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萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第32話 高芳act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-01-22 23:56:34 | 陽はまた昇るanother,side story
おだやかな空気に佇んで、





第32話 高芳act.1―another,side story「陽はまた昇る」

おだやかな冬の陽ふる庭は桜の花芽が豊かになっている。
陽だまりに佇んだ白梅の枝には、ふくらかな花ほころんで清々しい甘い香が静かにとけていく。
咲き始めたスノードロップに周太は足を止めた。真白に緑きれいな葉の可憐な花、この花が周太は好きだった。
この花は別名を待雪草という、そしてもう一つ「雪の花」という名前を持っている。
その名前を前はただ、きれいだなと思っていた。けれど今は唯ひとつ抱いている想いと重なってしまう。

…ね、英二?夜には雪が咲く場所に、行くんだよね?

白い花に微笑んで周太は飛石を踏んで、玄関に立つと鍵を開けた。
ゆっくり扉をひらいて見ると母の靴はまだ無い、きっと仕事が忙しいのだろう。
周太は玄関へ入ると扉にきちんと鍵をかけて、ふと黒緑石の三和土を見つめてしまう。
この場所に英二が立っていた、その面影が残されている、そんな気がしてしまう。

この家に英二はクリスマスと年明けに帰ってきてくれた。
いつも大切に持ってくれる父の遺品の合鍵を使って、この玄関を英二は開けてくれた。
そして黒緑石の三和土に立って振向いて「お帰り」と周太に笑いかけてくれた。

― お帰り、周太 もっと抱きついてよ?周太 俺はね、いつだって周太を抱きとめるよ

そんなふうに言ってくれた。きれいに笑って抱きとめて、額に額をつけて微笑んでくれた。
抱きとめて貰えて幸せだった。うれしくて微笑んで、よせてくれる英二の想いがうれしかった。
あのときの幸せな記憶が今こうして見つめると名残の気配すら温かい、微笑んで周太はそっとつぶやいた。

「…ただいま、英二」

どうかお願い英二、またここに帰ってきて?
そしていま自分が言った「ただいま」をまた抱きしめて受け留めて?
そしていまの言葉に「お帰りなさい」の返事が欲しい、そして自分からもお帰りなさいを言わせて?

そんな瞬間が欲しくてたまらない、切なさに微笑んで周太は靴を脱いだ。
きちんと靴を揃えてから2階へあがると自室の扉を開いた、扉開く風にのる花の香がふわり頬を撫でてくれる。
清楚で甘やかな花の香がやさしい、微笑んで周太は鞄を置くと窓のカーテンを開いた。
ゆるやかに射しこむ冬の陽が、ふるいやわらなガラス窓を透して部屋を暖めていく。
クロゼットからエプロンを出して着るとデスクを眺めて香で迎えてくれた花々に微笑んだ。

あわい赤の冬ばら、純白の冬ばらとスカビオサ、クリームカラーと深紅のカーネーション。
赤いラインのきれいな八重咲きチューリップにアイビーのグリーン。それから白い花々がたくさん。
白い清楚と赤い艶が美しくて可憐な11種類の冬と春の花々。どの花もすべて英二が贈ってくれた、婚約と求婚の花。
どれも寮へ持って帰って眺めたかった、けれど置ける場所も無くて1種類1本ずつ選んで新宿の寮に連れて行った。
そして持ち帰れなかった花は家中に活けて残してある、この花も母は水を替えてくれてあった。

「…お母さん、ありがとう、ね」

微笑んで周太は1階へと降りると仏間に挨拶をしてから台所に立って昼食の支度を始めた。
今日は週休だけれど午前中に射撃特練の練習で術科センターまで行っている。
2月の警視庁けん銃射撃大会まで1ヶ月をきって練習の時間も増やされた。
それでも今日は10時半までに終えられて、携行品の返却と着替えを済ませてから実家に帰ってこられた。

「…ん、いま何時かな?」

見た左手首のクライマーウォッチは12:00とデジタル表示に教えてくれる。
これから料理をするのに濡らしたくない、野菜を洗う前に時計を外してエプロンのポケットにしまおうとした。
けれど手にとったまま周太は文字盤を見つめた、この時計をしていた人の温もりの記憶がどこか名残っている。
これは英二が警察学校時代に買ってから、ずっと大切に使ってきたクライマーウォッチだった。
周太はこの時計がずっと欲しかった。英二の時計を自分が嵌めることで、時計が刻んだ英二の大切な記憶と時間を独り占めしたかった。
そして自分は英二にとって「特別」なのだと自信を持ちたかった、その自信で自分を支えたくて英二に「おねだり」をした。
そして自分が贈ったクライマーウォッチを英二にいつも見つめて欲しかった、いつも自分を想ってほしいから。

…ちょっと、よくばりになった、かな?

以前の自分なら、こんな「おねだり」を素直に言うなんて出来なかった。
けれどもう躊躇していたくなくて、クリスマスの贈り物にかこつけて、腕時計の交換を「おねだり」してしまった。
それを喜んで英二は「婚約だね?」と受けとめてくれた、そして年明けに正式に婚約と求婚の申し込みをしてくれた。
その日の話を母にしたくて周太は今日、実家へと帰ってきている。
両掌にくるみこんだ紺青色のフレームのクライマーウォッチを見つめて周太は微笑んだ。

「ね、英二?…今日もきちんと、食べてる?」

きっとこの時計の本来の持ち主は、今頃は急いで昼食を摂っているだろう。
そしてすこしでも時間を作って、同僚で友人の国村とパートナーを組みクライミングの自主トレーニングを短時間でもする。
それからまた駐在所に戻って登山計画書の受付やデータ整理に地域の人達の相談を聴いて。
そのあとは小学生の秀介が勉強を訊きに来る、教え終わると山岳救助隊服に着替えて登山道の巡回に出る。
そんなふうに英二は御岳駐在所の日々を過ごしている、これに遭難発生の連絡が入ると英二は召集を受けることになる。

…遭難救助、

すっと周太の心を氷塊が滑り落ちていく。
いまの奥多摩は雪と氷が山を覆って雪山のシーズンになっている。今朝もチェックした奥多摩の山の積雪は30cmとなっていた。
雪と氷の山は滑落事故が多発する、そして低温による低体温症や凍傷、雪崩。そんな冷厳な山のルールが支配する奥多摩の冬。
そんな雪山が英二の山ヤの警察官としての勤務場所になっている。そして英二は今夜、この国の最高峰をうたわれる雪山へ訓練に行く。

「…でも、きっと無事にね、帰ってくるから…ね、」

ちいさく微笑むと周太は調理台に向かってまな板と包丁を準備する。
そうして母の為に昼食の支度を始めた。きっと母は13時半ごろに帰ってくるだろう。
少し時間があるから凝ったものも準備してあげられる。
周太は玉ねぎをみじん切りにしてから冷凍庫にしまうと、牛蒡をささがいて水にさらした。
玉ねぎと人参、紫キャベツを千切りにして塩をふり、ほうれん草を湯がいて笊にあけて色止めの水をかける。

「ん、きれいな緑だな」

ほうれん草の緑、人参のオレンジ色、紫キャベツの赤紫。
どの野菜の色も美しいなと見惚れてしまいながら周太は手を動かした、こうして料理をする時いつも不思議だと考えてしまう。
花もそう、それから木々の葉や幹、そんな植物たちの色彩はどれも豊かで美しいなと見惚れてしまう。
こういう話を周太は誰かにしたことは両親と英二しかいなかった、けれど今は美代と話を出来る。
美代は国村の幼馴染で恋人で、JAに勤めながら実家と国村の田畑を手伝っている。
まだ会ったのは一度きり、けれど御岳の河原で話したことは楽しかった。

「根っからね、土を触ることが好きみたいよ?」
「そう…じゃあ、毎日、畑に行く?」
「うん。雨でも雪でも行くのよ?だってね、毎日どころかね、いつ見ても植物って表情を変えるでしょ?」

言われてその通りだと周太は頷いた。
いつも自分も思うことだった、それを同じように感じる人がいることが嬉しかった。

「それは、見たいよね?…どの表情も、きれいだから」
「あ、湯原くんもそう思うのね?一緒ね、見たいよね?」

そんなふうに頷きあって植物の話を楽しんだ、それから料理の話も。
あんなふうに本当に興味がある話を寛いで楽しめる友達は周太には初めてだった。
そして美代は英二を通して手紙をくれるようになった、そんな友達からの手紙も周太には初めてのことだった。
今日は日曜日だから美代は仕事は休みだろう、きっと好きな畑仕事を楽しんで、国村の祖母の農家レストランを手伝っている。
こんど会う時までには美代から教わった本を読んでおきたいな、思いながら周太は昼食の支度を終えた。
終えるとココアを作って2つのマグカップに注ぐと、トレイに載せて周太は2階へとあがった。

父の書斎の扉を開くとココアのトレイをサイドテーブルに置いた。
紺青色のカーテンをひらくと暖かい陽光が書斎に充ちていく。
周太は紺色のマグカップを手にとると書斎机の写真にと静かに供えた。
写真から父が誠実な笑顔で息子に笑いかけてくれる、微笑んで周太は父に語りかけた。

「ただいま、お父さん…ね、お父さん。今夜からね、英二は富士山に行くんだよ?」

書斎机の椅子に静かに周太は座った。
いつも父が座っていた重厚で艶やかなビロード張りの書斎椅子、ここに周太の祖父も曾祖父も座っていた。
この椅子に座った湯原家の主たち3人は自分に繋がっている、そして今は自分が座っている。
けれど自分はこの家の主には、ならない。きれいに笑って周太は父の笑顔に話した。

「お父さん?英二はね、富士山から俺に想いを告げてくれるよ?…こんやくしゃだからだいじだって、言って、ね…」

言って急に周太は気恥ずかしくなった。
英二は周太に正式な婚約の申し込みをしてくれた、それを母も承諾してくれている。
そして英二は仏間への挨拶と墓参りまで、きちんとしてくれた。
けれど、と周太は思ってしまう。そっとため息を吐いて周太は父の目を見つめた。

「お父さん、…英二のね、お姉さんは受け入れてくれるよ、お父さんも。でも、お母さんは…」

言いかけて想いの熱が昇ってしまう。
黒目がちの瞳からひとしずく涙がこぼれ落ちて、ぽとんと周太の手の甲に降り注いだ。

「お父さん…俺ね、きっと憎まれている、そう解っているんだ」

英二の母親は美しく賢い息子を自慢に思っていた、そして自分の理想を描いていた。
だから英二の母親は周太との関係を拒絶した。自分の理想を周太の存在に壊されたと忌嫌い、その涯に息子の英二を義絶してしまった。
そんな英二の母親は「溺愛」であっても息子の心を見つめる「無償の愛」を与えられない。
そんな彼女に周太は大切な英二を渡すつもりは無い、一歩も引くつもりもない。
けれど、

「でもね…英二のお母さんなんだ。愛し方は間違っていてもね、英二を生んでくれたひと…ほんとうはね、哀しませたくない」

なんど考えても仕方ないことと解っている、
けれど大切なひとを生んでくれた人を、きちんと大切に接することが出来ないのは哀しい。
いつか自分は望むとおりに彼女も大切にする方法を見つけることが出来るだろうか?

「それでもね、お父さん。俺、英二と一緒にいたい…俺ね、お父さんが逢わせてくれた人なのかな、って、思うときがあるよ」

誠実で真直ぐで温かい人柄の父は笑顔を絶やさない人だった。
いつも人救けに駆け出して笑って周囲を温めて。そんな誠実な生き方の為に父は殉職をしてしまった。
そして英二も山岳救助隊員として人命救助に山を駆けていく。
きれいな笑顔で真直ぐ立って長い腕を伸ばして、山に廻る生と死を受けとめている。

「お父さん?英二とお父さんはね、どこか似ているね…だから、お父さんが逢わせてくれたって、ね?
 そしてね、お父さん…俺はね、英二のこと…ほんとうに、大好きで愛している…幸せにしたいって、毎日ね、祈ってるんだ」

きれいに微笑んで周太は書斎机から立ち上がった。
婚約の花束から選んで活けた、あわい赤の冬ばら「オールドロマンス」その花翳に父は笑ってくれる。
父も母を愛していた、そんな両親の恋する姿はいつも幸せで、息子の自分も幸せだった。

「お父さん、英二に逢わせてくれて、ありがとう」

そっと微笑んで周太は自分のマグカップを持つと、書斎から廊下へと出た。
自分の部屋へ戻ると木造りの押入から展ばされた梯子階段を上った。
天窓から降る陽射しが屋根裏部屋を暖めてくれている、南面する窓のカーテンも開けると小部屋はあかるんだ。
ちいさなサイドテーブルにカップを置いて、周太は木製のトランクを開いた。
このトランクは祖父のものだった、これを周太は幼い頃から宝箱にしている。
ひらいた中には数冊の採集帳と美しい木箱が2つ、父の遺品の時計を納めたケース、それから封筒が一通。
きれいな封筒を手にとると周太は窓辺のロッキングチェアーに腰かけ、いつも通り膝抱きに座りこんで封筒を開いた。
きれいなカードが2通重ね折られて入っている、その1通を取出して周太は見つめた。

  あなただけが、自分の真実も想いも知っている
  そんなあなただから、心から尊敬し友情を想い真剣に愛してしまった
  この純粋な情熱のまま、あなただけが欲しい。あなたの愛を信じたい
  純粋で美しい瞳のあなたに相応しいのは自分だけ、どうか変わらぬ愛と純潔の約束を交わしてほしい
  毎夜に愛し吐息を交して、どうか毎朝に花嫁として、あなたを見つめたい
  だから約束する「あなたを愛していると最高峰から永遠に告げていく」すべてに負けない心を信じてほしい

婚約の花束に添えられた英二からのメッセージは実直な情熱がまぶしい。
いつも想っている事だよ?そんなふうに英二は笑ってくれた、そして周太を望んでくれている。
カードを見つめて周太は、そっとつぶやいた。

「愛している…最高峰から、永遠に…」

この言葉に寄せられた花の名前は「オーニソガラムMt.フジ」花言葉は「純粋」
日本の最高峰の名前を冠する純白の可愛らしい花。
この花の名前の山へ英二は登るために今夜、奥多摩を出立する。

奥多摩は標高2,017.1mの雲取山が最高峰になるため、それ以上の高度における英二の能力はまだ未知数だった。
未踏の標高2,000m超、そして森林限界を超えた雪山の世界である富士山。どれも英二にとって初めての経験ばかりになる。
また富士山には予兆なく発生する突風がある。そして冬富士の気圧レベルは標高4,000m、エベレストと同じ気象条件に支配される。
そんな冬富士は「魔の山」とも呼ばれる程に遭難死が多い。

その危険に敢えて、世界中の最高峰を踏破していく試金石の訓練とする為に冬富士が選ばれた。
だからこの冬富士から帰ったら英二は国内の高峰を登っていく、そして来冬には世界の高峰に登るだろう。
英二は国村の生涯のアンザイレンパートナーに選ばれたから。

国村は最高のトップクライマーを嘱望され最高峰を登っていく運命の男。その生涯のアンザイレンパートナーも同じ運命に立つ。
だから国村に選ばれた英二も生涯を共に最高峰を登っていくことになる。
その運命を英二も望み、英二自身からも国村を選んだ。
そして2人はその約束の元に今夜「魔の山」冬富士へと登りに行く。

最高峰へ登ること。それは今回で終わりではなく、これが始まりの幕開け。
それが英二にとっての日本最高峰、冬富士への登山。

最高峰は最も高い場所、そして最も危険な場所。その高度と気圧、気象条件の前では人間の都合など通らない。
ただ峻厳な掟に畏敬を払い、山のルールに添いながら登る者だけが最高峰へと立つことが許される。
その危険を知っても英二は目指すことを決めた、その危険が本当は自分は怖くてたまらない。
けれど自分は知っている、最も英二が輝き美しい場所は一体どこなのか。

―俺は、最高峰へ登ってもいいかな?
 最高のクライマーの最高のレスキューを務めて、最高峰から笑って周太に想いを告げたい

この宝箱の部屋で英二が告げてくれた想い。その想いを告げてくれる英二は美しかった、誇らかな自由に輝いていた。
だから自分は信じて待つことに決めた、ただ愛するひとの意志と能力の可能性を自分は信じている。
その夢を理解し可能性を信じて、真直ぐに受けとめて、英二が必ず帰ってきたい居場所であり続けたい。
それが自分の「無償の愛」だと覚悟を決めている、そっと周太は微笑んでつぶやいた。

「きっとね、英二?最高峰で想いを告げて、ここへ帰ってきてくれる。そうでしょう?」

ここへ帰ってきて?自分の隣に、自分の宝箱の部屋に。
自分の隣で寛いで、大好きな笑顔を見せて?
この部屋で自分の隣に寄りそって座って?
そして目を見つめて「愛している」ときれいに笑ってほしい。

「…あ、」

ふっと記憶にノックされて周太は首筋が熱くなり始めた。
年明けに英二はこの部屋で涙を流してくれた、その涙を止めたくて自分はキスをして。
そして抱きしめた英二をそのまま押し倒してしまった。
自分のしたことに今更ながら赤くなってくる、途惑って言い訳が周太の唇からこぼれてしまう。

「…でも、俺からは、ね、…キスしかしていなかったのに、な」

横たえた英二の上から寄りそったまま周太はキスをした。
けれど服はちゃんと着ていた、でも深いキスをなんども周太からしてしまった。
そんな周太を英二は抱きしめて服をからめとると、そのまま体を重ねて繋げられてしまった。
でもほんとうは周太もそうなると解っていて英二に深いキスをした。
この小部屋は周太の大切なものを納めた宝箱の部屋、だから英二の時間と記憶もここに刻みたかった。
そうして残された記憶と時間がいまこの時に見つめられてしまう、そっと吐息をこぼして周太はつぶやいた。

「ん、…この部屋で、ね…」

あのときの記憶が、天窓ふる光の床に再現されてしまう。
まだ明るい午後の陽ざしふる床に、延べられた真白なマットレスに英二を横たえてキスを重ねた。
ふるような深いキスの涯、長い腕に抱きよせられて光のなかやわらかく沈められて。
そして英二は周太を心から求めてくれた、ほどいて幾度も抱きよせ深く繋がれて。
重なる白皙の肌には艶やかな光がふっていた、素肌ふれる温もりと光の温もりが幸せだった。
求めに応えては果て眠りかけて、キスで呼び戻されるたび、見上げた天窓の青い空が美しかった。
その涯には恥ずかしい声をあげてしまった。そんな周太に英二は、うれしそうに嫣然と微笑んだ。

 ―…周太のこの声をね、聴きたかった…きれいだ、周太…艶っぽくてね、どきどきする…愛してるよ

ようやく許されて眠りにおちて。愛する温かな腕に守られ眠る夢は幸せだった。
そして英二の腕のなかで目覚めたときは恥ずかしかった。
あんまり恥ずかしくて真赤になって、ぼんやりしてしまった。
そして気がついたときには浴室で英二が『好きなだけ』周太を洗ってくれた。
それから体も拭いて着替えまでしてくれた。そんな一部始終を周太はただ見つめて力が入らないままだった。
あのとき英二はきっと自分の全部を見てしまった?そう気付かされて恥ずかしさが頬まで熱い。
そっと左掌で頬ふれると熱い、かるく頭を振って周太は自分に言い聞かせた。

「…だめ、こんなこと考えていたら、はずかしすぎて…おかあさんとはなせなくなるきっとだめ…」

ほっとため息つくと周太は、ロッキングチェアーから立ちあがった。
そして花言葉とメッセージの封書をトランクにしまって、ココアを啜りこんだ。
けれど啜りこむマグカップ越しについ天窓ふる床を見てしまう。
やわらかな光ふる床にしずかな英二の笑顔が映りこむ、そして深い樹木のような肌の香が甦る。
いま遠く離れているひとの気配も記憶もあざやかで愛しい、ゆっくり瞳を瞬くとまた吐息が零れた。

…もう、記憶が刻まれている

気恥ずかしい記憶、甘やかに幸せな熱と香の記憶。
そんな英二との時間と記憶はこの宝箱の部屋に佇んでいる。
きっとそれは幸せなことだろう、そっと周太は微笑んでココアを飲みほした。

母が帰ってきて遅めの昼食をダイニングで囲んだ。
今日は牡蠣のグラタンとサラダ、オニオンスープ。デザートは焼果物にアイスクリームを添えて出す準備をしてある。
気に入ってくれるかなと見ていると「おいしいわ」と母は微笑んでくれた。
そんな母の笑顔がうれしい、幸せで微笑んで周太は口を開いた。

「お母さん、…英二はね?仏間に挨拶してくれたんだ」
「あら、やっぱりそうなのね?」

母には解ってしまうんだ、少し驚いて周太は母を見つめた。
そんな息子の様子に微笑んで母は種明かしをしてくれる。

「だってね、周?英二くんからの婚約の花を、仏間に活けてあるでしょう?きっと見てもらったかなって思ったの」
「そうか…ん、その通りだね、お母さん。でね、あの籐椅子で英二に、朝のお茶を飲んでもらったよ」
「英二くん、お父さんの椅子の向かいに座ったでしょう?」

黒目がちの瞳を愉しげに微笑ませて母が訊いてくれる。
どうして母にはこんなに解るのだろう?いつも母には驚くなと思いながら周太は頷いた。

「ん、そう…お父さんとね、話すみたいに座ってくれて…俺ね、嬉しかった」
「英二くんらしいね、周? ね、これ本当に美味しいわ。周、また腕が上がったね?」
「そう?ん、おいしいなら良かった、…また作るね?」

きれいに微笑んで母はグラタンを口に運んでくれる。
焦げ目もきれいにつけられたグラタンは、我ながら良い出来かなと思っていた。
おいしそうに食べてくれる様子がうれしくて、笑って周太もフォークを動かした。

「あとね、英二。お墓参りも行ってくれたよ?
 お墓の掃除までね、一緒にしてくれたんだ…お供えする庭の花もね、一緒に選んでくれて…」

あの日の庭は蝋梅と水仙が香り高くて、撫子とクリスマスローズがきれいだった。
そして英二は周太の誕生花『雪山』を選んでくれた。純白に香り高い山茶花を英二は、高い枝から切って周太に渡してくれた。
花を渡してくれながら「いちばんこの花がね、きれいだって俺は思うよ?」そう言ってキスしてくれた。
白い花の記憶が幸せで気恥ずかしくて、つい周太はすこし俯きこんだ。そんな息子に温かく微笑んで母は言ってくれた。

「ほんとうに英二くん、実直なのね。そういうひと最近は珍しいんじゃないかな。
 でもお父さんはね、そういうひと大好きなのよ。ね、周?きっと喜んでいるわ、お父さんのことだから」

「ほんとう?お母さん、ほんとうにそうかな、…そうなら俺、うれしい。お父さんにはね、喜んでほしい」

母の言葉が温かい、うれしくて周太は微笑んだ。
そんな息子に頷いて母は言ってくれた。

「ほんとうよ。だからね、周?きっとね、ご先祖様も喜んでるんじゃないかな。よかったね、周。あなた、ほんと幸せよ?」

そう言って母は楽しそうに幸せそうに笑ってくれる。
ほんとうに母が言う通りだろう、そう素直に想えて周太は幸せだった。
きれいに笑って周太は母に答えた。

「ん、…ありがとう、お母さん。俺もね、幸せだと思う」
「ほんとにね、周?でも、お母さん。
 年末にお墓の掃除しておいて良かったわ、お婿さんに最初から見っともないとこ見せられないもの?」

そんなふうに言って母は楽しげに笑ってくれた。
さり気なかったけれど「お婿さん」と母が言ってくれた、それが気恥ずかしいけれど嬉しい。
首筋が熱くなるのを感じながら周太はグラタンの皿を見つめた。


新宿警察署独身寮に戻って夕食と風呂を済ますと周太はデスクから一冊の本をとった。
この白革張りの本は、年明けに英二と実家に帰ったときに書斎から持ってきた本だった。
ここ最近ずっと業務で必要な知識の勉強を夜はしていた、それで読みそびれてしまっている。
今日は週休だったから業務の調べごとも無い、ゆっくり読める時間が作れた。

クライマーウォッチを見るとまだ19:00と表示されている。
今夜の英二は日勤の後で富士山麓に向かい、登山口で車内泊だと言っていた。
富士に着くのは21時頃になると今朝の電話で教えてくれた、きっと夜の電話は21時を過ぎてからだろう。

「…本を読んでいたらね、待っていても気が紛れる」

微笑んで周太は携帯を片手にベッドに座りこんで、右耳だけイヤホンをつけiPodをセットした。
ゆるやかなアルトボイスが流れ出す、英二がくれた曲のやさしさに微笑んで白革表装の本を開いた。
フランス文学の短編集『Nouvelles orientales』邦題は『東方綺譚』フランスの女性作家Marguerite Yourcenarの作品になる。
ゆっくりページを捲って周太は目当ての章を開いた。

「Le dernier amour du prince Genghi」

邦題「源氏の君の最後の恋」題の通り『源氏物語』の主人公・光源氏に着想した恋の物語。
以前この本を父の蔵書から出して読んだとき、この章は飛ばして読んでしまった。
まだ「恋」を知らなかったし知りたくもなかった、そんな未知の感情が疎ましいようにも思えて近寄り難かった。
けれど今なら読んでみると何か解るかもしれない、そんな想いで周太は実家から持ってきた。

新宿署独身寮のちいさな一室、おだやかな時間がくるんでいく。
やさしいボーカルの曲、ふるい本の懐かしい香りと流麗な物語、そしてデスクの片隅に咲く「雪の花」の一輪。
今日の夕方に実家から戻るとき、庭に咲くこの花が名残惜しくて一茎を摘んできた。
どこか寂しさのある新宿副都心のコンクリートの街に、あの公園の緑ふるベンチで周太はいつも息をつく。
そしてこの独身寮の一室もどこか寂しくて、だから実家の庭の花を連れてきたかった。

田中の四十九日のとき、初めて実家の庭から花を持ち帰ってデスクに置いた。
英二を可愛がってくれた田中の供養に、田中が愛した御岳山にも咲く山茶花『雪山』を供えて四十九日を送りたかった。
そのために実家の庭に帰って自分の『雪山』から一枝を貰った、そして一緒に持ち帰った小さな白磁の花瓶に活けこんだ。
その花が清々しい穏やかさに周太の心を慰めてくれた、そして年明けには英二からの婚約の花を飾って置いた。
英二からの花は愛しくて甘やかで、見るたびに幸せな想いを香によせてくれた。
その花々を昨夜に周太は押花にする処置を施してある、そして今朝デスクを見た時に寂しくなった。

…いちど花を置いたから、無いのが寂しくなった、ね?

空いてしまった小さな白磁の花瓶、そこに新しい草花を迎えたいと思ってしまった。
そして今日、実家の庭での好きな花との再会がうれしくて、一茎だけ連れてきた。
ただ一茎を活けただけ、それなのに部屋の空気は和やいで呼吸が楽になる。
やっぱり自分は草花が好きでいる、そんな自分に素直になって今日も周太は花を活けた。

草花が好きでいること。
花好きだと男のくせにと言われてしまうことが多い、だから周太は両親と英二にしか植物の話をしてこなかった。
けれど華道の家元は男性が多い。植物学者も樹医だって男性の方が多い。
それに本当に植物を愛して独学で勉強している美代は、周太の気持ちを自然に理解してくれている。
こういうふうに「好き」ということに性別のようなカテゴリは無関係だと思ってしまう。
読んでいる本からふと目をあげて周太はデスクの花活けを見た。

スノードロップ「雪の花」白く可憐な花に清々しい緑の葉と茎の姿。凛として可憐な花姿は雪の中にも咲くという。
こんな花は自分は好きだ、微笑んだとき携帯の着信ランプが灯った。
そっと携帯を開くと自分が大好きな送信元からでいる、すぐ繋いで周太は微笑んだ。

「はい、」
「周太、待っててくれた?」

きれいな低い声、周太の大好きな声が聞こえてくる。
今日も無事にこの声が聴けたこと、うれしくて微笑んで周太は訊いてみた。

「ん、…待ってた。もう富士山の麓?」
「うん。馬返し駐車場ってとこだよ、周太。雪が積もっているんだ、でもこの時期にしては少ないらしい」

今朝も聴いたばかりの声、けれど懐かしくて嬉しくて温かい。
この声をすぐ傍で聴けたらいいのに?いつもの想いと一緒に周太は答えた。

「そう、無理とか絶対にしないでね?…信じて待っている。…あ、母がね、お墓参りありがとうって、喜んでた」
「そっか、良かった。ね、周太?俺のことさ、今日は何回くらい考えてくれた?」

そんなの自分でだって解らないのに?
デスクの白い花を周太は見つめてしまう、何回いったい英二を想っただろう?
あんまりずっと想ってばかりいたから解らない、周太は考え込んでしまった。
けれど何か答えてあげたい、気恥ずかしいままの声で周太は答えた。

「ん…わからない…」
「周太、自分で解らないの?」

すこし驚いたような、けれど慈しむような温かな声。
この声だって今日は何回もう思い出しただろう?そんな自分の想いに微笑んでしまう。
けれど気恥ずかしいなと思いながら、周太は答えた。

「だって英二?今日は俺、実家に帰ったから…ずっと想いだしてばかりだった、
 家中にね、英二の面影が残っちゃってて…逢いたくて寂しくて、でも…温かい記憶がね、幸せだったよ?」

今日ずっと実家で感じていたこと、そのままを言っただけ。
けれど電話の向こうで英二が幸せそうに笑ってくれる。きっと笑顔が咲いている。
きれいな笑顔の記憶を想う周太に、うれしそうに英二が訊いてくれた。

「ね、周太?じゃあさ、屋根裏部屋では俺のこと、押し倒しちゃったこと想いだした?」
「…はずかしい…でも、そう…」

どうしてわかってしまうのだろう?そんなふうに自分は見えるのだろうか?
でも確かに最近ちょっと自分は大胆になった?そんなこと途惑ってしまう。
でも今もっと途惑って困ってしまう、その危惧を周太は電話越しの婚約者に言った。

「でも、ばか、えいじなんてこというの、そこ…国村さんいるんじゃないの?」

今夜の英二は明日からの登山に備えて、登山口に停めた国村の四駆で寝泊まりをする。
だから当然英二のすぐ傍には、きっとあの国村がいるだろう。
きっとまた何か転がされてしまう?そう心配した端から透るテノールが電話越しに笑いかけた。

「うん、湯原くん。しっかり聴かせてもらったよ?
 可愛いのにさ、意外と大胆なんだね、湯原くん?こんど俺のことも押し倒してよ」

どうしてそんなこというの?
だって途惑ってしまう、英二以外のひとにそんなことするなんて?
自分はもう英二だけて一杯いっぱい、そんな自分をからかわないで?そんなの好きなひとだけ英二のほかは嫌。
昇ってしまう紅潮に困っていると声が詰まってしまう、そんな周太に英二が微笑んだ声で話しかけてくれた。

「絶対ダメだよ、周太。国村なんか相手にしたりしないで?周太が押し倒すのは俺だけ。周太はね、俺だけ見てればいい」

言われなくても、そうします。
そんな返事を心でしながら周太は、赤い頬のままで答えた。

「…ばかえいじまたなんてこという…でも、はい…そうします」
「うん、素直でかわいいね、周太。今夜も俺ね、周太のこと考えて寝るからね、」

きれいな低い声が笑ってくれる。
きっと今日も元気でいてくれる、そして明日も元気に訓練をして、無事に帰ってくる。
そんな予感がうれしくて微笑む周太に、英二が言ってくれた。

「夢で逢ったら冷たくしないで?それでキスしてよ」

きっと夢で逢ってしまう、だって今日はずっと考えていたから。
だから周太はちいさな声で、それでも正直に素直に一言で返事した。

「…はい、」

ちいさな声で唯ひとこと。



(to be continued)

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