萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第31話 春兆act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-01-10 23:28:38 | 陽はまた昇るanother,side story
うけとめて想いにほほえんで




第31話 春兆act.2―another,side story「陽はまた昇る」

調理台に面した出窓からふる冬の陽射しが温かい。
よく台所は北向きの家が多いけれど、この家では東側に面して窓も2つとっている。そこからは庭の眺めと陽射しが気持ちいい。
おかげで出窓は温室のようにハーブ類の栽培に使える、そこへ手を伸ばして周太はイタリアンセロリとパセリを摘んだ。
母が作ってくれたスープの彩と風味づけに使うつもりだった、あとサラダにも少し入れる。
サラダには鶏肉、牛蒡、さつまいも、蓮根、人参とレタスを使ってある、根菜類と鶏肉はお節料理に使う下拵えを利用してみた。
こうすると昼食のサラダと同時にお節料理の支度も進められる。

…あと、甘いもの、お母さんきっと欲しいよね?…英二も甘いもの嫌いじゃないみたいだし

ここにある材料で何かできるかな?
すこし考えて周太は下拵えしたさつまいもを鍋に入れて酒、みりん、砂糖と蜂蜜に塩少々を加えて練り始めた。
それを濾器で滑らかにすると買ってきた蜜栗を加えてざっくり混ぜ込めば栗きんとんが出来上がる。
ここに仕上げに周太はバニラエッセンスを加える、こうすると香がよくなって甘さも引き立っておいしい。
それをボールにすこし取り分けると冷凍庫を周太は開いた。

「…きっと買ってあると思うけど…あ、」

見つけて微笑むと周太は冷凍庫からホームサイズのバニラアイスを取出した。
アイスが好きな母は大抵こうして買い置きしてある、蓋を開けてボウルへといくらか取り分けてまたケースを戻した。
ざっくり栗きんとんとアイスを混ぜ込んでならす、それから冷凍庫へとボウルをしまった。これでモンブランアイスになる。
食べる時に盛り付けてからココアをふりかけたら美味しいかな。そう考えながらお節料理の支度を進め始めた。

黒豆と数の子、昆布巻きは買ってきた。この3つは煮る・味をなじませる等の時間がかかってしまうから仕方ない。
周太はミキサーを出すとはんぺんをちぎって入れ、出汁とみりん、砂糖、はちみつ、卵を割りいれた。
スイッチをするとすぐにきれいに混ざってくれる、これを卵焼き用の厚手のフライパンで弱火でじっくり焼いていく。
ふっくらと火が通った所を見て裏返すと、きれいな焼き色がついている。
うまく今年も出来そうでうれしい、広げた巻簀へと上手に卵焼きを広げると熱いうちに巻き込んでいく。
きれいに巻き終わると巻簀ごと輪ゴムで止めて涼しいところへと置いた、冷めたら切り分ければいい。

「…紅白なます作ったよね、あと田作りもした…他に今作るものあるかな?」

すこし冷ましたり馴染ませるものは今、作ってしまう方が良い。
焼海老や筑前煮などは後でもいいだろう、そう思いながらエプロンのポケットからクライマーウォッチを出して時間を見た。
台所へ立って30分くらい経っている、そろそろ母と英二が戻ってくるかもしれない。
そろそろ昼食かな?周太は買ってきたパンをオーブンに並べて温める用意をすると、サラダをボウルに盛り付け始めた。
盛り付けたサラダをダイニングに運んで、具だくさんのスープを温め始める。
母がスープを作ってくれたお蔭でお節料理に時間をとれた、ありがたいなと思いながら周太はかまぼこの飾切を始めた。
「あやめ」「梅」それから縁起物の「結び」を3つずつ作ると、あとはシンプルな市松に揃える。
最後の一つを作り終えて皿に並べると、台所の扉が開く音が背後で聞こえた。

「周太、」

きれいな低い声が名前を呼んでくれる、きっと庭の散歩が終わったのだろう。
ゆっくり振向くと予想通りに英二が微笑んで立っていた。きれいな笑顔がうれしくて見惚れてしまう、そっと周太は微笑んだ。
けれど、まだ英二は花束を抱えたままでいる、なぜまだ母に渡していないのだろう?不思議に思って周太は訊いてみた。

「英二?…花、お母さんにまだ渡していないの?」
「うん。周太、ちょっと手を止めてくれる?俺、教えてほしいことあるんだ」
「ん、?…ちょっと待って」

どうしたのかな?瞳だけで訊きながら周太は包丁を置くと、流しで手を洗ってきちんと拭いた。
そしてスープ鍋の火を止めてから、英二に向き直って見上げると微笑んだ。

「…なに?英二」

見あげた切長い目が穏やかに微笑んでくれる、やさしく周太を見つめながら英二がこちらへ一歩踏み出した。
そして周太の前に立つと少し体をこちらへ傾けて、きれいに笑って英二は言ってくれた。

「周太、あらためて訊かせて?いつか必ず、俺の嫁さんになってください。
 そうして入籍することはね、周太から湯原の姓を法律で取り上げることになる」

― 入籍、…湯原の姓を法律で取り上げて…?

言葉に心が、とくんと響いて何かが周太に深くなる。
クリスマスの日にも英二が言ってくれた「男でも嫁ぐことが出来る方法」その話を真剣に向き合ってしようとしてくれている。
そんな決意が見上げている切長い目から、きれいに真直ぐ周太を見つめてくれている。

「けれど信じてほしい、この家は俺が必ず残してみせる。そしてこの家の想いも全て俺が周太に教えてあげる。
 よく考えて答えて周太?俺と入籍すれば湯原の姓は残せない。けれど家は守っていくよ。それを理解したうえで、答えて?」

真剣に考えて英二は今この話をしてくれている、そして「入籍」が周太にもたらす変化をきちんと話してくれている。
その変化で問題になるのは「入籍すれば湯原の姓は残せない」この意味を受け留めなくてはいけない。
よく考えて答えなくてはいけない、頬に右掌をそっと添えて考え込むように周太は頷いた。

「はい、……法律では英二の姓を名乗るしかない、そういうことだね?」
「そうなんだ。俺の方がすこし先に生まれたからね、年長者である俺の戸籍に周太が入るんだ」

英二の戸籍に周太が入る。
そうすれば湯原の姓は捨てなくてはいけない、それは湯原の家を断絶することになる。
この湯原家の跡取りは一人っ子である自分しかいない、だから自分が英二の戸籍に入ってしまえば湯原の跡取りは居なくなる。

…そうすれば自分はもう、湯原家の主になることは無い

書斎に置かれているビロード張りの書斎椅子。父が祖父が曾祖父が座ってきた湯原家の主のための椅子。
もし自分が英二と入籍を望むなら、あの椅子に自分が座って湯原家を守ることは無くなる。
そうしたら父たちの想いはどこへ行ってしまう?

…でも、英二?いま言ってくれたよね

―この家は俺が必ず残してみせる。そしてこの家の想いも全て俺が周太に教えてあげる

いま英二はそう約束してくれた。
だからきっと英二が全てを守ってくれる、そして父たちの想いも受け留めてくれるだろう。英二は必ず約束を守るひとだから。
そしてそんな英二を自分は恋して、愛して、唯ひとりだけ求めている。

…だから信じてずっと傍で生きていきたい

でも、英二の戸籍に入ることは「宮田家」の戸籍に入ることになる。
そして自分は知っている、その宮田家の大切な人が自分を受け入れてくれないこと。
そのひとは心から周太を憎んで、周太を許さないと思っているだろう。そのことを自分は解っている。
そう解っている、それがずっともう哀しくてならない。右掌を頬に添えたまま周太は首を傾げた。

「…でも、英二のお母さんは反対するでしょう?…だから宮田の戸籍には、俺、入れないと思う、けど…」

卒業式の夜、英二は周太に想いを告げてくれた。
その夜に初めて、心ごと体を重ねて想いを交して一緒に生きたいと共に望んだ。
そして卒業式の翌朝、英二は実家に戻ると家族に周太のことを話してくれた。
英二の父と姉は受け留めてくれた、けれど母だけは拒絶して英二の頬を叩くと義絶してしまった。

華やかな容貌は惹きつけるほど美しくて、能力もある大切な長男。
どんなに英二の母は誇らしく自慢に思っていただろう、可愛い息子の将来に夢を描いていただろう。
そんな夢をきっと23年間ずっと、英二の母は大切に温めて息子への期待を想っていた。

…それを、壊してしまったのは…俺と出会ったから、だよね?

なんども考えてきた、自分が英二にしてしまったことの罪を。
あの卒業式の夜に自分は英二の想いに頷いてしまった、それが英二を喜ばせると想ったから。
けれど自分が英二を受け留めれば、美しいままに与えられるはずだった英二の普通の幸せを奪うことになる。
その悩みにクリスマスの日までずっと周太自身が苦しんできた。

もう英二の想いから逃げないと決めている。
英二は素直な想いのままに真直ぐ周太を愛して、想いのままに求めて望んでくれる。
だから自分も想いに素直になろうと決めている、ただ真直ぐに向けられる想いを見つめて生きようと決めている。

…それでも、英二のお母さんは…

クリスマスまで苦しんできた想いは「英二の母」に対しては現実のこと。
決して目を背けてはいけない「英二の母」の哀しみと憎悪を自分は知っている。
だからきっと「宮田家」の戸籍には自分は入れない、心にため息を吐きながら周太は英二を見あげた。
けれど、そんな周太の顔を覗きこんで英二は微笑んでくれた。

「大丈夫だよ、周太」

泣かないでいいのに?そんなふうに目で言って英二が見つめてくれる。
目で言われて気がつくと右掌にひとしずく涙が伝っていた。そんな右掌に英二は自分の左掌を重ねて微笑んだ。

「俺ね、本配属が決ったら実家から分籍して自分の戸籍を作るんだ。
 もう俺は警視庁の山岳レスキューとして生きることになる、今後の配属は七機か奥多摩地域の警察署だ。
 どのみち俺の拠点はさ、奥多摩になるだろ?なら本籍を移した方が都合がいい。
 だから俺、世田谷の実家から分籍しようと思う。だから周太、いつか時がきたら俺の戸籍に入って?」

…分籍?

訊きなれない言葉に周太は心裡で首を傾げた。
英二の話からすると、宮田家の戸籍から出て英二単独の戸籍を作ることらしい。
警視庁随一のクライマーである国村のパートナーに選ばれた英二は、山岳レスキューとして任官し続けることが決定されている。
だから確かに言うとおり、拠点になる奥多摩に本籍がある方が公式的な手続きなどに便利ではあるだろう。

その理由も本当なのだろう、けれど本当には他の理由が大きいのでしょう?
そう考え込んでいる周太を、きれいな切長い目が真直ぐ見つめて、穏やかに微笑んで見守ってくれている。

「ね、周太?俺だけの一人ぼっちな戸籍は寂しいよ。だから周太、絶対に必ず、いつか俺と入籍してくれないかな」

ちょっと強引な入籍と求婚の「おねだり」とお願い。
これは自分に気を遣わせないため、そしてそれ以上に英二は自分の想いのまま「我儘」を言ってくれている。
そんな「おねだり」が可愛くて温かい、可愛くて可笑しくて周太はちょっと微笑んだ。

「俺がその…にゅうせきしないと、英二、ひとりぼっちになっちゃうの?」
「そうだよ。そんなの俺、寂しいだろ?」
「ん、…」

分籍すれば英二は戸籍筆頭者になる、そうしたら入籍も英二の一存で出来る。
そして自分を守る為に英二はリスクを厭うつもりが無い、そこに宮田の家を巻き込まない為に戸籍を分けるのではないの?
それに英二が山岳レスキューの道に立ったのもきっかけは、自分が警察学校の山岳訓練で怪我をしたことだった。

…分籍する理由。ほんとうは俺を守るため…それが全てなのでしょう?

自分のために英二は分籍までしてくれる。
まだ「分籍」の意味を自分は正確には知らない、けれど宮田家を英二が出てしまうことだとは分かる。
そんなふうに英二は自分のために生家を出る覚悟までしてしまった。
英二は実直で真面目な性質で責任感も強い、そんな英二が「長男」であることを軽く考えるはずがない。
そんな英二が長男であることまで捨てると言ってくれる。ただ自分を守る為だけに。

…ね、英二?…ほんとうに俺のために、すべて捨てるつもりでいるね?

どうしたらいいの?
こんなに想われて全てを懸けられて愛されている。
どうしたらいいの、こんな真直ぐな愛情は本当に自分に与えられているものなの?

…こんなこと、自分の現実に起きるなんて…どうして?

どうして?そんな驚きと不思議な想いに心が浚われそう。
けれど今ここは自分の台所で、いつものエプロンをして、現実に目の前に美しいひとが笑っている?
こんなに真直ぐに美しい想いで自分を見てくれる、こんなに想ってくれる美しいひとが現実に目の前にいる。
そんな美しいひとは周太に向かって、きれいに笑って訊いてくれた。

「周太、いつか必ず、俺の嫁さんになってください。ゆっくりでいい、よく考えた周太の返事を、また俺に聴かせて?」

きれいに笑って英二は、持っていた花束を周太に手渡してくれた。
あわい赤の冬ばら、純白の冬ばらとスカビオサ、クリームカラーと深紅のカーネーション。
赤いラインのきれいな八重咲きチューリップにアイビーのグリーン、それから白い花々がたくさん。
白い清楚と赤い艶が美しくて可憐な冬と春の花々、渡されて抱えあげた花束の翳から周太は英二に訊いた。

「あの、…これ、俺に、くれるの?」

母にあげる花束だと思っていた、でも英二の抱えていた花束は2トーンあった。
きっと2つを一緒に抱えて英二は、2つの花束を1つに見えるようにして隠していた?
こんなふうに自分に渡して驚かせようと考えていてくれた?そんな想いと見上げる先で英二は、きれいに笑って言ってくれた。

「そうだよ、周太。これはね、プロポーズの花束なんだ。花言葉で花も選んである、そこに付いているカードに書いてあるよ」

…プロポーズ、

言われて素直に周太はカードを手にとった。
そこには11種類の花々の意味がいくつかずつ書かれている、その意味と花の名前が「プロポーズ」だと本当に告げてくる。
こんな花束を自分が貰うだなんて?驚きと気恥ずかしさで首筋が熱くなってくる。

…でも、…うれしい、な

うれしい、素直にそう想えてしまう。
そんな周太の様子を見ながら英二は微笑んで教えてくれた。

「周太の父さんがさ、花言葉に詳しかったって言っていたろ?
 だからね、花屋でお願いして作ってもらったんだ。周太、気に入ってくれるかな?」

花言葉のカードと花束を見比べながら、頬まで赤く染まっていく。
もとから植物が好きだから、どの花がどんな言葉なのか見当はついてしまう。
今こうして抱いている花々どれもが英二の深い想いを告げてくる。

…この花束は、英二の求婚のラブレターで、一生の想いの約束…

こんなふうに自分が好きな植物に託して想いを告げてくれている。
その想いのために本当に全てを懸けて自分を愛そうとしてくれる。

  警察官の俺には、明日があるのか分らない
  だから今この時を大切に重ねて、俺は生きたい。湯原の隣で俺は今を大切にしたい
  湯原の為に何が出来るかを見つけたい、そして少しでも多く湯原の笑顔を隣で見ていたい
  湯原を大切に想う事は止められない、隣に居られなくても何があっても
  きっと、もう変えられない
  
卒業式の夜、そんなふうに英二は想いを告げてくれた。
その言葉の通りに英二は、あの夜から3ヶ月間以上ずっと周太を見つめてくれている。
たった3ヶ月間、そうかもしれない。けれどこの3ヶ月間には多すぎるほどの出来事があった。

あの3か月前の卒業式の夜に。
あの夜、初めての恋を自覚した瞬間に自分は大人の恋愛が始まった。
それからの3ヶ月間は止めていた13年間がいっぺんに動き出す時間だった。

恋をして愛して。その想いのために哀しみと憎悪の対象にもなって。
友達が出来て、嫉妬もして、身を退こうと考えたこともあった。
そして13年前の父の殉職事件に1つの決着がついて、1つ父の想いを見つめることが出来た。
そんな様々な想いの全てが自分にとって「初めて」のことばかりだった。
こんなに濃密な3ヶ月間は23年間の人生で「初めて」、今までに無い時間と記憶の積まれた3ヶ月。

そんな「初めて」への途惑いも涙も喜びも、全ては英二が隣で支えてくれたこと。
そしてどれもが、一度は泣いたとしても必ず最後には笑顔へと英二が変えてくれていた。

…そう、英二のね、きれいな笑顔…ずっと見つめたいって、想ったんだ

  お前の隣が、好きだ。
  明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい

卒業式の夜に告げた想い、今もその想いは変わらない。
それどころか尚更に深くなって、いまこうして台所にすら立っている。
そう、自分の想いは変わらない。想いはもっと深くなっていく、きっとそう。

きっと自分の想いはこれから、年月と記憶を重ねていく分だけ濾過されて、もっと深く澄んでいく。
この3ヶ月間が想いは静かに深まって、勇気も決意もこうして抱いていったように。
そんな確信と一緒に周太は花から顔をあげて、真直ぐに英二を見つめた。

「英二、『いつか』が来たら、…俺を、湯原の家から浚って?」

真直ぐに切長い目が周太を見つめてくれる。
その目は穏やかな静謐が温かで、実直な真摯と底に秘めた深い熱が映しこまれていた。
すこし首傾げて英二は周太に尋ねてくれる。

「周太、後悔しない?いま、約束してしまったら。本気で俺は、いつか周太を嫁さんにするよ?
 そうして一生ずっと、俺の腕の中に閉じ込めてしまうよ?…「湯原」の苗字すら奪って、俺の名前に周太をしちゃうよ?」

後悔なんてするわけがない。
だって本当はもう卒業式の翌朝に、とっくに自分は涙の底で気づいてしまっている。
いま言ってくれたこと「腕の中に閉じ込めてしまう」その言葉こそが嬉しいのだから。

…英二?ずっとね、望んでいたんだ…

あの朝に目覚めた瞬間。そのとき自分が見たものは、きれいな切長い目と美しい笑顔だった。
前日の卒業式の朝も寮の狭いベッドで、一緒に徹夜明けの朝を迎えた。
その時に見つめたのと同じ顔、けれどもう違う表情だった。
ただ想いを真直ぐに告げて求めてくれる、全てを許して愛しむ笑顔、本当にきれいだった。
そんなふうに見つめられて幸せで。その幸せの分だけ心が叫び声をあげてしまった。

 …お願い離れないで?ひとりにしないで
   このまま離さないで?どうかお願い、あなたの腕に閉じ込めて?
   離れたくない別れが怖い…離れなくちゃいけない、解っている、でも嫌…ただ一緒に、いたい

あの朝シャワーの湯のふるなか自分は泣いた。
ただ一夜で変えられてしまった体と心を、ひとり抱きしめたまま涙が止まらなかった。
そんな想いは声に出来ないまま心も喉も灼いて痛くて、痛くて。崩れそうな心も体も支えるのが精一杯だった。
そして母に想いを告げる時ですら自分はもう、本当は心の底から願ってしまっていた。

 ― 家を捨てても大切な母を捨てても、英二の傍に居たい、全てと引き換えにしても、一緒にいたい
   あの笑顔を見つめたい帰りたいあの隣に、今すぐもう逢いたい、あの腕の中に自分を帰して?

あのときの想いと願いが、いま叶うというのでしょう?
あのときの想いも願いも何一つ、自分にとっては変わらないままでいる。
それなのに後悔なんて出来るわけがない、これでもう、あなたから離れないで済むのだから。
そんな想いの真中にいる愛する人へ微笑んで、静かに周太は答えた。

「ん、…後悔しない。だって俺、決めているんだ、もうずっと…」

しずかなトーンで落ち着いた声が自分の唇から告げてくれる。
どうか想いを今こそ伝えさせて?ずっと自分が抱いていた想いを告げさせて?
あの夜からずっと想いつまれてきた、この想いをあなたに告げて応えたい。

「俺は英二の子供を、産んであげられない。
 けれどね、温かい家庭は…二人きりだけれど、でも、温かい家庭は、俺でも作ってあげられるかもしれない。
 そうやって俺、『いつか』英二のためだけにね、…生きたい。そう決めているんだ…だからその時が来たら、湯原の姓を捨てたい」

きれいな切長い目が見つめてくれる、やさしい穏やかな目はあの日と変わらない。
あの日よりも大人びて美しくなった笑顔で、静かに英二は訊いてくれた。

「周太、『いつか』ってどんな時のこと?」

ずっと使ってきた『いつか』、それを今ここできちんとしよう?
そんな想いが切長い目に微笑んでくれる、実直で真摯な心のままに真直ぐ周太を見つめてくれる。
このひとの想い抱き留めさせて?そっと想いの花束を抱いて周太は答えた。

「父の想いを全てを見つめ終わってね、…俺が自分の人生を歩きはじめる時。
 その時には…俺の人生をね、英二にあげたいんだ…
 そして一緒にいさせてほしい、英二だけの隣で居場所で、帰ってくる場所にね、俺はなりたい」

この想い、告げられた。
こんなふうに大好きなひとに想いを告げられてうれしい。
ほら、自分から告げられたひとは本当に幸せに微笑んでくれる。
きれいに微笑んで英二が周太の顔を覗きこんだ。

「周太、『いつか』が来たら必ず俺と籍を入れてください、それまでは俺の婚約者でいてください。
 どうか周太?『いつか』俺の嫁さんになってください。そして俺とずっと一緒に暮らしてください」

どうか頷いてほしいよ?そんなふうに笑いかけてくれる。
こんな幸せな「おねだり」を自分の台所で言ってもらえた、そして自分は想いの約束をこめた婚約の花々を抱いている。
自分にとって、こんな幸せな婚約はきっと他に無い。きれいに笑って周太は頷いた。

「はい、英二…やくそくする、ね」

きれいな幸せな笑顔が英二の顔に咲いてくれた。
こういう笑顔をずっと見たかった、そして自分はきっとずっと見つめさせてもらえる。
うれしくて微笑んで見上げる周太の肩を花束ごと抱いて、静かに英二は顔を近寄せてくれた。

「周太、婚約のキスだよ?」

穏やかに幸せなキスを、台所の温もりの中でふたりは重ねた。

…ね、英二?今日を、ずっと忘れない。きっとあなたを幸せにする、ね?

あたたかでやさしい想いに微笑んで、静かに周太は英二のくちづけを受けた。
やわらかにふれる熱が愛しくて、ふれる想いが温かで幸せがそっと充ちてくる。
これは決して楽な事ばかりじゃない選択、それでも一緒にいられる道であるなら選びたい。

― きみを愛している 幸せは、きみと一緒にしか見つけられない

きっと幸せを見つけてみせる、そしてこのひとを幸せにする。
きっと本配属になれば自分は父の軌跡を辿ることになる、それでも必ず無事にこの腕に帰ってみせる。
そして父の想いを拾い上げて受け留めて、この想いのために生きる道を掴みたい。
その道の途中でも自分はもう、このひとのもの。

「ね、周太?いま、幸せ?」

そっと離れて英二がきれいに笑いかけて訊いてくれる。
きれいな笑顔を見つめて周太は、きれいに微笑んで応えた。

「ん、幸せだよ、英二?…お腹すいたよね、すぐお昼ご飯にするね」

周太の言葉に幸せそうな笑顔が咲いてくれる。
うれしそうに英二が笑いかけて言ってくれた。

「うん、腹減ったな。俺ね、周太の作ったものが一番好きだよ?手伝いってあるかな」
「ん、…じゃあね、スープ皿と取り皿を出してくれるかな?…あの、花をね、水にいれてきていい?」
「うん、周太。あとオーブンのパンを温めればいいかな?」
「ん、5分くらいかな?…ありがとう、英二。お願いするね?」

笑って周太は抱きしめた花束を、水切りのために風呂場へと抱えていった。
きれいなバケツを出して花束をほどくと、バケツへと活けてシャワーをかけてやる。
冷たい水を浴びて花たちは息吹き返すよう滴にきらめいた。

「…きれいだね?…今日はね、想いを伝えてくれて、ありがとう」

約束の想いを語ってくれる花々に、そっと周太は微笑んだ。
こんなふうに植物は無言なようで饒舌でいる、植物って不思議だな?
そんな想いで見つめていると浴室の扉が開いて周太は振り返った。

「お花、きちんと受け取ったのね、周?」

微笑んで母が隣へと来てくれる。
立ち上がって周太は水を止めると、母の黒目がちの瞳を見つめて言った。

「ん、…お母さん、俺、ね…湯原の姓を捨てるんだ…」

あえて自分は母に相談しないで決めた、それが自分の立場の筋だろうと思えたから。
自分はこの家の唯ひとりの跡取りでいる、だから自分が湯原姓を捨てれば家名は「断絶」してしまう。
その決定をする相談を母にしてしまったら「断絶」の責任を母にも背負わせることになる。
その重荷を母に背負わせたくなかった、だからこの家の行く末は自分だけで決めた。

…その責任はね、俺ひとりが背負えばいい…だって、跡取りは俺だけだから

自分が他家に入籍すること。
それは湯原姓を消し戸籍も途絶えて、全てが「断絶」することになる。
その重みを自分も解っているつもり、だって一人っ子長男だから考えざるを得ないでいた。
父は何も語らなかった、けれど家の造りや遺された蔵書の贅沢さから感じられてしまう。
この家には歴史があることそんな節々から解っている、たぶん簡単に断絶を選べる家じゃない。

…けれど、英二は本当に、全てをね…俺のために、懸けてくれている

だから自分も全てを懸けてしまいたい、そうして英二の想いに応えたい。
自分は英二と生きることを選びたい、たとえ断絶しても後悔なんて出来ない。
きっとあの卒業式の夜にもう想いは定まってしまっていた。
もう自分で決めてしまった、けれど母には謝っておきたい。そっと周太は唇を開いた。

「お母さん、…お父さんが亡くなってから、この家を守ってくれたのは、お母さんだね?
 お父さんのために俺のために…守ってくれた。それなのに俺が、この家を終わらせてしまう。お母さん、ごめんなさい」

静かに頭を下げた周太の瞳から、ぽとんと一滴涙がこぼれた。
だって自分は知っている、母が女手一つで自分を育て家を守ることが、どんなに大変だったか。
父も母も両親はすでに亡くなっている、そして親戚なども全くいない。そんな孤立無援で母はひとりこの家を守った。
その母の想いを想うと心から申し訳なくて心が痛い、けれど自分はどうしても英二と生きていきたい。

「いいえ…周、謝らなくていいのよ?ほんとうよ」

穏やかなトーンの微笑む声が下げた頭にふってくる。
その声に静かに頭をあげて周太は母の黒目がちの瞳を見つめた。
いったいどういうことだろう?そう見つめる周太に母は微笑んで教えてくれた。

「お父さんはね、こう言っていたの『もう自分以外の誰も、この家に縛られないで欲しい』」
「…お父さんが?」

静かに頷いて母が微笑んだ。

「そうよ、周。あなたが生きたいように、あなたの想いのままに生きること。それがお父さんが望んでいたことなのよ?
 だから周太、あなたの決断は正しい。なにも知らなくても周太は、きちんとお父さんの想いに添って選択が出来たのよ」

父の想いを自分が気づけた?そういうの?
そうなら、もしそうなら本当に誇らしい。だって自分はそのために13年間を生きてきた。
ただ父の想いを探して見つめて、そのためだけに警察官にすらなって今がある。

「…お母さん、俺、…お父さんの想いを、きちんと見つけられている?」

「ええ、見つけられたでしょう周?今の決断だってそうでしょう?
 だからね、周太。きっと、あなたなら、きちんとお父さんの望みを叶えてあげられる。お母さん、そう想います」

こんな自分でも父の想いを受けとれた。
いつも本当は泣き虫なのは自分、逃げたいのは自分。けれど逃げたくなくてただ泣いているのは嫌で。
そして愛するひとまで見つけて守りたくて、そのために自分は強く賢くなりたくている。
そんな自分になる為にも父の想いを受けとりたい。
こんな自分でも父の息子、だから強く賢いひとだった父のように自分もなれるかもしれない。
そんな想いと父への哀惜から自分は、父の軌跡を追い始めてしまった。

だから母が言う通りなら嬉しい、うれしくて周太は微笑んだ。
そんな周太に母は可笑しそうに、そして幸せそうに種明かしをしてくれた。

「それにね、周?英二くんは言ってくれたのよ。
『この家の想いと記憶は俺が守りたいです。この家の空気も全部が好きなんです。だから背負えたら嬉しい』
 こんなふうに英二くん言ってね?お母さんに周太へのプロポーズをしていいかって、きちんと了解を訊いてくれたわ」

さっき屋根裏部屋から見た庭先の光景。
母と英二と並んで立って話していた、その場所は父の造ったベンチの前だった。
そういうことなの英二?気づいた英二の想いに心が温かい、そっと周太は母に確認した。

「…英二、…俺がお母さんには相談できないって、解っていて、先にお母さんに訊いてくれた、のかな?…それも、お父さんのベンチの前で」

「そうね、きっと彼なら、そういう考え方をするでしょうね?英二くん真面目だから。
 きっとね、お父さんの気配が見ている前を選びたかった。
 そうしてお母さん一人で決断するのじゃなくて、お父さんの代弁者にお母さんをしてくれたのだと思うわ」

どうして、英二?
どうしていつもそんなふうに、俺のことを解ってくれているの?
どうしていつもこんなにも誰のことも受け留めて、やさしく笑うことが出来るの?

「…っ、えいじ…」

こんな美しいひと、自分は他に知らない。
そんなにも美しいひとが自分だけを求めて想いを懸けて、想い込めて約束の花束を贈ってくれた。
母を見つめる視界に涙の紗がかかっていく、そして温かな滴が頬こぼれて落ちていく。
そう見つめる母の頬にも一滴きれいな光の跡がきらめいてこぼれた。

「ね、周?…あなた本当に幸せね?…だから周太、必ずあなたは、英二くんを幸せにするの。
 それがね、きっと一番の彼にとっての贈り物。
 そして、ふたりが一緒に幸せになることが、お父さんにも一番の幸せ。もちろん私にとっても、ね?」

どうしたらいいの?
自分に与えられている現実が幸せで途惑ってしまう。
ほんとうに自分は幸せで、そして父と母の想いが切なくて、温かくて。

…生きていて、よかった…

この想いが温かい、そしてこの想いを絶対に忘れたくない。
いま1月の上旬、この半年後には本配属が決まって自分は運命が動くだろう。
そのときには辛い道を生き抜かなくてはならない、そのとき今日この想いが自分を支えてくれるはず。
どうか決して忘れないように―そんな想いに周太は微笑んで、母に告げた

「…はい。お母さん、そして、お父さん…ありがとうございます…」

この家に生まれて、よかった。
この父と母の子に生まれて、よかった。
この場所に自分として生まれたから、自分はあの美しいひとから愛される幸せを得られた。
この得難い幸せだけ見つめて信じて生きていきたい。そうして困難も乗り越えて、あの美しいひとを幸せにしたい。

そのための勇気も決意も、自分はもう抱いている。
そんな想いに周太は、きれいに笑って母に言った。

「お母さん、お昼ごはんにしよう?…サラダちょっと工夫したんだ。デザートもね、簡単だけど作ったよ」
「うれしいな、周の作ってくれる甘いもの、おいしいのよね」

そんなふうに話しながら浴室から廊下へと出た。
並んで歩く廊下にふる冬の陽があたたかい、そして心にも温もりは充ちている。
きっと自分はもう大丈夫、そっと周太は微笑んだ。
そんな想いで台所の扉を開けると、大きな窓辺から外を眺めて英二が佇んでいた。

「周太、」

振り向いてくれる笑顔が心から幸せそうに咲いてくれる。
この笑顔のために自分は、どんな時どんな場所でも生きていこう?
そんな覚悟と決意がさり気なく心にことりと座って、きれいに周太は笑った。

「英二?…お待たせして、ごめんね。お昼ご飯にしよう?」



(to be continued)

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