萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第32話 高峰act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-01-17 23:59:03 | 陽はまた昇るside story
夢と誇りと想いを懸けて、




第32話 高峰act.2―side story「陽はまた昇る」

さっと風呂を済ませて着替えると英二は周太にメールを送ってから、用意しておいた荷物を持って自室を出た。
今日の周太は週休だから英二は朝ちょっと電話をかけた、そのとき実家に日帰りすると教えてくれている。
たぶん今頃は帰路の電車か寮に戻って食事しているだろう、そんなことを考えながら英二は1階へ降りた。
ロビーに着くともう国村が吉村医師と立ち話している、国村が言うことに吉村は可笑しそうに笑っていた。
何の話かなと首傾げる英二にすぐ気がついて国村が愉しげに笑いかけた。

「遅いよ、宮田。さ、行くよ?召集かかったら大変だろ。じゃ、先生。行ってきます」
「いってらっしゃい、気をつけて。宮田くん、救急道具は不足ありませんか?」
「はい、どれも3点以上は補充があります。先生、気をつけて行ってきますね」

頷いて英二は吉村医師の目を見、きれいに笑った。
そんな英二に微笑んで吉村医師は送り出してくれた。

「いってらっしゃい、気をつけて帰っておいで。土産話を待っていますよ」

そうして国村と並んで外へ出ると息が途端に真っ白になった。
1月中旬、19時半の奥多摩は気温が零下になる、けれど富士山麓はもっと寒いだろう。
空気にかすかな湿気の気配がある、すこし降雪があるかも知れない。
そう思いながら駐車場を歩いていくと国村も軽く首を傾げている。

「うん?ちょっと雪の気配あるよな、まあ明日は良いんだけどさ。明後日は雪だとちょっと大変だな」
「やっぱり雪っぽいかな?そうすると表層雪崩とか気をつけないとな」
「だね。でもさ、宮田もだいぶピッケルは慣れただろ?この1ヶ月は奥多摩も雪多かったしね」

国村の四駆に乗り込んで話しながらシートベルトを締める。
いつものように国村は慣れた手捌きで四駆を走らせ始めると、ああ、と想いだしたように英二に声かけた。

「そこのさ、後部座席のとこ。風呂敷包みあるだろ?それ開いてくれない?」
「うん、これか?」

言われて英二は素直にとって開いてみると、きれいな大きい菓子箱が2箱重ねて包まれていた。
その蓋を1つとってみると、大きな握飯が10個と惣菜がぎっしり詰め込まれている。
きちんと割箸も2膳添えられた立派な弁当だった、きっと国村の祖母が用意してくれたのだろう。
そう眺めている英二の横から白い掌を国村が差し出してきた。

「握飯くれる?で、1箱が2人前一食分だってさ。もう1箱は握飯とゆで卵、明日の朝飯の分だよ。って、ばあちゃんからの伝言な」
「いつも悪いな、国村のお祖母さん。年越しの時も俺、蕎麦の差入いただいたし」

国村の祖母は料理上手として御岳でも有名だった、それでJAから薦められて農家レストランを週末だけ開いている。
そんな彼女は国村が英二や藤岡と河原で飲むときなど、よく差入をして楽しませてくれていた。
けれど英二はまだ彼女に会ったことが無い、年越蕎麦を御岳駐在所に差入れてくれた時も英二はちょうど巡回に出ていた。
きちんと一度はお礼を言いたい、そう思いながら英二は握飯を国村の左手に載せてやった。

「俺、お祖母さんにさ、ちゃんとお礼とご挨拶に行きたいな。ご都合とか今度、教えてもらえるかな」
「うん、いいよ。でもね、ばあちゃんの方は宮田のこと知ってるみたいだよ?」

握飯を頬張りながら国村はさらっと答えた。
その答えが意外で英二は口にいれたばかりの卵焼きを丸呑みして咽こんだ。
そんな英二を横目でちらっと見ると、笑って国村はホルダーに置いた茶のペットボトルを渡してくれた。

「ほら、飲みな。おまえってさ、なんか、よく咽るよね?」
「…っ、ごほ…、ありがとう…でも、なんで?」

訊きながらペットボトルを開けて茶を飲みこむと咽が落着いていく。
ほっとして運転席の顔を見ると可笑しそうに笑っている。
なんでそんなに笑うんだろう?まだ少し咽ながら茶を飲んでいると国村が口を開いた。

「うん?なんかな。巡廻しているおまえをね、何度か見ているらしいよ。
 で、『きれいな子だねえ』って言ってね、近所のおばちゃん達と茶飲み話のネタにしているんだってさ」

「…ごほっ…茶飲み話?」

「そ。ばあちゃんさ、誰でもすぐ縁側でお茶出して喋るんだよね。
 で、ウチの縁側は近所のおばちゃん達の溜り場になってるってわけ。
 だからさ、宮田がウチ来るとね。おばちゃん達に掴まってさ、たちまち餌食になると思うよ?はい、唐揚げくれよ」

餌食とは穏やかじゃない表現でいる。
どうやら御岳で置かれている自分の知らない状況があるらしい。
割箸についていた妻楊枝で唐揚げ刺すと運転席へ渡しながら訊いてみた。

「はい、唐揚げ。なあ?餌食ってどういう意味だ、俺って御岳でどうなってんの?」
「ふうん?おまえ、ほんと解ってないんだね」

そう笑って唐揚げを銜えこむと、細い目を愉しげに笑ませながら口を動かしている。
まあ言われるように自分は解ってないだろう、英二は自分もミニコロッケを食べながら国村を見た。
このコロッケ美味しいな、そんな感想と一緒に飲みこんだとき国村がまた笑いながら教えてくれた。

「だからさ?おまえって巡廻の時、いつも笑顔で回るだろ?で、事あるごとに呼び止められてさ、なんかしら手伝ってるよね?」
「うん、だって手伝い欲しくて困っているのにさ、見過ごせないだろ?警察官なんだし」

しごく当然のことを自分はしている。
そう思うままに英二が答えると、ちょっと呆れたように楽しげに国村は笑った。

「ほんと宮田ってさ、真面目でお人好しなとこあるよね。あのさ、そうやって呼び止めるのってさ、女の人が多いんじゃないの?」
「あ、言われてみればそうかな?でも、おじいさんとかもいるよ?」
「まあ、じいさん達は本当に用事あるかもね。でもさ、おばちゃん達はね、お前と喋るのが目的なんだよ?」
「へえ?俺と喋ると、なんか良いことあるのかな?」

お互いに握飯を頬張りながら英二はまた訊いてみた。
そんな英二を見やって細い目が笑っている、いったいなんだろう?すこし首傾げながら英二は唐揚げを口に入れた。
旨いなと飲みこんだ時、ちょうど信号で止まると国村は運転席から英二の額を小突いた。

「痛いよ?国村。最後の唐揚げ食べたからって怒るなよ?」
「痛いよ?じゃないよ、おまえ。唐揚げも違う。おまえね、自分は美形でモテるって自覚あるんだろ?
 だったらさ、どうして御岳のおばちゃん達のアイドルに自分がなっている事くらい解んないわけ?おまえって賢いくせにバカだよね」

自分がアイドル?ちょっと英二は考え込んだ。
以前の要領良く派手なフリした自分にならよくあった、でも周太と出会った今は実直な性質のままでいる自分は地味だと思う。
それでもこんな外見だから自分が人目を惹くことは知っている、けれど任務中で警察官でいる時までとは思わなかった。
まして青梅署に来てからの自分は「真面目で物堅い」といつも言われている、その通り自分の性格が堅物だと解っている。
そういう素のままで奥多摩では公私とも生活している、そんな堅物の自分が女性に受けるとは思えない。考えながら英二は口を開いた。

「なあ?俺ってさ、いつも国村も言う通り堅物だろ?
 そういう男ってさ、女の人からしたら面白くないんじゃないかな?
 俺って思ったことしか言えないし、気の利いたことも言うつもりないから。周太には別だけどさ?」

「だからさ。そういう物堅いとこがね、ギャップ萌えになるらしいな。
 艶っぽい美形のくせに、クソ真面目なとこが良いんだと。で、制服姿が余計にストイックに見えるらしいよ」

「へえ、…ギャップが良いんだ?」

ギャップ萌え、と言われて英二は心底から驚いた。
以前の自分は華やかな外見と正反対の実直で物堅い性格のギャップが、期待外れだと人をガッカリさせている。
けれど今度は逆にそんなギャップを喜ばれてるらしい。なんだか人間て難しいものだな。
そんな感想と一緒に漬物を噛んでいると国村が揚げナスを妻楊枝に刺した。

「そうだよ、だから言ったろ?宮田ならさ、素のままで普通にモテるだろって。で、俺の言う通りってわけ。
 それにしてもさ、『周太には別だけどさ』なんてね、おまえってホント湯原くん大好きだよね?
 前の土曜日だったよな、年明け会って帰ってきてからさ、また更に湯原くんのこと大好きになっているんじゃないの?」

それはその通りだろう、英二は当然だなと心裡で頷いた。
このあいだは周太の母にも周太との婚約の承諾を貰えた、そして周太自身にもきちんと婚約を申込んで頷いてもらえている。
それから幸せな記憶がたくさんある、きれいに英二は微笑んだ。

「うん、そうだよ?俺はね、またいっぱい周太を好きになったよ、もうね、ほんと愛してる。このあいだはさ、すごい幸せだった」

そんな英二をちらっと見て細い目が温かく微笑んだ。
そして軽く頷いて言ってくれた。

「そういうのってさ、幸せだよね?よかったな。あ、俺の分って、全部食い終わってるっけ」
「うん、もう空だよ。国村まだ足りないんだ?」
「だな。談合坂とかでなんか食おうかな、今日はちょっとウチの山を見回ったもんだからさ、腹減ったんだよね」

そんな他愛ない会話をしながら高速を走って途中、談合坂SAで休憩をとりながら河口湖ICで降りた。
そこから一般道に入ると夜の底が雪景色に変わっていく、道路上の電光掲示板の気温は零下5度を示していた。
車窓のガラスにふれると冷たい、本当に富士山に登るんだな。そんな実感に英二は雪を見つめていた。
国村も吉田方面へ車を向けながら軽く頷いている。

「うん、まあまあ雪がありそうだな?今年は雪少ないって言うからさ、どうかなって思っていたんだ」
「そうだな、奥多摩に降った日と同じ日の雪かな?あの日から富士山、雪化粧が下の方まできれいになったよな」
「だな。このあいだ川苔山に登った日だろ?きれいに見えていたよね」

21時前の街は雪に静まっている、タイヤチェーンが雪氷を削る音とすれ違いながら馬返し駐車場に着いた。
今日は車中泊をして明朝は4時半から登山開始、そして明日は5合目の山小屋泊の予定になっている。
車を停めると国村は窓へ簡易ブラインドをセットした、そして前後の座席シートを倒して車内をフルフラットにしていく。
そこへシートと寝袋を広げて寝場所を作ると国村はごろりと寝転がった。寝袋の上に座って感心しながら英二は言った。

「へえ、国村の車ってさ、こんなふうに出来たんだ?」
「こういう時の為にね、ちょっといじってあるんだ。自分の車で寝泊まりできると便利だろ?」
「うん。いいな、俺も車買ったら、こういうのやりたいな」
「だろ?あ、21時過ぎてるよ、宮田。早く電話してやんなよ、待っているんだろ?」

言われて左腕のクライマーウォッチを見ると21時を5分ほど過ぎている。
きっと待っている、英二は携帯の発信履歴を呼び出した。

「ありがとな、国村」
「どういたしまして。ちょっと会話聞いちゃうけど悪いね」

細い目を悪戯っ子に笑ませながら国村は、LED灯をつけて携帯の画面を眺めはじめた。
たぶん国村も美代にメールを送るのだろう、そんな様子に微笑んで英二は電話を繋いだ。
繋いでコール0で懐かしい声が答えてくれた。

「はい、」
「周太、待っててくれた?」
「ん、…待ってた。もう富士山の麓?」

今朝も聴いたばかりの声、けれど懐かしくて嬉しくて温かい。
この声をすぐ傍で聴けたらいいのに?そんな想いと一緒に英二は答えた。

「うん。馬返し駐車場ってとこだよ、周太。雪が積もっているんだ、でもこの時期にしては少ないらしい」
「そう、無理とか絶対にしないでね?…信じて待っている。…あ、母がね、お墓参りありがとうって、喜んでた」
「そっか、良かった。ね、周太?俺のことさ、今日は何回くらい考えてくれた?」

ちょっと訊いてみたいな?
なんて答えてくれるか待っていると、考え込むような気配が電話越しに伝わってくる。
すこし間があってから気恥ずかしそうな声で周太は答えてくれた。

「ん…わからない…」
「周太、自分で解らないの?」
「だって英二?今日は俺、実家に帰ったから…ずっと想いだしてばかりだった、
 家中にね、英二の面影が残っちゃってて…逢いたくて寂しくて、でも…温かい記憶がね、幸せだったよ?」

こんなこと言われたら嬉しくなってしまう、幸せで英二は笑った。
そんな幸せな想いのままに英二は周太に話しかけた。

「ね、周太?じゃあさ、屋根裏部屋では俺のこと、押し倒しちゃったこと想いだした?」
「…はずかしい…でも、そう…でも、ばかえいじなんてこというの、そこ…国村さんいるんじゃないの?」

言われて英二は我に返って振向いた、その間近に可笑しそうな細い目と視線が合ってしまった。
目が合うとまた愉しげに唇の端をあげて国村は、そのまま肩越しに携帯へ声をかけた。

「うん、湯原くん。しっかり聴かせてもらったよ?可愛いのにさ、意外と大胆なんだね、湯原くん?こんど俺のことも押し倒してよ」

よく透ってしまうテノールの声は携帯越しにも聞こえたのだろう。
向こう側で真赤になる気配がして声が詰まっている。
しまったなと少し笑いながら英二は周太に話しかけた。

「絶対ダメだよ、周太。国村なんか相手にしたりしないで?周太が押し倒すのは俺だけ。周太はね、俺だけ見てればいい」
「…ばかえいじまたなんてこという…でも、はい…そうします」
「うん、素直でかわいいね、周太。今夜も俺ね、周太のこと考えて寝るからね、夢で逢ったら冷たくしないで?それでキスしてよ」
「…はい、」

消えそうな声が恥ずかしげで可愛くて仕方ない。
自分の婚約者の初々しい態度に微笑んでもう少し話すと「おやすみ」を言って英二は電話を閉じた。
さて国村のこと、どうしようかな?すこし考えながら携帯をチェーンで繋いでポケットに納めると英二は振り向いた。
相変わらず可笑しそうに細い目が笑っている、そんな友人の額を英二は長い指先で弾いた。

ばちん、

いい音がして途端に秀麗な顔がしかめっ面に変わっていく。
弾かれた指痕をきれいな薄紅にしながら国村が、いつもの飄々とした口調で言った。

「痛いだろ、宮田。なにそんなに怒ってんのさ?」

しかめっ面しながらも細い目は底抜けに明るく笑っている。
きっと英二の態度がまた面白いのだろう。英二も笑いながら、けれど毅然とこの友人に宣言した。

「周太はね、絶対に俺のものなんだ。だからね、これっぽっちも誰にもやらないよ?国村でもダメ、押し倒すとか絶対ダメ」

きれいな笑顔での強い押しに国村はちょっと首傾げて笑った。
そんな温かい笑顔と「仕方ないな」という口調で国村は言ってくれる。

「あーあ、おまえ?ほんっと湯原くん命だな。湯原くんがさ、マジでおまえの逆鱗だよね?」
「そうだよ。よく解ってるな、国村。だからさ、冗談でも言わないでくれな?マジになっちゃうと困るからさ」

きれいな笑顔で自分のアイザイレンパートナーにはっきり言うと英二は寝袋に入った。
そんな英二に笑って国村も寝袋に入ると言ってくれた。

「仕方ないな、アイザイレンパートナーの宣言だしね。でもさ、マジで湯原くんが宮田を押し倒したのか?」
「そうだよ。周太がね、俺を押し倒してくれたんだ」

幸せそうに笑って英二は答えた。
へえ、と意外そうに首傾げながら国村が訊いてくれる。

「へえ、あの初々しい彼が、ねえ?どんなシチュエーションだったわけ?」
「うん、俺がね、ちょっと泣いちゃったんだよ。それで周太、優しく抱きしめてキスして慰めてくれたんだ」
「宮田が泣いたんだ?で、慰めて?へえ、意味深だな」

いつものように明るい相槌を打ってくれる。
俯せると英二は腕組んで顔を乗せて、山ヤの相棒を見て微笑んだ。

「俺ね、朝、風呂掃除していてさ。そのとき周太は朝飯作ってくれていて。
 で、掃除が終わったから台所に行ったらさ、周太がいなかったんだ。
 廊下で呼んでも返事が無かった。そしたら玄関が空いていたからさ、探しに庭へ行ったんだ…蝋梅って花、国村しってる?」

「うん、黄色のちょっと不思議な花だろ?光みたいなさ」

頬杖くずしに国村もこちらに向きあうと、底抜けに明るい目を穏やかに笑ませてくれる。
いつもこんなふうに国村は向き合って聴いてくれる、うれしいなと微笑んで英二は続けた。

「そうなんだよ、あの花ってさ、光みたいだろ?その花が庭で満開だったんだ、でね、その前に周太が立っていたんだよ。
 水仙の白い花と蝋梅の枝を抱えて、きれいに微笑んで蝋梅の花を見ていたんだ。その姿が本当に、きれいだった。
 光のなかにいるみたいだった、あんまり周太がきれいで俺、不安になったんだ。そのまま周太がどこかへ消えそうで、怖かった」

ちょっと英二は言葉を切って記憶に微笑んだ。
あのとき東からの朝陽が周太にふりそそいで、陽に透ける光が髪に輪を描いていた。
耀く蝋梅の花の木に抱かれるように立つ周太の顔も、透明な光に透けるような肌をして遠い世界のひとのようで。
純粋無垢な瞳には蝋梅の光が映りこんで長い睫にも光がけぶるようだった。
きれいで純粋だから遠くに惹きこまれてしまう、そんな不安が怖くて英二は周太を抱きしめた。

「…ほんとにさ、周太、きれいだったんだ。泣きそうになった、俺…
 ほんとうに怖くなってさ、俺、周太を抱きしめたよ。それで少しだけほっとした、ちゃんと抱きしめられたって」

「うん、…そういうのってさ、あるな」

そっと微笑んで国村が頷いてくれる。
英二もすこし笑って、ゆっくり口を開くと続けた。

「…でさ、朝飯のあと周太の家の墓参りに行って、帰ってきてから昼飯食って。それから周太の部屋でね、のんびりしていたんだ。
 その部屋って天窓があるんだよ、その窓からふる光がさ…周太を照らしたんだ。
 おだやかな光のなかで周太の笑顔がきれいだった、それで俺、蝋梅の花の周太を想いだしちゃってさ。
 また怖くなった、きれいな周太が居なくなりそうで…だから俺、置いていかないでって周太に言って、泣いちゃったんだよ」

「うん、…そういうのってさ、なんか解るな。大切なひとって誰よりもさ、一番きれいで失うの怖いよな」

温かい眼差しで国村が微笑んでくれる。
やっぱり国村も美代に同じ想いを抱いたことがあるのだろうか?そっと英二はきいてみた。

「国村も同じように思ったことあるんだ?」
「うん、結構あるな」
「どんな感じ?」

聴かれて少し考えるよう細い目がゆっくり瞬く。
そして落ち着いたトーンで言ってくれた。

「そうだな、雪のなかで俺はよく感じるかな」

そう言って細い目がすこしだけ切なげに笑ってくれる、その表情に英二は傷みを想った。
国村は両親を高峰マナスルの雪に失っている、そんな国村が雪の輝きに感じることは無理ない。
それでも国村は雪の冷厳と美しさを愛することを止めない。新雪に輝く山を愛し、雪の高峰を真直ぐ見つめてクライマーの夢に立っている。
そういう強さが国村は温かくまぶしい、穏やかに英二は微笑んだ。

「雪はさ、銀色の光だよな?臘梅の金色と対照的だな」
「そうだね、どっちもさ、きれいだな?」

英二の言葉に愉しい目で笑って答えてくれる。
そんな国村は可笑しそうに笑って口を開いた。

「で、宮田?キスされて押し倒されてさ、何されたんだよ?」

やっぱり国村は興味があるのだろう、細い目が愉快気に「ほら話せよ?」と笑って促してくる。
からり明るい国村は美形なくせにオヤジでえげつない。だからこんな話が好きでいる。
ちょっと笑って英二は答えた。

「うん、たくさんキスしてくれたよ。それで周太のこと抱きしめさせてくれた」
「キスだけか。ま、押し倒しすなんてね?湯原くんとしてはさ、すごい進歩だよね」

すこし残念そうに、けれど愉しそうに笑ってくれる。
幸せに微笑んで英二は答えた。

「うん。俺はね、ほんと幸せなんだ。周太から求めてくれて幸せだよ」
「マジ幸せそうだね、良かったよ。充たされているみたいでさ。
 ま、明日と明後日の訓練はね、標高と気圧への順化もあるからさ。ちょっとキツイかもしれないけど、頑張ってくれな」
「うん。俺、がんばるよ。周太の為にもね」

きれいに英二は笑った。
頬杖くずしのまま国村も微笑んで、それから口を開いた。

「富士山の冬。その気象条件のこと、頭に入ってる?」
「うん。まず突風だよな?冬型になると北西風、西風。低気圧が来ると南西風になる」
「そ。で、俺たちが明日から登るのは吉田口だ。
 富士の山頂を円錐型の頂点として吉田口ルートの向きを考えると、北西風はどっちから吹く?」

山では森林限界を超えると直接に風の脅威にさらされる。そして単独峰の富士山は一層に風の影響を受けやすい。
そんな富士山では風を読んでの行動が必要になる、その確認を国村は始めた。

「吉田口は北東だな、そして北西風なら山頂を目指す場合、右から吹きっぱなしの強風になる。だろ?」
「そ。これが須走口なら山頂から東方向、だから北西風なら須走口は下部では穏やかだ。
 そして登頂するにしたがって強くなる、上部は吉田口と合流するから右からの強風になる。
 南東にあたる御殿場口では穏やかだ、でも突風に注意が必要になる。で、南になる富士宮口は左から吹きっぱなしの強風。」
「同一の風向や風速でも、登るルートによって受ける風向や風速は異なる。そういうことだよな」

昨日まで資料で読み、後藤副隊長や吉村医師に訊いてきた「冬の富士山」
それらを想いだしながら英二は確認をしてみた、それに頷いて国村は口を開いた。

「そのとおり。こういう風向きと風速の強さは、気圧配置と風向きの変化で変わっていく。
だから風の影響をもろにうけやすい富士登山ではさ、とくに気圧配置や風の変化を予想する技術が要求されるんだ」
「予想する方法は、昨日から今日にかけての実況値から明日の風を予想するんだよな。これ、どうかな?」

言いながら英二は胸ポケットから明日の風と天候変化の予想メモ出すとを国村に示した。
今日の昼間、御岳駐在での勤務合間に作ったメモだった、予想値測定メモを英二はもう何度か作ってみている。
こうした気象への知識が登山には必要とされる、それを英二は国村はもちろん吉村や後藤にも教わってきた。
示されたメモを見て国村は満足そうに笑って言ってくれる。

「うん、俺のと同じだな。よく勉強しているな宮田、やっぱり真面目だね、おまえはさ。
 予想天気図は冬富士では必須だ、特に風はね。それでもさ、富士山では予想に反して強い風に吹かれる事があるだろ?
 もし強風に見舞われたら、自分の置かれている状況を、冷静に確認することが必要になる。
 だから登りながらさ、風が強くなった時のエスケープルートを考えてね、心構えをしておくといい」

「うん。エスケープルートの取り方とかさ、また教えてくれな?」
「明日、明後日の現場で実地訓練する。俺は厳しいよ、だから一回で覚えてくれな」

自分はまだ山岳経験は初心者、けれど卒業配置から3か月半を毎日山に登ってきた。
そんな自分は少しでも早く一人前の山ヤになりたい、きれいに笑って英二は頷いた。

「おう、一回で覚える。すげえ集中するから俺。よろしくな、国村」
「良い心構えだね?ま、頑張んなね。あとは高度順化だな、その適性がさ、おまえ2,000超は初めて試すんだもんな?」
「うん、そうなんだ。よく3,000mからキツイって聴くけど、やっぱり辛い?」
「個人差あるし気象条件に寄るけどね、まあ3,000はバロメーターかな。富士山だと8合あたりが順化の境界線だね」

標高3,000m、いつも英二が活動する現場の奥多摩から高度が1,000m高い世界。
すこし緊張して、そして楽しみでいる。微笑んで英二は国村に訊いてみた。

「国村は?」
「俺は全然問題ないな。元からさ、すぐ順化できるし高度や気圧の変化にも強いんだよな」
「すごいな、ご両親の遺伝?」
「そうかもね、ウチの親って2人ともそうだったらしいしな。宮田もさ、俺と体格とか似ているから大丈夫じゃないの?」

こんなふうに山の話をしながらの夜が楽しい。
こういう時間も俺は好きだな。登山前のかすかな緊張と寛ぎに英二は最高峰山麓の夜を眠った。


午前4時半すぎ、朝食の握飯とゆで卵を腹に収めると馬返し駐車場から登山道へ入った。
1月中旬まだ夜明け前の富士山麓、マイナス8度の大気に吐く息が凍っていくのが感じられる。
ヘッドライトの灯りに歩き出す登山靴の下では、ふむ雪と氷がぴりりと罅割れて砕けていく。

「まだアイゼンいらない程度だな、キックステップで歩こう。気をつけろよ?」
「うん、まだ気温も雲取山と変わらないな。標高2,000mまでは国村のペースで歩いていいよ、俺ついていくから」
「そうだな、2,000mまでなら奥多摩と変わらないか?じゃ、宮田。目標タイムは1時間半以内な」

いつもの奥多摩でのペースに国村が歩きはじめる、国村の登高はいつもかなりのハイペースで一般タイムを1/2には縮めてしまう。
それに英二はいつもついていく、そのコツは国村と呼吸のタイミングや足運びを合わせていくこと。
国村は英二と体格がよく似ているから動きも合わせやすい、だから英二の山でのお手本は国村にしていた。

「雪質がちょっと奥多摩と違うよな?」
「さらっとしているだろ?気温低いと雪は細かくなるからね。でさ、富士山は風が強いだろ?だからホワイトアウトも怖いんだ」

歩き進めていくと石造りの鳥居が雪の夜に佇んでいる、狛犬の場所にはサルの石像が立っていた。
その鳥居をくぐると、そこは禊所と呼ばれた聖地だった。大正時代からは禊所でお祓いに身を清めてから山頂を目指したらしい。
そんな説明文をヘッドライトの灯りにさっと読みながら歩いていると、国村が自身のクライマーウォッチを確認した。

「この辺りで標高1,450mか、宮田、まだ余裕だろ?」
「うん、雪も奥多摩で随分と馴れたから。このくらいなら大丈夫だよ」

登山道は傾斜の少ない幅広い道で大人4人が並んで歩けるくらいのスペースがある。
一合目1,520mを通過していく、馬返しからは距離430m。道脇にある古い小屋の周りには多くの石碑が立っていた。
見ると「鈴原天照大神社」と書いてあり神社の跡らしい、けれど古さびた雰囲気はこの登山道がすこし寂れ気味だと感じさせる。

「この道ってさ、あまり歩かれていないのかな?」
「うん?そうだな、富士スバルラインで五合目まで行ってさ、そこから頂上目指す人の方が多いな」

いつものように話しながら登っていく、その吐く息が真白に靄になって登る軌跡を描くと夜にとけてしまう。
氷のように凍てつく空気のなかで二合目にと着いた。二合目は1,717m、一合目から1050mの距離だった。
ここには浅間神明また御室浅間神社という神社の古びた社殿が建っている。
そんな面影を残す建物の造りを見て二合目を過ぎると、丸太の階段が増えてくるが急坂にはならない。
二合目から15分くらい登ると一旦道路に出、道路を横切りまた登山道に入る。さっきより急坂になっていくがまだ緩い。

「ふうん、おまえ、キックステップは慣れたな。野陣尾根とかよく歩いているもんな」
「うん、あそこはね、週1回は登るんだ。あのルートって好きなんだ、急登の練習にもなるしさ」

野陣尾根には英二が大切にするブナの巨樹が立っている。
すこし登山道から逸れていく古い仕事道の先、きれいな空間は広がっていく。そこにブナの巨樹が豊かな梢に空を抱いて佇んでいる。
あのブナの木の下で英二は初めて周太に「英二?」と名前を呼んでもらえた、そして周太からキスしてもらった。
その場所へと英二は時間が出来ると行って、しばらく時を過ごすことを習慣にしている。
この訓練から帰ったらまた行きたいな、大切な周太との記憶に微笑んで英二はまた足元へと集中した。

そうして二合目から距離400mを歩いて標高1,842m三合目へと着いた。昔は三軒茶屋と呼ばれた場所で古びた小屋が2軒建っている。
雪のなか遺跡を示す看板の解説を、ヘッドライトの灯りに読んで英二は首傾げた。

「『ここからの見晴らしが良かったので、多くの登山者が休憩しました』ふうん、でも今は見晴らし悪そうだよな」
「たぶん昔はさ、木も切ってあったんだろな。そろそろアイゼン履いておこう、履くなら森林地帯の方が良い」

ヘッドライトの下でアイゼンを履いていく。
もう奥多摩でも何度か英二は履いている、新雪が降るたび国村に誘われての早朝登山が良い練習になった。
手際よく履いていきながら国村が英二に教えてくれた。

「昔この山でさ、エベレスト登頂もしたクライマーが滑落死したんだ。
 アイゼンを履こうとした時ちょうど突風に煽られて、バランスを崩したらしい。大沢崩れへ落ち込んで亡くなったそうだよ」

昨夜も四駆の寝床で話した「富士山の突風」
冬の富士山は「魔の山」と言われるほどに突風が恐ろしい、その富士山に立つ今はより身近く感じられる。
軽く頷いて英二は国村に訊いた。

「そっか…それで国村、森林地帯で履こうって言ったんだな?」
「そ。アイゼンを履くときは、バランスも崩しやすい。
 だから森林限界を超えてからの装着は危険だ、出来れば境界を超える前に履くといい。よし、いい具合に履けたな。行くよ?」

御座石2,106mに到着すると夜空にかすかな朝の気配が感じられる。空気も冷えが厳しい、ネックゲイターをすこし英二はひき上げた。
古びた小屋には「五合目焼印所」と「四合五尺」と書かれていた、小屋正面から望む八ヶ岳が稜線を夜空に映している。
ここで英二は初めて標高2,000mを超えた、足を進めながら国村が訊いてくれる。

「雲取山の2,017.1mを超えたな、宮田?気分はどうだ」
「うん、いつもどおり大丈夫だ。タイムも予定通りだよな?」
「ああ、順調だよ?たぶん間に合うんじゃないかな?」

小屋を過ぎると少し急坂になり、ここから暫く石畳の道になっている。
ふり積もった雪の合間に黒く石が覗いている箇所があった。

「ここな、石畳だろ?アイゼンの刃を削られないようにしなね」
「うん。こういう石畳見るとさ、富士山も御岳山と同じ神域なんだって感じるよな」
「だね、」

五合目2,225mに着くと吉田口の登山道五合目からは河口湖を中心とした展望になる。
かすかに明るんだ紺青色の空に、雪そまる八ヶ岳がほの白い影がうかぶよう正面へと見えた。
高度をますごと広がっていく視界が楽しい、そう登って五合目の佐藤小屋を通ると夜の雪の中まだ閉まっている。
そこからすこしラッセルをして登っていくと六合目2,386mに着いた。馬返しから3.4km標高差946mを登りきったことになる。
夜明け前の青い山の空気の中で国村が愉しげに笑った。

「雲取山の標高を300m超えたね。宮田、気分はどう?」
「うん、大丈夫だ。予定通りのタイムで着けたよな」
「だな、良かったよ。さ、宮田。ちょっとここの雪、除けようよ」

冬季閉鎖されている小屋を風よけにして平らな空間を少し作る。
簡単な竪穴式の雪洞にザックを腰かけるよう背負って座ると、クッカーを出して湯を沸かした。
いつもより少し湯が沸くのが遅い、標高差の所為だろう。それでも沸いた湯をカップ麺に注ぐと国村が笑った。

「宮田、3分よろしくな」
「うん、いいよ。」

英二は時間に鋭いところがある。それが国村は面白いらしく、いつもカップ麺の3分計測に英二を使う。
話ながらも英二は脳裏の片隅に時間計測をしていく。

「国村、はい、握飯な」
「ははっ、さすがに冷たくなってるな。カップ麺に入れて食おうかな?」
「旨いんじゃない?あとこれ、後藤副隊長からの差入」
「アーモンドチョコか。俺の好物だけどさ、後藤のおじさん菓子なんかくれて、遠足にでも送り出すみたいだよな?」

10年前の春マナスルで亡くなった国村の両親は、山岳救助隊副隊長の後藤と親しい友人だった。
そんな友人の遺児である国村を後藤は可愛がっている、だから自分の手元でクライマーに育てようと国村に警視庁への任官を勧めた。
後藤は警視庁随一のクライマーで警視庁山岳会長でもあり、警視庁から世界的クライマーを出すという夢も国村に懸けている。
そんな国村は今回が初めての「山を教えアイザイレンを組む」ことになる。後藤は可愛くて心配なのだろう、微笑んで英二は答えた。

「そうだよな。でもナッツ入りのチョコレートはさ、行動食にもいいんだよ。あ、はい3分」

そう言ってカップ麺の蓋を開けると程よい加減になっている。
まだこのくらいの標高だとカップ麺も変化は少ないらしい、熱いスープごと握飯と一緒に腹へ納めこんだ。
2度目の熱い朝食を終えると、きれいに片づけて雪洞も元に戻していく。
すぐに終えて1つ伸びをした国村は、東を指差すと底抜けに明るい目で笑った。

「ほら、宮田?そろそろ夜が明けるよ。初めての富士山からの夜明けだろ?」

東の方角から太陽が赤い輝きと熱を顕わしていく。
そして透明な朱金かがやいて光がゆるやかに腕をのばし始めた。
紺青色の夜を啓いていく暁に、富士の山肌覆う白銀の雪渓へあわい紅の光が染め昇っていく。
その空に見あげ迫る富士の山が雪白の懐を大きく広げて、曙光の朱金に耀いた富士山に朝が訪れた。

「…きれいだな」

いま自分は富士山にいる、ふっと英二は微笑んだ。
日本の最高峰、富士山。標高3,776mの単独峰として優美な姿を見せている。
けれど冬の富士は雪と氷に強大な突風が吹く、峻厳な山の掟と白銀荘厳な世界。
そんな富士の輝く雪の山肌に昇りそめていく曙光のあわい赤に、周太の初々しい紅潮がなつかしい。
周太への求婚の花束に贈った花「オーニソガラムMt.富士」
このいま立っている日本の最高峰を冠した花に、英二は周太へむける実直な想いをよせた。
この山の曙光輝く姿を見せてあげたい、英二は防寒用のケースに入れた携帯を取り出すと山頂へ向けてシャッターを切った。

だから約束する「あなたを愛していると最高峰から永遠に告げていく」すべてに負けない心を信じてほしい




(to be continued)

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