前に合わせて次のように言う。受堅者たちは跪いて胸の前に手を合わせている。
Spíritus Sanctus supervéniat in vos, et virtus Altíssimi custódiat vos a peccátis. R. Amen. 聖霊があなたたちに降臨し給い、いと高き天主の力があなたたちを罪より守り給わん事を。R.アメン。
Deinde signans se manu dextra a fronte ad pectus signo Crucis, dicit: 次に司教は自分に右手で額から胸に十字架の印をしつつ言う。
V. Adjutórium nostrum in nómine Dómini. V. 我等の助けは主の御名に在り。
R. Qui fecit cælum et terram. R. 主は天と地を創り給いし。
V. Dómine, exáudi oratiónem meam. V. 主よ、我が祈りを聴き容れ給え。
R. Et clamor meus ad te véniat. R. 我が叫びが御前に至らんことを。
V. Dóminus vobíscum. V. 主はあなたたちを共に。
R. Et cum spíritu tuo. R. 又あなたの霊と共に。
Tunc extensis versus confirmandos manibus, dicit: 司教は受堅者たちに両手を伸ばしながら言う。
Orémus. V. 祈願
Omnipotens, sempitérne Deus, qui regeneráre dignátus es hos fámulos tuos ex aqua, et Spíritu Sancto, quique dedísti eis remissiónem ómnium peccatórum, emítte in eos septifórmem Spíritum tuum Sanctum Paráclitum de cælis. R. Amen. 全能永遠の天主、主は忝けなくも御身のこのしもべ等を水と聖霊とによりてを新たに生まれしめ給い、且つ彼らに全ての罪の赦しを賜い給うた。願わくは彼らに七つの形の御身の霊、聖なる慰め主を天から送り給え。R. アメン
Spíritum sapiéntiæ et intelléctus. R. Amen. 上智と聡明との霊を R. アメン
Spíritum consílii et fortitúdinis. R. Amen. 賢慮と剛毅との霊を R. アメン
Spíritum sciéntiæ et pietátis. R. Amen. 知識を孝愛との霊を R. アメン。
Adimple eos Spíritu timóris tui, et consígna eos signo Cru + cis Christi, in vitam propitiátus ætérnam. Per eúmdem Dóminum nostrum Jesum Christum, Fílium tuum: Qui tecum vivit et regnat in unitáte ejúsdem Spíritus Sancti Deus, per ómnia Sǽcula sæculórum. R Amen. 主を畏れる霊で彼等を満たし給え。キリストの十字+架の印で彼らを印し、永遠の生命に益ならしめ給え。主とともに同じ天主なる聖霊の一致において代々に活き且つ統治し給う御子なる同じ我が主イエズス・キリストによりて希いる。R. アメン。
Pontifex sedens super faldistorium prædictum, vel etiam, si multitudo confirmandorum id exegerit, dispositis illis per ordinem super gradus presbyterii, vel alibi, Pontifex stans cum mitra, illos confirmat per ordinem genuflexos, et uno ordine confirmato, illi surgunt, et alii genuflectunt, et confirmantur, et sic usque in finem. Et Pontifex inquirit sigillatim de nomine cujuslibet confirmandi, sibi per patrinum, vel matrinam flexis genibus præsentati, et summitate pollicis dextræ manus Chrismate intincta, dicit: 司教は祭壇の前におかれた椅子に座りつつ、順序良く跪いている受堅者たちに堅振の秘跡を授ける。堅振を受けた者は立ち上がり、次の者が跪いて堅振を受ける。こうして終わりまで続く。受堅者は代父あるいは代母に伴われて司教の前に跪き、代父母は自分の右手を受者の右肩に置く。司教は本人の霊名を一人ひとり尋ね、右手の親指の先で香油を付けて言う。
N. Signo te signo Cru + cis [quod dum dicit producit pollice signum crucis in fronte illius, deinde prosequitur:] et confírmo te Chrísmate salútis: In nómine Pa + tris, et Fí + lii, et Spíritus + Sancti. R Amen. 某、我汝に十字架を記し[司教はこう言いながら受堅者の額に親指で十字架を印し、言葉を続ける]救霊の聖香油によりて汝を堅固にす。聖+父と聖+子と聖+霊との御名によりて [右手で三度十字架の印をしつつ唱える]。 R.アメン。
Deinde leviter eum in maxilla cædit, dicens: Pax tecum. 次に司教は受堅者の頬を軽く打ち言う。平和があなたともに。
Omnibus confirmatis, Pontifex tergit cum mica panis, et lavat pollicem, et manus super pelvim. Deinde aqua lotionis cum pane fundatur in piscinam sacrarii. Interim dum lavat manus, cantatur sequens Antiphona, vel legitur a ministris, quod etiam in similibus servari debet. 受堅者は立ち、司祭に聖香油を拭いてもらい、元の席に帰る。他の受堅者が入れ替わり司教の前に跪いて同じ式が繰り返される。全てが堅振の秘跡を受けると、司教はパン切れで手を拭き水で親指と手を洗う。手を清める間、聖歌隊は次の交誦を歌う。
Confírma hoc, Deus, quod operátus es in nobis, a templo sancto tuo, quod est in Jerúsalem. 交誦: 天主よ、御身が我等において行い給いし事を、エルザレムにある主の聖殿より堅くなし給え。
V.Glória Patri, etc. R. Sicut erat, etc. 願わくは聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。R.始めにありし如く今もいつも世々に至るまで。アメン。
Deinde repetitur Antiphona Confírma, etc. Qua repetita, Pontifex deposita mitra surgit, et stans versus ad altare, junctis ante pectus manibus, dicit: 次に交誦を繰り返し歌う。次に司教は司教冠を脱いで立ちあがり、祭壇の方に向い、両手を胸の前に合わせて言う。
V. Osténde nobis, Dómine, misericórdiam tuam. V. 主よわれらに御身の憐れみを示し給え。
R. Et salutáre tuum da nobis. R. 御身の救いを我等に与え給え。
V. Dómine, exáudi oratiónem meam. V. 主よ我が祈りを聴き容れ給え。
R.Et clamor me Et clamor meus ad te véniat. R. 我が叫びを主に至らんことを。
V. Dóminus vobíscum. V. 主はあなたたちを共に。
R. Et cum spíritu tuo. R. 又あなたの霊と共に。
Deinde junctis adhuc ante pectus manibus, et omnibus confirmatis devote genua flectentibus, dicit: 次に、司教はまだ両手を胸の前に合わせて言う。全ての受堅者は謹んで跪いている。
Orémus. 祈願
Deus, qui Apóstolis tuis Sanctum dedísti Spíritum, et per eos eorúmque successóres céteris fidélibus tradéndum esse voluísti: respíce propítius ad humilitátis nostæ famulátum, et præsta; ut ejus cor, cujus frontem sacro Chrísmate delinívimus, et signo sanctæ Crucis signávimus, idem Spíritus Sanctus in eo supervéniens, templum glóriæ suæ dignánter inhabitándo perfíciat: Qui cum Patre, et eódem Spíritu Sancto vivis et regnas Deus, in sǽcula sæculórum. R. Amen. 天主よ、御身は聖霊を主の使徒らに授け給い、彼らと彼らの後継者たちを通し、他の信者らに授けられる望み給いし。卑しき我らの奉仕を憐れみふかく見給いて、我らが聖香油で額の塗り、聖なる十字架で印した彼らの心に、同じ聖霊が来たり給うて、主の栄光の神殿としてこれに住み給いて完成し給わんことを。御身は、聖父と共に、またその同じ聖霊と共に、代々に活きかつ統治し給う。R.アメン
Deinde dicit: 次に司教は詩篇の言葉を言う。
Ecce sic benedicétur omnis homo, qui timet Dóminum. 見よ、主を畏れる全ての人は、このように祝福せられるだろう。
Et vertens se ad confirmatos, faciens super eos signum crucis, dicit: そして受堅者の方に向い、彼等の上に十字架の印を為しつつ言う。
Bene + dícat vos Dóminus ex Sion, ut vídeas bona Jerúsalem ómnibus diébus vitæ vestræ, et habeátis vitam ætérnam. R . Amen. 主がシオンからあなたたちを祝福し給わんことを。そは、全生涯において日々エルザレムの良きものをあなたたちが見て、永遠の生命を得るためなり。R.アメン
Expedita itaque Confirmatione, Pontifex sedens, accepta mitra, patrinis et matrinis annuntiat, quod instruant filios suos bonis moribus, quod fugiant mala, et faciant bona, et doceant eos Credo in Deum, et Pater Noster, et Ave, Maria, quoniam ad hoc sunt obligati. このように堅振の秘跡を終え、司教は座って、司教冠を受ける。司教は代父母に、自分の代子たちが良い生活をするように教えるように、悪を避けて善を行い代子らに使徒信経と主祷文と天使祝詞を教えるようにと告げる。【聖ピオ十世会では、司教は司教杖を持ち、受堅者に立ちあがって主祷文、天使祝詞、使徒信経を唱えるように命じるのが習わしである。】


聖霊の七つの賜物について

2023年01月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日から聖霊に対するノベナを開始いたしましょう!

聖霊の七つの賜物に関して、聖ピオ十世の「公教要理」からの抜粋をご紹介します。

The Gifts of the Holy Ghost 聖霊のたまもの
1 Q. Name the seven gifts of the Holy Ghost. 918 聖霊のたまものにはどんなものがありますか。
A. The seven gifts of the Holy Ghost are, Wisdom, Understanding, Counsel, Fortitude, Knowledge, Piety and the Fear of the Lord. 聖霊のたまものには次の七つがあります。(1) 上智、(2) 聡明、(3) 賢慮、(4) 剛毅、(5) 知識、(6) 孝愛、(7) 敬畏
2 Q. What purpose do these gifts serve? 919 聖霊のたまものはどんな働きをしますか。
A. The gifts of the Holy Ghost serve to establish us in Faith, Hope and Charity, and to render us prompt in the exercise of those acts of virtue necessary towards attaining the perfection of a Christian life. 聖霊のたまものは、信仰・希望・愛の徳を支え、固め、キリスト教的生活を完成させるために必要な諸徳をすばやく実践する助けを与えます。
3 Q. What is Wisdom? 920 上智とは何ですか。
A. Wisdom is a gift by which the mind is lifted up from earthly and transitory things, enabling us to contemplate things eternal, that is to say, God Himself, the eternal truth, and to relish and love Him, in which consists all our good. 上智とは、知性を、地上のはかない物事に執着させず、永遠の価値あるものをながめさせるたまもの、つまり、永遠の真理であり、人間の幸福である天主を愛し、味わわせるたまものです。
4 Q. What is Understanding? 921 聡明とは何ですか。
A. Understanding is a gift which facilitates, as far as this is possible to mortal man, the understanding of the truths of faith and of the mysteries of God, which we are unable to know by the natural light of the intellect. 聡明とは、人間の理性の力だけでは悟ることのできない信仰の真理および天主の奥義の理解を助けるたまものです。
5 Q. What is Counsel? 922 賢慮とは何ですか。
A. Counsel is a gift by which, amidst the doubts and uncertainties of human life, we are enabled to recognise those things that redound more to God's glory, to our own salvation, and to that of our neighbour. 賢慮とは、生活上の疑問や不安を感じたとき、何が天主の栄光と私たちや隣人の救いに役立つかをはっきり悟らせるたまものです。
6 Q. What is Fortitude? 923 剛毅とは何ですか。
A. Fortitude is a gift which inspires us with valour and courage to observe faithfully the holy law of God and of the Church, by conquering all obstacles and all the assaults of our enemies. 剛毅とは、天主と教会の掟を忠実に守るための勇気と力を与えるたまもので、これによって人は、あらゆる障害と敵の攻撃にうち勝つことができます。
7 Q. What is Knowledge? 924 知識とは何ですか。
A. Knowledge is a gift enabling us to estimate created things at their proper worth, and to learn how to use them rightly and to direct them to our last end, which is God. 知識とは、被造物について正しい判断を下し、これを正しく用い、究極の目的である天主に向かわせるたまものです。
8 Q. What is Piety? 925 孝愛とは何ですか。
A. Piety is a gift enabling us to venerate and love God and His Saints, and to preserve a pious and benevolent mind towards our neighbour for the love of God. 孝愛とは、諸聖人を崇敬し、愛し、天主のために隣人に対して憐み深く、寛大にさせるたまものです。
9 Q. What is the Fear of the Lord? 926 敬畏とは何ですか。
A. The Fear of the Lord is a gift which makes us respect God and fear to offend His Divine Majesty, and which detaches us from evil while inciting us to good. 敬畏とは、天主の崇拝をすすめ、天主を侮辱することを恐れさせ、悪を捨て善に向かわせるたまものです。

参考資料:  聖霊に対するノベナ

堅振の秘跡を受ける前に九日間のノベナとして、毎日 Veni Creator Spiritus(聖霊の御降臨を望む祈り:公教会祈禱文210ページ)を唱えましょう。


【参考資料】ヴィガノ大司教、御公現について:世俗と教会両方の指導者を「回心させてくださるよう私たちは幼子なる王に願う」

2023年01月18日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ヴィガノ大司教、御公現について:世俗と教会両方の指導者を「回心させてくださるよう私たちは幼子なる王に願う」

Abp. Viganò on Epiphany: “We Ask the Child King to Convert” Both Civil and Church Leaders
カルロ・マリア・ヴィガノ 2023年1月9日

VIDIMUS STELLAM EIUS IN ORIENTE
東方で彼の星を見た
私たちの主イエズス・キリストの御公現についての
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の説教

Et adorabunt eum omnes reges terræ;
omnes gentes servient ei.
Ps 71:11
地の王たちはみな、彼を拝み、
異邦の民はみな、彼に仕えるだろう。
詩篇71篇11節

イエズス・キリストに讃美

この荘厳な日は、三つの奇跡によって聖化されています。それは、東方の博士たちの礼拝、カナの婚礼での水をぶどう酒に変えること、そしてヨルダン川でのキリストの洗礼です。これらの奇跡のしるしは、私たちの主の神性と、宇宙や自然、私たちに対する主の普遍的な主権を示しています。天使に呼ばれて、Verbum caro factum(肉体となり給うたみ言葉)を認識するのは、もはや羊飼いたちだけではありません。全人類、全被造物が、天主ご自身の声によって、天主を礼拝し、天主の声に耳を傾け、天主に従うように呼ばれているのです。この主権を、謙遜な信仰をもって認める者もいれば、高慢から拒否する者もいます。

クリスマス前日のローマ殉教録では、secundum carnem(肉による)救い主のご誕生の告知が、正確で詳細な年代を示す数多くの文献とともに歴史の中に位置づけられていることが歌われるのを聞きました。先唱者が、キリストのご誕生という救いの出来事が歴史的に現実であることを示すために声の調子を上げる直前に荘厳に発する Toto orbe in pace composito(全世界が平和であったとき)は、ローマ帝国の権威であり平和をもたらす者であるアウグストゥスの三つの勝利に言及しています。確かに人間的で異教的な勝利ではありましたが、それは Rex pacificus(平和の王)であり不滅の皇帝かつ征服されざる太陽の永遠【イエズス・キリスト】の凱旋を準備するように意図されていたのです。このため、1月6日は、ローマの人間的な栄光を祝う世俗の祝日として制定されましたが、教会によって王の王、主の主であるキリストの不滅の栄光を祝うために選ばれました。

今の背教の時代は、天主への反逆によって引き起こされた戦争や紛争を特徴としているので、皇帝の地上の権威が、御摂理の計画で主の来臨に必要な前提条件となるのは、理解しがたいことです。私たちにとって、もっと「普通」に思えるのは、ヘロデのいわゆる凶暴で冷酷な反応です。彼は、幼子なる王を殺すという狂気の試みにおいて、数日前に典礼で記念したベトレヘムの子どもたちを皆殺しにしました。生と死、平和と戦争、光と闇、聖寵と滅び。私たちは常に自分自身、家族、世俗社会にとって二つの大きな選択肢を目前にしています。そして、キリストこそが、私たちの生命、平和、光、すべてとして彼を認め、私たちに道徳的選択をするよう求める基準点として、つまずきの石として、立っておられるのです。もしそうでなければ、つまり、この選択を放棄するなら、天使の軍勢が地獄の権力に対して戦っているのを前にしつつ自らは中立にあると宣言したいのなら、私たちは依然として、私たちの救いと全世界の救いを左右する選択をしていることになるのです。

私たちは今日、それを見ています。キリストの御旗のもとで戦場に出ない者は、必然的にキリストの敵の味方となってしまい、罪のない者たちがヘロデによって殺されるのを傍観し、また、天主の主権を否定または沈黙する、転覆させられた自由の概念と世俗主義の名において、まぐさ桶の前で主を礼拝することを拒否するのです。

しかし、まさにこの至聖なる日の神秘を観想することによって、教会は、イエズス・キリストの神性の表明である御公現の必要性を私たちに教えています。星が異教徒の学者たちを聖寵の光へと、そして真の天主への回心へと導くことができるのならば、その必要性のために御摂理は躊躇せずに星でさえも動かしてくださいます。

実際、羊飼いたちの素朴で忠実な礼拝は、内面が謙遜で貧しいため、十分ではありませんでした。その礼拝は個人、私たち一人一人の信仰の行いを思い起こさせますが、もしそれが、地上で権威を持つ者たちの公の公式な礼拝を伴わなければ、その礼拝は、この世の運命にとっては不完全なままなのです。何故ならこの権威は、最高の立法者にして審判者である天主の権威を反映しているからです。詩篇がこう預言しているとおりです。Et adorabunt eum omnes reges terræ; omnes gentes servient ei.(王たちはみな、彼を拝み、異邦の民はみな、彼に仕える)[詩篇71篇11節]。

幼子なる天主に敬意を払うのが東方の博士であり、帝国の権威の代表者がいないことは驚くべきことです。主を裁き、死刑を宣告する上で決定的な役割を果たしたイスラエルの王も大司祭も姿を見せないのと同じです。彼らは、死の瞬間にはいるのですが、生の瞬間にはいないのです。ガスパール、メルキオール、バルタザールが幼子の前にひざまずき、贈り物を捧げようとする姿を私たちは見ますが、まぐさ桶の周りにローマ総督、ヘロデ、アンナ、カヤファ、最高法院(サンヘドリン)の幹部、民の中の律法学士たちが見られないのはなぜでしょうか?

その答えは、まったく単純に明らかです。羊飼いたちは、自分自身と、日常生活やつつましい仕事による貧しい物以外には何も持っていない素朴な者の、信頼に満ちた自己放棄によってキリストを礼拝したのです。博士たちは、星の流れの中にキリストの奇跡的な現れを見たおかげでキリストを礼拝し、彼らの人間的な知恵、宇宙を覗き見る能力は、彼らを永遠の太陽【イエズス・キリスト】のもとへと導きました。なぜなら、彼らも、謙遜によって、天主【キリスト】のこの世への誕生を知っていたからです。前者【羊飼いたち】は天使の告知によって、後者【博士たち】は天のしるしによって、どちらも聖寵によって照らされたのです。しかし、ヘロデと大司祭たちは、イスラエルが持っているメシアの預言をよく知っていたはずでしたが、彼らの第一の関心事は権力であったため、見ることも信じることもできませんでした。一方で、現世的権力は異教のローマの支配下にあり、ユダヤの君主とは実はイスラエルの唯一の王――万軍の主である天主――の代理者にすぎないことを忘れていました。他方、霊的権力は、今日私たちが言う「自己参照性」、すなわち自己保身と民を無知のままにしておくことに関心を持っていただけだったのです。

このことは、預言者たちの厳しい叱責と警告によって裏付けられ、主は預言者たちの口によって、司祭たちにその義務を思い起こさせられました。しかし、司祭たちは、いけにえの肉の一部を自分のものとするために持つ熊手の先を長くしたり、神殿に招き入れられた両替商や商人の取引で利益を得たりするのに忙しくしていました。聖寵に耳を貸さなかったのです! 幼きイエズスが自分の権威を承認してくれるのを見るべきだったヘロデは、耳を貸さなかったのです。イエズスにおいて、約束のメシア、国々の民にとって待ち望める者(ハガイ2章7節)を認めるべきだった大司祭たちも、耳を貸さなかったのです。両者とも、重大にも、その御手に世界と時代の運命を握るお方に頭を垂れるのではなく、侵略者に服従することを好んでいたのです。Non habemus regem nisi Cæsarem(私たちの王はチェザルのほかにはありません)[ヨハネ19章15節]。

この点で、現在の状況は当時とあまり変わっていません。今日でも、世俗および教会の権威者は、自分たちの権力を失うことを恐れて、イエズス・キリストを礼拝することを拒み、あるいは、イエズス・キリストの殺害を企てながら、言葉だけで礼拝しています。今日でさえ、私たちは、素朴な人々や遠い国の指導者たちが救い主を認め、私生活や公的生活を救い主に合わせるのを見ますが、一方で、世界の指導者たちはグローバリズムの行動計画(アジェンダ)のためにダボスに集まることを好み、ベルゴリオのセクトの高位聖職者たちは自分のスキャンダルを隠し、シノダリティーを広め、本当に言葉にできないほどの悪徳を奨励することだけを考えているのです。両者とも、お互いを支え、お互いの正当性を認めています。両者とも、イエズス・キリストを、自分たちの権力と支配の計画を追求するための不快な障害物とみなしています。しかし、御公現の賛歌で歌われているように、non eripit mortalia qui regna dat cœlestia(われらに天の国を与えてくださるお方は、地上の王国を略奪されることはない)のです。

しかし、一方では、賢者たちが信仰の貢ぎ物をもって、王の王を公に礼拝することができ、自分たちの権力にとって恐れるものは何もなかったとすれば、他方では、天主に反抗的で不従順な支配者は、自分たちの行使する権力が天主に由来することを認めず、天主の主権に対抗するとともに、自分たちの民にも対抗して、賢明で正しい政府を憎むべき専制の道具に変えているのです。預言者エレミアは、彼らに対抗して、次のように表現しています。

私の民の中には悪人がいて、待ち伏せする狩人のように、見張っていて、わなをかけるが、彼らがとらえるのは人間である。鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は偽りに満ちている。だから彼らは偉い者となり、裕福になり、こえ肥(ふと)り、あぶらぎり、悪の境界を越え、訴訟も、みなし子の訴えごともとりあげない。それなのに栄えて、貧しい者の肩を持たない。こういうことを罰しないでいられようか? 主のお告げ。こういう民に、仇を討たないでいられようか? 恐ろしくいとわしいことが、この地に行われている。預言者は偽りの名を借りて預言し、司祭は、彼らの指図を受けて支配するのに、私の民はそれを好んでいる。だが、終わりが来るとき、おまえたちはどうするだろうか?(エレミア5章26-31節)。

この聖書の言葉を聞いていると、この世の権力者たち、グローバリストのエリートたちと、臆病で利己的で卑屈な共犯関係から彼らに仕える者たちに向けられたものではないかと思えてきます。また、主から託された群れを養うために教会の権威者に立てられながらも、権力を濫用して、自らがその冷酷な設計者であるパンデミックや緊急事態を預言する新世界秩序の預言者たちの承諾のもとに統治しているのです。

〈終わりが来るとき、おまえたちはどうするだろうか?〉と主は問われます。おまえたちは、新たな非常事態、新たな危機、新たなパンデミック、新たな戦争を起こして、人々を服従させ続けるのか? 罪のない子どもたちを皆殺しにし、父親と母親を不妊症にし、労働者から報酬を奪い、若者を堕落させ、病人や老人を自分たちの下劣な利益には役立たないとみなして殺し続けるのか? 天主の御怒りと正当な懲罰から逃れたいと思って、自分の砦に立てこもるのか? グレートリセットのしもべたちよ、おまえたちの主人たちが隠れ家に逃げ込み、地の底に隠れなければならなくなったら、おまえたちはどうするだろうか? 今までのように、新しい所有者に自分を売り渡すことができるとでも思っているのか? あわれな、惨めな、欺かれた者たちよ。恐ろしい主の日は、すべての人に、そしておまえたちにもやって来るのだ。まず私審判があり、次に公審判がある。

地上の正義がおまえたちに従属するがために、おまえたちの犯罪を傍観しているとしても、天主の正義は、その代わりに、天主の御稜威(みいつ)に対する罪、そして天主がご自分の像と似姿として創造され、ご自分の血をもって贖われた人間に対する罪、おまえたちの公の罪が、罰を受けないことがないように、容赦なく、恐ろしいものになるであろう。そして、もしわれわれの貧弱な力がおまえたちの陰謀に打ち勝てなかったとしても、われわれ一人一人、聖なる教会の一人一人の信者、一人一人の善き霊魂が祈り、断食し、償いをして、おまえたちが認め、礼拝し、仕えることを拒んでいる諸国の王である主のご介入を願っていることを知っておくのだ。〈終わりが来るとき、おまえたちはどうするだろうか?〉。

私たちの主イエズス・キリストの天主の王権が公に表明され、賢者たちが主の普遍で永遠の主権に公の貢ぎ物を捧げたことを祝うこの御公現の日に、私たちも新たに捧げ物をしましょう。それは、御摂理が与えてくださったもの以外に何も持っていない私たちからのものですから、粗末で惨めな捧げ物です。しかし、御子の玉座において私たちの代願者である王の御母である聖母、至聖なるマリアによって贈られるならば、それは尊い捧げ物となります。その捧げ物が、ミサの聖なる犠牲で十字架の犠牲を更新する永遠の教皇である大司祭、清く聖なるいけにえの御手を通して御父の御稜威(みいつ)に昇るとき、それは無限の捧げ物となります。私たちの償いを、祭壇のふもとに置きましょう。それが王の黄金となりますように。私たちの祈りを、祭壇のふもとに置きましょう。それが、司祭が天主のために焚く香のごとく天に昇りますように。私たちの断食を、祭壇のふもとに置きましょう。聖なるミサがそれを犠牲の没薬に変えてくれますように。そして、私たちは、幼子なる王に願います。世俗社会と教会の両方で権威を持つ人々、今日、星の後を追ってベトレヘムに行き天主を礼拝するか、あるいは、天主のご誕生を無視し、天主のみ旨を避けて天主に戦争を仕掛けるかの選択を迫られている人々を回心させてくださいますように。

アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年1月6日
私たちの主イエズス・キリストの御公現の祝日

英語版 Abp. Viganò on Epiphany: "We Ask the Child King to Convert" Both Civil and Church Leaders - Catholic Family News

イタリア語版 Mons. Viganò, Omelia per l’Epifania. Il Giorno Tremendo del Signore Verrà…


堅振の秘跡について [2]|聖霊の七つの賜物とは?堅振の秘跡は信者に聖霊をこうむらせる[聖霊降臨]の日です

2023年01月17日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年1月15日は御公現後第二主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御公現後第二主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

参考資料:  聖霊に対するノベナ

堅振の秘跡を受ける前に九日間のノベナとして、毎日 Veni Creator Spiritus(聖霊の御降臨を望む祈り:公教会祈禱文210ページ)を唱えましょう。


【参考情報】教皇ベネディクト十六世の死去についてのカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の説教

2023年01月17日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】教皇ベネディクト十六世の死去についてのカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の説教

2023年1月6日(金曜日)

Homily of Archbishop Carlo Maria Viganò in morte Papæ Benedicti XVI

カルロ・マリア・ヴィガノ

ABSOLVE, DOMINE
主よ、解き放ち給え

Dies iræ, dies illa, dies tribulationis et angustiæ,
dies calamitatis et miseriæ, dies tenebrarum et caliginis,
dies nebulæ et turbinis, dies tubæ et clangoris
super civitates munitas et super angulos excelsos. - Zeph 1: 15-16
その日は怒りの日、苦痛と災難の日、
竜巻と嵐の日、濃いくらやみの日、
濃い黒雲の日。堅固な町の上から、四隅のやぐらの上から、
角笛の響き、ときの声の日。(ソフォニア1章15-16節)

「主の日は苦い日だ。勇士さえも恐怖の声を上げる。その日は怒りの日、苦痛と災難の日、竜巻と嵐の日、濃いくらやみの日、濃い黒雲の日。堅固な町の上から、四隅のやぐらの上から、角笛の響き、ときの声の日」。預言者ソフォニアはそう語っています。

Absolve Domine(主よ、解き放ち給え)。教皇や単なる聖職者のためであっても、富める者や貧しい者のためであっても、賢き者や素朴な者のためであっても、死者のミサの詠誦でこの歌詞を歌います。Et gratia tua illis succurente, mereantur evadere judicium ultionis, et lucis æternæ beatitudine perfrui.(また、御身の恩寵の助けによって、彼らが最後の審判を逃れるに値させ、永遠の光明の至福を味わわせ給え)。

2013年2月28日までローマ教皇だったヨゼフ・ラッツィンガーの霊魂のための追悼の聖なるミサを捧げるとき、この同じ祈りを天主の御稜威(みいつ)に捧げましょう。そして、このミサが故人への慈悲を求めるように、私たちは、すべてを知っておられ、人の心の秘密を調べ尽くす天主の御慈悲に彼の霊魂をお委ねします。彼がその長い生涯の間に、とりわけペトロの玉座に昇った後の言動に関しては、私たちは、彼が使徒継承の典礼の完全な正当性を認めて、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)を公布した、真実と正義のあの御摂理的行為を思い起こしたいと思います。古代の典礼の自由化が教会にもたらした善は、大天使聖ミカエルの多くの描写の中に見える霊魂の裁きの秤に、重さを加えることでしょう。その行為のおかげで、多くの信者と司祭(私たちもその一人です)が、不幸な選択によって50年間手の届かなかった教理と霊性の計り知れない宝を知ることができました。その行為のおかげで、誰も止めることのできないあふれるほどの恩寵の川が教会と世界に注がれ、今日もなお注がれ続けているのです。

公会議による破壊を免れた瓦礫を眺めながら、聖ピオ五世のミサがなかったならば、教会の現状はどうなっていただろうかと考える勇気は私にはありません。しかし、同じ自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」で著名な神学者ラッツィンガーが採用した、カトリックの正統性(とトリエント・ミサ)のテーゼ、近代主義の異端(とモンティーニのミサ)のアンチテーゼ、第二バチカン公会議(と二つの形式の同じ典礼の共存)のジンテーゼという不安定な構造に気づかないわけにはいかないでしょう。この10年の惨状が【あまりにひどいため】それをほとんど目立たなくさせてしまったとはいえ、残念ながら、delicta juventutis(若き日の過ち)が正式に否定されることはありませんでした。

近い将来、古代の典礼の完全な〈回復〉(restitutio)が達成され、数十年にわたる濫用、操作、不純物の混入、そしてベルゴリオの時代に一層猛烈になった迫害に終止符を打つよう、ただひたすら祈るしかありません。

Si iniquitates observaveris Domine, Domine, quis sustinebit?(主よ、もし不義に御目を留め給わば、主よ、たれかよく立つことを得ん。)【詩篇129。デ・プロフンディス】。そんな人は誰もいません。しかし、私たちの父であり、私たちの救いのために御独り子をお与えになるほど私たちを愛しておられる天主は、その御慈悲のうちに、私たちの欠点に目を注ぐよりももっと大きな関心をもって、私たちの行った善を見ようとされます。それはまるで、私たちが弱く罪深いことを知っておられるからこそ、私たちを永遠の滅びから救う方法をすべて探し出し、私たちに自らを救うための千載一遇の機会を与えてくださるかのようです。このことは、最高の玉座に座す者にも、最も小さな信者にも当てはまります。

私たちが自分の罪を考察することで、私たちが罰の譲歩を受けるあるいは罰を免れるだろうと考えるようになってはなりません。むしろ、私を強め給うお方(フィリッピ4章13節)に全幅の信頼を置くように私たちを励ますものにならなければなりません。そして、このことは、御摂理が教会を統治するために選んだ者についても当てはまることです。

この信頼に動かされ、教皇ベネディクト十六世は、前任者の一人が教会に与えたひどい傷を何らかの方法で修復しようとしました。その傷は癒やされつつありましたが、敵【悪魔】とその従者たちの策略は、「スンモールム・ポンティフィクム」が霊魂にもたらす否定できない霊的な善を前にしても、それを無効にして、傷を開いたままにしようとしています。まさに、この無限の恩寵のゆえです。この恩寵が、公会議のイデオロギーが持つ世俗化されたこの世的な精神の最も痛烈な敗北を象徴しているからです。

そして、もし改革された典礼がレクイエム・ミサからDies Iræ(怒りの日)を取り消し、Alleluias(アレルヤ)に置き換えたとしても、私たちは古代のミサに、主がその代理者として望まれた者の霊魂のための希望と尊厳ある追悼の理由を見いだすことができます。この旧典礼においては、御慈悲、赦し、贖宥、赦免、減刑を懇願する浄配の声が聞こえます。それは、自分の子どもたちの罪を認め、天主の御子が自らの犠牲で贖われたその子どもたちを、永遠の御父の前に差し出す花嫁の声です。ですから、ベネディクト教皇の霊魂が、私たちが彼のためにローマ典文のMemento(死者の記念)で祈り求める、回復、光明、平和の場所を見いだすことができますように。

天国の祝福された栄光の中で、あるいは煉獄の清めの炎の中で、教皇ベネディクト十六世は、この地上の追放状態では不明瞭にしか示されない天主の真理を〈顔と顔を合わせて〉(facie ad faciem)【コリント前書13章12節】ついに知り、私たちと教会全体のために祈ることができるようになるでしょう。彼の祈りは、私たちの祈りや、聖なる霊魂たちの祈り、そして天の宮廷の祈りに加わって、現在の苦難を終わらせるために、そして特に、天主の聖なる教会を苦しめ、日食で覆っている異端者と堕落者のセクトを打ち負かし、追い出すために、天主の御稜威に懇願するのです。

アーメン。

2023年1月5日
主の御公現の前日

英語版 Homily of Archbishop Carlo Maria Viganò in morte Papæ Benedicti XVI

イタリア語版 “Absolve, Domine”. Omelia dell’arcivescovo Carlo Maria Viganò in morte Papæ Benedicti XVI - Aldo Maria Valli


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年01月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年1月15日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計104人でした。大阪の夕方のミサでは30人でした。

【聖ピオ十世会のニュース】
オーストリア管区では、管区長であったシュテファン・フライ神父様がその職を辞することになったそうです。今回の発表は神父様ご本人からのものです。医師からは「燃え尽き症候群」だと診断されたそうです。後任として、5年前に叙階されたドイツ人司祭ヨハネス・レゲレ神父様(Pater Johannes Regele)が任命されました。レゲレ神父様は以前は13年間オプス・デイの会員でしたが、新しいミサと第二バチカン公会議の問題のために、オプス・デイを退会して聖ピオ十世会に入会した方です。神父様たちのためにお祈り申し上げます。


【ご質問ありがとうございます】
教皇三重冠 (Triregnum, Tiara)について質問を受けました。
教皇三重冠は、教皇がかぶる王冠のことです。典礼を執行する時は、聖ペトロの後継者のローマの大司教としてミトラをかぶります。しかし、典礼を執行する以外で、全世界における教会の最高の牧者であることを意味して、冠をかぶります。

教皇三重冠は、教皇の三重の権威を象徴しています。この意味には所説ありますが、その内の一つは戦闘の教会(地上)、苦しみの教会(煉獄)、凱旋の教会(天国)の三つの王国にまたがる権威という意味です。そこからTriregnum(三つの国)という名前が由来しているといわれます。あるいは、教皇がキリストの代理者として大司祭・預言者・王という三つの役職に与り、全信徒を信仰において聖化し・教え・導くという三重の責務を示しているとされます。

歴史を見ると、教皇コンスタンティヌス(在位708-715)の記録には教皇冠を使用した記述が残っています。当時はcamelaucumという名前でした。大聖グレゴリオ(没604)も教皇冠をかぶっている絵画が残っています。

教皇は全世界の教会における霊的な権威のみならず、ピピンの寄進を受けて教皇領の君主でもあったので、教皇冠に飾りが付けられるようになりました。教皇セルジオ二世(904-11)やベネディクト七世(974-983)が描かれたコインには装飾のついたヘルメットのような冠をかぶっている様子が描かれています。

教皇パスカレ二世(1099-1118)の伝記には三重冠(tiara)という単語がでてきます。
教皇ボニファチオ八世(1294-1303)は、霊的な権威と世俗的な権威との両方を持つことを意味してもう一つの冠を付け加え二重にしました。1314年に、三番目の冠が加えられました。そこで triregnum とも呼ばれるようになりました。

現代では、教皇パウロ六世が教皇三重冠を使用した最後の教皇となりました。三重冠は公式に廃止されたことはないのですが、第二バチカン公会議以後には使われなくなってしまいました。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 104 including children.

09:00 mass
M: 26 (incl. 6 children)
F: 27 (incl. 5 children)
Total: 53 (incl. 11 children)

11:30 mass
M: 20 (incl. 1 child)
F: 33 (incl. 4 children)
Total: 53 (incl. 5 children)

Total of 2 masses (excl. 1 person who participated in multiple masses)
M: 45 (incl. 7 children)
F: 59 (incl. 9 children)
Total: 104 (incl. 16 children)

 


【参考文献】DESIDERATUS CUNCTIS GENTIBUS(「国々の民もろともにとって待ち望める者」):ヴィガノ大司教の2022年末のメッセージ

2023年01月16日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】DESIDERATUS CUNCTIS GENTIBUS(「国々の民もろともにとって待ち望める者」):ヴィガノ大司教の2022年末のメッセージ

2022年12月31日(土曜日)

DESIDERATUS CUNCTIS GENTIBUS(「国々の民もろともにとって待ち望める者」アゲオ預言書2:8):ヴィガノ大司教の2022年末のメッセージ

【注:アゲオ予言書2:8はバルバロ訳聖書ではハガイの書2:7。その注に「万民のあこがれるものがこられる」と書かれている。】

カルロ・マリア・ヴィガノ

Salvum fac populum tuum, Domine, et benedic hereditati tuæ.
Et rege eos, et extolle illos usque in æternum.
主よ、御身の民を救い、御身の世継ぎを祝し、
かれらを治め、永遠にいたるまで、かれらを高め給え。(賛歌「テ・デウム」)

世俗の年の締めくくりを飾るこの時間、私たちは一人一人、教会が賛歌「テ・デウム」の中にある感謝の賛美を天主の御稜威(みいつ)に捧げる荘厳な行事に参加する準備をしています。

Te Deum laudamus: te Dominum confitemur.「天主にまします御身をわれらたたえ、主にまします御身を讃美し奉る」。複数形の一人称「われら」において、諸秘跡の貴重な宝石と、王冠の最も貴重な宝石の数々で装飾された、すなわち祭壇の最も威厳ある秘跡【御聖体】とミサの聖なる犠牲と司祭職の品級で飾られた、小羊の花嫁【カトリック教会】の威厳ある声を感じます。そして、いとも聖なる秘跡【御聖体】の御前で、私たちは皆、凱旋の日にキリストとともに地に足をつけて立っている勝者にふさわしく立ち、終わろうとしている一年のために天主に感謝を捧げます。

ですから、私たちは至聖なる三位一体に感謝しなければならないということ、そのことを考察しましょう。

私たちのぬるま湯状態、沈黙、妥協への傾き、偽善、この世の精神と支配的イデオロギーの誤謬に屈したことに対して、天主なる主が私たちを罰してくださったことを感謝します。

これらの罪と欠点こそが、今日、新世界秩序の専制政治を押し付ける者たちが世俗の世界で繁栄することを許すとともに、教会の世界でも、プロライフの司祭【ペイヴォン神父】を破門し、同時に、腐敗した異端的な聖職者と高位聖職者を、つまずきを与えるやり方で昇進させる者たちが優勢になることを許したのです。
これらの罪と欠点が、世俗の世界において、民主主義が諸国の背教および無垢の人々【胎児】の残酷な殺戮に変容することを許したのです。
これらの罪と欠点こそが、教会において、第二バチカン公会議によって、教会を内側から破壊するための破壊的なテコとして、革命の原理が教会に導入されることを許したのです。
これらの罪と欠点が、世俗の世界では、罪と悪徳が奨励されるようにし、他方では、正直さ、誠実さ、キリスト教的道徳が嘲笑され、犯罪化されないまでも、踏みにじられるのを許したのです。
これらの罪と欠点が、教会の世界では、カトリックの信仰を告白し、使徒継承の典礼でその信仰を挙行することを求める信者や聖職者を迫害する一方、バチカンの最高法院(サンヘドリン)が使徒のかしらの墓で地獄の偶像【パチャママ】を崇拝することを許したのです。
これらの罪と欠点が、世俗の世界および教会の世界の両方において(この点では両者は大いに同盟関係にあります)、世界人口の制御という狂気の計画の名のもとに、何十億人もの人々に獣の健康のしるしが押し付けられることを許し、その口実として治癒可能で致命的ではないと判明した病気――適切な治療が禁止され、大衆を脅すのに十分な数の死亡をもたらした後でようやく治癒可能で致命的でもないと公表された――が用いられるのを許したのです。
これらの罪と欠点が、長期にわたって計画され、NATOによって平然と実行された作戦が行われるのを許したのです。それは、「侵略者」に対する戦争を引き起こすために、そして西側諸国の経済を破壊するためでした。
一方で、ウクライナの危機は、〈グレートリセット〉の実現のための道具であることは明らかです。道具として新型コロナウイルス感染症以上でも以下でもありません。同様に、ジョー・バイデンの家族の腐敗や、ペンタゴンにつながる生物実験室の存在に関する証拠を隠すための方便として役立つことは明らかです。
これらの罪と欠点が、世俗と教会の両方の機関において、役人がそのキャリアにおいて昇進すればするほど、さらに恐喝されることを許し、市民も信者も、腐敗し変質者となった者を排除しないことを許し、起訴を要求しないことを許したのです。

今日、私たちが目撃しているのは、一連の小さなステップの必然的な結果です。その一つ一つは、もし私たちが最低限の批判的判断を行い、声を上げてさえいれば、あるいは、もし私たちが真っ先に守るべきはずだった者たちによって侵害された権利を守るために抗議していれば、防ぐことができたはずのものだったのです。

離婚、中絶、安楽死、同性愛、ジェンダー・イデオロギー、左翼や右翼の自由主義、移民主義、キャンセル文化、グローバリズム、健康独裁、マルサス的環境主義、エキュメニズム、シノダリティー…その都度、私たちは迫り来る脅威を糾弾することができたはずだったし、そうすべきであったのに、「陰謀論者」と呼ばれないように、「原理主義者」の烙印を押されないように、あるいは自分の考えや信仰が原因で社会的・教会的な排斥に遭わないように、沈黙を守ってきたのです。

自由主義思想に汚染されるのを許した人々は、「私はカトリック信者であり、ラテン語のミサにあずかることができるのであるなら、各自が何をするのも自由だ」と言います。しかし、まさにこの「自分のしたいようにする」こそが、大衆を操る者たちが自由にすることを許してきたのです。彼らが、社会を変え、私たち自身の国と教会の中で、つまり自分の祖国で私たちをよそ者にすることを許してきたのです。

しかし私たちは、歴代のローマ教皇が繰り返し警告し、何度も非難してきたことに従って、カトリック信者はメーソン自由主義のプロジェクトに反対すべきであったことをよく知っていました。私たちは、自由主義者がカトリック信者以外のすべての人に寛容であること、そして自由主義者の最大の敵は諸国の王であるキリストであることを知っていました。なぜなら、キリストが統治するところでは、天主と人類の敵どもは拘束され、政府のトップにはなれないからです。

私たちは、現世的かつ霊的な問題で天主に反抗することは、独裁か無政府状態のどちらかにしかつながらないことをよく知っていましたが、法廷では正義が、ビジネスでは労働者の権利が踏みにじられるのを、病院では治療が阻止されるのを、メディアでは嘘が流されるのを、学校では若者が道徳で腐敗するのを、説教壇からは教導権に逆らうことが述べられるのを許してきました。

これまで権威ある地位にあった人々は、権力をその存在目的とは反対の目的のために簒奪してきました。先に述べたように、私たちはまるで外国人のように扱われ、実際、市民でありながら国家の敵のように扱われ、信者でありながら教会の敵として扱われました。一方、真の外国人たちや国家の敵どもは、権威を簒奪したエリートたちの錯乱した「人道的」かつ「博愛的」プロジェクトで歓迎され、尊重され、服従されているように感じられます。

そして、私たちの中には、このような社会的・宗教的工学の作戦に直面して、戦うことをあきらめたり、陰謀家たちの側に立ったりする者さえいます。彼らは権力者たちを喜ばせ、国会や国際機関のホール、大聖堂、さらには聖ペトロ大聖堂の円屋根の真下で、権力者たちの破壊転覆的な計画を支持することを選びました。その際、適合主義、臆病、卑屈、そして、今日の裏切りによって私たちの隣人――それが誠実な支配者を求める市民であれ、聖なる牧者を求める信者の一人であれ――が潰されることで、私たちが何とかその後の壊滅を免れることができるという希望を抱いていたのです。彼らが忘れているのは、革命はサートゥルヌス【ローマ神話の農耕の神】のようにわが子をむさぼり食らうこと、また、初期の共犯者の誰一人として、現実においてもメディアにおいても絞首台を免れることができないことです。

主は私たちの父であり、父として、私たちが自分の過ちを理解し、過ちを悔い改め、人生を変えるために、罰を与えてくださるのです。Deus, qui culpa offenderis, pœnitentia placaris と四旬節の祈り【灰の水曜日の後の木曜日の集祷文】は言います。「われらの罪によって侮られ給うても、われらの悔い改めによって御心を和ませ給う天主」。罪があるところには、天主の御稜威が限りなく侮られるところには、罰が必要です。Flagella tuæ iracundiæ, quæ pro peccatis nostri meremur:「われらが、犯した罪のために当然受けるべき御怒りの罰」。それは、ちょうどイスラエルの民にしばしば起きたようにです。

2年以上続いたこの懲罰、もし私たちが回心のしるし、悔い改めのしるし、罪滅ぼしのしるし、償いのしるしを捧げて、自分たちがその懲罰を免れるに値するようにしなければ、続く運命にあるこの懲罰は祝福されんことを。
今去ろうとしているこの最も不吉な年【2022年】の間に、パンデミックの茶番劇が、グローバリストのエリートによる死のプロジェクトを明らかにすることによって、その犯罪的本性を現しました。さらにこの年の間には、〈グレートリセット〉に従順な最も腐敗している人々が率いる政府を支持する偽善的なプロパガンダのうちに、国際機関の冷酷な冷笑主義が姿を表しました。そうすることで「真理」という超越した原理があることを認めない人々は、どんな嘘でもつくことができること、また彼らは、トランスヒューマニズム【人間改造主義】によって創造主――私たちがその像と似姿に作られた――の作品をまさに消し去ることができると自分自身を欺いていることを示してくれました。この不吉な年は祝福されんことを。
もしも私たちが、新世界秩序の暴君たちからの、健康、環境、エネルギー、経済、戦争の脅迫に受動的に耐え、何もしないでいるならば、私たちを待ち受ける恐るべき将来を彼らは大胆にも示してくれました。彼らのその大胆さは祝福されんことを。
悪人に対する順守と善人に対するファリザイ的な厳しさによって、素朴な人に対してさえも、その背教を明らかにし、その悪徳の壊疽(えそ)を明らかにしている、権力の共犯者にしてメーソンのイデオロギーのしもべであるベルゴグオのセクトの傲慢さは祝福されんことを。

ヨブのように、苦難の時には何よりも主を祝しましょう。なぜなら、そのような試練には、たとえ最も困難で苦しいものであっても、御摂理のご介入を、私たち自身を――放蕩息子の場合のように豚の番をするよりも、ずっと悪い結果になってしまったこの私たちを――お見捨てにならない天主の愛の御手を見るべきものだからです。

Miserere nostri, Domine, miserere nostri. Fiat misericordia tua, Domine, super nos, quemadmodum speravimus in te.「主よ、われらをあわれみ給え、われらをあわれみ給え。主よ、御身に依り頼みしわれらに、御あわれみを垂れ給え」。支配者らと牧者らに見捨てられし御身の子らをあわれみ給え。この時代の偽りの幻想に溺れずして、御身の聖なる御助けなる祝されし希望によって生きているがゆえにこそ、家庭であれ職場であれ、議会の席からであれ新聞の編集室からであれ、田舎の教会の説教壇からであれ修道院の房からであれ、御身においてよき戦いを戦う力を見いだす人々をあわれみ給え。新世界秩序(New World Order)なる地上の地獄の確立にも、平和的エキュメニズムなる永遠の背教にも甘んじざる人々をあわれみ給え。

そして、私たちが、この2022年の惨劇の終結を願い、2023年の初めに聖歌「ヴェニ・クレアトール」(Veni Creator)で慰め主(Paralrete)の賜物を祈り求める準備をするならば、放蕩息子のように信頼に満ちた謙遜さをもってそうしましょう。「お父さん、私は天に背き、あなたにも背いて罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれる値打ちはありません」(ルカ15章21節)。私たちは、人間がその権威を濫用し、現世的・霊的な事柄において天主に背くとき、人間よりも天主に従う(使徒行録5章29節)という決意を新たにすることによって、これを実行するのです。

「テ・デウム」は勝利への感謝の讃歌であり、凱旋の歌です。しかし、この凱旋は人間の一時的な凱旋ではありません。軍隊や天使の群れによってではなく、十字架上で死ぬことによってサタンを征服した天主の御子の永遠の凱旋であり、小羊の御血によって不名誉な道具が栄光の御旗に変えられたのです。キリストの勝利――Ego vici mundum、「私はこの世に勝ったのだ」と私たちの主は保証されます(ヨハネ16章33節)――はカルワリオへの凱旋の道で成し遂げられ、神秘体全体は、そのかしらである天主なる贖い主の模範に従って、「教会の受難」(passio Ecclesiæ)に至るまで主に倣わなければなりません。

もし私たちがキリストのご受難に一致しないなら、キリストとともに復活し、天国の祝福された栄光のうちにキリストの右に座すことはできないでしょう。もし私たちがキリストと祝されし童貞の御旗のもとに罪と戦わないなら、いにしえの蛇とその従者に対する最後の凱旋を祝うことはできないでしょう。なぜなら、私たちは主の罰や、三位一体の第二のペルソナが私たちを贖うためにご托身になった完全で無限の愛に報いるよう促すために主が送ってくださる多くの警告に鈍感なままでいることになるからです。その時、私たちは、メーソンのグローバリズムのしもべたちが長年にわたって私たちのために準備してきた、そして私たちが最近恐ろしい前触れを経験した、ディストピアの悪夢にふさわしい存在となることでしょう。

それゆえ、私たちは新たな心でこの「テ・デウム」を歌い、私たちの能力にかかわらず、主への忠実さを証しするという意向をもって、敵【悪魔】の攻撃が大きければ大きいほど、より強力である主の聖なる御助けを信頼しましょう。In te, Domine, speravi: non confundar in æternum.「主よ、われ御身に依り頼みたり、わが望みはとこしえに空しからまじ」。

アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年12月31日
教皇証聖者聖シルヴェストロの記念

英語版
https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/6316-desideratus-cunctis-gentibus-message-of-archbishop-vigano-for-the-end-of-2022

イタリア語版
https://www.stilumcuriae.com/messaggio-di-mons-vigano-per-la-fine-dellanno-civile-te-deum-laudamus


【参考情報】ペル枢機卿がデモス覚書を執筆した:教皇フランシスコという「大災難」について枢機卿たちに覚書を送ったのはペル枢機卿だった。バチカン記者が語る

2023年01月15日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ペル枢機卿が教皇フランシスコという「大災難」について枢機卿たちに送ったデモス覚書を執筆。バチカン記者が語る

Cdl. Pell wrote memo sent to cardinals on ‘catastrophe’ of Pope Francis: Vatican reporter

バチカン問題の専門ジャーナリストであるサンドロ・マジステルは、LifeSiteNewsに対し、故枢機卿から「個人的に」覚書を受け取ったと語っている。

マイケル・ヘインズ

2023年1月12日(木曜日) 米東部標準時間午後2時15分

バチカン市国(LifeSiteNews)―バチカンのベテランジャーナリスト、サンドロ・マジステルは、教皇フランシスコを厳しく批判し、次期教皇が取り組むべき重要な問題を強調した枢機卿たちに送られた2022年の覚書の著者は、故ジョージ・ペル枢機卿だったと報告している。

1月11日に自身のブログに書き込んだマジステルは、火曜日に亡くなったペルが、マジステルが2022年3月に報告した覚書の著者であると述べた。この覚書は「デモス」という仮の名前で執筆されたもので、フランシスコのバチカンに対する数々の批判と、次期教皇が取り組むべきテーマを提示していた。

マジステルはこう書いている。

将来のコンクラーベを前に、昨年の春に枢機卿たちの間で流布された教皇フランシスコを強く批判する「デモス」と署名され、セブンス・ヘブン社(Seventh Heaven:Settimo Cielo(第七天国))が3月15日に出版したあの覚書の著者はペルだった。

この覚書の背後にはペルがいるとの憶測もあったが、マジステルの暴露により、この問題は一件落着となりそうだ。

マジステルはLifeSiteNewsへのコメントで、「個人的にペルからデモスの署名入りの覚書(原文は英語)を受け取り、本当の著者の名前を秘密にすることを条件に、公表する許可を得た」と述べている。

原文の覚書は「最初の一行から最後の一行まで、すべて彼(ペル)一人で書いたものだ」とマジステルは言った。

「デモス」メモと枢機卿たちへの助言

この覚書がマジステルのブログで公開されたとき、このバチカン専門家は、「デモス」が「このテーマの徹底的な専門家」であることを示しており「彼が枢機卿であることを否定することはできない」と書いた。

マジステルは、この覚書が四旬節の初めから選挙権を持つ枢機卿の間で回覧されていたと述べている。

メモの内容は、教皇フランシスコ率いるバチカンに対して、確固たる、正確な、非難を浴びせるものである。冒頭、そうした批判を要約して、「デモス」はこう述べている。

あらゆる学派の論者たちは、たとえ理由は違っていても――スパダロ神父(イエズス会)はおそらく例外であろうが――この教皇職は多くの点で、あるいはほとんどの点で、大災難である、大惨事であるという点で一致している。

著者は、こう論じている。ローマは教皇の座として、以前は明晰な声を発していたが、今日では混乱の促進者である。以前は「Roma locuta. Causa finita est.」(ローマは語った、一件は片付いた)であった。今日は、「Roma loquitur. Confusio augetur.」(ローマが語る、混乱が拡大)である

フランシスコはヨハネ・パウロ二世の「キリスト中心の遺産」を弱めている

デモスは、フランシスコのバチカンがこの混乱を促進している六つの主要なポイントを概説し、さまざまな高位聖職者によって広められている道徳的・教理的な誤謬を前にした、フランシスコの寛容と沈黙から始めている。

デモスは、シノドスの道においてドイツ司教団が推し進めた異端と、ジャン・クロード・オロリッシュ枢機卿の同性愛の推進に言及した。「教皇庁は沈黙している」とデモスは書いており、「聖伝主義者や観想修道会に対する積極的な迫害と比べるとき、その事実は際立っている」という。

この覚書の著者はまた、ローマ家族研究所や教皇庁生命アカデミーなど、かつてはプロライフの機関であったものが乗っ取られていることを強調した。これを受けてデモスは、「信仰と道徳における聖ヨハネ・パウロ二世のキリスト中心の遺産は、組織的な攻撃にさらされている」と断じたのだ。

「バチカンの政治的威信は今や低水準にある」

この覚書を執筆したのはペルであるというマジステルの発言は、バチカンの法的・財政的腐敗の状態について「デモス」が提示する詳細な内容の量を考えると、説得力を持つようになる。ペルはバチカンの財政改革実行の中心人物であり、広範な不正行為、つまり現在バチカンで起きている二つの重大な訴訟事件の対象となっている不正行為を明らかにしたのである。

挙げられた詳細な内容の多くは、ペルが取り組んでいた金融腐敗対策を反映したものである。この覚書には、フランシスコがペルの主要な反対者の一人だったアンジェロ・ベッチウ大司教(当時)を支持し、財政改革のプロセスに反対したことが記されている。フランシスコはその後、「ベッチウに敵対した」とメモは続ける――ただし、覚書が公開された後、ベッチウは汚職の罪で裁判にかけられていたにもかかわらず、フランシスコによって復帰させられている。

この腐敗はバチカンの政治状況にも波及し、フランシスコとバチカンは今や世界の政治圏で「無視される存在」になっていると「デモス」は主張する。フランシスコは「人権」を支持する決定よりも、「政治的に正しい」(politically correct)決定を好んだと、覚書は主張した。

その証拠に、バチカンは「70年以上にわたって教皇職に忠誠を誓ったために断続的に迫害を受けてきた」中国のカトリック信者を実質的に見捨てている。

「デモス」はまた、聖伝のミサに熱心にあずかっているカトリック信者の扱いと、バチカン自体における典礼の制限の両方を批判している。「現在、この偉大なバシリカは、早朝は砂漠のようである」とデモスは書き、後でこう付け加えた。

教皇は神学生や若い司祭の間でほとんど支持されておらず、バチカン教皇庁には広範な不満(離反)が存在する。

次のコンクラーベへのアドバイス

「枢機卿会は異様な枢機卿らが指名されることによって弱体化した」という言葉で、次の教皇を選出する任務を負った枢機卿たちのために、「デモス」は【次期教皇にとって】本質的に【必要なものの】チェックリストをいうべきものを開始した。

第二バチカン公会議以降、カトリック当局は、特に西洋世界における世俗化、この世、肉、悪魔という敵意ある勢力をしばしば過小評価し、カトリック教会の影響力と力を過大評価してきた。

フランシスコを狙い撃ちにしたように見える「デモス」は、次期教皇は「キリスト教とカトリックの活力の秘訣が、キリストの教えとカトリックの実践に忠実であることから生まれることを理解しなければならない。それはこの世への適応や金銭から来るものではない」と書いている。

そのため、「デモス」は新教皇がまず速やかに「正常性を回復させること、信仰と道徳における教理上の明確さを回復させ、法を正しく尊重することを回復させ、司教の指名の第一の基準が使徒継承の聖伝を受け入れることにあることを保証する」よう枢機卿たちに教示した。

「デモス」はまた、シノドスのプロセス、特にドイツのシノドスの道に狙いを定めている。このまま歯止めなく進んで行けば、「もしこのような異端をローマが正さなければ、教会は、正教会のモデルではなく、おそらく英国国教会やプロテスタントのモデルに近い、さまざまな見解を持つ地方教会の緩やかな連合体にまで貶められるであろう」と彼は書いている。これは、ペルが死ぬ前に書き、死の翌日に発表した「シノダリティーに関するシノドス」を「有害な悪夢」と表現した批判と同じである。

司祭召命の減少に言及しながら、「デモス」は、「イエズス会に対する訪問調査【制裁を見据えた実態調査】の実現可能性について真剣に検討する」よう呼びかけた。それは、イエズス会が「高度に中央集権的であり、上からの改革や損害の影響を受けやすい」からである。

デモスは最後に、バチカンで必要とされている重要な「財政」改革に再び言及したが、そのような問題は、「特に第一世界の【先進国での】教会が直面している霊的、教理的脅威と比べれば、はるかに重要度は低い」と明確に述べた。

【参考情報】デモス覚書:枢機卿会のフランシスコ疲れ(モンシニョール・ニコラ・ブックス)この覚書が次期教皇の選択に影響を与える可能性は?次のコンクラーベで優先事項とすべきことは? - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


聖ピオ十世の公教要理 秘跡の部 第三章・堅振からの抜粋:堅振の秘跡とは何ですか?

2023年01月12日 | カトリックとは

聖ピオ十世の公教要理 秘跡の部 第三章・堅振

578 堅振の秘跡とは何ですか。
堅振とは、聖霊を授け、霊魂にイエズス・キリストの兵士としての印章を刻み付け完全なキリスト信者にする秘跡です。
579 どうして堅振によって完全なキリスト信者になるのですか。
堅振によって完全をキリスト信者になるのは、信仰がかためられ、洗礼において受けた徳と賜物を一層ゆたかに授けられるからで、堅振という名称もそこに由来します。
580 堅振において受ける聖霊の賜物とは何ですか。
堅振において受ける聖霊の賜物とは、上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏。
581 この秘跡の質料は何ですか。
この秘跡の質料は、司教による接手と受ける人の額にする聖香油の塗油です。
582 聖香油とは何ですか。
聖香油とは、司教が聖木曜口に香(バルサム)を混ぜて聖別したオリーブ油のことです。【カトリック教会の全歴史を通じて一致している聖伝により、唯一オリーブ油だけを堅振の秘蹟の質料として使用している。しかし、1972年11月30日、パウロ六世は全ての植物油の使用を認可したので、秘蹟の有効性に対する疑念はより深刻なものとなった。】
583 この秘跡に用いられる油と香は何を示しますか。
この秘跡で注がれる油は、聖霊の恩寵がゆたかに注がれ、信仰をかためることを示します。一方、香り高く、腐敗することのない香は、堅振を受けた人が、恩寵に強められ、キリスト教的な徳の香りを放ち、悪徳による腐敗から逃れることを示します。
584 堅振の形相は何ですか。
堅振の形相は、「われなんじに十字架のしるしをなし、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、救かりの聖香油をもってなんじに堅信を施す」です。[N., I sign thee with the sign of the + Cross and I
confirm thee with the Chrism of salvation. In the name of the + Father and of the + Son and of the Holy + Ghost.]
【1971年8月15日には「たまものである聖霊のしるしを受けなさい」N., be sealed with the Gift of the Holy Spirit. + ということばに変わった。この新しい「形相」は東方教会の堅振(chrismation)の形式文から来るとされる。】
585 堅振の秘跡を授けるのはだれですか。
通常、堅振の秘跡を授けるのは司教だけです。
586 どのようにして堅振の秘跡を授けますか。
堅振の秘跡を執行するには、司教が最初に受堅者たちの上に手を延ばし、聖霊を呼び求めます。次に司教は、それぞれの額に聖香油を十字架のしるしをして塗りながら、形相のことばを唱えます。それから司教は堅振を受けた人のそれぞれのほおを右手で軽く打ちながら「あなたに平和あれ」と言います。最後に司教は堅振を受けた人をすべて荘厳に祝福します。
587 なぜ額に塗油しますか。
額は恐れと恥しさのしるしのあらわれる部分ですから、額に塗油するのは、堅振を受ける人がキリスト信者の名と身分を恥じないだけでなく、信仰の敵を恐れることがないようにという意味です。
588 堅振を受ける人の頬を軽く打つのはなぜですか。
堅振を受ける人の頬を軽く打つのは、イエズス・キリストヘの信仰のために受ける屈辱や労苦をおおしく耐え忍ぶべきことを教えるためです。
589 信者はみな堅振の秘跡を受けなければなりませんか。
信者はみな堅振の秘跡を受けなければなりません。また、目下の人にも受けさせるようにしなければなりません。
590 堅振の秘跡は何才のとき受けるのが望ましいですか。
堅振の秘跡は七才ぐらいのとき受けるのが望ましいでしょう。それは七才ぐらいになれば、誘惑を感じ始めるのが普通である上に、秘跡の与える恩寵についても充分自覚でき、秘跡を受けたことをあとになっても憶えていることができるからです。
591 日本では何才頃授ける習慣になっていますか。
日本でも、物事をわきまえる年令になってから授けられますが、成人の場合は、受洗後、機会のあるときに受けることができます。
592 堅振を受けるにはどのような準備が必要ですか。
堅振を受けるには、成聖の恩寵をもち、信仰の主要な奥義をよく学び、尊敬と信仰心をもつ必要があります。
593 堅振を二度受けると罪になりますか。
堅振は霊魂に印章を刻み付ける秘跡の一つですから、一度だけしか受けることはできません。二度受ければ汚聖の罪を犯すことになります。
594 堅振で受けた恩憲を保つために何をすべきですか。
堅振で受けた恩寵を保つためには、祈りの精神を持ち、善業を行ない、世間体を気にせずにイエズス・キリストの掟に従わなければなりません。
595 なぜ堅振にも代父母がありますか。
それは、代父母がことばと模範によって、堅振を受ける人に救いの道を歩ませ、霊的な闘いにおいても助けるためです。
596 代父母になる条件は何ですか。
代父母は、役目にふさわしい年令に達している堅振を受けたキリスト者で、キリストの教えを知り、キリスト教的な模範的な生括を送る人でなければなりません。
597 代父母と堅振を受ける人との間に親族関係が生まれますか。
代父母と堅振を受ける人との間には、霊的な親族関係が生まれますが、婚姻の障害にはなりません。

「幼児洗礼そして堅振について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年01月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年1月8日(聖家族の祝日)に東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計102人でした。大阪では26人でした。

明日、2023年1月13日は主の洗礼の記念、聖ピオ十世会日本「暁の星の聖母修道院」の創立記念日です。明日で二周年です。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りとご支援に感謝申し上げます。

さて、1月28日、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂では、午前10時30分から堅振の秘跡が始まります。
堅振の秘跡を受けようとする方々は、その前に必ず告解の秘跡を受けてください。できる方は前日の金曜日の夕方のミサの前に告解をすまし、土曜日にしか告解をすることができない受堅者のために配慮をお願い致します。

1月29日、東京では入谷ホールの三階で、午前9時から堅振の秘跡の儀式が開始します。
堅振の秘跡を受けようとする方々は、その前に必ず告解の秘跡を受けてください。できる限り事前に(例えば、1月22日の主日に、あるいは平日に修道院で)良い告解を受けてください。1月22日の主日には、二回目のミサのあとで、受堅者の方々のために、堅振の儀式の簡単なリハーサルを予定しています。

堅振の秘跡を良く受ける準備として、1月19日から27日までノベナとっして、毎日 Veni Creator Spiritus(聖霊の御降臨を望む祈り:公教会祈禱文210ページ)を唱えましょう。

https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/aa9227536bdf03f597ea1449886b7cd0
https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/e36059f2b418a94d56f3d5a183b29a78

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 102 including children.

09:00 mass
M: 26 (incl. 6 children)
F: 23 (incl. 5 children)
Total: 49 (incl. 11 children)

11:30 mass
M: 27 (incl. 3 children)
F: 27 (incl. 3 children)
Total: 54 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 1 person who participated in multiple masses)
M: 52 (incl. 9 children)
F: 50 (incl. 8 children)
Total: 102 (incl. 17 children)


堅振の秘跡について [1] 秘跡とは何か?堅振の秘跡とは? 堅振の秘跡の効果とは?秘跡は常に恩寵を生み出しますが,自分の 良い心構えに応じてこの恩寵を受けます。 堅振の秘跡をよく準備するためには?

2023年01月09日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年1月8日は聖家族の祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖家族の祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

参考資料:  聖霊に対するノベナ

 


聖伝ミサで奉読される主日および祝日の書簡と福音をご紹介いたします。

2023年01月06日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖伝ミサで奉読される主日および祝日の書簡と福音をご紹介いたします。

1.移動祝日 書簡 福音
待降節第1主日 ローマ13:11~14 ルカ21:25~33
待降節第2主日 ローマ15:4~3 マテオ11:2~10
待降節第3主日 フィリッピ4:4~7 ヨハネ1:19~28
待降節第4主日 1コリント4:1~5 ルカ3:1~6
主の御降誕(12月25日)1.夜中 ティト2:11~15 ルカ2:1~14
2.夜明け ティト3:4~7 ルカ2:15~20
3.日中 ヘブライ1:1~12 ヨハネ1:1~14
御降誕の8日間中内の主日 ガラツィア4:1~7 ルカ2:33~40
主の割礼の祝日(1月1日) ティト2:11~15 ルカ2:21
イエズスの御名の祝日 使徒行録4:8~12 ルカ2:21
主の御公現(1月6日) イザヤ50:1~6 マテオ:1~12
聖家族の祝日(御公現後の第1主日) コロサイ3:12~17 ルカ2:42~52
御公現後第2主日 ローマ12:6~16  ヨハネ2:1~11
御公現後第3主日 ローマ12:16~21  マテオ8:1~13
御公現後第4主日 ローマ13:8~10  マテオ8:23~27
御公現後第5主日 コロサイ3:12~17  マテオ13:24~30
御公現後第6主日 1テサロニケ1:2~10  マテオ13:31~35
七旬節の主日 1コリント9:24~27, 10:1~5  マテオ20:1~16
六旬節の主日 2コリント11:19~33, 12:1~9  ルカ8:4~15
五旬節の主日 1コリント 13:1~13  ルカ18:31~43
灰の水曜日 ヨエル2:12~19 マテオ6:16~21
四旬節第1主日 2コリント6:1~10  マテオ4:1~11
四旬節第2主日 1テサロニケ4:1~7 マテオ17:1~9
四旬節第3主日 エフェゾ5:1~9 ルカ11:14~28
四旬節第4主日 ガラツィア4:22~31 ヨハネ6:1~15
御受難の主日 ヘブライ9:11~15 ヨハネ8:46~59
枝の主日 フィリッピ2:5~11 マテオ26:36~75, 27:1~54
聖木曜日 1コリント11:20~32 ヨハネ13:1~15
聖金曜日 - ヨハネ18:1~40, 19:1~42
聖土曜日 コロサイ3:1~4 マテオ28:1~7
御復活の主日 1コリント5:7~8 マルコ16:1~7
御復活後第1主日(白衣の主日) 1ヨハネ5:4~10 ヨハネ20:19~31
御復活後第2主日 1ペトロ2:21~25 ヨハネ10:11~16
御復活後第3主日 1ペトロ2:11~19 ヨハネ16:16~22
御復活後第4主日 ヤコボ1:17~21 ヨハネ16:5~14
御復活後第5主日 ヤコボ1:22~27 ヨハネ6:23~30
主の御昇天 使徒行録1:1~11 マルコ16:14~20
御昇天後の主日 1ペトロ4:7~11 ヨハネ15:26~27, 16:1~4
聖霊降臨の主日 使徒行録2:1~11 ヨハネ14:23~31
三位一体の主日 ローマ11:33~36 マテオ28:18~20
聖霊降臨後第1主日 1ヨハネ4:8~21 ルカ6:36~42
御聖体の祝日 1コリント11:23~29 ヨハネ6:56~59
聖霊降臨後第2主日 1ヨハネ3:13~18 ルカ14:16~24
イエズス・キリストの至聖なる聖心 エフェゾ3:8~12, 14~19 ヨハネ19:31~37
聖霊降臨後第3主日 1ペトロ5:6~11 ルカ15:1~10
聖霊降臨後第4主日 ローマ8:18~23 ルカ5:1~11
聖霊降臨後第5主日 1ペトロ3:8~15 マテオ5:20~24
聖霊降臨後第6主日 ローマ6:3~11 マルコ8:1~9
聖霊降臨後第7主日 ローマ6:19~23 マテオ7:15~21
聖霊降臨後第8主日 ローマ8:12~17 ルカ16:1~9
聖霊降臨後第9主日 1コリント10:6~13 ルカ19:41~47
聖霊降臨後第10主日 1コリント12:2~11 ルカ18:9~14
聖霊降臨後第11主日 1コリント15:1~10 マルコ7:31~37
聖霊降臨後第12主日 2コリント3:4~9 ルカ10:23~37
聖霊降臨後第13主日 ガラツィア3:15~22 ルカ17:11~19
聖霊降臨後第14主日 ガラツィア5:16~24 マテオ6:24~33
聖霊降臨後第15主日 ガラツィア5:25~26, 6:1~10 ルカ7:11~16
聖霊降臨後第16主日 エフェゾ3:13~21 ルカ14:1~11
聖霊降臨後第17主日 エフェゾ4:1~6 マテオ22:34~46
聖霊降臨後第18主日 1コリント:4~8 マテオ9:1~8
聖霊降臨後第19主日 エフェゾ4:23~28 マテオ22:1~14
聖霊降臨後第20主日 エフェゾ5:15~21 ヨハネ4:46~53
聖霊降臨後第21主日 エフェゾ6:10~11 マテオ18:23~35
聖霊降臨後第22主日 フィリッピ1:6~11 マテオ22:15~21
聖霊降臨後第23主日 フィリッピ3:17~21, 4:1~3 マテオ9:18~26
聖霊降臨後第24主日 コロサイ1:9~14 マテオ24:15~35
     
2.聖人共通ミサ    
聖母マリアの通常ミサ シラ24:14~16 ルカ11:27~28
教皇 1ペトロ5:1~4, 10~11 マテオ16:13~19
司教殉教者Ⅰ ヤコボ71:12~18 ルカ14:26~33
司教殉教者Ⅱ 2コリント1:3~7 マテオ16:24~27
司教でない殉教者Ⅰ 知恵10:10~14 マテオ10:34~42
司教でない殉教者Ⅱ 2ティモテ2:8~10, 3:10~12 マテオ10:26~32
殉教者(復活節) 知恵5:1~5 ヨハネ15:1~7
多数殉教者Ⅰ 知恵3:1~8 ルカ21:9~19
多数殉教者Ⅱ 知恵5:16~20 ルカ6:17~23
多数殉教者Ⅲ ヘブライ10:32~38 ルカ12:1~8
多数殉教者(復活節) 1ペトロ:3~7 ヨハネ15:5~11
司教証聖者Ⅰ シラ44:16~27, 45:3~20 マテオ25:14~23
司教証聖者Ⅱ ヘブライ7:23~27 マテオ24:42~47
教会博士 2ティモテ4:1~8 マテオ:13~19
司教でない証聖者Ⅰ シラ1:8~11 ルカ12:35~40
司教でない証聖者Ⅱ 1コリント:9~14 ルカ12:32~34
大修院長 シラ45:1~6 マテオ19:27~29
童貞殉教者Ⅰ シラ51:1~8、12 マテオ25:1~13
童貞殉教者Ⅱ シラ51:13~17 マテオ13:44~52
多数童貞殉教者 1コリント7:25~34 マテオ25:1~13
殉教者でない童貞女Ⅰ 2コリント10:17~18, 11:1~2 マテオ25:1~13
殉教者でない童貞女Ⅱ 1コリント:25~34 マテオ13:44~52
殉教女 シラ51:1~8、12 マテオ13:44~52
普通聖女 格言31:10~31 マテオ13:44~52
聖なる寡婦 1ティモテ5:3~10 マテオ13:44~52
死者ミサ 黙示録14:13 ヨハネ6:51~55
献堂式のミサ 黙示録21:2~5  ルカ19:1~10
結婚ミサ エフェゾ5:22~33 マテオ19:3~6
葬儀ミサ 1テサロニケ4:13~18 ヨハネ11:21~27
年忌ミサ 2マカベオ2:43~46  ヨハネ:37~40
     
3.固定祝日    
1月    
18日 ローマにおける聖ペトロ教座 1ペトロ:1~7 マテオ16:13~19
23日 聖母の御結婚 格言8:22~35  マテオ1:18~21
25日 聖パウロの回心 使徒行録9:1~22 マテオ19:27~29
2月    
 2日 童貞聖マリアの御潔め マラキア3:1~4 ルカ2:22~32
 5日 殉教者日本二十六聖人 知恵5:16~20 ルカ6:17~23
11日 無原罪童貞聖マリアの ルルドにおける御出現 黙示録11:19, 12:1~10 ルカ1:26~31
24日 使徒聖マチア(閏年は25日) 使徒行録1:15~26 マテオ11:25~30
3月    
17日 日本信者発見の記念 シラ24:14~16 ルカ11:27~28
19日 童貞聖マリアの浄配 証聖者聖ヨゼフ シラ45:1~6 マテオ1:18~21
25日 童貞聖マリアの御告げ イザヤ7:10~15 ルカ1:26~38
 聖母の七つの御苦しみ ユディト13:22~25 ヨハネ19:25~27
4月    
25日 福音史家聖マルコ エゼキエル1:10~14 ルカ10:1~9
5月    
 1日 勤労者聖ヨゼフ シラ45:1~6 マテオ1:18~21
 3日 聖十字架発見 フィリッピ2:5~11 ヨハネ3:1~15
11日 使徒聖フィリッポと使徒聖小ヤコボ 知恵5:1~5 ヨハネ14:1~13
31日 元后なる童貞聖マリア シラ24:5~7, 9~11, 30~31 ルカ1:26~33
6月    
11日 使徒聖バルナバ 使徒行録11:21~26, 13:1~3 マテオ10:15~22
24日 洗者聖ヨハネの誕生 イザヤ49:1~3, 5~7 ルカ1:57~68
29日 使徒聖ペトロと聖パウロ 使徒行録12:1~11 マテオ16:13~19
30日 使徒聖ペトロの記念 ガラツィア1:11~20 マテオ10:16~22
7月    
 1日 イエズス・キリストの いと尊き御血 ヘブライ9:11~15 ヨハネ9:30~35
 2日 童貞聖マリアの御訪問 雅歌2:8~14 ルカ1:39~47
16日 カルメル山の聖母の記念 シラ24:23~31 ルカ11:27~28
25日 使徒聖ヤコボ 1コリント4:9~15 マテオ20:20~23
26日 童貞聖マリアの御母聖アンナ 格言31:10~31 マテオ13:44~52
8月    
 6日 イエズス・キリストの御変容 2ペトロ1:16~19 マテオ17:1~9
10日 殉教者聖ラウレンチオ 2コリント:6~10 ヨハネ12:24~26
15日 童貞聖マリアの被昇天 ユディト13:22~25, 15:10 ルカ1:41~50
16日 童貞聖マリアの御父聖ヨアキム シラ31:8~11 マテオ1:1~16
22日 聖母マリアの汚れなき御心 シラ24:23~31 ヨハネ19:25~27
24日 使徒聖バルトロメオ 1コリント12:27~31  ルカ6:12~19
9月    
 8日 童貞聖マリアの御誕生 格言8:22~35  マテオ1:1~16
12日 童貞聖マリアの至聖なる御名 シラ24:23~31  ルカ1:26~38
14日 聖十字架称賛 フィリッピ2:5~11  ヨハネ12:31~36
15日 童貞聖マリアの七つの御悲しみ ユディト13:22~25 ヨハネ19:25~27
21日 使徒福音史家聖マテオ エゼキエル1:10~14 マテオ9:9~13
29日 大天使聖ミカエル 黙示録1:1~5 マテオ18:1~10
10月    
  2日 守護の天使 脱出23:20~23 マテオ18:1~10
 3日 童貞幼きイエズスの聖テレジア イザヤ66:12~14 マテオ18:1~4
 7日 ロザリオの聖母 格言 8:22~24, 32~35 ルカ1:26~38
11日 天主の御母たる童貞聖マリア シラ24:23~31 ルカ2:43~51
16日 聖マリアの清浄 雅歌2:10~14 ルカ1:26~35
18日 福音史家聖ルカ 2コリント8:16~24 ルカ10:1~9
24日 大天使聖ラファエル トビア12:7~15 ヨハネ5:1~4
28日 使徒聖シモンと使徒聖ユダ エフェゾ4:7~13 ヨハネ15:17~25
最終主日    王たるキリストの祝日 コロサイ1:12~20 ヨハネ18:33~37
11月    
 1日 諸聖人の祝日 黙示録7:2~12 マテオ5:1~12
 2日 全ての死せる信徒の記念 第1ミサ  1コリント15:51~57 ヨハネ5:25~29
第2ミサ   2マカベオ2:43, 46 ヨハネ6:37~40
第3ミサ   黙示録14:13 ヨハネ5:51~55
21日 童貞聖マリアの奉献 シラ24:14~16 ルカ11:27~28
30日 使徒聖アンドレア ローマ10:10~18 マテオ4:18~22
12月    
 3日 証聖者聖フランシスコ・ザビエル ローマ10:10~18 マルコ16:15~18
 8日 童貞聖マリアの無原罪の御孕り 格言8:22~35 ルカ1:26~28
21日 使徒聖トマ エフェゾ2:19~22 ヨハネ20:24~29
26日 最初の殉教者聖ステファノ 使徒行録6:8~10, 7:54~59 マテオ23:34~39
27日 使徒福音史家聖ヨハネ シラ15:1~6 ヨハネ21:19~24
28日 幼子殉教者 黙示録14:1~5 マテオ2:13~18

われわれはその星を東に見たのでおがみにきた。Vidimus enim stellam ejus in oriente, et venimus adorare eum.

2023年01月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

Vidimus enim stellam ejus in oriente, et venimus adorare eum.
われわれは、その星を東に見たので、おがみにきた。

愛する兄弟姉妹の皆様、

主の御公現の祝日、おめでとうございます。
マテオによる聖福音(バルバロ訳)にはこうあります。
「イエズスは、へロデ王のとき、ユダヤのベトレヘムでお生まれになった。そのころ、東の国の博士たちが、イエルザレムに来て、「お生まれになったユダヤの王さまはどこにおいでになるのか。われわれは、その星がのぼるのを見たので、おがみにきた」とたずねた。」(マテオ2:1-2)

ラテン語では、Vidimus enim stellam ejus in oriente, et venimus adorare eum.
その直訳は「われわれは彼の星を東に見たので、彼をおがみにきた」です。
聖書のこの箇所を読むと、二年前(2021年1月13日)に設立された「暁の星の聖母の修道院」のことを自然に思い出します。

次のように理解したくなってしまいます。
Vidimus enim Stellam Matutinam ejus in Japonia, et venimus adorare eum.
「われわれは主の "暁の星" を日本に見たので、主をおがみにきた」と。

昨日の1月5日には修道院で朝7時15分のミサの時に、故ベネディクト十六世のためのレクイエム・ミサを捧げました。

ベネディクト十六世は、聖伝のミサが「決して廃止されたことがない」「その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続ける、それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえない」と発言しました。
そのことは、カトリック教会にとってもっとも有益なことでした。

「われわれは主の "暁の星" を日本に見たので、聖伝のミサで主をおがみにきた。」




 


私たちは東の国の博士たちと心を合わせて、次のように信仰宣言をします。

カトリック信仰宣言(トレント公会議の信仰宣言)

私(氏名)は聖なるローマ教会で使われている信経[すなわちニケア・コンスタンティノープル信経]に含まれることすべてと、その各部分を固く信じ、宣言します。すなわち、

我は、唯一の全能の聖父(ちち)なる天主、すなわち、天と地、見ゆるものと見えざるものの創り主を信じ奉る。また、天主の御一人子、唯一の主イエズス・キリストを。すなわち代々の前に聖父より生まれ、天主よりの天主、光よりの光、真の天主よりの真の天主、創られずして生まれ、聖父と同一実体なり、全ては主によりて創られたるなり。主は、我ら人間のため、又我らの救いのために天より下り、聖霊によりて御托身し給い、童貞マリアより、人となられ給うた。更には我らのためにポンシオ・ピラトの管下にて十字架に付けられ、苦しまれ、葬られ、聖書にありし如く三日目に蘇り、天に上がり、聖父の右に座し、生ける人と死せる人とを裁かんために栄光を伴って再び来たり給う。その主の御国は終わることなからん。
また、生命の与え主(ぬし)なる主なる聖霊を。聖霊は聖父と聖子とより発出し、聖父と聖子と共に礼拝され、共に栄光を受け給い、予言者を通して語り給いし。また、一、聖、公、使徒継承の教会を信じ奉る。我は唯一の罪の赦しのための洗礼を宣言し、死者の蘇りと来世の生命とを待ち望み奉る。アーメン。

私は、同じ教会の、使徒継承のおよび教会制定の聖伝、その他の規定と憲章を固く認め、受入れます。私は聖書を、聖にして母なる教会が今まで主張し、今も主張している意味に従って認めます。聖書の真の意味を決定し、解釈するのは教会の任務です。私は、教父たちの一致した意見以外の意味で、聖書を受入れたり、解釈したりすることを、決してしません。

全人類の救いのために、私たちの主イエズス・キリストが制定した新約の秘跡が七つであることを信じます。すなわち、洗礼、堅振、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の七つがあり、すべての人にすべての秘跡が必要ではないけれども、聖寵を与えるものであることを信じます。洗礼、堅振、叙階を繰返して授けることは汚聖の罪であることを。上にあげた秘跡の荘厳な執行にあたって、カトリック教会が認めている儀式を受入れ、認めます。

原罪と義化について、トレント公会議において決議され、宣言された全体と各部分を信じ、受入れます。
ミサにおいて生者と死者のための真実で正しい宥(なだ)めのいけにえが、天主にささげられること。至聖なる聖体の秘跡の中に真実に、現実に、実体的に私たちの主イエズス・キリストの体と血が、その霊魂と神性とともに実在すること。パンの全実体が体に、ブド一酒の全実体が血に変化し、この変化をカトリック教会が全実体変化と呼んでいることを信じます。一つの形色のもとにキリストの全体と真の秘跡を受けることを信じます。

煉獄が存在し、そこに留められている霊魂らを信者の代祷によって助けることができると固く信じます。キリストとともに天国にいる聖人を尊敬し、彼らに祈りをささげるべきこと、また聖人は私たちのために天主に祈っていること、聖人の遺物を尊ぶべきことを信じます。キリストと終生童貞である天主の御母および他の聖人たちの像を持ち、保存すべきであり、それに対してふさわしい栄誉と崇敬をささげるべきであると強く主張します。贖宥の力がキリストによって教会に残され、それを活用することはキリスト信者にとって非常に有益であると確信します。

聖、カトリック、使徒継承のローマ教会は、すべてのキリスト教会の母であり、教師であることを承認します。使徒たちの頭である聖ぺトロの後継者であり、イエズス・キリストの代理者である教皇にまことの服従を誓います。

さらには、諸公会議、特に聖なるトレント公会議および第一バチカン公会議によって定義され宣言された聖なる規定(カノン)に含まれる、すべての伝えられた教え、特に教皇の首位権と不可謬権についての教えを、疑うことなく保持し、宣言します。同時に、これに反するすべての意見、および教会によって非難され、排斥され、呪われたすべての異端を、非難、排斥し、呪います。

これなしには誰も救われることがない、この真のカトリックの信仰を、今ここに、私は自発的に宣言し、真実に信じます。私(氏名)はこの信仰を、天主の助けによって、最後の息を引きとるまで、完全に、傷つけることなく堅く守り、宣言します。また私に従属する者および私がその責任を持つ者たちによって、これが信じられ、教えられ、公けに宣言される、全力を尽くすことを誓い、約束します。天主と天主の聖福音書が私を助けてくださるように。


近代主義の誤謬に反対する誓い(聖ピオ十世による)

 我 (某) は、教会の無謬の教権によりて定義、確認、宣言されし事を、就中今の時代の謬説に直に反対せる主要なる教義を、悉く、一つ残らず堅く信じ、受け入れん。

 先づ第一に、万物の原因且つ目的たる天主の存在は、結果より原因を知るが如く、理性の自然の光によりて「造られし物を通じ」(ローマ1・20参照)、即ち目に見ゆる被造物を通じ、確実に知り得る事、また故に証明可能たる事を、我は宣言す。

 第二に、啓示の外的論証、即ち天主がなし給いし御業、とりわけ奇蹟と預言とは、キリスト教が天主に由来せん事のいとも確実なる徴しと自認し承認す。またこの同じ外的論証が、全ての世と全ての人間の知性に、今の世と今の世の人間の知性と雖も之にいと相応しきものたる事を、我は堅く信ず。

 第三に、啓示されし御言葉の保護者かつ教師たる教会を、主が我らの内に住み給ひし時、真の歴史的キリスト御自身が、主御自ら直接に制定されし事、及びその同じ教会が使徒位階制度の頭たるペトロと、時の終りに至るまで全ての後継者らの上に建てられし事を、我は堅き信仰をもって信ず。

 第四に、使徒達より、正統信仰の教父達を通じ、常に同じ意味及び解釈に従いて我らに至るまで伝えられし信仰の教義を、我は誠実に受け入れん。故に、教義が、教会が初めに保持せしものとは異なり、一の意味より他の意味へと進化すると説く異端説を、我は拒否す。同じく、キリストの花嫁たる教会に任され、これによって忠実に守らるべき天主の信仰の遺産を、人間の努力により徐々に形作られ将来に亘る無限の発展によりて完成さるべきとする謬説を、我は全て排斥す。

 第五に、信仰が、心の欲求と意志の衝動との下で道徳的に未発達なる潜在意識の奥底より湧き出づる盲目的宗教感情にあらざる事、またかえって信仰とは聴覚を通じ外的に受けた真理に対する真なる知性の同意たる事、即ち我らの創造主且つ主たる位格的天主が曰い、証明し、啓示し給いし事を、最高の真理なる天主の権威の故に、我ら信じ奉る事を、我は最も確実に堅く信じ且つ誠実に宣言す。

 更に、回勅「パシェンディ」および教令「ラメンタビリ」に含まるる全ての、特に所謂教義の歴史に関する排斥、宣言、規定に対し、我は尊敬の心持て服従し、且つ我が魂全てをもって、之を厳守す。

 同じく、"教会によりて提示されし信仰が歴史と矛盾し得る" と主張する者達の誤謬、また "カトリック教義が今日理解されし意味において、カトリックの宗教のより真正なる起源と調和し得ざる" 旨主張する者達の誤謬を、我は拒絶す。

 また、"信仰者の信仰に矛盾せる事を奉ずる事、若しくは教義をあからさまに否定せぬ限りにおいては教義が誤りたるないしは疑わしきものたるとの結論を導くべき前提を打ち立てる事があたかも歴史家には許さるるが如く、教養あるキリスト教徒は信者と歴史家のの双方の人格を持てり" と主張する者達の説を、我は排斥且つ拒絶す。

 同じく、"教会の聖伝、信仰の類比、更には使徒座の規範を無視すると共に、理性主義者達の意見に従い、随意にまた大胆にも、原典批判をもってのみ唯一最高の規範とする聖書研究・解釈方法" を、我は拒絶す。

 更には、先づ "カトリック聖伝の超自然的起源若しくは啓示されし真理を永久に保存せんが為天主の約束し給うた御助けに就いての先入観を捨てねばならぬ" との説、また "教父一人一人の著作は、その天主からの権威を打ち捨て、科学の諸原則のみに従い、通常世俗の文献を研究せん時に用うる判断の自由をもってこれを行うべき" との説を、我は排斥す。

 最後に、"聖伝には神的なる点無しとの近代主義者達の謬説、或いは、より増して悪しき事には、聖伝に神的な点無しとの説を凡神論的意味において認め、共通の歴史事実に同化さるべき単なる純然たる事実、即ち人間がその働き、技能、才能によりキリスト及びキリストの使徒達によりて始められし学派を後世に継続したとの事実以外には何ものをも認めず" とする説を主張する近代主義者達の謬説には、我は全く反対する事を宣言す。

 故に我は、使徒達に由来せし司教座の継承の内にあり、今もあり、また未来においても常にあり続くべき真理の確実なる徳能(カリスマ)に関する教父らの信仰を最も堅く守り、これを最後の息まで堅く守り抜かん。そは各時代の文化により良く似つかわしく見ゆる事が信ぜらるる為にあらず、むしろ初めより使徒達によりて説かれし不変の真理が、別様に信ぜられ或いは別様に理解さるる事決してあらざらんが為なり。

 上述の全ての事を、忠実、完全、誠実に守り、教えるに当たりてもその他の業においても、話す言葉にても書く言葉にても、決してこれより離るる事なき様守り通さん事を、我は約束す。かく我約束し奉り、かく我誓い奉れば、願わくは、天主と天主の聖なる福音我を助け給え。

聖伝のミサ(トリエント・ミサ)にようこそ! - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


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