萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第32話 高峰act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-01-16 23:59:22 | 陽はまた昇るside story
Thanks to the human heart by which we live―生きるにおける、人の想いへの感謝




第32話 高峰act.1―side story「陽はまた昇る」

その日の勤務を終えて青梅署の入口を入ると、英二は自販機コーナーへ目を向けた。
ロビーにある自販機のそば近いベンチでは、ロマンスグレーの白衣姿がゆったり腰かけて本を読んでいる。
いつもと変わらない穏やかな空気がうれしい、制帽を脱ぐと英二は歩み寄りながら微笑んだ。

「吉村先生、ただいま戻りました」
「お帰りなさい、宮田くん」

本から顔をあげた吉村医師が微笑んでくれる。
ゆっくり立ちあがると英二と並んで、ロビーから吉村医師の警察医診察室へと歩きはじめた。
この医師は長身の英二よりも低い背丈だけれど背中は広やかで頼もしい。
やっぱり吉村先生も山ヤなのだな、いつもながらの尊敬の想いに英二は吉村へと笑いかけた。

「先生。今日は俺、お茶菓子の用意があるんですよ。御岳駐在に戴いた差入なんです、すこし分けて貰ってきました」
「それは嬉しいですね、どちらから戴いたものですか?」
「はい、秀介が持ってきてくれたんです。おばあさんが作った柚子餅だと教えてくれました」
「ああ、あの方のは美味しくて有名です。今年も作ってくださったんですね」

話ながら歩いて診察室に着くと、英二は活動服の上着を脱いで制帽と一緒に壁に掛けた。
毎日の朝晩を英二はこの診察室で吉村医師の手伝いをする、それで吉村が英二用のハンガーを用意してくれた。
吉村医師は青梅署警察医としての業務全部を1人で担当し、開業医でもあるため毎日の往診も抱えている。
こうした警察医の状況は青梅署に限ったことではなく大抵は看護師の任用もない、専任警察医も不在で輪番制の警察署もあった。

「病院は長男が継いでくれています、私は往診だけで良いんですからね、警察医としては楽な方です」

そんなふうに吉村医師は笑っている。
けれど吉村は元大学病院のER担当教授だったことから、救命救急の講習会の依頼が多い。
またERへの異動前は法医学教室にいた経験から鑑識知識にも精通している。
それら警察医現場にも必須の知識技術を持つ吉村は、研修制度もない現状にある警察医の為に臨床資料編纂も着手していた。

そうした吉村の多忙さに英二は出来るだけ手伝うことにしている。そして手伝い合間に救命救急を教えてもらっていた。
医師であり自身が山ヤの吉村医師は山岳現場での臨床を熟知している。
おかげで英二の救命救急は専門性が高いうえに山岳現場に即したものになった。
今日も質問をいくつか抱えている、それらを頭で整理しながら英二は医療器具の滅菌処理を終えた。

「先生、こちらの分は滅菌処理も終わりました。ケースを戻してよろしいですか?」
「はい、お願いします。これで全部終わりますね、ではお茶にしましょうか」
「はい。すぐ仕度しますね」

全て片付け終えて手を洗うと英二は、戸棚からマグカップを3つ出した。
そして考えてきた質問を思いだしコーヒーを淹れ始めると、吉村医師に口を開いた。

「先生、筋肉運動の解剖学のことまた伺ってもいいですか?」
「どうぞ、先週買ってきた本の事ですね?ラテン語も多くて大変だったでしょう?」
「はい、ラテン語は俺、初めてなんです。でも面白いです」

英二のコーヒーは周太から教わった手順通りで淹れている、茶も同様に周太が英二の先生だった。
それどころか周太は英二の日用知識のほとんどの先生でいる。それくらい英二は家事や日用の大半を知らなかった。
そんな英二の世間知らずは母の育て方の所為だった。

息子を溺愛する母は英二の身の回りは全て整えたがり、家事を英二には全く教えてくれなかった。
だから家事で出来るのは、小学校の課題のため姉から教わった風呂掃除と靴の手入れくらい。あとは自室の片づけ程度。
そんな英二は警察学校の寮生活初日は洗濯機の使い方すら知らず、洗濯室で英二は考え込んだ。
そこにちょうど周太が洗濯に来た、それを見て真似ながら英二は無事に洗濯を覚えられている。
もちろん料理もたいして出来ず、好物だから姉とたまに作ったクラブハウスサンドと握飯が作れるだけだった。
それが周太は不思議だと英二に訊いてくれたことがある。

  「ね、英二?クラブハウスサンドって、はさむ具が凝っているでしょ?…それが作れるなら、他の料理も出来ると思うけど」
  「だって周太、俺の作り方ってさ、冷蔵庫に入っていた料理を挟むだけだよ?挟むだけなら出来るだろ?」

そう答えると周太は「…あ、そう…」と納得したように頷いてくれた。
これと同じ手順で英二は握飯も作るから、もちろん炊けたご飯が用意されていないと作ることが出来ない。
そういう英二の淹れるコーヒーと茶は不味くて青梅署でも評判だったらしい、国村などは遠慮なく「まずい!」と笑っていた。
でも今は周太に教わったおかげで「宮田の茶とコーヒーは旨い」と汚名挽回が出来ている。

俺って本当に周太がいないとダメだよな?
我ながら可笑しくて笑いながらコーヒーを淹れ終わると、サイドテーブルにマグカップを3つ置いた。
その1つはインスタントドリップをセットしただけで置いてある。それを見て吉村医師が英二に訊いてくれる。

「国村くん、今日はご実家から早く戻るんですね。今夜のうちに出発するんでしたね?」
「はい、先生。明日の朝一から訓練に入りたいので。
 あの辺りは早朝は路面凍結がひどいらしいんです、それで今夜のうちに富士に入ったほうが良いと後藤副隊長が勧めてくれました」

英二の話を聴きながら吉村医師は敷いた懐紙へと菓子を載せてくれる。
そして笑いながら頷くと言ってくれた。

「ああ、後藤さんならそう言いますね。後藤さんは国村くんも宮田くんもね、可愛くて仕方ないんです」
「ほんと国村のこと可愛がっていますよね、副隊長。でも、俺もですか?」

前にも岩崎が同じことを言ってくれたことがある。
それに英二が大切な場所にしている雲取山のブナの巨樹が立つ空間は、後藤が英二に教えてくれた場所だった。
このブナのことを英二は周太以外には話したことは無い「大切なひとだけ連れて行く」場所だと英二は思っている。
それを吉村医師は知らない、けれど後藤とは30年来の飲み友達だという吉村には感じるものがあるのだろう。
そんな吉村医師はコーヒーを啜りこむと笑って教えてくれた。

「はい、宮田くんもです。後藤さんね、お嬢さんしかいないでしょう?けど後藤さんね、息子さんがいたら本当は夢があったんです」
「副隊長の夢?」

あかるい山ヤらしい誇らかな後藤の眼差を想いながら英二はつぶやいた。
後藤は警視庁山岳会会長として警視庁随一のクライマーでありながら、気さくな人柄でよく英二と国村にも酒をご馳走してくれる。
温かい後藤の大きな懐はどこか山のようで英二は心から尊敬してしまう、あんな山ヤになれたらいい。
そういう後藤の夢はなんだろう?マグカップから口を離した英二に吉村は微笑んだ。

「後藤さんはね、息子さんと一緒に山岳救助隊をやりたかったんです。
 そして休日には一緒に山に登って、一緒に酒を飲んで。それってね宮田くん?いつも後藤さんと宮田くんがしている事でしょう?」

11月の終わりに英二は国村と「生涯のアイザイレンパートナーを組んで世界中の最高峰を踏破する」誓約をした。
その誓約を結んだ日そのまま英二は後藤に「トップクライマーになるため必要なことを教えてほしい」と申し出ている。
そんな英二に後藤は理由を訊いてくれた、そして心から喜んで予定を合わせては個人訓練を見てくれるようになった。
その訓練の後いつも英二に後藤の気に入りの酒をご馳走してくれる。

「はい、しています。でも俺、それは国村のアイザイレンパートナーとして俺を育てるためだと。
 それに副隊長。国村とも同じように山に登って、酒飲んで、山岳救助隊をしていると思うんですけど」

後藤のような一流の山ヤが息子のように認めてくれること。
それは山ヤとして本当に幸せなことだろう、けれど自分は本当にまだ山ヤとして半人前ですらない。
そんな自分が認められることは烏滸がましく思える、そう首傾げる英二に吉村医師が微笑んだ。

「国村くんはね、後藤さんの大切な友人の大切な息子さんなんです。
 その友人の代わりに国村くんの成長を見届けようとしています、だから自分の息子とは違った感覚なのでしょうね」

国村の両親はともに国内ファイナリストに数えられるクライマーだった。
けれど国村が中学入学した春に2人ともマナスルで遭難死している、その母親と国村はそっくりだと後藤は言っていた。
そんな彼女は臨月なのに雲取山に登ってしまい、そのまま頂上で国村を出産し、その場に立ち会った救助隊員は後藤だった。
そのときのエピソードを思いだして少し英二は笑ってしまった。

「国村が生まれるとき、副隊長が立ち会ったそうですね?そして国村を抱っこして救助ヘリに乗ったって聴きました」
「そうなんです。あの時は後藤さんね、ちょうど奥多摩に帰省していた私のことまで呼び出してくれました。
 自分の友達の予想外な出産にはね、さすがの後藤さんでも慌てたそうですよ。あの時は本当に1つの事件で、そして楽しかったです」

吉村医師も一緒に笑ってくれる。
それからコーヒーをひとくち啜りこんで、穏かに笑って英二に教えてくれた。

「国村くんはね、まさに『最高の天才クライマー』って感じでしょう?
 山岳救助隊という枠も彼にはきっと無意味です。そういう彼は後藤さんにとって夢の化身のようなものかもしれません。
 そんな国村くんのパートナーであっても、宮田くんが目指すのはあくまで『最高の山岳レスキュー』なのではありませんか?」

言われてすこし英二は驚いた。
『最高の山岳レスキュー』を目指すことは周太とその母にしかまだ話していない。
けれど吉村医師は解ってくれている、うれしさと驚きとをそのまま英二は口にした。

「先生、どうしてそう思ったんですか?」

「だって宮田くん。私とも山に登るでしょう?そして現場に立って遭難事故の検証と対する最高の応急処置を学ぼうとしています。
 この診察室で手伝ってくれる時も、いつも救命救急と高山で要求される臨床知識を質問してくれます。そして書籍もよく読んでいる
 そういう姿勢は『最高の山岳レスキュー』を目指す人、そのものだなといつも感じられて頼もしいなと思います。
 最高のクライマーである国村くんのアイザイレンパートナーとして君は最高峰を目指しています。
 だから宮田くんは『最高の山岳レスキュー』を務めようとしている。そんなふうに思いました、違っているでしょうか?」

吉村医師は青梅署警察医になる前は大学病院のER担当教授として医学界の最高峰に立っていた。
その当時の吉村への評価を、周太も新宿署の先輩から聞いたらしい。
それくらい医師としても優れた吉村は人をよく見ていて、13年間の孤独に傷つく周太の心を癒すヒントを英二にくれている。
そんな吉村には英二の心などお見通しなのだろう、なんだか嬉しくて英二は微笑んだ。

「はい、そうです。俺は国村のような天才ではありません。それどころかね、先生。
 きっと俺は、国村から一緒に登ろうって言われなかったら、本気で最高峰を目指したりはしませんでした。
 そういう俺は、アルピニストではありません。
 でも山岳レスキューとしての誇りなら俺、きっと負けないと思うんです。俺が山岳救助隊を目指すきっかけは周太なんですから」

英二が山岳救助隊を兼務する青梅署への卒業配置を志願して山岳レスキューを進路に選んだこと。
それは警察学校の山岳訓練で滑落した周太を救助したことから全てが始まっている。
あのとき周太を自分が背負って救助できた喜びが、英二を山岳レスキューの道へと進ませてくれた。

「そうでしたね、宮田くん私にも話してくれて。とても素敵なきっかけです」
「でしょう?だから先生、俺はね。国村のようなクライマーにはなれません。
 けれど山岳レスキューとしては一流を目指したいんです。そうじゃないと俺、周太に怪我までさせた責任を果たせないんです」

あのとき周太が谷底へと滑落した原因は、崖から落ちかけた同期を無理に救けようとした為だった。
その無理に英二は気がつきながら周太を止めなかった、そして同期は救けたのに周太自身が足元を踏み崩し谷底へ滑落した。
あのとき自分の判断ミスが周太に怪我を負わせてしまった、それを英二は自分の責任だとずっと悔やんでいる。
だから英二は山岳救助の現場に立つ今は、いつも慎重な判断をして絶対に無理をしない。
山では一瞬のミスが生命を奪われることになる。そうした山の峻厳な掟を英二は、周太の事故で痛いほど思い知らされた。

「先生。あのとき周太は救かった、けれどもし岩にぶつかっていたら?
 山ではそんな可能性の方が高い、それを現場に立つ今は痛いほど思い知らされています。
 そうして亡くなった方のご遺体を俺、この3か月半で何度か収容しました。
 だからいつも周太の事故に思い知らされます、もし周太が高い方の可能性に掴まっていたら…俺、きっと生きていられませんでした。
 だから先生、俺は二度とそんな判断ミスをしたくないんです。それで先生に質問しています。本当にいつも、お時間戴いてすみません」

しずかに英二は頭を下げた。
そんな英二を見つめて吉村医師は心から嬉しそうに微笑んだ。

「うん…そうですね。宮田くん、きみは本当に誠実な男です。
 いつも物事に真直ぐ向き合って逃げることを決してしません。そして愛するひとを想い心から大切にすることができる。
 そんな誠実な想いから君は山岳レスキューの道を選びました。そして山岳レスキューの誇りに立って努力を惜しみません。
 そういう君だからこそ後藤さんもね、自分の息子のように思ってしまうんです。
 後藤さんは優れたクライマーです、けれどそれ以上に山岳レスキューに全てを懸けられました。
 そして亡くなっても奥さんを心から愛している。
 そういう後藤さんだからね、大切なひとへの想いから『最高の山岳レスキュー』を目指す君が可愛くて仕方ないんです」

いつも英二と後藤の話題は山のことが多い、山岳レスキューとそれから国村の話。
周太のことは以前に話しているけれど吉村にいつも話すようには話していない。
それでも後藤は英二をそんなふうに見てくれている?そっと英二は吉村に訊いた。

「後藤さんも、俺のそういうとこ…見てくれているんですか?」
「はい、よく見ています。二人で飲むとね、よく君の話になってしまうんですよ。私も君のこと、可愛くて仕方ないから」

吉村医師は15年前に医学生だった次男の雅樹を長野の山で遭難事故に亡くした。
父と同じに山ヤで医学を志した雅樹を吉村は愛し、その死から吉村は大学病院教授の地位を捨て故郷の奥多摩で山の警察医に道を選んだ。
その雅樹は英二と似ていると雅樹を知る国村に言われ、そして雅樹の写真を見た周太にも言われた。
国村と周太は全く違う性格だけれど「純粋無垢」という点でよく似ている、そんな2人は人の本質を一目で見抜いてしまう。
そういう2人ともが言うのだから似ているのだろう、そして吉村医師は初対面で英二を雅樹と見てしまった。
そんな吉村医師は全く別の人間と理解し、それでも英二を息子のように可愛がってくれている。
それがいつも嬉しくて英二は、この医師には色んな話をしてしまう。ちょっとおどけたように英二は笑って訊いた。

「先生も俺のこと、可愛いですか?」
「はい、可愛いですよ。いつもコーヒー淹れてくれますしね」
「ははっ。俺もね、先生。いつもコーヒー淹れるくらい先生のこと大好きです」
「おや、光栄ですね。でも本当、宮田くんのコーヒー美味しくて嬉しいですよ」

こんなふうに笑いあってコーヒーを飲む穏やかな時間。
いつも英二は勤務前後の朝と夜の時間をこうして吉村医師と過ごしている。
こういう時間がどれだけ自分を癒してくれているだろう。微笑んだ英二に吉村がまた続けてくれた。

「しかもね、宮田くん。君はね、後藤さんの大切な国村くんとまで心から仲良くなった。
 そして生涯のアイザイレンパートナーになることまで国村くんから望まれて約束したでしょう?
 国村くんは真直ぐな気性で山ヤの自由が誇り高い、そんな彼が自分から望んでパートナーに選ぶということ。
 その意味を後藤さんは誰より解っている。そんな君だから後藤さんはね、宮田が俺の息子だったらいいなって、呑むとよく言うんです」

Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝

年明けに周太と過ごした休日に、あの屋根裏部屋で一緒に読んだ『Wordsworth』の一節。
奥多摩での日々に見つめ続けていることが、この一説には言い表されている。
後藤や吉村のように見守ってくれる想いへの感謝、離れていても温かい周太への想い、山で生きる喜びと恐怖への感謝。
そうした全てを英二に与えてくれたのは「山岳レスキューとして生きる」という選択からだった。
後藤は英二にとって憧れの山ヤで山岳レスキューである人。そんな後藤の想いは今の英二には心から有難くて身に染みる。
こんな自分に想いを懸けてもらえる、感謝に微笑んで英二は答えた。

「はい…嬉しいです。本当に嬉しいです。先生、俺、絶対にね『最高の山岳レスキュー』になります」
「うん、大丈夫。君ならね、きっとなれるよ」

そう微笑んでコーヒーを啜る吉村は、どこまでも穏やかで温かい。
本当に吉村医師には英二は甘えさせてもらっている、こんな時間と言葉を与えられる時いつも想いは受け留められていく。
こんなふうに大らかな想いに、真直ぐ穏かに受け留めてもらえることが英二には安心をくれる。
卒業配置でこの青梅署に英二は配属された、そのとき英二は実の母親から絶縁されている。
そのために英二は自分の実家に帰れない。だから息子のように可愛がってくれる吉村医師の存在は英二に大きかった。

実母からの絶縁、その原因は周太のことだった。
母はただ英二の容貌と能力ばかり見つめ溺愛していた、「美しい息子」を自慢し手元から放さないでいた。
そして本質と心を見つめ愛してくれる「無償の愛」は英二には与えてくれなかった。
そんな母はただ溺愛し理想を描いてきた息子の「普通ではない」生き方を肯定できない。
そんな母の想いも行動も英二は予測していた、それでも英二は正直に周太のことを話した。
きっと受け留めてもらえないと解っていた、それでも少しだけ母の「無償の愛」をまだ期待していた。
けれど母からは「無償の愛」は与えられなかった。そして激しい拒絶と共に叩かれた頬は、まだ心に痛いままでいる。

父は周太のことをきっかけに英二の心と真直ぐに向き合い始めた。
それまでの父は温厚で良い父でも「それなりに成功して楽な生活ならいい」という態度で息子に接していた。
そういう父のどこか諦めたような要領の良い生き方は、実直な英二にとって全面的に肯定できないでいた。
けれど周太のことを聴いた父は英二を「羨ましいな」と微笑んで男として認めてくれた。そして周太に会いたいと言ってくれる。

そんな家族の中でも年子の姉とだけは会話が出来ていた。
姉は聡明で明るい人柄が逞しい、そんな姉とは周太のことを通してから一層よく話せるようになった。
だから姉には周太のために分籍することを相談できた、そして姉は全面的協力を約束してくれた。
姉は英二と似ている点が多く約束は必ず守ることをお互いよく知っている、そんな絆が姉とはある。

そんなふうに父と姉は英二を認め、周太を認めてくれている。そして母の英二に対する溺愛を冷静に理解してくれていた。
だから二人とも実家にも帰ってくるように言ってくれる、けれど英二は帰らない。
「母の息子への接し方は「溺愛」しかも「惑溺」だった、それは決して良い母とは言えない。だから英二は傷ついていた」
そんなふうに2人はよく見てくれていた、そして母を気にせず帰るよう言ってくれた。
母に追い詰められていた自分をよく解っている、それがどんなに自分を傷つけ周囲を傷つけていたかも。
それでも母は英二にとって唯ひとり自分を産んでくれた人でいる、だから憎むことも出来ない。
そういう母であっても自分は親不孝だと英二は自分を想ってしまう、だから実家に帰ることもしないままでいる。

なにより英二はもう「帰る場所」は周太の隣だけしか欲しくない。
周太は英二が本当に欲しかったもの全てを与えてくれる、そして英二も周太に与えることが出来る。
英二にとって周太は「無償の愛」を互いに与えあえる唯ひとりの相手、英二には周太が世界の中心でいる。
だから周太を拒絶する人間とは英二は一緒にいられない。
もし周太を傷つけられたら、きっと英二は本気で相手を追いつめ許さない。
そんな自分の激しさを英二は自分でよく知っている。だからこそ周太を傷つける言動をする母とは会えない。

そんなふうに実家に帰ることを絶たれたまま、英二はこの青梅署へと来た。
そういう英二を吉村医師は周太ごと受けとめて微笑んでくれる、だから英二は吉村には安心して話してしまう。
そして吉村は周太の事情も受けとめて13年前の事件を解決する時すら手を貸してくれた。
このいまも座っている穏やかな一時に英二をいつも受けとめて、山岳救助隊の厳しい現場に立つ英二を和ませてくれる。
そんなふうに亡くなった次男の分も親としての愛情すら与えてくれる。

吉村医師への感謝、その礼を今きちんとしておきたい。
このあと英二は富士登山訓練へと行く。それは英二にとって初の標高2,000m超の山岳訓練になる。
それは森林限界を超えた本格的な雪渓での訓練になる、それら全てが英二には初めての経験だった。
そうした山での「初」は危険が多い、そして富士山はエベレスト登頂クライマーでも遭難死する。
それでも自分は無事に帰ってくるだろう、けれど英二はその前に吉村医師には話しておきたかった。
ひとくちコーヒーを飲んで英二は穏やかに口を開いた。

「先生、俺は母親から拒絶されたまま青梅署に来ました。前にもお話した通りです、理由は周太のことです」

英二の言葉に吉村医師は英二の目を見つめた、そして穏やかに頷いて目だけで話を促してくれる。
こういう穏やかな温もりが好きだな、うれしい想いで英二は言葉を続けた。

「母は、俺を溺愛していました。でもそれは俺の外見と能力だけを見つめての愛情でした。
 そんな母の理想に外れている周太とのことは、母には受け留められません。だから俺は義絶されました。
 幼い頃からずっと母は俺の本音は見つめてくれません。ただ母の理想「美しい息子」であること、それが母にとっての俺です。
 だから俺は母に合せて要領良いフリして、本音は隠していました。それだけしか俺は母の愛情を得る方法が解りませんでした。
 そうやって俺、周太に会うまで自分にも嘘ついて生きていたんです。だから俺…先生や副隊長が想ってくれるほど立派じゃありません」

ほっと英二は息をついて微笑んだ。
こんな自分の過去はがっかりさせるかもしれない、けれど吉村医師を偽りたくない。
それくらい自分は吉村医師を尊敬して実の父の様にすら思い始めている。
そんな想いと真直ぐに吉村医師を英二は見つめた、そんな英二に穏かに吉村医師は微笑んでくれた。

「うん、…そういう生き方はね、宮田くん。君には、苦しかったな…ほんとうに辛かっただろう?
 でも宮田くん、君はそれだけお母様を愛されているから、そういう自分を作ってしまったのでしょう?
 君は真面目だ、そして怜悧なだけに優しい。だからつい相手の期待に応えたくなる。私はね、そんな君の実直な優しさも、とても好きです」

やっぱりこのひとは受け留めてくれた。
ほんとうに吉村医師と会えてよかった、心から嬉しくて英二は微笑んだ。

「先生、本当に俺は、先生には感謝してもしきれません。
 周太の事情まで先生は受け留めてくれました、俺のこと全部受けとめて真直ぐ見つめてくれました。
 そして俺のね、『最高の山岳レスキュー』になる夢まで支えてくれています。先生、ほんとうに感謝します、
 だから富士の訓練も頑張ってきます。そして先生にまた話をしに来ます、だから先生?心配しないでくださいね」

吉村医師は亡くした息子と英二を重ねる瞬間がある。
それを英二は知っている、だから心配しないでほしいと願ってしまう。
どうか心配しないで先生、俺は絶対に帰ってくるよ?そう目でも笑いかけると吉村医師も穏やかに微笑んだ。

「うん、…待っています。宮田くんの話はいつも楽しいです、だから楽しみにしています。
 それに君はね、大切な湯原くんの為にも必ず帰ってくるでしょう?だからね、私は君の無事を信じられます」

吉村は雅樹を山で亡くした15年前の秋から自身「山ヤ」である時間を止めていた。
けれど12月から英二と再び山に登り始めた、そのことが吉村の15年間を止めた時間を動かしている。
そして英二が高山の訓練に行くことも落ち着いて受け留められている。よかったな、内心にほっと微笑んで英二は笑った。

「はい、必ず帰ってきます。だってね先生、お話したでしょう?俺、このクライマーウォッチ受け取りましたから」
「そうですね、真面目な宮田くんなら、婚約者を残してはいけないでしょう。
 それにね、君のアイザイレンパートナーは、あの国村くんですからね?彼なら無理やりだって連れ帰ってくれるでしょう?」

そう言って可笑しそうに笑ってくれる。
インスタントドリップコーヒーをセットされたもう1客のマグカップを見て英二も笑った。

「そうですよ、先生?あの国村です。あいつね、ほんとうに山っ子なんですよね。
 もう山が好きで楽しみで仕方ないんです。だからきっとね、富士山が楽しみで、今日も予定より早く出ようって言ってきますよ?」
「おや、それはね?きっと遭難救助が入ったら困るから、さっさと出ようって事ですか?」
「そうなんですよね、あいつ。道迷いの捜索とかで足止めになったら、きっと怒ります。
 そうしてきっと、救助した相手にね、ひどい『国村の一言』をお見舞いしちゃうと思うんです。そしたらまた騒動ですね」
「うん、それは二次災害ですね?きっとそれを防ぐためにも後藤さん、今夜のうちに出発するように言ったのかもしれませんね?」
「ですね?」

そう英二が返事したとき、診察室の扉がノックされてがらり開かれた。
冷たい廊下の空気と一緒に入ってきた底抜けに明るい細い目が快活に笑っている。

「こんばんは、吉村先生。あと、お待たせ、宮田。コーヒー1人前な?で、俺が飲んでる間にお前さ、仕度して来いよ」

ほらやっぱり急かして来たな?
笑って立ち上がると英二はカップのドリップコーヒーに湯を注いだ。
そんな英二に微笑んで吉村は、国村の分の菓子を懐紙においてくれる。

「こんばんは、国村くん。お茶菓子も食べられますよね?」
「はい、ありがとうございます。あ、これ、田中のばあさんの柚子餅ですね。旨いんですよね、」

そう言って遠慮なく国村は、英二の分に手を出して口に入れた。
そんな国村に吉村医師が思わず笑っている。ちょっと呆れて英二は笑った。

「おまえさ、自分の分を置いてくれてあるだろ?なんで俺の分から食うんだよ?はい、コーヒー」

マグカップを渡しながら窘めると、細い目が可笑しそうに細められる。
そして受け取ったコーヒーをひとくち飲んで、からり笑った。

「うん、宮田のコーヒー、年明けてまた旨くなったよね?ありがとな。
 で、おまえの菓子は俺が食ってやったからさ?おまえはさっさと仕度して来いよ。
 それでさ、おまえの準備が出来次第もう出るよ。もし道迷いで捜索とか言って足止めくらったらさ、俺が怒って宮田も大変だろ?」

涼しい顔で言うと国村はまたコーヒーを啜りながら、早く行けよと英二に手の甲を向けてふってみせた。
そんな国村を見、それから英二を見ると吉村医師が可笑しそうに「思った通りでしたね?」と目だけで笑った。




(to be continued)

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