ひとつの勇気、涙、それから努力の援け

第32話 高芳act.3―another,side story「陽はまた昇る」
目覚めると空気が冷たい、ひんやりとした朝に周太はベッドから身を起こした。
おりた床も冷たく感じられる、そっと窓を開けて見上げた空は星が見えない。
午前5時の新宿は1月の夜明けの遅さに静まり返っている。
「…曇っている、ね」
ため息のようにつぶやいて周太は窓を閉めると携帯を開いた。
Bookmarkした天気予報を呼び出して全国天気から関東地方、山梨県とエリアを狭めていく。
そして富士五湖地方の予報を見つめた周太の唇からため息がこぼれ落ちた。
「…雪、のち晴れ…なの?」
やっぱり雪が降っている、あの愛するひとのいる山に。
予想をしていたこと、それでも不安が迫り上げて周太の心がつきんと痛む。
ひとつ息を呼吸すると周太は天気図の画面を開いた、その図は昨夜のニュースで見た通りの配置図でいる。
『低気圧の中心が富士山の南を通過、風速次第で通過も速まる』この天気図の時に富士山は雪崩を誘発しやすい。
低気圧の中心が富士山の南を通過した直後に雪崩発生が多い、そんなことが富士山のHPにも書いてあった。
「…でも、9時には下山するって、電話でも言ってくれたから」
昨夜の電話で英二は言っていた「9時には下山する、昼には青梅署に戻っているかな?」
低気圧が富士山を通過する時刻は9時半以降と天気図からは見られる、9時半なら英二と国村はもう下山を終えているだろう。
あの2人のハイペースならそれくらいで下りは降りてしまう、いつも奥多摩の山を早朝に登って下るペースは速いから。
だから雪崩が起きる時刻にはもう富士山から降りている、だからきっと大丈夫。
「ん、…大丈夫、だよね」
そっと微笑んで携帯を閉じると周太はデスクライトを点けて座った。
今日は当番勤務で交番へは15時までに出勤する、その前に昼過ぎから術科センターの特練に行く。
だから午前中は時間がある、けれどまた眠る気持ちにもなれなくて周太は白革表紙の本を手にとった。
このあいだ読んだばかりのページを開いて、その章の題をちいさく口にした。
「Le dernier amour du prince Genghi」
源氏の君の最後の恋、翻訳するとそんな章名になる。
フランス文学の短編集『Nouvelles orientales』邦題は『東方綺譚」に納められた一篇の恋愛小説。
日本古典で有名な『源氏物語』の主人公、光源氏が最愛の妻である紫の上を失った、その後をフランスの女性が書いた物語。
年老いて視力も失いかけた光源氏は出家して山奥の草庵に籠ってしまう、そこへ妻の一人である花散里が尋ねていく。
その花散里は地味な雰囲気だけれど温かい人柄のやさしい女性だった、そんな彼女は憔悴した光源氏を放っておけなかった。
けれど光源氏は過去の華やかな自分を思い出させるすべてを否定したくて彼女も追い返される。
それでも彼女は諦めない、変装して訪れ、その2度目には盲目になった光源氏の心をとらえて共に起居することになる。
そんな彼女は献身的に光源氏に尽くしていく、そして光源氏の最後を彼女は看取る。
…けれど、源氏の想いは…
最後の部分にさしかかって周太はそっと本を閉じた。
この物語の最後の部分。それは臨終の光源氏と花散里の対話になっている。
身分を偽った花散里とふたり静かな生活に光源氏は穏やかな時を過ごした。
その幸せな穏やかな生活の涯、死に臨む光源氏は自分が愛した人たちの名前をあげていく。
その列挙された名前の中には花散里が変装した姿は2度とも挙げられた。
けれど、
「…けれど、『花散里』とは、呼んでもらえない…」
自分の名前を愛するひとに呼んでもらえないこと。それは本当に哀しいことだと思う。
最初から呼ばれていなければ、最初から無いものと思うから辛くはない。
けれど一度でも呼ばれて愛された記憶があるのなら?
― 周太、愛してる ずっと隣にいて?ね、周太
大好きな声、きれいな低い声。
あの声がもし自分の名前を呼んでくれなかったら?
そんなこと考えただけでも心がもう痛い、そしていま雪山にいる英二の無事を祈ってしまう。
英二が下山を始めるのは9時、そして昼には青梅署に戻るだろう。
そして明日の11時にはこの新宿へ来てくれる、そして一緒に昼食をとって時を過ごす。
そんな幸せな予定が明日には訪れるはず、けれど「必ず訪れる」そんな保証はいったいどこにあるというの?
人の運命なんて解らない、父の消えた13年前の春の夜に思い知らされたその現実。
けれど英二は『絶対の約束』を繋いで結んでくれた、そして自分に求婚と婚約の花束を贈ってくれた。
だからきっと無事に帰ってくる、予定通りに下山して青梅署に戻って今夜また電話をくれる。そして名前を呼んでくれる。
そんなふうに信じたい、けれど不安は迫り上げて苦しくなってしまう。
「…それでもね、信じている、…だって、愛している」
こぼれおちる想いと一緒に涙がこぼれて白革表紙にふりかかる。
この本に納められた花散里の想いは「無償の愛」だった、けれど光源氏は最後まで解らない。
そんな光源氏の態度に心が冷える、だって光源氏は英二と似ている人だから。
美しくて才能にあふれた男、けれど母の「無償の愛」に恵まれなかった寂しさから女性たちを渡り歩く。
そんなところが英二と似ている、そんな光源氏が結局は「無償の愛」を与えてくれた花散里を忘れたまま死んでしまった。
そして自分も英二に「無償の愛」を捧げてつくしたいと願っている、だから花散里と自分を重ねてしまった。
「…ね、英二?…最高峰でもね、俺のこと、想ってくれている?」
英二が「人間」で愛するのは自分だけ、それは信じてしまえる。いつも自分ばかり見つめてくれるから。
けれど英二が最も輝く場所はきっと「最高峰」最も高い山の世界に英二は刻々と魅せられていく。
そこに立って輝く英二の姿を自分も見つめたい、英二が望むまま誇らかな自由を支えたい、だから止めることはしない。
けれど最高峰に魅せられたまま帰ってこなかったら?そんな不安と恐怖も蹲ることが怖い。
そして自分も花散里のように忘れられてしまったら?
「…ううん、違う…英二はきっと、忘れない」
そっと微笑んで周太はクライマーウォッチを手にとった。
これは英二が大切にしていた腕時計だった、けれど周太の「おねだり」に喜んで贈ってくれた。
英二は山岳救助隊を志願すると自分の道を定めた、その意思に立って英二はクライマーウォッチを左手に嵌めた。
そうして英二は生きる意味と誇りを山ヤの警察官に見つめ努力を始めた。
そんな英二の大切な時間と記憶を刻んだこの時計を、英二は迷わず周太に贈ってくれた。
「ね、英二?最高峰の夢だって、俺に贈ってくれる…そういうこと、だよね?」
英二の夢が刻みこまれたクライマーウォッチ、そして婚約の花束のオーニソガラムMt.フジ。
この2つが周太に教えてくれる英二の想いは「あなたを愛していると最高峰から永遠に告げていく」
そしてこの花の言葉は「純粋」そんな日本の最高峰の名前を冠する純白の可愛らしい花は、もう1つの名前を持っている。
「…子宝草、…ね、英二?」
子供を育む子孫繁栄を願う寿ぎの言葉「子宝」その名前と、日本最高峰の名前を併せ持った花。
この花に英二は誇りと夢をよせてくれた、その想いの奥に隠されていた「子宝」という言葉に心が留められる。
男同士の自分たちなのに?どうしてなの英二、どんな想いと意味があるというの?
このもう1つの名前を知った昨夜からずっと、そんな想いと質問が頭を廻ってしまう。ほっとため息を周太は吐いた。
「ん、…考え込んでも、だめ。他のこと、楽しいことをね、」
ひとり言に言い聞かせて周太はデスクの花瓶に目を向けた。
ちいさな白磁の華奢な花瓶には一茎の白い花が咲いてくれている。
スノードロップ「雪の花」の名前を持つこの花は、実家の庭から摘んで新宿まで連れてきた。
雪を割って咲くこの可憐で清々しい花姿が周太は好きで、庭に咲く姿が愛しくて連れてきてしまった。
ここに活けて咲いてくれている、その姿を見るだけで、どこか寂しい新宿警察署での暮らしが慰められる。
「今朝もね、きれいだね…庭より居心地悪いかな、ごめんね…そして、ありがとう」
ちいさく花に微笑んで、周太は白革表紙の本を書架に戻してコンパクトな植物解説書を手にとった。
デスクの上でページを捲りながら目当ての項を探して行く、そして見つけて微笑んだ。
スノードロップ snowdrop
学名:Galanthus nivalis (Galanthus : ガランサス属 nivalis : 雪の時期の )
別名:ユキノハナ(雪の花)マツユキソウ(待雪草)ガランサス
ヒガンバナ科ガランサス属Galanthusスノードロップ属、マツユキソウ属の総称
「…彼岸花なんだ、」
彼岸花は別名・曼珠沙華ともいう真赤な花。あわい黄色や白、うす紅も最近ではある。
その花とは姿がだいぶ違う、すこし意外で驚きながら周太は続きを読んだ。
花言葉:恋の最初のまなざし、慰め、逆境のなかの希望、希望、楽しい予告、初恋のため息
人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」という意味に変わる
伝 説:エデンを追われたアダムとイヴに降る雪をスノードロップの花へと天使が変え、ふたりへの励ましとした
「…恋の最初のまなざし…」
こぼれた花言葉と一緒に周太の瞳から涙がこぼれた。
初めて出会った時の英二のまなざし、あの瞬間に自分はもう恋をした。
そして警察学校で隣に過ごす日々、きれいな笑顔でいつも佇んでくれていた。あの笑顔に自分はどれだけ慰められただろう。
そうして逆境の道に立つ自分を英二は掴んでくれた、微笑んで抱きとめ愛して幸せをくれている。
そんな英二は自分にとって唯ひとり愛する初恋のひと、そして幸せへの「希望」でいてくれる。
「ね、英二…英二みたいな花、雪の花…雪がね、英二は好きだね?」
― 冬はさ、雪山は俺、好きなんだ
昨夜の電話での英二の何気ない一言、けれど英二の本音の言葉。
雪を愛するひとは今きっと、最高峰の雪ふる富士山で暁の眠りに夢見ているのだろう。
今日の富士には雪がふる、その雪の美しさにきっと英二は見惚れるだろう。その英二の喜びを想うと愛おしい。
けれど雪ふる富士のもう一つの顔が周太の心を冷たく撫でる、吹雪の富士の名は「魔の山」そして雪は「白魔」となる。
そんな冷厳な富士の表情を想うと不安が冷たく心を痛ませる、けれどきっと英二は帰ってくる。
― 絶対に無事に帰るよ、周太。だって俺ね、周太に逢いたいよ?そして一緒に眠りたい、朝の周太を見たい
国村が繋いでくれた昨夜の英二の電話。
いつも英二は帰ると言ってくれる、その言葉通りに3ヶ月半をずっと隣に帰ってきてくれた。
そんな英二と自分は『絶対の約束』を結んでいる、だから帰ってきてくれる、そう信じている。
そのための勇気も1つ自分はもう抱いたのだから。そっと微笑んで周太は見つめるページを読んだ。
「…降る雪をスノードロップの花へと天使が変え、ふたりへの励ましとした…」
この伝説の通りになってほしい。
富士にふる雪が英二とその友人にとって励ましの花であってほしい、「魔の山」の白魔ではなく「希望」の花として。
この花の言葉の最後の1つは否定したい、はじめの6つの言葉だけを自分は信じていたい。
どうか富士にふる雪よ、お願いさせて?
あのひとの上にふる雪ならば、希望の花となってほしい。
あのひとに冬富士の冷厳が姿を現すときも、逆境のなかで希望となってふり注いで?
「…ね、英二?今日の吹雪もね、英二には夢をかなえる、希望になりますように」
きれいに微笑んで周太は、そっと本を閉じた。
朝食や洗濯を済ませると周太はダッフルコートを着て新宿署独身寮の外へ出た。
見上げる空が白い、冬の曇空はどこか切ない空気と雪の気配がある。この新宿にも雪が降るかもしれない。
そっと吐かれた溜息が白い靄になって空気にとけていく、周太は左手首のクライマーウォッチを見た。
文字盤のデジタル表示は8:35を示している。
…英二、まだ下山前だね?
いまごろ富士山の五合目で英二は雪の中に立っている。
きっと山小屋近くの斜面で国村と雪上訓練をしているだろう。
ふる雪の美しさにときおり目を留めて微笑んで、ときに真剣な眼差しにピッケルを握って雪に立っている。
…どうか無事に、英二
大切なひとへの想いと一緒に周太は歩き始めた。ちょうど着くころ公園の開門時間になるだろう。
今日は午後一の射撃訓練と当番勤務だから午前中は時間が取れた、そんなとき周太はいつも公園に行く。
いつもの道を歩いていくと芳ばしい香が頬を撫でてくる、その香りを送ってくる瀟洒な店の扉を周太は開いた。
いつものパン屋の棚には、きれいなパンがたくさん並んでいる。トングとトレイをとると周太は棚を眺めた。
「…いつもの、かな?…ん、オレンジの…」
ちいさく微笑んで周太はクロワッサンを2つとオレンジのデニッシュと、オレンジブレッドを選んだ。
いつも当番勤務の前にはここに来て夕食用のパンを買っていく、今日の様に時間があれば公園で食べる早めの昼用にも。
選んだパンを持ってレジに行くと顔なじみになった店員が微笑んでくれた。
「おはようございます、今朝は寒いですね?」
「おはようございます。寒いですね、雪かもしれないです」
「あ、降りそうですか?雪景色もいいですね。電車とか東京は止まりやすいから、ちょっと心配ですけど」
「はい、雪も、きれいですね?」
きれいに紙袋へとパンを入れてくれながら、気さくに彼女は話してくれる。
自分たちより幾分年上の雰囲気の女の人は、朗らかで楽しそうにいつも店にいる。
そして周太のことを覚えてくれていて、よくおまけしてくれる。
明るい良い人だなと見ていると、今日も紙袋へと1つ小さな焼菓子を入れてくれた。
「今朝はね、オレンジの焼菓子を新しく作ったんです。オレンジお好きでしょう?」
「あ、はい。…あの、いつもすみません」
いつもこうして何かしら、おまけをくれるから周太は恐縮して、来店も遠慮しようかなと思うときもある。
けれどこのパン屋は英二の記憶が薫る店だから、記憶だけでも英二に逢いたくて立ち寄りたくなってしまう。
あの卒業式の夜、初めて英二に抱かれて体ごと想いを交した。
あの翌日に最後になるかもしれない覚悟で離れて、そしてその翌朝に再会が出来た。
再会の朝に英二はこの店でクロワッサンを買った、それをいつものベンチで食べて微笑んでいた。
その後も何度か2人でこの店に来た、そして周太はいつもここへ来るようになった。
だから今日もここでクロワッサンを買いたかった。
「すみませんなんて、気にしないでください?こちらが勝手におまけしているんです」
「ありがとうございます、でも、俺、いつも来ているから…」
おまけは嬉しいなと思う、けれど、いつもで恐縮してしまうな?
そう思って店員を見ていると、彼女は優しく微笑んだ。
「大学生はね、お腹も空くでしょう?
いつも勉強の本を持って一生懸命だから、つい応援したくなっちゃうのよ?だから遠慮しないでくださいね」
言われて周太は自分の手元を見た。
今日は美代に教わって買った生物学のテキストと鑑識の学会誌をブックバンドに纏めて持っている。
周太は鞄を持たないときは本をこうして抱えている、それを見て店員は学生だと思ったのだろう。
でも自分は社会人なのに学生と思ってサービスしてくれるのは申し訳ない、周太は口を開いた。
「いえ、あの、大学生じゃないんです…」
「あら、ごめんなさい。高校生だったのね。持っている本が難しそうだから、大学生だと思っていたわ」
そう言って彼女は朗らかに笑うと「高校生なら尚、お腹空くね?」とまた1つ焼菓子を入れてくれた。
何だか申し訳なくて周太は、これ以上は自分の身分を訂正することが出来なかった。
たしかに私服の高校も近くにあるし、周太は朝9時前か昼時に買いに来ることが多い。
きっと彼女は通学前か昼休みに買いに来ていると思ってしまったのだろう。
…やっぱり自分は、子供っぽく見えるんだな?
幼い頃から「かわいい」と言われることは多かった。
いつも母にそっくりと言われるけれど、その母は可愛らしい雰囲気で今も50歳には見えない。
そんな母に似ている上に小柄な自分だから、年齢より若く見えるのは仕方がないのだろう。
それが嫌で警察学校に入る時は、堅く真面目に見えるよう床屋でばっさり髪を切って貰った。
でもその髪型は母から「無理に似合わない格好するなんて子供っぽいわよ?」と全否定されてしまった。
それでも「かわいい」と見えなければ何でもいいと思って気にしないでいた。
…でも、英二が前髪ある方が良い、って言ったから、ね
きれいな笑顔が隣から笑いかけて「前髪ある方が良いな?」と言ってくれた。
それが嬉しくて周太は英二と2人の時は前髪をおろすようになった、そして髪も前髪だけは以前の様に長めにした。
そんな周太に母は「やっぱりその方が似合って素敵よ?」と笑ってくれた。
今でも警察官として任務に就くときは前髪をあげている、長めの前髪をあげると思ったより大人っぽくなった。
けれどプライベートではこうして前髪をおろしている、似合う自然な姿でいる方が良いと素直に思えるから。
けれど高校生に間違われると、ちょっと申し訳ない気持ちになる。
でも2度も訂正をするのは何だか申し訳なくて気が引けて、周太は何も言えないまま会計を済ませた。
そうして温かなパンの紙袋を受け取ると、彼女は温かなやさしい笑顔で送り出してくれた。
「今日は雪にも気をつけてね、早く家に帰った方が良いわよ?行ってらっしゃい、気をつけてね」
歳の離れた弟を見守る、そんな優しい眼差し。
姉がいたら、こんな感じなのだろうか?兄弟がいない周太はすこし姉や兄という存在に憧れを思うときがある。
ふと英二の姉の笑顔を想いだしながら、周太は微笑んで挨拶をした。
「はい、行ってきます。ありがとうございます」
からんと鈴を鳴らして扉を開けると、通りが冷えこんでいる。
吐く息がなお白い、さっきより気温が下がったのだろうか。
公園へ歩いていきながら左手首を見ると8:52の表示だった、そろそろ英二は下山に向かうだろうか。
― 下山したらまたメールする、吹雪の富士山も綺麗だろうから
今朝7時に英二はメールを送ってくれた。
真白な空気に佇む吹雪の富士山の姿と「おはよう」を告げてくれるメール。
その前には昨日の17:00ごろ極彩色の夕富士の写真、昼過ぎに富士山頂の雄大な雪山の世界をおくってくれた。
山頂の前には7合目付近からの朝富士、白銀に輝く朝陽のうす紅が美しい「おはよう」のメール。
どれも美しかった、そして添えられたメッセージがうれしかった。
…でも、無事の下山のメールが、一番うれしい
どうか無事に帰ってきて?
そんな願いと一緒に公園の門を潜って、歩く道にまた英二の記憶が右掌に繋がれてくる。
冬を迎えてコートの季節になってから、いつも英二は繋いだ周太の右掌をコートのポケットにしまい込む。
― 周太、こうして手を繋ぐと、あったかいだろ?
きれいに笑って見つめて、ときおり長身を傾けてキスをして。そんなふうにこの道を歩いてくれる。
明日は水曜日。週休の英二は周太に逢いに新宿まで来てくれる。
そしてきっとこの道を掌を繋いで歩いてくれる。
…きっとね、一緒に明日は歩いている
そっと微笑んで周太はいつものベンチに座った。
豊かな常緑の梢が天蓋に覆ってくれるベンチは、ゆるやかな冬の陽だまりが温かい。
ココアの缶のプルリングを引いて周太はひとくち飲むと、ほっと息をついた。
甘い香りの吐息が冬の森の空気にとけこんでいく、靄とけるさきを見つめてから周太は学会誌を開いた。
「残留界面活性剤成分を指標にした白色系綿繊維の識別」
日本法科学技術学会誌で去年春に掲載されたばかりの「繊維鑑定」の新技術を記した論文。
繊維鑑定の目的は「被疑者の手が被害者の着衣と接触したか」被疑者の手に被害者衣類と、同種の繊維の付着があるか調査する。
付着物採集には「鑑識採証テープ」という特殊なテープを使い、被疑者両手の指の表裏と手のひら、甲から付着物を検出する。
その付着物を顕微鏡などで素材や色などを比較するが、繊維素材は綿、絹など10前後、色は最大1000以上に分類される。
ただし「白色系綿繊維」は識別が困難とされていた。
白い綿素材は日常生活で下着類など多用されている、そのため証拠物件としての価値は低いとされていた。
そこで繊維に沁み込んだ洗濯洗剤に着目した鑑識法が考え出された、それがこの論文に載っている。
周太は12月に痴漢冤罪の事情聴取をした、その時に「繊維鑑定」を被疑者に申し出た。
その時は本当の容疑者が自白するに至ったけれど、実際に繊維鑑定に持ち込んだ場合の対処を周太は考えていた。
そのことを英二に話すと青梅署警察医の吉村医師からこの学会誌を借りて、年明に川崎の家へ帰るとき英二は周太に貸してくれた。
この学会誌も吉村医師に返しに自分で行って、お礼と年明の挨拶に本当は行きたい。
明後日の週休、どうしようかな?
学会誌を読みながら自分の予定を周太は思いだし考え込んだ。
明日は午前中に特練があって午後から英二に逢う予定になっている。
明後日は週休だけど英二は日勤だから、周太は午前中に射撃訓練に行こうと自主訓練を術科センターに申し込んである。
警視庁けん銃射撃大会までもう1ヶ月を切っている、できれば訓練は休まない方が良い。
…けれど、
明後日は英二は仕事がある。だから周太が一日休んでも一緒にいられるわけではない。
それに特練の自分は出来るだけ毎日練習をした方が良いのだろう。
すこしため息を吐いて周太はクライマーウォッチを見、ちいさく声をあげた。
「…9時半過ぎている?」
デジタル表示時刻は9:52となっている。
周太は急いでポケットの携帯を出して開いてみた、けれど着信は何もない。
iモード問い合わせをしても着信件数は0だった。
「…英二、下山予定は、…9時半、って…」
心を氷塊が滑り落ちる感覚に周太は息を呑んだ。
どうして、なぜ、英二からメールが入っていないのだろう?
いま時計は9:54になった、予定ではとっくに下山しているだろう時間。
五合目の山小屋を9:00に出ると言っていた、それなら英二と国村の場合30分もあれば下山する。
いつも奥多摩の山で同じようなコースを毎朝に、そんなタイムで下山しているのを聴いている。
それなのにどうしてまだ下山のメールが入っていないのだろう?
「…っ、」
思わず周太は着信履歴から電話を繋いだ、けれどコール音すら鳴らない。
留守番電話センターの無機質な声が流れて周太は切った。
富士山はどこでも繋がる携帯会社がある、そこに英二も周太も国村も加入している。
けれど乱気流や低気圧など、気象条件で繋がらないこともあると聴いている。それでも下山していれば回線は繋がるはずだった。
「…えいじ…まだ、下山していないの?」
握りしめたままの携帯からBookmarkを開いて気象予報サイトへと繋ぐ。
そこからエリアを狭めて富士山の気象情報を周太は開いた。
そこにエリアニュースが入っている。
…エリアニュース…事故、それとも悪天候の?
携帯を握りしめる指が冷たくなっていく。
エリアニュースのボタンを押そうとしても指が動いてくれない。
ただ見つめる携帯の画面右上で、時刻表示がかちりと変わった。
10:00
…っ、英二!
心が悲鳴を上げて一挙に胸を迫りあがる。
そして黒目がちの瞳から堰切ったような涙がこぼれ落ちた。
「…あ、」
なぜ?どうして?
どうしていま自分の瞳から涙がこぼれ落ちるのだろう?
理屈なんてわからない、けれど何かが心を圧迫して涙が止まらない。
いったい何が起きているのだろう?
「…えいじ?」
なぜだろう、ただ「英二」だけが頭を廻ってしまう。
いったいどうして、なぜ?涙がこぼれて止まらないのは?
…この涙の理由に自分は向き合いたい、逃げたくない
逃げたくない、何があったとしても。
だって自分は英二の求婚に頷いた、もう婚約者できっと「妻」になる。
それは英二の伴侶として、全てを受けとめるという覚悟と決意に立つこと。
そして英二はいま母親との義絶から家族との連絡も稀になっている、それもすべて自分の為に。
そんなふうに英二は自分を選んでくれた、唯ひとりだけ欲しいと求めて全て捨てても隣に居場所を求めてくれた。
だから自分は知っている、きっと英二は自分の隣だけに帰ってくる。何があっても。
だから自分は受けとめたい。伴侶の自分が受けとめなかったら、いったい誰が英二を受けとめるというの?
「…そう、…俺がね、受けとめる…英二…」
周太は携帯を握りしめた、そしてエリアニュースを開いた。
09:30 富士山情報 吉田大沢で大規模雪崩が発生予測 現在入山規制中
10:05 富士山情報 吉田大沢で大規模雪崩10時頃発生 9合目から6合目まで崩落予測 現在入山規制中
頬伝う涙が冬の森の冷気につめたく零れていく。
こんなふうに山は何が起きるか解らない、けれど英二は駆け出していく。
それを自分も止めたくはない、だって英二が輝く場所がどこなのか、一番自分が知っている。
涙に揺れる視界にクライマーウォッチのデジタル表示が10:15を告げる。
…ね、英二?いま、どこにいるの?
いま富士山の吉田大沢には雪崩が高速で走り下っていく。
きっといま雪崩が巻き起こす爆風が北東斜面に吹き荒れている。
その場所は英二が昨日から今日にかけて訓練で登った斜面、ほんとうは今もう下山の予定だった。
けれど何かが起きて英二も国村も下山していない。だから、きっと、今、英二は、
…きっと、ひどい風と雪の中を耐えている
どうか帰ってきて英二?自分の隣に無事に帰って約束を叶えて?
あなたは自分の唯ひとつの想い、ただ一度の恋、そして唯ひとつ輝いてくれた希望。
だから帰ってきて英二、あなたが消えたら自分も生きてはいられない。
…英二?いま、雪がふっているね
最高峰にふる雪の花、どうか想いを伝えてほしい、逆境に立つあのひとへ。
あなたは自分の希望、想いの最初のまなざし。ため息はあなたを想う呼吸。
唯ひとり、他はいらない、だから富士の山よ、願いを聴いてください。
どうか帰してください、自分の元へあのひとを。
涙がこぼれて止まらない、それでも携帯の着信ランプは灯らない。
メールも電話も届かない、どうしてそんな遠くにいるの?いつも隣にいたいのに。
いつも隣で笑っていたひと、ほんの3か月半前までは。隣の部屋にいて隣に座って朝まで一緒に勉強して。
なのにいまはこんなに遠い、メールも電話も届かない、声も想いも届けられないの?
「…どうして?…」
周太は遠くの空を見あげた。
いま新宿の森に見つめる梢の彼方北西に、遠く聳える優雅な富士の山、日本の最高峰。
白魔と言われる白い風雪が踊る「魔の山」それが冬富士の1つの顔。
いまそこにきっと英二が立っている。
…英二?
逢いたい。
いますぐ逢いたい、もう今すぐに。
こんなの嫌、離れたまま置き去りにされて何も解らないのは。
きっと今は英二は風雪に耐えている、その英二をただ想うだけしか出来ないの?
こんなふうに連絡が遅れたことは一度だけ。
それは御岳の山ヤだった田中が遭難死した時だけだった。
あの夜も英二は電話が遅かった、そして届いた電話のむこうで泣きじゃくって、そして自分は?
「…となりに、」
涙と一緒に一言だけこぼれ落ちた。
きっと英二と国村は最高峰を踏破する運命のアンザイレンパートナー同士。
そんな2人だから今まだ山に斃れるはずはない、きっと無事に帰ってくる、そう信じている。
でも。そう信じていても、涙は止まってはくれない。
愛しているから1%でも失う可能性が怖い。
山ヤが山に立ったら自身を最後に救うのは山ヤ自身、どんなに想っても現場から英二を救える訳じゃない。
いま英二が立つ危険から救ってはあげられない、けれど英二を迎えてあげられるのは自分だけ。
だからせめて少しでも英二の近くに行きたい、少しでも近い場所から無事を願う祈りを届けたい。
そして笑顔で帰りを迎えてあげたい、自分が英二に出来る今の精一杯をしたい。
…となりに、すこしでも近くに、いたい
持っていた本を周太はブックバンドをしないまま抱え込んだ。
そしてパンの袋を持って立ちあがると、公園の小道を歩き始めた。
その頬にふっと冷たい花びらが落ちて周太は顔をあげた。
…雪、ここにも
ベンチにはココアの缶が1つ置かれたままだった。
公園を出て新宿警察署へ歩く道、ふる雪のなか周太は電話を繋いだ。
その番号は青梅警察署警察医の吉村雅也医師の携帯番号だった。
3コール程でかちりと音がして、穏かな落着いた声が応えてくれる。
「湯原くん、こんにちは?」
「…吉村先生、急に、すみません…」
温かな声に涙がまたこぼれ落ちていく。
歩きながら声が詰まって出てこない、それでも吉村医師は待っていてくれる。
穏かな気配にすこし心が寛いで周太はようやく声を押し出した。
「先生、…英二たちから、連絡はありましたか?」
「朝にメールをいただいてからは、無いですね」
答えてくれる声は落ち着いている、けれど何かを覚悟したような静謐が伝わってくる。
吉村医師は既に次男を山の遭難死に亡くしている。その記憶がともにあるのだろう。
そして自分にも13年前の春の記憶がある、あの後悔をもうしたくない。
しゃくりあげそうな喉を抑えながら周太は、一言だけ吉村に告げた。
「先生…警察官を辞めたい…っ、」
言った途端に涙があふれて声が詰まっていく。ふる雪が涙ににじんでしまう。
ほんとうに心から今の言葉を自分は言ってしまった、こんなこと人に言ったのは初めてだった。
父の想いを見つめるために母を泣かせても選んだ「射撃の名手の警察官」の道、それが今は疎ましい。
そんな想いと泣きながら歩く周太に穏やかな声が訊いてくれた。
「うん、…どうして、湯原くんはね、警察官を辞めたいんだい?」
こくんと1つ唾を周太は飲みこんだ。
そして呼吸1つしてから言葉を静かに紡いだ。
「先生…いちばん大切なひとの元へと、自由に駆けつける。その自由が欲しいんです…だから、今、辞めたい」
もう、こんなのは嫌。
こんなふうに離れたままで、ただ泣いて心配するのは。
田中の時もそうだった、あの夜もすぐ隣に行って、抱き締めて泣かせてやりたかった。
そして今きっと英二は生死の境界線に立っている、そんな時にも駆けつけられない立場がもう嫌だ。
警察官の道より家より何よりも本当は、選びたいことは唯ひとつだけ。それをまた今こうして思い知らされる。
「湯原くん、君の気持はね、私には解るよ」
穏かな声が言ってくれる。
吉村医師も次男の雅樹が遭難した時、すぐに現場に駆けつけて自分で捜索したかった。
けれど当時の吉村は大学病院のER担当教授だった、その為に病院から離れることが許されなかった。
そんな吉村だから、警察官として射撃特練として行動管理される周太の気持ちを解ってくれる。
こぼれる涙に頬を温めながら周太は歩いて吉村の言葉を聴いていた。
「湯原くん、君の宮田くんを想う気持ちはね、ほんとうに美しい。
いつも私はそう思う。だから君なら考えられるだろう?
お父様への想いで選んだ道を、宮田くんの為に途中で捨ててしまったら?宮田くんはどう考える?」
父の為に立った「射撃の名手の警察官」父と同じ道を辿る軌跡。
ただ父の想いを受けとめ理解して、ほんとうは孤独なままに死んでいった父の供養をしたい。
そんな想いを英二は知っている、そんな自分を英二は尊敬して愛してくれた。
そして父の道に立つ危険にすら英二は共に立とうと、きれいに笑って約束してくれた。
「…きっと、英二は…英二自身を、責めます…俺を曲げたと、想って…」
「そうですね、実直な宮田くんは、きっとそう思います」
穏かな声が微笑んでくれる。
電話越しでも温かい吉村医師の気配にすこし心が納まり始めた。
ゆっくり大きく呼吸して周太は言った。
「…ん、はい…先生、取り乱して…すみませんでした。俺…まだ、辞めません」
「うん…そうだね、湯原くん。君がね、後悔しないこと。それがいちばん大切です。いいですか?」
後悔しないこと。
その一言が温かくて、今の自分には難しくもある。
いったいどうしたらいいのだろう?
「はい、…でも先生?きっと俺、いま…奥多摩に行かなかったら、きっと後悔します…
英二がどちらの場合でも、きっと…今日すぐ、逢わなかったら後悔する。いま逢って伝えたい、だって明日があるか解らない」
明日があるか解らない、一瞬後だって解らない。
それは山岳救助隊に限ったことじゃない、今こうして歩いてすれ違う人たち誰も同じこと。
だから想いはその時に伝えなかったら、きっと後悔してしまう。
― 周、大切な想いこそね、きちんとその時に言わないと駄目だよ?
次いつ言えるか解らないだろう?だからね、その時を大切に、一生懸命に伝えてごらん
そんなふうに父は自分に教えてくれた。
そして父は春の夜に約束だけ遺して死んでしまった。
そうして自分は思い知らされた「もっと、お父さんの話を聴いておけばよかった」父の想いを、知りたかった。
だから自分は英二の元へと行きたい、今すぐに。明日は逢える予定だけれど、それでも今すぐに逢って想いを伝えたい。
こんなの警察官のくせに我儘だろう、それでも自分は我儘を通したくてたまらない。
そっと周太は携帯を握りしめて涙ひとつ零した。
「うん、わかったよ。湯原くん、君はね?まず、お昼ごはんを食べなさい。そして、今日はどんな予定だったのですか?」
「12時半から、術科センターで訓練です…15時からは当番勤務です」
「解りました。では、その予定通りにまずはね、過ごしてご覧?
宮田くんたちが青梅に戻るのは、きっと、夕方だろう?だからゆっくり対応を考えましょう、焦ることはありません」
落着いた吉村医師の言葉に周太は、ほっと息をついた。
この医師の穏やかな声は安心と信頼を感じさせてくれる、きっと大丈夫と思わせてくれる。
吉村医師の言う通りにしてみよう。素直に周太は頷いた。
「はい…俺、ちゃんと昼ごはん食べます。それから、術科センターへ行ってきます」
「うん、気をつけて行っておいで?」
そんなふうに話して電話を切ると、ほっと周太は息をついて見上げた。
白い空から雪はふってくる、富士にも雪はまだ降っているのだろうか?
気がつくと新宿署前まで歩いて来ていた、そのまま周太は独身寮へと戻った。
寮の談話室の自販機でコーヒーを買ってパンの紙袋を開ける。
クロワッサンをかじると馴染んだ味がやさしい、きちんと味が解って食べられている。
すこし心が落ち着いたのだろう、ほっと息をついて周太はクロワッサンとオレンジデニッシュを飲みこんだ。
食べ終えて自室に戻ると鞄へ公園に持って行った本2冊と、残りのパンたちをしまう。
それから制服に着替えて前髪をあげると、携行品を保管から受け取ると新木場の術科センターへと周太は向かった。
小雪が舞うなか周太は術科センター射撃場へと入った。
いつもどおりに射撃ブースを与えられて、いつもどおりの片手撃ちに構える。
いつもどおりに全弾10点に着弾していくのを、どこか遠いことのようにも感じながら周太は訓練を終えた。
終わって術科センターのゲートを出るとクライマーウォッチの時刻は13時半だった。
そっと携帯を取り出して画面を開いても着信は無い。
…英二、いま、どこにいるの?
見あげる白い空からは花びらのような雪がふる、そっと頬にふれすぐとける幻のような軽い雪。
ふる雪にため息を吐くと、ぼんやりとしたまま姿勢よく歩いて電車に乗り込んだ。
車窓から北西を見ると富士山が真白な裾を引いて美しい、その姿に周太は心冷やされてしまう。
あの真白な裾のなかで今日の9時~10時半に何が起きていたのだろう?
「…あ、」
涙がひとつだけこぼれ落ちてしまう。
今日は一体どれだけ涙をこぼしてしまっただろう?
こんなに泣いてばかりいてはいけない、そっと周太は指で涙を拭って微笑んだ。
…だって、英二の婚約者で、妻になるのだから
英二は7月になったら分籍をする。
そうしたら英二は戸籍上で家族が誰もいなくなる。
すでに英二は実母から義絶された時から実家に帰っていない、それでも英二は周太と生きる選択を動かさない。
そんな英二には家族と呼べるのは周太しかいない、だから自分がいつまでも泣いていてはいけない。
たとえ何があっても、自分が英二を支えなくてはいけないのだから。
「…ん、がんばろう」
微笑んで周太は新宿駅におりた。
クライマーウォッチを見るとまだ14:15だった、けれど早めに行って調べごとをしたい。
どこかいつもより浮んだような足取りに周太は新宿東口交番へ向かった。
すぐ勤務先の東口交番について雪を払ってから入ると、若林が周太を待っていた。
「ああ、湯原。早めに来てくれて良かったよ、ちょっと急な話で悪いんだが」
「はい?なんでしょう、」
制帽を脱いで周太は若林に返事をした。
そんな周太に若林はメモを見ながら説明をしてくれる。
「湯原、今からすぐに他の所轄へ出張に行ってくれないか?
今日の夕方と明日の正午過ぎまで、2日がかりになるが…明日は非番のところを悪いんだが、」
出張に行く。そうしたらもう今すぐ英二の元へはいけない。
それどころか明日会うことすら難しくなるかもしれない、ため息を吐きかけて周太は我に返った。
きっと真面目な英二だったら、仕事を投げ出すなんて考えられないだろう。
…自分は英二の妻になる、だから英二と同じように仕事を大事にしたい、「妻」の名に恥じない自分に近づきたい
いま自分が置かれた立場で出来る精一杯をしよう、それをきっと英二も望んでくれる。
覚悟と想いに微笑んで周太は若林の目を見た、そして快くうなずいて訊いた。
「はい、どういった出張ですか?」
「うん、ちょっとな、人員が限定される内容でな…湯原しか該当者がいないという話になってな」
頷いた周太を見て若林はメモを周太に渡してくれる。
それを見た周太の瞳が大きくなった。
内容:雪山における弾道の鑑識調査の協力
場所:青梅警察署管轄・雲取山他、武蔵野警察署射撃場
担当:青梅警察署警察医・吉村雅也 青梅警察署山岳救助隊副隊長・後藤邦俊
【派遣要員条件】
拳銃射撃及びライフル射撃の熟練者かつ鑑識知識が豊富で、登山経験者であること。雪山登山経験者が望ましい。
【備考】
拳銃およびライフル銃は青梅警察署備品を使用。アイゼン・ピッケル貸与。制服不要、登山装備必須。
「湯原は拳銃射撃だけじゃなくて、高校時代にライフル射撃でも優勝しているそうだな。
しかも湯原は卒配とはいえ鑑識も詳しいだろう?それに山岳救助隊の自主訓練にも参加している。
それで新宿署からも湯原を、って話になったんだ。それに湯原は吉村先生のことは、知っているな?」
若林に話しかけられて周太は顔をあげた。
この出張を承諾すれば周太は今すぐに英二の元へ行ける。それも公務としてだから堂々と新宿署の任務全てキャンセルできる。
この「派遣要員条件」は自分が努力した事ばかり、不器用な自分の努力が虚しい時もあるけれど今こんなふうに役立とうとしている。
すこし顔が赤くなっているかもしれないと心配しながら、頷いて答えた。
「はい、同期たちが先生にお世話になっています」
「うん、そうだったな。それで吉村先生からもな、
『青梅署の同期の方からも伺っています。湯原くんなら条件が揃うと思いまして』と言って新宿署に依頼が来たそうだ」
吉村医師が周太を奥多摩へ呼んでくれた。
あまり意外で呆然としながら周太は若林の目を見つめていた。
そんな周太の驚きを「急な出張に驚いたのだろう」と思ったらしく若林が説明してくれた。
「ほら、昨夜から午前中にかけてな、奥多摩に雪が降ったろう?それで急だけれど雪山での弾道調査が決定されたそうだ。
そこにも書いてあるが、拳銃は携行しなくて大丈夫だ。警察手帳だけ携行してくれ。
青梅署の方でテスト用に拳銃とライフルを用意してくれる。湯原は冬用の登山服と登山靴は持っているか?」
「はい、あります」
年明けに実家で英二と過ごした後、新宿で英二は「ちょっと買い物がある」と周太に言った。
そして連れて行かれたのは以前に登山ウェアを買ってくれたショップだった。
そこで英二は冬山用のウェア一式と登山靴を買ってくれた。
高いものをと心配する周太に、きれいな笑顔の強い押しで英二は贈りつけてしまった。
早速に役に立つことになった。
「じゃあ湯原、悪いが今すぐ新宿署へ戻って、仕度して出てくれ。
青梅署に着いたら診察室へ行けばいい。…あ、宿泊場所とか書いていないな?連絡入れてみるか?」
「大丈夫です、自分で手配します」
「ほんとうに、急で済まないな?明後日の週休は体休めてくれ、出張のまま青梅署の同期と楽しんでもいいしな」
「はい、ありがとうございます」
当番勤務から「出張」へとシフトを書換えると、急いで東口交番を出た。
新宿署へと戻る雪ふる道を歩きながら周太は吉村医師に電話を繋いだ。
すぐに出てくれて穏やかな声で笑ってくれる。
「湯原くん、急な任務をお願いして申し訳ありません、」
「いいえ、あの…先生、すみません。俺が、わがまま言ったから…」
申し訳なくて周太は素直に謝った。
けれど吉村医師は気さくに笑って言ってくれた。
「はい、わがまま言ってくださって光栄ですよ?
それにね、今回の弾道調査の件は本当に必要なのです。
拳銃とライフルと両方を同じ射手にお願いしたくて。そうすると人が限られるでしょう?
青梅署でも1名は確保できるのですが、データ照合の為にもう1名、どうしても要員が欲しかったんです」
青梅署でも1名、それはきっと1名しかいないだろう。
じゃあもしかして?ことんと心が跳ねたのを感じながら周太は訊いてみた。
「あの、先生…国村さんですよね?もう1名って…じゃあ、2人は帰ってきたんですか?」
どうかお願い、無事を聴かせてほしい。
そんな祈りに握りしめる携帯から穏やかな声が教えてくれた。
「はい。ふたりとも無事ですよ。
さっきね、国村くんから公衆電話で連絡がありました。富士山で遭難救助をしたそうです。
それで下山が遅くなりました。雪崩の電波障害で携帯が繋がらず、富士吉田署と救急への引継ぎもあって、連絡が遅れたそうです」
…英二、
唯ひとりの人、その人の無事が、こんなに嬉しい。
いま制服を着ている、それなのに涙がこぼれてしまう。
温かな涙がひとつ頬伝っていく、幸せに微笑んで周太は言った。
「ありがとうございます、…先生、じゃあ2人はまだ戻っていないんですか?」
「はい。きっとね、温泉でも入ってくるんじゃないかな?山小屋はお風呂が無いですからね。
だから湯原くんの方が先に、青梅署に着けますよ?ちょっと驚かそうと思って、ふたりには言っていないのですが」
可笑しそうな吉村の気配が伝わってくる。
楽しくて周太は頷いた。
「はい、内緒でお願いします。先生、すぐ行きますね?そしてコーヒー淹れます」
雪が止んだ。
きれいに笑って周太は空を見あげた。
白い雲が少しずつ晴れて抜けるような青が映りこむ、夕映は美しいかもしれない。
これから奥多摩の山に行ける、そしてあの隣に自分は帰る。
そうして言ってあげたい「お帰りなさい」それから抱きしめて話を聴かせて?
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第32話 高芳act.3―another,side story「陽はまた昇る」
目覚めると空気が冷たい、ひんやりとした朝に周太はベッドから身を起こした。
おりた床も冷たく感じられる、そっと窓を開けて見上げた空は星が見えない。
午前5時の新宿は1月の夜明けの遅さに静まり返っている。
「…曇っている、ね」
ため息のようにつぶやいて周太は窓を閉めると携帯を開いた。
Bookmarkした天気予報を呼び出して全国天気から関東地方、山梨県とエリアを狭めていく。
そして富士五湖地方の予報を見つめた周太の唇からため息がこぼれ落ちた。
「…雪、のち晴れ…なの?」
やっぱり雪が降っている、あの愛するひとのいる山に。
予想をしていたこと、それでも不安が迫り上げて周太の心がつきんと痛む。
ひとつ息を呼吸すると周太は天気図の画面を開いた、その図は昨夜のニュースで見た通りの配置図でいる。
『低気圧の中心が富士山の南を通過、風速次第で通過も速まる』この天気図の時に富士山は雪崩を誘発しやすい。
低気圧の中心が富士山の南を通過した直後に雪崩発生が多い、そんなことが富士山のHPにも書いてあった。
「…でも、9時には下山するって、電話でも言ってくれたから」
昨夜の電話で英二は言っていた「9時には下山する、昼には青梅署に戻っているかな?」
低気圧が富士山を通過する時刻は9時半以降と天気図からは見られる、9時半なら英二と国村はもう下山を終えているだろう。
あの2人のハイペースならそれくらいで下りは降りてしまう、いつも奥多摩の山を早朝に登って下るペースは速いから。
だから雪崩が起きる時刻にはもう富士山から降りている、だからきっと大丈夫。
「ん、…大丈夫、だよね」
そっと微笑んで携帯を閉じると周太はデスクライトを点けて座った。
今日は当番勤務で交番へは15時までに出勤する、その前に昼過ぎから術科センターの特練に行く。
だから午前中は時間がある、けれどまた眠る気持ちにもなれなくて周太は白革表紙の本を手にとった。
このあいだ読んだばかりのページを開いて、その章の題をちいさく口にした。
「Le dernier amour du prince Genghi」
源氏の君の最後の恋、翻訳するとそんな章名になる。
フランス文学の短編集『Nouvelles orientales』邦題は『東方綺譚」に納められた一篇の恋愛小説。
日本古典で有名な『源氏物語』の主人公、光源氏が最愛の妻である紫の上を失った、その後をフランスの女性が書いた物語。
年老いて視力も失いかけた光源氏は出家して山奥の草庵に籠ってしまう、そこへ妻の一人である花散里が尋ねていく。
その花散里は地味な雰囲気だけれど温かい人柄のやさしい女性だった、そんな彼女は憔悴した光源氏を放っておけなかった。
けれど光源氏は過去の華やかな自分を思い出させるすべてを否定したくて彼女も追い返される。
それでも彼女は諦めない、変装して訪れ、その2度目には盲目になった光源氏の心をとらえて共に起居することになる。
そんな彼女は献身的に光源氏に尽くしていく、そして光源氏の最後を彼女は看取る。
…けれど、源氏の想いは…
最後の部分にさしかかって周太はそっと本を閉じた。
この物語の最後の部分。それは臨終の光源氏と花散里の対話になっている。
身分を偽った花散里とふたり静かな生活に光源氏は穏やかな時を過ごした。
その幸せな穏やかな生活の涯、死に臨む光源氏は自分が愛した人たちの名前をあげていく。
その列挙された名前の中には花散里が変装した姿は2度とも挙げられた。
けれど、
「…けれど、『花散里』とは、呼んでもらえない…」
自分の名前を愛するひとに呼んでもらえないこと。それは本当に哀しいことだと思う。
最初から呼ばれていなければ、最初から無いものと思うから辛くはない。
けれど一度でも呼ばれて愛された記憶があるのなら?
― 周太、愛してる ずっと隣にいて?ね、周太
大好きな声、きれいな低い声。
あの声がもし自分の名前を呼んでくれなかったら?
そんなこと考えただけでも心がもう痛い、そしていま雪山にいる英二の無事を祈ってしまう。
英二が下山を始めるのは9時、そして昼には青梅署に戻るだろう。
そして明日の11時にはこの新宿へ来てくれる、そして一緒に昼食をとって時を過ごす。
そんな幸せな予定が明日には訪れるはず、けれど「必ず訪れる」そんな保証はいったいどこにあるというの?
人の運命なんて解らない、父の消えた13年前の春の夜に思い知らされたその現実。
けれど英二は『絶対の約束』を繋いで結んでくれた、そして自分に求婚と婚約の花束を贈ってくれた。
だからきっと無事に帰ってくる、予定通りに下山して青梅署に戻って今夜また電話をくれる。そして名前を呼んでくれる。
そんなふうに信じたい、けれど不安は迫り上げて苦しくなってしまう。
「…それでもね、信じている、…だって、愛している」
こぼれおちる想いと一緒に涙がこぼれて白革表紙にふりかかる。
この本に納められた花散里の想いは「無償の愛」だった、けれど光源氏は最後まで解らない。
そんな光源氏の態度に心が冷える、だって光源氏は英二と似ている人だから。
美しくて才能にあふれた男、けれど母の「無償の愛」に恵まれなかった寂しさから女性たちを渡り歩く。
そんなところが英二と似ている、そんな光源氏が結局は「無償の愛」を与えてくれた花散里を忘れたまま死んでしまった。
そして自分も英二に「無償の愛」を捧げてつくしたいと願っている、だから花散里と自分を重ねてしまった。
「…ね、英二?…最高峰でもね、俺のこと、想ってくれている?」
英二が「人間」で愛するのは自分だけ、それは信じてしまえる。いつも自分ばかり見つめてくれるから。
けれど英二が最も輝く場所はきっと「最高峰」最も高い山の世界に英二は刻々と魅せられていく。
そこに立って輝く英二の姿を自分も見つめたい、英二が望むまま誇らかな自由を支えたい、だから止めることはしない。
けれど最高峰に魅せられたまま帰ってこなかったら?そんな不安と恐怖も蹲ることが怖い。
そして自分も花散里のように忘れられてしまったら?
「…ううん、違う…英二はきっと、忘れない」
そっと微笑んで周太はクライマーウォッチを手にとった。
これは英二が大切にしていた腕時計だった、けれど周太の「おねだり」に喜んで贈ってくれた。
英二は山岳救助隊を志願すると自分の道を定めた、その意思に立って英二はクライマーウォッチを左手に嵌めた。
そうして英二は生きる意味と誇りを山ヤの警察官に見つめ努力を始めた。
そんな英二の大切な時間と記憶を刻んだこの時計を、英二は迷わず周太に贈ってくれた。
「ね、英二?最高峰の夢だって、俺に贈ってくれる…そういうこと、だよね?」
英二の夢が刻みこまれたクライマーウォッチ、そして婚約の花束のオーニソガラムMt.フジ。
この2つが周太に教えてくれる英二の想いは「あなたを愛していると最高峰から永遠に告げていく」
そしてこの花の言葉は「純粋」そんな日本の最高峰の名前を冠する純白の可愛らしい花は、もう1つの名前を持っている。
「…子宝草、…ね、英二?」
子供を育む子孫繁栄を願う寿ぎの言葉「子宝」その名前と、日本最高峰の名前を併せ持った花。
この花に英二は誇りと夢をよせてくれた、その想いの奥に隠されていた「子宝」という言葉に心が留められる。
男同士の自分たちなのに?どうしてなの英二、どんな想いと意味があるというの?
このもう1つの名前を知った昨夜からずっと、そんな想いと質問が頭を廻ってしまう。ほっとため息を周太は吐いた。
「ん、…考え込んでも、だめ。他のこと、楽しいことをね、」
ひとり言に言い聞かせて周太はデスクの花瓶に目を向けた。
ちいさな白磁の華奢な花瓶には一茎の白い花が咲いてくれている。
スノードロップ「雪の花」の名前を持つこの花は、実家の庭から摘んで新宿まで連れてきた。
雪を割って咲くこの可憐で清々しい花姿が周太は好きで、庭に咲く姿が愛しくて連れてきてしまった。
ここに活けて咲いてくれている、その姿を見るだけで、どこか寂しい新宿警察署での暮らしが慰められる。
「今朝もね、きれいだね…庭より居心地悪いかな、ごめんね…そして、ありがとう」
ちいさく花に微笑んで、周太は白革表紙の本を書架に戻してコンパクトな植物解説書を手にとった。
デスクの上でページを捲りながら目当ての項を探して行く、そして見つけて微笑んだ。
スノードロップ snowdrop
学名:Galanthus nivalis (Galanthus : ガランサス属 nivalis : 雪の時期の )
別名:ユキノハナ(雪の花)マツユキソウ(待雪草)ガランサス
ヒガンバナ科ガランサス属Galanthusスノードロップ属、マツユキソウ属の総称
「…彼岸花なんだ、」
彼岸花は別名・曼珠沙華ともいう真赤な花。あわい黄色や白、うす紅も最近ではある。
その花とは姿がだいぶ違う、すこし意外で驚きながら周太は続きを読んだ。
花言葉:恋の最初のまなざし、慰め、逆境のなかの希望、希望、楽しい予告、初恋のため息
人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」という意味に変わる
伝 説:エデンを追われたアダムとイヴに降る雪をスノードロップの花へと天使が変え、ふたりへの励ましとした
「…恋の最初のまなざし…」
こぼれた花言葉と一緒に周太の瞳から涙がこぼれた。
初めて出会った時の英二のまなざし、あの瞬間に自分はもう恋をした。
そして警察学校で隣に過ごす日々、きれいな笑顔でいつも佇んでくれていた。あの笑顔に自分はどれだけ慰められただろう。
そうして逆境の道に立つ自分を英二は掴んでくれた、微笑んで抱きとめ愛して幸せをくれている。
そんな英二は自分にとって唯ひとり愛する初恋のひと、そして幸せへの「希望」でいてくれる。
「ね、英二…英二みたいな花、雪の花…雪がね、英二は好きだね?」
― 冬はさ、雪山は俺、好きなんだ
昨夜の電話での英二の何気ない一言、けれど英二の本音の言葉。
雪を愛するひとは今きっと、最高峰の雪ふる富士山で暁の眠りに夢見ているのだろう。
今日の富士には雪がふる、その雪の美しさにきっと英二は見惚れるだろう。その英二の喜びを想うと愛おしい。
けれど雪ふる富士のもう一つの顔が周太の心を冷たく撫でる、吹雪の富士の名は「魔の山」そして雪は「白魔」となる。
そんな冷厳な富士の表情を想うと不安が冷たく心を痛ませる、けれどきっと英二は帰ってくる。
― 絶対に無事に帰るよ、周太。だって俺ね、周太に逢いたいよ?そして一緒に眠りたい、朝の周太を見たい
国村が繋いでくれた昨夜の英二の電話。
いつも英二は帰ると言ってくれる、その言葉通りに3ヶ月半をずっと隣に帰ってきてくれた。
そんな英二と自分は『絶対の約束』を結んでいる、だから帰ってきてくれる、そう信じている。
そのための勇気も1つ自分はもう抱いたのだから。そっと微笑んで周太は見つめるページを読んだ。
「…降る雪をスノードロップの花へと天使が変え、ふたりへの励ましとした…」
この伝説の通りになってほしい。
富士にふる雪が英二とその友人にとって励ましの花であってほしい、「魔の山」の白魔ではなく「希望」の花として。
この花の言葉の最後の1つは否定したい、はじめの6つの言葉だけを自分は信じていたい。
どうか富士にふる雪よ、お願いさせて?
あのひとの上にふる雪ならば、希望の花となってほしい。
あのひとに冬富士の冷厳が姿を現すときも、逆境のなかで希望となってふり注いで?
「…ね、英二?今日の吹雪もね、英二には夢をかなえる、希望になりますように」
きれいに微笑んで周太は、そっと本を閉じた。
朝食や洗濯を済ませると周太はダッフルコートを着て新宿署独身寮の外へ出た。
見上げる空が白い、冬の曇空はどこか切ない空気と雪の気配がある。この新宿にも雪が降るかもしれない。
そっと吐かれた溜息が白い靄になって空気にとけていく、周太は左手首のクライマーウォッチを見た。
文字盤のデジタル表示は8:35を示している。
…英二、まだ下山前だね?
いまごろ富士山の五合目で英二は雪の中に立っている。
きっと山小屋近くの斜面で国村と雪上訓練をしているだろう。
ふる雪の美しさにときおり目を留めて微笑んで、ときに真剣な眼差しにピッケルを握って雪に立っている。
…どうか無事に、英二
大切なひとへの想いと一緒に周太は歩き始めた。ちょうど着くころ公園の開門時間になるだろう。
今日は午後一の射撃訓練と当番勤務だから午前中は時間が取れた、そんなとき周太はいつも公園に行く。
いつもの道を歩いていくと芳ばしい香が頬を撫でてくる、その香りを送ってくる瀟洒な店の扉を周太は開いた。
いつものパン屋の棚には、きれいなパンがたくさん並んでいる。トングとトレイをとると周太は棚を眺めた。
「…いつもの、かな?…ん、オレンジの…」
ちいさく微笑んで周太はクロワッサンを2つとオレンジのデニッシュと、オレンジブレッドを選んだ。
いつも当番勤務の前にはここに来て夕食用のパンを買っていく、今日の様に時間があれば公園で食べる早めの昼用にも。
選んだパンを持ってレジに行くと顔なじみになった店員が微笑んでくれた。
「おはようございます、今朝は寒いですね?」
「おはようございます。寒いですね、雪かもしれないです」
「あ、降りそうですか?雪景色もいいですね。電車とか東京は止まりやすいから、ちょっと心配ですけど」
「はい、雪も、きれいですね?」
きれいに紙袋へとパンを入れてくれながら、気さくに彼女は話してくれる。
自分たちより幾分年上の雰囲気の女の人は、朗らかで楽しそうにいつも店にいる。
そして周太のことを覚えてくれていて、よくおまけしてくれる。
明るい良い人だなと見ていると、今日も紙袋へと1つ小さな焼菓子を入れてくれた。
「今朝はね、オレンジの焼菓子を新しく作ったんです。オレンジお好きでしょう?」
「あ、はい。…あの、いつもすみません」
いつもこうして何かしら、おまけをくれるから周太は恐縮して、来店も遠慮しようかなと思うときもある。
けれどこのパン屋は英二の記憶が薫る店だから、記憶だけでも英二に逢いたくて立ち寄りたくなってしまう。
あの卒業式の夜、初めて英二に抱かれて体ごと想いを交した。
あの翌日に最後になるかもしれない覚悟で離れて、そしてその翌朝に再会が出来た。
再会の朝に英二はこの店でクロワッサンを買った、それをいつものベンチで食べて微笑んでいた。
その後も何度か2人でこの店に来た、そして周太はいつもここへ来るようになった。
だから今日もここでクロワッサンを買いたかった。
「すみませんなんて、気にしないでください?こちらが勝手におまけしているんです」
「ありがとうございます、でも、俺、いつも来ているから…」
おまけは嬉しいなと思う、けれど、いつもで恐縮してしまうな?
そう思って店員を見ていると、彼女は優しく微笑んだ。
「大学生はね、お腹も空くでしょう?
いつも勉強の本を持って一生懸命だから、つい応援したくなっちゃうのよ?だから遠慮しないでくださいね」
言われて周太は自分の手元を見た。
今日は美代に教わって買った生物学のテキストと鑑識の学会誌をブックバンドに纏めて持っている。
周太は鞄を持たないときは本をこうして抱えている、それを見て店員は学生だと思ったのだろう。
でも自分は社会人なのに学生と思ってサービスしてくれるのは申し訳ない、周太は口を開いた。
「いえ、あの、大学生じゃないんです…」
「あら、ごめんなさい。高校生だったのね。持っている本が難しそうだから、大学生だと思っていたわ」
そう言って彼女は朗らかに笑うと「高校生なら尚、お腹空くね?」とまた1つ焼菓子を入れてくれた。
何だか申し訳なくて周太は、これ以上は自分の身分を訂正することが出来なかった。
たしかに私服の高校も近くにあるし、周太は朝9時前か昼時に買いに来ることが多い。
きっと彼女は通学前か昼休みに買いに来ていると思ってしまったのだろう。
…やっぱり自分は、子供っぽく見えるんだな?
幼い頃から「かわいい」と言われることは多かった。
いつも母にそっくりと言われるけれど、その母は可愛らしい雰囲気で今も50歳には見えない。
そんな母に似ている上に小柄な自分だから、年齢より若く見えるのは仕方がないのだろう。
それが嫌で警察学校に入る時は、堅く真面目に見えるよう床屋でばっさり髪を切って貰った。
でもその髪型は母から「無理に似合わない格好するなんて子供っぽいわよ?」と全否定されてしまった。
それでも「かわいい」と見えなければ何でもいいと思って気にしないでいた。
…でも、英二が前髪ある方が良い、って言ったから、ね
きれいな笑顔が隣から笑いかけて「前髪ある方が良いな?」と言ってくれた。
それが嬉しくて周太は英二と2人の時は前髪をおろすようになった、そして髪も前髪だけは以前の様に長めにした。
そんな周太に母は「やっぱりその方が似合って素敵よ?」と笑ってくれた。
今でも警察官として任務に就くときは前髪をあげている、長めの前髪をあげると思ったより大人っぽくなった。
けれどプライベートではこうして前髪をおろしている、似合う自然な姿でいる方が良いと素直に思えるから。
けれど高校生に間違われると、ちょっと申し訳ない気持ちになる。
でも2度も訂正をするのは何だか申し訳なくて気が引けて、周太は何も言えないまま会計を済ませた。
そうして温かなパンの紙袋を受け取ると、彼女は温かなやさしい笑顔で送り出してくれた。
「今日は雪にも気をつけてね、早く家に帰った方が良いわよ?行ってらっしゃい、気をつけてね」
歳の離れた弟を見守る、そんな優しい眼差し。
姉がいたら、こんな感じなのだろうか?兄弟がいない周太はすこし姉や兄という存在に憧れを思うときがある。
ふと英二の姉の笑顔を想いだしながら、周太は微笑んで挨拶をした。
「はい、行ってきます。ありがとうございます」
からんと鈴を鳴らして扉を開けると、通りが冷えこんでいる。
吐く息がなお白い、さっきより気温が下がったのだろうか。
公園へ歩いていきながら左手首を見ると8:52の表示だった、そろそろ英二は下山に向かうだろうか。
― 下山したらまたメールする、吹雪の富士山も綺麗だろうから
今朝7時に英二はメールを送ってくれた。
真白な空気に佇む吹雪の富士山の姿と「おはよう」を告げてくれるメール。
その前には昨日の17:00ごろ極彩色の夕富士の写真、昼過ぎに富士山頂の雄大な雪山の世界をおくってくれた。
山頂の前には7合目付近からの朝富士、白銀に輝く朝陽のうす紅が美しい「おはよう」のメール。
どれも美しかった、そして添えられたメッセージがうれしかった。
…でも、無事の下山のメールが、一番うれしい
どうか無事に帰ってきて?
そんな願いと一緒に公園の門を潜って、歩く道にまた英二の記憶が右掌に繋がれてくる。
冬を迎えてコートの季節になってから、いつも英二は繋いだ周太の右掌をコートのポケットにしまい込む。
― 周太、こうして手を繋ぐと、あったかいだろ?
きれいに笑って見つめて、ときおり長身を傾けてキスをして。そんなふうにこの道を歩いてくれる。
明日は水曜日。週休の英二は周太に逢いに新宿まで来てくれる。
そしてきっとこの道を掌を繋いで歩いてくれる。
…きっとね、一緒に明日は歩いている
そっと微笑んで周太はいつものベンチに座った。
豊かな常緑の梢が天蓋に覆ってくれるベンチは、ゆるやかな冬の陽だまりが温かい。
ココアの缶のプルリングを引いて周太はひとくち飲むと、ほっと息をついた。
甘い香りの吐息が冬の森の空気にとけこんでいく、靄とけるさきを見つめてから周太は学会誌を開いた。
「残留界面活性剤成分を指標にした白色系綿繊維の識別」
日本法科学技術学会誌で去年春に掲載されたばかりの「繊維鑑定」の新技術を記した論文。
繊維鑑定の目的は「被疑者の手が被害者の着衣と接触したか」被疑者の手に被害者衣類と、同種の繊維の付着があるか調査する。
付着物採集には「鑑識採証テープ」という特殊なテープを使い、被疑者両手の指の表裏と手のひら、甲から付着物を検出する。
その付着物を顕微鏡などで素材や色などを比較するが、繊維素材は綿、絹など10前後、色は最大1000以上に分類される。
ただし「白色系綿繊維」は識別が困難とされていた。
白い綿素材は日常生活で下着類など多用されている、そのため証拠物件としての価値は低いとされていた。
そこで繊維に沁み込んだ洗濯洗剤に着目した鑑識法が考え出された、それがこの論文に載っている。
周太は12月に痴漢冤罪の事情聴取をした、その時に「繊維鑑定」を被疑者に申し出た。
その時は本当の容疑者が自白するに至ったけれど、実際に繊維鑑定に持ち込んだ場合の対処を周太は考えていた。
そのことを英二に話すと青梅署警察医の吉村医師からこの学会誌を借りて、年明に川崎の家へ帰るとき英二は周太に貸してくれた。
この学会誌も吉村医師に返しに自分で行って、お礼と年明の挨拶に本当は行きたい。
明後日の週休、どうしようかな?
学会誌を読みながら自分の予定を周太は思いだし考え込んだ。
明日は午前中に特練があって午後から英二に逢う予定になっている。
明後日は週休だけど英二は日勤だから、周太は午前中に射撃訓練に行こうと自主訓練を術科センターに申し込んである。
警視庁けん銃射撃大会までもう1ヶ月を切っている、できれば訓練は休まない方が良い。
…けれど、
明後日は英二は仕事がある。だから周太が一日休んでも一緒にいられるわけではない。
それに特練の自分は出来るだけ毎日練習をした方が良いのだろう。
すこしため息を吐いて周太はクライマーウォッチを見、ちいさく声をあげた。
「…9時半過ぎている?」
デジタル表示時刻は9:52となっている。
周太は急いでポケットの携帯を出して開いてみた、けれど着信は何もない。
iモード問い合わせをしても着信件数は0だった。
「…英二、下山予定は、…9時半、って…」
心を氷塊が滑り落ちる感覚に周太は息を呑んだ。
どうして、なぜ、英二からメールが入っていないのだろう?
いま時計は9:54になった、予定ではとっくに下山しているだろう時間。
五合目の山小屋を9:00に出ると言っていた、それなら英二と国村の場合30分もあれば下山する。
いつも奥多摩の山で同じようなコースを毎朝に、そんなタイムで下山しているのを聴いている。
それなのにどうしてまだ下山のメールが入っていないのだろう?
「…っ、」
思わず周太は着信履歴から電話を繋いだ、けれどコール音すら鳴らない。
留守番電話センターの無機質な声が流れて周太は切った。
富士山はどこでも繋がる携帯会社がある、そこに英二も周太も国村も加入している。
けれど乱気流や低気圧など、気象条件で繋がらないこともあると聴いている。それでも下山していれば回線は繋がるはずだった。
「…えいじ…まだ、下山していないの?」
握りしめたままの携帯からBookmarkを開いて気象予報サイトへと繋ぐ。
そこからエリアを狭めて富士山の気象情報を周太は開いた。
そこにエリアニュースが入っている。
…エリアニュース…事故、それとも悪天候の?
携帯を握りしめる指が冷たくなっていく。
エリアニュースのボタンを押そうとしても指が動いてくれない。
ただ見つめる携帯の画面右上で、時刻表示がかちりと変わった。
10:00
…っ、英二!
心が悲鳴を上げて一挙に胸を迫りあがる。
そして黒目がちの瞳から堰切ったような涙がこぼれ落ちた。
「…あ、」
なぜ?どうして?
どうしていま自分の瞳から涙がこぼれ落ちるのだろう?
理屈なんてわからない、けれど何かが心を圧迫して涙が止まらない。
いったい何が起きているのだろう?
「…えいじ?」
なぜだろう、ただ「英二」だけが頭を廻ってしまう。
いったいどうして、なぜ?涙がこぼれて止まらないのは?
…この涙の理由に自分は向き合いたい、逃げたくない
逃げたくない、何があったとしても。
だって自分は英二の求婚に頷いた、もう婚約者できっと「妻」になる。
それは英二の伴侶として、全てを受けとめるという覚悟と決意に立つこと。
そして英二はいま母親との義絶から家族との連絡も稀になっている、それもすべて自分の為に。
そんなふうに英二は自分を選んでくれた、唯ひとりだけ欲しいと求めて全て捨てても隣に居場所を求めてくれた。
だから自分は知っている、きっと英二は自分の隣だけに帰ってくる。何があっても。
だから自分は受けとめたい。伴侶の自分が受けとめなかったら、いったい誰が英二を受けとめるというの?
「…そう、…俺がね、受けとめる…英二…」
周太は携帯を握りしめた、そしてエリアニュースを開いた。
09:30 富士山情報 吉田大沢で大規模雪崩が発生予測 現在入山規制中
10:05 富士山情報 吉田大沢で大規模雪崩10時頃発生 9合目から6合目まで崩落予測 現在入山規制中
頬伝う涙が冬の森の冷気につめたく零れていく。
こんなふうに山は何が起きるか解らない、けれど英二は駆け出していく。
それを自分も止めたくはない、だって英二が輝く場所がどこなのか、一番自分が知っている。
涙に揺れる視界にクライマーウォッチのデジタル表示が10:15を告げる。
…ね、英二?いま、どこにいるの?
いま富士山の吉田大沢には雪崩が高速で走り下っていく。
きっといま雪崩が巻き起こす爆風が北東斜面に吹き荒れている。
その場所は英二が昨日から今日にかけて訓練で登った斜面、ほんとうは今もう下山の予定だった。
けれど何かが起きて英二も国村も下山していない。だから、きっと、今、英二は、
…きっと、ひどい風と雪の中を耐えている
どうか帰ってきて英二?自分の隣に無事に帰って約束を叶えて?
あなたは自分の唯ひとつの想い、ただ一度の恋、そして唯ひとつ輝いてくれた希望。
だから帰ってきて英二、あなたが消えたら自分も生きてはいられない。
…英二?いま、雪がふっているね
最高峰にふる雪の花、どうか想いを伝えてほしい、逆境に立つあのひとへ。
あなたは自分の希望、想いの最初のまなざし。ため息はあなたを想う呼吸。
唯ひとり、他はいらない、だから富士の山よ、願いを聴いてください。
どうか帰してください、自分の元へあのひとを。
涙がこぼれて止まらない、それでも携帯の着信ランプは灯らない。
メールも電話も届かない、どうしてそんな遠くにいるの?いつも隣にいたいのに。
いつも隣で笑っていたひと、ほんの3か月半前までは。隣の部屋にいて隣に座って朝まで一緒に勉強して。
なのにいまはこんなに遠い、メールも電話も届かない、声も想いも届けられないの?
「…どうして?…」
周太は遠くの空を見あげた。
いま新宿の森に見つめる梢の彼方北西に、遠く聳える優雅な富士の山、日本の最高峰。
白魔と言われる白い風雪が踊る「魔の山」それが冬富士の1つの顔。
いまそこにきっと英二が立っている。
…英二?
逢いたい。
いますぐ逢いたい、もう今すぐに。
こんなの嫌、離れたまま置き去りにされて何も解らないのは。
きっと今は英二は風雪に耐えている、その英二をただ想うだけしか出来ないの?
こんなふうに連絡が遅れたことは一度だけ。
それは御岳の山ヤだった田中が遭難死した時だけだった。
あの夜も英二は電話が遅かった、そして届いた電話のむこうで泣きじゃくって、そして自分は?
「…となりに、」
涙と一緒に一言だけこぼれ落ちた。
きっと英二と国村は最高峰を踏破する運命のアンザイレンパートナー同士。
そんな2人だから今まだ山に斃れるはずはない、きっと無事に帰ってくる、そう信じている。
でも。そう信じていても、涙は止まってはくれない。
愛しているから1%でも失う可能性が怖い。
山ヤが山に立ったら自身を最後に救うのは山ヤ自身、どんなに想っても現場から英二を救える訳じゃない。
いま英二が立つ危険から救ってはあげられない、けれど英二を迎えてあげられるのは自分だけ。
だからせめて少しでも英二の近くに行きたい、少しでも近い場所から無事を願う祈りを届けたい。
そして笑顔で帰りを迎えてあげたい、自分が英二に出来る今の精一杯をしたい。
…となりに、すこしでも近くに、いたい
持っていた本を周太はブックバンドをしないまま抱え込んだ。
そしてパンの袋を持って立ちあがると、公園の小道を歩き始めた。
その頬にふっと冷たい花びらが落ちて周太は顔をあげた。
…雪、ここにも
ベンチにはココアの缶が1つ置かれたままだった。
公園を出て新宿警察署へ歩く道、ふる雪のなか周太は電話を繋いだ。
その番号は青梅警察署警察医の吉村雅也医師の携帯番号だった。
3コール程でかちりと音がして、穏かな落着いた声が応えてくれる。
「湯原くん、こんにちは?」
「…吉村先生、急に、すみません…」
温かな声に涙がまたこぼれ落ちていく。
歩きながら声が詰まって出てこない、それでも吉村医師は待っていてくれる。
穏かな気配にすこし心が寛いで周太はようやく声を押し出した。
「先生、…英二たちから、連絡はありましたか?」
「朝にメールをいただいてからは、無いですね」
答えてくれる声は落ち着いている、けれど何かを覚悟したような静謐が伝わってくる。
吉村医師は既に次男を山の遭難死に亡くしている。その記憶がともにあるのだろう。
そして自分にも13年前の春の記憶がある、あの後悔をもうしたくない。
しゃくりあげそうな喉を抑えながら周太は、一言だけ吉村に告げた。
「先生…警察官を辞めたい…っ、」
言った途端に涙があふれて声が詰まっていく。ふる雪が涙ににじんでしまう。
ほんとうに心から今の言葉を自分は言ってしまった、こんなこと人に言ったのは初めてだった。
父の想いを見つめるために母を泣かせても選んだ「射撃の名手の警察官」の道、それが今は疎ましい。
そんな想いと泣きながら歩く周太に穏やかな声が訊いてくれた。
「うん、…どうして、湯原くんはね、警察官を辞めたいんだい?」
こくんと1つ唾を周太は飲みこんだ。
そして呼吸1つしてから言葉を静かに紡いだ。
「先生…いちばん大切なひとの元へと、自由に駆けつける。その自由が欲しいんです…だから、今、辞めたい」
もう、こんなのは嫌。
こんなふうに離れたままで、ただ泣いて心配するのは。
田中の時もそうだった、あの夜もすぐ隣に行って、抱き締めて泣かせてやりたかった。
そして今きっと英二は生死の境界線に立っている、そんな時にも駆けつけられない立場がもう嫌だ。
警察官の道より家より何よりも本当は、選びたいことは唯ひとつだけ。それをまた今こうして思い知らされる。
「湯原くん、君の気持はね、私には解るよ」
穏かな声が言ってくれる。
吉村医師も次男の雅樹が遭難した時、すぐに現場に駆けつけて自分で捜索したかった。
けれど当時の吉村は大学病院のER担当教授だった、その為に病院から離れることが許されなかった。
そんな吉村だから、警察官として射撃特練として行動管理される周太の気持ちを解ってくれる。
こぼれる涙に頬を温めながら周太は歩いて吉村の言葉を聴いていた。
「湯原くん、君の宮田くんを想う気持ちはね、ほんとうに美しい。
いつも私はそう思う。だから君なら考えられるだろう?
お父様への想いで選んだ道を、宮田くんの為に途中で捨ててしまったら?宮田くんはどう考える?」
父の為に立った「射撃の名手の警察官」父と同じ道を辿る軌跡。
ただ父の想いを受けとめ理解して、ほんとうは孤独なままに死んでいった父の供養をしたい。
そんな想いを英二は知っている、そんな自分を英二は尊敬して愛してくれた。
そして父の道に立つ危険にすら英二は共に立とうと、きれいに笑って約束してくれた。
「…きっと、英二は…英二自身を、責めます…俺を曲げたと、想って…」
「そうですね、実直な宮田くんは、きっとそう思います」
穏かな声が微笑んでくれる。
電話越しでも温かい吉村医師の気配にすこし心が納まり始めた。
ゆっくり大きく呼吸して周太は言った。
「…ん、はい…先生、取り乱して…すみませんでした。俺…まだ、辞めません」
「うん…そうだね、湯原くん。君がね、後悔しないこと。それがいちばん大切です。いいですか?」
後悔しないこと。
その一言が温かくて、今の自分には難しくもある。
いったいどうしたらいいのだろう?
「はい、…でも先生?きっと俺、いま…奥多摩に行かなかったら、きっと後悔します…
英二がどちらの場合でも、きっと…今日すぐ、逢わなかったら後悔する。いま逢って伝えたい、だって明日があるか解らない」
明日があるか解らない、一瞬後だって解らない。
それは山岳救助隊に限ったことじゃない、今こうして歩いてすれ違う人たち誰も同じこと。
だから想いはその時に伝えなかったら、きっと後悔してしまう。
― 周、大切な想いこそね、きちんとその時に言わないと駄目だよ?
次いつ言えるか解らないだろう?だからね、その時を大切に、一生懸命に伝えてごらん
そんなふうに父は自分に教えてくれた。
そして父は春の夜に約束だけ遺して死んでしまった。
そうして自分は思い知らされた「もっと、お父さんの話を聴いておけばよかった」父の想いを、知りたかった。
だから自分は英二の元へと行きたい、今すぐに。明日は逢える予定だけれど、それでも今すぐに逢って想いを伝えたい。
こんなの警察官のくせに我儘だろう、それでも自分は我儘を通したくてたまらない。
そっと周太は携帯を握りしめて涙ひとつ零した。
「うん、わかったよ。湯原くん、君はね?まず、お昼ごはんを食べなさい。そして、今日はどんな予定だったのですか?」
「12時半から、術科センターで訓練です…15時からは当番勤務です」
「解りました。では、その予定通りにまずはね、過ごしてご覧?
宮田くんたちが青梅に戻るのは、きっと、夕方だろう?だからゆっくり対応を考えましょう、焦ることはありません」
落着いた吉村医師の言葉に周太は、ほっと息をついた。
この医師の穏やかな声は安心と信頼を感じさせてくれる、きっと大丈夫と思わせてくれる。
吉村医師の言う通りにしてみよう。素直に周太は頷いた。
「はい…俺、ちゃんと昼ごはん食べます。それから、術科センターへ行ってきます」
「うん、気をつけて行っておいで?」
そんなふうに話して電話を切ると、ほっと周太は息をついて見上げた。
白い空から雪はふってくる、富士にも雪はまだ降っているのだろうか?
気がつくと新宿署前まで歩いて来ていた、そのまま周太は独身寮へと戻った。
寮の談話室の自販機でコーヒーを買ってパンの紙袋を開ける。
クロワッサンをかじると馴染んだ味がやさしい、きちんと味が解って食べられている。
すこし心が落ち着いたのだろう、ほっと息をついて周太はクロワッサンとオレンジデニッシュを飲みこんだ。
食べ終えて自室に戻ると鞄へ公園に持って行った本2冊と、残りのパンたちをしまう。
それから制服に着替えて前髪をあげると、携行品を保管から受け取ると新木場の術科センターへと周太は向かった。
小雪が舞うなか周太は術科センター射撃場へと入った。
いつもどおりに射撃ブースを与えられて、いつもどおりの片手撃ちに構える。
いつもどおりに全弾10点に着弾していくのを、どこか遠いことのようにも感じながら周太は訓練を終えた。
終わって術科センターのゲートを出るとクライマーウォッチの時刻は13時半だった。
そっと携帯を取り出して画面を開いても着信は無い。
…英二、いま、どこにいるの?
見あげる白い空からは花びらのような雪がふる、そっと頬にふれすぐとける幻のような軽い雪。
ふる雪にため息を吐くと、ぼんやりとしたまま姿勢よく歩いて電車に乗り込んだ。
車窓から北西を見ると富士山が真白な裾を引いて美しい、その姿に周太は心冷やされてしまう。
あの真白な裾のなかで今日の9時~10時半に何が起きていたのだろう?
「…あ、」
涙がひとつだけこぼれ落ちてしまう。
今日は一体どれだけ涙をこぼしてしまっただろう?
こんなに泣いてばかりいてはいけない、そっと周太は指で涙を拭って微笑んだ。
…だって、英二の婚約者で、妻になるのだから
英二は7月になったら分籍をする。
そうしたら英二は戸籍上で家族が誰もいなくなる。
すでに英二は実母から義絶された時から実家に帰っていない、それでも英二は周太と生きる選択を動かさない。
そんな英二には家族と呼べるのは周太しかいない、だから自分がいつまでも泣いていてはいけない。
たとえ何があっても、自分が英二を支えなくてはいけないのだから。
「…ん、がんばろう」
微笑んで周太は新宿駅におりた。
クライマーウォッチを見るとまだ14:15だった、けれど早めに行って調べごとをしたい。
どこかいつもより浮んだような足取りに周太は新宿東口交番へ向かった。
すぐ勤務先の東口交番について雪を払ってから入ると、若林が周太を待っていた。
「ああ、湯原。早めに来てくれて良かったよ、ちょっと急な話で悪いんだが」
「はい?なんでしょう、」
制帽を脱いで周太は若林に返事をした。
そんな周太に若林はメモを見ながら説明をしてくれる。
「湯原、今からすぐに他の所轄へ出張に行ってくれないか?
今日の夕方と明日の正午過ぎまで、2日がかりになるが…明日は非番のところを悪いんだが、」
出張に行く。そうしたらもう今すぐ英二の元へはいけない。
それどころか明日会うことすら難しくなるかもしれない、ため息を吐きかけて周太は我に返った。
きっと真面目な英二だったら、仕事を投げ出すなんて考えられないだろう。
…自分は英二の妻になる、だから英二と同じように仕事を大事にしたい、「妻」の名に恥じない自分に近づきたい
いま自分が置かれた立場で出来る精一杯をしよう、それをきっと英二も望んでくれる。
覚悟と想いに微笑んで周太は若林の目を見た、そして快くうなずいて訊いた。
「はい、どういった出張ですか?」
「うん、ちょっとな、人員が限定される内容でな…湯原しか該当者がいないという話になってな」
頷いた周太を見て若林はメモを周太に渡してくれる。
それを見た周太の瞳が大きくなった。
内容:雪山における弾道の鑑識調査の協力
場所:青梅警察署管轄・雲取山他、武蔵野警察署射撃場
担当:青梅警察署警察医・吉村雅也 青梅警察署山岳救助隊副隊長・後藤邦俊
【派遣要員条件】
拳銃射撃及びライフル射撃の熟練者かつ鑑識知識が豊富で、登山経験者であること。雪山登山経験者が望ましい。
【備考】
拳銃およびライフル銃は青梅警察署備品を使用。アイゼン・ピッケル貸与。制服不要、登山装備必須。
「湯原は拳銃射撃だけじゃなくて、高校時代にライフル射撃でも優勝しているそうだな。
しかも湯原は卒配とはいえ鑑識も詳しいだろう?それに山岳救助隊の自主訓練にも参加している。
それで新宿署からも湯原を、って話になったんだ。それに湯原は吉村先生のことは、知っているな?」
若林に話しかけられて周太は顔をあげた。
この出張を承諾すれば周太は今すぐに英二の元へ行ける。それも公務としてだから堂々と新宿署の任務全てキャンセルできる。
この「派遣要員条件」は自分が努力した事ばかり、不器用な自分の努力が虚しい時もあるけれど今こんなふうに役立とうとしている。
すこし顔が赤くなっているかもしれないと心配しながら、頷いて答えた。
「はい、同期たちが先生にお世話になっています」
「うん、そうだったな。それで吉村先生からもな、
『青梅署の同期の方からも伺っています。湯原くんなら条件が揃うと思いまして』と言って新宿署に依頼が来たそうだ」
吉村医師が周太を奥多摩へ呼んでくれた。
あまり意外で呆然としながら周太は若林の目を見つめていた。
そんな周太の驚きを「急な出張に驚いたのだろう」と思ったらしく若林が説明してくれた。
「ほら、昨夜から午前中にかけてな、奥多摩に雪が降ったろう?それで急だけれど雪山での弾道調査が決定されたそうだ。
そこにも書いてあるが、拳銃は携行しなくて大丈夫だ。警察手帳だけ携行してくれ。
青梅署の方でテスト用に拳銃とライフルを用意してくれる。湯原は冬用の登山服と登山靴は持っているか?」
「はい、あります」
年明けに実家で英二と過ごした後、新宿で英二は「ちょっと買い物がある」と周太に言った。
そして連れて行かれたのは以前に登山ウェアを買ってくれたショップだった。
そこで英二は冬山用のウェア一式と登山靴を買ってくれた。
高いものをと心配する周太に、きれいな笑顔の強い押しで英二は贈りつけてしまった。
早速に役に立つことになった。
「じゃあ湯原、悪いが今すぐ新宿署へ戻って、仕度して出てくれ。
青梅署に着いたら診察室へ行けばいい。…あ、宿泊場所とか書いていないな?連絡入れてみるか?」
「大丈夫です、自分で手配します」
「ほんとうに、急で済まないな?明後日の週休は体休めてくれ、出張のまま青梅署の同期と楽しんでもいいしな」
「はい、ありがとうございます」
当番勤務から「出張」へとシフトを書換えると、急いで東口交番を出た。
新宿署へと戻る雪ふる道を歩きながら周太は吉村医師に電話を繋いだ。
すぐに出てくれて穏やかな声で笑ってくれる。
「湯原くん、急な任務をお願いして申し訳ありません、」
「いいえ、あの…先生、すみません。俺が、わがまま言ったから…」
申し訳なくて周太は素直に謝った。
けれど吉村医師は気さくに笑って言ってくれた。
「はい、わがまま言ってくださって光栄ですよ?
それにね、今回の弾道調査の件は本当に必要なのです。
拳銃とライフルと両方を同じ射手にお願いしたくて。そうすると人が限られるでしょう?
青梅署でも1名は確保できるのですが、データ照合の為にもう1名、どうしても要員が欲しかったんです」
青梅署でも1名、それはきっと1名しかいないだろう。
じゃあもしかして?ことんと心が跳ねたのを感じながら周太は訊いてみた。
「あの、先生…国村さんですよね?もう1名って…じゃあ、2人は帰ってきたんですか?」
どうかお願い、無事を聴かせてほしい。
そんな祈りに握りしめる携帯から穏やかな声が教えてくれた。
「はい。ふたりとも無事ですよ。
さっきね、国村くんから公衆電話で連絡がありました。富士山で遭難救助をしたそうです。
それで下山が遅くなりました。雪崩の電波障害で携帯が繋がらず、富士吉田署と救急への引継ぎもあって、連絡が遅れたそうです」
…英二、
唯ひとりの人、その人の無事が、こんなに嬉しい。
いま制服を着ている、それなのに涙がこぼれてしまう。
温かな涙がひとつ頬伝っていく、幸せに微笑んで周太は言った。
「ありがとうございます、…先生、じゃあ2人はまだ戻っていないんですか?」
「はい。きっとね、温泉でも入ってくるんじゃないかな?山小屋はお風呂が無いですからね。
だから湯原くんの方が先に、青梅署に着けますよ?ちょっと驚かそうと思って、ふたりには言っていないのですが」
可笑しそうな吉村の気配が伝わってくる。
楽しくて周太は頷いた。
「はい、内緒でお願いします。先生、すぐ行きますね?そしてコーヒー淹れます」
雪が止んだ。
きれいに笑って周太は空を見あげた。
白い雲が少しずつ晴れて抜けるような青が映りこむ、夕映は美しいかもしれない。
これから奥多摩の山に行ける、そしてあの隣に自分は帰る。
そうして言ってあげたい「お帰りなさい」それから抱きしめて話を聴かせて?
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