ふたりでかさねた記憶と想いと、いま

第31話 春兆act.3― another,side story「陽はまた昇る」
川崎駅まで母を見送って、周太は英二と近所のスーパーマーケットを覗いた。
年明けの華やいだ空気が店内にも明るい、客も店員もどこか和やかな雰囲気がやさしげでいる。
今夜の料理に足りないものと明日の朝と昼の材料を買い足したいな、あと冷蔵庫に足りなくなっていた物も。
そう思いながらショッピングカートに買い物かごをセットすると、物珍しげに隣から英二が覗きこんだ。
「へえ、かごをこうやって置くんだ?それで周太、これに何か入れるの?」
なんでそんな質問をするのだろう?
ごく普通のスーパーマーケットのカートと買い物かご、なのに英二はどうして訊くのかな?
よく解らないままに周太は少し考え込みながら答えた。
「ん、…買いたいものをね、かごに入れるんだけど…」
「ふうん、そうなんだ。ね、周太?このカートをさ、あんなふうに押して歩いていくんだよな?」
「ん、…そうだけど…」
まるで知らないみたいに英二が質問してくる。
それとも英二の近くにあったスーパーにはカートは無いのだろうか?
いまどきそんなスーパーあるのかな?考え込んでいると英二が楽しそうに訊いてきた。
「ね、周太。これ、俺が押してもいい?」
「あ、…ん、いいけど…はい、お願いします」
そんなふうに店内を歩き始めた英二は、物珍しげにカートを眺めている。
なにがそんなに珍しいのかな?どこか変わっているのだろうか。
英二の様子を不思議に思いながらも周太は、食材を選んでカートのかごに入れていった。
「周太?かごに品物どんどん入れているけど、支払いはどういうシステム?カートに入れると自動的にカウントされるとか?」
英二は冗談を言っているの?
でも英二、あんまり面白くないんだけど…笑ってあげるべきなの?
すこし途方にくれながら周太は結局、いつもどおりに生真面目に答えた。
「いや、自動的にとかは無いよ?…レジにまとめて持って行くんだけど…」
「あ、レジがあるんだ?広くって解らなかったよ、周太。ずっと歩いていくとあるんだ?」
「ん、…そう、だよ?」
どうもおかしい。
なんで英二はこんな質問ばかりするの?
英二の切長い目は別に冗談を言っていない、いつもどおり静かだけれど明るい目をしている。
そして微笑みはやさしい穏やかさにいる、ちょっと物珍しそうにしているけれど。
…ほんとうに英二、物珍しいだけ、なのかな
でも何が物珍しいのだろう?
ここは普通のスーパーマーケットでチェーン店だから東京にもあるだろう。
ショッピングカートもごく普通のもの、レジの場所も普通の形式と変わらない。
もしかして。
そんな思いに「まさか、ね?」と心で返事が返ってくる。
けれどこの英二の様子はどう考えても、そんな雰囲気でいる。
そうかもしれない?安くなっていた刺身用の鯛をカートのかごに入れながら、周太は英二に尋ねた。
「あの、…英二って、スーパーマーケットって、初めて来た?」
もし違っていたら失礼な質問かもしれない。
そう遠慮がちに訊いてみた周太に、さらっと英二は笑顔で答えてくれた。
「うん、周太。そうだよ? デパ地下とかコンビニはあるけどさ、
あとパン屋とか個人店。でもこういう店って俺ね、入ったこと無かったんだ。いま周太とが初めてだよ?」
やっぱりそうだった。
英二は自分と同じ23歳で社会人の男、なのにスーパーマーケットに行ったことが無いなんて?
あんまり意外で周太は呆気にとられて、ぼんやり英二の顔を見つめてしまった。
「どうしたの、周太?なんか俺、おかしいこと言ってるかな」
なんかおかしいのかな?そう首傾げながら英二が覗きこんでくれる。
そんな切長い目は本当に不思議そうに周太を見つめて、すこしも冗談の気配がない。
こっちこそ不思議だよ英二?そう思いながら周太はまた尋ねてみた。
「じゃあ、英二?…英二の家では、食事の買物は、どうしているの?」
「スーパーマーケットが配達してくれるんだよ、周太。
駅の近くに店があって、そこが配達してくれるらしい。でも周太、近所もみんなそんな感じだよ?」
英二の実家の最寄駅は成城学園前。
あの駅の最寄りの大学に、学生時代に研究会の用事で一度だけ行ったことがある。
確か高級で有名なスーパーが駅の傍にあった、たぶんその店のことを英二は言っているのだろう。
…そういえば、元町のスーパーでも配達があったな?
中学生の頃から周太はときおり県立図書館を利用している。
神奈川県内ではあの図書館がいちばん蔵書が充実しているし、勉強場所も静かで居心地が悪くない。
それに横浜にある県立図書館まで行けば、わずらわしい知人に会うこともなくて気楽で好きだった。
その帰りは少し歩いて元町の商店街に寄って買物をする、母から頼まれた買物や珍しい食材を揃えるのに元町は便利がいい。
そして元町のスーパーには配達制度がある。
元町に近接する高級住宅地の山手に住む客が常連らしい、それと同じことを英二の家もしている。
…やっぱり英二、結構お坊ちゃんなんだ、ね?
学生時代に訪れた成城学園駅の近隣は、大きな家ばかり建っていた。
街も高級そうなレストランが普通に建っていて、街路樹も珍しい種類の桜が植えられていて贅沢だった。
あの駅が最寄で一軒家だというから宮田家は、それなりに余裕のある家だろうとは周太も思っていた。
けれどまさかスーパーマーケットにも行ったことが無いなんて?途惑いながら周太は、ぽつんと英二に訊いてみた。
「…そう…お金持ちって皆、そんなふう?」
訊いたとたん英二の切長い目が大きくなった。
そんなふうに考えたこと無いよ?そんなふうに意外だと驚いた顔をして英二は口を開いた。
「どうなんだろ?俺んち普通だと思っていたけど、違うのかな?でも周太、奥多摩でも配達してもらう家、結構多いと思うけど」
普通だと思っていた―そんな言葉からも以前の英二の交友関係はハイクラス同士だったことが解ってしまう。
しかも同じ東京とはいえ奥多摩と世田谷をそんなふうに同じに思ったりして?
ほんとうに英二は「普通」の感覚がずれているんだ?
「…奥多摩はね、英二?お店が無い地域だと、移動販売が来るのでしょ?…世田谷とはちょっと違うと思う…」
「へえ、そういうもんなのか?そういえば移動販売?の来るとこは店、少ないかもな。周太、よく知ってるね?」
どうしよう?まさか自分とこんなに育ちが違うなんて?
ちょっと途惑いながら周太は、そのまま買物を続けつつ答えた。
「ん、…あのね、英二?『お店が無いから』と『お店があるけれど配達してもらう』では大きな違いがあるんだよ?…」
「ふうん?…あ、『仕方ないから』と『便利だから』の違いかな、周太?」
「ん、そう、だね…だいたい、そうなんだけど…
たぶん世田谷の方は有料か、ある程度の高い金額じゃないと、たぶん…配達してくれないんじゃないかな」
「へえ?そういうもんなんだね、周太。だったらさ、こうして自分で買いに来る方がいいよな。
安く済むし楽しいし、実際に見て選べるしさ。俺、周太と一緒にこうして買物するの楽しいよ?ね、周太?」
「ん、楽しいね?」
どうやら英二は警察学校に入るまで「何不自由ない」暮らしが当然だったらしい。
でも言われてみれば思い当たる節が多すぎる。
いつも英二は服を買ってくれる、その店も「セレクトショップ」と言われる洒落た店らしい。
11月に瀬尾と関根と4人で飲んだときに瀬尾から「その服ってあの店だよね、結構いい店で好きだよ」と言われた。
そんな瀬尾の実家は英二と同じ成城で、たしか会社経営をしている。そんな瀬尾はそれなりの店での買物をするだろう。
…そんな店でも英二は、値札あまり見ないで買ってくれている、な
けれどそのくせ英二は、自分のクライマーウォッチを自分で買うときは安い方を選んで買っている。
その理由を英二は「今の自分にはまだ贅沢だと思ったんだ」と言っていた。そんな堅実さも英二は持っている。
そんな堅実な性格のくせに英二は、周太と会うまで茶の淹れ方すら知らなかった。
ほんとうに家事など一つもやったことが無かったのだろう。
…英二、警察学校の寮の初日って、洗濯はどうしていたのかな?
きっと洗濯機の使い方も知らなかっただろう。
けれど靴の洗い方や手入れは知っていて、山岳訓練の後で怪我した周太の靴まできれいにしてくれた。
クリスマスに風呂掃除をしてくれた時は「小学校の課題で『家の手伝い』があったから姉ちゃんに教わったんだ」と言っていた。
たぶん英二は本質が実直だから、自分が興味あることは責任を持って覚えて、自分で出来るようになったのだろう。
そして英二はいま「スーパーマーケットでの買物」に興味を持っているらしい。
…この調子で英二、ちゃんと「普通に生活」する方法を身に付けてくれるといいな
実家での不自由ない生活から英二は寮生活になった。
寮生活なら洗濯と自室の片づけが出来れば生活に困らないだろう、だから今はまだ英二は不自由がない。
けれどいずれ寮を出た時には、買物から炊事、きちんとした掃除が出来ないと困ってしまう。
ほんと困ってしまう。そう思いながら周太が会計も済ませ袋に品物を入れると、感心したように英二が口を開いた。
「へえ、よくこの大きさにあれだけ入るな?周太って器用だね、それともこの袋なんか特別なの周太?」
やっぱりエコバッグも知らなかった。
こんなにも世間知らずだと今まで気がつかなかった、もう9ヶ月ほど一緒にいるのに?
ほんとうに育ちが違い過ぎるんだ、ちょっと困りながらも周太は答えた。
「…普通のエコバッグだよ?英二、…エコバッグ知らないの?」
「エコバッグって言うんだ?うん、俺、知らなかったよ。便利で良いな、これ。ね、周太?どこで売ってるんだ?」
「ん、…スーパーとか、雑貨屋とか…だけど」
そっと周太はため息をついた。
こんなにも不自由なく英二を育てたのは、もちろん英二の母親だろう。
この美しい息子を溺愛して、きっと何もかも全て彼女が整えて手元に愛してきた。
そんな英二の母親はこんなふうに、英二に買物をさせて荷物を持たせることを何て思うのだろう?
…けれど、英二本人はね、…ほんとうに楽しそうにしている、よね
感心しながらエコバッグを持つ英二は、初めて持つ食材の買物袋が楽しくて仕方ないという顔をしている。
そんな英二は周太の右掌をとって左掌にくるむと英二のコートのポケットに入れてしまった。
そのまま店を出て歩きだす英二は幸せそうで、つい見上げてしまう。そんな周太に英二が笑いかけてくれた。
「周太。俺ね、知らない事いっぱいあるんだ。
だからさ、俺って周太から何でも教わっているだろ?国村にも言われたんだ、宮田って湯原くんに何でも教わってるよなあってね」
「…そう、なの?…英二って物知りだと俺、いつも感心しているんだけど…」
実直な性質の英二は物事をきちんと調べるところがある。
だから話してみると知識も話題も豊富で、そんな英二だから寡黙な方の周太も話していて楽しい。
そういう英二が生活的な事柄はほとんど知らないでいることが、周太には意外で驚かされた。
…けれど、育ちが良いのと物知りは、別の話、だよね…
思い至って周太はちいさくため息を吐いた。
自分と英二は育ちが違う、けれどもう婚約をしてしまった。
こんなに育ちが違うのに大丈夫かな、ほんのすこし不安に胸噛まれる周太に英二は笑ってくれた。
「うん、知っていることもあるよ。
でもね、周太?生きるのにさ、基本的な大切なことはね、ほとんど全部を俺、周太から教わってばかりいる。
俺ってね、そういうこと本当に何も知らないんだ。だからね、周太?俺ってね、ほんとに周太がいないとダメなんだ。
だからさ、周太に早く奥さんになってほしいよ?そして俺のことたくさん教育してよ、周太。夫って妻が教育するものなんだろ?」
…奥さん、妻、教育
なんてきはずかしいことばだろうどれも?
ほらもう首筋が熱くなってくる、ここは外で通りを歩いているところなのに。
けれど、恥ずかしい分だけほんとうは、どれも幸せな単語でいる。
―ほんとに周太がいないとダメなんだ。だからさ、周太に早く奥さんになってほしいよ?
そんなふうに必要としてもらえて、やっぱりうれしい。
やっぱりそんなふうに求めてもらえると応えたくなってしまう、だって想いはもう深いのだから。
そして思ってしまう ― ほんとうは今すぐに一緒に暮らして教えてあげたい。
けれどそれはまだ出来ない、でも必ず「いつか」そう出来るようになりたい。
そんな想いのままに周太は覗きこんでくる英二の目を見つめて答えた。
「…ん、あの…はい、…でも、待たせるかと思うけど…でも、がんばります」
ほらやっぱり答えるだけで恥ずかしい。
もう頬も熱くなってしまっている、こんなに赤くなって余計に恥ずかしい。
そう思っている周太の頬に素早いキスがふれて、きれいに英二が笑った。
「うん、がんばって?俺の婚約者さん」
がんばるけどでも待って?
お願いこういうことも待ってほしい困ってしまう。
でもうれしいどうしよう?途惑ったまま周太はお願いしてみた。
「…あの、…きゅうにそんなことされるとちょっと…あのうれしいんだけどでも…こころのじゅんびが、ね」
「うれしいって周太が想ってくれるとさ、俺、ほんと幸せだよ周太?…はい、帰ってきたよ」
右掌をコートのポケットのなかでそっと握りながら英二は家の門を開けてくれた。
飛石を踏んでいく庭は冬の午後の陽射しに淡くオレンジ色になっている、ふと英二の視線が庭を眺めて微笑んだ。
そんな英二に気がついて周太も視線を追うと一緒に微笑んだ。
「ん、…今日もね、『雪山』たくさん咲いてくれてるね…」
山茶花『雪山』は今日も真白な花を咲かせてくれる。
この花木を見るたび父が自分の誕生を寿いでくれた、その想いがそっと寄り添ってくれるようで温かい。
この木の緑は冷たい空気にも変わらない、そんな緑に囲まれる花は真白でやわらかで可憐な姿を見せている。
華奢な幹にうすい花びらの白い花の優美で可憐なやさしい花木、けれど冬のさなかにも花を咲かせる木。
「花言葉は『困難に打ち克つ』だったな。ね、周太?」
隣から微笑んで英二が訊いてくれる。
その花言葉が自分ではいつも不思議に想える、そのままを素直に周太はつぶやいた。
「ん、…不思議な感じ、だね…」
「なにが不思議?」
やさしい穏やかな、きれいな低い声が訊いてくれる。
尋ねられて周太はすこし首傾げると、空いている方の左掌を頬に当てて、ゆっくりと答え始めた。
「ん…この木は幹も細くてね、花も繊細な感じでしょ?…だからね、そういう強い言葉なのが、不思議なんだ」
「そうだね、周太。この木は繊細な感じするな。でもね、周太?とても強い木でもあるって、俺は想うよ?」
「そう、なの?」
自分の花木について考えてくれている。
そして自分が気がつかないことを教えてくれようとしている、それが嬉しい。
どんなふうにこの隣は見てくれているのだろう?見つめる先で英二は微笑んで教えてくれた。
「うん。同じ『雪山』がさ、御岳山にもあるのを周太、見つけて俺に教えてくれただろ?
でね、周太?その御岳山の『雪山』はさ、どんなに寒くて雪が降る日でも、きちんと花が咲いているんだ」
御岳山の『雪山』は風雪にも花を開かせる。
それを雪ふる日の巡回にも英二は見つめてくれていた、自分が見つけた『雪山』に目を留めてくれた。
そんなふうにいつも自分を想いながら歩いてくれている?
そんな想いに周太は隣を見あげて、話してくれる切長い目と端正な唇を見つめた。
「ね、周太?雪の冷たさにもね、花は落ちないんだよ。
俺ね、それを初めて見た時にさ。周太とよく似ているって想ってね、愛しかった」
愛しかった、似ているって想って。
雪の冷たさに落ちない花に自分を重ねて見つめて、愛しさに微笑んで。
そんなふうに自分をいつも想って微笑んでくれているの?
…やっぱり、…このひとが、すき
そっと心につぶやきがこぼれてしまう。
やっぱり自分はこのひとが大好きで、愛していて。一緒にいたくて。
そしてこんなふうに想われていたら、もう、誰に何て言われても離れることは出来ない。
自分とは育ちが違うひと、「普通の幸せ」を当然と生きていたひと。
なに不自由なく育てられ溺愛されてきた、そんなふうに自分とは別世界に育ったひと。
きっと人生の風雪と言えるような厳しさとは無縁に英二は育ってきた。
けれどいま英二が望んで立っているのは「風雪」峻厳な掟が支配する冬山の世界。
警視庁管轄でも最も厳しい現場である奥多摩で、山岳救助隊として英二は生きることを選んだ。
そんな英二だから、風雪にも花咲く姿に心奪われること、当然だろうと納得できてしまう。
そんな花に自分を重ねて、そして想いを告げてくれている。
…このひとは、本気…心からもう、自分を望んで求めてくれている
だから、ごめんなさい。ごめんなさい英二のお母さん。
やっぱり後悔なんて出来ません、あなたの息子を受入れてしまったこと。
こんなに本気で望んで愛してくれて、こんなに幸せな笑顔を見せてくれる、あなたの息子を拒むことは出来ません。
あなたの怒りも哀しみも憎悪も解っています、けれど後悔も拒絶も出来ません。
英二のお母さん。
きっとお会いする日が来るでしょう、その時きっと俺の頬を叩くでしょう?
卒業式の翌朝に、あなたは愛する息子の頬を叩いた。けれど本当に叩きたかったのは、俺の頬なのでしょう?
…そのときはね、好きなだけ、俺の頬を叩いてください
きっと何度叩いても、あなたの哀しみも怒りも止まない。
けれどあの朝からずっと考えているんです、あなたの息子の腫れた頬を見た時から。
ほんとうは俺に向けるはずの怒りを、愛する息子へ向けざるを得なかった、あなたの哀しみが哀しい。
ほんとうは俺が受けるべきだった怒りを、代わりに受けさせてしまった英二の、哀しみ痛みを受け留めたい。
自分が受けるべき全てを胸張って受け留めたい。
だって自分はこの隣への想いが誇らしい、真直ぐに愛されて自分も愛していること誇らしい。
だからこの想いに関わるものならば、全てから自分は逃げたくない。
…だからね、英二のお母さん…あなたの想いも俺はね、受け留めたい
「繊細で純粋なままでも、厳しい寒さに真直ぐに立っている姿はさ。本当に、きれいなんだ」
御岳山に咲く『雪山』の話をしながら英二が笑ってくれる。
自分の素直な想いに望んで立つ厳しい現場にこそ、美しさを見つめて英二は笑っている。
こんなに幸せそうに英二は笑ってくれている、隣の笑顔がうれしくて周太は微笑んだ。
「…ん、そうなの?」
「うん…周太、」
そっと唇に唇が重ねられる。
穏やかだけれど熱い英二のくちづけ、言葉にはならなくても想いは饒舌に伝えられる英二のキス。
大好きだ愛している求めているよ?そんな想いが重なる熱のはざまから訴えかけてくる。
そっと離れた唇が微笑んでくれる、そんな隣を見上げて周太は微笑んだ。
「英二?…また、御岳の『雪山』にも、会いに行きたいな」
「うん。また奥多摩に来てよ、周太?冬山は厳しいけれどね、本当にきれいなんだ。大会が終わったら来れる?」
英二が愛し始めている「冬山」
低温と雪と氷が支配する冷厳にねむる冬の山、その厳しさと凛冽の美しさこそ英二は愛している。
だから自分も見つめてみたい、この愛するひとが見つめ愛するその世界を。
その冬山の冷厳さにひそむ危険に自分は不安にさせられる、この愛するひとの無事を祈ってもうこんなに胸が痛い。
けれど不安ばかりに捕われていたくない、だから自分も隣に立って見つめてみたい。
ね、英二?一緒に見つめられたらきっと見つけられるね?
あなたの愛する世界が危険をはらんでいても、その真実の美しさに自分も気づけるはず。
そして一緒にまた幸せな記憶を重ねていけるね?そんな想いが嬉しくて周太は微笑んだ。
「ん、…たぶん休暇がもらえると想うんだ…でも、英二も訓練とか、あるよね?」
「登山訓練なら周太も一緒に出来るだろ?吉村先生と一緒に登るときはね、周太?参加してみたいだろ」
青梅署警察医の吉村医師。
英二のことを実の息子のように想って、いつも温かく見守ってくれているひと。
そして英二に奥多摩の山を教え、山の遭難事故とそれへの対応を医師として山ヤとして教えてくれるひと。
吉村医師は婚約のこと何て言ってくれるのだろう?
それを聴きたい、そしてアドバイスをしてほしい。自分もあのひとは好きで尊敬しているから。
そんな吉村の笑顔の記憶が温かい、微笑んで周太は答えた。
「あ、…それは参加したい…吉村先生にお会いしたいな、一緒させてくれる?」
「もちろん。吉村先生もね、周太に会いたがっているよ?またコーヒー淹れてほしいってさ」
話しながら手を繋いで玄関へ歩いていくと、英二は首に提げた合鍵を荷物を持ったままの右手だけで取り出した。
ふつうの小さな合鍵だけれど父の遺品で、そして今は英二の宝物の鍵でいる。
その鍵で開錠すると扉を開いて英二は、そっと周太の右掌をポケットから出して離した。
そうして先に玄関先に立つと振向いて、きれいに周太へと微笑んでくれた。
「お帰り、周太」
ほら、なんて幸せそうな笑顔だろう?
こんな顔で英二は自分に笑いかけてくれる、こんな幸せな顔で。
だから自分は隣から離れられない、自分が離れたらこの笑顔を曇らせてしまうと思い知らされている。
― おいで?
そんなふうに切長い目が笑いかけてくれる。微笑んで周太は一歩玄関へと踏み込んだ。
「ただいま、英二」
きれいに笑って周太は英二の腕に入ると、そっと背に掌をまわして広い背中に抱きついた。
自分よりずっと広い背中、ずっと高い背、そして強靭な腕や肩。
出会った頃は自分の方が武道も喧嘩も強かった、けれど今はもう違ってしまっている。
もう英二は軽々と自分を抱き上げてしまう、もう自分が守られる方になってしまった。
それでも自分こそがこのひとを守りたい。
だって英二がいちばん幸せそうに笑ってくれるのは、自分が隣にいる時なのだから。
「ね、周太?俺、周太が作ったココアが飲みたいな。作ってくれる?」
「ん。じゃあ、父にも持って行ってくれる?…俺もね、今日は作ろうって想っていたんだ」
こんな「おねだり」も自分にだけしてくれる。
こんな特別が幸せで温かい、もっと甘えてほしい、そして安らいで?
そして必ず自分の隣に帰りたいと願ってほしい、いつも冬山からでも無事に帰って来られるように。
「やっぱり気が合うね、俺たち。ね、周太?もう夫婦みたいだね?」
「…そういうこというのちょっとはずかしくなるから…だいどころたつまえだとあぶないから…でも、うれしい」
でも、こういうこというのは、ちょっと。
うれしいんだけどはずかしいんだけど…なんだかよくわからなくなるよ?
そんなふうに見上げる自分の頬が熱い、困ってしまう。どうしよう?
「周太がね、うれしいなら、俺もうれしいな。
周太、俺はね、周太の隣が大好きなんだ。だってさ、うれしい周太の顔をいちばん近くで見られるだろ?」
こんなふうに言われたら幸せになってしまう。
ほらもうこんなに心が温かい、だからきっとと確信してしまう「ふたり一緒にいることは正しい」
さっき婚約の花束を水切りしながら、母に言われた通りに素直に想いが頷いてしまう。
「…ん、俺もね、英二の隣が大好きだよ」
そう、大好き。
だから台所に立とう、ココアを入れてお節の支度して。そして喜ばせてあげたい。
こういう家庭的なことなら自分にもできる、ずっと母の為にしてきたことだから。
ささやかだけれど温もりを英二に贈ってあげられたら、ふたりきりでも家庭は温かく築けるかもしれない。
…大切な母のために、努力してきたからね?…きっと、けっこう頑張れるはず。だよね?
ささやかな自信に微笑んで、周太はお節料理の支度をしながらココアを作り始めた。
昼食の時にもお節料理の支度を進めていたから残りの支度はあと少しだけ。
昼食はパンとスープとサラダとアイスクリームだった、たぶん英二はすぐお腹が空くだろう。
きっと夕食は早めの方が良いだろうな、そう考えている肩にふと気配を感じて周太は振り向いた。
振向いた視線にすぐ切長い目が微笑んでくれる、幸せそうなのに悪いんだけど?そう思いながら遠慮がちに周太は申し出た。
「…あのね、英二?…あんまり見つめられると恥ずかしくて…きんちょうするんだけど…それに」
「それに、なに?周太」
「…ちょっと距離が近い…です、あぶないです。…ね、英二?そこの椅子にすわってまっていて?」
「嫌だよ周太、離れたくないよ。だって周太、風呂に入る時はさ、離ればなれだよ?
そのとき周太はね、たくさん俺に我慢させるんだからさ。他では好きなようにさせてよ。ね、周太?いいだろ」
…また風呂の話なのえいじ?
すこし周太は呆れながら困ってしまった。
クリスマスの日に英二は散々「一緒に風呂に入って」とねだってくれた。
でもこればっかりは言うことを聴いてあげられない、だって恥ずかしすぎてきっとだめ。
だって風呂場で恥ずかしくて真赤になったら、逆上せすぎて気絶するかもしれない、そんなの困る。
ほらいまもう赤くなってきているきっと。
それにしても「一緒にいたい」って想ってもらうの、嬉しいけれど、こんなに駄々っ子されたら困ってしまう。
こんなに英二は大人びて美しくなったのに、こんなふうに子供に戻るなんて?
すこし途惑いながら周太は頬赤くしたまま、そっと英二に言った。
「…英二、駄々っ子みたい…だよ?」
言われた切長い目がすこし大きくなる。
この顔かわいくて好き、見上げて周太はちょっと微笑んだ。
そう見上げた端正な顔がすぐ幸せ華やかに笑って、英二は周太の顔に白皙の頬を寄せてくれた。
「うん、俺ね。周太には駄々っ子にもなりたい。
だってさ、夫は妻には甘えるものなんだろ?だからね周太、俺は周太には甘えて駄々っ子にもなるんだ」
…周太には、駄々っ子に…甘えるもの、甘えて駄々っ子に
ふっと周太のココアの小鍋を混ぜる手が止まった。
英二の言葉に迫り上げるような想いが深いところから温かい、これはなんの想い?
きっとこの想いは、そう「無償の愛情」なんじゃないのかな?
だっていま肩に載っている端正な顔が、無条件で愛しくて可愛くて仕方ない。
そんな自分の想いに気づかされ、そして愛しさと一緒に哀しみが深くから温かく湧き起る。
…ね、英二?…誰にも、心から甘えたこと、なかったんだね?
美しい華やかな容貌の英二。
警察学校の修学旅行で言っていた「子供のころからモテていた」そう聞いたときは自分の孤独に痛かった。
けれどこうして英二を見つめるようになって気づいたことがある。
きっと英二はこの容貌のために、想いのまま心から誰かと触れあったことが無い。
―あの夜にさ、周太の部屋からもれる光が、俺を待ってくれている一つだけの場所に思えたんだ
雲取山に登った後で英二は、警察学校時代に脱走した日の想いを話してくれた。
あのときの言葉「一つだけの場所」その言葉の意味が今、はっきり思い知らされてしまう。
きっと英二は本当に「孤独」に生きていたのではないのか?
自分も他人と壁を作って孤独だった、けれど母には素顔で接することが出来ていた。
お互いよく似た親子だから本当に辛い13年間は逆に涙を見せられなかった、けれど理解しあって想いあっている。
でも英二はきっと母親にすら素顔を見せることを諦めて、あの「冷たい仮面」で接していた。
…英二の、お母さん…あなたはこのことに、気がついていますか?この美しいひとの孤独を、知っていますか
あなたが息子へかけた愛情は、母親として真実だったのでしょう?
けれど知っているんです、あなたの息子がどれだけ寂しい想いで生きて来たのか。
だって初めて会ったときの英二の目は「冷酷な仮面」の底で泣いていたのだから。
あなたが見つめたのは「美しい容貌の息子、能力ある息子」だったのでしょう?
けれど、あなたの息子の本当の美しさは、容貌でも能力でもないんです。
このひとが美しいのは、真直ぐな心から見つめる想いの美しさなのだから。
だから英二は苦しんだ、心を見つめてもらえない苦しみに「冷酷な仮面」に閉じこもって。
そのことに俺は気づいてしまったんです、だから「冷酷な仮面」を壊してしまいました。
だからこそ、自分が全て受け留めたい。
だって英二の仮面を壊したのはこの自分、そして英二を今の道に立たせたのは自分だから。
そうして英二を自由に生きさせて、あなたの手元から放してしまったのは自分だから。
…あなたの息子への愛情は…籠の中のきれいな鳥、…
英二の容貌は確かに美しくて惹きつけられてしまう。
けれど英二は「容貌」に閉じ込めていい人じゃないんです。
英二の本質は今いる通り「自由ほこらかな誇り高き山ヤ、そして山岳レスキュー」それが英二の輝く姿です。
それは大らかで人の範疇を超えた世界、美しくて峻厳な掟に生きる人の姿そのものなんです。
…そして、それは籠の中では、生きられないひとの姿なんです
だから俺は英二が最高峰へ立つという夢を止めることはしません。
その場所の危険を知っている、それでも止めないのは英二が「生きる」姿を愛して信じているから。
だから英二に仮面を作らせ閉じ込めた、あなたの愛情に頷くことは自分には出来ません。
あなたの愛情は間違っていた「英二を生かす」という意味において、あなたは間違えてしまった。
けれど愛する想いは自分にもわかる、だからあなたの想いを自分が受け留めたい。
…そして、ね?見てほしいです、ほら、この笑顔
周太はガスを停めると、静かに英二に向き直って見上げた。
こうして見つめただけ。それなのに英二の顔には幸せな笑顔が大輪の花のように咲いてくれる。
この美しい笑顔に気づかされてしまう、これまでの英二の孤独と英二の幸せがどこにあるのか。
…ね、英二?…ほんとうに寂しかったんだね、…姿じゃなくて、心を見つめてほしかったんだよね?
俺は知っているよ、英二?
だって自分はずっと、あなたの目を見つめてきたのだから。
真直ぐ見あげて目を見つめながら周太は、そっと英二の首に腕を回して端正な体に抱きついた。
ふれる温もりが穏やかで幸せで微笑んでしまう、微笑んで周太は英二に告げた。
「ん…甘えてくれるの、うれしい…俺でもね、甘えてもらえる…英二の役に立てるなら、…うれしいんだ…」
よりそった温もりがすこし震えて、そっと力強い腕が周太を抱きしめてくれる。
役に立つとかそんなんじゃないのに?そんなふうに切長い目が微笑んで、やわらかく腕に力を入れながら英二が言ってくれた。
「役に立つとか違うよ周太?言っただろ、俺はね、周太がいないとダメなんだ。ほんとだよ、」
「ん…ほんとうに?」
周太の額に額を付けて英二が瞳を覗きこんでくれる。
こんなに近いと気恥ずかしい、けれど真直ぐ周太も見つめ返した。
そう見つめあいながら英二はきれいに笑って答えてくれた。
「ほんとうだよ、周太。だって俺ね、姉ちゃんにまで言われたんだ。
あんたは湯原くんがいないとダメ、他に迷惑かけると困るから一緒にいてもらいなさい。だってさ。ね、だから俺、周太がいないとダメなんだ」
英二の、お姉さん。
2度会ったことがある英二によく似た美しい女のひと。
そのまなざしは聡明で、きっと自分に出会うまでは英二の一番近くにいたひと。
そのひとが、そんなふうに自分をみてくれるの?
「…お姉さんまで、そう言ってくれるの?」
― 唯一つの居場所を見つけられる。とてもきれいで、素敵な事よ
11月に会ったとき彼女はそう言って笑ってくれた。
そして周太に胸を張ってほしいと言ってくれた、そんな温かなやさしい美しいひと。
あのひとは自分を受入れようとしてくれている、そして祝福してくれる。
ほんとうは英二のお母さんに憎まれて苦しい、それから逃げるつもりは無いけれど。
だから尚更に英二の姉の想いが心に響く、そんな想いが幸せで嬉しくてならない。
そんな想いの熱が瞳の奥にそっと昇って周太の視界を温かく揺らしていく。
そんな周太に英二は微笑んで、今にも零れそうな目許にそっとキスをしてくれた。
「そうだよ周太?姉ちゃんな、周太のこと好きなんだって。
だから籍を入れたらね、甥っ子としてデートして可愛がりたいってさ。
でね、また会いたいなって言ってたよ。2月の射撃大会終わったらさ、会ってやってくれる?」
自分こそ会いたい。
ほんとうに自分は彼女にたくさん背負わせてしまっている、それを謝りたい。
そして「ありがとう」を伝えたい、それから1つでも彼女が喜んでくれることを教えてほしい。
しずかに涙が頬伝うのを感じながら周太は英二に答えた。
「ん、…俺もね、お姉さんに会いたい。…俺もね、お姉さんのこと好きだよ?…おれ、…うれし、いよ…」
あふれて零れていく涙を英二がキスで拭ってくれる。
ふれる唇の熱が温かくて愛しくて、幸せの底からこの唇の主の笑顔を祈ってしまう。
どうかこの美しい優しいひとを自分に守らせて?そう見つめる笑顔が幸せそうに周太を抱きしめてくれた。
「きっとね、周太?俺と一緒なら周太は、たくさん幸せを見つけられるよ?だから周太、ずっと一緒にいよう?
今は離ればなれで暮らしているけれど、『いつか』には絶対に一緒にいよう?法律でも、住む場所も、一緒にいよう、周太」
法律でも住む場所でも、ずっと一緒に。
そのために英二は分籍して家を捨てる、そして英二の姉が宮田の家を背負ってしまう。
だから自分もこの家の跡取りであることを捨てる、そんなにまでしても、自分は一緒にいたい。
だからお願い愛するひと、どうぞ自分を抱きしめていて?
「…ん、いっしょにいて?英二…俺のこと、はなさないで?」
「うん。俺ね、絶対に周太を離さない。
いつだって、どんな場所からだって、俺は周太を救って掴んで離さない。
だって俺、周太がいないとダメなんだ。もうね、これは仕方ないんだよ周太?」
「ん…仕方ない、ね?英二」
きれいに笑って周太は大好きな笑顔を見上げてた。
この笑顔に自分は全てを懸けて生きていく。
いまエプロンのポケットに入れてあるクライマーウォッチは英二の大切な時間と夢の結晶でいる。
それをもう自分は受け取った、そして今日は婚約と求婚の花束も受け取って抱きしめた。
― きみを愛している 幸せは、きみと一緒にしか見つけられない
すこし背伸びするよう周太は英二を抱きしめて、そっと唇に唇でふれた。
ふれるだけのキス、それでも自分には精一杯の想いのキス。
あなたを幸せにしたい、きれいな笑顔を一つでも多く見つめさせて?
そんな想いを残しながら静かに離れて周太は英二を見つめた。
やっぱり自分からするのは尚更に気恥ずかしい。
けれど想いを伝えれて幸せで、そう見上げる先で英二がきれいに笑った。
いつもより少し切ないような笑顔が不思議で見つめていると、さらりと英二は周太に言った。
「ね、周太?だからさ、風呂も一緒に入ってよ?俺、周太がいないとダメなんだから」
なんてこというのこんなときにまで?
言われた途端にもう、また顔が熱くなってしまう。
もうだめ。そんな想いに背中押されて周太は英二の腕から抜け出してしまった。
そのままココアの鍋を火にかけると黙々と手を動かし始めた、ほんとうに困ってしまう。
それなのに英二は笑いながら声をかけてくる。
「周太?沈黙は了解、ってことでいいの?」
お願いやめて?
手を動かしたまま周太は一瞬ふるえて、けれど即答した。
「…だめです、ふろはだめです…」
だめ恥ずかしい、そんなの絶対に無理で。
だって本当に英二は変わってしまった。警察学校の時と今では3ヶ月だけれど別人になっている。
服を着ていて抱きしめられたってわかる、英二の体つきは精悍さを強めている。
きっと毎日の訓練が英二の心身を鍛えている、それくらい英二が真剣に取り組んでいることがわかる。
そして本当に、ベッドで抱きしめられる度ごと英二の変化が顕著で途惑っている。
ずっと自分より逞しくて美しい体が強く自分を求めてくる、そんなときいつも自分は壊れそうになる。
いつもの自分と違う自分にされて、心ごと浚われて全て奪われて繋がれてしまってもう何も解らなくなる。
そんな翌朝に目覚めれば英二の体を見ることになる、その姿は強靭で美しくて見惚れてしまう。
そして夜のことを想いださせられて恥ずかしくて困ってしまう、けれど幸せは温かくて。
それでもベッドならシーツに包まっていられるから、まだいい。
けれど風呂場ではどうしたらいいの?どうにも出来ないでしょだから無理もうだめ。
しかもこの家の風呂は広くて白熱灯のランプも明るい。昼間だって窓からふる太陽の光で明るい。
…だからふろなんてぜったいだめ…きっと恥ずかしすぎて真赤になりすぎて…きぜつするにきまっている
もう今だって考えただけで真赤になっている。
これ以上なんてもう絶対に無理、だから英二ごめんね諦めてね?
そう考えながらココアの小鍋をスプーンでぐるぐる回していると、きれいな低い声が背後から言った。
「ね、周太?周太がさ、今は俺と風呂入ってくれないのは、いつも俺が周太のことを脱がせて抱いちゃう所為なんだ?」
……べっどでだきしめられるごとに……
かたん、
………スプーンが、木の床に落ちた…音か、な
(to be continued)
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第31話 春兆act.3― another,side story「陽はまた昇る」
川崎駅まで母を見送って、周太は英二と近所のスーパーマーケットを覗いた。
年明けの華やいだ空気が店内にも明るい、客も店員もどこか和やかな雰囲気がやさしげでいる。
今夜の料理に足りないものと明日の朝と昼の材料を買い足したいな、あと冷蔵庫に足りなくなっていた物も。
そう思いながらショッピングカートに買い物かごをセットすると、物珍しげに隣から英二が覗きこんだ。
「へえ、かごをこうやって置くんだ?それで周太、これに何か入れるの?」
なんでそんな質問をするのだろう?
ごく普通のスーパーマーケットのカートと買い物かご、なのに英二はどうして訊くのかな?
よく解らないままに周太は少し考え込みながら答えた。
「ん、…買いたいものをね、かごに入れるんだけど…」
「ふうん、そうなんだ。ね、周太?このカートをさ、あんなふうに押して歩いていくんだよな?」
「ん、…そうだけど…」
まるで知らないみたいに英二が質問してくる。
それとも英二の近くにあったスーパーにはカートは無いのだろうか?
いまどきそんなスーパーあるのかな?考え込んでいると英二が楽しそうに訊いてきた。
「ね、周太。これ、俺が押してもいい?」
「あ、…ん、いいけど…はい、お願いします」
そんなふうに店内を歩き始めた英二は、物珍しげにカートを眺めている。
なにがそんなに珍しいのかな?どこか変わっているのだろうか。
英二の様子を不思議に思いながらも周太は、食材を選んでカートのかごに入れていった。
「周太?かごに品物どんどん入れているけど、支払いはどういうシステム?カートに入れると自動的にカウントされるとか?」
英二は冗談を言っているの?
でも英二、あんまり面白くないんだけど…笑ってあげるべきなの?
すこし途方にくれながら周太は結局、いつもどおりに生真面目に答えた。
「いや、自動的にとかは無いよ?…レジにまとめて持って行くんだけど…」
「あ、レジがあるんだ?広くって解らなかったよ、周太。ずっと歩いていくとあるんだ?」
「ん、…そう、だよ?」
どうもおかしい。
なんで英二はこんな質問ばかりするの?
英二の切長い目は別に冗談を言っていない、いつもどおり静かだけれど明るい目をしている。
そして微笑みはやさしい穏やかさにいる、ちょっと物珍しそうにしているけれど。
…ほんとうに英二、物珍しいだけ、なのかな
でも何が物珍しいのだろう?
ここは普通のスーパーマーケットでチェーン店だから東京にもあるだろう。
ショッピングカートもごく普通のもの、レジの場所も普通の形式と変わらない。
もしかして。
そんな思いに「まさか、ね?」と心で返事が返ってくる。
けれどこの英二の様子はどう考えても、そんな雰囲気でいる。
そうかもしれない?安くなっていた刺身用の鯛をカートのかごに入れながら、周太は英二に尋ねた。
「あの、…英二って、スーパーマーケットって、初めて来た?」
もし違っていたら失礼な質問かもしれない。
そう遠慮がちに訊いてみた周太に、さらっと英二は笑顔で答えてくれた。
「うん、周太。そうだよ? デパ地下とかコンビニはあるけどさ、
あとパン屋とか個人店。でもこういう店って俺ね、入ったこと無かったんだ。いま周太とが初めてだよ?」
やっぱりそうだった。
英二は自分と同じ23歳で社会人の男、なのにスーパーマーケットに行ったことが無いなんて?
あんまり意外で周太は呆気にとられて、ぼんやり英二の顔を見つめてしまった。
「どうしたの、周太?なんか俺、おかしいこと言ってるかな」
なんかおかしいのかな?そう首傾げながら英二が覗きこんでくれる。
そんな切長い目は本当に不思議そうに周太を見つめて、すこしも冗談の気配がない。
こっちこそ不思議だよ英二?そう思いながら周太はまた尋ねてみた。
「じゃあ、英二?…英二の家では、食事の買物は、どうしているの?」
「スーパーマーケットが配達してくれるんだよ、周太。
駅の近くに店があって、そこが配達してくれるらしい。でも周太、近所もみんなそんな感じだよ?」
英二の実家の最寄駅は成城学園前。
あの駅の最寄りの大学に、学生時代に研究会の用事で一度だけ行ったことがある。
確か高級で有名なスーパーが駅の傍にあった、たぶんその店のことを英二は言っているのだろう。
…そういえば、元町のスーパーでも配達があったな?
中学生の頃から周太はときおり県立図書館を利用している。
神奈川県内ではあの図書館がいちばん蔵書が充実しているし、勉強場所も静かで居心地が悪くない。
それに横浜にある県立図書館まで行けば、わずらわしい知人に会うこともなくて気楽で好きだった。
その帰りは少し歩いて元町の商店街に寄って買物をする、母から頼まれた買物や珍しい食材を揃えるのに元町は便利がいい。
そして元町のスーパーには配達制度がある。
元町に近接する高級住宅地の山手に住む客が常連らしい、それと同じことを英二の家もしている。
…やっぱり英二、結構お坊ちゃんなんだ、ね?
学生時代に訪れた成城学園駅の近隣は、大きな家ばかり建っていた。
街も高級そうなレストランが普通に建っていて、街路樹も珍しい種類の桜が植えられていて贅沢だった。
あの駅が最寄で一軒家だというから宮田家は、それなりに余裕のある家だろうとは周太も思っていた。
けれどまさかスーパーマーケットにも行ったことが無いなんて?途惑いながら周太は、ぽつんと英二に訊いてみた。
「…そう…お金持ちって皆、そんなふう?」
訊いたとたん英二の切長い目が大きくなった。
そんなふうに考えたこと無いよ?そんなふうに意外だと驚いた顔をして英二は口を開いた。
「どうなんだろ?俺んち普通だと思っていたけど、違うのかな?でも周太、奥多摩でも配達してもらう家、結構多いと思うけど」
普通だと思っていた―そんな言葉からも以前の英二の交友関係はハイクラス同士だったことが解ってしまう。
しかも同じ東京とはいえ奥多摩と世田谷をそんなふうに同じに思ったりして?
ほんとうに英二は「普通」の感覚がずれているんだ?
「…奥多摩はね、英二?お店が無い地域だと、移動販売が来るのでしょ?…世田谷とはちょっと違うと思う…」
「へえ、そういうもんなのか?そういえば移動販売?の来るとこは店、少ないかもな。周太、よく知ってるね?」
どうしよう?まさか自分とこんなに育ちが違うなんて?
ちょっと途惑いながら周太は、そのまま買物を続けつつ答えた。
「ん、…あのね、英二?『お店が無いから』と『お店があるけれど配達してもらう』では大きな違いがあるんだよ?…」
「ふうん?…あ、『仕方ないから』と『便利だから』の違いかな、周太?」
「ん、そう、だね…だいたい、そうなんだけど…
たぶん世田谷の方は有料か、ある程度の高い金額じゃないと、たぶん…配達してくれないんじゃないかな」
「へえ?そういうもんなんだね、周太。だったらさ、こうして自分で買いに来る方がいいよな。
安く済むし楽しいし、実際に見て選べるしさ。俺、周太と一緒にこうして買物するの楽しいよ?ね、周太?」
「ん、楽しいね?」
どうやら英二は警察学校に入るまで「何不自由ない」暮らしが当然だったらしい。
でも言われてみれば思い当たる節が多すぎる。
いつも英二は服を買ってくれる、その店も「セレクトショップ」と言われる洒落た店らしい。
11月に瀬尾と関根と4人で飲んだときに瀬尾から「その服ってあの店だよね、結構いい店で好きだよ」と言われた。
そんな瀬尾の実家は英二と同じ成城で、たしか会社経営をしている。そんな瀬尾はそれなりの店での買物をするだろう。
…そんな店でも英二は、値札あまり見ないで買ってくれている、な
けれどそのくせ英二は、自分のクライマーウォッチを自分で買うときは安い方を選んで買っている。
その理由を英二は「今の自分にはまだ贅沢だと思ったんだ」と言っていた。そんな堅実さも英二は持っている。
そんな堅実な性格のくせに英二は、周太と会うまで茶の淹れ方すら知らなかった。
ほんとうに家事など一つもやったことが無かったのだろう。
…英二、警察学校の寮の初日って、洗濯はどうしていたのかな?
きっと洗濯機の使い方も知らなかっただろう。
けれど靴の洗い方や手入れは知っていて、山岳訓練の後で怪我した周太の靴まできれいにしてくれた。
クリスマスに風呂掃除をしてくれた時は「小学校の課題で『家の手伝い』があったから姉ちゃんに教わったんだ」と言っていた。
たぶん英二は本質が実直だから、自分が興味あることは責任を持って覚えて、自分で出来るようになったのだろう。
そして英二はいま「スーパーマーケットでの買物」に興味を持っているらしい。
…この調子で英二、ちゃんと「普通に生活」する方法を身に付けてくれるといいな
実家での不自由ない生活から英二は寮生活になった。
寮生活なら洗濯と自室の片づけが出来れば生活に困らないだろう、だから今はまだ英二は不自由がない。
けれどいずれ寮を出た時には、買物から炊事、きちんとした掃除が出来ないと困ってしまう。
ほんと困ってしまう。そう思いながら周太が会計も済ませ袋に品物を入れると、感心したように英二が口を開いた。
「へえ、よくこの大きさにあれだけ入るな?周太って器用だね、それともこの袋なんか特別なの周太?」
やっぱりエコバッグも知らなかった。
こんなにも世間知らずだと今まで気がつかなかった、もう9ヶ月ほど一緒にいるのに?
ほんとうに育ちが違い過ぎるんだ、ちょっと困りながらも周太は答えた。
「…普通のエコバッグだよ?英二、…エコバッグ知らないの?」
「エコバッグって言うんだ?うん、俺、知らなかったよ。便利で良いな、これ。ね、周太?どこで売ってるんだ?」
「ん、…スーパーとか、雑貨屋とか…だけど」
そっと周太はため息をついた。
こんなにも不自由なく英二を育てたのは、もちろん英二の母親だろう。
この美しい息子を溺愛して、きっと何もかも全て彼女が整えて手元に愛してきた。
そんな英二の母親はこんなふうに、英二に買物をさせて荷物を持たせることを何て思うのだろう?
…けれど、英二本人はね、…ほんとうに楽しそうにしている、よね
感心しながらエコバッグを持つ英二は、初めて持つ食材の買物袋が楽しくて仕方ないという顔をしている。
そんな英二は周太の右掌をとって左掌にくるむと英二のコートのポケットに入れてしまった。
そのまま店を出て歩きだす英二は幸せそうで、つい見上げてしまう。そんな周太に英二が笑いかけてくれた。
「周太。俺ね、知らない事いっぱいあるんだ。
だからさ、俺って周太から何でも教わっているだろ?国村にも言われたんだ、宮田って湯原くんに何でも教わってるよなあってね」
「…そう、なの?…英二って物知りだと俺、いつも感心しているんだけど…」
実直な性質の英二は物事をきちんと調べるところがある。
だから話してみると知識も話題も豊富で、そんな英二だから寡黙な方の周太も話していて楽しい。
そういう英二が生活的な事柄はほとんど知らないでいることが、周太には意外で驚かされた。
…けれど、育ちが良いのと物知りは、別の話、だよね…
思い至って周太はちいさくため息を吐いた。
自分と英二は育ちが違う、けれどもう婚約をしてしまった。
こんなに育ちが違うのに大丈夫かな、ほんのすこし不安に胸噛まれる周太に英二は笑ってくれた。
「うん、知っていることもあるよ。
でもね、周太?生きるのにさ、基本的な大切なことはね、ほとんど全部を俺、周太から教わってばかりいる。
俺ってね、そういうこと本当に何も知らないんだ。だからね、周太?俺ってね、ほんとに周太がいないとダメなんだ。
だからさ、周太に早く奥さんになってほしいよ?そして俺のことたくさん教育してよ、周太。夫って妻が教育するものなんだろ?」
…奥さん、妻、教育
なんてきはずかしいことばだろうどれも?
ほらもう首筋が熱くなってくる、ここは外で通りを歩いているところなのに。
けれど、恥ずかしい分だけほんとうは、どれも幸せな単語でいる。
―ほんとに周太がいないとダメなんだ。だからさ、周太に早く奥さんになってほしいよ?
そんなふうに必要としてもらえて、やっぱりうれしい。
やっぱりそんなふうに求めてもらえると応えたくなってしまう、だって想いはもう深いのだから。
そして思ってしまう ― ほんとうは今すぐに一緒に暮らして教えてあげたい。
けれどそれはまだ出来ない、でも必ず「いつか」そう出来るようになりたい。
そんな想いのままに周太は覗きこんでくる英二の目を見つめて答えた。
「…ん、あの…はい、…でも、待たせるかと思うけど…でも、がんばります」
ほらやっぱり答えるだけで恥ずかしい。
もう頬も熱くなってしまっている、こんなに赤くなって余計に恥ずかしい。
そう思っている周太の頬に素早いキスがふれて、きれいに英二が笑った。
「うん、がんばって?俺の婚約者さん」
がんばるけどでも待って?
お願いこういうことも待ってほしい困ってしまう。
でもうれしいどうしよう?途惑ったまま周太はお願いしてみた。
「…あの、…きゅうにそんなことされるとちょっと…あのうれしいんだけどでも…こころのじゅんびが、ね」
「うれしいって周太が想ってくれるとさ、俺、ほんと幸せだよ周太?…はい、帰ってきたよ」
右掌をコートのポケットのなかでそっと握りながら英二は家の門を開けてくれた。
飛石を踏んでいく庭は冬の午後の陽射しに淡くオレンジ色になっている、ふと英二の視線が庭を眺めて微笑んだ。
そんな英二に気がついて周太も視線を追うと一緒に微笑んだ。
「ん、…今日もね、『雪山』たくさん咲いてくれてるね…」
山茶花『雪山』は今日も真白な花を咲かせてくれる。
この花木を見るたび父が自分の誕生を寿いでくれた、その想いがそっと寄り添ってくれるようで温かい。
この木の緑は冷たい空気にも変わらない、そんな緑に囲まれる花は真白でやわらかで可憐な姿を見せている。
華奢な幹にうすい花びらの白い花の優美で可憐なやさしい花木、けれど冬のさなかにも花を咲かせる木。
「花言葉は『困難に打ち克つ』だったな。ね、周太?」
隣から微笑んで英二が訊いてくれる。
その花言葉が自分ではいつも不思議に想える、そのままを素直に周太はつぶやいた。
「ん、…不思議な感じ、だね…」
「なにが不思議?」
やさしい穏やかな、きれいな低い声が訊いてくれる。
尋ねられて周太はすこし首傾げると、空いている方の左掌を頬に当てて、ゆっくりと答え始めた。
「ん…この木は幹も細くてね、花も繊細な感じでしょ?…だからね、そういう強い言葉なのが、不思議なんだ」
「そうだね、周太。この木は繊細な感じするな。でもね、周太?とても強い木でもあるって、俺は想うよ?」
「そう、なの?」
自分の花木について考えてくれている。
そして自分が気がつかないことを教えてくれようとしている、それが嬉しい。
どんなふうにこの隣は見てくれているのだろう?見つめる先で英二は微笑んで教えてくれた。
「うん。同じ『雪山』がさ、御岳山にもあるのを周太、見つけて俺に教えてくれただろ?
でね、周太?その御岳山の『雪山』はさ、どんなに寒くて雪が降る日でも、きちんと花が咲いているんだ」
御岳山の『雪山』は風雪にも花を開かせる。
それを雪ふる日の巡回にも英二は見つめてくれていた、自分が見つけた『雪山』に目を留めてくれた。
そんなふうにいつも自分を想いながら歩いてくれている?
そんな想いに周太は隣を見あげて、話してくれる切長い目と端正な唇を見つめた。
「ね、周太?雪の冷たさにもね、花は落ちないんだよ。
俺ね、それを初めて見た時にさ。周太とよく似ているって想ってね、愛しかった」
愛しかった、似ているって想って。
雪の冷たさに落ちない花に自分を重ねて見つめて、愛しさに微笑んで。
そんなふうに自分をいつも想って微笑んでくれているの?
…やっぱり、…このひとが、すき
そっと心につぶやきがこぼれてしまう。
やっぱり自分はこのひとが大好きで、愛していて。一緒にいたくて。
そしてこんなふうに想われていたら、もう、誰に何て言われても離れることは出来ない。
自分とは育ちが違うひと、「普通の幸せ」を当然と生きていたひと。
なに不自由なく育てられ溺愛されてきた、そんなふうに自分とは別世界に育ったひと。
きっと人生の風雪と言えるような厳しさとは無縁に英二は育ってきた。
けれどいま英二が望んで立っているのは「風雪」峻厳な掟が支配する冬山の世界。
警視庁管轄でも最も厳しい現場である奥多摩で、山岳救助隊として英二は生きることを選んだ。
そんな英二だから、風雪にも花咲く姿に心奪われること、当然だろうと納得できてしまう。
そんな花に自分を重ねて、そして想いを告げてくれている。
…このひとは、本気…心からもう、自分を望んで求めてくれている
だから、ごめんなさい。ごめんなさい英二のお母さん。
やっぱり後悔なんて出来ません、あなたの息子を受入れてしまったこと。
こんなに本気で望んで愛してくれて、こんなに幸せな笑顔を見せてくれる、あなたの息子を拒むことは出来ません。
あなたの怒りも哀しみも憎悪も解っています、けれど後悔も拒絶も出来ません。
英二のお母さん。
きっとお会いする日が来るでしょう、その時きっと俺の頬を叩くでしょう?
卒業式の翌朝に、あなたは愛する息子の頬を叩いた。けれど本当に叩きたかったのは、俺の頬なのでしょう?
…そのときはね、好きなだけ、俺の頬を叩いてください
きっと何度叩いても、あなたの哀しみも怒りも止まない。
けれどあの朝からずっと考えているんです、あなたの息子の腫れた頬を見た時から。
ほんとうは俺に向けるはずの怒りを、愛する息子へ向けざるを得なかった、あなたの哀しみが哀しい。
ほんとうは俺が受けるべきだった怒りを、代わりに受けさせてしまった英二の、哀しみ痛みを受け留めたい。
自分が受けるべき全てを胸張って受け留めたい。
だって自分はこの隣への想いが誇らしい、真直ぐに愛されて自分も愛していること誇らしい。
だからこの想いに関わるものならば、全てから自分は逃げたくない。
…だからね、英二のお母さん…あなたの想いも俺はね、受け留めたい
「繊細で純粋なままでも、厳しい寒さに真直ぐに立っている姿はさ。本当に、きれいなんだ」
御岳山に咲く『雪山』の話をしながら英二が笑ってくれる。
自分の素直な想いに望んで立つ厳しい現場にこそ、美しさを見つめて英二は笑っている。
こんなに幸せそうに英二は笑ってくれている、隣の笑顔がうれしくて周太は微笑んだ。
「…ん、そうなの?」
「うん…周太、」
そっと唇に唇が重ねられる。
穏やかだけれど熱い英二のくちづけ、言葉にはならなくても想いは饒舌に伝えられる英二のキス。
大好きだ愛している求めているよ?そんな想いが重なる熱のはざまから訴えかけてくる。
そっと離れた唇が微笑んでくれる、そんな隣を見上げて周太は微笑んだ。
「英二?…また、御岳の『雪山』にも、会いに行きたいな」
「うん。また奥多摩に来てよ、周太?冬山は厳しいけれどね、本当にきれいなんだ。大会が終わったら来れる?」
英二が愛し始めている「冬山」
低温と雪と氷が支配する冷厳にねむる冬の山、その厳しさと凛冽の美しさこそ英二は愛している。
だから自分も見つめてみたい、この愛するひとが見つめ愛するその世界を。
その冬山の冷厳さにひそむ危険に自分は不安にさせられる、この愛するひとの無事を祈ってもうこんなに胸が痛い。
けれど不安ばかりに捕われていたくない、だから自分も隣に立って見つめてみたい。
ね、英二?一緒に見つめられたらきっと見つけられるね?
あなたの愛する世界が危険をはらんでいても、その真実の美しさに自分も気づけるはず。
そして一緒にまた幸せな記憶を重ねていけるね?そんな想いが嬉しくて周太は微笑んだ。
「ん、…たぶん休暇がもらえると想うんだ…でも、英二も訓練とか、あるよね?」
「登山訓練なら周太も一緒に出来るだろ?吉村先生と一緒に登るときはね、周太?参加してみたいだろ」
青梅署警察医の吉村医師。
英二のことを実の息子のように想って、いつも温かく見守ってくれているひと。
そして英二に奥多摩の山を教え、山の遭難事故とそれへの対応を医師として山ヤとして教えてくれるひと。
吉村医師は婚約のこと何て言ってくれるのだろう?
それを聴きたい、そしてアドバイスをしてほしい。自分もあのひとは好きで尊敬しているから。
そんな吉村の笑顔の記憶が温かい、微笑んで周太は答えた。
「あ、…それは参加したい…吉村先生にお会いしたいな、一緒させてくれる?」
「もちろん。吉村先生もね、周太に会いたがっているよ?またコーヒー淹れてほしいってさ」
話しながら手を繋いで玄関へ歩いていくと、英二は首に提げた合鍵を荷物を持ったままの右手だけで取り出した。
ふつうの小さな合鍵だけれど父の遺品で、そして今は英二の宝物の鍵でいる。
その鍵で開錠すると扉を開いて英二は、そっと周太の右掌をポケットから出して離した。
そうして先に玄関先に立つと振向いて、きれいに周太へと微笑んでくれた。
「お帰り、周太」
ほら、なんて幸せそうな笑顔だろう?
こんな顔で英二は自分に笑いかけてくれる、こんな幸せな顔で。
だから自分は隣から離れられない、自分が離れたらこの笑顔を曇らせてしまうと思い知らされている。
― おいで?
そんなふうに切長い目が笑いかけてくれる。微笑んで周太は一歩玄関へと踏み込んだ。
「ただいま、英二」
きれいに笑って周太は英二の腕に入ると、そっと背に掌をまわして広い背中に抱きついた。
自分よりずっと広い背中、ずっと高い背、そして強靭な腕や肩。
出会った頃は自分の方が武道も喧嘩も強かった、けれど今はもう違ってしまっている。
もう英二は軽々と自分を抱き上げてしまう、もう自分が守られる方になってしまった。
それでも自分こそがこのひとを守りたい。
だって英二がいちばん幸せそうに笑ってくれるのは、自分が隣にいる時なのだから。
「ね、周太?俺、周太が作ったココアが飲みたいな。作ってくれる?」
「ん。じゃあ、父にも持って行ってくれる?…俺もね、今日は作ろうって想っていたんだ」
こんな「おねだり」も自分にだけしてくれる。
こんな特別が幸せで温かい、もっと甘えてほしい、そして安らいで?
そして必ず自分の隣に帰りたいと願ってほしい、いつも冬山からでも無事に帰って来られるように。
「やっぱり気が合うね、俺たち。ね、周太?もう夫婦みたいだね?」
「…そういうこというのちょっとはずかしくなるから…だいどころたつまえだとあぶないから…でも、うれしい」
でも、こういうこというのは、ちょっと。
うれしいんだけどはずかしいんだけど…なんだかよくわからなくなるよ?
そんなふうに見上げる自分の頬が熱い、困ってしまう。どうしよう?
「周太がね、うれしいなら、俺もうれしいな。
周太、俺はね、周太の隣が大好きなんだ。だってさ、うれしい周太の顔をいちばん近くで見られるだろ?」
こんなふうに言われたら幸せになってしまう。
ほらもうこんなに心が温かい、だからきっとと確信してしまう「ふたり一緒にいることは正しい」
さっき婚約の花束を水切りしながら、母に言われた通りに素直に想いが頷いてしまう。
「…ん、俺もね、英二の隣が大好きだよ」
そう、大好き。
だから台所に立とう、ココアを入れてお節の支度して。そして喜ばせてあげたい。
こういう家庭的なことなら自分にもできる、ずっと母の為にしてきたことだから。
ささやかだけれど温もりを英二に贈ってあげられたら、ふたりきりでも家庭は温かく築けるかもしれない。
…大切な母のために、努力してきたからね?…きっと、けっこう頑張れるはず。だよね?
ささやかな自信に微笑んで、周太はお節料理の支度をしながらココアを作り始めた。
昼食の時にもお節料理の支度を進めていたから残りの支度はあと少しだけ。
昼食はパンとスープとサラダとアイスクリームだった、たぶん英二はすぐお腹が空くだろう。
きっと夕食は早めの方が良いだろうな、そう考えている肩にふと気配を感じて周太は振り向いた。
振向いた視線にすぐ切長い目が微笑んでくれる、幸せそうなのに悪いんだけど?そう思いながら遠慮がちに周太は申し出た。
「…あのね、英二?…あんまり見つめられると恥ずかしくて…きんちょうするんだけど…それに」
「それに、なに?周太」
「…ちょっと距離が近い…です、あぶないです。…ね、英二?そこの椅子にすわってまっていて?」
「嫌だよ周太、離れたくないよ。だって周太、風呂に入る時はさ、離ればなれだよ?
そのとき周太はね、たくさん俺に我慢させるんだからさ。他では好きなようにさせてよ。ね、周太?いいだろ」
…また風呂の話なのえいじ?
すこし周太は呆れながら困ってしまった。
クリスマスの日に英二は散々「一緒に風呂に入って」とねだってくれた。
でもこればっかりは言うことを聴いてあげられない、だって恥ずかしすぎてきっとだめ。
だって風呂場で恥ずかしくて真赤になったら、逆上せすぎて気絶するかもしれない、そんなの困る。
ほらいまもう赤くなってきているきっと。
それにしても「一緒にいたい」って想ってもらうの、嬉しいけれど、こんなに駄々っ子されたら困ってしまう。
こんなに英二は大人びて美しくなったのに、こんなふうに子供に戻るなんて?
すこし途惑いながら周太は頬赤くしたまま、そっと英二に言った。
「…英二、駄々っ子みたい…だよ?」
言われた切長い目がすこし大きくなる。
この顔かわいくて好き、見上げて周太はちょっと微笑んだ。
そう見上げた端正な顔がすぐ幸せ華やかに笑って、英二は周太の顔に白皙の頬を寄せてくれた。
「うん、俺ね。周太には駄々っ子にもなりたい。
だってさ、夫は妻には甘えるものなんだろ?だからね周太、俺は周太には甘えて駄々っ子にもなるんだ」
…周太には、駄々っ子に…甘えるもの、甘えて駄々っ子に
ふっと周太のココアの小鍋を混ぜる手が止まった。
英二の言葉に迫り上げるような想いが深いところから温かい、これはなんの想い?
きっとこの想いは、そう「無償の愛情」なんじゃないのかな?
だっていま肩に載っている端正な顔が、無条件で愛しくて可愛くて仕方ない。
そんな自分の想いに気づかされ、そして愛しさと一緒に哀しみが深くから温かく湧き起る。
…ね、英二?…誰にも、心から甘えたこと、なかったんだね?
美しい華やかな容貌の英二。
警察学校の修学旅行で言っていた「子供のころからモテていた」そう聞いたときは自分の孤独に痛かった。
けれどこうして英二を見つめるようになって気づいたことがある。
きっと英二はこの容貌のために、想いのまま心から誰かと触れあったことが無い。
―あの夜にさ、周太の部屋からもれる光が、俺を待ってくれている一つだけの場所に思えたんだ
雲取山に登った後で英二は、警察学校時代に脱走した日の想いを話してくれた。
あのときの言葉「一つだけの場所」その言葉の意味が今、はっきり思い知らされてしまう。
きっと英二は本当に「孤独」に生きていたのではないのか?
自分も他人と壁を作って孤独だった、けれど母には素顔で接することが出来ていた。
お互いよく似た親子だから本当に辛い13年間は逆に涙を見せられなかった、けれど理解しあって想いあっている。
でも英二はきっと母親にすら素顔を見せることを諦めて、あの「冷たい仮面」で接していた。
…英二の、お母さん…あなたはこのことに、気がついていますか?この美しいひとの孤独を、知っていますか
あなたが息子へかけた愛情は、母親として真実だったのでしょう?
けれど知っているんです、あなたの息子がどれだけ寂しい想いで生きて来たのか。
だって初めて会ったときの英二の目は「冷酷な仮面」の底で泣いていたのだから。
あなたが見つめたのは「美しい容貌の息子、能力ある息子」だったのでしょう?
けれど、あなたの息子の本当の美しさは、容貌でも能力でもないんです。
このひとが美しいのは、真直ぐな心から見つめる想いの美しさなのだから。
だから英二は苦しんだ、心を見つめてもらえない苦しみに「冷酷な仮面」に閉じこもって。
そのことに俺は気づいてしまったんです、だから「冷酷な仮面」を壊してしまいました。
だからこそ、自分が全て受け留めたい。
だって英二の仮面を壊したのはこの自分、そして英二を今の道に立たせたのは自分だから。
そうして英二を自由に生きさせて、あなたの手元から放してしまったのは自分だから。
…あなたの息子への愛情は…籠の中のきれいな鳥、…
英二の容貌は確かに美しくて惹きつけられてしまう。
けれど英二は「容貌」に閉じ込めていい人じゃないんです。
英二の本質は今いる通り「自由ほこらかな誇り高き山ヤ、そして山岳レスキュー」それが英二の輝く姿です。
それは大らかで人の範疇を超えた世界、美しくて峻厳な掟に生きる人の姿そのものなんです。
…そして、それは籠の中では、生きられないひとの姿なんです
だから俺は英二が最高峰へ立つという夢を止めることはしません。
その場所の危険を知っている、それでも止めないのは英二が「生きる」姿を愛して信じているから。
だから英二に仮面を作らせ閉じ込めた、あなたの愛情に頷くことは自分には出来ません。
あなたの愛情は間違っていた「英二を生かす」という意味において、あなたは間違えてしまった。
けれど愛する想いは自分にもわかる、だからあなたの想いを自分が受け留めたい。
…そして、ね?見てほしいです、ほら、この笑顔
周太はガスを停めると、静かに英二に向き直って見上げた。
こうして見つめただけ。それなのに英二の顔には幸せな笑顔が大輪の花のように咲いてくれる。
この美しい笑顔に気づかされてしまう、これまでの英二の孤独と英二の幸せがどこにあるのか。
…ね、英二?…ほんとうに寂しかったんだね、…姿じゃなくて、心を見つめてほしかったんだよね?
俺は知っているよ、英二?
だって自分はずっと、あなたの目を見つめてきたのだから。
真直ぐ見あげて目を見つめながら周太は、そっと英二の首に腕を回して端正な体に抱きついた。
ふれる温もりが穏やかで幸せで微笑んでしまう、微笑んで周太は英二に告げた。
「ん…甘えてくれるの、うれしい…俺でもね、甘えてもらえる…英二の役に立てるなら、…うれしいんだ…」
よりそった温もりがすこし震えて、そっと力強い腕が周太を抱きしめてくれる。
役に立つとかそんなんじゃないのに?そんなふうに切長い目が微笑んで、やわらかく腕に力を入れながら英二が言ってくれた。
「役に立つとか違うよ周太?言っただろ、俺はね、周太がいないとダメなんだ。ほんとだよ、」
「ん…ほんとうに?」
周太の額に額を付けて英二が瞳を覗きこんでくれる。
こんなに近いと気恥ずかしい、けれど真直ぐ周太も見つめ返した。
そう見つめあいながら英二はきれいに笑って答えてくれた。
「ほんとうだよ、周太。だって俺ね、姉ちゃんにまで言われたんだ。
あんたは湯原くんがいないとダメ、他に迷惑かけると困るから一緒にいてもらいなさい。だってさ。ね、だから俺、周太がいないとダメなんだ」
英二の、お姉さん。
2度会ったことがある英二によく似た美しい女のひと。
そのまなざしは聡明で、きっと自分に出会うまでは英二の一番近くにいたひと。
そのひとが、そんなふうに自分をみてくれるの?
「…お姉さんまで、そう言ってくれるの?」
― 唯一つの居場所を見つけられる。とてもきれいで、素敵な事よ
11月に会ったとき彼女はそう言って笑ってくれた。
そして周太に胸を張ってほしいと言ってくれた、そんな温かなやさしい美しいひと。
あのひとは自分を受入れようとしてくれている、そして祝福してくれる。
ほんとうは英二のお母さんに憎まれて苦しい、それから逃げるつもりは無いけれど。
だから尚更に英二の姉の想いが心に響く、そんな想いが幸せで嬉しくてならない。
そんな想いの熱が瞳の奥にそっと昇って周太の視界を温かく揺らしていく。
そんな周太に英二は微笑んで、今にも零れそうな目許にそっとキスをしてくれた。
「そうだよ周太?姉ちゃんな、周太のこと好きなんだって。
だから籍を入れたらね、甥っ子としてデートして可愛がりたいってさ。
でね、また会いたいなって言ってたよ。2月の射撃大会終わったらさ、会ってやってくれる?」
自分こそ会いたい。
ほんとうに自分は彼女にたくさん背負わせてしまっている、それを謝りたい。
そして「ありがとう」を伝えたい、それから1つでも彼女が喜んでくれることを教えてほしい。
しずかに涙が頬伝うのを感じながら周太は英二に答えた。
「ん、…俺もね、お姉さんに会いたい。…俺もね、お姉さんのこと好きだよ?…おれ、…うれし、いよ…」
あふれて零れていく涙を英二がキスで拭ってくれる。
ふれる唇の熱が温かくて愛しくて、幸せの底からこの唇の主の笑顔を祈ってしまう。
どうかこの美しい優しいひとを自分に守らせて?そう見つめる笑顔が幸せそうに周太を抱きしめてくれた。
「きっとね、周太?俺と一緒なら周太は、たくさん幸せを見つけられるよ?だから周太、ずっと一緒にいよう?
今は離ればなれで暮らしているけれど、『いつか』には絶対に一緒にいよう?法律でも、住む場所も、一緒にいよう、周太」
法律でも住む場所でも、ずっと一緒に。
そのために英二は分籍して家を捨てる、そして英二の姉が宮田の家を背負ってしまう。
だから自分もこの家の跡取りであることを捨てる、そんなにまでしても、自分は一緒にいたい。
だからお願い愛するひと、どうぞ自分を抱きしめていて?
「…ん、いっしょにいて?英二…俺のこと、はなさないで?」
「うん。俺ね、絶対に周太を離さない。
いつだって、どんな場所からだって、俺は周太を救って掴んで離さない。
だって俺、周太がいないとダメなんだ。もうね、これは仕方ないんだよ周太?」
「ん…仕方ない、ね?英二」
きれいに笑って周太は大好きな笑顔を見上げてた。
この笑顔に自分は全てを懸けて生きていく。
いまエプロンのポケットに入れてあるクライマーウォッチは英二の大切な時間と夢の結晶でいる。
それをもう自分は受け取った、そして今日は婚約と求婚の花束も受け取って抱きしめた。
― きみを愛している 幸せは、きみと一緒にしか見つけられない
すこし背伸びするよう周太は英二を抱きしめて、そっと唇に唇でふれた。
ふれるだけのキス、それでも自分には精一杯の想いのキス。
あなたを幸せにしたい、きれいな笑顔を一つでも多く見つめさせて?
そんな想いを残しながら静かに離れて周太は英二を見つめた。
やっぱり自分からするのは尚更に気恥ずかしい。
けれど想いを伝えれて幸せで、そう見上げる先で英二がきれいに笑った。
いつもより少し切ないような笑顔が不思議で見つめていると、さらりと英二は周太に言った。
「ね、周太?だからさ、風呂も一緒に入ってよ?俺、周太がいないとダメなんだから」
なんてこというのこんなときにまで?
言われた途端にもう、また顔が熱くなってしまう。
もうだめ。そんな想いに背中押されて周太は英二の腕から抜け出してしまった。
そのままココアの鍋を火にかけると黙々と手を動かし始めた、ほんとうに困ってしまう。
それなのに英二は笑いながら声をかけてくる。
「周太?沈黙は了解、ってことでいいの?」
お願いやめて?
手を動かしたまま周太は一瞬ふるえて、けれど即答した。
「…だめです、ふろはだめです…」
だめ恥ずかしい、そんなの絶対に無理で。
だって本当に英二は変わってしまった。警察学校の時と今では3ヶ月だけれど別人になっている。
服を着ていて抱きしめられたってわかる、英二の体つきは精悍さを強めている。
きっと毎日の訓練が英二の心身を鍛えている、それくらい英二が真剣に取り組んでいることがわかる。
そして本当に、ベッドで抱きしめられる度ごと英二の変化が顕著で途惑っている。
ずっと自分より逞しくて美しい体が強く自分を求めてくる、そんなときいつも自分は壊れそうになる。
いつもの自分と違う自分にされて、心ごと浚われて全て奪われて繋がれてしまってもう何も解らなくなる。
そんな翌朝に目覚めれば英二の体を見ることになる、その姿は強靭で美しくて見惚れてしまう。
そして夜のことを想いださせられて恥ずかしくて困ってしまう、けれど幸せは温かくて。
それでもベッドならシーツに包まっていられるから、まだいい。
けれど風呂場ではどうしたらいいの?どうにも出来ないでしょだから無理もうだめ。
しかもこの家の風呂は広くて白熱灯のランプも明るい。昼間だって窓からふる太陽の光で明るい。
…だからふろなんてぜったいだめ…きっと恥ずかしすぎて真赤になりすぎて…きぜつするにきまっている
もう今だって考えただけで真赤になっている。
これ以上なんてもう絶対に無理、だから英二ごめんね諦めてね?
そう考えながらココアの小鍋をスプーンでぐるぐる回していると、きれいな低い声が背後から言った。
「ね、周太?周太がさ、今は俺と風呂入ってくれないのは、いつも俺が周太のことを脱がせて抱いちゃう所為なんだ?」
……べっどでだきしめられるごとに……
かたん、
………スプーンが、木の床に落ちた…音か、な
(to be continued)
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