<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



しばらくするとサッとカーテンが開けられ、鍼灸師のおっさん、もとい、先生が入ってきた。
先生は年の頃70才前。
薄い水色の医療着を着ているが、その医療着の前の合わせ方がチャイナ服みたいな形状である上、四角い顔の輪郭といい、短いスポーツ刈りの髪型といい、背の高さといい、肩幅といい、往年の手品師、ゼンジー北京にそっくりなのであった。
ゼンジー北京と違うところは、

「はい、なになにあるよ、みなんさん。私、中国は広島県生まれ、アルネ」
と言わないところだけかもわかならなかった。

そのゼンジー北京風先生はベットの前にやってきて発声一番、

「どないしたんや?」

と質問してきた。

どないしたも、こないしたも、ない。
さっき受付嬢のばあさんに「肩が凝ってますねん」と伝えたばかりではないか。

若干ムカっとして、大丈夫かいな、と思いながらも治療に来ているので診てもらわなければならないので、再説明した。

「肩凝ってるんです。特にこのへん、肩甲骨の辺り。ここが一番ひどくて」

と説明すると先生はおもむろに私残っていると思われる場所を押しながら、

「ここか?」

と背中の一点を押したのであった。
さすが鍼灸師である。
一発で凝っている場所を探し当てた。
探し当てたのはよかったのだが、後が煩かった。

凝っている場所を一発で的中させて自慢してうるさくなったのではない。
あちこち凝っている場所を探すことが煩かったのでもない。
話し出したら止まらない。よくもそんなに話すことがあるものだと、うんざりするくらいおしゃべり、雑談が喧しかったのだ。

「これは凝り過ぎやで。運動しとるんかいな。」

なんと、「しとるんか」とは初対面の患者に対して大胆なタメ口である。

「ん、デスクワークが多くて」
「それや!それがいかん。」
先生はなにやら作業をしながら口も動かしているのだ。
「もうそうやな、そういう人は多いんやけどな。通勤はどないしてるんや?自転車か?自転車はいかんで~。」
「自転車、あきませんか?」
「アカンアカン。歩かなアカン。そうやな、一日に40分以上は歩かんといかんで。あんた」
「あ、あんた....」
「歩くことが一番ええねん。でも現代人は歩けへんからな。お、ここうっ血しているから血抜くな」
「ほんで、自転車で駅まで通勤か」
「いえ、.....実はうちの嫁さんが駅まで自動車で.......」
「おーーー、甘ったれたらアカン!あんたんとこの奥さんはあんたを甘やかせすぎ。あんたも甘えたらアカン。明日から歩くんやで。」
「はー」
「なんやったら、私が奥さんに頼んだろか」

としゃべり続ける。
余計なお世話ではある。

「お、ここうっ血しとるぞ」

そしておもむろに私の背中にエイヤッ!とチックとするものを突き刺した。
背中なので何をしているのかわからない。
やがてマッチを擦る音が聞こえ、チクッとしたところが熱くなってきた。

「ちょっと痛いかもしれんかも。でも我慢してや。ほんでや、仕事はなにしてはんの?」

ノンストップなのであった。
よくこれだけ質問が飛び出し、説教が続き、そして手を動かせ続けるものだと感心した。

「ほれ見。こんなけうっ血してたんや。」

と見せてくれたガラスのカップのようなものにはドロっと血のようなもの付いていた。
鍼灸院というのはこういう治療をするのかとびっくりした。針を使うだけではなく血を吸う器具を使用して疲れをとってしまうのだ。

と、じっくりと驚く暇もなく、先生は私の凝りのひどい部分に針を刺しては話しだす。

「あんた、趣味は何や」

もうええちゅうに。

結局、先生が静かになったのはフランケンシュタイン博士風の機械を使用していた時だけなのであった。
その機械はやっぱり治療に使用する機械で、体の疲労の溜まっている部分に電極をセットして電流を流し、「ズッキン、ズッキン」と刺激していく機械なのであった。
で、先生が静かになったのは機器に頼ったからではなく、ここに居なくなったからであった。
実際にこの機械のセッティングをしたのは受付嬢だったばあさんで、その間先生はもう一人の顔の見えない別の患者の世話をしているのであった。

「あんた、どうしたんや?」

同じ質問をしているのであった。

帰り際も先生は私にくどいように話し続けたのだが不思議と凝りの70%は緩和されており、鍼灸治療が肩こりに非常に有効であることがよくわかったのであった。

「あんた、来週も来なあかんで。ほんで来来週も。しばらく続けんと肩こりは治らんからな。肩こりはあらゆる病気の原因になるし、歩いて駅まで通うんやで。」

支離滅裂だが、なぜか説得力のあるアドバイスなのであった。

「はい、これ診断カード」

受付嬢のばあさんに見送られて木製のガラス引き戸を出た。

昭和レトロな鍼灸院。
家人の推薦した理由が「腕がいいから」か「鍼灸師のオッサン、もとい先生がお節介焼きでオモロイから」か。
後者であるように思えたのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ここ数年ひどい肩凝りに悩まされている。
一昨年の春まではスポーツジムに通っていたので、肩がこるとジムに出かけてマシントレーニングをしたら大方治った。
ところが引っ越しすることになりジムを退会してから、肩こりが慢性化してきのだ。
会社の近くの10分間マッサージ屋さんや、タイ古式マッサージに通っては体の凝りを解してもらえるよう努力していたが効果は今ひとつ。
ついに左手にしびれが出てくるようになったので不安になってきた。
肩こりで病気になってしまうのではないだろうか、と思ったのだ。

「鍼灸院へ行ってみたら」

と家人に言われて、不安感も手伝って、「行きたくないな」という重い腰を上げて近所の鍼灸接骨院に出かけた。

ところで、鍼灸院の方には申し訳なかったのだが、これまで鍼灸院といえば年寄りの行くところ、という印象を持っていた。
今回行くことになって最初に感じたのは、

「あ、おれも鍼灸院に行く年齢になったのか。おおお~のぉ~」

という年齢的な不満足感なのであった。

まだまだ私は働き盛りの40代。
鍼灸院なんて無縁なところと思っていたのに、行くことになるなんて。
というのが正直な気持ちだった。

ともかく、そんなこんなで気持ちがあまり進まないまま薦められた鍼灸院へとぼとぼと歩いた。

「絶対混んでるで。かなり待たんならなんで。いややな、めんどくさいな」

と思いながら歩いた。
先述したように、鍼灸院はお年寄りの行くところ、と思い込んでいたため、待合室は老人で溢れ、さながら老人ホームのサロンとなっているのではないか、というイメージができあがっていたのだ。

薦められた鍼灸院に到着して驚いた。

最近、鍼灸医の数はコンビニよりも多いと言われており過剰競争になっている。
そのため、各鍼灸院のサービスや設備は最新のもの、より快適なものを目指しているということで、外観はカフェやブティックのようなところもあったりする。
ところが、私の到着した鍼灸は全く違ったものであった。

木造平屋、瓦葺。
昔の長屋のような雰囲気で、扉は木のガラス引き戸。
入り口には木の板に書かれた鍼灸院の名前が表示されているのだが、毛筆で書かれた文字は柔道場を彷彿とさせた。
まさに、鍼灸院というよりも「ほねつぎ」という感じだ。

「........なんだこれは.......」

実に昭和な鍼灸院なのであった。

ガラガラ。
と扉を開けて中に入ると、ズラッと老人が並んで座っていた、なんてことはまったくなく、待合室は無人なのであった。
一瞬私は「ここ、なんか問題があんちゃうか。患者、誰もいてへんし。家人は私を殺そうとしてるのではあるまいな。」と思った。
「昨日、仕事から帰ったらオレだけケーキなかったし。」と若干悲壮な気分がしたが、首を振って疑念を払拭。
スリッパに履き替え受付窓を覗き込むと、奥から賑やかな話し声が聞こえてきた。

「ハイハイハイハイ」
と受付嬢と思われる老婆が現れ、
「どうしはったんです。はい?肩こり?それはたいへんですね。中へ入ってくださいな。」
と誘われた。

治療室に入ると中は清潔でカーテンで仕切られたベットが数床並んでいた。
もちろん、中も昭和な雰囲気だった。
ベッドのひとつに座って待つよううながらされた。
ベットの横には50年代の米国製B級SF映画で登場してくるようなボタンやダイヤルがたくさん付いた機械が置かれていた。
治療器のひとつだと思われるのだが、なんとなく、フランケンシュタイン博士の実験室から借りてきたマシンという感じがしなくもない。
不気味だった。

奥で治療をうけていると思われる男性の声が聞こえる。

「ん~~~~」
「凝っとるな」
「ん~~~~」

増々不気味なのであった。

昭和レトロな内装とB級SF映画の実験装置。
ふいにメル・ブルックスの「ヤングフランケンシュタイン」を思い出した。
「凝っとるな」
という鍼灸師の声がなんとなく、ジーン・ワイルダー演じるフランケンシュタイン博士の孫のような声に聞こえたのだ。

私の心臓はドクッドクッとは波打つことはなかったものの、これからどのような治療が始まるのか、不安とも期待ともつかない複雑な感情が交錯していたのであった。

つづく

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




(写真:バンコクのワットプラケオにあるアンコールワットのミニチュア)

東南アジアではいろんな国を旅をした。
タイ、ベトナム、ラオス、シンガポール、マレーシア、そしてミャンマー。
どの国も良い印象が残っていて大好きだ。

それでもインドネシアとブルネイとカンボジアには未だ足を踏み入れたことがない。
理由は特にないのだが、インドネシアは得意先の社長が仕事で時々出かけたときの話をするので、それで十分なような気がしてしまい、未訪問。
ブルネイも多分にビジネスと天然ガスの匂いがつきまとい、行こうと思えず。
カンボジアはアンコールワットに行ってみたいのだが、テレビや写真で観光客がウジャウジャ群がる光景を見ていると、観光シーズンの明日香村を思い出し、訪問する気が失せてしまう。
雑踏見たらサヨウナラ、と言った感じだ。

尤も、カンボジアには国境まで2kmという地点までせまったことがあり、ともすれば入国することも可能だった。
それは初めてベトナムを訪れたときで、カオダイ教の総本山があるタイニンの街に行く途中、

「あの丘の向こうはカンボジアです」

とガイドさんが教えてくれたので。

「ほー、カンボジアが近いんや」

と何故か感心したことを思い出す。
帰って地図をよく見ると、この付近のベトナムとカンボジアの国境は複雑に入り組んでいて、ややこしい地域なんだと確認したものだ。

ややこしいといえば、カンボジアとタイの仲もややこしい。
ちょっと目を離すと国境線沿いでドンパチを始める中の悪いのがこの二国の関係だ。
1970年代から80年代は紅いクメールに追い立てられた数万の難民がタイ側を占拠。
国税は使わなければならなかったし、治安は悪くなるしでタイにとっては迷惑だった。

私にタイ語を教えてくれていたM先生は、ときどきタイとカンボジアに国際問題が生じると授業中にカンボジア人の悪口を言った。
数年前、タイ人の歌手の発言でタイとカンボジアで揉めたことがあったけれども、そのときも柔らかくではあるが、語彙的には結構厳しくカンボジアのことをこき下ろした。
普段物静かな、いかにもマイペンライなタイ人なのに、と驚いたものだ。

歴史を遡ると、そもそもタイ人はカンボジア人にとっては使用人の身分だった。
10世紀だったか9世紀だったか忘れたが、雲南省あたりに起源を発するシャムの人たちは漢族の侵入に逃亡を余儀なくされた。
中国人は今も昔も周辺民族の厄介者という意味では変わらなかったようだ。
で、シャム人が新天地として逃げてきたのが隆盛を誇っていた大帝国のクメール大国。
今の、カンボジア。
その版図は今のカンボジアはもちろんのこと、ラオス、タイ、マレーシアの一部に南ベトナムなどが含まれる広大なものなのであった。
シャムの人たちは、この繁栄する新天地で底辺から再スタートを切り、王国のかなりの地位まで上り詰める。
そしてついに、分離独立し自分たちの国家を建設。
それが11世紀に建国されたスコタイ王朝なのであった。
やがてクメール王国は衰退し、今のカンボジアへと縮小する一方、シャム(タイ)は隣国のビルマ王国やモン王国なとと覇権を競いながら域内最大の国家に成長。
タイと国名を改めた今は、東南アジアの枢軸国にまで発展した。

歴史上のそのヘンが事実がややこしくしているのだと、私は考えている。
正直、どうっちゃでもええやないか、と思うのだが、民族意識というのは妙なコンプレックスを生むものだ。
アンコールワットの最寄りの街、シェムリアップはシャムを征服した街という意味で、ロシアのウラジオストックを彷彿させる国家の野心と歴史を感じさせる。

ということで、国境紛争のニュースはカンボジアのアンコールワットには是非ともバンコクから2泊3日のバスツアーで訪れてみたいと思っている私にとっては、またまた当分、カンボジアには行けない状況が生じてしまったというのが、正直なところだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






以前書いていたブログの記事の中でミャンマーの旅行記を読み直しながら整理しているとサガインヒルの日本パゴダの記述が出てきた。

私は2度目のミャンマー旅行でヤンゴンから列車に乗ってマンダレーへ移動し、さらにそこから船で仏教遺跡の街バガンを訪問した。
サガインヒルはマンダレー滞在中に訪問した場所で、そこには第二次世界大戦で亡くなった日本軍将兵を追悼するいくつかの石碑と、真っ白に塗られ、祖国に帰ることのできなかった多くの人々の名前が刻まれたパゴダが建っていた。
そのパゴダは日本パゴダと呼ばれ、エヤワディ川を見下ろすサガインヒルの最も眺めの良い場所に建てられていた。
川は海へ通じ、海は日本へ通じる、という生き残った人達の亡き戦友たちへ思いを込めて建立されたパゴダなのかと思い、暫しその前で立ち尽くしたことを昨日のように記憶している。
ついでながら、めちゃくちゃ暑かったことも記憶している。

最初のマンダレー訪問で最も記憶に残っている思い出だ。

その日本パゴダに刻まれた日本人の名前の中で、最も驚いたのは日本赤十字社の看護婦さんたちの名前が刻まれていたことだ。
「ビルマの竪琴」だとか「アーロン収容所」といった有名な作品からの情報しか知らなかった私には多くの兵士と共に、多くの女性が亡くなっていたことを知って衝撃を受けたのだった。


(写真:サガインヒルから見た景色)

その後、ミャンマーに関する書籍は探し出しては読みあさったのだったが、どういうわけか日本赤十字の看護婦さんたちの物語については、書籍がなかなか見つからなかったことも手伝って、ほとんど読むということがなかった。

今回、自分で書いたブログの旅行記を読んでいて、
「このままでは永久に知る機会がなくなってしまうのではないか」
と焦燥感がなぜか生まれてきた。
もしかすると、証言者が亡くなって、歴史の彼方に消え去ってしまうかもしれない、と思えるようになってきたからだった。
そこで急いで関連本を探してみたら、ほとんどが絶版になっていたのだった。

宮部一三著「死んでも捕虜にならないで―ビルマ・日赤和歌山従軍看護婦の悲劇 」は書店で見つけることができなかった一冊で、公共の図書館で借りてきて読んだ一冊だ。

ミャンマーに派遣された看護婦さんたちは和歌山だけではないが、とりわけ日赤和歌山から派遣された従軍看護婦さんたちは、その死亡率が極めて高く、帰国できた人はほんの一握りであった。
この書籍には、そんな一握りの生き残りの看護婦さんたちが戦後数十年経過して証言した戦争当時の状況が記された手記がたくさん収録されている。
ひとりひとりの看護婦さんたちが証言する、それぞれの記憶はリアルでかつ、痛々しい。

出てくる地名も「シッタン」「タウンジー」「カロー」「メイミョウ」など、私も旅で訪れたところが多く、数々の風景と、証言される悍ましい情景がダブり、胸がいたんだ。

とりわけ「シッタン川」で多くの看護婦さんたちが川の流れに飲み込まれたり、敵の奇襲で戦死したりする情景は忘れることができない。
なぜなら、シッタン川は著名な観光地であるゴールデンロックへ向かう時には必ず渡る川であり、私は初めてのミャンマーへの旅でも、その後の旅でも幾度と無くこの川を渡ったことがある。

「まるで墨絵のような美しさ」

初めてシッタン川を渡った時、川は雨季の初めの霧雨でまるで水墨画のような美しい景色を呈していたのだった。
だが、本書を読んだ今となっては、美しいなんて感じてはいけなかったのではないか思うえるような、凄惨な記録が本書には記されている。
シッタン川の情景を思い出すたびに、また、見るたびに、多くの人々が亡くなったことを思いだすに違いない。

ということで、この本はミャンマー旅行に行く前に読むべき本だったと、つくづく思う日本の歴史の1ページなのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




年末にWiMaxを契約してから有線でのインターネット接続回数が減ってしまった。
正直、そのインターネット回線で光TVを契約していかなかったら、解約していたところだ。

私は仕事柄出張が多いので、旅先でインターネットへの接続がどこでもできたらいいのにな思っていた。
かといって今持っているau携帯を解約してソフトバンクのiPhoneに切り替えるつもりはまったくなかったし、docomoのギャラクシーに切り替えるつもりも全くなかった。

得意先の社長さんがeモバイルの端末を持っていてノートパソコンを使ってメールをダウンロードしていたり、ネットページを見たりしていたので、ちょっとばかし羨ましく思っていた。

そんなある日、家電量販店でWiMaxなるものがあることを発見し、いつかあれを使おうと思っていた。
まだまだ価格が高いと思っていたのだ。
それが年末に値下がりし、端末も1円になっていたので、今こそタイミングとばかりにWiMaxを契約した。
ただし、ちょっと契約を迷ったのもたしかで、それというのも仕事に使うからと言って会社が代金を払ってくれるわけではないし、無線のインターネットサービスなんか、たかが知れていると思ったりしていたのだ。

ところがいざWiMaxを使用し始めてみると、極めて便利であることがわかった。

私の自宅は大阪府南部。
WiMaxのサービスエリアだ。
WiMaxはサービスが開始されてれ2年と経たないので、サービス地域が初期の携帯電話のように極めて限られている。
これも契約を悩ませた原因のひとつなのだが、首都圏と京阪神はほぼカバーしているということを聞き、契約を決断。
出張先のほとんどが東京であり、他も福岡と広島が多いのでそれだけのエリアがカバーされていれば十分と判断した。
普段勤務しているところは大阪市内だし。

で、導入したら接続速度が結構早いことがわかった。
動画もスイスイ。
仕事のデータを宅ふぁいる便で贈る時もスムースで、非常に使い勝手が良い。
ひところのADSLよりも早いかも知れないと思えるようなスピードだ。
色々繋がって負荷のかかっている会社の光ネットよりも早い時があるくらいだ。

しかも当然のことながら、どこでもいつでも屋外か窓の近くなら接続できる。
有線LANだった自宅では特定の部屋でしかインターネット接続できなかったが、どこでも接続できるようになった。
正直、寒い冬の季節、布団にくるまって寝そべってiPadでインターネットができるようになる日が来るとは想像していなかった。
これは癖になるし、布団から出たくなくなる恐れが有るため自粛しているが、インターネットの楽しみ方が変わりそうだ。

駅でも、繁華街でも、得意先でもかばんの中からiPadを取り出してチョチョイのちょいと画面にタッチするだけでサクサクとネット接続できるので所持品のスタイルが変わった。
携帯サイズの地図も要らず、辞書も、住所録も、持ち歩く必要がまったくない。
エライこっちゃ、なのである。

それもこれも何がメリットをもたらしているかというと、やはり「無線」だから拘束されずインフラとしても優れているということだろう。

最近はパソコン、プリンタ、マウスにキーボード、スピーカーからヘッドホン、稀にモニターまで無線で信号が飛ばされていることがありビックリすることしきりなのだ。
コードを使用しないのでコストも低く、工事も簡単。
気になるのは誰かに勝手に使われていないかというセキュリティの心配と、天気やノイズが原因でつながらない時があるのでは、という問題だけ。
ホントに便利な時代になったものだ。

で、新聞を読んでいるとついに列車の制御も無線で始める時代になったのだという。

場所はJR東日本仙石線。
ローカル路線だが、ローカルだけに実証試験に向いているらしく、仙石線を走るすべての列車に無線の運転制御機を取り付けて運行を指令するという。
もちろん既存の信号機は不要。
そんなケーブル工事やメンテナンスに多大な費用のかかるインフラとはおさらばだ、ということらしい。

無線で列車を動かすなんて、まるでプラレールのようでいささか心配だが、システムというのはシンプルに出来てるほど信頼性が高いという事実もあり、今度の試験は注目されること小さくない。
この試験が成功したら最終的には首都圏などの都市部の路線にも導入するという。
以前、過激派が信号線を焼き払って電車が停まり人々が大いに迷惑したこともあるのだが、そんな事件も起こしにくくなり、さらに安全な時代になるというわけだ。

とこで、街中、家中、世界中、電波が益々ビュンビュンと飛び交っているのだが、人の健康には影響ないのか。
「電波を防ぐため」と称して変な服を着て街中を歩きまわる宗教団体などは出てこないのか。
少し、心配だ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




久しぶりに大阪と和歌山を結ぶ国道26号線を自動車で走っていたら大和川に架かる橋の近くにあるはずの富士フィルムの堺現像所の建物が無くなっていた。
学生時代、8ミリフィルムの現像をお願いした思い出の現像所。
つい何年か前まで、世界で唯一シングルエイト方式の8ミリフィルムの現像ができる現像所だった堺現像所がこつ然と消えてしまっていたのだ。

これは映画少年だった私には、かなり大きなショックだった。

あまり知られていないけれども、コダック社と並んで世界的なフィルムメーカーである富士フィルムは「富士」という名前とは裏腹に大阪発祥の会社で、なかでも堺現像所はその創業の場所なのだ。
そんな一般人にはどうでもいいことなのに、なんで私が知っているかというと、通っていた大学の担当助教授の先生から教えてもらったからだった。
私の大学時代の専門は映像だった。
で、『あそこは富士フィルムの重要拠点』と自然に覚えることになってしまった。
ちなみに「難波の南街劇場(現TOHOシネマズ難波)が日本の映画興業発祥の地」というのも、大学の関係で自然に覚えることになった。

話は戻って、その富士フィルムの親会社だったダイセル化学工業はタバコ用フィルタをほぼ独占している会社として知られているが、富士フィルムの堺現像所と国道を挟んで反対側にあるダイセルの堺工場が取り壊されたときでも、ここだけは健在だった。

「さすがに創業の地は潰さない」

と、自社の歴史を守っている(と勝手に私が思い込んだだけだったのだが)企業の文化に好感をもったのだったが、それは思い違いだったようだ。
結局はここも姿を消していたといわけだ。

堺市のキャッチフレーズには「もののはじまり、なんでも堺」というのがあるけれども、茶道や銀座と並んで写真用フィルムもそのひとつだったわけで、富士フィルム発祥の地はその証人でもあったのだ。

私の生まれた街の名物がまたひとつ失われて、非常に寂しい。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




「電子メールの記録って残るんや。」

と、私は驚いた。
今回の大相撲の八百長メール事件でのインチキよりも、携帯電話でやりとりした電子メールの記録がきっちりと残り、それを検証できることに驚きを感じたのだ。
私はそんな心配はしなくていいのだが、犯罪者のみなさんも迂闊にメールで犯罪情報のやりとりはできない、と知って驚いたことだろう。

それにしても大相撲。
どうなってしまうのか心配だ。

私も子供の頃は相撲の大ファンで、好きな力士は柏戸だった。
子供の頃から判官びいきな私は、絶対的に強い力士は好きではなかったらしく大鵬より柏戸という図式が成り立っていたのかもわからない。
だからプロ野球も読売ジャイアンツよりも阪神タイガースであり、タイガースが常勝球団になってしまった数年前は、ある意味、一抹の寂しさを感じたものだった。

で、大相撲の危機は私の知っている限りでも何度かあった。
輪島のスキャンダル。
双羽黒のスキャンダル。
外国人力士が幅を効かせ始めた頃、作家の児島襄が「国技に外国人はそぐわない」と発言して議論を呼んだ時。
その外国人不要論が沈静化したとき発生した朝青龍のスキャンダル。
最後が先年の暴力事件だ。

今回の電子メールによる星の売買スキャンダルは従来から相撲人気を脅かし続けてきたスキャンダルとは性格が異なる。
しかもそのインパクトは強大だと言わざるを得ない。
というのも、メールによる星の売買が日常化していたということは、「相撲はすべてインチキだった」ということを露呈してしまったというわけだ。
ファンが離れる。
その事態は深刻だ。

私も相撲の取り組みにはインチキがあるのではないかと薄々感づいていたのだが、信じたくはなかった。
例えば若乃花vs貴乃花の兄弟対決はどう見てもインチキ相撲だった。
当時、最強を誇った貴乃花が、どうみても相撲のうまくない横綱だった兄の若乃花に「コロリ」と負けた立ち会いをテレビで見ていた私は「あ!八百長や!」とテレビに向かって叫んだのだった。
それでも世間は「インチキ」のようだが「インチキ」ではないと堅くなに信じた。
あの兄弟がそんなことするはずないと信じたのだ。

でも私は結局、このつまらない取組が大相撲に対する興味を一挙に失ってしまったキッカケになったのだった。
で、今回の事件。
全国民を敵に回して失望させる。
相撲そのものを崩壊させる恐るべき事件と言わなければならないだろう。

大相撲、インチキ場所。
国技崩壊。
日本相撲協会の罪は深い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1863年6月23日。
旧暦の5月10日。

関門海峡を通過しようとした米国の貿易船ペンブローグ号は突然下関の砲台から砲撃を受けた。
幸いなことに、大砲の性能が玩具みたいだったから被害は軽微。
ほとんど何事もなかったけれど、ビックリして危険を感じたので這々の体で上海に逃げ込んだ。

「日本は一体なにすんねん」

とばかりに、横浜の商館を通じて徳川幕府に賠償金を請求した。
その額、なんと一万ドル。
当時の通貨で一万両。
大砲を打たれたことは同情するが、被害もないのに一万ドルとはこれいかに。

米国は150年前から横暴だった。

翻って今。

性差別的待遇で昇進できなかった、と米国人女性が雇い主の東芝を訴えた。
その額なんと1億ドル。

個人の訴訟で常軌を逸するビックリするような金額で、それ自体を「世間知らずのアメリカ合衆国」という印象を諸外国に与えるのがわかならいのが今も同じ。
さすが民主党政権下の米国。
性差別を理由に、日本差別を実行しようと躍起なのかもわからない。

もっとも、コーヒーこぼして火傷したらとマクドナルドから3億円もむしりとるような訴訟国家なので、一概に日本差別とは言えないかも知れないが、ともかく昔も今も、恫喝、恐喝、訴訟に、圧力。

周辺諸国から嫌われる原因になっているのが、今持ってわかならい気の毒な性格の国であることには同情を禁じえない。

なお、ベングローブ号は攘夷令に基づいて嬉々とした長州藩に砲撃された被害者だったが、黒船で脅して開国させた米国が、当時の日本からどういうふうに思われていたのか知らなかったのは、提訴した女性と似たようなところがあるのではないかと思われるのだ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




夕方のインターネットのニュースによると、スカイマークエアラインが中部国際空港から羽田空港への国内線を就航させるのだという。
これって採算合うのだろうか?

短距離路線。

日本では余程特殊な事情がない限り、利用者は少ないのではないかという印象が拭えない。
というのも、日本ほど都市間の鉄道網が発達している国はなく、しかもその鉄道網が新幹線であったりするので航空路のメリットはよほどの長距離か、辺鄙な場所でないと価値がない。

例えば東京~福岡、大阪~札幌といって長距離や、大阪~沖縄、沖縄~石垣のような鉄道では移動できない島を結ぶものでないと、意味が無い場合が多い。
最も利用者の多いと思われる東京~大阪間は所要時間が新幹線とほぼ同じ。
ちょっとでも飛行機の出発が遅れたり、到着がバスだったりすると新幹線のほうが早い場合が少なくない。

私は飛行機を利用するときは荷物の多いときで、新幹線を利用するときは身軽な時、とだいたい法則を決めている。
また、早朝で乗る便が決まっているときは飛行機はそれなりのメリットがあるので利用するのだが、出張の帰りで終わり時間が不明な場合は頻繁に列車の走っている新幹線が圧倒的に便利だ。

中部~羽田となると短距離で利用者も限られてくる。
名古屋~東京社新幹線で2時間かからないが、中部からだと名古屋経由で3時間以上かかることになる。
となると、航空路のメリットがでてくるということなのだろうが、中部国際空港で乗り継ぎ国際線というのも、羽田に国際線ターミナルができた今となっては、ほとんど無意味だ。

阪神大震災で鉄道が不通になったとき、伊丹~広島という路線が飛んでいたが、中部~羽田はそれに似た雰囲気の短距離路線だ。

ちなみに私の最も短距離空路の体験はタイの国内線。
バンコク~ピサヌローク線。
飛行距離わずか40分弱。
驚いたことに、その短時間の間に機内食サービスがあって、急いで食べたら、お持ち帰りのビニール袋を配ってきたのでもっと驚いたのだ。

バンコク~ピサヌロークの距離は約300km。
羽田~名古屋とほぼ同じ。

当然機内食は出ないだろうが、ビックリするような航路を開設するのも、なにかと話題のスカイマークらしい決定だと思う。

ところで、料金はいくらかな?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



   次ページ »