遺された想い、
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第31話 春隣act.4―side story「陽はまた昇る」
川崎駅まで周太の母を見送って、英二と周太は近所のスーパーマーケットを覗いた。
年明けの華やいだ空気が明るい店内で英二は、自分が押している買い物かごを乗せたカートが物珍しい。
こんなふうに買い物ってするんだな、そう眺めている英二を周太の方こそ珍しげに見つめていた。
「あの、…英二って、スーパーマーケットって、初めて来た?」
「うん、周太。そうだよ?デパ地下とかコンビニはあるけどさ、あとパン屋とか個人店。
でもこういう店って俺ね、入ったこと無かったんだ。いま周太とが初めてだよ?…周太?なんか俺、おかしいこと言ってるかな」
なんかおかしいのかな?
そう首傾げて見る隣では黒目がちの瞳が驚いている、すこし大きくなった瞳のままで周太がまた尋ねた。
「じゃあ、英二?…英二の家では、食事の買物は、どうしているの?」
「スーパーマーケットが配達してくれるんだよ、周太。駅の近くに店があってさ。でも周太、近所もみんなそんな感じだよ?」
「…そう…お金持ちって皆、そんなふう?」
周太に訊かれて英二は驚いた。そんなふうに自分の家を考えたことが無い、それが普通だと思っていたから。
そう思ったまま素直に英二は口を開いた。
「どうなんだろ?俺んち普通だと思っていたけど、違うのかな?でも周太、奥多摩でも配達してもらう家、結構多いと思うけど」
「…奥多摩はね、英二?お店が無い地域だと、移動販売が来るのでしょ?…世田谷とはちょっと違うと思う…」
他愛ない話にお互い驚きながら、周太は手馴れた様子で会計も済ませて袋へと品物を入れていく。
こんなに入るのかなと袋と品物を見比べていると、きれいに袋へと全部が納まって英二は感心した。
「へえ、よくこの大きさにあれだけ入るな?周太って器用だね、それともこの袋なんか特別なの周太?」
「…普通のエコバッグだよ?英二、…エコバッグ知らないの?」
「エコバッグって言うんだ?うん、俺、知らなかったよ。便利で良いな、これ」
感心しながらエコバッグを持つ英二を、不思議そうに黒目がちの瞳が見つめている。
そんな顔も可愛いなと思いながら、周太の右掌を左掌にくるむと自分のコートのポケットに入れて英二は店を出た。
帰路を歩きだすと、英二は不思議そうに見上げてくれる隣へと微笑んだ。
「周太。俺ね、知らない事いっぱいあるんだ。
だからさ、俺って周太から何でも教わっているだろ?国村にも言われたんだ、宮田って湯原くんに何でも教わってるよなあってね」
「…そう、なの?…英二って物知りだと俺、いつも感心しているんだけど…」
「うん、知っていることもあるよ。でもね、周太?
基本的な大切なことはね、ほとんど全部を俺、周太から教わってばかりいる。俺ってね、そういうこと本当に何も知らないんだ」
ほんとうにそうだ、自分は何も知らない。そして周太にいつも教えられている。
田中の四十九日法要の前夜、四十九日の意味を教えてくれたのも周太だった。
周太のお蔭であの日も、田中の孫の秀介や国村の想いをきちんと受け留めることが出来ている。
いま山ヤの警察官で山岳レスキューとして生きていられること、それ自体が周太に教えられた大切な事達があるから。
そんな想いと通りを歩きながら英二は周太に笑いかけた。
「だからね、周太?俺ってね、ほんとに周太がいないとダメなんだ。
だからさ、周太に早く奥さんになってほしいよ?そして俺のことたくさん教育してよ、周太。夫って妻が教育するものなんだろ?」
奥さん、妻、教育。そんな単語を英二は真昼の通りを歩きながら言った。
その隣を歩いている周太の、あわいブルーグレーのダッフルコートの襟足が真赤になっていく。
きれいな赤い首筋に気がついて、ちょっと率直に言い過ぎたかなと英二は気がついた。
どうも自分は想った通りを率直にしか言えないばかりに、周太をしょっちゅう困らせてしまう。
しまったかなと少し反省しながら、でも何て答えてくれるかも聴きたくて、英二は隣の黒目がちの瞳を覗きこんだ。
「…ん、あの…はい、…でも、待たせるかと思うけど…でも、がんばります」
頬も真赤にしながら周太は答えてくれた。
自分のために頑張ってくれる、なんて嬉しいこと言ってくれるんだろう?
うれしくて微笑んで英二は、素早く周太の頬にキスをして笑った。
「うん、がんばって?俺の婚約者さん」
「…あの、…きゅうにそんなことされるとちょっと…あのうれしいんだけどでも…こころのじゅんびが、ね」
「うれしいって周太が想ってくれるとさ、俺、ほんと幸せだよ周太?…はい、帰ってきたよ」
よけいに真赤になる周太の右掌を、コートのポケットのなかで穏やかに握りながら英二は家の門を開いた。
冬の午後の陽射しが淡くオレンジ色になる庭を、ふと英二は眺めて微笑んだ。
あわいオレンジ色の光の中で咲く、真白な花の凛々とした様子が美しい。どの庭木も美しいけれど英二には、この花こそが愛しい。
そんな英二の視線に気がついて周太も一緒に花を見て微笑んだ。
「ん、…今日もね、『雪山』たくさん咲いてくれてるね…」
周太の誕生花『雪山』という名の真白な花咲かせる山茶花、これは周太の父が息子の誕生を寿いで植えた木だった。
ゆるやかに常緑の梢は空を抱いて冷たい空気に佇んでいる、濃緑の艶やかな葉にくるまれて咲く純白の姿は清らかだった。
この花木は持ち主と佇まいが似ている、どちらも愛しくて英二は微笑んだ。
「花言葉は『困難に打ち克つ』だったな。ね、周太?」
「ん、…不思議な感じ、だね…」
「なにが不思議?」
想うひとの言葉に英二は尋ねてみた。
尋ねられて周太はすこし首傾げると、空いている方の左掌を頬に当てて、ゆっくりと答え始めた。
「ん…この木は幹も細くてね、花も繊細な感じでしょ?…だからね、そういう強い言葉なのが、不思議なんだ」
たしかに『雪山』は繊細な印象の花木でいる。
けれど英二はいつも御岳山にも生えている『雪山』の木を見ている、その木を想いながら微笑んで口を開いた。
「そうだね、周太。この木は繊細な感じするな。でもね、周太?とても強い木でもあるって、俺は想うよ?」
「そう、なの?」
「うん。同じ『雪山』がさ、御岳山にもあるのを周太、見つけて俺に教えてくれただろ?
でね、周太?その御岳山の『雪山』はさ、どんなに寒くて雪が降る日でも、きちんと花が咲いているんだ」
御岳山の『雪山』は風雪にも花を開かせる。
それを最初に見た雪ふる日の巡回で、英二は小さな驚きと納得を感じて見上げていた。
雪ふる山上で、繊細な純白の花は雪の白さにとけるように咲いていた。その花をくるむ常緑の葉も緑あざやかに佇んでいた。
「ね、周太?雪の冷たさにもね、花は落ちないんだよ。俺ね、それを初めて見た時にさ。
周太とよく似ているって想ってね、愛しかった。繊細で純粋なままでも、厳しい寒さに真直ぐに立っている姿はさ。本当にきれいなんだ」
「…ん、そうなの?」
気恥ずかしげに周太がそっと頷いてくれる。
そんな様子が愛しくて英二は静かに体を傾けると、そっと唇に唇を重ねた。
やわらかな温もりが穏やかで愛しい、そんな想いに微笑んで離れると周太が見上げて微笑んでくれた。
「英二?…また、御岳の『雪山』にも、会いに行きたいな」
周太は植物を幼い頃から好んで、父の生前は植物標本の採集帳で植物図鑑を自作していた。
それは父親との記憶が詰まったものだった、だから殉職の日から13年間ずっと周太は目を背けしまい込んだ。
けれど11月に雲取山へ英二と登り落葉を集めると、再び採集帳を周太は開き13年ぶりに作り始めている。
そんなふうに13年間の孤独を超えて周太は、すこしずつ自分の人生を取り戻し始めた。
また植物や自然にふれる時間を作ってあげたい、きれいに笑いかけて英二は周太に提案をした。
「うん。また奥多摩に来てよ、周太?冬山は厳しいけれどね、本当にきれいなんだ。大会が終わったら来れる?」
黒目がちの瞳がうれしそうに微笑んで頷いてくれる。
頷いて楽しげに見あげてくれながら英二に訊いてくれた。
「ん、…たぶん休暇がもらえると思うんだ…でも、英二も訓練とか、あるよね?」
「登山訓練なら周太も一緒に出来るだろ?吉村先生と一緒に登るときはね、周太?参加してみたいだろ」
「あ、…それは参加したい…吉村先生にお会いしたいな、一緒させてくれる?」
「もちろん。吉村先生もね、周太に会いたがっているよ?またコーヒー淹れてほしいってさ」
話しながら手を繋いで玄関へ歩いていくと、英二は首に提げた合鍵を荷物を持ったままの右手だけで取り出した。
ふつうの小さな合鍵。この周太の父の遺品である合鍵は、今は英二の宝物の鍵でいる。
その鍵で開錠すると扉を開いて英二は、そっと周太の右掌をポケットから出して離した。
そうして先に玄関先に立つと振向いて、きれいに周太へと微笑んだ。
「お帰り、周太」
微笑んで見つめた黒目がちの瞳が、穏やかに幸せそうに笑ってくれる。
その笑顔へ長い腕を伸ばして、おいで?と目で笑いかけると、あわいブルーグレーのダッフルコート姿が一歩玄関へと踏み込んだ。
「ただいま、英二」
きれいに笑って周太は英二の腕に入ると、そっと背に掌をまわして広い背中に抱きついた。
こういうのは幸せだ、うれしくて英二は小柄な体ごと幸せを抱きしめて笑った。
「ね、周太?俺、周太が作ったココアが飲みたいな。作ってくれる?」
「ん。じゃあ、父にも持って行ってくれる?…俺もね、今日は作ろうって想っていたんだ」
「やっぱり気が合うね、俺たち。ね、周太?もう夫婦みたいだね?」
「…そういうこというのちょっとはずかしくなるから…だいどころたつまえだとあぶないから…でも、うれしい」
また真赤になりながらも周太は、お節料理の支度をしながらココアをいれてくれた。
昼食の時にもお節料理の支度を進めていたらしく既に何品か出来ている。そのどれも実家で見慣れた仕出しに遜色がない。
ほんとうに手際よくて上手だな、あらためて周太の家庭的才能に感心しながら紺色のエプロン姿を英二は眺めた。
そんな視線にそっと振り向くと周太は気恥ずかしげに、すこし遠慮がちに英二に申し出た。
「…あのね、英二?…あんまり見つめられると恥ずかしくて…きんちょうするんだけど…それに」
「それに、なに?周太」
「…ちょっと距離が近い…です、あぶないです。…ね、英二?そこの椅子にすわってまっていて?」
言われて英二は紺色のエプロンの肩越しに黒目がちの瞳を覗きこんだ。
覗きこまれた瞳がちょっと困ったように見つめ返してくれる。そんな顔も可愛くて、つい英二は言ってしまった。
「嫌だよ周太、離れたくないよ。だって周太、風呂に入る時はさ、離ればなれだよ?
そのとき周太はね、たくさん俺に我慢させるんだからさ。他では好きなようにさせてよ。ね、周太?いいだろ」
ずいぶんと我儘な発言だな、我ながら思いながら英二は言って笑ってしまった。
そんな英二の顔を見つめている周太の顔が赤くなっていく。
たぶん「風呂」に反応したんだろうな、そんな推測に見つめる赤い顔がちいさく呟いた。
「…英二、駄々っ子みたい…だよ?」
駄々っ子。
子供に還ったみたいな形容詞を遣われて、英二はすこし驚いた。
けれどこんなふうに、子供みたいに誰かに自分が甘えていることは初めてでいる。
なんだかそれが幸せで温かい、うれしくて英二は赤い顔に自分の白い頬を寄せて微笑んだ。
「うん、俺ね。周太には駄々っ子にもなりたい。夫は妻には甘えるものなんだろ?だからね周太、俺は周太には甘えて駄々っ子にもなるよ」
ココアの小鍋を混ぜる周太の手が止まった。
そのままガスを停めると、静かに英二に向き直って見上げてくれる。
そう見上げながら伸ばした腕を、そっと英二の首に回して周太は抱きついてくれた。
「ん…甘えてくれるの、うれしい…俺でもね、甘えてもらえる…英二の役に立てるなら、…うれしいんだ…」
寄りそってくれる温もりが愛しい、愛しくて幸せで英二は小柄な体を抱きしめた。
役に立つとかそんなじゃないのに?やわらかく腕に力を入れながら英二は微笑んだ。
「役に立つとか違うよ周太?言っただろ、俺はね、周太がいないとダメなんだ。ほんとだよ、」
「ん…ほんとうに?」
周太の額に額を付けて英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
気恥ずかしげで純粋で、けれど深い真直ぐな視線が見つめ返してくれる。
ほんとうに美しい瞳だと見つめながら英二はきれいに笑って答えた。
「ほんとうだよ、周太。だって俺ね、姉ちゃんにまで言われたんだ。
あんたは湯原くんがいないとダメ、他に迷惑かけると困るから一緒にいてもらいなさい。だってさ。ね、だから俺、周太がいないとダメなんだ」
「…お姉さんまで、そう言ってくれるの?」
黒目がちの瞳が大きくなる、この顔すきだなと見つめる先で瞳に水の紗がかかっていく。
そんなに泣かなくていいのに?やわらかく微笑んで英二は泣き出しそうな目許にそっとキスをした。
「そうだよ周太?姉ちゃんな、周太のこと好きなんだって。
だから籍を入れたらね、甥っ子としてデートして可愛がりたいってさ。
でね、また会いたいなって言ってたよ。2月の射撃大会終わったらさ、会ってやってくれる?」
「ん、…俺もね、お姉さんに会いたい。…俺もね、お姉さんのこと好きだよ?…おれ、…うれし、いよ…」
黒目がちの瞳に涙があふれて頬零れていく。
きれいだなと見つめながら英二は涙に唇よせて、そっと吸いのんだ。あたたかな潮が愛しくて純粋な瞳が大切で愛しかった。
こんなに想えるひとが自分の腕の中にいる、きれいに笑って英二は小柄な体を抱きしめた。
「きっとね、周太?俺と一緒なら周太は、たくさん幸せを見つけられるよ?だから周太、ずっと一緒にいよう?
今は離ればなれで暮らしているけれど、『いつか』には絶対に一緒にいよう?法律でも、住む場所も、一緒にいよう、周太」
「…ん、いっしょにいて?英二…俺のこと、はなさないで?」
黒目がちの瞳が涙のなかで笑ってくれる。
ほら、こんなに愛しい。見つめていれば幸せで、隣にいれば安らかで。そんなふうに英二は見つめてばかりいる。
もうずっと見つめてばかりいる、警察学校で過ごした寮の部屋で片想いの時からずっと見つめてきた。
けれど卒業の日が来て離れなくてはいけなくて、二度と会えなくなる可能性に背中を押されて想いを告げた。
それから3ヶ月と1週間を超えた今、見つめて抱きしめて結婚の約束をしている。
こうしてもう抱きしめてしまった、もう離すことなんか出来やしない。きれいに笑って英二は答えた。
「うん。俺ね、ずっと絶対に周太を離さない。
いつだって、どんな場所からだって、俺は周太を救って掴んで離さない。だって俺、周太がいないとダメなんだ。仕方ないよ、周太?」
「ん…仕方ない、ね?英二」
きれいに笑って周太が見上げてくれる。
そしてすこし背伸びするよう肩に回した腕で英二を抱きしめて、そっと唇に唇でふれてくれた。
周太からのキス。やわらかくて温かで、おだやかな静かな優しいキス。
ふれるだけ、けれど幸せで甘やかで愛しくて。こんな幸せなキスは英二は周太に出会うまで知らなかった。
そっと温もりが離れていく、すこし切ない想いで周太の唇を見つめながら英二は周太に訊いた。
「ね、周太?だからさ、風呂も一緒に入ってよ?俺、周太がいないとダメなんだから」
言われた途端にまた顔を真赤にして周太は、さらりと英二の腕から抜け出してしまった。
そのままココアの鍋を火にかけると、周太は黙々と手を動かし始めた。
そんな様子が可愛くて可笑しい、そんなに嫌なのかなと笑いながら英二は声をかけてみた。
「周太?沈黙は了解、ってことでいいの?」
振り向いてくれない背中のまま、一瞬に肩が揺れてすぐ答えてくれた。
「…だめです、ふろはだめです…」
気恥ずかしくてたまらない、そんな空気が紺色のエプロン姿から伝わってくる。
そんな様子に英二は年越警邏の時に国村から聞いたことを思った。
前は友達だから意識しなかったんでしょ。しかも彼はその頃まだ処女だろ?恥じらいとか知らなかったろうね
今はもう友達と違うしさ。裸ですること、やられちゃってるだろ?それで恥ずかしいんじゃないの
彼は初々しいだろ?そして脱がされるばっかりだからさ、そりゃ恥ずかしいんだって
国村は怜悧で冷静沈着で判断力に優れて、山でもいつも的確な行動選択ができる。
そんな国村の観察眼はいつも明晰で正しい、だから周太のことも正解だろう。
そう思ったままを英二は周太に訊いてみた。
「ね、周太?周太がさ、今は俺と風呂入ってくれないのは、いつも俺が周太のことを脱がせて抱いちゃう所為なんだ?」
言った途端に止まった周太の掌が、そのまま周太の頬を挟んで固まった。
周太の手から落ちたココアの付いたスプーンが、かたんと木の床を転がっていく。
いつにないほどの動揺と途惑いが周太を覆うのを、調理台の窓を向いたままの後姿から解ってしまう。
やっぱり正解だった、けれど驚かせすぎたかな?思いながら英二はガスを止めて周太の顔を覗きこんだ。
「周太?だいじょうぶ?」
真赤になった顔がいつも以上に赤くなって視線まで固まっている、その様子に英二はちょっと驚いた。
このままだと熱でも出てしまうかもしれない、そんな判断が救命救急対応モードに英二を切り替えた。
周太は少し意識が飛んでいる、立ったままでは転倒するかもしれない。英二は驚かさないように静かに周太を抱きかかえた。
ゆっくりと隣のリビングのソファへ座らせて、そっと脈を測るとだいぶ早くて拍動が大きい。
やっぱり自分はやりすぎた、反省をしながら英二はコップに水を汲んだ。
「…周太?水、飲める?」
「…ん、…はい、」
「うん。じゃあ周太、ゆっくり飲んでみよう?」
やっと返事してくれた、ほっとしながらコップを渡すと両手で受けとってくれる。
受けとった周太の手に自分の手を添えると、小柄な体を支えながら静かにコップを口元へ寄せた。
ゆっくり水を飲んで周太が、ほっと息を吐きながら瞳をゆっくり瞬いている。
そんな瞳が気恥ずかしそうに英二を見、そっと周太は唇を開いた。
「…ん、…驚かせて、ごめんね?英二」
「俺こそだよ、周太?ごめん、あんなに周太を驚かせちゃうなんて、俺、思わなくって」
まだ赤い顔を見つめながら英二は素直に謝った。
そんな英二に小首を傾げながら周太は、右掌を頬に当てて考え込んでいる。
そのまま静かに唇を開くと周太は、ゆっくりと英二に話してくれた。
「あのね、英二?…俺はね、英二と同じ年だ。でもね、俺って…ほんとうにね、英二が初めてなんだ…
友達になることも、その…好きになることも…今まで俺、一度もなくて。
俺、その…れんあいはね、9ヶ月の子供と同じなんだ…ほんとうに英二と出会ってから、だけなんだ……
幸せで…でも、すごく途惑ってもいて…それで、その…ふろとかちょっとむりだとおもうんだはずかしすぎて…きっとだめ」
赤い顔のまま、でも一生懸命に周太は話してくれる。
全てが周太にとって「初めて」のこと、そう英二も解っていた。
父の殉職から13年間を周太は、ただ父の軌跡を追って父の想いを見つめるだけで生きてきた。
そんな孤独な生き方は能力の面では大人になれても、人同士の想いの交流という面では成長を止めたままでいる。
そうして周太の心は強い意志や精神力は育っても、人と想いを交す面では10歳の少年のままで、23歳になってしまった。
「周太、謝らないでよ?…ごめんね、周太。ほんとうにね、俺が悪いんだ」
「…英二?」
周太は10歳の少年のままで、英二に恋をして愛して体も捧げてしまった。
10歳の子供が大人の恋愛に応えることは難しい、それでも応えるなら勇気も覚悟も23歳より何倍も必要になる。
そんな周太の純粋な心が切なくて愛しくて、英二は周太を抱き寄せた。
「周太。俺はね、たくさんの人から恋愛を求められてきた。
でも、誰とも本当には俺、恋愛できなかった。それぐらい俺ってね、弱くて心が欠けていた。
だから俺ほんとにね、周太がいてくれること嬉しくて幸せなんだ。それで、つい周太に求めすぎるんだ…ごめんね、周太」
きれいな黒目がちの瞳が英二を見あげてくれる。
その瞳は深い想いと勇気がまぶしい、けれど10歳の子供のまま純粋で美しい。こんな瞳だからこそ英二は恋に落ちた。
そして愛してしまって今がある、今の幸せを想いながら英二は言葉を続けた。
「俺はね、周太?恋愛はさ、たしかに体の経験は多いけれど、心の経験はゼロなんだ。傷つけあった経験だけなんだ」
「…そんな、…」
見あげてくれる瞳が哀しそうに見つめてくれる。
きっと自分の想いを気遣ってくれる、こういう繊細な優しさが英二を惹きつけて今がある。
今は大丈夫だよ?そう見つめながら英二は口を開いた。
「俺はね、周太。こういう派手な外見だろ?
だからね、性格も外見通りだって思って俺を好きになる人ばっかりだったんだ。
でも俺って外見と性格が違うだろ?だから俺、いつも相手をガッカリさせていたんだ。
それが辛くなって俺、要領良いフリして生きれば楽だなってさ。本音で生きることを諦めて、人形になったんだ」
「…人形、…」
ぽつんと呟いてくれる声が哀しげで、自分を心から想ってくれることが伝わってくる。
こんなふうに自分の愛するひとは繊細で、10歳の少年のまま純粋でも細やかな優しさが温かい。
このひとの隣が本当に好きだ、英二は微笑んだ。
「うん。きれいな外見だけ相手に与えてね、ただ相手が求めるとおりに頷いて笑っていた。
そんなのは人形と同じだ、本当の恋愛なんかじゃない。だから皆そのうち飽きて、どこかへ行っちゃったんだ」
「…っ、」
黒目がちの瞳から涙がこぼれた。
こんなふうに自分のために泣いてくれる、うれしくて幸せで英二は周太にキスをした。
キスをして瞳を見つめて、そっと離れると微笑んだまま英二は話した。
「そうして誰もね、俺の心なんか見つめてくれなかった。だから俺もね、誰にも心を見せたくなかった、どうせ傷つくから。
そんなふうにさ、俺、あの脱走した夜もね、あの時の彼女に傷つけられたんだ。
あのとき俺、警察官になりたいって本音を初めて言ったんだよ、彼女に。
でも、解ってもらえなかった。かっこ悪いから、もういらないって言われた。見せびらかせない俺には用は無いんだって」
また一滴の涙が周太の瞳からこぼれた。
涙の瞳は隣から真直ぐに英二を見あげて、そして周太は言ってくれた。
「…英二は、…かっこいい、よ?…もう、あの時から…もっと前から…かっこいい…俺は、しってる…だって、ずっと…見てた」
次々あふれる涙の、一滴ずつの全てが愛しい。
こんなふうに真直ぐ見つめてくれていた、そんな瞳が好きで自分はここにいる。
なつかしい記憶と今の想いを見つめながら英二は、きれいに笑いかけた。
「うん、周太は見ていてくれたね?だから俺、あの夜は周太の部屋にね、行きたくなったんだ」
「…ん、」
きれいな頬を涙が伝っていく。そっと長い指で拭いながら英二は微笑んだ。
どうしていつも周太は、こんなに純粋できれいなのだろう?
どうして辛い運命に向き合っても周太は、純粋なまま生きてこられたのだろう?
そして自分は弱かったと思い知らされる。
相手の思惑に振り回されるほど弱かった、だから自分は人形に成り下がっていた、そんな弱い生き方を選んでいた。
そのことを今朝の国村との会話からもう気づいている、だからもう自分は思惑には心を動かさない。
そして強くなってこの愛するひとを守りたい、きれいに笑って英二は周太に告げた。
「周太だけが俺の心を見つめてくれた。そして人形だった俺にね、本音で生きる自由をくれたんだ。
そうして俺は自分の夢も生き方も見つけることが出来たんだ。だからね、周太?
俺に必要なものは全て、周太が俺にくれたんだ。俺を初めて見てくれた人なんだ、そんな周太を好きになってもさ、仕方ないだろ?」
右掌を頬に当てて周太が考え込むように首傾げる。
それから英二の目を見つめて静かに訊いてくれた。
「…仕方ない、の、かな」
「うん、仕方ないよ。だからね、周太?俺に好きになられても、逃げないでよ」
言って笑って英二は周太にキスをした。
そのキスを気恥ずかしそうにしながらも受け留めて、そっと周太は微笑んでくれる。
その微笑みを見つめて英二は、あらためて婚約者へと告白をした。
「本当に俺はね、周太が初恋なんだ。俺にはね、周太は俺の救いで初恋で、唯ひとり守りたくて愛する人なんだ」
周太の左掌もあがって頬に当てられる。
両掌で顔を支えるようにして周太は赤くなる想いを抱えて、それでも笑って応えてくれた。
「ん、…そんなふうにね、想ってもらえて…うれしい。また途惑うかもしれない、でもね、俺、…本当に幸せなんだ」
「本当に?」
今度は英二が訊き返してみた。
何て応えてくれるかな?そう覗きこんだ隣は両掌を頬からおろした。
その掌をこんどは静かに英二の頬へむけると、やさしく英二の顔が温もりでくるまれていく。
やわらかな温もりふれる頬に微笑んで、英二は目の前の瞳を見つめた。
そうして見つめる想いの真中で、黒目がちの瞳がきれいに微笑んで静かに想いが告げられた。
「英二、心からね…あなただけを、愛している」
きれいに笑って周太は、そっと英二にキスをしてくれた。
一途な想いと強い意志、深い想いに人を愛する勇気、繊細で細やかな優しい心。
穏やかな静謐は安らかで、10歳の少年の純粋さのまま困難に歪められない強靭な潔癖。
そして聡明で端正な姿勢が美しくて。
もうずっと自分はこの人に恋をしている、そしてずっと愛し続けるだろう。
ふれるだけのキス、それでも蕩かされるほど愛しくて甘くて幸せにさせられる。
この想う人のためにずっと自分は生きていく、そんな自分の道が幸せで英二の頬ひとすじ涙がこぼれ落ちた。
― 周太、…ありがとう
俺と出会ってくれて、愛してくれて、ありがとう。
そんな想いが心に温かい確信をくれる ― この隣となら自分は幸せに生きていける。
温かい確信を抱いたまま静かに離れると、英二は大好きな瞳に笑いかけて、明るくおねだりをした。
「ね、周太?やっぱり今夜はさ、一緒に風呂入ってよ?」
言われて黒目がちの瞳がおおきくなる、そして可笑しそうに笑ってくれた。
そう笑いながら赤くなりながら、周太は軽く頭をふった。
「だめです、いけません…まだけっこんまえですそんなのだめ…あ、ココア温めてあげる、ね?」
気恥ずかしそうに笑いながら周太は、軽やかに腕を抜けて台所へと行ってしまった。
ひとりソファ残された英二は、いまの周太の言葉に座りこんで首傾げた。
だって今なんて周太は言ってくれた?
「…まだ、結婚前です、そんなのダメ…?」
反復して思わずつぶやいて、切長い目を英二は大きくして台所を見た。
それってそういうことなのかな?そうならちょっと良い気がする。
なんだか幸せで嬉しくて英二は台所へ行った。
「ね、周太?訊いてもいい?」
「…いまはだめです、あぶないからあとにして?」
かわいい口調で断られて英二は残念だけれど微笑んだ、たぶん自分が思った通りなのだろう。
だってココアの小鍋を火からおろす周太の首筋が赤くなっていく、ここが周太のいちばん素直な場所だから。
言われた通りに英二は「あとにして」口を閉じて、食器棚からマグカップを3つ出すとテーブルに並べた。
それを見て周太が英二に微笑んでくれる。
「ん、…ありがとう、英二」
「こっちこそ、周太。ココアありがとうな」
注がれていく甘い香の湯気を見ながら英二は笑った。こういうのは幸せで良い。
うれしくて周太の手元を眺めながら、今後をすこしだけ考え込んだ。
この優しい手をどうしたら傷つけずに守れるだろう?
「英二、父に持っていってくれる?…良かったら英二もね、書斎で飲んで?…今の時間はね、きれいな陽射しが部屋に入るんだ」
周太に声かけられて英二は考えを脳裏に仕舞った、また後で続きは考えればいい。
そんな想いごと納めると微笑んで、周太の提案に頷きながら尋ねた。
「うん、周太は?」
「俺はね、夕飯の支度がもう少しあるから…でも、終わったら2階にいくね?」
「じゃあ周太、書斎でお父さんと話してくるよ。そのあとさ、屋根裏に上がっていてもいい?」
「…ん、いいよ。陽当たり良くて気持ち良いと思う…あ、昼寝するならね、マットレスとか使って?」
「うん、ありがとう周太」
2つのマグカップを受けとると英二は、そっと周太の頬にキスをした。
またすぐ頬を染めながらも周太は微笑んでくれる。
そんな笑顔にもう一度きれいに笑いかけてから、英二は書斎に向かった。
書斎の扉を開くと光の梯子が窓からいっぱいに部屋を満たしていた。
オーク材を多く使うダークブラウンの重厚な部屋では、あざやかな光跡で冬の陽をみせてくれる。
きれいだな。周太の言葉通りの部屋の様子に微笑んで、英二は書斎机の前に立つと写真立てを見つめた。
写真の中からは穏やかに誠実な笑顔が笑いかけてくれる、いつも笑顔を絶やさなかった周太の父は写真にも笑っていた。
その写真の傍へと紺色のマグカップをそっと供えて、英二は微笑んだ。
「あけましておめでとうございます、お父さん…俺、今日は結婚の申し込みをさせてもらいました」
周太の父の写真の傍には、いつものように花が活けられている。
その花が今日は2つ活けられていた。1つは周太の母に贈った花束のもの。
そしてもう1つは周太に贈った結婚の申し込みの花束にあった花だった。
その花の花言葉を想いだして切れ長い目がすこし大きくなる、そっとその言葉を英二はつぶやいた。
「愛、温かい心…君のみが知る」
あわい赤が可憐な冬ばらは、オールドローズと呼ばれる種類らしい。
やさしい雰囲気、まるみやわらかな花の形が周太らしいと想って見た花だった。
けれどこの花の言葉はどこか、この書斎の主の姿を映したようで英二の心がすこし揺らされる。
ため息をついて英二は自分のマグカップをサイドテーブルに置くと、もういちど写真の笑顔を見つめた。
「…あなただけが知っている、この家の想いは何だったのですか?」
この書斎には謎が多い。
その謎にまだ周太の母も周太も気づいていない、たぶん日常的に暮らす空間だから違和感を感じないでいる。
けれど英二には気づけてしまう、書棚を見あげながら考えをめぐらしてしまう。
なぜ英文科出身でラテン語が得意な人の蔵書が、フランス文学の原書ばかりなのか?
この家には英文学書は数冊しか置かれていない、そしてラテン語ならイタリア文学の原書も興味を持つはずなのに1冊も無い。
そんなふうに現実に見上げる書棚にはフランス語の背表紙ばかりが並ぶ。
そして。
この並んだ仏文学の原書一冊は、壊されたままで書架に収められている。
書棚の隅へと納められた紺青色の背表紙に、英二は長い指を伸ばして抜き出した。
『Le Fantome de l'Opera』
邦題『オペラ座の怪人』フランス文学の恋愛小説では著名な本。
そっと英二は紺青色の本を開いた、その開いた大半のページは抜け落ちている。
物語の最初と最後の部分を遺して大きくページが欠けた『Le Fantome de l'Opera』壊れたままの本。
これと同じ本を周太は、あの初めての外泊日に新宿の書店で買っている。
「家にもある本なんだ…けどね、家のは壊れているんだ。それで読んでみたくて買ったんだ。
残っているページだけだと、推理小説みたいだったから…俺、れんあい小説だなんて思わないで買ったんだ」
「それで買ったんだ。でも湯原?どうして家のは、壊れているんだ?」
「ん、母もね、知らないんだ…たぶん古くなって抜け落ちたのかな」
「ふうん、古い本なんだ?」
警察学校の寮で何気なく周太と話したこと。この記憶を英二は思いだして以来、ずっと考え込んでいる。
この壊された本を実際に見たのはクリスマスの日に、今のように周太の父にココアを供えた時だった。
その時は周太との会話をまだ思いだせなかった、けれどクリスマスの翌日に奥多摩へ戻る車中で記憶が蘇っている。
― 古い本
そっと英二は紺青色の本の最後のページを開いた。
そこには出版年月日と発行年月日が記されている、そして想った通りに古い発行年が書かれていた。
「1938年…昭和13年、か」
昭和13年。太平洋戦争よりも前、たしか全日本学生ワンダーフォーゲル部が創設された年。
そして周太の父が生まれる20年以上前の年になる。
英二はポケットから携帯を出すと写真モードに切り替えて、そのページを撮影した。
それから他の残された僅かなページも全て撮影すると、携帯をポケットにしまった。
周太の父が生まれる前に発行された本が、なぜ周太の父の蔵書にあるのか?
古本を買った、普通ならそれで済む話だろう。
けれどこの本は「壊されて」いる、「わざと壊す」ために古本を買う人間はいないだろう。
こういうハードカバーの立派な装丁の本は、古本の方が発行年などで付加価値が高値にする。
だから「わざと壊す」目的で買うようなことはしないはずだ。
そう、この本は「わざと壊されて」いる。
英二は窓辺に立つと抜け落ちている部分の背部分を見た。
背表紙とページの接合されていたはずの場所には、やっぱり刃物の跡がある。
ナイフで抉り取るように糸綴じを切り裂いて無理に外した、そんな痕跡が観てとれてしまう。
こういうナイフ痕を英二は死体見分の時に見たことがあった。
非番の日に吉村医師の手伝いで立会った時で、縊死遺体の傍に落ちていた文庫本がこんなふうに壊れていた。
なぜ壊れた本が落ちているのだろう?不審に思って英二は一緒に見分立会いをしていた刑事課の澤野に訊いてみた。
それを澤野は聴いてくれた、そして吉村医師も遺体を見て所見を述べてくれた。
「このご遺体は自殺ではない可能性が高いです。見てください、ここに砂が付着しています。
奥多摩の森で亡くなった方の髪に、なぜ砂がつくのでしょう?…しかも砂はべたついている、おそらく海水を含んだ砂です」
調べてみるとその本からは遺体以外の指紋が検出され、犯人検挙につながった。
けれど、なぜページが切り取られたのかは犯人も知らなかった。
ただその本は犯人と被害者の思い出の本だった事は解った、そう聞かされた時に吉村医師は哀しげに微笑んだ。
「きっとね、思い出があるから捨てられなかった。
けれど、何か辛い内容が書かれていたから、そのページを切り取って持っていたのかもしれませんね」
この本もページが切りとられている。
何かの理由と事情が無かったらこんな事はしない、切りとるだけの想いがあったのだろう。
そして切りとられた断面は紙の色が幾分かは新しい、けれど周太の母はこの本のことを知らないでいる。
きっと周太の母が嫁入る前に切りとられている、おそらく周太の父が若い頃に切りとったのだろう。
周太の父の蔵書はどれも保管状態が良い、きっと本を愛して大切にする人だった。
周太も本を大切に扱っている、そんな息子である周太の姿勢からも彼の本への扱いは見てとれる。
そういうタイプなら、もし読まなくなった本なら古本屋に売るなり人に譲るだろう。
だからこの本が「壊されて」も残されていることに英二は違和感を感じられて仕方ない、きっと何か事情があった。
「…この本は、この書斎の前の主の蔵書だった。違いますか?」
書斎机の写真へと英二は語りかけた。
この書斎は湯原家の主がずっと使っていると聴いた。だから周太の祖父がこの部屋の前の主になる。
周太の父が生まれる前に発行された本、それは周太の祖父が若い頃に買い求めた時の発行年。
周太の父がページを切り取っても手元に残したかった本、それは周太の祖父の蔵書だったから手元から離せない。
きっとこの本は周太の祖父の蔵書だった、だから周太の父は手元に残したかったのではないか?
けれど謎は残ってしまう、どうしてページを切り取ったのだろう?
ページを切り取った事情は何だったのだろう?
そしてもう一つ「書斎」にまつわる謎がこの家にはある。
この家には一時「もう一つの書斎」があった、その書斎も謎が隠されている。
この屋根裏部屋はね、元は祖父の書斎だったらしい。
そのトランクも祖父のなんだ…あ、本棚もね、父が作ったらしい
いま周太が使っている部屋の屋根裏部屋、そこが周太の祖父の書斎になった時期がある。
きっと当時この書斎を周太の父に譲ったから、周太の祖父は別の場所に自分の書斎を設けたのだろう。
けれどあの部屋には本棚があっても「書斎机」は存在しない。
なぜ書棚を作っても、書斎机を周太の父は作らなかったのだろう?
あの小部屋は入口が押入の天井に開けられた部分になる、それは人が通るのは充分の広さがある。
けれど置かれている書棚や揺椅子のような大きめの家具は通せない、きっとあの部屋で周太の父は組み立てたのだろう。
だから書斎机もきっと部屋で組み立てなくてはいけなかった。そして組み立てた家具はもう部屋から出せない。
けれど書斎机はあの小部屋には無い「書斎机がない書斎」など普通は考えられない。
周太の祖父の蔵書だった『Le Fantome de l'Opera』周太の父に壊された本。
書斎机が存在しない周太の祖父の書斎だった部屋。
「…周太の、お祖父さん」
そっと呟きながら紺青色の本を閉じると英二は書棚に戻した。
サイドテーブルのココアを一口飲んで、そっと息を吐くとまた書斎机を見つめてしまう。
その視線の先に微笑む周太の父の写真、そして可憐な冬ばらに「君のみが知る」の花言葉が問いかけてくる。
マグカップを置いて英二は書斎机の椅子の隣へと立った。
重厚で艶やかなビロード張りの書斎椅子、ここに周太の父と祖父、そして曾祖父が座った椅子。
この椅子に座った湯原家の主たち3人、彼らの想いはいったいどこにあるのだろう?
「…ん、?」
ふっと英二の目が書斎机の抽斗に留められた。
この机には抽斗が4つある、天板下の浅い抽斗と3段の袖抽斗が備えられている。
袖抽斗には鍵がついている、けれど1段だけ鍵の形が違っているのが見てとれた。
― なぜ1段だけ違うんだろう?
抽斗の前に片膝ついて英二は鍵穴の形状を見た。
やっぱり1段だけ違う種類になっている、そしてその鍵穴に英二は見覚えがある。
まさか?そんな想いのままに英二は胸に提げてある合鍵を取出した。
「…そうかもしれない、」
周太の父の遺品である、この家の合鍵。
けれどよく見ると鍵の根元に小さな凹みが刻まれている、これは元からあった刻みではないだろう。
おそらく周太の父が刻んだ凹み、そしてきっと周太の母の鍵にも周太の鍵にもない。
たぶんこの鍵穴は鍵の根元まで入る、そう思いながら英二は鍵穴に家の合鍵を挿し込んだ。
かちり、音ともに抽斗は開錠された。
(to be continued)
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第31話 春隣act.4―side story「陽はまた昇る」
川崎駅まで周太の母を見送って、英二と周太は近所のスーパーマーケットを覗いた。
年明けの華やいだ空気が明るい店内で英二は、自分が押している買い物かごを乗せたカートが物珍しい。
こんなふうに買い物ってするんだな、そう眺めている英二を周太の方こそ珍しげに見つめていた。
「あの、…英二って、スーパーマーケットって、初めて来た?」
「うん、周太。そうだよ?デパ地下とかコンビニはあるけどさ、あとパン屋とか個人店。
でもこういう店って俺ね、入ったこと無かったんだ。いま周太とが初めてだよ?…周太?なんか俺、おかしいこと言ってるかな」
なんかおかしいのかな?
そう首傾げて見る隣では黒目がちの瞳が驚いている、すこし大きくなった瞳のままで周太がまた尋ねた。
「じゃあ、英二?…英二の家では、食事の買物は、どうしているの?」
「スーパーマーケットが配達してくれるんだよ、周太。駅の近くに店があってさ。でも周太、近所もみんなそんな感じだよ?」
「…そう…お金持ちって皆、そんなふう?」
周太に訊かれて英二は驚いた。そんなふうに自分の家を考えたことが無い、それが普通だと思っていたから。
そう思ったまま素直に英二は口を開いた。
「どうなんだろ?俺んち普通だと思っていたけど、違うのかな?でも周太、奥多摩でも配達してもらう家、結構多いと思うけど」
「…奥多摩はね、英二?お店が無い地域だと、移動販売が来るのでしょ?…世田谷とはちょっと違うと思う…」
他愛ない話にお互い驚きながら、周太は手馴れた様子で会計も済ませて袋へと品物を入れていく。
こんなに入るのかなと袋と品物を見比べていると、きれいに袋へと全部が納まって英二は感心した。
「へえ、よくこの大きさにあれだけ入るな?周太って器用だね、それともこの袋なんか特別なの周太?」
「…普通のエコバッグだよ?英二、…エコバッグ知らないの?」
「エコバッグって言うんだ?うん、俺、知らなかったよ。便利で良いな、これ」
感心しながらエコバッグを持つ英二を、不思議そうに黒目がちの瞳が見つめている。
そんな顔も可愛いなと思いながら、周太の右掌を左掌にくるむと自分のコートのポケットに入れて英二は店を出た。
帰路を歩きだすと、英二は不思議そうに見上げてくれる隣へと微笑んだ。
「周太。俺ね、知らない事いっぱいあるんだ。
だからさ、俺って周太から何でも教わっているだろ?国村にも言われたんだ、宮田って湯原くんに何でも教わってるよなあってね」
「…そう、なの?…英二って物知りだと俺、いつも感心しているんだけど…」
「うん、知っていることもあるよ。でもね、周太?
基本的な大切なことはね、ほとんど全部を俺、周太から教わってばかりいる。俺ってね、そういうこと本当に何も知らないんだ」
ほんとうにそうだ、自分は何も知らない。そして周太にいつも教えられている。
田中の四十九日法要の前夜、四十九日の意味を教えてくれたのも周太だった。
周太のお蔭であの日も、田中の孫の秀介や国村の想いをきちんと受け留めることが出来ている。
いま山ヤの警察官で山岳レスキューとして生きていられること、それ自体が周太に教えられた大切な事達があるから。
そんな想いと通りを歩きながら英二は周太に笑いかけた。
「だからね、周太?俺ってね、ほんとに周太がいないとダメなんだ。
だからさ、周太に早く奥さんになってほしいよ?そして俺のことたくさん教育してよ、周太。夫って妻が教育するものなんだろ?」
奥さん、妻、教育。そんな単語を英二は真昼の通りを歩きながら言った。
その隣を歩いている周太の、あわいブルーグレーのダッフルコートの襟足が真赤になっていく。
きれいな赤い首筋に気がついて、ちょっと率直に言い過ぎたかなと英二は気がついた。
どうも自分は想った通りを率直にしか言えないばかりに、周太をしょっちゅう困らせてしまう。
しまったかなと少し反省しながら、でも何て答えてくれるかも聴きたくて、英二は隣の黒目がちの瞳を覗きこんだ。
「…ん、あの…はい、…でも、待たせるかと思うけど…でも、がんばります」
頬も真赤にしながら周太は答えてくれた。
自分のために頑張ってくれる、なんて嬉しいこと言ってくれるんだろう?
うれしくて微笑んで英二は、素早く周太の頬にキスをして笑った。
「うん、がんばって?俺の婚約者さん」
「…あの、…きゅうにそんなことされるとちょっと…あのうれしいんだけどでも…こころのじゅんびが、ね」
「うれしいって周太が想ってくれるとさ、俺、ほんと幸せだよ周太?…はい、帰ってきたよ」
よけいに真赤になる周太の右掌を、コートのポケットのなかで穏やかに握りながら英二は家の門を開いた。
冬の午後の陽射しが淡くオレンジ色になる庭を、ふと英二は眺めて微笑んだ。
あわいオレンジ色の光の中で咲く、真白な花の凛々とした様子が美しい。どの庭木も美しいけれど英二には、この花こそが愛しい。
そんな英二の視線に気がついて周太も一緒に花を見て微笑んだ。
「ん、…今日もね、『雪山』たくさん咲いてくれてるね…」
周太の誕生花『雪山』という名の真白な花咲かせる山茶花、これは周太の父が息子の誕生を寿いで植えた木だった。
ゆるやかに常緑の梢は空を抱いて冷たい空気に佇んでいる、濃緑の艶やかな葉にくるまれて咲く純白の姿は清らかだった。
この花木は持ち主と佇まいが似ている、どちらも愛しくて英二は微笑んだ。
「花言葉は『困難に打ち克つ』だったな。ね、周太?」
「ん、…不思議な感じ、だね…」
「なにが不思議?」
想うひとの言葉に英二は尋ねてみた。
尋ねられて周太はすこし首傾げると、空いている方の左掌を頬に当てて、ゆっくりと答え始めた。
「ん…この木は幹も細くてね、花も繊細な感じでしょ?…だからね、そういう強い言葉なのが、不思議なんだ」
たしかに『雪山』は繊細な印象の花木でいる。
けれど英二はいつも御岳山にも生えている『雪山』の木を見ている、その木を想いながら微笑んで口を開いた。
「そうだね、周太。この木は繊細な感じするな。でもね、周太?とても強い木でもあるって、俺は想うよ?」
「そう、なの?」
「うん。同じ『雪山』がさ、御岳山にもあるのを周太、見つけて俺に教えてくれただろ?
でね、周太?その御岳山の『雪山』はさ、どんなに寒くて雪が降る日でも、きちんと花が咲いているんだ」
御岳山の『雪山』は風雪にも花を開かせる。
それを最初に見た雪ふる日の巡回で、英二は小さな驚きと納得を感じて見上げていた。
雪ふる山上で、繊細な純白の花は雪の白さにとけるように咲いていた。その花をくるむ常緑の葉も緑あざやかに佇んでいた。
「ね、周太?雪の冷たさにもね、花は落ちないんだよ。俺ね、それを初めて見た時にさ。
周太とよく似ているって想ってね、愛しかった。繊細で純粋なままでも、厳しい寒さに真直ぐに立っている姿はさ。本当にきれいなんだ」
「…ん、そうなの?」
気恥ずかしげに周太がそっと頷いてくれる。
そんな様子が愛しくて英二は静かに体を傾けると、そっと唇に唇を重ねた。
やわらかな温もりが穏やかで愛しい、そんな想いに微笑んで離れると周太が見上げて微笑んでくれた。
「英二?…また、御岳の『雪山』にも、会いに行きたいな」
周太は植物を幼い頃から好んで、父の生前は植物標本の採集帳で植物図鑑を自作していた。
それは父親との記憶が詰まったものだった、だから殉職の日から13年間ずっと周太は目を背けしまい込んだ。
けれど11月に雲取山へ英二と登り落葉を集めると、再び採集帳を周太は開き13年ぶりに作り始めている。
そんなふうに13年間の孤独を超えて周太は、すこしずつ自分の人生を取り戻し始めた。
また植物や自然にふれる時間を作ってあげたい、きれいに笑いかけて英二は周太に提案をした。
「うん。また奥多摩に来てよ、周太?冬山は厳しいけれどね、本当にきれいなんだ。大会が終わったら来れる?」
黒目がちの瞳がうれしそうに微笑んで頷いてくれる。
頷いて楽しげに見あげてくれながら英二に訊いてくれた。
「ん、…たぶん休暇がもらえると思うんだ…でも、英二も訓練とか、あるよね?」
「登山訓練なら周太も一緒に出来るだろ?吉村先生と一緒に登るときはね、周太?参加してみたいだろ」
「あ、…それは参加したい…吉村先生にお会いしたいな、一緒させてくれる?」
「もちろん。吉村先生もね、周太に会いたがっているよ?またコーヒー淹れてほしいってさ」
話しながら手を繋いで玄関へ歩いていくと、英二は首に提げた合鍵を荷物を持ったままの右手だけで取り出した。
ふつうの小さな合鍵。この周太の父の遺品である合鍵は、今は英二の宝物の鍵でいる。
その鍵で開錠すると扉を開いて英二は、そっと周太の右掌をポケットから出して離した。
そうして先に玄関先に立つと振向いて、きれいに周太へと微笑んだ。
「お帰り、周太」
微笑んで見つめた黒目がちの瞳が、穏やかに幸せそうに笑ってくれる。
その笑顔へ長い腕を伸ばして、おいで?と目で笑いかけると、あわいブルーグレーのダッフルコート姿が一歩玄関へと踏み込んだ。
「ただいま、英二」
きれいに笑って周太は英二の腕に入ると、そっと背に掌をまわして広い背中に抱きついた。
こういうのは幸せだ、うれしくて英二は小柄な体ごと幸せを抱きしめて笑った。
「ね、周太?俺、周太が作ったココアが飲みたいな。作ってくれる?」
「ん。じゃあ、父にも持って行ってくれる?…俺もね、今日は作ろうって想っていたんだ」
「やっぱり気が合うね、俺たち。ね、周太?もう夫婦みたいだね?」
「…そういうこというのちょっとはずかしくなるから…だいどころたつまえだとあぶないから…でも、うれしい」
また真赤になりながらも周太は、お節料理の支度をしながらココアをいれてくれた。
昼食の時にもお節料理の支度を進めていたらしく既に何品か出来ている。そのどれも実家で見慣れた仕出しに遜色がない。
ほんとうに手際よくて上手だな、あらためて周太の家庭的才能に感心しながら紺色のエプロン姿を英二は眺めた。
そんな視線にそっと振り向くと周太は気恥ずかしげに、すこし遠慮がちに英二に申し出た。
「…あのね、英二?…あんまり見つめられると恥ずかしくて…きんちょうするんだけど…それに」
「それに、なに?周太」
「…ちょっと距離が近い…です、あぶないです。…ね、英二?そこの椅子にすわってまっていて?」
言われて英二は紺色のエプロンの肩越しに黒目がちの瞳を覗きこんだ。
覗きこまれた瞳がちょっと困ったように見つめ返してくれる。そんな顔も可愛くて、つい英二は言ってしまった。
「嫌だよ周太、離れたくないよ。だって周太、風呂に入る時はさ、離ればなれだよ?
そのとき周太はね、たくさん俺に我慢させるんだからさ。他では好きなようにさせてよ。ね、周太?いいだろ」
ずいぶんと我儘な発言だな、我ながら思いながら英二は言って笑ってしまった。
そんな英二の顔を見つめている周太の顔が赤くなっていく。
たぶん「風呂」に反応したんだろうな、そんな推測に見つめる赤い顔がちいさく呟いた。
「…英二、駄々っ子みたい…だよ?」
駄々っ子。
子供に還ったみたいな形容詞を遣われて、英二はすこし驚いた。
けれどこんなふうに、子供みたいに誰かに自分が甘えていることは初めてでいる。
なんだかそれが幸せで温かい、うれしくて英二は赤い顔に自分の白い頬を寄せて微笑んだ。
「うん、俺ね。周太には駄々っ子にもなりたい。夫は妻には甘えるものなんだろ?だからね周太、俺は周太には甘えて駄々っ子にもなるよ」
ココアの小鍋を混ぜる周太の手が止まった。
そのままガスを停めると、静かに英二に向き直って見上げてくれる。
そう見上げながら伸ばした腕を、そっと英二の首に回して周太は抱きついてくれた。
「ん…甘えてくれるの、うれしい…俺でもね、甘えてもらえる…英二の役に立てるなら、…うれしいんだ…」
寄りそってくれる温もりが愛しい、愛しくて幸せで英二は小柄な体を抱きしめた。
役に立つとかそんなじゃないのに?やわらかく腕に力を入れながら英二は微笑んだ。
「役に立つとか違うよ周太?言っただろ、俺はね、周太がいないとダメなんだ。ほんとだよ、」
「ん…ほんとうに?」
周太の額に額を付けて英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
気恥ずかしげで純粋で、けれど深い真直ぐな視線が見つめ返してくれる。
ほんとうに美しい瞳だと見つめながら英二はきれいに笑って答えた。
「ほんとうだよ、周太。だって俺ね、姉ちゃんにまで言われたんだ。
あんたは湯原くんがいないとダメ、他に迷惑かけると困るから一緒にいてもらいなさい。だってさ。ね、だから俺、周太がいないとダメなんだ」
「…お姉さんまで、そう言ってくれるの?」
黒目がちの瞳が大きくなる、この顔すきだなと見つめる先で瞳に水の紗がかかっていく。
そんなに泣かなくていいのに?やわらかく微笑んで英二は泣き出しそうな目許にそっとキスをした。
「そうだよ周太?姉ちゃんな、周太のこと好きなんだって。
だから籍を入れたらね、甥っ子としてデートして可愛がりたいってさ。
でね、また会いたいなって言ってたよ。2月の射撃大会終わったらさ、会ってやってくれる?」
「ん、…俺もね、お姉さんに会いたい。…俺もね、お姉さんのこと好きだよ?…おれ、…うれし、いよ…」
黒目がちの瞳に涙があふれて頬零れていく。
きれいだなと見つめながら英二は涙に唇よせて、そっと吸いのんだ。あたたかな潮が愛しくて純粋な瞳が大切で愛しかった。
こんなに想えるひとが自分の腕の中にいる、きれいに笑って英二は小柄な体を抱きしめた。
「きっとね、周太?俺と一緒なら周太は、たくさん幸せを見つけられるよ?だから周太、ずっと一緒にいよう?
今は離ればなれで暮らしているけれど、『いつか』には絶対に一緒にいよう?法律でも、住む場所も、一緒にいよう、周太」
「…ん、いっしょにいて?英二…俺のこと、はなさないで?」
黒目がちの瞳が涙のなかで笑ってくれる。
ほら、こんなに愛しい。見つめていれば幸せで、隣にいれば安らかで。そんなふうに英二は見つめてばかりいる。
もうずっと見つめてばかりいる、警察学校で過ごした寮の部屋で片想いの時からずっと見つめてきた。
けれど卒業の日が来て離れなくてはいけなくて、二度と会えなくなる可能性に背中を押されて想いを告げた。
それから3ヶ月と1週間を超えた今、見つめて抱きしめて結婚の約束をしている。
こうしてもう抱きしめてしまった、もう離すことなんか出来やしない。きれいに笑って英二は答えた。
「うん。俺ね、ずっと絶対に周太を離さない。
いつだって、どんな場所からだって、俺は周太を救って掴んで離さない。だって俺、周太がいないとダメなんだ。仕方ないよ、周太?」
「ん…仕方ない、ね?英二」
きれいに笑って周太が見上げてくれる。
そしてすこし背伸びするよう肩に回した腕で英二を抱きしめて、そっと唇に唇でふれてくれた。
周太からのキス。やわらかくて温かで、おだやかな静かな優しいキス。
ふれるだけ、けれど幸せで甘やかで愛しくて。こんな幸せなキスは英二は周太に出会うまで知らなかった。
そっと温もりが離れていく、すこし切ない想いで周太の唇を見つめながら英二は周太に訊いた。
「ね、周太?だからさ、風呂も一緒に入ってよ?俺、周太がいないとダメなんだから」
言われた途端にまた顔を真赤にして周太は、さらりと英二の腕から抜け出してしまった。
そのままココアの鍋を火にかけると、周太は黙々と手を動かし始めた。
そんな様子が可愛くて可笑しい、そんなに嫌なのかなと笑いながら英二は声をかけてみた。
「周太?沈黙は了解、ってことでいいの?」
振り向いてくれない背中のまま、一瞬に肩が揺れてすぐ答えてくれた。
「…だめです、ふろはだめです…」
気恥ずかしくてたまらない、そんな空気が紺色のエプロン姿から伝わってくる。
そんな様子に英二は年越警邏の時に国村から聞いたことを思った。
前は友達だから意識しなかったんでしょ。しかも彼はその頃まだ処女だろ?恥じらいとか知らなかったろうね
今はもう友達と違うしさ。裸ですること、やられちゃってるだろ?それで恥ずかしいんじゃないの
彼は初々しいだろ?そして脱がされるばっかりだからさ、そりゃ恥ずかしいんだって
国村は怜悧で冷静沈着で判断力に優れて、山でもいつも的確な行動選択ができる。
そんな国村の観察眼はいつも明晰で正しい、だから周太のことも正解だろう。
そう思ったままを英二は周太に訊いてみた。
「ね、周太?周太がさ、今は俺と風呂入ってくれないのは、いつも俺が周太のことを脱がせて抱いちゃう所為なんだ?」
言った途端に止まった周太の掌が、そのまま周太の頬を挟んで固まった。
周太の手から落ちたココアの付いたスプーンが、かたんと木の床を転がっていく。
いつにないほどの動揺と途惑いが周太を覆うのを、調理台の窓を向いたままの後姿から解ってしまう。
やっぱり正解だった、けれど驚かせすぎたかな?思いながら英二はガスを止めて周太の顔を覗きこんだ。
「周太?だいじょうぶ?」
真赤になった顔がいつも以上に赤くなって視線まで固まっている、その様子に英二はちょっと驚いた。
このままだと熱でも出てしまうかもしれない、そんな判断が救命救急対応モードに英二を切り替えた。
周太は少し意識が飛んでいる、立ったままでは転倒するかもしれない。英二は驚かさないように静かに周太を抱きかかえた。
ゆっくりと隣のリビングのソファへ座らせて、そっと脈を測るとだいぶ早くて拍動が大きい。
やっぱり自分はやりすぎた、反省をしながら英二はコップに水を汲んだ。
「…周太?水、飲める?」
「…ん、…はい、」
「うん。じゃあ周太、ゆっくり飲んでみよう?」
やっと返事してくれた、ほっとしながらコップを渡すと両手で受けとってくれる。
受けとった周太の手に自分の手を添えると、小柄な体を支えながら静かにコップを口元へ寄せた。
ゆっくり水を飲んで周太が、ほっと息を吐きながら瞳をゆっくり瞬いている。
そんな瞳が気恥ずかしそうに英二を見、そっと周太は唇を開いた。
「…ん、…驚かせて、ごめんね?英二」
「俺こそだよ、周太?ごめん、あんなに周太を驚かせちゃうなんて、俺、思わなくって」
まだ赤い顔を見つめながら英二は素直に謝った。
そんな英二に小首を傾げながら周太は、右掌を頬に当てて考え込んでいる。
そのまま静かに唇を開くと周太は、ゆっくりと英二に話してくれた。
「あのね、英二?…俺はね、英二と同じ年だ。でもね、俺って…ほんとうにね、英二が初めてなんだ…
友達になることも、その…好きになることも…今まで俺、一度もなくて。
俺、その…れんあいはね、9ヶ月の子供と同じなんだ…ほんとうに英二と出会ってから、だけなんだ……
幸せで…でも、すごく途惑ってもいて…それで、その…ふろとかちょっとむりだとおもうんだはずかしすぎて…きっとだめ」
赤い顔のまま、でも一生懸命に周太は話してくれる。
全てが周太にとって「初めて」のこと、そう英二も解っていた。
父の殉職から13年間を周太は、ただ父の軌跡を追って父の想いを見つめるだけで生きてきた。
そんな孤独な生き方は能力の面では大人になれても、人同士の想いの交流という面では成長を止めたままでいる。
そうして周太の心は強い意志や精神力は育っても、人と想いを交す面では10歳の少年のままで、23歳になってしまった。
「周太、謝らないでよ?…ごめんね、周太。ほんとうにね、俺が悪いんだ」
「…英二?」
周太は10歳の少年のままで、英二に恋をして愛して体も捧げてしまった。
10歳の子供が大人の恋愛に応えることは難しい、それでも応えるなら勇気も覚悟も23歳より何倍も必要になる。
そんな周太の純粋な心が切なくて愛しくて、英二は周太を抱き寄せた。
「周太。俺はね、たくさんの人から恋愛を求められてきた。
でも、誰とも本当には俺、恋愛できなかった。それぐらい俺ってね、弱くて心が欠けていた。
だから俺ほんとにね、周太がいてくれること嬉しくて幸せなんだ。それで、つい周太に求めすぎるんだ…ごめんね、周太」
きれいな黒目がちの瞳が英二を見あげてくれる。
その瞳は深い想いと勇気がまぶしい、けれど10歳の子供のまま純粋で美しい。こんな瞳だからこそ英二は恋に落ちた。
そして愛してしまって今がある、今の幸せを想いながら英二は言葉を続けた。
「俺はね、周太?恋愛はさ、たしかに体の経験は多いけれど、心の経験はゼロなんだ。傷つけあった経験だけなんだ」
「…そんな、…」
見あげてくれる瞳が哀しそうに見つめてくれる。
きっと自分の想いを気遣ってくれる、こういう繊細な優しさが英二を惹きつけて今がある。
今は大丈夫だよ?そう見つめながら英二は口を開いた。
「俺はね、周太。こういう派手な外見だろ?
だからね、性格も外見通りだって思って俺を好きになる人ばっかりだったんだ。
でも俺って外見と性格が違うだろ?だから俺、いつも相手をガッカリさせていたんだ。
それが辛くなって俺、要領良いフリして生きれば楽だなってさ。本音で生きることを諦めて、人形になったんだ」
「…人形、…」
ぽつんと呟いてくれる声が哀しげで、自分を心から想ってくれることが伝わってくる。
こんなふうに自分の愛するひとは繊細で、10歳の少年のまま純粋でも細やかな優しさが温かい。
このひとの隣が本当に好きだ、英二は微笑んだ。
「うん。きれいな外見だけ相手に与えてね、ただ相手が求めるとおりに頷いて笑っていた。
そんなのは人形と同じだ、本当の恋愛なんかじゃない。だから皆そのうち飽きて、どこかへ行っちゃったんだ」
「…っ、」
黒目がちの瞳から涙がこぼれた。
こんなふうに自分のために泣いてくれる、うれしくて幸せで英二は周太にキスをした。
キスをして瞳を見つめて、そっと離れると微笑んだまま英二は話した。
「そうして誰もね、俺の心なんか見つめてくれなかった。だから俺もね、誰にも心を見せたくなかった、どうせ傷つくから。
そんなふうにさ、俺、あの脱走した夜もね、あの時の彼女に傷つけられたんだ。
あのとき俺、警察官になりたいって本音を初めて言ったんだよ、彼女に。
でも、解ってもらえなかった。かっこ悪いから、もういらないって言われた。見せびらかせない俺には用は無いんだって」
また一滴の涙が周太の瞳からこぼれた。
涙の瞳は隣から真直ぐに英二を見あげて、そして周太は言ってくれた。
「…英二は、…かっこいい、よ?…もう、あの時から…もっと前から…かっこいい…俺は、しってる…だって、ずっと…見てた」
次々あふれる涙の、一滴ずつの全てが愛しい。
こんなふうに真直ぐ見つめてくれていた、そんな瞳が好きで自分はここにいる。
なつかしい記憶と今の想いを見つめながら英二は、きれいに笑いかけた。
「うん、周太は見ていてくれたね?だから俺、あの夜は周太の部屋にね、行きたくなったんだ」
「…ん、」
きれいな頬を涙が伝っていく。そっと長い指で拭いながら英二は微笑んだ。
どうしていつも周太は、こんなに純粋できれいなのだろう?
どうして辛い運命に向き合っても周太は、純粋なまま生きてこられたのだろう?
そして自分は弱かったと思い知らされる。
相手の思惑に振り回されるほど弱かった、だから自分は人形に成り下がっていた、そんな弱い生き方を選んでいた。
そのことを今朝の国村との会話からもう気づいている、だからもう自分は思惑には心を動かさない。
そして強くなってこの愛するひとを守りたい、きれいに笑って英二は周太に告げた。
「周太だけが俺の心を見つめてくれた。そして人形だった俺にね、本音で生きる自由をくれたんだ。
そうして俺は自分の夢も生き方も見つけることが出来たんだ。だからね、周太?
俺に必要なものは全て、周太が俺にくれたんだ。俺を初めて見てくれた人なんだ、そんな周太を好きになってもさ、仕方ないだろ?」
右掌を頬に当てて周太が考え込むように首傾げる。
それから英二の目を見つめて静かに訊いてくれた。
「…仕方ない、の、かな」
「うん、仕方ないよ。だからね、周太?俺に好きになられても、逃げないでよ」
言って笑って英二は周太にキスをした。
そのキスを気恥ずかしそうにしながらも受け留めて、そっと周太は微笑んでくれる。
その微笑みを見つめて英二は、あらためて婚約者へと告白をした。
「本当に俺はね、周太が初恋なんだ。俺にはね、周太は俺の救いで初恋で、唯ひとり守りたくて愛する人なんだ」
周太の左掌もあがって頬に当てられる。
両掌で顔を支えるようにして周太は赤くなる想いを抱えて、それでも笑って応えてくれた。
「ん、…そんなふうにね、想ってもらえて…うれしい。また途惑うかもしれない、でもね、俺、…本当に幸せなんだ」
「本当に?」
今度は英二が訊き返してみた。
何て応えてくれるかな?そう覗きこんだ隣は両掌を頬からおろした。
その掌をこんどは静かに英二の頬へむけると、やさしく英二の顔が温もりでくるまれていく。
やわらかな温もりふれる頬に微笑んで、英二は目の前の瞳を見つめた。
そうして見つめる想いの真中で、黒目がちの瞳がきれいに微笑んで静かに想いが告げられた。
「英二、心からね…あなただけを、愛している」
きれいに笑って周太は、そっと英二にキスをしてくれた。
一途な想いと強い意志、深い想いに人を愛する勇気、繊細で細やかな優しい心。
穏やかな静謐は安らかで、10歳の少年の純粋さのまま困難に歪められない強靭な潔癖。
そして聡明で端正な姿勢が美しくて。
もうずっと自分はこの人に恋をしている、そしてずっと愛し続けるだろう。
ふれるだけのキス、それでも蕩かされるほど愛しくて甘くて幸せにさせられる。
この想う人のためにずっと自分は生きていく、そんな自分の道が幸せで英二の頬ひとすじ涙がこぼれ落ちた。
― 周太、…ありがとう
俺と出会ってくれて、愛してくれて、ありがとう。
そんな想いが心に温かい確信をくれる ― この隣となら自分は幸せに生きていける。
温かい確信を抱いたまま静かに離れると、英二は大好きな瞳に笑いかけて、明るくおねだりをした。
「ね、周太?やっぱり今夜はさ、一緒に風呂入ってよ?」
言われて黒目がちの瞳がおおきくなる、そして可笑しそうに笑ってくれた。
そう笑いながら赤くなりながら、周太は軽く頭をふった。
「だめです、いけません…まだけっこんまえですそんなのだめ…あ、ココア温めてあげる、ね?」
気恥ずかしそうに笑いながら周太は、軽やかに腕を抜けて台所へと行ってしまった。
ひとりソファ残された英二は、いまの周太の言葉に座りこんで首傾げた。
だって今なんて周太は言ってくれた?
「…まだ、結婚前です、そんなのダメ…?」
反復して思わずつぶやいて、切長い目を英二は大きくして台所を見た。
それってそういうことなのかな?そうならちょっと良い気がする。
なんだか幸せで嬉しくて英二は台所へ行った。
「ね、周太?訊いてもいい?」
「…いまはだめです、あぶないからあとにして?」
かわいい口調で断られて英二は残念だけれど微笑んだ、たぶん自分が思った通りなのだろう。
だってココアの小鍋を火からおろす周太の首筋が赤くなっていく、ここが周太のいちばん素直な場所だから。
言われた通りに英二は「あとにして」口を閉じて、食器棚からマグカップを3つ出すとテーブルに並べた。
それを見て周太が英二に微笑んでくれる。
「ん、…ありがとう、英二」
「こっちこそ、周太。ココアありがとうな」
注がれていく甘い香の湯気を見ながら英二は笑った。こういうのは幸せで良い。
うれしくて周太の手元を眺めながら、今後をすこしだけ考え込んだ。
この優しい手をどうしたら傷つけずに守れるだろう?
「英二、父に持っていってくれる?…良かったら英二もね、書斎で飲んで?…今の時間はね、きれいな陽射しが部屋に入るんだ」
周太に声かけられて英二は考えを脳裏に仕舞った、また後で続きは考えればいい。
そんな想いごと納めると微笑んで、周太の提案に頷きながら尋ねた。
「うん、周太は?」
「俺はね、夕飯の支度がもう少しあるから…でも、終わったら2階にいくね?」
「じゃあ周太、書斎でお父さんと話してくるよ。そのあとさ、屋根裏に上がっていてもいい?」
「…ん、いいよ。陽当たり良くて気持ち良いと思う…あ、昼寝するならね、マットレスとか使って?」
「うん、ありがとう周太」
2つのマグカップを受けとると英二は、そっと周太の頬にキスをした。
またすぐ頬を染めながらも周太は微笑んでくれる。
そんな笑顔にもう一度きれいに笑いかけてから、英二は書斎に向かった。
書斎の扉を開くと光の梯子が窓からいっぱいに部屋を満たしていた。
オーク材を多く使うダークブラウンの重厚な部屋では、あざやかな光跡で冬の陽をみせてくれる。
きれいだな。周太の言葉通りの部屋の様子に微笑んで、英二は書斎机の前に立つと写真立てを見つめた。
写真の中からは穏やかに誠実な笑顔が笑いかけてくれる、いつも笑顔を絶やさなかった周太の父は写真にも笑っていた。
その写真の傍へと紺色のマグカップをそっと供えて、英二は微笑んだ。
「あけましておめでとうございます、お父さん…俺、今日は結婚の申し込みをさせてもらいました」
周太の父の写真の傍には、いつものように花が活けられている。
その花が今日は2つ活けられていた。1つは周太の母に贈った花束のもの。
そしてもう1つは周太に贈った結婚の申し込みの花束にあった花だった。
その花の花言葉を想いだして切れ長い目がすこし大きくなる、そっとその言葉を英二はつぶやいた。
「愛、温かい心…君のみが知る」
あわい赤が可憐な冬ばらは、オールドローズと呼ばれる種類らしい。
やさしい雰囲気、まるみやわらかな花の形が周太らしいと想って見た花だった。
けれどこの花の言葉はどこか、この書斎の主の姿を映したようで英二の心がすこし揺らされる。
ため息をついて英二は自分のマグカップをサイドテーブルに置くと、もういちど写真の笑顔を見つめた。
「…あなただけが知っている、この家の想いは何だったのですか?」
この書斎には謎が多い。
その謎にまだ周太の母も周太も気づいていない、たぶん日常的に暮らす空間だから違和感を感じないでいる。
けれど英二には気づけてしまう、書棚を見あげながら考えをめぐらしてしまう。
なぜ英文科出身でラテン語が得意な人の蔵書が、フランス文学の原書ばかりなのか?
この家には英文学書は数冊しか置かれていない、そしてラテン語ならイタリア文学の原書も興味を持つはずなのに1冊も無い。
そんなふうに現実に見上げる書棚にはフランス語の背表紙ばかりが並ぶ。
そして。
この並んだ仏文学の原書一冊は、壊されたままで書架に収められている。
書棚の隅へと納められた紺青色の背表紙に、英二は長い指を伸ばして抜き出した。
『Le Fantome de l'Opera』
邦題『オペラ座の怪人』フランス文学の恋愛小説では著名な本。
そっと英二は紺青色の本を開いた、その開いた大半のページは抜け落ちている。
物語の最初と最後の部分を遺して大きくページが欠けた『Le Fantome de l'Opera』壊れたままの本。
これと同じ本を周太は、あの初めての外泊日に新宿の書店で買っている。
「家にもある本なんだ…けどね、家のは壊れているんだ。それで読んでみたくて買ったんだ。
残っているページだけだと、推理小説みたいだったから…俺、れんあい小説だなんて思わないで買ったんだ」
「それで買ったんだ。でも湯原?どうして家のは、壊れているんだ?」
「ん、母もね、知らないんだ…たぶん古くなって抜け落ちたのかな」
「ふうん、古い本なんだ?」
警察学校の寮で何気なく周太と話したこと。この記憶を英二は思いだして以来、ずっと考え込んでいる。
この壊された本を実際に見たのはクリスマスの日に、今のように周太の父にココアを供えた時だった。
その時は周太との会話をまだ思いだせなかった、けれどクリスマスの翌日に奥多摩へ戻る車中で記憶が蘇っている。
― 古い本
そっと英二は紺青色の本の最後のページを開いた。
そこには出版年月日と発行年月日が記されている、そして想った通りに古い発行年が書かれていた。
「1938年…昭和13年、か」
昭和13年。太平洋戦争よりも前、たしか全日本学生ワンダーフォーゲル部が創設された年。
そして周太の父が生まれる20年以上前の年になる。
英二はポケットから携帯を出すと写真モードに切り替えて、そのページを撮影した。
それから他の残された僅かなページも全て撮影すると、携帯をポケットにしまった。
周太の父が生まれる前に発行された本が、なぜ周太の父の蔵書にあるのか?
古本を買った、普通ならそれで済む話だろう。
けれどこの本は「壊されて」いる、「わざと壊す」ために古本を買う人間はいないだろう。
こういうハードカバーの立派な装丁の本は、古本の方が発行年などで付加価値が高値にする。
だから「わざと壊す」目的で買うようなことはしないはずだ。
そう、この本は「わざと壊されて」いる。
英二は窓辺に立つと抜け落ちている部分の背部分を見た。
背表紙とページの接合されていたはずの場所には、やっぱり刃物の跡がある。
ナイフで抉り取るように糸綴じを切り裂いて無理に外した、そんな痕跡が観てとれてしまう。
こういうナイフ痕を英二は死体見分の時に見たことがあった。
非番の日に吉村医師の手伝いで立会った時で、縊死遺体の傍に落ちていた文庫本がこんなふうに壊れていた。
なぜ壊れた本が落ちているのだろう?不審に思って英二は一緒に見分立会いをしていた刑事課の澤野に訊いてみた。
それを澤野は聴いてくれた、そして吉村医師も遺体を見て所見を述べてくれた。
「このご遺体は自殺ではない可能性が高いです。見てください、ここに砂が付着しています。
奥多摩の森で亡くなった方の髪に、なぜ砂がつくのでしょう?…しかも砂はべたついている、おそらく海水を含んだ砂です」
調べてみるとその本からは遺体以外の指紋が検出され、犯人検挙につながった。
けれど、なぜページが切り取られたのかは犯人も知らなかった。
ただその本は犯人と被害者の思い出の本だった事は解った、そう聞かされた時に吉村医師は哀しげに微笑んだ。
「きっとね、思い出があるから捨てられなかった。
けれど、何か辛い内容が書かれていたから、そのページを切り取って持っていたのかもしれませんね」
この本もページが切りとられている。
何かの理由と事情が無かったらこんな事はしない、切りとるだけの想いがあったのだろう。
そして切りとられた断面は紙の色が幾分かは新しい、けれど周太の母はこの本のことを知らないでいる。
きっと周太の母が嫁入る前に切りとられている、おそらく周太の父が若い頃に切りとったのだろう。
周太の父の蔵書はどれも保管状態が良い、きっと本を愛して大切にする人だった。
周太も本を大切に扱っている、そんな息子である周太の姿勢からも彼の本への扱いは見てとれる。
そういうタイプなら、もし読まなくなった本なら古本屋に売るなり人に譲るだろう。
だからこの本が「壊されて」も残されていることに英二は違和感を感じられて仕方ない、きっと何か事情があった。
「…この本は、この書斎の前の主の蔵書だった。違いますか?」
書斎机の写真へと英二は語りかけた。
この書斎は湯原家の主がずっと使っていると聴いた。だから周太の祖父がこの部屋の前の主になる。
周太の父が生まれる前に発行された本、それは周太の祖父が若い頃に買い求めた時の発行年。
周太の父がページを切り取っても手元に残したかった本、それは周太の祖父の蔵書だったから手元から離せない。
きっとこの本は周太の祖父の蔵書だった、だから周太の父は手元に残したかったのではないか?
けれど謎は残ってしまう、どうしてページを切り取ったのだろう?
ページを切り取った事情は何だったのだろう?
そしてもう一つ「書斎」にまつわる謎がこの家にはある。
この家には一時「もう一つの書斎」があった、その書斎も謎が隠されている。
この屋根裏部屋はね、元は祖父の書斎だったらしい。
そのトランクも祖父のなんだ…あ、本棚もね、父が作ったらしい
いま周太が使っている部屋の屋根裏部屋、そこが周太の祖父の書斎になった時期がある。
きっと当時この書斎を周太の父に譲ったから、周太の祖父は別の場所に自分の書斎を設けたのだろう。
けれどあの部屋には本棚があっても「書斎机」は存在しない。
なぜ書棚を作っても、書斎机を周太の父は作らなかったのだろう?
あの小部屋は入口が押入の天井に開けられた部分になる、それは人が通るのは充分の広さがある。
けれど置かれている書棚や揺椅子のような大きめの家具は通せない、きっとあの部屋で周太の父は組み立てたのだろう。
だから書斎机もきっと部屋で組み立てなくてはいけなかった。そして組み立てた家具はもう部屋から出せない。
けれど書斎机はあの小部屋には無い「書斎机がない書斎」など普通は考えられない。
周太の祖父の蔵書だった『Le Fantome de l'Opera』周太の父に壊された本。
書斎机が存在しない周太の祖父の書斎だった部屋。
「…周太の、お祖父さん」
そっと呟きながら紺青色の本を閉じると英二は書棚に戻した。
サイドテーブルのココアを一口飲んで、そっと息を吐くとまた書斎机を見つめてしまう。
その視線の先に微笑む周太の父の写真、そして可憐な冬ばらに「君のみが知る」の花言葉が問いかけてくる。
マグカップを置いて英二は書斎机の椅子の隣へと立った。
重厚で艶やかなビロード張りの書斎椅子、ここに周太の父と祖父、そして曾祖父が座った椅子。
この椅子に座った湯原家の主たち3人、彼らの想いはいったいどこにあるのだろう?
「…ん、?」
ふっと英二の目が書斎机の抽斗に留められた。
この机には抽斗が4つある、天板下の浅い抽斗と3段の袖抽斗が備えられている。
袖抽斗には鍵がついている、けれど1段だけ鍵の形が違っているのが見てとれた。
― なぜ1段だけ違うんだろう?
抽斗の前に片膝ついて英二は鍵穴の形状を見た。
やっぱり1段だけ違う種類になっている、そしてその鍵穴に英二は見覚えがある。
まさか?そんな想いのままに英二は胸に提げてある合鍵を取出した。
「…そうかもしれない、」
周太の父の遺品である、この家の合鍵。
けれどよく見ると鍵の根元に小さな凹みが刻まれている、これは元からあった刻みではないだろう。
おそらく周太の父が刻んだ凹み、そしてきっと周太の母の鍵にも周太の鍵にもない。
たぶんこの鍵穴は鍵の根元まで入る、そう思いながら英二は鍵穴に家の合鍵を挿し込んだ。
かちり、音ともに抽斗は開錠された。
(to be continued)
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