萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第33話 雪火act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-01-26 22:23:18 | 陽はまた昇るside story
迎えてくれる場所、




第33話 雪火act.1―side story「陽はまた昇る」

馬返し駐車場に着いたのは12:50過ぎ、下山開始から30分ほどだった。
午前診療になんとか滑りこめるだろうか?国村の四駆に乗ると英二はカーナビの検索をした。
周辺に何か所か整形外科がある、診療時間を携帯で調べていると国村がナビを現在地に戻してしまった。

「国村?まだ調べている最中だよ?」
「うん?ああ、知っているとこあるからさ、そこ行こうと思ってね」

そう言ってハンドルを捌くと近くにある個人医院に国村は四駆を停めた。
扉を開けて入ると薬品の匂いが掠めていく、ちいさな窓口から国村は奥に声を掛けた。
するとすぐに初老の白衣の男が現れて国村を認めると微笑んだ。

「やあ、君か。この冬も冬富士に登りに来たんだね」
「はい、来ました。昼時にすみません、ちょっと診て貰えますか?」
「いいよ、君が怪我だなんて珍しいな?」

からり笑った国村に微笑むと医師は英二の方を見た。
そして驚いたように瞬くと、思わず英二に話しかけた。

「きみは、…吉村の親戚、かな?」

どうやらこの医師は吉村医師の知人らしい。きっとまた雅樹と英二を見間違えたのだろう。
今回これで2度目だな?ちょっと可笑しくて英二は微笑んで答えた。

「いいえ、違います。でも吉村先生にはお世話になっています、雅樹さんにも」
「君は雅樹くんを知っているのか?」
「お会いしたことはありません、けれどお話はよく伺っています」

きれいに笑って英二は答えた。
そんな英二の額を小突くと国村は笑って医師に教えてくれた。

「堀内先生、こいつはね?俺の同僚でアンザイレンパートナーで、友達です。で、エロいです」

あかるい飄々とした口調で国村が笑う。
そんな国村の言葉に堀内医師はふきだし笑ってしまった。

「そうか、国村くんの良い友達なんだな?見間違えたりして、すまなかった。
私は吉村とは医大で同級生だったんだ、それで雅樹くんのことも知っていてね。申しわけない、」

堀内医師も率直に謝ってくれる。
みんな謝ってくれるけれど気にしないで良いのにな?きれいに笑って英二は答えた。

「いいえ、よく間違われます。気になさらないでください、俺は嫌じゃないですから」
「だろね?雅樹さんのこと、宮田は好きだから」

底抜けに明るい目で国村が言ってくれた。
さらっと気遣って相槌を国村は打ってくれている、うれしいなと微笑んで英二は頷いた。

「うん、俺、雅樹さんは憧れるよ?あんなふうに山岳レスキューに懸けていけたらいいな」
「だな。ま、頑張ってくれよ。クソ真面目だしさ、宮田なら出来るんじゃない?」

明るい相槌を国村は打ってくれる。
こういう国村の明るさが英二は好きだ、楽しくて笑っていると堀内医師も笑ってくれた。

「さあ診察を始めよう。宮田くんも一緒に診察室へおいで、
 待合室のストーブはさっき止めてしまったんだ。ここらは寒いからね、火の気が無いと一挙に冷えこむ」

そう言って診察室へと英二も招き入れてくれた。
診察室に入るなら携帯の電源は切らなくてはいけない、携帯を開くとまだ圏外のままでいる。
周太は術科センターで射撃特練の訓練中だろう、想いながら英二はそっと電源を落とし診察室へ入った。
すぐに堀内医師は国村の肩の状態を診始めると、英二の応急処置を見て訊いてくれた。

「これは宮田くんが処置したのかい?」
「はい、どこか間違えましたか?」
「いや、よく出来ているよ。宮田くんは前から応急処置の勉強をしているのかな?」
「警察学校に入ってからです、今は吉村先生から教わっています。あと、これをご参考になれば」

言いながら英二は胸ポケットから手帳を出し、挟んでおいた国村の状況報告書を取出すと堀内医師に手渡した。
受けとってすぐ目を通してくれると、医師は頷いて微笑んだ。

「よく出来ているね、これは吉村と一緒に考えた書式かな?」
「はい、そうです。いかがでしょうか、国村の状態は?」

自分の診立て通りなら国村は痣は目立つけれど問題は無い、けれど自分の診立ては合っているだろうか?
山においては自助と相互扶助が大原則、山ヤが山に立つとき自分を守るものは原則自身しかいない。
そんな山ヤは体のパーツ全てが自分の生命を守ることに直結している。
だからどうか軽傷であってほしい、山に登る自由と安全を国村には失ってほしくない。
そんな祈りに英二が見つめる堀内医師は微笑んで答えてくれた。

「うん、君の見立て通りだろうね。ここにも書いてくれたように雪に埋まったことが幸いしたな。
 そして雪塊はザックにぶつかったと私も思う、直撃を免れて本当に良かったよ。さ、念のためにレントゲンとってみよう」

すぐレントゲンを撮ってもらうと問題は無かった。
念のためと湿布薬だけ出してくれると、堀内医師は笑って見送ってくれた。

「もう風呂も入って構わないよ、2,3日で出血斑も消えるだろう。二人とも、また寄ってくれ。吉村によろしくな」
「はい、また寄らせていただきます。ありがとうございました」

走り出した四駆の助手席で英二はほっと息をついた。
国村の怪我が問題なくてよかった、安堵しながらクライマーウォッチを見た。
時刻は13:30になっている、けれど携帯は圏外のままだ。
元から電波があまり良くない地域なのだろうか、ため息を吐いた英二に国村が笑った。

「なに、おまえ?湯原くんに電話したいんだろ、」
「うん、…予定よりだいぶ遅くなっただろ?きっと周太、心配していると思うんだ」
「そりゃそうだろね、きっと泣いちゃったんじゃないの?」

さらっと言った国村の唇の端が上がっている、ここで英二が落ち込むことを見越しての発言だろう。
もう思惑通り落ち込むよ?思いながら英二は「圏外」の表示を見つめた。
ちょっと落ち込んだ英二に国村が呆れたように教えてくれた。

「あのさ?圏外でも電話帳機能は見れるんだからさ、公衆電話で掛ければいいだろ?」
「あ、そっか」

ふだん公衆電話を使う機会があまり無いから気がつかなかった。
けれどすぐ首傾げて英二は訊いた。

「でもさ、公衆電話って最近は少ないよな?それに周太、訓練中は携帯の電源切るし…やっぱりすぐは連絡できないよ」
「まあそうだよね。とりあえずさ、飯食わない?昼はとっくに過ぎてるよ」

入った定食屋は大盛で有名だという店だった。
噂通りの大盛の昼飯を平らげると、英二はクライマーウォッチを見つめた。時針はもう14時を過ぎている。
今頃は周太はどうしているだろう?

― 連絡がつかないことに不安、だよな…周太のことだから

容易く連絡が取れる携帯電話の便利に慣れていただけに、こんな状態は不慣れで途惑わされる。
開いた携帯電話は圏外のままだ、いつになったら連絡がつけられるだろう?
ほっとため息を吐いて、ふと顔をあげると前に座っていたはずの国村がいない。
どこに行ったのかと見回して英二の視線が止まった。

「…あ、」

公衆電話で国村は話している最中だった。
すこし奥まった場所にあったから気がつかなかった、英二は携帯の発信履歴を呼び出した。
そして立ちあがると公衆電話の受話器を置いた国村の横に立った。

「宮田、これちゃんと使えるよ?電話してやりなよね」
「うん、ありがとう」

素直に礼を言って英二は受話器をとった。
公衆電話なんて警察学校時代に使った位だろう、携帯の画面を見てからダイヤルボタンを押した。
けれど留守番電話になってしまった。

― きっと周太にも、こんな想いをさせたな

淡々と流れる留守番電話センターの声がどこか虚しく聞こえてしまう。
声を聴けなかった寂しさに微笑んで、英二はメッセージを入れると受話器を置いた。
それから会計を済ませて店を出、四駆に乗ると国村が訊いてくれた。

「で、湯原くんには電話、繋がらなかったんだ?」
「なんで解るんだ?」

驚いて英二は訊いてみた。
そんな英二に呆れたように底抜けに明るい目が笑った。

「だって、おまえね?捨て犬みたいな目になってるよ。まったくさ、ほんと嫁さんの事しか考えられないんだね?」
「うん。俺ってさ、ほんと周太無しだとダメなんだよ。自分でもどうかなって想う時あるよ?」

素直に想ったままを話すと英二は笑った。
そんな英二を見て国村は可笑しそうに笑ってくれる。

「ほんとだね、あーあ、困った男だね。さてと、青梅署には16時には俺たち戻るよ?」
「青梅署16時って、なにかあるのか?」

そんな予定あっただろうか?
首傾げていると国村が細い目をからかうように笑ませて教えてくれた。

「さっきさ、俺は後藤副隊長と吉村先生に電話したんだよ。
 俺たち、予定だと青梅署に昼過ぎに戻るんだったろ?遅れた状況報告の電話だよ。
 で、両方から言われたんだ。雪山での弾道調査を今日の夕方と明日午前中に実施することが決定したらしい」

以前から青梅警察署では雪山での弾道について鑑識調査する話が出ていた。
青梅警察署が管轄する奥多摩の山はライフルでの狩猟も行われる、その弾道が雪山で受ける影響を調査し流れ弾などの事故抑止に役立てる。
併せて拳銃についても山中に容疑者が逃亡した場合の発砲状況について調査を行う。
そしてもう1点、過去の遭難事件の事例を現在の銃火器による再現調査も実施する。
この調査の気象条件に今夕から翌午前が適応するという判断が出たのだろう、英二は運転席に訊いた。

「ごめん、報告の電話ありがとう。その弾道調査、国村が射手だったよな?」
「そ、拳銃とライフルの両方できないといけないからね。
 で、山でやるし鑑識調査だからね、宮田もサポート人員だってさ。おまえ、鑑識も結構得意なんだってな」

明日は本来のシフトは英二は週休になっている、けれど山岳救助隊では休暇でも出動召集や訓練参加は当然だった。
明日は周太と逢う約束をしているけれど約束の11時には間に合わないだろう。
それでも弾道調査は明日午前までの予定だから、遅れるけれど逢いに行ける。
遭難救助の召集なら逢うことも出来ない可能性が高い、だから少しでも逢えるなら英二は嬉しかった。
逢える時間が短くなる分たくさん周太を笑わせてあげよう、そんな想いと英二は微笑んで頷いた。

「まだ得意と言えるほどじゃないよ?その調査実施はさ、夕方の雪が締りだす時刻と、午前中の明るい光の時って条件だったよな?」
「そ。夕暮れから夜間にかけてと、夜明けから朝、そして昼にかけてね。
 だから16時までには帰って来いってさ。その前に温泉入っていきたいな、昨夜は山小屋で風呂無かったしね」

温泉なら打撲への効果も期待できるだろう。
このあと国村は射撃をしなくてはいけない、すこしでも傷を癒した方が良い。
それには温泉は良い考えだなと英二も頷いた。

「そうだな、打撲に効くとこ行こうよ?」
「それならね、三頭山にあるよ。宮田、行ったことあったっけ?」

三頭山は奥多摩と山梨県にまたがる山で、警察署の管轄が3分割される。
南側は檜原村となり五日市署、北側は奥多摩町で青梅署、西側は山梨の小菅村で山梨県警上野原署の管轄になる。
三頭山自体には道迷い捜索で英二も登ったことがある、けれど温泉は知らなかった。
そんな近くにあるんだなと感心しながら英二は訊いてみた。

「まだないよ。三頭山のどっち側にあるんだ?」
「檜原村だよ、でも青梅まで道路繋がってるから大丈夫。じゃ、そこ行こうかな」

そこは三頭山南面にある山荘の温泉だった。
ここ数日の降雪と冷え込みで、ここも雪景色になっている。露天風呂も雪の中だった。
雪見露天風呂はなかなか風情がいい、それに昨日は山小屋泊で風呂は無かったから尚更に気持ち良い。
しんと冷たい空気のなか浸かる熱い湯は良い、ほっと寛いでいると横から国村が笑った。

「うん、やっぱりさ、雪見の風呂って良いね。頭が涼しいから、のんびり浸かっていられるよな」

至極ご機嫌で髪をかき上げながら国村は愉しげでいる。
ほんとうに雪も山も好きなのだろう、それにしてもと英二は笑った。

「午前中は雪崩に吹雪だったよな。俺たち、雪に散々に苦しんだばっかりなのにさ?わざわざ雪の中の風呂に入ってるな」
「だね。俺たち懲りないよな?ま、山ヤだからさ。仕方ないんじゃない?」

心底から愉快だと朗らかに国村が笑った。
自分たちは本当に懲りていない、山小屋に深雪期4月の予約まで入れてきたくらいだ。
こういうのは悪くない、きっと自分は好きなのだろう。こんな自分が楽しくて英二は微笑んだ。
そんな英二に横から国村が笑いかけた。

「まだ卒配3ヶ月半で山ヤも3ヶ月半、それであんな遭難救助やって雪崩の爆風くらってさ。でも辞めようって思わないだろ?」
「うん、ずっと続けたいな?」
「おまえってタフだよな。ほんとにさ、まだ3ヶ月半の山ヤだなんて思えないね」

まだ3ヶ月半だった、つい自分でも忘れかけてしまう。
この日々のなかで自分は何度も泣いた、けれど全ての瞬間を良かったと思える。
そして重ねた時間と記憶に周太と想いを重ねて求婚をして、あの家を守ることに決めた。

壊された紺青色の本『Le Fantome de l'Opera』
書斎机が存在しなかった『もうひとつの書斎』
あるべき英文原書とイタリア原書たちの行方、遺された仏文学の蔵書たち。
そして英語とラテン語で綴られた紺青色の20年分の日記帳。

 I will remember this day always. I'm hopeful of success.Be ambitious.Never give up,always be hopeful.
  “決して今日を忘れない。成功を信じている。志を持て、希望を持ち続け、決してあきらめるな”

周太の父の20年間を綴じこんだ紺青色の日記帳、その最初に綴られていた一文。
その日付は大学の入学式当日だった、英文で綴られた内容は自分が入学した学科の学問への情熱だった。
けれど周太の父は警察官になってしまった、それも彼の学歴からは不自然なノンキャリアとして。
彼の大学4年間に何が起きてしまったのか?その謎はラテン語で綴られている部分でまだ解読が終わっていない。

あの家の主3人が遺した想いの軌跡は、どこにあるのだろう?
そして仏間で見た過去帳と墓碑が示してくれた、主たち3人の死の年齢と想いは?
あの家には謎と秘密、そしてどこか哀しみが充ちている。その哀しみの正体を知りたい。
けれどそれ以上にあの家には、穏かで端正な温もりが清々しい、そして優しい。
どちらの想いも、哀しみも優しさも自分が受け留めて背負いたい。
そして周太を心から安らがせ自由に生きさせて、きれいな幸せな笑顔を見せてほしい。

この3ヶ月半は密度が高い、それだけ多くと自分は向き合って、そして生きている。
どれもが困難だとしても全て自分が望んで背負ったものばかり。
そしてこんな生き方は悪くない、きっと自分らしくていい。きれいに笑って英二は答えた。

「俺はね、国村?全部が楽しいだけだよ、それに周太の為だしね…あ、電話っていつ繋がるかな…」

いつもは周太とはタイミングが良くて、電話も1コール鳴るかどうかで出てくれる。
けれど今日の雪崩の後からは、圏外だったり公衆電話でかけても留守電だったりする。
またつい考え込んでしまう英二の額を、国村は白い指で小突いて笑い飛ばした。

「あーあ、なに急にへこんでんだよ?明日は逢えるんだろ?ま、鑑識の件で遅れるだろうけどさ」
「うん、…無事に逢えるといいな、俺、いま周太にさ、ほんと逢いたい。抱きしめたいな、周太」
「おまえは、いつだって逢いたいだろ?ほんと色ボケた仕方ない男だね、あれ?」

話しながら国村が何かに気がついた顔になる。
なんだろう?俯きかけてあげた英二の頬を、国村の白い指がすっと撫でた。

「おまえ、頬に傷が出来ているじゃないか?」

言われてふれてみると、かすかな裂傷の感触がふれる。
これなら細い傷だろう、そういえば国村を掘り出した時に頬を拭ったグローブに血がついていた。
たぶん雪崩に跳んだ氷の破片で切った、想ったままを英二は答えた。

「ああ、雪崩で飛んできた氷の破片で切ったみたいだな」
「ふうん、ちゃんと治せよ?まあ、まず大丈夫だろうけどさ。きれいな顔に傷なんか残すんじゃないよ?」
「そっか?でも、俺は男だしさ、別に大丈夫だよ」
「なに言ってんのさ?男も女もね、美人は大事な資源だよ。ちゃんと保全しろよな、」

他愛なく遠慮もない会話に湯の時間を過ごすのが楽しい。
こういう友達は良いな、楽しくて英二は笑っていた。
ふやける前に湯を出て青梅警察署へ戻ると、駐車場に着いたのは15:50だった。

「どうせすぐ雪山行くんだよね?着替えなくてもさ、別に良いよな」
「いや、公務だろ?救助隊服に着替えた方が良いと思うよ。でも先に先生に挨拶していこう、」

話しながら青梅署のロビーを通って廊下を歩いていく。
すぐ診察室に着いてノックすると国村は扉を開けた。

「先生、遅くなってすみませんでした。うん?あんた、誰?」

国村のセリフが怪訝そうな声になっている。
誰か来客だろうか、後から診察室へ英二も入って室内を見た。

スーツ姿の小柄な男がコーヒーを淹れている。
その横顔がゆっくり振向いて、英二の目を真直ぐに見つめて微笑んだ。

「お帰りなさい、英二…」

大好きな黒目がちの瞳。
昨夜も一昨夜も夢で逢って、そして雪崩の爆風の中で祈りと一緒に想った瞳。

「…周太!」

登山ザックを背負ったままで英二は一歩、大きく診察室へと踏み込んだ。

「…っ、えいじ、だめっ、」

精一杯の力で押し退けられながらも、英二は小柄なスーツ姿を抱きこんだ。
あの雪崩の爆風の中で幾度この瞳を想ったろう、どうしても英二は今すぐに抱きしめたかった。
長く強い腕に抱きこめられながらも周太は英二を説得しようとしてくる。

「えいじ、ここではだめだ、けいさつかんだろ?ね、いうこと聴いて?」
「なんで、周太?俺、ほんとに周太に逢いたかったのに。ね、周太?冷たいこと言わないでよ」
「…だって…せんせいもくにむらさんもみてるよ?…ね、お願い、言うこと聴いて?」

言われて英二は思い出した、そういえばここは青梅署警察医の診察室だった。
周太を見つけた英二は周りの事を全部すっかり忘れてしまっていた。
そんなふうに我に返りかけた英二に、周太は躾のように言い聞かせてくれる。

「ね、英二?…ここは、吉村先生の大切な診察室だよ?だから、だめだ」
「…あ、そうだったな、うん。解ったよ、周太」
「ん。ありがとう、英二?…聴いてくれて、うれしいよ」
「うん、俺、周太のお願いは聴くよ?」

素直に頷きながら周りを見回すと、デスクの椅子に座った吉村医師が「仕方ないですね?」と穏やかに見守っている。
入口の前では国村が「ふうん?」と悪戯っ子に底抜けに明るい目を笑ませていた。
そんな国村は徐にサイドテーブルの前に立つと周太の淹れたコーヒーを勝手にとって啜りこんだ。
ひとくち啜りこんで機嫌よく細い目を笑ませると国村は周太に笑いかけた。

「湯原くん、前髪で雰囲気ずいぶん変わるんだね?
 ちょっと一瞬解らなかったよ。…うん、やっぱり湯原くんのコーヒーは旨いな。はい、先生どうぞ」

「ありがとう、国村くん。うん、美味しいです。湯原くん、ありがとう」

吉村医師にもマグカップを渡し、背負っていた登山ザックをおろすと国村は椅子に座ってコーヒーを飲み始めた。
そして温かな芳ばしい湯気の翳から国村は愉しげに笑って言った。

「ほら。おふたりさん、続けていいよ?
 旨いコーヒー飲みながらね、しっかり堪能させてもらうからさ。なかなか眼福だな、ねえ?」

からり笑った国村を見て、つい英二も笑ってしまった。
その隙に英二は腕を押し退けられて、するりと周太は抜け出してしまった。
抜け出すとそのまま周太は2つのマグカップにコーヒーを淹れ始めた。ゆっくりと湯を注いでいく首筋は真赤になっている。
また自分はやりすぎたな、ちょっと反省しながら英二は自分も登山ザックをおろした。

「先生、ご挨拶もせずに申し訳ありませんでした。遅くなってすみません、」
「いや、いいんだ。無事に帰ってきてくれて良かった、遭難救助お疲れさまでした」

すこし笑いをこらえながら吉村医師は労ってくれる。
そこへ周太がマグカップを持ってきてくれた。

「…はい、どうぞ?」
「ありがとう、周太」

周太がコーヒーを淹れてくれた、うれしくて英二は微笑んで周太を見た。
そうして見つめて英二は、おや?と気がついた。

「ね、周太?どうしてスーツ姿なんだ、前髪もあげているし?」

この姿は久しぶりに英二は見た。
活動服姿で前髪をあげた姿は11月の射撃大会とクリスマスの朝に見ている。
けれどスーツ姿では卒業式の日から一度も見ていなかった。
どうして、この姿でここにいるんだろう?

そこまで考えて英二は今日の周太が当番勤務だったことを思い出した。
当番勤務は15時には出勤しなくてはいけない、そして今は16時過ぎている。
自分が心配をかけたから無理に休ませたのだろうか?
そうだとしたら申し訳ない、そしてスーツ姿が不思議で見つめていると周太が教えてくれた。

「公務の出張で来させて頂いてるんだ、だからスーツなんだよ?だからね、…英二?俺は今は警察官として勤務中なんだ」

すこしだけ気恥ずかしげだけれど、明確な話し方が「今は警察官です」と言っている。
スーツを着て前髪をあげた周太はいつもより大人びて、これも悪くないなと英二は微笑んだ。

「出張って周太、何の用件?当番勤務はどうしたんだ、」
「当番勤務よりこちらの出張が優先だって言われて。用件は、ね、吉村先生?」

言いながら周太は吉村医師を見て微笑んだ。
周太に軽く頷くと吉村医師は穏やかに笑って国村と英二に教えてくれた。

「私がね、湯原くんをお呼びしたんです。
今日明日の弾道調査の射手2名のうち、1名は国村くんです。
けれどもう1名が青梅署には該当者がいなくて。なので私が後藤さんと相談して新宿署に依頼を出しました」

公務の出張なら周太は堂々と新宿署の業務や訓練をすべてキャンセルできる。
きっと英二に連絡がつかなくて周太は吉村医師に連絡したのだろう。
そのことから吉村医師が後藤と相談して周太を呼んでくれた。また吉村に甘えさせて貰った、英二は微笑んで丁寧に礼をした。

「先生、ありがとうございます」
「いいえ、私の方がお願いをしたのです。
 今回はデータ照合の為に最低でも2名必要ですから。
 宮田くんも国村くんも富士の訓練から戻ったばかりですが、よろしくお願いします。」

笑って頭を下げてくれる吉村医師に国村も頭を下げた。
そして底抜けに明るい目で愉快気に笑って口を開いた。

「はい、先生。俺は大丈夫です。
 湯原くん?警視庁の射撃大会前にさ、お互いの狙撃を見ることになっちゃうな。ま、よろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

きちんと頭を下げる周太を見て国村が首を傾げた。
公務中だからだろう、周太は敬語を遣い折り目正しくなっている、生真面目な周太らしいなと英二は微笑んだ。
そんな周太に国村は首傾げて、すっと目を細めて笑った。

「ふうん?いつもと違うね、湯原くん。これが警察官モードなのかな?でも、なんかアレだな、」
「…あれ?」

つりこまれるように思わず周太が復唱した。
復唱に誘われるように国村の唇の端が上がり、底抜けに明るい目が愉快に笑った。

「可愛い子がストイックなのってさ、そそられるんだよね?
 しかも可愛い子が拳銃だなんてさ、なんかエロいな。イイね、狙撃はもっとストイックになるんだろ?楽しみだよ、ねえ?」

ご機嫌に笑うと国村はマグカップを片づけて「じゃ、着替えてくるね」と行ってしまった。
マグカップを抱えたままの周太を見ると、すっかり赤くなっている。
こんな初々しい含羞も英二は大好きだった。
でもきっと周太本人は途惑って困っているだろう、英二はマグカップを下げながら吉村医師に声を掛けた。

「じゃあ先生、俺たちも着替えて用意してきますね。こちらに伺えばよろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします。宮田くんは鑑識ファイルの準備をお願いできますか?」
「解りました、すぐ仕度してきます。ほら、周太?」

マグカップを洗い終わると周太の腕をとって立たせた。
立ち上がる周太の髪からふっと、おだやかで潔い香が昇って心がそっとふれられる。
ほんとうに今この目の前に周太がいる、それが不思議でそして幸せだった。

「周太?登山服を持ってきたんだろ?俺の部屋で着替えて来よう」
「ん、…あ、はい」

ぼんやりとした周太が心配になってしまう、急な出張で新宿から来てくれたから疲れたのだろうか。
英二は自分の登山ザックを背負うと周太の荷物を持ってやった。
ロビーを抜けて独身寮へと歩いていきながら、英二は周太に訊いた。

「周太、今夜の宿はどうしたの?」
「ん、前も泊まったホテル。でもチェックインはまだ。急いでこっちに来たから」

いつもより幾分几帳面な話し方になっている、3ヶ月半前までの警察学校に過ごしたころは聴きなれていた。
けれどこの3ヶ月半で周太は素のままで英二と過ごすようになって、独特の緩やかなトーンで話してくれる。
懐かしいなと微笑んで英二は自室の扉を開けた。

「どうぞ、周太。散らかっているけど、ごめんね」
「おじゃまします、」

一緒に部屋へ入って扉を閉めて、英二は荷物をおろした。
そして体を起こしたところに、とん、と周太が抱きついた。

「…英二!」

腕を伸ばして英二の首に抱きついてくれる。
おだやかで爽やかな髪の香が頬撫でて、温かな鼓動がしがみついてくる。
そして見あげてくれる黒目がちの瞳から涙がこぼれ落ちた。

「…っ、英二…よかった…っ、…えいじ、」

呼んでくれる名前に涙がとけていく、その声に自分がどれだけ想われているのか伝えられる。
自分よりちいさな掌がそっと頬にふれて、また涙がこぼれ落ちていく。

「…えいじ、怪我…でも、ぶじだった…えいじ、…っ」

細くひかれた氷に裂かれた頬の傷をそっと温もりが撫でてくれる。
いま目の前で自分を見つめて温かい涙をこぼして、本当に周太がいてくれる。
この数時間前、自分は雪と氷と風の中に立って、唯この人への想いの為に耐えていた。
いま想うひとが目の前に立っている、長い腕で英二は周太を抱きしめた。

「ごめん、周太…」

抱きしめて長い指で頬を包んで、そっとキスをする。
唯ひとつ帰りたい隣をいま抱きしめている、この愛するひとの隣に自分は帰ってきたかった。
この想いの為に実の母にも捨てられて、それでも自分は周太のことしか思えなかった。
冬富士の白魔に囚われかけた瞬間すらも、自分が抱いたのは周太に逢いたい想いだけだった。
生きて逢いたい想いだけが国村も救助者も救って、山ヤとして山岳レスキューとしての誇りも守れた。
自分はこの想いの為に帰ってきた、黒目がちの瞳を覗きこんで英二は微笑んだ。

「ごめん、周太。いっぱい心配させたね、ごめんね周太」
「英二、…っ、でんわも、繋がらなくて…それで、吉村先生に…泣いて…それで、…呼んでくれて、っ」

涙と一緒に言葉があふれ出す、堪えたものがいっぺんに零れ落ちていく。
きっと周太は診察室では涙を我慢してくれていた。
自分を微笑んで迎えようと「お帰りなさい」を笑って言いたくて。

「周太、」

きれいに笑って英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
なみだの紗がおりた瞳のはしにそっと口づけて、あわい潮を英二はふくんでいく。
この潮は唯ひとり愛する隣の想い、ここだけが帰りたい居場所。
だからお願いだ、どうか笑って迎えてほしいよ?真直ぐ瞳を見つめて英二はきれいに笑った。

「ただいま、周太」

黒目がちの瞳がひとつ瞬いて、ゆっくり微笑んでくれる。
そして周太の唇がほころんだ。

「おかえりなさい、英二」

見つめる想いの真ん中で、きれいな笑顔がひとつ、咲いた。



(to be continued)

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