新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

「スカーレット」と15代樂吉左衛門の「私の履歴書」

2020年02月12日 | くらし
朝ドラで、喜美子の穴窯の焔が激しく燃え出した頃、時を同じくして樂吉左衛門「私の履歴書」の掲載が始まりました。筆者は樂焼15代当主(昨年16代に家督を譲った今は樂直入)です。日経もピタリと照準を合わせていい企画をしたものだと感嘆です。そして、若かりし頃の筆者に会ったことを思いだしました。

私の半世紀前、独り住まいの学生の味気なさを補うために裏千家の茶道を習い始めました。師匠はその美貌と聡明さから請われて大学時代に結婚されたという先輩です。
先生は茶碗や茶入れについて話され、長次郎の赤樂・黒樂の茶碗の素晴らしさを教えて下さいました。
展覧会で450年前の長次郎の黒樂を見て、人を拒まない吸い込まれそうな柔らかさと優しさと懐の深さを感じ、これが銘品なのだと素人ながら感じ入ったものです。

ある時先生は弟子数人を連れて、知人の息子さんが居るからと東京芸大に案内してくださいました。
芸大のアトリエには数人の学生がそれぞれ作業をしていて教室には芸術家の空気が流れていました。
その「息子」さんは粘土の塊と向かい合っていて「長次郎窯元の息子さん」と紹介されました。窯元の跡継ぎはひたすら修行するという先入観があったので、芸大で学ぶことに不思議な印象を受けたものです。
私は言葉少なの若者の背中に何か鬱屈したものを感じとりました。それがずっと尾を引いていましたが、その人が跡を継いだかどうかもわかりませんでした。その謎が解けたのが今度の「私の履歴書」の連載です。

筆者・15代吉左衛門は、幼少時期から「家を継ぐ」という周りからの目に反発を抱き、次第に「心の鉛」を大きくしていきます。父の東京芸大時代の友との深い友情に憧れを抱き、一浪して芸大彫刻科に入学を果たしました。

筆者は大学1,2年は優等生で過ごし、教授の賞賛と期待の眼差しに「大学が求めるままに仕上がっている」自分への懐疑が生まれ、「表現とは何か」と苦しみ創作できない状態になりました。
当時アメリカの現代アートが日本に入り芸術界は活気づいており、学生運動が全国に広がり筆者も加わります。しかし熱く盛り上がり、そして消えていった学生運動の黄昏を見て、筆者はリュックと「自己懐疑の嵐」を背に欧州放浪の旅に出ます。
スペインでゴヤとガウディを前に、借り物でない「私自身の感動」で自分を確信し、イタリアではの裏千家ローマ出張所で芸大の先輩に出会います。のちに影響を受けることになる野尻命子さんです。
欧州滞在は半年にも及び留年しますが、73年「全くくだらない卒業製作をでっち上げて」大学を卒業します。家を継ぐ決心もできずに逃げ出したい気持ちを留学という名目で、またイタリアに向かいました。

ローマで裏千家の野尻命子師に再会し、茶道を通してそこに集まる建築家、詩人、神父との交流の中で「西欧の眼差しを通して、自分自身の日本的なるものに」目覚めていきます。
結局大学は2ヶ月で行かなくなり相変わらず自己懐疑の渦の中にいました。
ここで2年間日本をまさぐりながら、異なる世界観を自分の身を通して考え続けました。ヒッチハイク、野宿、村、廃墟の景色と人の情などさまざまな体験の中から、日本で着込んだ鎧を少しずつ脱ぎ始めていました。
「ねじ伏せていた主張する自己表現ではなく、優しさを」と思ったときに、抵抗なく樂茶碗を思い浮かべます。これなら作れるかも知れない、家に戻ろうと1976年に帰国しました。(ここまでが11回分です。)

♣♤♤♤♧♧♧♡♡♡♢♢♢♤♤♤♧♧♧♡♡♡♢♢♢♤♤♤♣

右側の茶碗は50年も前に買った高田焼きです。茶碗の膨らみが手にピッタリと馴染む感覚が心地よく、お茶も点てやすく私のお気に入りです。







コメント    この記事についてブログを書く
« Jコムの「チャンネル数と料金の減量化... | トップ | 伊集院静『ミチクサ先生』そ... »