かくされた願い、想いの真実
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第32話 高芳act.2―another,side story「陽はまた昇る」
一日の勤務を終えて周太は新宿署の独身寮に帰ってきた。
今日は月曜日で飲み会なども少ない、新宿東口交番の管轄内では喧嘩などもなく穏やかな日だった。
いつもこんなふうに平和だといいなと思ってしまう、出来れば人が傷つけ合う姿など見たくない。
自室で制帽と上着を脱ぐと周太は左手首のクライマーウォッチを見た、デジタル表示には18:33と出ている。
今日はトラブルも無くて定時通りに勤務を終えたから時間が早い。
「…すこし早いけど、食事とか、済ませようかな」
今日は英二は富士で登山訓練をしている、きっと疲れただろう。いつも21時の電話も早めに架けたいかもしれない。
先に食事して風呂も早く済ませよう、制服のまま周太は廊下へ出ると食堂へ向かった。
夕食のトレイを受けとって座るとテレビが夕方のニュースを流している。
いただきますをして箸をとり汁椀に口付けてから、ときおりテレビを見ながら食事を始めた。
「…今日は全国的に晴天に恵まれ…」
いつものように天気予報が気になってしまう、ふと箸をとめて天気図を周太は見つめた。
英二は山岳救助隊員を兼務する青梅署所轄の御岳駐在所で勤務している、そして山岳遭難の救助に駆けていく。
山岳では天候にその安全を支配される、とくに冬は降雪と低温が危険を増す。
そんな心配からも天気図を見る癖が周太についてしまった。
そして今日の英二は国村とマンツーマンの登山訓練で富士山にいる。
単独峰の富士山は遮蔽物が皆無の為に風の影響を受けやすい、特に冬富士は突風と雪崩が恐ろしい。
…今日はきっと大丈夫。でも明日の、この天気図は…
英二が山岳救助隊員となってから周太は山では気象予想が大切なことを知った。
いつも英二はいろんな話をしてくれる、その話から周太は自分も天気の読み方を知ろうと思った。
大切な英二が立つ現場のことを正しく理解して、すこしでも英二の世界を知りたい。
そうして調べて覚えた天気図と山の天候のことが、いま見つめる天気図に明日の富士山を教えてくれる。
…明日は頂上に登る予定、でも雪が降ってしまう
この天気図だと今夜から明日朝にかけて降雪がある。
ふりつもった新雪はきっと美しいだろう、けれどこの時期は雪崩があると父から聞いたことがある。
いまから13年以上前に父は殉職をした、その父は山を愛し植物を愛し、その話を周太にもよくしてくれた。
ちょうど今ごろの季節に富士山麓の全面凍結する湖を見に行った、そのときの話が思い出されてしまう。
「ほら、周。ここからね、富士山が見えるね…あの斜面のところ、見える?」
「ん、お父さん、…あの靄みたいなのかな?」
「ん、そう。あの靄はね、…雪崩で起きる雪の煙なんだ。雪崩でね、すごい風が起きる。それが雪を飛ばして煙になって見える」
雪崩は高速で長距離を走り前面の速度は毎秒20~80m、そのため巨大な雪煙を巻き起こす爆風を伴う。
この爆風による圧力は最大で鉄筋コンクリートの建物を破壊するほどの衝撃力になる。
そんな爆風に飛ばされたら滑落に繋がる。そして富士山の広斜面は遮るものも無く止まれず、滑落すればまず助からない。
あの2人は適切な訓練と装備を備えている、それでも雪崩に遭えば深刻な危険である事は変わりはない。
見つめた天気図に小さくため息を吐くと、また周太は箸を動かした。
…でも、きっと大丈夫、
きっと慎重な英二と経験豊富な国村の事だから、無理な計画を立てることはしない。
だからきっと明日の天候も予測して予定変更をしているだろう。
それに今日の昼過ぎに英二はメールを送ってくれた、きれいな富士山頂の写真と初登頂の想いが籠ったメールだった。
今日の登頂は明日の天候不順を見込んでの計画の前倒しだろう。
…きっと今日もう登ったから、明日は早く下山する、きっと計画を変えているはず
きっと大丈夫、あの2人なら無謀なことはしない。
いつもあの2人は困らせることを言ってくるし、すぐ大人の会話を始めて周太を真赤にさせてしまう。
けれど怜悧で慎重な2人だから大丈夫、きちんと無事に帰ってくる。だって英二は『絶対の約束』をしてくれた。
そうやって自分に言い聞かせながら食事して、なんとか全部を胃に収めると周太は箸を置いた。
「…警察官が逃走中の車に発砲し、助手席の男性が死亡した事件で、」
テレビの声に周太は視線をあげた。
その視線の先では10年ほど前の警察官発砲事件について、初公判が始まった旨のニュースが読まれていく。
殺人・特別公務員暴行陵虐致死の両罪で、付審判決定を受けた警察官2名の裁判員裁判の初公判。
こうした付審判での裁判員裁判は例がなく殺人罪の審理も初めてになる、そのニュースがテレビから流れていく。
「…警察官2名は罪状認否で無罪を主張…発砲の正当性と殺意の有無が争点になる…」
その事件は「車上荒らし」が発端だった。
発見された車上荒らしの手配車両が逃走、パトカーや一般車両に衝突しながら暴走を始めた。
その暴走を停めるために警察官3名が計8発を発砲、手配車両内の男性2名を狙撃した。
車内への狙撃は助手席側の約1メートルの至近距離からだった。
そして2名の警察官が発砲した2発が助手席男性の首と左頭部、1発が運転席の男性の頭に命中した。
狙撃された助手席男性は翌月に死亡、窃盗などの容疑で書類送検されたが容疑者死亡で不起訴。
運転席男性は窃盗罪などで懲役6年の実刑判決を受けた。
そして狙撃した警察官2名に殺人・特別公務員暴行陵虐致死の罪状が付審判決定された。
警察官2名の主張は「逃走した車両を停止させるために運転する男性の腕を狙った正当な発砲だった」
…正当な発砲…狙撃
ニュースで読まれた単語に心が固くなっていく。
この警察官たちは発砲許可を受けて狙撃をした、それくらい緊急性の高い状況だっただろう。
きっと車上荒らしの車両を停止させなければ、逃走しながら事故を起こして多数の死傷者が出ていた。
だからこの警察官達は「起こり得た傷害致死罪」を防いだことになる、それでも「殺人・特別公務員暴行陵虐致死」の罪状は下された。
…狙撃すること、任務、そして、
たとえ任務であったとしても、人命を救うためであったとしても。
銃で狙撃し死傷者を出せば罪に問われていく、それは警察官であっても変わらない。
それを知ったうえで自分は「射撃の名手である警察官」の道に今こうして立っている。
その道が行きつく先にあるもの、それが父の進んだ道だから自分は立つことを選んだ。
そして父が見つめ苦しんだ世界と想いを、息子の自分が見つめて父を受け留めたい。そのために今ここにいる。
…狙撃の任務、…お父さんの任務、だったのでしょう?
父の任務は秘匿されている。
家族すら知らされず、警察社会の暗部へと謎の底にと沈められている。
きっと父は苦しんだ、優しい誠実な父は任務と罪の陥穽で孤独に苦しんでいた。
そんな父の孤独を自分は何も知らなかった、ただ父に守られて幸せに笑っていた。
だから父が殉職したときに後悔が心を蝕んだ、父のことを何も知らなかった自分を思い知らされた。
そんな後悔はいまでも心に蹲って動けない、だから「父を知る」為に父の軌跡を辿り選んでここにいる。
…ね、お父さん?俺はね、お父さんの道を歩き出した。でも、俺は絶対に殉職しない
ちいさく微笑んで周太は席を立った、そしてトレイを返却口に返すと自室へ戻った。
自室へ戻ると時間はまだ19:00前だった、すこし考えて周太は着替えなどの支度を始めた。
いまから風呂を済ませてしまえば19時半には落ち着けるだろう、タオルなど一式を持つと周太は共同浴場へ向かった。
まだ19時半の早い時間で浴場は空いている、すこしほっとして周太は隅の目立たない場所の洗い場を選んで座った
座った正面の鏡に自分の体が映りこむ、その右肩に赤い痣がうかんで花びらのように見えた。
そっと見る右腕の内側にも同じような赤い花のような痣がある、こんなふうに英二は周太の体に想いを唇で刻みこんでしまった。
いつも英二は周太の体中に赤い花の痣を刻みこむ、それは一晩もたてば全て幻のように消えてしまう。
けれど今見つめている、この2つの痣は消えることは無い。
この2つの痣だけはいつも、歯を立てるキスで深く英二は刻んでしまう。それを初めての夜から英二は続けている。
もう消えてくれない想いの痣。そんな深い痣を2ヶ所も刻まれた自分は英二だけのもの、そんな印として英二は刻んでしまった。
…ね、英二?英二の夢の、最高峰の1つに今いるんだね?
そっと赤い痣に微笑んで周太はシャワーの栓をひねった。
温かな湯に寛ぎながら髪を洗い体を洗ってから浴槽へと浸かる、そこへちょうど同期の深堀が入ってきた。
今日の深堀は週休だから空いているうちに風呂へ来たのだろう、いつもの明るい気さくな笑顔で深堀は話しかけてくれた。
「おつかれさま、湯原。今日は早く上がれたんだね?」
「ん、月曜の週初めだからかな?あまり東口交番は人も来なかった…道案内が5件くらいかな」
「そっか、平和がいちばんだよね。手話の方ってまた見えた?」
周太の勤務する新宿東口交番は駅前広場に面し、道案内の業務が多い。
そんな道案内の時に周太は筆談で道案内を訊かれたことがあった。
まだ若い男性は大学生だったらしい、大学のテキストを買いたくて本屋を探していた。
その時は筆談で周太は対応した、けれど深堀や瀬尾が手話講習会に行くときいて自分も覚えようと思った。
でもまだ現場で使ったことは無い、かるく頭を振って周太は微笑んだ。
「いや、まだ見えてない…でも、手話出来るといつか役に立つかなって」
「うん、そうだね。俺はね、詩吟の稽古の時にさ、役に立つよ」
「詩吟で?」
意外で周太は驚いた。詩吟の様に発声する稽古に、手話を必要とする人が参加できるのだろうか?
そう驚いていると深堀が笑って教えてくれた。
「会話は難しくてもね、詩吟の発声は出来る方もいらっしゃるんだ。そういう方に稽古を出来て手話は便利なんだよ」
「そういうのも、あるんだね…すごいな、深堀」
「ううん、俺は何も凄くないよ?湯原の射撃の方がすごいって。特練いつも頑張ってるよな?」
気さくに笑って深堀は髪を掻き上げた。
こんなふうに深堀はいつも気さくで偉ぶった所が無い、けれど豊かな語学能力と対人スキルが高い。
深堀は数か国語の日常会話ができる、そんな能力で外国人が多い百人町交番に卒配された。
そして高名な詩吟の師匠を祖母に持ち師範代も務めている、そのため人当たりが良く誰とでも親しく話せる。
きっと語学も対人スキルの高さからマスターできるのだろう。
そうした「人と接する」能力は周太に最も欠けた部分になる。
同じ遠野教場で過ごしていた頃の深堀は目立たない方だった、それは謙虚な深堀の性格の所為だろう。
けれど同じ新宿署に卒配されて話す機会が多くなるうちに、深堀の能力の高さと自分がなぜ一緒に配属されたか解ってきた。
豊かな対人スキルと謙虚な性格は深堀から学んで身に付けるべき部分だろう。だから遠野教官は自分を深堀と組ませてくれている。
周太は警察学校で英二に出会うまで、ずっと孤独で他人と必要事項しか話すことをしなかった。
父の殉職を他人に憐憫や好奇心の対象とされることが煩わしくて嫌いだった、だから13年間ずっと話し相手は母だけだった。
そんな自分は対人スキルは10歳のまま止まるどころか退行してしまった。
そのことに周太は英二と出会って気がついた、そして英二の隣で少しずつ人と接することを学んで身につけていった。
けれど6ヶ月間で13年間を取り戻すことは難しい、今は10歳と10か月になる位だろう。
こういう自分にとって深堀のような、気さくで温かい人柄の同期が傍にいてくれる事はありがたい。
こうして気さくに話せることが嬉しくて、周太は微笑んで答えた。
「射撃はね、俺、ほんとうは得意じゃないんだ…だからね、練習を頑張るしかないんだ」
「そうなのか?意外だね、湯原」
すこし驚いたように深堀が訊いてくれる。
うまく話せるかなと思いながら周太は湯の中で両掌を組んだ。
「ん。俺ね、骨格とか華奢なんだ…それで拳銃の衝撃とか、本当は大変で。
だから体を鍛えるとこから頑張ったんだ。それにたぶん、練習を続けていかないと、勘みたいなものも忘れやすいと思う」
「そうなんだ、聴いてみないと解らないね?でもね、同期の中では間違いなく湯原がトップだと思うよ」
「ん、…どうかな?俺は、高校時代からずっと射撃部だから、経験も長いし練習をいっぱいしているよ。
だから警察学校から射撃を始めたのに、上級テストに高い成績で合格できる人の方がずっと才能あると思う。英二とか、ね」
これは周太の本音だった。
きっと前なら悔しくて、こんな本音は話せなかったろう。けれど今はきちんと笑って話せている。
これもきっと英二の影響だろう。いつも英二は率直に思ったままを話してくれる、そんな英二を好きでいるから。
今頃は英二は山小屋で夕食だろうか?ふっと想っていると深堀が笑って言ってくれた。
「でも湯原、それだけ努力できることって、一番の才能だよね」
努力できることが一番の才能。その言葉が温かくて周太は微笑んだ。
ずっと自分は努力ばかりで生きてきた。父の軌跡を追うために必要な能力を身に付けたくて努力を続けている。
それは無理な努力も多くて苦しくて、気がついたら自分が本当に好きなことまで忘れかけていた。
そんな自分の努力は虚しいと思う瞬間もある、けれど努力自体を「才能」と言ってくれた。
それを同期の口から客観的に言って貰えたことが嬉しい、周太は笑った。
「ん、ありがとう、深堀。俺はね、努力なら頑張れる、かな?」
きれいに笑って周太は、すこし自分の心に自信を積んだ。
そして謙虚に素直に話すことは良いなと、あらためて自分の同期に話せる今が嬉しい。
いま英二と離れて寂しくて仕方ない。けれど今の様に、英二と離れた場所で向き合っていく人の言葉が自分を育ててくれる。
こうして少しでも早く止めた13年間を越えて成長を積んで、大切な英二に相応しい自分に成れたらいい。
…だって、英二のね、妻になるんだし…もう婚約者なんだし、
そっと心につぶやいて急に気恥ずかしくなってしまった。
いまの「妻」という単語に実家の小部屋の記憶が、英二の嫣然とした姿と言葉が甦ってしまう。
しかも昨夜電話で言われた「夢で逢ったら冷たくしないで?それでキスしてよ」その通り夢でそうなった。
そうした記憶たちに首筋から熱が昇って頬が熱くなってくる、きっと赤くなり始めている。
そんな周太の様子に深堀が首傾げて心配そうに言ってくれた。
「湯原なら頑張れるよ。でも、湯原、なんか顔が真赤になってきてる?逆上せかな、早く出た方が良いよ?」
「あ、ん。ありがとう、じゃあ俺、出るよ…またね、深堀。おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい、湯原。お大事にね?」
そっと立ちあがると周太は隅の洗い場で冷たいシャワーを頭から浴びた。
すこし逆上せが納まってくる、これで冷静になれるだろう。
それにしても、と思ってしまう。どうしてこんなに自分は赤くなりやすいのだろう?
…きっと、子供のままだから、だよね?…すぐ恥ずかしくなるし
こんな自分で英二の婚約者や妻が務まるのだろうか?
英二は自身の意識と関係なく人を惹きつけ魅了する、そして多くの視線が向けられる事を隣で見て知っている。
そんな英二の隣で婚約者や妻でいることは、嫉妬や羨望を受けることになり気苦労も多いだろう。
いまだって既に英二の隣で羨ましそうな視線を受ける、そんな視線が気恥ずかしく途惑う自分がいる。
抑々が人から注目される事に慣れていない、だから気がつくと緊張して赤くなって困ってしまう。
そういう視線にも平気でいられる大人になりたいな、そう考えながら周太は身支度を整えて自室に戻った。
入浴の片づけを終えてクライマーウォッチを見ると19時半前だった。
ゆっくり時間があることが嬉しい、微笑んで周太はデスクの花瓶を見た。
ちいさな白磁の花瓶には白い花がほっそりとした姿に佇んでいる。携帯を持って周太はデスクの椅子に座った。
頬杖ついて見つめる花に、咲いていた実家の懐かしい庭が想われてそっと心が温かい。
あの庭は祖父が奥多摩を模して木々を植えたと聴いている、その庭を父も愛していた。
そして自分が愛しているひとは奥多摩で山岳救助隊員として山ヤの警察官の誇りに生きている。
「…ね、英二?…また、奥多摩の山に連れて行って?」
そっと大切な名前をつぶやいて周太は微笑んで、持っている携帯を見つめた。
そうして見つめる想いの真ん中で、ふっ、と携帯の着信ランプが灯った。
…英二、俺の声が聴こえるの?
いつもこんなふうに想っている時、英二は電話を繋いでくれる。
まだ19時半、いつもの21時よりだいぶ早い時間でいる。
そっと携帯を開くと待っていた名前が表示されていた、電話を繋ぐと周太は携帯を耳に当てた。
「はい、」
「こんばんは、湯原くん?」
国村の声だった。
まえに雲取山からも国村は勝手に英二の電話から架けたことがある。
きっとまた英二の携帯を横取りしたのだろう、ちょっと可笑しくて周太は笑いながら答えた。
「こんばんは…国村さん?」
「そ、俺だよ。昨夜は電話楽しかったよ?」
昨夜は周太と電話している英二の横から国村は話しかけてきた。
「可愛いのにさ、意外と大胆なんだね、湯原くん?こんど俺のことも押し倒してよ」
そんなことを言って周太を困らせてくれた。
でもあんな発言をしたら、たぶん英二は怒ったのじゃないのかな?周太は訊いてみた。
「あの、国村さん?あんなこと言って、英二、…怒ったんじゃない?」
「うん、そうだよ」
やっぱりそうだった。
どうも英二は嫉妬深いところがあると周太は最近気がついた。
このあいだ風呂に入れてくれた時も「寮で風呂入る時もね、俺以外とは2人きりなんてダメだよ?」と言っていた。
そんな英二の前で周太に「俺のことも押し倒してよ?」なんて言えば、きっと怒るだろう。
そして英二は真面目なだけに真に受ける所がある、相手次第では酷い目にあわせそうで怖い。
でも今こうして無事に国村は電話で話している、そんなに酷いことはされなかったらしい。
きっと国村だから英二も許したのだろう、良かったと思いながら周太は訊いてみた。
「そう…ね、国村さん。今は、どうして俺に電話してくれてるの?」
「ああ、それはね?今日、俺ね。宮田の初体験、頂いちゃったんだよね。だから一言って思ってさ?」
英二の初体験?
なんのことかな、すこし周太は考えてすぐに微笑んだ。
今日の英二は初めての富士登山に行った、そして初めて標高2,000m以上へ登り、そのまま初登頂をしている。
きっと国村の指導と案内で無事に英二は登り、初めての世界を楽しむことが出来た。それを言ってくれている。
無事に楽しめた様子がうれしい、良かったと心から微笑んで周太は答えた。
「ん、…国村さん、上手に英二を、富士の頂上まで登らせてくれたんだね?」
「うん。俺、上手いからね、きっと好い思いさせたと思うよ?」
「そう…良かった、英二、初めての最高峰を楽しめたんだね」
「そ、」
からり明るく国村が笑ってくれる。
英二の無事と喜びが心から嬉しい、昼間に富士山頂からメールは貰っているけれど心配だった。
山では下山の方が危険が多いという、でも国村と英二は無事に下山もして今こんな電話をくれた。
そしてこうした無事の電話を周太はずっと待っていた。
「国村さん、俺を気遣って無事の電話をね、早く架けてくれたでしょ?…ほんとうに、ありがとう」
「うん」
透るテノールの温かいトーンが、やさしい。
いつも国村は周太を転がして楽しんでしまう、けれど国村はそうして周太の緊張をほどいてくれる。
愉快に笑いながらも向けてくれる国村の大らかな優しさは温かい。このひとが周太は好きだ。
そしてこの国村の隣にいる美代は周太にとって初めて同じ興味を持って話せる友達、その美代へも伝言したい。
楽しくて周太は電話の向こうの友達に話しかけた。
「ね、国村さん、美代さん元気?」
「美代ね、会いたいって言ってるよ?」
こんなふうに会いたいと言ってくれる友達がいる。
こういう幸せな温もりが自分に与えられている、うれしくて微笑んで伝言をお願いをした。
「ん、俺もね、会いたいんだ…教えてくれた本も面白かった、ありがとうって伝えてくれる?」
「ああ、伝えとくね。じゃ、宮田に替るね」
楽しそうに話して国村は電話から遠のいた。
電話の向こうで国村の気配が「はい」と英二に携帯を返してくれている。
もうじき大好きな声が聴ける、そんな予感がうれしくて幸せに周太は微笑んだ。
「周太、初めて最高峰を体験してきたよ?」
おだやかな、きれいな低い声。
いつもどおりに、おだやかで美しい低く響く大好きな声。
…英二、無事で、いてくれた
ほっと吐息が零れて瞳から涙がひとつ零れた。
このひとの無事がこんなに嬉しい、幸せな涙と微笑んで周太は答えた。
「ん、…最高峰からのね、メール。うれしかった。ありがとう、英二」
「周太が喜んでくれると嬉しいよ。ね、周太?さっき国村が言った『初体験』の意味って周太は解ったの?」
あらためて言われると『初体験』という言葉が気恥ずかしい。
でも気恥ずかしがっていないで話さないと。さっき自分が想った通りを周太は英二に話した。
「ん、富士山の最高峰に初めて登ったこと、だよね?…
それで、上手に英二に雪山のこと、教えてくれて無事に下山できた。って事だと思ったんだけど…違うの?」
「うん、その通りだよ、周太。今日は、いろんなこと考えた。ほんとうにね、冬の富士山はすごかったよ。
ね、周太?いつだったら周太は予定空いている?会って話したいな、短時間でも少しでも、すぐ逢いたいよ」
ほんとうに逢いたい、いますぐに。
今日は月曜日で火曜日の明日に英二は下山して、青梅署に戻る予定になっている。
明日は周太も当番勤務で夜勤になる、けれど明後日の水曜は非番だから午前中の特練の後なら大丈夫。
そして明後日は英二も週休で休み、けれど英二は訓練があるかもしれない?逢える日を周太は思いながら提案してみた。
「ん、…水曜日の午後?が、いちばん近くで空いてる、な」
「じゃあさ?空けておいてくれるかな、その日はね、副隊長も吉村先生も用事があって、ちょうど訓練休みなんだ」
もう明後日に逢える、急なことだけれど逢える日が嬉しい。
こんなふうに「逢える」約束はいつ出来るかなんて解らない、自分たちは急な任務もある警察官だから。
まして英二は山岳救助隊員だから急な召集が当然と笑って、真直ぐ遭難救助に駆け出していく。
いつも召集を受けたと聴くたび本当は不安になる。けれど真摯な英二の姿はまぶしい、だから止められない。
だから逢えるなら急でも何時でも嬉しい、微笑んで周太は訊いてみた。
「ん。じゃあ、お昼一緒に食べられる?」
「うん、一緒に食いたいな。待合わせは11時とか?」
「ん…じゃあ朝一で訓練に行ってくるね?…明日は英二、なにするの?」
明日の天気予想図への不安。
富士山の明日の気象予報は『低気圧の中心が富士山の南を通過中、風速次第で通過も速まる』
そんな時に誘発される冬富士の冷厳の姿を父から聞いたことがある、その記憶がいまも怖い。
どうか英二、明日は早く帰ってね?そんな想いのむこうで大好きな声が笑ってくれた。
「明日はね、周太。朝飯食ったら山小屋に近い斜面でさ、ザイルワークと雪上訓練のおさらいをするよ。そして9時には下山する、
昼には青梅署に戻っているかな?周太、明日は吹雪みたいなんだよ。だから予定を変更して今日、登頂してきたんだ。急だったけどね」
やっぱりそうだった。
良かったと微笑んで周太は答えた。
「ん、そう…良かった、明日も気をつけてね?」
「うん、周太。気をつけるよ?下山したらまたメールする、吹雪の富士山も綺麗だろうから」
吹雪の富士山、つきんと周太の心が痛んだ。
きっと美しい光景だろう、けれど吹雪にひそんでいる危険が自分は怖い。
吹雪が酷ければ零視界になる、そしてホワイトアウトが起これば見透しは全く効かない。
そうして視力を奪われた状態で山を歩くことの怖さを自分も資料で読んで知っている、英二を理解したくて読んでしまった。
知ってしまったことの恐怖が疎ましい、けれど自分は逃げたくない。
…だって、愛している。このひとを真直ぐに見つめて全て受けとめて、報い求めない愛情を贈ってあげたい
英二の母親は息子を「自分の理想通り」という条件付きでしか愛してくれない。
それに英二はずっと傷つけられてきた、報い求めず受けとめられる「無償の愛」を求めていた。
そんな英二は温もりが欲しくて寂しくて、外見だけでも求めて誰か傍にいてくれるならと「人形」のように生きてしまった。
そんな生き方に尚更に傷ついて英二は、要領の良い冷酷な仮面をかぶって孤独のままに生きていた。
…その仮面を壊したのは、自分。そのことが誇らしい、だから自分が英二に与えてあげたい
13年間の時を止めて生きてきた自分は10歳の子供。
けれど自分こそが英二の孤独の仮面を壊すことが出来た、実直で真摯で穏やかな英二の本質を覚まさせた。
その本当の英二の姿を自分は最初から見つめている、その姿に初めての恋をして、そのまま初恋に全てを捧げた。
そんな英二は山岳の危険に立つ生き方を選んだ、それはいつ消えても不思議はない相手だということ。
ほんとうは弱い自分はまた孤独に戻されたら壊れるだろう。それでも自分の隣を英二の帰ってくる居場所にしていたい。
どんな人間もいつ死ぬか解らない、それは山岳レスキューでも会社員でも同じこと、人の運命なんてわからない。
それなら自分は愛する人の隣でいたい、もしこの一瞬後に消えてしまうならその最後の一瞬まで愛したい。
だから自分は「絶対の約束」を結んで勇気を1つ抱いた。
もう覚悟は出来ている、このひとの全てを受けとめ愛して自分は生きていく。
だから止めない、たとえ不安に泣いても、きっと信じて微笑んで受けとめて愛したい。
きれいに笑って周太は英二に答えた。
「ん、吹雪もね、きっときれいだね?…メール楽しみに待っているね、明日も気をつけて。そして俺の隣に帰ってきて?」
電話のむこう幸せな笑顔の気配が伝わる。
きっと今、きれいな笑顔で笑ってくれている。そんな気配がうれしい。
その笑顔の主がうれしそうに話しかけてくれた。
「絶対に無事に帰るよ、周太。だって俺ね、周太に逢いたいよ?そして一緒に眠りたい、朝の周太を見たい」
「ん…はずかしいそんないいかた…でも、うれしいよ?あ、でも、木曜は英二、日勤でしょう?明後日は日帰りだよね?」
気恥ずかしいまま答えて、確認をしてみる。
そんな確認に哀しそうなため息が、そっと電話むこうから伝わった。
「そうなんだ、周太。俺、日勤なんだ…
今の時期は凍結とかあるだろ?電車が朝動かない事がある、だから朝帰り出来ない。
ね、周太?冬はさ、雪山は俺、好きなんだけど。朝帰りできないのが困るよ?周太の夜も朝も俺、独り占めしたいのに」
朝帰り。この単語が醸してしまう「大人の恋愛」の気配。
こんなことすら自分には気恥ずかしい、ほら首筋が熱くなってくる。
それにきっと国村に会話が聴こえている、いろいろ恥ずかしくて周太は英二に言った。
「あの、…想ってくれるの嬉しい…けどくにむらさんいるんでしょ?きかれるのはずかしいよ…」
「なんで、周太?俺、何も恥ずかしいこと言っていないよ?
そんなことより周太、昨夜、俺ね?夢で周太にキスしてもらったよ?
周太、きれいで可愛くってさ。俺、幸せだったんだ。ね、周太?昨夜は俺のこと夢に見て、キスしてくれたの?」
さっき風呂で思いだした「昨夜の夢」
それをこんなふうに言われて驚いてしまう、だって英二が言う通りだから。
気恥ずかしくてたまらない、それでも周太は素直に頷いた。
「ん、…はい、」
「やっぱりそうなんだ、周太?うれしい俺…ね、周太、ほんとうにキスしたいな?」
全部を国村が聴いているのだろうな。
こんなの罰ゲームみたいにも思えてしまう、きっと次に会ったとき国村に散々転がされるだろう。
けれど喜んで幸せそうな英二が愛しくて可愛く想えてしまう、困ったなと思いながら周太は微笑んで話していた。
こんなふうにしばらく話してからお互いに携帯を閉じて、クライマーウォッチを見ると20:15だった。
今夜は風呂も食事も、電話まで早く済んでしまった。ゆっくり時間がとれることに周太は微笑んだ。
「ん、…今夜、やっておこうかな?」
デスクの抽斗を開くと植物標本用のケースと標本ラベルを取出した。そっとケースを開きシートを開けていく。
植物標本乾燥剤シートをゆっくり開くと冬と春の花が11種、きれいな押花になっている。
あわい赤、黒深紅、純白、クリームいろ。いろあざやかな冬と春の花々は英二から贈られた求婚の花たち。
年明け英二と実家で過ごして帰寮するとき11種類の花を1本ずつ持ってきた。
このデスクに活けて周太は毎日眺めていた、そして花の盛り最後の時に周太は水からあげて押花の処置を施した。
1つずつそっと手にとってケント紙に載せていく、どれもが仕上りが美しい。うれしくて周太は微笑んだ。
「…ん、良かった。みんな、きれいだね?」
父を亡くす13年前の春までは、山や公園、庭で集めた草花を押花にして採集帳へまとめ、自作の植物図鑑を作っていた。
それを11月に雲取山へ英二と登って周太は再開し、集めてきた奥多摩の草花標本を13年ぶりに造りこんだ。
ずっと忘れていた植物との時間だった。けれど手は覚えてくれていて、草花の洗浄も試薬の処置も手際よくすすんだ。
そうして錦秋の奥多摩で出会った草花たちは美しい押花となって採集帳に納められている。
だから婚約の花も上手に造りこめるだろう、そう思って周太は1つずつ丁寧に花々を手にとり造りこんだ。
「英二のね、想いを伝えてくれて、…うれしかった。ありがとう」
きれいな押花たちをうれしく眺めてから周太は、コンパクトな植物解説書を手にとり開いた。
これは奥多摩から戻った翌日、実家に帰った途路いつもの書店で見つけた専門書になる。
きれいな図解とラテン語表記も掲載され専門的で解りやすい、すこし高価だったけれどずっと使えるならと買い求めた。
ゆっくりページを開いて目当ての項目を見つけると周太は微笑んだ。
「…carnation_Black Baccara Dianthus caryophyllus ナデシコ科Caryophyllaceaeナデシコ属、ダイアンサス属」
ちいさく読みながらラベルに書きこんでいく。花を贈られた日付、ラテン語の学術名、それから花言葉。
花束についていた花言葉と英二からのメッセージが記されたカードは実家の宝箱にしまってきた。
そして周太の記憶の抽斗にも言葉たちはしまわれている、それぐらい何度も読み返してしまったから。
カーネーションブラックバカラの花言葉を綴りながら頬が熱くなってしまう、この花言葉はやっぱり気恥ずかしくさせられる。
そんなふうにラベルを書きすすめて、次に1つの白い花を周太は見つめた。
「オーニソガラムMt.フジ…学名、Ornithogalum umbellatum fuji」
英二が登る山の名前を冠する花、日本の最高峰である山の名前。
明日下山して昼ごろ青梅署に戻る予定になっている。ふっと周太は左腕のクライマーウォッチに目を留めてしまう。
これは元は英二の腕時計だった、警察学校時代に山岳救助隊を志したときに買って以来ずっと大切に使っていた。
それをクリスマスの日に「欲しい」とねだって英二に左手首を差出て嵌めてもらっている。
そして周太は代わりにプロ仕様のクライマーウォッチを英二に贈った。
この腕時計は英二が山岳レスキューを志して夢を叶えていった大切な時間たちを刻んでいる。
だから周太はこの腕時計を欲しかった、この腕時計に籠る英二の大切な時間たちを独占して、いつでも見つめていたくて。
そして英二には自分が贈ったものを腕に嵌めていてほしくて、英二が欲しかったプロ仕様のクライマーウォッチを贈った。
プロ仕様のクライマーウォッチなら、いつか英二が世界の最高峰を登っていく時も嵌めていてもらえる。
クライマーウォッチは高度・方位など山で必要な情報の計測機能が搭載されているから時間以外の用でも山で見てくれる。
そんなふうに度々に見つめる時に贈り主の自分を想いだしてほしい、そしていつも自分を想っていてほしい。
そんな願いの「おねだり」をしたくて周太はクライマーウォッチを英二に贈って、英二の大切な時計を貰いたかった。
…そうしたら、婚約になっちゃったんだよ、ね
想いだしてまた頬が熱くなってしまう。
腕時計を贈りあう申出と一緒にキスをして「英二の時間を全部ください」と周太は英二にお願いをした。
それを英二は幸せな美しい笑顔で受けとめて、そして「これは婚約の申し込みだよ?もちろん答えはYesだ」と告げてくれた。
あのとき周太は何も知らなかった。何も知らないまま自分で思いついて、一生懸命に「おねだり」しただけだった。
けれど英二に言われて恥ずかしいけど幸せで「はい、」と頷いてしまった。
そして年明けに英二は求婚の花束とメッセージを携えて周太の実家を訪れて、母に周太との婚約の承諾を求めてくれた。
そんな押花たちを見つめながら、ぽつんとつぶやきが零れ落ちてしまう。
「…ほんとうに、もう、決まりなんだよ、ね?」
一人っ子長男で他に親戚もない周太は、自分が他家へ入籍すれば生家を断絶することになる。
そして英二との結婚は「英二の戸籍に周太が養子として入籍する」ことになってしまう。
だから英二との結婚は「家名と戸籍の断絶」を招来することになる、それを踏まえた上で周太も母も英二に承諾の返事をした。
このことを英二は真剣に悩んだ末に決断してくれた、そして「家名は絶やしても家は守りぬく」と約束を周太たちに結んだ。
そのために英二は自身が戸籍筆頭者になる為に生家から分籍することを決めている。
ほんとうに英二は真剣で実直でいる。そんな英二だから周太は尚更また好きになってしまった。
もう離れたくないと心の芯に想いが固められていくのが解ってしまう、だから英二の求婚の花束を受け取った。
その花を仏間にも供えて、父たちを祀る仏前に英二との婚約と家名を絶やす許しを周太は祈った。
そして英二も仏間に祈り墓参を周太に願い出て、父たちの霊前にも祈りをささげてくれた。
このことを母に話したくて周太は、ちょうど週休だった日曜の昨日は実家へと日帰りで帰った。
「ほんとうに英二くん、実直なのね。そういうひと最近は珍しいんじゃないかな。
でもお父さんはね、そういうひと大好きなのよ。きっと喜んでいるわ、お父さんのことだから。
だからね、周?きっとね、ご先祖様も喜んでるんじゃないかな。よかったね、周。あなた、ほんと幸せよ?」
そんなふうに母は楽しそうに幸せそうに笑ってくれた、そして「年末にお墓の掃除しておいて良かったわ」と笑っていた。
そんな母の明るい楽しそうな笑顔がまた嬉しくて幸せが温かい、本当に心から周太も「良かった」と思えた。
そして自分はやっぱり「親離れ」が出来ていない。どうしても母が気になって、こうして事あるごと会いたくなってしまう。
けれどそんな母よりも英二を想ってしまうようになってしまった。そんな実直な英二だから尚更に大好きで愛してしまっている。
こうやって自分も「親離れ」していけるのかな?微笑みながら周太は植物解説書の「オーニソガラムMt.フジ」の項目を読んだ。
「…ユリ科オオアマナ、オーニソガラム属… 別名、大甘菜…Ornithogalumはラテン語のornis鳥とgala牛乳」
鳥なのは花の形だろうか、牛乳はきっと白い色からだろう。ラテン語も面白いのかもしれない。
このあいだ英二はラテン語の辞書を解剖学書を読むために買っていた、きっと英二のことだから努力してマスターするだろう。
自分にとってもラテン語は植物名を覚えるのに便利かもしれないな?そんなことを考えながら周太は項目の続きを読んだ。
「…和名、…こだからそう?…」
読み上げて周太は思わず項目を見直した。
そう見直した項目に周太の瞳が大きくなって、思わず呼吸を周太は忘れた。
“オーニソガラム 和名 子宝草”
…こだから?
こだから、って、あの「子宝」?
あの「子供」っていう意味の子宝の事だろうか?
それは「ふたりの子供」のこと、そしてこれは「子孫繁栄」を意味する寿ぎの言葉。
ようするに「結婚して子供を育んで子孫繁栄しますように」という祈りの花だということ。
「…っ、えいじどういうことなのこれって…?」
だって自分は男で英二も男、男同士で子供はつくれないよね?
なのにどうしてこんな花が入っているの求婚の花束に?でも英二は想ったことを言葉にするよね?
そんな途惑いが廻る周太の想いから、花束を贈ってくれたときの英二の言葉がふと唇へと零れおちた。
「…この家は俺が必ず残してみせる。そしてこの家の想いも全て俺が周太に教えてあげる…?」
「家」を残すということ。それは家屋を残すという意味だけではない。
英二が言った「家を残す」という意味を抱いて周太は白い花の押花を見つめた。
どこまでも実直で直情的な英二は、想ったことしか言えない出来ない。
だから「この家は必ず残してみせる」も英二が心から想い、言い、そして現実にしていくつもりでいる。
…ね、えいじ?ふたりの子供を見つける、そういうこと?
オーニソガラムMt.フジ
この国の最高峰を冠する花。
この花の名前に英二は自分の誇りと夢を示して周太に贈ってくれた。
そして英二の夢と誇りを示す花の「もう一つの名前」が隠された願いを告げてくる。
この花に寄せた英二の想いの深さが切なくなる、そして愛しい。
そして、花言葉は?
(to be continued)
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第32話 高芳act.2―another,side story「陽はまた昇る」
一日の勤務を終えて周太は新宿署の独身寮に帰ってきた。
今日は月曜日で飲み会なども少ない、新宿東口交番の管轄内では喧嘩などもなく穏やかな日だった。
いつもこんなふうに平和だといいなと思ってしまう、出来れば人が傷つけ合う姿など見たくない。
自室で制帽と上着を脱ぐと周太は左手首のクライマーウォッチを見た、デジタル表示には18:33と出ている。
今日はトラブルも無くて定時通りに勤務を終えたから時間が早い。
「…すこし早いけど、食事とか、済ませようかな」
今日は英二は富士で登山訓練をしている、きっと疲れただろう。いつも21時の電話も早めに架けたいかもしれない。
先に食事して風呂も早く済ませよう、制服のまま周太は廊下へ出ると食堂へ向かった。
夕食のトレイを受けとって座るとテレビが夕方のニュースを流している。
いただきますをして箸をとり汁椀に口付けてから、ときおりテレビを見ながら食事を始めた。
「…今日は全国的に晴天に恵まれ…」
いつものように天気予報が気になってしまう、ふと箸をとめて天気図を周太は見つめた。
英二は山岳救助隊員を兼務する青梅署所轄の御岳駐在所で勤務している、そして山岳遭難の救助に駆けていく。
山岳では天候にその安全を支配される、とくに冬は降雪と低温が危険を増す。
そんな心配からも天気図を見る癖が周太についてしまった。
そして今日の英二は国村とマンツーマンの登山訓練で富士山にいる。
単独峰の富士山は遮蔽物が皆無の為に風の影響を受けやすい、特に冬富士は突風と雪崩が恐ろしい。
…今日はきっと大丈夫。でも明日の、この天気図は…
英二が山岳救助隊員となってから周太は山では気象予想が大切なことを知った。
いつも英二はいろんな話をしてくれる、その話から周太は自分も天気の読み方を知ろうと思った。
大切な英二が立つ現場のことを正しく理解して、すこしでも英二の世界を知りたい。
そうして調べて覚えた天気図と山の天候のことが、いま見つめる天気図に明日の富士山を教えてくれる。
…明日は頂上に登る予定、でも雪が降ってしまう
この天気図だと今夜から明日朝にかけて降雪がある。
ふりつもった新雪はきっと美しいだろう、けれどこの時期は雪崩があると父から聞いたことがある。
いまから13年以上前に父は殉職をした、その父は山を愛し植物を愛し、その話を周太にもよくしてくれた。
ちょうど今ごろの季節に富士山麓の全面凍結する湖を見に行った、そのときの話が思い出されてしまう。
「ほら、周。ここからね、富士山が見えるね…あの斜面のところ、見える?」
「ん、お父さん、…あの靄みたいなのかな?」
「ん、そう。あの靄はね、…雪崩で起きる雪の煙なんだ。雪崩でね、すごい風が起きる。それが雪を飛ばして煙になって見える」
雪崩は高速で長距離を走り前面の速度は毎秒20~80m、そのため巨大な雪煙を巻き起こす爆風を伴う。
この爆風による圧力は最大で鉄筋コンクリートの建物を破壊するほどの衝撃力になる。
そんな爆風に飛ばされたら滑落に繋がる。そして富士山の広斜面は遮るものも無く止まれず、滑落すればまず助からない。
あの2人は適切な訓練と装備を備えている、それでも雪崩に遭えば深刻な危険である事は変わりはない。
見つめた天気図に小さくため息を吐くと、また周太は箸を動かした。
…でも、きっと大丈夫、
きっと慎重な英二と経験豊富な国村の事だから、無理な計画を立てることはしない。
だからきっと明日の天候も予測して予定変更をしているだろう。
それに今日の昼過ぎに英二はメールを送ってくれた、きれいな富士山頂の写真と初登頂の想いが籠ったメールだった。
今日の登頂は明日の天候不順を見込んでの計画の前倒しだろう。
…きっと今日もう登ったから、明日は早く下山する、きっと計画を変えているはず
きっと大丈夫、あの2人なら無謀なことはしない。
いつもあの2人は困らせることを言ってくるし、すぐ大人の会話を始めて周太を真赤にさせてしまう。
けれど怜悧で慎重な2人だから大丈夫、きちんと無事に帰ってくる。だって英二は『絶対の約束』をしてくれた。
そうやって自分に言い聞かせながら食事して、なんとか全部を胃に収めると周太は箸を置いた。
「…警察官が逃走中の車に発砲し、助手席の男性が死亡した事件で、」
テレビの声に周太は視線をあげた。
その視線の先では10年ほど前の警察官発砲事件について、初公判が始まった旨のニュースが読まれていく。
殺人・特別公務員暴行陵虐致死の両罪で、付審判決定を受けた警察官2名の裁判員裁判の初公判。
こうした付審判での裁判員裁判は例がなく殺人罪の審理も初めてになる、そのニュースがテレビから流れていく。
「…警察官2名は罪状認否で無罪を主張…発砲の正当性と殺意の有無が争点になる…」
その事件は「車上荒らし」が発端だった。
発見された車上荒らしの手配車両が逃走、パトカーや一般車両に衝突しながら暴走を始めた。
その暴走を停めるために警察官3名が計8発を発砲、手配車両内の男性2名を狙撃した。
車内への狙撃は助手席側の約1メートルの至近距離からだった。
そして2名の警察官が発砲した2発が助手席男性の首と左頭部、1発が運転席の男性の頭に命中した。
狙撃された助手席男性は翌月に死亡、窃盗などの容疑で書類送検されたが容疑者死亡で不起訴。
運転席男性は窃盗罪などで懲役6年の実刑判決を受けた。
そして狙撃した警察官2名に殺人・特別公務員暴行陵虐致死の罪状が付審判決定された。
警察官2名の主張は「逃走した車両を停止させるために運転する男性の腕を狙った正当な発砲だった」
…正当な発砲…狙撃
ニュースで読まれた単語に心が固くなっていく。
この警察官たちは発砲許可を受けて狙撃をした、それくらい緊急性の高い状況だっただろう。
きっと車上荒らしの車両を停止させなければ、逃走しながら事故を起こして多数の死傷者が出ていた。
だからこの警察官達は「起こり得た傷害致死罪」を防いだことになる、それでも「殺人・特別公務員暴行陵虐致死」の罪状は下された。
…狙撃すること、任務、そして、
たとえ任務であったとしても、人命を救うためであったとしても。
銃で狙撃し死傷者を出せば罪に問われていく、それは警察官であっても変わらない。
それを知ったうえで自分は「射撃の名手である警察官」の道に今こうして立っている。
その道が行きつく先にあるもの、それが父の進んだ道だから自分は立つことを選んだ。
そして父が見つめ苦しんだ世界と想いを、息子の自分が見つめて父を受け留めたい。そのために今ここにいる。
…狙撃の任務、…お父さんの任務、だったのでしょう?
父の任務は秘匿されている。
家族すら知らされず、警察社会の暗部へと謎の底にと沈められている。
きっと父は苦しんだ、優しい誠実な父は任務と罪の陥穽で孤独に苦しんでいた。
そんな父の孤独を自分は何も知らなかった、ただ父に守られて幸せに笑っていた。
だから父が殉職したときに後悔が心を蝕んだ、父のことを何も知らなかった自分を思い知らされた。
そんな後悔はいまでも心に蹲って動けない、だから「父を知る」為に父の軌跡を辿り選んでここにいる。
…ね、お父さん?俺はね、お父さんの道を歩き出した。でも、俺は絶対に殉職しない
ちいさく微笑んで周太は席を立った、そしてトレイを返却口に返すと自室へ戻った。
自室へ戻ると時間はまだ19:00前だった、すこし考えて周太は着替えなどの支度を始めた。
いまから風呂を済ませてしまえば19時半には落ち着けるだろう、タオルなど一式を持つと周太は共同浴場へ向かった。
まだ19時半の早い時間で浴場は空いている、すこしほっとして周太は隅の目立たない場所の洗い場を選んで座った
座った正面の鏡に自分の体が映りこむ、その右肩に赤い痣がうかんで花びらのように見えた。
そっと見る右腕の内側にも同じような赤い花のような痣がある、こんなふうに英二は周太の体に想いを唇で刻みこんでしまった。
いつも英二は周太の体中に赤い花の痣を刻みこむ、それは一晩もたてば全て幻のように消えてしまう。
けれど今見つめている、この2つの痣は消えることは無い。
この2つの痣だけはいつも、歯を立てるキスで深く英二は刻んでしまう。それを初めての夜から英二は続けている。
もう消えてくれない想いの痣。そんな深い痣を2ヶ所も刻まれた自分は英二だけのもの、そんな印として英二は刻んでしまった。
…ね、英二?英二の夢の、最高峰の1つに今いるんだね?
そっと赤い痣に微笑んで周太はシャワーの栓をひねった。
温かな湯に寛ぎながら髪を洗い体を洗ってから浴槽へと浸かる、そこへちょうど同期の深堀が入ってきた。
今日の深堀は週休だから空いているうちに風呂へ来たのだろう、いつもの明るい気さくな笑顔で深堀は話しかけてくれた。
「おつかれさま、湯原。今日は早く上がれたんだね?」
「ん、月曜の週初めだからかな?あまり東口交番は人も来なかった…道案内が5件くらいかな」
「そっか、平和がいちばんだよね。手話の方ってまた見えた?」
周太の勤務する新宿東口交番は駅前広場に面し、道案内の業務が多い。
そんな道案内の時に周太は筆談で道案内を訊かれたことがあった。
まだ若い男性は大学生だったらしい、大学のテキストを買いたくて本屋を探していた。
その時は筆談で周太は対応した、けれど深堀や瀬尾が手話講習会に行くときいて自分も覚えようと思った。
でもまだ現場で使ったことは無い、かるく頭を振って周太は微笑んだ。
「いや、まだ見えてない…でも、手話出来るといつか役に立つかなって」
「うん、そうだね。俺はね、詩吟の稽古の時にさ、役に立つよ」
「詩吟で?」
意外で周太は驚いた。詩吟の様に発声する稽古に、手話を必要とする人が参加できるのだろうか?
そう驚いていると深堀が笑って教えてくれた。
「会話は難しくてもね、詩吟の発声は出来る方もいらっしゃるんだ。そういう方に稽古を出来て手話は便利なんだよ」
「そういうのも、あるんだね…すごいな、深堀」
「ううん、俺は何も凄くないよ?湯原の射撃の方がすごいって。特練いつも頑張ってるよな?」
気さくに笑って深堀は髪を掻き上げた。
こんなふうに深堀はいつも気さくで偉ぶった所が無い、けれど豊かな語学能力と対人スキルが高い。
深堀は数か国語の日常会話ができる、そんな能力で外国人が多い百人町交番に卒配された。
そして高名な詩吟の師匠を祖母に持ち師範代も務めている、そのため人当たりが良く誰とでも親しく話せる。
きっと語学も対人スキルの高さからマスターできるのだろう。
そうした「人と接する」能力は周太に最も欠けた部分になる。
同じ遠野教場で過ごしていた頃の深堀は目立たない方だった、それは謙虚な深堀の性格の所為だろう。
けれど同じ新宿署に卒配されて話す機会が多くなるうちに、深堀の能力の高さと自分がなぜ一緒に配属されたか解ってきた。
豊かな対人スキルと謙虚な性格は深堀から学んで身に付けるべき部分だろう。だから遠野教官は自分を深堀と組ませてくれている。
周太は警察学校で英二に出会うまで、ずっと孤独で他人と必要事項しか話すことをしなかった。
父の殉職を他人に憐憫や好奇心の対象とされることが煩わしくて嫌いだった、だから13年間ずっと話し相手は母だけだった。
そんな自分は対人スキルは10歳のまま止まるどころか退行してしまった。
そのことに周太は英二と出会って気がついた、そして英二の隣で少しずつ人と接することを学んで身につけていった。
けれど6ヶ月間で13年間を取り戻すことは難しい、今は10歳と10か月になる位だろう。
こういう自分にとって深堀のような、気さくで温かい人柄の同期が傍にいてくれる事はありがたい。
こうして気さくに話せることが嬉しくて、周太は微笑んで答えた。
「射撃はね、俺、ほんとうは得意じゃないんだ…だからね、練習を頑張るしかないんだ」
「そうなのか?意外だね、湯原」
すこし驚いたように深堀が訊いてくれる。
うまく話せるかなと思いながら周太は湯の中で両掌を組んだ。
「ん。俺ね、骨格とか華奢なんだ…それで拳銃の衝撃とか、本当は大変で。
だから体を鍛えるとこから頑張ったんだ。それにたぶん、練習を続けていかないと、勘みたいなものも忘れやすいと思う」
「そうなんだ、聴いてみないと解らないね?でもね、同期の中では間違いなく湯原がトップだと思うよ」
「ん、…どうかな?俺は、高校時代からずっと射撃部だから、経験も長いし練習をいっぱいしているよ。
だから警察学校から射撃を始めたのに、上級テストに高い成績で合格できる人の方がずっと才能あると思う。英二とか、ね」
これは周太の本音だった。
きっと前なら悔しくて、こんな本音は話せなかったろう。けれど今はきちんと笑って話せている。
これもきっと英二の影響だろう。いつも英二は率直に思ったままを話してくれる、そんな英二を好きでいるから。
今頃は英二は山小屋で夕食だろうか?ふっと想っていると深堀が笑って言ってくれた。
「でも湯原、それだけ努力できることって、一番の才能だよね」
努力できることが一番の才能。その言葉が温かくて周太は微笑んだ。
ずっと自分は努力ばかりで生きてきた。父の軌跡を追うために必要な能力を身に付けたくて努力を続けている。
それは無理な努力も多くて苦しくて、気がついたら自分が本当に好きなことまで忘れかけていた。
そんな自分の努力は虚しいと思う瞬間もある、けれど努力自体を「才能」と言ってくれた。
それを同期の口から客観的に言って貰えたことが嬉しい、周太は笑った。
「ん、ありがとう、深堀。俺はね、努力なら頑張れる、かな?」
きれいに笑って周太は、すこし自分の心に自信を積んだ。
そして謙虚に素直に話すことは良いなと、あらためて自分の同期に話せる今が嬉しい。
いま英二と離れて寂しくて仕方ない。けれど今の様に、英二と離れた場所で向き合っていく人の言葉が自分を育ててくれる。
こうして少しでも早く止めた13年間を越えて成長を積んで、大切な英二に相応しい自分に成れたらいい。
…だって、英二のね、妻になるんだし…もう婚約者なんだし、
そっと心につぶやいて急に気恥ずかしくなってしまった。
いまの「妻」という単語に実家の小部屋の記憶が、英二の嫣然とした姿と言葉が甦ってしまう。
しかも昨夜電話で言われた「夢で逢ったら冷たくしないで?それでキスしてよ」その通り夢でそうなった。
そうした記憶たちに首筋から熱が昇って頬が熱くなってくる、きっと赤くなり始めている。
そんな周太の様子に深堀が首傾げて心配そうに言ってくれた。
「湯原なら頑張れるよ。でも、湯原、なんか顔が真赤になってきてる?逆上せかな、早く出た方が良いよ?」
「あ、ん。ありがとう、じゃあ俺、出るよ…またね、深堀。おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい、湯原。お大事にね?」
そっと立ちあがると周太は隅の洗い場で冷たいシャワーを頭から浴びた。
すこし逆上せが納まってくる、これで冷静になれるだろう。
それにしても、と思ってしまう。どうしてこんなに自分は赤くなりやすいのだろう?
…きっと、子供のままだから、だよね?…すぐ恥ずかしくなるし
こんな自分で英二の婚約者や妻が務まるのだろうか?
英二は自身の意識と関係なく人を惹きつけ魅了する、そして多くの視線が向けられる事を隣で見て知っている。
そんな英二の隣で婚約者や妻でいることは、嫉妬や羨望を受けることになり気苦労も多いだろう。
いまだって既に英二の隣で羨ましそうな視線を受ける、そんな視線が気恥ずかしく途惑う自分がいる。
抑々が人から注目される事に慣れていない、だから気がつくと緊張して赤くなって困ってしまう。
そういう視線にも平気でいられる大人になりたいな、そう考えながら周太は身支度を整えて自室に戻った。
入浴の片づけを終えてクライマーウォッチを見ると19時半前だった。
ゆっくり時間があることが嬉しい、微笑んで周太はデスクの花瓶を見た。
ちいさな白磁の花瓶には白い花がほっそりとした姿に佇んでいる。携帯を持って周太はデスクの椅子に座った。
頬杖ついて見つめる花に、咲いていた実家の懐かしい庭が想われてそっと心が温かい。
あの庭は祖父が奥多摩を模して木々を植えたと聴いている、その庭を父も愛していた。
そして自分が愛しているひとは奥多摩で山岳救助隊員として山ヤの警察官の誇りに生きている。
「…ね、英二?…また、奥多摩の山に連れて行って?」
そっと大切な名前をつぶやいて周太は微笑んで、持っている携帯を見つめた。
そうして見つめる想いの真ん中で、ふっ、と携帯の着信ランプが灯った。
…英二、俺の声が聴こえるの?
いつもこんなふうに想っている時、英二は電話を繋いでくれる。
まだ19時半、いつもの21時よりだいぶ早い時間でいる。
そっと携帯を開くと待っていた名前が表示されていた、電話を繋ぐと周太は携帯を耳に当てた。
「はい、」
「こんばんは、湯原くん?」
国村の声だった。
まえに雲取山からも国村は勝手に英二の電話から架けたことがある。
きっとまた英二の携帯を横取りしたのだろう、ちょっと可笑しくて周太は笑いながら答えた。
「こんばんは…国村さん?」
「そ、俺だよ。昨夜は電話楽しかったよ?」
昨夜は周太と電話している英二の横から国村は話しかけてきた。
「可愛いのにさ、意外と大胆なんだね、湯原くん?こんど俺のことも押し倒してよ」
そんなことを言って周太を困らせてくれた。
でもあんな発言をしたら、たぶん英二は怒ったのじゃないのかな?周太は訊いてみた。
「あの、国村さん?あんなこと言って、英二、…怒ったんじゃない?」
「うん、そうだよ」
やっぱりそうだった。
どうも英二は嫉妬深いところがあると周太は最近気がついた。
このあいだ風呂に入れてくれた時も「寮で風呂入る時もね、俺以外とは2人きりなんてダメだよ?」と言っていた。
そんな英二の前で周太に「俺のことも押し倒してよ?」なんて言えば、きっと怒るだろう。
そして英二は真面目なだけに真に受ける所がある、相手次第では酷い目にあわせそうで怖い。
でも今こうして無事に国村は電話で話している、そんなに酷いことはされなかったらしい。
きっと国村だから英二も許したのだろう、良かったと思いながら周太は訊いてみた。
「そう…ね、国村さん。今は、どうして俺に電話してくれてるの?」
「ああ、それはね?今日、俺ね。宮田の初体験、頂いちゃったんだよね。だから一言って思ってさ?」
英二の初体験?
なんのことかな、すこし周太は考えてすぐに微笑んだ。
今日の英二は初めての富士登山に行った、そして初めて標高2,000m以上へ登り、そのまま初登頂をしている。
きっと国村の指導と案内で無事に英二は登り、初めての世界を楽しむことが出来た。それを言ってくれている。
無事に楽しめた様子がうれしい、良かったと心から微笑んで周太は答えた。
「ん、…国村さん、上手に英二を、富士の頂上まで登らせてくれたんだね?」
「うん。俺、上手いからね、きっと好い思いさせたと思うよ?」
「そう…良かった、英二、初めての最高峰を楽しめたんだね」
「そ、」
からり明るく国村が笑ってくれる。
英二の無事と喜びが心から嬉しい、昼間に富士山頂からメールは貰っているけれど心配だった。
山では下山の方が危険が多いという、でも国村と英二は無事に下山もして今こんな電話をくれた。
そしてこうした無事の電話を周太はずっと待っていた。
「国村さん、俺を気遣って無事の電話をね、早く架けてくれたでしょ?…ほんとうに、ありがとう」
「うん」
透るテノールの温かいトーンが、やさしい。
いつも国村は周太を転がして楽しんでしまう、けれど国村はそうして周太の緊張をほどいてくれる。
愉快に笑いながらも向けてくれる国村の大らかな優しさは温かい。このひとが周太は好きだ。
そしてこの国村の隣にいる美代は周太にとって初めて同じ興味を持って話せる友達、その美代へも伝言したい。
楽しくて周太は電話の向こうの友達に話しかけた。
「ね、国村さん、美代さん元気?」
「美代ね、会いたいって言ってるよ?」
こんなふうに会いたいと言ってくれる友達がいる。
こういう幸せな温もりが自分に与えられている、うれしくて微笑んで伝言をお願いをした。
「ん、俺もね、会いたいんだ…教えてくれた本も面白かった、ありがとうって伝えてくれる?」
「ああ、伝えとくね。じゃ、宮田に替るね」
楽しそうに話して国村は電話から遠のいた。
電話の向こうで国村の気配が「はい」と英二に携帯を返してくれている。
もうじき大好きな声が聴ける、そんな予感がうれしくて幸せに周太は微笑んだ。
「周太、初めて最高峰を体験してきたよ?」
おだやかな、きれいな低い声。
いつもどおりに、おだやかで美しい低く響く大好きな声。
…英二、無事で、いてくれた
ほっと吐息が零れて瞳から涙がひとつ零れた。
このひとの無事がこんなに嬉しい、幸せな涙と微笑んで周太は答えた。
「ん、…最高峰からのね、メール。うれしかった。ありがとう、英二」
「周太が喜んでくれると嬉しいよ。ね、周太?さっき国村が言った『初体験』の意味って周太は解ったの?」
あらためて言われると『初体験』という言葉が気恥ずかしい。
でも気恥ずかしがっていないで話さないと。さっき自分が想った通りを周太は英二に話した。
「ん、富士山の最高峰に初めて登ったこと、だよね?…
それで、上手に英二に雪山のこと、教えてくれて無事に下山できた。って事だと思ったんだけど…違うの?」
「うん、その通りだよ、周太。今日は、いろんなこと考えた。ほんとうにね、冬の富士山はすごかったよ。
ね、周太?いつだったら周太は予定空いている?会って話したいな、短時間でも少しでも、すぐ逢いたいよ」
ほんとうに逢いたい、いますぐに。
今日は月曜日で火曜日の明日に英二は下山して、青梅署に戻る予定になっている。
明日は周太も当番勤務で夜勤になる、けれど明後日の水曜は非番だから午前中の特練の後なら大丈夫。
そして明後日は英二も週休で休み、けれど英二は訓練があるかもしれない?逢える日を周太は思いながら提案してみた。
「ん、…水曜日の午後?が、いちばん近くで空いてる、な」
「じゃあさ?空けておいてくれるかな、その日はね、副隊長も吉村先生も用事があって、ちょうど訓練休みなんだ」
もう明後日に逢える、急なことだけれど逢える日が嬉しい。
こんなふうに「逢える」約束はいつ出来るかなんて解らない、自分たちは急な任務もある警察官だから。
まして英二は山岳救助隊員だから急な召集が当然と笑って、真直ぐ遭難救助に駆け出していく。
いつも召集を受けたと聴くたび本当は不安になる。けれど真摯な英二の姿はまぶしい、だから止められない。
だから逢えるなら急でも何時でも嬉しい、微笑んで周太は訊いてみた。
「ん。じゃあ、お昼一緒に食べられる?」
「うん、一緒に食いたいな。待合わせは11時とか?」
「ん…じゃあ朝一で訓練に行ってくるね?…明日は英二、なにするの?」
明日の天気予想図への不安。
富士山の明日の気象予報は『低気圧の中心が富士山の南を通過中、風速次第で通過も速まる』
そんな時に誘発される冬富士の冷厳の姿を父から聞いたことがある、その記憶がいまも怖い。
どうか英二、明日は早く帰ってね?そんな想いのむこうで大好きな声が笑ってくれた。
「明日はね、周太。朝飯食ったら山小屋に近い斜面でさ、ザイルワークと雪上訓練のおさらいをするよ。そして9時には下山する、
昼には青梅署に戻っているかな?周太、明日は吹雪みたいなんだよ。だから予定を変更して今日、登頂してきたんだ。急だったけどね」
やっぱりそうだった。
良かったと微笑んで周太は答えた。
「ん、そう…良かった、明日も気をつけてね?」
「うん、周太。気をつけるよ?下山したらまたメールする、吹雪の富士山も綺麗だろうから」
吹雪の富士山、つきんと周太の心が痛んだ。
きっと美しい光景だろう、けれど吹雪にひそんでいる危険が自分は怖い。
吹雪が酷ければ零視界になる、そしてホワイトアウトが起これば見透しは全く効かない。
そうして視力を奪われた状態で山を歩くことの怖さを自分も資料で読んで知っている、英二を理解したくて読んでしまった。
知ってしまったことの恐怖が疎ましい、けれど自分は逃げたくない。
…だって、愛している。このひとを真直ぐに見つめて全て受けとめて、報い求めない愛情を贈ってあげたい
英二の母親は息子を「自分の理想通り」という条件付きでしか愛してくれない。
それに英二はずっと傷つけられてきた、報い求めず受けとめられる「無償の愛」を求めていた。
そんな英二は温もりが欲しくて寂しくて、外見だけでも求めて誰か傍にいてくれるならと「人形」のように生きてしまった。
そんな生き方に尚更に傷ついて英二は、要領の良い冷酷な仮面をかぶって孤独のままに生きていた。
…その仮面を壊したのは、自分。そのことが誇らしい、だから自分が英二に与えてあげたい
13年間の時を止めて生きてきた自分は10歳の子供。
けれど自分こそが英二の孤独の仮面を壊すことが出来た、実直で真摯で穏やかな英二の本質を覚まさせた。
その本当の英二の姿を自分は最初から見つめている、その姿に初めての恋をして、そのまま初恋に全てを捧げた。
そんな英二は山岳の危険に立つ生き方を選んだ、それはいつ消えても不思議はない相手だということ。
ほんとうは弱い自分はまた孤独に戻されたら壊れるだろう。それでも自分の隣を英二の帰ってくる居場所にしていたい。
どんな人間もいつ死ぬか解らない、それは山岳レスキューでも会社員でも同じこと、人の運命なんてわからない。
それなら自分は愛する人の隣でいたい、もしこの一瞬後に消えてしまうならその最後の一瞬まで愛したい。
だから自分は「絶対の約束」を結んで勇気を1つ抱いた。
もう覚悟は出来ている、このひとの全てを受けとめ愛して自分は生きていく。
だから止めない、たとえ不安に泣いても、きっと信じて微笑んで受けとめて愛したい。
きれいに笑って周太は英二に答えた。
「ん、吹雪もね、きっときれいだね?…メール楽しみに待っているね、明日も気をつけて。そして俺の隣に帰ってきて?」
電話のむこう幸せな笑顔の気配が伝わる。
きっと今、きれいな笑顔で笑ってくれている。そんな気配がうれしい。
その笑顔の主がうれしそうに話しかけてくれた。
「絶対に無事に帰るよ、周太。だって俺ね、周太に逢いたいよ?そして一緒に眠りたい、朝の周太を見たい」
「ん…はずかしいそんないいかた…でも、うれしいよ?あ、でも、木曜は英二、日勤でしょう?明後日は日帰りだよね?」
気恥ずかしいまま答えて、確認をしてみる。
そんな確認に哀しそうなため息が、そっと電話むこうから伝わった。
「そうなんだ、周太。俺、日勤なんだ…
今の時期は凍結とかあるだろ?電車が朝動かない事がある、だから朝帰り出来ない。
ね、周太?冬はさ、雪山は俺、好きなんだけど。朝帰りできないのが困るよ?周太の夜も朝も俺、独り占めしたいのに」
朝帰り。この単語が醸してしまう「大人の恋愛」の気配。
こんなことすら自分には気恥ずかしい、ほら首筋が熱くなってくる。
それにきっと国村に会話が聴こえている、いろいろ恥ずかしくて周太は英二に言った。
「あの、…想ってくれるの嬉しい…けどくにむらさんいるんでしょ?きかれるのはずかしいよ…」
「なんで、周太?俺、何も恥ずかしいこと言っていないよ?
そんなことより周太、昨夜、俺ね?夢で周太にキスしてもらったよ?
周太、きれいで可愛くってさ。俺、幸せだったんだ。ね、周太?昨夜は俺のこと夢に見て、キスしてくれたの?」
さっき風呂で思いだした「昨夜の夢」
それをこんなふうに言われて驚いてしまう、だって英二が言う通りだから。
気恥ずかしくてたまらない、それでも周太は素直に頷いた。
「ん、…はい、」
「やっぱりそうなんだ、周太?うれしい俺…ね、周太、ほんとうにキスしたいな?」
全部を国村が聴いているのだろうな。
こんなの罰ゲームみたいにも思えてしまう、きっと次に会ったとき国村に散々転がされるだろう。
けれど喜んで幸せそうな英二が愛しくて可愛く想えてしまう、困ったなと思いながら周太は微笑んで話していた。
こんなふうにしばらく話してからお互いに携帯を閉じて、クライマーウォッチを見ると20:15だった。
今夜は風呂も食事も、電話まで早く済んでしまった。ゆっくり時間がとれることに周太は微笑んだ。
「ん、…今夜、やっておこうかな?」
デスクの抽斗を開くと植物標本用のケースと標本ラベルを取出した。そっとケースを開きシートを開けていく。
植物標本乾燥剤シートをゆっくり開くと冬と春の花が11種、きれいな押花になっている。
あわい赤、黒深紅、純白、クリームいろ。いろあざやかな冬と春の花々は英二から贈られた求婚の花たち。
年明け英二と実家で過ごして帰寮するとき11種類の花を1本ずつ持ってきた。
このデスクに活けて周太は毎日眺めていた、そして花の盛り最後の時に周太は水からあげて押花の処置を施した。
1つずつそっと手にとってケント紙に載せていく、どれもが仕上りが美しい。うれしくて周太は微笑んだ。
「…ん、良かった。みんな、きれいだね?」
父を亡くす13年前の春までは、山や公園、庭で集めた草花を押花にして採集帳へまとめ、自作の植物図鑑を作っていた。
それを11月に雲取山へ英二と登って周太は再開し、集めてきた奥多摩の草花標本を13年ぶりに造りこんだ。
ずっと忘れていた植物との時間だった。けれど手は覚えてくれていて、草花の洗浄も試薬の処置も手際よくすすんだ。
そうして錦秋の奥多摩で出会った草花たちは美しい押花となって採集帳に納められている。
だから婚約の花も上手に造りこめるだろう、そう思って周太は1つずつ丁寧に花々を手にとり造りこんだ。
「英二のね、想いを伝えてくれて、…うれしかった。ありがとう」
きれいな押花たちをうれしく眺めてから周太は、コンパクトな植物解説書を手にとり開いた。
これは奥多摩から戻った翌日、実家に帰った途路いつもの書店で見つけた専門書になる。
きれいな図解とラテン語表記も掲載され専門的で解りやすい、すこし高価だったけれどずっと使えるならと買い求めた。
ゆっくりページを開いて目当ての項目を見つけると周太は微笑んだ。
「…carnation_Black Baccara Dianthus caryophyllus ナデシコ科Caryophyllaceaeナデシコ属、ダイアンサス属」
ちいさく読みながらラベルに書きこんでいく。花を贈られた日付、ラテン語の学術名、それから花言葉。
花束についていた花言葉と英二からのメッセージが記されたカードは実家の宝箱にしまってきた。
そして周太の記憶の抽斗にも言葉たちはしまわれている、それぐらい何度も読み返してしまったから。
カーネーションブラックバカラの花言葉を綴りながら頬が熱くなってしまう、この花言葉はやっぱり気恥ずかしくさせられる。
そんなふうにラベルを書きすすめて、次に1つの白い花を周太は見つめた。
「オーニソガラムMt.フジ…学名、Ornithogalum umbellatum fuji」
英二が登る山の名前を冠する花、日本の最高峰である山の名前。
明日下山して昼ごろ青梅署に戻る予定になっている。ふっと周太は左腕のクライマーウォッチに目を留めてしまう。
これは元は英二の腕時計だった、警察学校時代に山岳救助隊を志したときに買って以来ずっと大切に使っていた。
それをクリスマスの日に「欲しい」とねだって英二に左手首を差出て嵌めてもらっている。
そして周太は代わりにプロ仕様のクライマーウォッチを英二に贈った。
この腕時計は英二が山岳レスキューを志して夢を叶えていった大切な時間たちを刻んでいる。
だから周太はこの腕時計を欲しかった、この腕時計に籠る英二の大切な時間たちを独占して、いつでも見つめていたくて。
そして英二には自分が贈ったものを腕に嵌めていてほしくて、英二が欲しかったプロ仕様のクライマーウォッチを贈った。
プロ仕様のクライマーウォッチなら、いつか英二が世界の最高峰を登っていく時も嵌めていてもらえる。
クライマーウォッチは高度・方位など山で必要な情報の計測機能が搭載されているから時間以外の用でも山で見てくれる。
そんなふうに度々に見つめる時に贈り主の自分を想いだしてほしい、そしていつも自分を想っていてほしい。
そんな願いの「おねだり」をしたくて周太はクライマーウォッチを英二に贈って、英二の大切な時計を貰いたかった。
…そうしたら、婚約になっちゃったんだよ、ね
想いだしてまた頬が熱くなってしまう。
腕時計を贈りあう申出と一緒にキスをして「英二の時間を全部ください」と周太は英二にお願いをした。
それを英二は幸せな美しい笑顔で受けとめて、そして「これは婚約の申し込みだよ?もちろん答えはYesだ」と告げてくれた。
あのとき周太は何も知らなかった。何も知らないまま自分で思いついて、一生懸命に「おねだり」しただけだった。
けれど英二に言われて恥ずかしいけど幸せで「はい、」と頷いてしまった。
そして年明けに英二は求婚の花束とメッセージを携えて周太の実家を訪れて、母に周太との婚約の承諾を求めてくれた。
そんな押花たちを見つめながら、ぽつんとつぶやきが零れ落ちてしまう。
「…ほんとうに、もう、決まりなんだよ、ね?」
一人っ子長男で他に親戚もない周太は、自分が他家へ入籍すれば生家を断絶することになる。
そして英二との結婚は「英二の戸籍に周太が養子として入籍する」ことになってしまう。
だから英二との結婚は「家名と戸籍の断絶」を招来することになる、それを踏まえた上で周太も母も英二に承諾の返事をした。
このことを英二は真剣に悩んだ末に決断してくれた、そして「家名は絶やしても家は守りぬく」と約束を周太たちに結んだ。
そのために英二は自身が戸籍筆頭者になる為に生家から分籍することを決めている。
ほんとうに英二は真剣で実直でいる。そんな英二だから周太は尚更また好きになってしまった。
もう離れたくないと心の芯に想いが固められていくのが解ってしまう、だから英二の求婚の花束を受け取った。
その花を仏間にも供えて、父たちを祀る仏前に英二との婚約と家名を絶やす許しを周太は祈った。
そして英二も仏間に祈り墓参を周太に願い出て、父たちの霊前にも祈りをささげてくれた。
このことを母に話したくて周太は、ちょうど週休だった日曜の昨日は実家へと日帰りで帰った。
「ほんとうに英二くん、実直なのね。そういうひと最近は珍しいんじゃないかな。
でもお父さんはね、そういうひと大好きなのよ。きっと喜んでいるわ、お父さんのことだから。
だからね、周?きっとね、ご先祖様も喜んでるんじゃないかな。よかったね、周。あなた、ほんと幸せよ?」
そんなふうに母は楽しそうに幸せそうに笑ってくれた、そして「年末にお墓の掃除しておいて良かったわ」と笑っていた。
そんな母の明るい楽しそうな笑顔がまた嬉しくて幸せが温かい、本当に心から周太も「良かった」と思えた。
そして自分はやっぱり「親離れ」が出来ていない。どうしても母が気になって、こうして事あるごと会いたくなってしまう。
けれどそんな母よりも英二を想ってしまうようになってしまった。そんな実直な英二だから尚更に大好きで愛してしまっている。
こうやって自分も「親離れ」していけるのかな?微笑みながら周太は植物解説書の「オーニソガラムMt.フジ」の項目を読んだ。
「…ユリ科オオアマナ、オーニソガラム属… 別名、大甘菜…Ornithogalumはラテン語のornis鳥とgala牛乳」
鳥なのは花の形だろうか、牛乳はきっと白い色からだろう。ラテン語も面白いのかもしれない。
このあいだ英二はラテン語の辞書を解剖学書を読むために買っていた、きっと英二のことだから努力してマスターするだろう。
自分にとってもラテン語は植物名を覚えるのに便利かもしれないな?そんなことを考えながら周太は項目の続きを読んだ。
「…和名、…こだからそう?…」
読み上げて周太は思わず項目を見直した。
そう見直した項目に周太の瞳が大きくなって、思わず呼吸を周太は忘れた。
“オーニソガラム 和名 子宝草”
…こだから?
こだから、って、あの「子宝」?
あの「子供」っていう意味の子宝の事だろうか?
それは「ふたりの子供」のこと、そしてこれは「子孫繁栄」を意味する寿ぎの言葉。
ようするに「結婚して子供を育んで子孫繁栄しますように」という祈りの花だということ。
「…っ、えいじどういうことなのこれって…?」
だって自分は男で英二も男、男同士で子供はつくれないよね?
なのにどうしてこんな花が入っているの求婚の花束に?でも英二は想ったことを言葉にするよね?
そんな途惑いが廻る周太の想いから、花束を贈ってくれたときの英二の言葉がふと唇へと零れおちた。
「…この家は俺が必ず残してみせる。そしてこの家の想いも全て俺が周太に教えてあげる…?」
「家」を残すということ。それは家屋を残すという意味だけではない。
英二が言った「家を残す」という意味を抱いて周太は白い花の押花を見つめた。
どこまでも実直で直情的な英二は、想ったことしか言えない出来ない。
だから「この家は必ず残してみせる」も英二が心から想い、言い、そして現実にしていくつもりでいる。
…ね、えいじ?ふたりの子供を見つける、そういうこと?
オーニソガラムMt.フジ
この国の最高峰を冠する花。
この花の名前に英二は自分の誇りと夢を示して周太に贈ってくれた。
そして英二の夢と誇りを示す花の「もう一つの名前」が隠された願いを告げてくる。
この花に寄せた英二の想いの深さが切なくなる、そして愛しい。
そして、花言葉は?
(to be continued)
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