※後半1/5R18(露骨な表現はありませんが念のため)
想いも記憶も抱きしめて、さらって
第31話 春隣act.5―side story「陽はまた昇る」
抽斗の鍵が開かれた、周太の父の遺品「合鍵」で。
そっと英二は息をのんで、それから緩く力を入れて静かに抽斗を開いた。
乾いた軋み音と一緒にすこしずつ抽斗が動いていく、ふるい木の香と古い紙の香がどこか懐かしい。
そして開かれた抽斗を見つめて英二は、ちいさくつぶやいた。
「…日記帳?」
抽斗の中には4冊の分厚い日記帳が収められている。
どれも紺色の布張りがしっかりとした表装、ハードカバーのような特徴的で立派な作り。
そっと1冊を取出すと英二は壊さないようにページを開いた。
繰ったページに綴られる文字を見た英二の、切長い目が少し大きくなって吐息が零れこんだ。
― ラテン語、
繰っていくどのページにもラテン語で文章が綴られている。
冒頭に記される日付だけはアラビア数字で読める、けれど本文はほとんど読めない。
このラテン語の筆跡は見覚えがある、そしてこれだけ流暢にラテン語で日記を綴れるのは?
日記帳を持ったまま立ち上がると英二は書斎机の写真を見つめた。
「…お父さん、あなたの日記帳ですよね?」
このタイプの日記帳はきっと珍しい、おそらく限られた場所でしか売られていない。
そう思って英二は日記帳の一番後ろを見て、やっぱりと思った。
一番後ろにはこの日記帳のメーカー名が記されている、それは海外の文房具メーカーだった。
これを売っている店はどこだろう?そう考えてすぐにある場所がふっと思い浮かんだ。
― 大学の購買
英二は私立大学に通っていた、そこには海外の文房具も何点か置かれていた記憶がある。
そんな学生には手の出ない良品たちは教員達向けの商品として売られていた。
きっと名の通る大学ならばどこでも、そういうコーナーも設けられているだろう。
そして周太の父は相当の大学を卒業しただろう。英二は他の日記帳も取出し机の上に置くと1冊ずつ開いていった。
― ラテン語をこれだけ学べる大学は、数が少ない
周太の父は英文学科に学び、ラテン語も得意だったと周太は言っていた。
そして日記帳はどれも流麗な筆跡でラテン語が綴られている。
こんなふうに日記を書けるほどラテン語が流暢なのは、きっと普通のレベルではないだろう。
それだけ学べるほどの環境が整った大学に周太の父は在籍していた。
おそらく時折に交るローマ字綴りの大学名が周太の父の母校なのだろう。
そんな一文や断片的な単語に、なぜ?と疑問が起き上がってしまう。
なぜこんなにも博学だった男が警察官になったのだろう?きっと警察官以外の道があっただろう、なのになぜ?
しかもなぜノンキャリアで任官してしまったのか?
もし警察官になりたいならキャリアを目指す方が妥当な学歴、なのになぜだろう?
そんな疑問を抱きながら英二は日記帳の年代を遡っていった。
日記帳は13年前の4月の日付が最新だった、きっと殉職する前日の日付なのだろう。
それ以前までの毎日を周太の父は几帳面に綴っている、大体1冊が5年分くらいのペースになっていた。
そして一番下に収められていた日記帳の最初のページを開くと、ある日付と英文の綴りが目に映り込んだ。
「…やっぱり、」
つぶやいて英二は予想通りの日付と、使用言語と文面に小さくため息を吐いた。
日付は1978年4月、国立大学入学式の当日の日付だった。
周太の父親の大学入学式の日付なのだろう、この日付こそが4冊の日記帳20年間の一番最初の日付になる。
そして流麗な英文で綴られた冒頭の一文に英二は心が軋んだ、その文面は明るい希望に満ちて、だからこそ英二は哀しかった。
I will remember this day always. I'm hopeful of success.Be ambitious.Never give up,always be hopeful.
“決して今日を忘れない。成功を信じている。志を持て、希望を持ち続け、決してあきらめるな”
この最初の一文を書いた想いには、明るい喜びと自分の進むべき道への意志と誇りにあふれている。
そんな想いが今の英二には痛いほどわかる、男に生まれたのなら道を見つけて立つことに憧れないはずがない。
そしてその道の最初の一歩をしるせた時は、どれだけ喜びと幸福感が温かく祝福された想いか。
その全てを自分は知っている、自分も今まさに最初の一歩を記している時だから。
― きっと本当に、この道に全てを懸けて、生きる意味も誇りも見つめていた…そうですよね?
英文のページを繰っていくと思った通り、途中からラテン語と英語を交えた文章にとなっていく。
そして少しずつ日記の文章は英文からラテン語へと変わって、大学2年生の終わりにはラテン語の文章へとなった。
このころに周太の父はもう、ラテン語もマスターしたうえで英文学へと向き合い始めたのだろう。
そんな様子からも周太の父が懸けていた想いが伝わってくる。そっとため息を吐いて英二は写真の笑顔を見つめた。
「…どうして、この道を進めなかったのか…俺が、教えてもらっても良いですよね?」
英二はそっと合鍵を握りしめた。この合鍵は周太の父の遺品で今は英二の合鍵として握っている。
だからきっと?そう自然と想えてしまう ― この合鍵を自分が持ったのは、きっと周太の父の想いを自分が見つめるため。
だからこそ今日この抽斗に自分は気づかせてもらえた、そんな気がしてならない。
すこし写真に微笑みかけると英二は抽斗を閉めて鍵をかけた。
そして紺色の日記帳4冊を大切に携えるとマグカップを持って、扉を開いて書斎を後にした。
― なぜ?どうして…大学入学の春から警察学校に入る、4年の間に何があったのだろう?
考えを巡らしながら周太の部屋に入ると、まだ周太は来ていない。
ほっと息を吐くと英二は4冊の日記帳を自分の鞄に大切にしまった。
この日記帳はまだ周太にも周太の母にも知らせたくない。
― こんな想いは…今は、まだ自分だけで良い。
さっき読んだばかりの英文綴りだった冒頭の3ヶ月分、それだけでも英二の心は軋んで周太の父の想いが哀しい。
きっとあの冒頭だけでは周太の父の、その後の人生を知っている人間は誰もが辛い想いを抱えこむことになる。
あの日記帳は全てのページを読み込んでから、どうするか考えたい。
考えながら英二は姉へと短いメールを作ると送信を押した、たぶん今日中には返信をくれるだろう。
携帯を閉じるとマグカップを持って、梯子階段を上がると英二は静かにロッキングチェアーに腰かけた。
見あげる天窓からふる陽が温かい。青い空と陽射しの色を眺めながら、ゆっくりココアを啜りこんだ。
冷めかけているけれど温かな甘さが優しい、この甘さを愛していた紺色の日記帳の主を想って英二は瞑目した。
―自分の道を捨てること…俺なら、耐えられるだろうか?
きっと難しくて辛い、きっと心が欠けてしまう。
きっと自分なら周太の為だったら喜んで捨てるだろう、結局自分は周太がいちばんで周太がいない道は欲しくないから。
けれどそれ以外の理由でなんて、きっと絶対に自分の道を捨てることなんか出来やしない。
自分は山岳レスキューとして生きることに自分の道と誇りを見つめている、そのために分籍という辛い選択も惜しめなかった。
周太の父も同じように、大学入学式の春から自分の道を見つめ始めたことが日記帳に記されている。
けれど周太の父の選択の結果は「警察官」になってしまった。
どうして、なぜ、周太の父は警察官になったのだろう?― きっと答えは未読のラテン語で綴られた箇所に隠されている。
おそらく辛い答えなのだろう、だって幸せなあの冒頭の文通りの道を周太の父は生きていないから。
それを見つめることは哀しい辛い想いをする、もしかしたら警察官である自分にも疑問を持つかもしれない。
けれど。英二は瞑目する目の底に映る周太の父の笑顔に、そっと話しかけた。
― それでも俺、あなたを見つめたいです。だって俺、あなたを尊敬している
いつも笑顔でいた周太の父。
大学入学の春には考えてもいない警察官となった彼は、おそらく最も苦しい任務に立たされていた。
せめてもしキャリアで任官したのなら結末は違うはずだった、けれど現実は「殉職」という哀しい結末になった。
それでも彼は最後の瞬間をすら微笑んで、復讐に捕われかけた友人も自分を殺害した犯人すらも温かい想いに救ってしまった。
そうして遺していく息子へと温かな想いを、形見のように犯人の心と想いに遺していった。
辛い運命に追い込まれても、いつも笑顔だった男。
いつも温かな想いに駆け出して誰かを救って、それでも自分は孤独を抱いたまま斃れてしまった男。
そして遺した妻からずっと想い続けられ愛し続けられて、いつも花を供えられ微笑まれている男。
そんな男の笑顔の残像に微笑んで、英二はそっとつぶやいた。
「…俺にね、全部を受け留めさせてください。そして俺に、守らせてください」
そっと微笑んで英二は瞑目から静かに瞠らいて、ココアの残りを啜りこんだ。
ゆっくり立ち上がると英二は、飲み終わったマグカップをサイドテーブルに置いて梯子階段を降りた。
そして押入れのマットレスを出すとまた登って、天窓の陽だまりに敷いて片胡坐に座りこんだ。
温かにふる陽射しが気持ち良くて、目を細めながら天窓を流れる雲をぼんやりと見ていた。
― 岩崎さんと国村、そろそろ山かな?
今頃は奥多摩の駐在所では皆、午後の巡回へと出るころだろう。
この1月を迎えてから遭難はまだ発生していない、降雪で一般ハイカーが敬遠したからかもしれない。
今日も無事で何も起きないといいな、そんな思いめぐらす自分にちょっと英二は微笑んだ。
こんな安らかな小部屋で空を見上げながら、遠くの空の自分の職場について思いめぐらしている。
こんなにも仕事に熱心な自分がなんだか可笑しくて、そして誇らしい。
もうすっかり自分は山ヤで山岳救助隊員になっている。
そういう感覚がうれしい、ふと思いながら見た掌には固くなっている部分が出来ていた。
毎日のザイル下降やルートクライミングで出来たものだろう、もう掌から自分は変わっている。
こういう掌になっていけるのはいいな、ちょっと微笑んだとき携帯が振動して英二は画面を開いた。
開いた画面には姉からのメールが入っている、さっき英二から送ったメールへの返信だった。
やはり姉は頼りになる、ありがたいなと微笑んで御礼のメールを簡単に返信した。
そしてまた天窓を見あげて目を細めると、ぼんやりと英二は考えごとの想いへとしずみこんだ。
紺色の日記帳、紺青色の壊された本、書斎机の無い書斎
あるべき英文原書とイタリア原書たちの行方、遺された仏文学の蔵書たち
この家の主たち3人がそれぞれ遺して行った想いの軌跡はどこにあるのだろう?
「…っん、?」
ふっと目を開いて英二は、一瞬どこで自分がどうしているか考え込んだ。
さっき座っていたはずだけれど、どうやら今は横になって寝転んでいる。
いつの間にか眠り込んで、座っていた体勢から横になってしまったのだろう。まだ陽はいくぶん明るい。
16時くらいだろうか?左腕のクライマーウォッチを見ようとして、ブランケットの存在に気がついた。
いつの間にか眠り込んだ自分にブランケットをかけてくれてある。
「…周太?」
きっと周太がかけてくれた、うれしくて英二はブランケットを抱きしめた。
こんなふうに眠っているうちに、そっと温もりでくるんでくれること。本当に幸せだと想える。
そんな想いで見た時計はやはり16時だった、夕方にさしかかる直前の明るい陽射しに英二は体を起こした。
このブランケットをかけてくれた人は、今どこにいるのだろう?
しずかに梯子階段を降りると、想った通りに小柄な姿を見つけて英二は笑いかけた。
「周太、ブランケットありがとう」
デスクの前に座っている周太が、ゆっくり振向いてくれる。
その前には冬と春の花々が咲いて、おだやかな香が英二の頬をそっと撫でた。
振向いて微笑んだ周太は持っていた鋏を置いて、立ち上がってくれた。
「ん、…よく眠っているみたいだったから…気分どう?」
「うん、すっきりしてるよ?周太、花を活けていたんだ」
「ん。たくさんあるから…いくつかに分けて活けてた」
デスクの上には大きめの花瓶と小さな花瓶が置かれている。
それぞれに淡い赤やクリームカラー、白に深紅と花々が活けられていた。
どの花も英二には見覚えがある、大切に活けてくれている様子がうれしい。幸せに笑って英二は周太を抱きしめた。
「大切にしてくれるんだね、周太?俺からの花束、喜んでくれたんだ」
「ん、…やっぱり…そのなんていうかうれしいし…あ、お腹空いてる?」
やわらかな髪から花々が香って英二は急に切なくなった。
このまま抱きしめてしまいたいな、そんな想いに抱きしめている腕が動いて小柄な体を抱き上げた。
そう抱き上げられて周太はすこし驚いて、英二の顔を覗きこむと首傾げるように訊いてくれる。
「英二?…あの、俺、自分で歩いて階段、降りるよ?…あ、お米も炊いた方が良いよね?」
そんなつもりで抱き上げたんじゃないのにな。
そう黒目がちの瞳を見かえして、けれどなんだか微笑ましくて英二は笑ってしまった。
こうして見つめる自分の婚約者は清楚で初々しい艶が色っぽい、けれど心は10歳のままでいる。
だからこんなふうに気づいてくれないし、そしてすぐ恥ずかしがって赤くなってしまう。
そんなとこ全部やっぱり好きだな、そんな想いに微笑んで額に額をつけると英二は答えた。
「うん、米もあると嬉しいな。ね、周太。このまま台所まで行こう?周太をね、抱っこしていたいよ」
「あ、…ん、炊くね…あの、だっこそんなにすきなのえいじ?」
「好きだよ?だって周太とくっついていられるだろ。周太とね、少しでも俺、近づきたいんだ」
「…ん、あの…そう、…」
周太の首筋も頬も赤く染まっていく、そんな様子も可愛くて英二はそのまま廊下に出た。
磨きこまれたフローリングに冬の陽が輝いている、落ち着いたダークブラウンの木材がこの家は多い。
落着いた木材の重厚な温かみと白に近いクリームカラーの壁紙、穏やかで静かな家の佇まい。
どこか不思議な温もりを家に感じながら英二は大切なひとを抱きかかえて、階段を降りて台所へ入った。
「これ、周太が全部を仕度したのか」
そっと周太を台所の床に立たせておろしながら、英二はテーブルの上に驚いた。
きれいな重箱を据えた周りを、祝いの席の配膳がきちんと囲んでいる。
塗の食器たちと真白な小皿には南天の緑が添えられて、そんな細やかな華やぎが正月らしい。
こんなふうに仕度できるなんてすごいな、素直に驚いて隣を見ると気恥ずかしげに周太が答えた。
「ん、…あの、簡単で申し訳ないんだけど…ごめんね、英二?」
「周太、簡単じゃないよ?すごいなって俺、驚いているんだけど。だってね周太、今日、全部を仕度したんだろ?」
「ほんとうは3日くらいかけてね、お節ってするんだ…
でも今日だけしか時間ないから、買ってきたのもあるんだ…黒豆とかちょっと煮れなくて…ごめんね?」
周太は10歳の少年のままでいる、けれど黒豆を煮れなかったことを残念がるほど熟練の台所の主もある。
なにより23歳でお節料理をきちんと作るなんて、いまどき女性にだって少ないだろう。
ほんとうにすごいのにな?そう思いながら英二は黒目がちの瞳に笑いかけた。
「ほんとうにね、周太?俺には十分すぎるくらいだよ。俺、いますごく幸せだよ?」
きれいに笑いかけて英二は周太にキスをして、そっと抱きしめた。
抱きしめる想いが幸せでひどく贅沢な気分がして、なんだか自分はずいぶんと幸運だなと思えてしまう。
こんな婚約者が隣にいてくれる、幸せで微笑んで英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
そう見つめた瞳も微笑んでくれると、うれしそうに恥ずかしげに周太が言ってくれた。
「ん、…喜んでくれて、うれしいな…口に合えばいいんだけど…あ、お米炊くね」
「ありがとう、周太。あ、なんか俺、腹減ってきたな?午前中に訓練全部やったからかな」
「すこし早いけど、食べ始める?…ごはんは30分くらいかかるけど、…お雑煮とか食べてるうちにね、炊けるよ?」
話しながら周太は米を炊く仕度を進めてくれる。
そうして手際よく米をセットすると、雑煮の支度を始めてくれた。
本当に手際よくて感心してしまうな。おとなしく椅子に座って眺めながら英二は大好きなエプロン姿に微笑んだ。
「はい、英二。お待ちどうさま…熱いから、気をつけて?」
熱い雑煮の椀を英二の前に置いてくれる。立ち昇る湯気からは、きちんと出汁をとった吸い物の香が温かい。
椀を覗きこむと醤油がふわっと芳ばしい、きれいな出汁の底には焼いていない丸餅に蕪が添えられていた。
シンプルな椀を見ながら英二は実家との違いが面白くて訊いてみた。
「ね、周太?この雑煮はさ、湯原の家に伝わるもの?」
「ん、…そう。でもね、父の記憶から母が再現したから…本当にあっているかは解らないみたい」
「ふうん、丸餅なんだ。丸餅は西日本に多いよな、周太?」
「ん。なんかね、…山口県の方から、曾祖父が移ってきたとか…言っていたかな」
そんな話をしながら向かい合って熱い椀に箸をつけた。
上品な出汁の香が良い、まろやかで旨いなと微笑んで英二は見つめてくれる人を褒めた。
「旨いよ、周太。これ何の出汁だろ?」
「ん、いりこ出汁なんだ…それと醤油でね、味付けするんだ…口に合うなら、よかった」
ひとつずつ重箱をおろして広げながら、英二の笑顔に幸せそうに周太が微笑んでくれる。
ほんとうに可愛い笑顔だな、こんな笑顔がうれしいなと思いながら英二は重箱の中を見た。
毎年に見慣れた祝料理が、どこか温かな雰囲気と端正な美しさで重箱へと納められている。
きれいな料理に心から感心しながら英二は口を開いた。
「周太、ほんとうにすごいね。今日ひとりで作ったんだろ、周太?これだけ出来るひと、少ないんじゃないのかな」
「ん、…でもね、黒豆は買ったのだよ?…数の子も塩抜きの時間が無いから、味付きの買ったし…」
ちょっと残念そうに言いながら首傾げている。そんな様子も可愛くて見つめながら英二は重箱の料理に箸を運んだ。
一品ずつを口に入れるたび、黒目がちの瞳が気になるふうに見つめてくれる。
こんなに見てくれるの嬉しいな。そう微笑んで英二は想ったままに感想を述べた。
「旨いね、周太。どれもきちんと作ってある、周太は本当に料理上手いな。俺ね、周太が作ったものがさ、いちばん好きだ」
「よかった、…英二は、どれが一番お節では好き?」
「そうだな。筑前煮と、あと周太?これ旨いね、きれいだし」
「鶏肉の信太巻、だね…気に入ってくれたなら、よかった」
嬉しそうに笑ってくれる顔を見ながら一緒に迎えた年の祝膳を囲んでいる、ごく普通の幸せな新年の食卓だろう。
けれど自分にとっては本当に得難かった、送ったばかりの去年を想うほど得難さが心に痛くなる。
去年の春から夏は見つめているだけだった。けれど想いは諦められなくて傍にいる努力を探していた。
そして出会った山岳レスキュ―の道に、自分の生きる場所も周太を守る方法も見つめて信じて青梅署へ卒配を決めた。
それから秋に告げてしまった想いを周太と重ねて、それでもまだ一緒にいられる確信は持てなくて。
そして13年前の事件と周太が向き合った。あの日もし15分間遅れていたら、きっと周太と自分は遠く隔てられていた。
そしてきっと自分はもう壊れて、孤独の底でまた人形に戻ってしまったかもしれない。
そんな秋を越えて迎えた初雪の夜に、結んでくれた「絶対の約束」が愛しくて。
その約束の想いと繋がれていく心に立った自分の夢が、クライマーウォッチの交換を周太に望ませた。
だから自分は告げてしまった「それは婚約」そして今日この家に許しを乞いに訪れて、家と本人に了解をもらうことが出来た。
この想いに初めて気づいた瞬間に、ほんとうは自分は諦めていた。
だって巻き込みたくなかった、男同士で生涯を生きる約束は「普通の幸せ」を奪ってしまうから。
それでも自分は諦められなくて卒業式の夜に想いを告げた、あの瞬間から始まって今この時間がある。
今こんな時間が夢のようにすら想うほど幸せで、ささやかな喜びがくれる幸せが温かい。
「 周太。俺はね、いま、本当に幸せなんだ。ほんとだよ?」
「ん、…そんなふうにね、言われると…はずかしいけれど、うれしい、な」
「うれしいの?」
食事を終えて片づけながら、英二は笑いかけて黒目がちの瞳を覗きこんだ。
覗きこまれて困ったような赤い顔も可愛らしい、こんなとき英二はすこし不思議にも思ってしまう。
周太は同じ男で同じ23歳でいる、けれどこんなにも自分と違っていて10歳の子供の純粋さのままでいる。
どうして周太はこんなふうに可愛らしいままでいるのだろう?
けれど警察官の顔になれば凛々しくて有能な顔になってしまうことも知っている。
そんな一面をまた2月の警視庁拳銃射撃大会では見せてくれるのだろう。
でも自分としては、やっぱりこういう可愛い素顔の周太が好きだな。
片づけを終えてエプロンを外した周太を英二は、素早く掴まえて抱きかかえた。
「…っ、英二?どうしたの?」
驚いて黒目がちの瞳おおきくなる、この顔が可愛くて好きだ。
可愛らしい婚約者がうれしくて英二は抱きかかえたまま、額に額をつけて笑いかけた。
「うん、周太。だって掴まえないとね、周太は逃げちゃうだろ?だから抱っこしたくなるよ、俺」
「…逃がさないで、どうしたいの?」
困ったような顔で訊いてくれる周太に、すこし可笑しくて英二は微笑んだ。
どうしたいのかなんて本当はたくさんありすぎる、けれど訊きたいことを今は聴こう。
黒目がちの瞳を覗きこんで英二は訊いてみた。
「まだ、結婚前です、そんなのダメ。さっき周太そう言ったよな?ね、結婚したらさ、周太は一緒に風呂に入ってくれるの?」
抱きかかえた顔が真赤になっていく。
またやりすぎたかな?すこし心配で見つめた先で小さくため息がこぼれた。
それから周太の瞳が英二を見あげて、なんとか声を小さくても押し出してくれた。
「…いつもはきっとだめ…でもたまにならしかたないかなっておもう…だってそういうものなんでしょ」
「そういうもの?」
「…いまもうだめ、これいじょうは、ね?…お願い、英二。あんまり困らせないでよ?」
お願いなんて言われたら、ちょっと弱い。
抱えたまま英二は、リビングのソファに座ると周太を下して笑いかけた。
「困らせないよ、周太。俺さ、ちゃんと一人で風呂入ってくるな。そしたら周太の部屋に先、行っていてもいい?」
「ん、いいよ…あ、飲み物、なんか用意しておこうか?」
「うん?じゃあさ、さっき買ってきたやつ。あとで一緒に飲もうよ?」
そんな会話の後で英二はおとなしく一人で風呂を済ませた。
髪を拭きながら2階へ上がって周太の部屋を開けると、ちょうど周太が梯子階段を降りてくる所だった。
その右掌に2つの封筒を持っている、たぶんそうだろうと思いながら英二は笑いかけた。
「周太。美代さんの手紙、読んでいたんだ?返事も書けた?」
「ん、この間の手紙の返事とね…2月に遊びに来てね、て。…だからね、射撃大会の後の休暇にね、てね、返事書いた」
「そっか、じゃあ俺、また預かっていって渡せばいいかな?」
「ん…お願いしていいかな?…じゃあ俺、風呂済ませてくる、ね」
きれいな白い封筒を英二に渡すと、微笑んで周太は着替えを持って下へと降りていった。
預かった封筒を英二は手帳に挟むと鞄にしまって、すこし伸びをしてからデスクを眺めた。
木造りのデスクの上には英二が贈った花が、きれいに活けられてデスクライトに輝いている。
その花びらに長い指を伸ばすと、そっと壊さないように英二はふれて微笑んだ。
「…Yes,って言ってくれたよね、周太?」
俺は英二の子供を 産んであげられない
けれどね 温かい家庭は 二人きりだけれど でも温かい家庭は俺でも作ってあげられるかもしれない
そうやって俺『いつか』英二のためだけにね 生きたい そう決めているんだ だからその時が来たら湯原の姓を捨てたい
父の想いを全てを見つめ終わってね 俺が自分の人生を歩きはじめる時 その時には俺の人生をね 英二にあげたいんだ
そして一緒にいさせてほしい 英二だけの隣で居場所で帰ってくる場所にね 俺はなりたい
英二の求婚に周太はそう応えてくれた。
そして今日の夕食に周太はお節料理を作ってくれて、家庭の温かい新年の食卓を英二にくれた。
あんなふうに周太はもう、とっくに英二に「温かい家庭」を作ってくれている。
そんな時間がひどく幸せでうれしくて、失いたくなくて切なくて、愛しくてたまらない。
「…父の想いを全てを見つめ終わって」
周太も言っていた「周太の父の軌跡と想いを追うこと」そのために周太は危険へと立っていく。
こんどの春の初任総合の2か月が終わって、7月になれば本配属が決るだろう。
そのあとに、きっと周太は運命が動く。
「でもね、周太…俺が必ず守るよ?絶対だ」
自分こそが周太を守ろうと決めている。
周太が望むのなら自分は手を汚してもいい、そのために7月本配属と同時に自分は分籍をする。
父も母も姉も守りたい、だから分籍をして家族と断絶することで自分のリスクを及ぼさない。
そして周太を守る力を手に入れるために7月本配属後、自分は世界の高峰へ登る日々が始まっていく。
だから解っている、きっと今は平穏な時。
この平穏なうちに自分は能力も技術も身に付けなくてはいけない。
そして1日も早く最高のレスキューに近づいて、国村のアイザイレンパートナーに相応しい実力をつけたい。
けれどこの平穏な時にもう一つしたいことがある、周太と想いを重ねて幸せを積んで、周太の自信を作ってやりたい。
本配属になって危険に立った時でも、望んで周太が必ず自分を呼んで「援けて」と頼ってくれるように。
「ね、俺の婚約者さん?…ほんとにね、愛しているんだ。だから頼って甘えてよ?」
つぶやいて花へと微笑んで、廊下の気配に英二は振り返った。
そう振り向いた視線の先で扉が開くと、待っていた小柄な白いシャツ姿がトレイを持って微笑んだ。
「お待たせして、ごめんね?…花を見ていたの、英二?」
「うん、どの花がいちばん周太のイメージに合うかなって。はい、トレイ持つよ」
笑いかけて英二は周太のトレイを受けとると、ベッドサイドへと置いた。
置いたトレイの瓶を開くと2つのグラスに注いで1つを周太に渡してやる、そして並んでベッドに腰掛けて壁にもたれこんだ。
受けとったグラスに唇をつけて周太は、ひとくち飲んでほっと微笑んだ。
「ん、おいしい…花の、イメージを見ていたの?」
「うん、周太。どの花もきれいだけどさ、白いばらとか白い花が周太は似合うな。ね、周太はさ、どの花が好き?」
「…なんかはずかしくなるなんていえばいいの…でも白い花はすき…ね、英二?オレンジの味なんだね、これ、なんていうの?」
気恥ずかしげに考え込んでから周太は急にグラスを見て質問してくれた。
きっと恥ずかしくて話題を逸らしたかったのだろう、けれど質問の方がきっと照れさせる。
ちょっと楽しい予感に微笑んで英二は周太へと答えた。
「うん、ミモザって言うんだよ?オレンジジュースとスパークリングワインのカクテルなんだ」
「ミモザ?…木に咲く花の名前だね、かわいいな」
にっこり笑うと周太はグラスをそっと飲みほした。
そんな様子も可愛くて英二は自分もグラスを空けるとトレイに戻して、隣にならんで座る婚約者の瞳を覗きこんだ。
見つめられる黒目がちの瞳がすこし不思議そうに見かえしてくれる、その掌の空いたグラスを英二はそっととった。
そのままグラスをトレイに戻すとまた瞳を見つめて、きれいに笑って英二は周太に告げた。
「ミモザはね、周太。ヨーロッパでは結婚式で飲まれるカクテルなんだよ?」
結婚式、そんな言葉を聴いたとたんに黒目がちの瞳が大きくなる。
すこし大きくなる黒目がちの瞳、穏やかで繊細で10歳のまま純粋で美しい、英二を惹きつけて離さない瞳。
この瞳が大好きだ。想いの真中に見つめながら英二は、静かに周太の唇にキスをした。
「…周太、俺の、婚約者さん?…もう先にね、結婚式のお酒を飲んじゃったね?」
そっと瞳見つめて囁いて、唇に唇を重ねて白いシャツの肩を抱き寄せた。
オレンジの香と甘やかな温もり、深く重なっていく熱が愛しくて離せない。
ゆっくりと口づけを交していきながら抱きしめて、長い指の掌で白いシャツのボタンに手をかけていく。
ときおり重なる唇のはざまに吐息こぼしながら抱き寄せられて、白いシャツを絡めとられながら艶やかな素肌が晒されていく。
素肌にされる華奢で洗練された肢体を座ったまま抱きとめて、きれいに英二は笑いかけた。
「…きれいだね、周太。ね、今夜も『好きなだけ』させてくれるんだよね?」
きれいな肌をデスクライトのおだやかな光に晒されながら、英二の腕の中で途惑いがすこし俯いている。
でも躊躇わないでほしいな?そんな想いに俯いた顎を長い指で上向けさせると唇を重ねた。
重ねた温もり愛しくて、やわらかにふれる熱が理性を熔かせて際限なくさせる。
すわって抱きしめたままで英二は愛しい肌へと唇をよせて想いを刻みこんだ。
「周太、…愛している、」
「…っ、」
首筋へ、肩へ、鎖骨のくぼみ、胸元へ。
ゆるやかにキスを落としながら淡い赤の花が、きれいな艶めく肌へと次々に咲いていく。
すわったまま抱き寄せた腰、腕まわす背中が崩れそうになるのを腕で支えて英二は微笑んだ。
「ね、周太?…もう俺と婚約したよね?お願い、好きなだけ、させて…いいよね?」
やわらかな髪を英二の肩にもたせかけて、抱える腕に身をゆだねて周太が息をついた。
その吐息にオレンジの香がきれいで英二は唇を重ねた、こんな吐息すら愛しい。
そっと離れて見つめる黒目がちの瞳が、純粋なまま深く艶やかないろに見つめてくれる。
そして静かに周太の唇が開いた。
「…必ず、帰ってきてくれる?…富士山からも、毎日登る冬の山からも…俺の隣に、いつも?」
「うん、必ず帰るよ?…だってね、俺、こんなふうにね…周太のことずっと、抱きしめたいんだ」
そんな言葉と想いと一緒に英二は、抱きしめる腕の中のひとの肢体に長い指でふれた。
愛しくて欲しくて心ごと解いて熔かして、ずっと一緒にいたいと願ってしまう。
もうこんなに好きで愛している、どうかずっと自分の居場所でいてほしい。
求めて唇を重ねてふれそうな吐息かわして、そっと英二は微笑んだ。
「愛してる、周太…ね、俺のこともっと愛してよ?…そして俺の嫁さんになって、ね?」
きれいに笑いかけて、ねだってみせる。
笑いかけられて気恥ずかしそうに黒目がちの瞳が微笑んで、そして周太が答えてくれた。
「ん、…はい。…およめさんに、して?」
うれしい、きれいな笑顔が英二の顔に華やいだ。
気恥ずかしげな裸の肢体を抱きしめて、きれいな黒目がちの瞳を見つめて。
抱きしめた婚約者を白いシーツへとしずめながら、幸せそうに英二は微笑んだ。
「うん、嫁さんにする。周太?俺とね、世界一に幸せになろう?」
「…はい、」
きれいな笑顔が小さく答えた周太に咲いた。
うれしくて微笑んで周太に英二は笑いかけると、唇に唇を重ねた。
重ねた唇を深くしながら、ずっと体も心も解きあかして抱き寄せながら、想いを深く刻み込んだ。
ずっと唇で刻み続けている周太の右腕の赤い痣にも、想いのままに唇よせて刻み付ける。
愛している、幸せは君と一緒にしか、見つけられない
どうしてこんなふうに想いが強くなるのだろう?
どうしてこんなに惹かれて求めて愛してしまう?
けれど想いは穏やかな静謐が安らかで、愛しい想いが清らかで。
英二は結婚の約束と一緒に想いのひとを抱きしめて、幸せに微笑んで眠りに安らいだ。
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