おもうひとは唯ひとり、
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第33話 雪火act.3―side story「陽はまた昇る」
夕方から夜間にかけての弾道調査が終わり、奥多摩交番を出たのは19時半を過ぎていた。
標高の違う2地点での狙撃実験完了後、特設された実験場を片づけ明日の打ち合わせをして解散となった。
明朝は夜明前の6時に奥多摩交番へ集合となる、今日を終えて青梅署へ戻るミニパトカーで周太は眠りこんだ。
余程疲れたのだろう、墜落睡眠の癖が出たまま隣に座る吉村医師の肩に凭れこんでいる。
助手席から肩越しに振向いて英二は吉村医師に微笑んだ。
「すみません、周太がすっかりお世話になって」
富士登山訓練に行った英二は遭難救助と悪天候の為に下山連絡が遅れた。
それで不安になった周太が、青梅署で親しい吉村医師に連絡して泣いてしまったらしい。
そこで吉村医師は懸案事項だった弾道調査の実施に踏み切り、射手として周太の応援要請を新宿署に出してくれた。
そして今の周太は今日の任務を終えて、安心しきった顔で吉村に凭れて眠っている。
すこし紅潮した幼顔で眠り込む周太を見、吉村は温かく微笑んだ。
「いや、構わないですよ?むしろ私はね、うれしかったです。
湯原くんは純粋すぎるでしょう?だから心を開くことが難しい。そんな彼が私を信頼して泣いて頼ってくれた。
そして今こうして安心して眠ってくれています。こういう信頼はね、本当に嬉しいです。そして、私には懐かしい」
おだやかに微笑んで吉村医師は英二の顔を見つめた。
そしてそっと低い声で吉村は記憶を重ねて口を開いてくれた。
「宮田くんと初めて一緒に山へ登ったとき。
雅樹の話をしましたね?あの子が医者になろうとしたきっかけのこと。
あの日の雅樹も、パトカーで青梅署から私の実家へ送ってもらうとき、こんなふうに眠り込んでいました。
湯原くんは23歳ですが13年の時間を止めていた。心は10歳と、宮田くんに出会って過ごした9ヶ月半が精神年齢です。
だからかな?あの日の12歳だった雅樹を思い出します…きっと、今日のことは湯原くんにとって、本当に疲れたでしょうね」
肩越しに英二は周太の顔を見つめた。その寝顔は幼くて23歳の男とは思えない。
吉村医師が言う通り周太の心は10歳と9ヶ月半でいる、それを英二もよく解っているつもりだった。
そんな周太には今日の、英二の安否が確認できなかった時間は大きな負担だったろう。
ほんとうに可哀そうなことをしてしまった。そんな想いで見つめる英二に、運転席から透るテノールが低く笑いかけてくれた。
「ほんとにさ、かわいい寝顔だね?こりゃ眼福だな、俺の疲れは吹っ飛んじゃうよ」
「かわいいだろ、周太?でも寝顔だって俺のものだよ?」
笑って釘刺すと国村は飄々と笑った。
そして信号で停まった隙に英二の額を小突いてきた。
「はいはい、解っているよ。まったく仕方ない男だね?ま、手出しするならさ、おまえにするから安心しな。俺は美人好きだからね」
「俺だって嫌だよ?でも周太を守る為なら仕方ない、かな?」
ほんとに悪代官に身を差し出す小娘の気分だろな。
そんな想像に笑ってしまうと、横から国村も笑ってくれる。
そう笑いながらバックミラー越しに周太の顔を見、細い目を優しく笑ませると言ってくれた。
「ほんとに湯原くん、きっと疲れていると思うよ。俺たちの心配した上にさ、あの環境での狙撃だろ?疲れて当然だよ」
今回の狙撃は夕刻から夜間にかけて、雪の山中に設けた標高差がある2ヶ所の実験場を往復して行った。
時間としては夕刻・日没直後・夜間の3時点。場所は標高1,500m付近と1,800m付近。
各ケースの狙撃がどんな影響を受けるのかを、照準を定める所要時間・着弾率・弾道の伸びと角度などのデータを収集した。
光線量と気温、湿度、時間経過による雪の凍結に伴う足場の変化と標高が影響を受けるポイントになる。
とくに夕刻は光線量が刻々と変化していく為に視界が不明瞭になりやすい、「誰彼時」という言葉もそこから生まれた。
そんな狙撃調査の感想を、ハンドルを捌きながら国村が教えてくれる。
「湯原くんはさ、屋内の競技射撃に慣れているだろ?野外は全く環境が違うんだ、特に風と障害物が気を遣う。
でさ、初弾から夕方の視界が悪い状態での狙撃だった。そのあとも夜間の目視と暗視スコープを使っての狙撃だろ?
しかも足場は雪山だ、傾斜のある足場だけでも不慣れなのに、雪で滑りやすかったはずだ。
発砲の衝撃を受けたときは踏ん張りも大変だったろうね。どの条件にしても湯原くんは初めての環境だ。そりゃ疲れるよ?」
それでも周太は全弾中心点を撃ちぬいていた、そして国村も。
いつも国村はわざと2割は中心点を外して狙撃する。けれど今日の国村は全弾的中で狙撃した。
そんな国村の狙撃精度は生真面目な周太にとってプレッシャーだったろう。
けれどそのことは英二から触れることはしない、周太には周太の誇りがあることを英二も知っている。
英二は国村に訊いてみた。
「うん、そうだよな。やっぱり国村は平気なんだ?」
「まあね、俺はクマ撃ちがベースだからさ?山での狙撃が基本だ、時間も場所も選ばないよ。だからこっちの方が俺は気楽だね」
からり笑うと国村は青梅署の入り口近くにミニパトカーを停めた。
そして助手席を振向くと英二に笑って提案してくれた。
「ほら、宮田?荷物をまとめてこいよ。これじゃ湯原くん起きれないだろ?このままホテルまで送ってやるよ、」
「え、でも悪いな?」
ここからはプライベートなのに公務用のパトカーを遣うのは気が退ける。
いつもの真面目に英二が首傾げると呆れたように国村が笑ってくれた。
「ほら、先輩の俺が良いって言ってるんだ。さっさと仕度して来いよ?おまえもどうせ、一緒に泊まる気なんだろ?」
「うん、ありがとう。でもさ、ちょっと吉村先生の前で言われると俺でも気恥ずかしいな?」
そんなふうに笑いながら助手席の扉を開けると、英二は急いで独身寮の自室へ戻った。
外泊申請は弾道実験に行く前に提出してある、自分の着替えを手早くまとめて周太の荷物と一緒に持つと廊下へ出た。
そこにちょうど藤岡が通りかかって英二は微笑んだ。
「藤岡、おつかれ」
「お、宮田。富士訓練の後でさ、そのまま調査だろ?おつかれさま」
「うん、俺は大丈夫だよ。国村も元気だ、」
「そっか。俺も明日はサポート入るよ、ザイルの係なんだ」
一緒に歩きながら話して外泊・外出の申請窓口まで来ると英二は一声かけた。
それから急いで歩きながらまた話しはじめた。
「藤岡は明日、ほんとは非番だろ?」
「うん。でも宮田だって今日は非番で明日は週休だろ?それに湯原なんかさ、新宿から来てすぐ射手をやったんだろ?」
「あ、藤岡、射手のこと知ってたんだ」
「そりゃね?俺も明日は人員だからさ、説明で聴いたよ。よかったな、おまえら会えてさ」
人の好い顔で藤岡は笑ってくれる。
こんなふうに藤岡は気の良いヤツだ、けれどたまに無意識ですごい図星をついてくる。
そろそろ危ないかな?ちょっと覚悟したところに藤岡が、からりと言った。
「明日は5時過ぎにここで集合だよな。今夜はさ、湯原を疲れさせるなよ?じゃあ明日な」
藤岡の中ではすでに「英二は周太に手を出している」と確定しているらしい。
もう左肩の痣も国村と一緒に飲み会で見られているし、仕方ないのかもしれない。
それに人の好い藤岡はフラットな目で見てくれていることも英二はよく解っている。
それでも同期だからこそ話せないことも多い、それが寂しい気もするけれど仕方ない。英二は微笑んだ。
「おう、気をつけるよ?じゃ、また明日な、藤岡」
そんなふうに別れてミニパトカーに戻ると、吉村医師は相変わらず周太を凭せ掛けたまま座っていてくれた。
急いで助手席に乗り込んで英二は吉村に頭を下げた。
「すみません、先生。お帰りになりたかったんじゃないですか?」
「いや、大丈夫です。ちょっとの時間ですしね?」
おだやかに温かな眼差しで笑ってくれる。
そしてすこし済まなそうに静かに言ってくれた。
「堀内から聴きました、あと佐藤小屋のご主人にも。2人から雅樹に間違われたそうですね?」
「はい、」
短く答えて英二はきれいに笑った。
どうか謝らないでくださいね?そう目でだけ英二は吉村医師に伝えた。
そんな英二に微笑んで吉村は教えてくれた。
「2人ともね、宮田くんのことを好きだと言っていましたよ?そして言われました、
『しっかり救命技術と山を教えてやれ、そして雅樹の分も山へ登って貰え』そんなふうにね、笑っていました」
吉村医師の目許からひとすじだけ涙がこぼれた。
けれど笑って吉村は言った。
「雅樹のこと、尊敬してくれるんですね、宮田くん。2人から聴きました、そして私はね、心から嬉しかった。ありがとう」
本当のことを自分は言っただけ、けれど本音だから聴いて貰える。
きれいに笑って英二は答えた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
雅樹と自分の出会いは、生きてめぐり会ったことはない。
けれど誰かに聞かされるなかで、自分にとって大切な親しい人と思えてしまう。
そんな雅樹のことを尊敬している自分がいる。彼のように出会う人を救け、惜しまれる男になれたらいい。
そう考え事をするとすぐ、前にも周太が泊まったビジネスホテルへと着いた。
「じゃ、宮田。明日は5時過ぎに青梅署ロビーな?朝飯は食ってこいよ、昼は肚塞ぎの握飯が用意されるってさ」
「うん、ありがとう。また明日な、」
そんなふうに別れると英二はビジネスホテルのエントランスを潜った。
そう入ってきた英二を見てホテルマンが驚いた。
「お客さま!お加減でもお悪いのですか?」
英二は登山ザックを背負った救助隊冬服姿で周太を抱きかかえていた、その周太は登山ウェアを着ている。
山岳救助隊員が登山ウェアを着た人間を抱えていたら、遭難救助だと思われるだろう。
これじゃ驚かれても仕方ないかな?ちょっと可笑しくて笑いながら英二は答えた。
「いいえ、ただ疲れて眠っているだけです。先に部屋で寝かせてからのチェックインでもよろしいですか?」
「はい、かしこまりました。ではお部屋でお手続きのご案内を致します、このままではドアも開けられませんでしょう?」
「そうしていただけると助かります、お手数をすみません」
部屋へ案内されて開錠してもらうと、周太をソファへおろしてから英二はチェックイン手続きを済ませた。
もとから周太が予約した部屋と別室で英二は自分の部屋をとった。今回の周太は公務だから領収書を提出するだろう。
そのときに領収書が英二と同じだと困ってしまう。
でも、同じ部屋に泊まるけどね?そう心に思いながらソファを覗きこむと周太は眠っている。
ウェアの上着だけ脱がせて毛布を掛けると、英二は救助隊服のアウターシェルの上着だけ脱いだ。
クライマーウォッチを見ると20時半前だった、きっと駅ビルの食品街はまだ開いている時間だろう。
周太はいつ起きるか解らない、それに明日の朝食も必要になる。私服のミリタリージャケットを羽織ると英二は外へ出た。
買物をして戻ってくると周太はまだ眠りこんでいる。
しずかに買ってきたものをサイドテーブルに置くと、英二は浴室のバスタブの蛇口をひねった。
そっとソファを覗きこむと周太はかすかな紅潮した幼顔で眠っていた。
「…いつ見ても、かわいいな」
うれしくて微笑んで英二は毛布を掛けたままでそっと周太の服に手をかけた。
そして眠り込んだままの周太を浴室へ連れて行くとバスタブの湯に気をつけて浸からせてやる。
これで起きるかな?そう見ても少し身じろいだだけで起きてくれない。
こんなことが前にもあった。
―お父さんの殺害犯に、会った日の翌朝だったな
周太の父の殺害犯は更生してラーメン屋の主人になっていた。
その彼に会いに行ったときも英二は山岳救助隊服を着ていた。
そのあと泣いていた周太を放っておけなくて英二は、新宿に泊まって翌朝は周太を奥多摩へ連れ帰った。
あれから2か月以上が経った今、また救助隊服を着た英二は今度は奥多摩で周太を風呂に入れる。
なんだか既視感で可笑しいな?ちょっと笑って英二は自分も救助隊服を脱いで浴室の扉を閉めた。
周太が目を覚ましたのは風呂も済んで、いつもの白いシャツに着替えさせた後だった。
先に急いで服を着た英二が周太のシャツのボタンを留め終わった所で、ベッドの上で周太は睫を開いた。
披いてくれた瞳がうれしくて英二は笑いかけた。
「おはよう、周太。俺の婚約者さん、」
黒目がちの瞳がひとつゆっくり瞬く。
すこし小首を傾げて不思議そうに周太は見上げてくれる。
そして静かに手を伸ばして英二の頬に掌を添えてくれた。
「…えいじ?」
呼んでくれた名前がうれしくて英二はきれいに笑った。
見つめる周太も綺麗に微笑んで、掌でくるんだ英二の顔をそっと惹きよせてくれる。
頬ふれる温もりがうれしくて、英二は惹かれるままに周太の唇にキスをした。
かさねた唇からこぼれる吐息がなつかしい。
やわらかな温もり、ふれる甘やかな気配、しずかな想いが充ちてふれてくる。
今日の朝には風雪の中に自分は立っていた、この唯ひとりを想って帰りたいと痛切に願った。
そして今は現実にくちづけをして温もりにふれている、そんな幸せな想いが温かい。
しずかにキスを離れて英二は周太を見つめた。
「周太、俺のこと、迎えに来てくれたね?…ありがとう、周太。愛してるよ」
「…ん、…ただ待っているのは、嫌だったんだ…あいしているから」
気恥ずかしそうな紅潮が昇る頬を見下ろしながら英二は幸せだった。
周太は泣き虫で純粋で、けれど聡明な努力家で潔癖に誇り高い。
その誇り高い潔癖が周太を支えて、孤独にも凛として立って13年間を生きてこられた。
そんな周太は泣くことは出来なかった、けれど英二に素直になった周太は涙を流すようになった。
そうして今日も周太は吉村医師に素直に泣いて、英二の為にここまで来てくれた。
「周太、おいで?」
笑って英二は周太を抱き上げるとソファに座らせてやった。
そして買ってきたパンと洋惣菜をならべると、グラスに飲み物を注いで周太に渡してやる。
オレンジ色の発泡性の飲み物に周太が気恥ずかしげに英二の顔を見あげた。
気付かれちゃったかな?笑いかけながら英二は周太のグラスに自分のグラスでかるく触れた。
「ミモザだよ?軽めの酒だし一杯だけだ、よく眠れるようにね、周太?」
スパークリングワインとオレンジジュースでつくったカクテル「ミモザ」は欧州では結婚式の祝の酒として飲まれる。
それを英二は知っていて、婚約を申し込んだ年始の夜にこれを周太に飲ませた。
その時の記憶が気恥ずかしいのだろう、首筋を赤く染めながら周太はグラスを見つめ、それから微笑んだ。
「…ん、はい」
恥ずかしげに頷くとグラスに口をつけてくれる。
ひとくち飲んでほっと息をつくと周太は微笑んでくれた。
「おいしいね?オレンジの香で好き…けっこんしきのなのは…はずかしいんだけど」
「うん、周太。やっぱり気に入ったみたいだね、好きなら恥ずかしがらずに飲んで?周太、オレンジのケーキもあるよ」
「あ…うれしいな、甘いもの、ちょっと食べたかったんだ。あ、」
急に思い出したように周太は席を立つと、自分の大きなボストンバッグを開いた。
気をつけながら紙袋を取出すと、それを持って周太はソファに座りなおした。
その紙袋に見覚えがある、微笑んで英二は訊いてみた。
「いつものパン屋、今日も行ったんだね、周太?」
「ん…いつもね、当番勤務の日はここで買って、夕飯にするんだ」
また恥ずかしげに言いながら袋を開けると、皿の上にクロワッサンとオレンジブレッドを出してくれる。
見覚えのあるクロワッサンがうれしくて英二は周太に訊いてみた。
「ね、周太?このクロワッサン、半分こしてくれる?」
「1個ぜんぶ英二が食べてもいいよ?…俺、オレンジの食べたいし」
やさしい笑顔で英二に笑いかけてくれる。
けれど英二は微笑んで半分にすると1つを周太に渡した。
「はい、周太?俺ね、半分こしたいんだ。周太とね、1つを分けっこしたい」
「そうなの?」
不思議そうに周太が見つめてくれる、そんな様子も可愛くて英二は周太の頬にキスをした。
ふれた頬があわく赤に彩られていく、こういう初々しい周太が英二は大好きだった。
やっぱり周太、かわいいな?そんな婚約者がうれしくて見つめながら英二はクロワッサンをかじった。
そしてふと露天風呂の一件を思い出して、すこし笑ってしまった。
「どうしたの、…英二?」
素直に半分こしたクロワッサンを食べながら訊いてくれる。
真白なシャツを着た周太は純粋で清楚な艶がきれいで、ほっと英二は見惚れながら微笑んだ。
「うん、周太はね、きれいで可愛くって、大好きだなあって思って」
「それで、笑っていたの?」
「そうだよ、周太。周太が俺の婚約者で良かったなあってさ、幸せで笑った」
「ん…?そう、なの?」
不思議そうに聞いてくれる様子が、だいぶ元気そうで英二は少しだけ安心した。
さっきまで周太はぐったりと墜落睡眠に眠り込んでいた、それだけ疲れ果てたのだろう。
熱でも出したらと心配だったけれど、いまはすっかり元気になって食事もきちんと摂り終えてくれた。
そしてコーヒーを周太は淹れてくれると、うれしそうにオレンジのケーキにフォークをつけた。
「ん、…英二、このケーキおいしいよ?」
「よかった。ね、周太?俺にもひとくちくれる?」
「はい、どうぞ?」
やさしく微笑んで周太はケーキ皿を差し出してくれる。
けれど英二は笑って長い人差し指で自分の口元を指差してみせた。
「ね、周太?あーん、してよ」
言われて皿を持ったまま周太が停まってしまった、その首筋に紅潮が昇っていく。
こんなことでも周太は気恥ずかしがって、赤くなってしまう。
でもしてほしいな?隣にすこし体を傾けて英二は微笑みかけた。
「お願い、周太?俺、周太に食べさせてほしいよ?」
「…そう、なの?」
「そうだよ?」
すこし指先を触っていた周太はフォークを持つと、オレンジのケーキを一口分切ってくれる。
そしてフォークの先に刺して英二の口元へ持ってきてくれた。
「あの、はい…」
頬まで赤くしながら「精一杯です」という顔が困っている。
これは「あーん、って言ってよ?」とまで要求したらきっとダメだろうな?笑って英二は差し出されたケーキを口に入れた。
ほろりオレンジの香がとけて甘さが口に広がる、これはきっと周太好みの味だったろう。
そう思いながら口を動かして隣を見ると、赤い頬のままで周太はケーキを口に運んでいる。
その唇の端に赤いものがついていた。たぶんトマトかな?そっと顔を近寄せると英二は周太の口もとを舐めとった。
「…っ!」
黒目がちの瞳が大きくなって呼吸が一瞬止まってしまう。
そんなに驚かなくてもいいのに?そう瞳を覗きこむけれど驚く様子が愛おしい。
やっぱり自分は周太が可愛くて愛しくて他を考えるのは無理だろう、微笑んで英二は周太に教えた。
「トマトが付いていたんだよ、周太?」
「…ん、はい…とってくれてありがとうございます」
少し困った顔で自分でも指先でそのあとにふれている。そんな様子が可愛らしい。
さっき吉村医師にも言われたように周太の心は、やっと10歳10か月を迎える少年のままでいる。
そういう少年のような可愛らしい23歳の周太が好きな自分は、ちょっと合法的犯罪者みたいだな?
そう思ったときにアウトローな自分のアンザイレンパートナーを思い出してまた英二は笑ってしまった。
「英二?…今日はどうしたの?」
「うん?ね、周太?もし俺がね、誰かに襲われちゃったら、どうする?」
なにげなく英二は訊いてみた。
さあ周太は何て答えてくれるだろ?そう覗きこんだ瞳は驚いて大きくなっている。
この顔が可愛くて英二は好きだった、かわいいなと見て思わずキスをして、英二は微笑んだ。
けれど周太は哀しそうに俯いてしまった。
「周太?ね、どうしたの?」
哀しませてしまった?
すこし焦って英二は周太の顔を覗きこんだ。
そう見つめる周太の瞳から涙がこぼれている、そして小さな声がそっと周太の唇からこぼれおちた。
「…くにむらさんと、なにかあった、の?」
そう言って周太は膝を抱え込んでしまった。
この姿勢になった周太を英二は見たことがある。
― 修学旅行の時、周太は俺に誰か好きな人がいる、て思ったんだよな?
そして周太はこの姿勢になって「今は近寄らないで」と全身で訴えていた。
いま周太は同じ姿勢になって抱えた膝に顔を伏せてしまっている。
きっとあのときと同じ意味で周太は、この姿勢のなかに閉籠ってしまった。
「…周太、」
英二は膝を抱きこんだ周太をそのまま背から抱きしめて頬に頬寄せた。
寄せた頬がふるえている。
周太は泣いている、ふるえる肩もかすかな涙のむ声も周太の哀しみが痛い。
周太は今日こうして来るために「吉村医師に電話で泣いてしまった」と言っていた。
周太がそんなふうに泣くのには、いったい何の話を吉村医師にして周太は泣いたのか?
そこまでして周太が来てくれたのに、こんな誤解に泣かせてしまっている。
自分が不甲斐なくて哀しい。
けれど今は自分のダメさや哀しみよりも周太の誤解をきちんと解いておきたい。
そしてこうなった周太には全てを正直に話した方が良い。
どうか逃げないで聴いて?そんな想いと抱きしめて英二は口を開いた。
「国村ね、怪我しただろ?それをさ、あいつ本当は誰にも知られたくなかったんだ。
山ヤが誇り高いのは自分のミスを許さないからだ。
謙虚に山を学んで自分のミスを許さない、そんな誇りが山を登る自由を山ヤに与えてくれるんだ。
だから最高の山ヤの心を持った国村にはね、自分のミスじゃなくても遭難しかけたことが許せないんだ。
あいつはさ、尊敬も憧れも愛情すらね、全てを『山』に見つめている。あいつには山が全てなんだ。
そんな山に自分が怪我をさせられたなんてね、国村は誇りに懸けて許せなくて、誰にも知られたくなかったんだ」
抱きしめている肩のふるえは止まらない。
けれど周太は聴いてくれている、やさしい周太には無視するなんて残酷は出来ないから。
そんな周太の優しさに自分はどれだけ癒されて甘えているだろう?
まだ10歳10か月にもならない周太の心に、どれだけ自分は受け留めて貰っている?
― このひとだけが欲しい、隣にいたい
心から願ってしまう、この純粋無垢なままでも勁く真直ぐな優しさを抱いているひと。
だから祈ってしまう掴まえてしまう、このひとには嫌われたくない、誤解されていたくない。
どうかお願いだから聴いてほしいよ?抱きしめる腕にやわらかく力を籠めて英二は続けた。
「だから国村はね、俺に口止めしようとしたんだ。こんなふうにね?
『誰かに喋るならそれでも構わない、きっと知られたらストレスだろう、でもおまえで楽しませて貰えば解消できるから』
そんなふうに俺のことをね、あいつ脅迫したんだよ?あいつはね、俺を手籠めにしたって自分の山ヤの誇りを守りたいんだ」
「…てごめ?」
ぽつんと周太が訊いてくれる。
でも訊かれた単語がちょっと困ったな?けれど抱きしめる腕に力こめて英二は答えた。
「無理やりにね、裸にさせてしちゃうことだよ?でも大丈夫、俺はそんなことされていないから」
「…ん、」
ちいさなこえ、だけれど頷いてくれた。
まだすすり上げる小さな声がふるえる肩のはざまから零れおちてくる。
泣きながらも一生懸命に聴いてくれようとしている、このひとが自分は愛しくてならない。
微笑んで抱きしめながら英二は言った。
「国村はね、雪山に怪我をさせられた。けれど、雪山によって手当てされたんだよ、周太」
「…雪山が、手当て?」
顔はまだ上げてくれない。それでも涙の間から相槌を打ってくれようとしている。
いま哀しんでいるのは周太、それなのに英二を気遣って一生懸命に相槌をしてくれる。
やさしい婚約者の想いに微笑んで英二は続けた。
「そうだよ、周太?雪の塊がぶつかって国村は打撲を負った。
その直後に雪に埋められることで怪我は冷やされ固定された、雪へ埋まることで応急処置と同じ効果を受けたんだ。
そして国村の怪我は最小限で済んだ。だから俺は思ったんだ。国村は本当に山に愛されている、本当に山の申し子だってね。
こういう事があるのかって不思議だった。でも国村らしいって思ったよ。だから俺はね、あいつに思ったまま言ったんだ」
「…ん、…よろこんだでしょ?国村さん」
「うん。明るい顔でね、うれしそうだったよ、周太」
小さな声の相槌にも相手への気遣いまで周太はしてくれる。こんなふうに周太は自分より相手を気遣ってしまう。
そういう周太だから相手に遠慮して自分から他人へ踏み込めない、辛い人生の自分に誰かを巻き込みたくない。
だから周太は13年間なおさら孤独に生きて自分の心の時まで止めてしまった。
この優しいひとの為なら自分は全てを懸けてしまう、だからその想いをいま告げたい。英二は抱きしめて微笑んだ。
「そこまでしても国村が誇りを守りたい気持ち。それは俺にも解るんだ。俺もね、周太のことでは同じだから」
そっと周太の顔が膝からあげられた。
涙のあとが瑞々しい頬はすこし紅潮して黒目がちの瞳が濡れている。
この顔が愛しくて切なくて英二はそっとキスをした。
「周太?俺はね、周太を守る為なら何だってする。
周太を守って幸せにする事、それがね、俺にとって一番の誇りなんだ。だからお願いだ、周太?俺を捨てないでよ」
黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
微笑んで抱いていた膝から離れた掌が英二の頬に添えられる。
そしてきれいに笑って周太は英二の唇にくちびるを重ねてくれた。
おだやかな温もりがふれて甘いオレンジの香がそっとはいりこむ。
ふれるだけ、それなのに甘くて蕩かされてしまう英二が愛するキス。
幸せな想いが温かでやさしい、いつも傍にいてほしいと願ってしまう瞬間が胸に痛い。
そんな痛みと一緒にしずかに離れて、黒目がちの瞳が真直ぐ見つめてくれた。
「捨てない。俺は英二の隣でいたい。
だから今日も俺、…ごめんなさい、英二…ほんとうは俺、今すぐに、警察官を辞めようって思ったんだ…」
「周太?どうして、」
すこし驚いて、けれど穏やかに英二は訊いた。
殉職に斃れた父親の軌跡を追うために、無理にでも努力を積んで警察官の道に立った周太。
それなのに父親の軌跡もその想いも、見つめ終わる前にその道を捨てるだなんて?
この道に立つ覚悟を警察学校時代に周太は英二に話してくれた、それは頑固なまでの強い覚悟だった。
それをどうして?そんな想いに見つめる真ん中で周太は静かに唇を開いた。
「いちばん大切なひとの元へと、自由に駆けつける。その自由が欲しい…だから警察官を辞めようとしたんだ」
黒目がちの瞳に涙の紗が降りる。
それでも周太は涙こぼさずに英二を真直ぐに見つめた。
「いま…奥多摩に行かなかったら、きっと後悔します…そう吉村先生に言ったんだ。
英二がどちらの場合でも、きっと…今日すぐ、逢わなかったら後悔する。いま逢って伝えたい、…そう言ったんだ」
「俺たち、明日には逢う約束をしていたよね。それなのにどうして周太、いま俺に逢いたかったの?」
おだやかに微笑んで英二は訊いた。
その英二を真直ぐに見て、周太は言った。
「だって…明日があるか、解らない…っ、」
周太は英二に抱きついた。
「…英二…!」
背中に腕を回してくれる、ふれる掌が温かい。
やわらかな髪から香りたつ英二が洗ってあげたシャンプーと、周太自身の穏やかで爽やかな香。
むねにふれる温かな鼓動がすこしだけ早い、ふるえる肩から周太の不安と想いがあふれだす。
あふれる想いに見あげる黒目がちの瞳から涙がこぼれ落ちていく。
「英二、待ってる、いつまでだって…
だから帰ってきて英二、俺の隣だけに…お願い、英二、他のところへなんて行かないで…!」
呼んでくれる名前、告げてくれる約束、そして言ってくれる「お願い」と想いの祈り。
どれもが涙がとけて、ふれる温もりが現実のことだと告げてくれる。
この声に涙に温もりに、どれだけ想ってくれるのか伝わってくる。
やさしい指がそっと頬の傷にふれて、また涙がこぼれ落ちていく。
「…怪我…なんて…ダメ…
俺の知らない所で、怪我なんて、しないで!…無事でいて、お願い…笑って帰ってきて、…!」
冷たい風雪の氷に裂かれた頬を撫でて、黒目がちの瞳が訴えてくる。
英二を見つめて涙と想いをあふさせて、強い願いと祈りをこめて自分の目を見つめてくれる。
どこまでも純粋なまま泣き虫で、それでも強く凛と立つ姿が美しくて、決して逃げない潔癖。
そうして自分の為に1つの勇気を抱いて決意を持って隣に立ってくれている。
この純粋な瞳ばかり見つめて英二はここまで来た、そして今こうして求められることが幸せで英二は微笑んだ。
「周太、必ず帰るよ?俺はね、ほんとうに周太だけだから」
「…ほんとうに?…英二、」
抱きしめる肩は鍛えた痕がわかる、けれど本当は華奢な骨格だと知っている。
頬にふれる指は武道のために節が立っている、けれど本当は繊細で草花を摘むと知っている。
ほんとうはどこまでも繊細でやさしいひと、それでも父への想いの為に困難にも真直ぐ立っている。
「周太、ほんとうに周太だけ。俺にはね?周太だけが、きれいなんだ」
どうしてこのひとを抱きしめないで、他の誰かを抱きたいと想えるだろう?
出会った瞬間から想っている、憧れて反発してそれでも隣にいたくて。
掴みたくて耐えて、それでも応えあって繋ぎとめてしまった。
「周太?俺はね、周太の為だけに全て選んでここにいる。だからね、周太?
俺が消えるのは、周太が消える時だけだ。そうして俺はね、ずっと周太の隣に帰るよ。離れたりしない」
「…ほんとう?ずっと隣にいてくれる?…何があっても?」
「何があっても、約束だよ、周太?」
きれいに笑って英二は、長い腕で周太を抱きしめた。
抱きしめて抱き上げて、額に額くっつけて英二は微笑んだ。
「ね、周太?こんなことしたいのはね、周太だけだよ?」
「…ん。…でも、遭難救助とかでは、抱っこするでしょ?」
「抱っこはね?でも周太、おでこくっつけたりしないよ?」
「ん、」
含羞んだように笑ってくれる、そんな笑顔が大好きで幸せで英二はキスをした。
そしてベッドへ座らせると隣に座って、微笑んで周太に訊いた。
「周太?いま着ているシャツ、なんか違うって気づいてる?」
「…ん、…サイズ大きいかな、て…」
気恥ずかしげに答えて周太はシャツの袖をすこしひいた。
気付いたけれど黙って着てくれていた、きっと嫌じゃなかったのだろ。
「そうだよ、周太?それはね、俺のシャツなんだ。
年明けの時、大きいサイズ着た周太がね、ほんとに可愛かったからさ。俺、また見たかったんだ、」
「ん、…そうなの?」
「そうだよ?ほんと癒される、かわいいな、周太」
寮から白いシャツを2枚英二は持ってきた。
そして1枚を周太に着せて眺めて、さっきから幸せな気分でいる。
幸せで微笑む英二に周太は、そっと訊いてくれた。
「あの…もしかして、風呂も、…入れてくれたの?」
「周太、シャンプーの香するだろ?」
言われて真っ赤になると俯いてしまった。
ほんとうは結婚したら時折は一緒に風呂に入ると周太は言ってくれている。
けれど今回は周太は眠り込んでしまっていた、不可抗力だよ?目で言いながら英二は微笑んだ。
「周太、すごく可愛い顔で眠って、起きてくれなかったんだ。
でも雪山の後だからさ、体を温めないといけないだろ?だから俺が抱っこして、一緒に風呂に入ったんだよ」
「…だっこしてなの?」
ますます気恥ずかしい顔できいてくれる。
そんな初々しい様子もうれしくて英二は笑って答えた。
「うん、すごく可愛かったよ、周太。
それにさ、明日は4時には起きる。早起きで狙撃は大変だ、周太を疲れさせたらいけないだろ?
だから今夜は俺、周太を抱いちゃいけないからさ。だからね、周太?風呂で見るのくらい許してよ、ね、周太?」
周太は黙り込んでしまった。
そんなに嫌だったのかな?すこし心配になって周太の顔を英二は覗きこんだ。
「嫌だった、周太?ごめんね…っ、」
覗きこんだ英二の唇に周太が唇を重ねてくれた。
そっと重ねた唇からふれる吐息がオレンジの香に甘やかで惹きこまれてしまう。
― 周太、
重ねたキスが深くなる、覗きこんだ体勢のまま英二は周太の肩を抱きしめた。
そして周太を長い腕に抱きこめキスをして、英二は白いシーツの上に仰向けて周太を見あげた。
白いシャツ2枚を透かして温もりが寄りそってくる。
くちびるが静かに離れると、やわらかな感触が頬の氷の傷へとおりてくる。
ふるような口づけが頬の傷にふれて、額に目許にとキスがふる。
やわらかで温かな感触に英二は周太の体を抱きしめて囁いた。
「…周太、だめだよ…そんなにキスしたら、俺、…きっと抱いちゃう、我慢できなくなるから、」
きっと歯止めが効かなくなる。自分の熱情が自分で怖い、だって明日の周太は射手として早朝から雪山に立つ。
それなのに自分が好きなだけしてしまったら?そんな自分への不信感が募る。
けれどほんとうは、逢ってからずっと抱きしめたいと願っている。
でもきっと今はダメだ、富士で危険に遭って普段以上に尚更に求めたくている。
そんな自分は普段からも熱情的すぎると知っている、きっと今夜は歯止めが効かなくなる。
きっと始めたら止められなくなる、周太を傷つけるのが怖い、そんな自分が怖い。
「…だめじゃない、」
いまなんていったの?
ちいさな声が英二の心におちた。
抱きしめたひとの頬に頬寄せて英二はそっと訊いた。
「周太…なんて言ってくれたの?」
いま言ったこと、もう一度きかせて?
寄せた頬を頬で撫でて確認してしまう、そんな英二にちいさい声でも周太は言ってくれた。
「…明日があるかなんて…解らないから…だから…いま抱きしめて?英二…」
「周太、いいの?…でも、明日の射手は…」
言いかけた英二の唇に周太の唇がふれる。
やわらかな甘さに英二の言葉がとかされ消えて、そして周太が微笑んだ。
「英二がいちばん大切なんだ、他に優先するものなんてない。
だって俺はね…もう、決めている。こんなの警察官として失格だと想う、でも…俺は英二の為だけに生きたい。
今はまだ父のために辞職はしない。それでも本当はもう、俺は英二の為だけに生きている。だから、だから、…」
いま隣にいる愛しい顔を長い指でくるんで見つめて
見つめてくれる黒目がちの瞳をまっすぐにでも穏やかに覗きこんで
その瞳の奥にはもう強く美しい意志と勇気がこちらに微笑んでくれる
そうして見つめる想いの真ん中で、やわらかな唇から大好きな声が告げてくれた。
「だから英二…抱きしめて?そして朝には、花嫁として見つめて…?」
婚約の花束にあった真白なスカビオサの花。
あの花の言葉を英二も覚えている、だって英二にとっても一世一代の婚約の申し込みだから。
あの花の言葉に寄せた想いは「朝の花嫁」そんな幸せを毎朝に迎えられる日への祈りの花。
それを周太は覚えてくれている、きれいに笑って英二は答えた。
「周太、愛しているよ?俺の花嫁さん。朝も、今も、この先もずっと。きっと出会う前からずっと愛してる」
微笑んで抱きよせて、くちづけを交して
やさしい温もりと肌から香る想いを抱きしめて、想いを刻んで繋いで約束を確かめて
しあわせな熱と甘やかな感覚に蕩かされる心を重ねて、抱きしめて、おだやかな夜まどろんで
まだ暗い4時に英二は贈られたクライマーウォッチの時刻に微笑んだ。
そして腕のなかに微笑んで眠る周太にキスをした。
そっと額にキスをして
(to be continued)
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第33話 雪火act.3―side story「陽はまた昇る」
夕方から夜間にかけての弾道調査が終わり、奥多摩交番を出たのは19時半を過ぎていた。
標高の違う2地点での狙撃実験完了後、特設された実験場を片づけ明日の打ち合わせをして解散となった。
明朝は夜明前の6時に奥多摩交番へ集合となる、今日を終えて青梅署へ戻るミニパトカーで周太は眠りこんだ。
余程疲れたのだろう、墜落睡眠の癖が出たまま隣に座る吉村医師の肩に凭れこんでいる。
助手席から肩越しに振向いて英二は吉村医師に微笑んだ。
「すみません、周太がすっかりお世話になって」
富士登山訓練に行った英二は遭難救助と悪天候の為に下山連絡が遅れた。
それで不安になった周太が、青梅署で親しい吉村医師に連絡して泣いてしまったらしい。
そこで吉村医師は懸案事項だった弾道調査の実施に踏み切り、射手として周太の応援要請を新宿署に出してくれた。
そして今の周太は今日の任務を終えて、安心しきった顔で吉村に凭れて眠っている。
すこし紅潮した幼顔で眠り込む周太を見、吉村は温かく微笑んだ。
「いや、構わないですよ?むしろ私はね、うれしかったです。
湯原くんは純粋すぎるでしょう?だから心を開くことが難しい。そんな彼が私を信頼して泣いて頼ってくれた。
そして今こうして安心して眠ってくれています。こういう信頼はね、本当に嬉しいです。そして、私には懐かしい」
おだやかに微笑んで吉村医師は英二の顔を見つめた。
そしてそっと低い声で吉村は記憶を重ねて口を開いてくれた。
「宮田くんと初めて一緒に山へ登ったとき。
雅樹の話をしましたね?あの子が医者になろうとしたきっかけのこと。
あの日の雅樹も、パトカーで青梅署から私の実家へ送ってもらうとき、こんなふうに眠り込んでいました。
湯原くんは23歳ですが13年の時間を止めていた。心は10歳と、宮田くんに出会って過ごした9ヶ月半が精神年齢です。
だからかな?あの日の12歳だった雅樹を思い出します…きっと、今日のことは湯原くんにとって、本当に疲れたでしょうね」
肩越しに英二は周太の顔を見つめた。その寝顔は幼くて23歳の男とは思えない。
吉村医師が言う通り周太の心は10歳と9ヶ月半でいる、それを英二もよく解っているつもりだった。
そんな周太には今日の、英二の安否が確認できなかった時間は大きな負担だったろう。
ほんとうに可哀そうなことをしてしまった。そんな想いで見つめる英二に、運転席から透るテノールが低く笑いかけてくれた。
「ほんとにさ、かわいい寝顔だね?こりゃ眼福だな、俺の疲れは吹っ飛んじゃうよ」
「かわいいだろ、周太?でも寝顔だって俺のものだよ?」
笑って釘刺すと国村は飄々と笑った。
そして信号で停まった隙に英二の額を小突いてきた。
「はいはい、解っているよ。まったく仕方ない男だね?ま、手出しするならさ、おまえにするから安心しな。俺は美人好きだからね」
「俺だって嫌だよ?でも周太を守る為なら仕方ない、かな?」
ほんとに悪代官に身を差し出す小娘の気分だろな。
そんな想像に笑ってしまうと、横から国村も笑ってくれる。
そう笑いながらバックミラー越しに周太の顔を見、細い目を優しく笑ませると言ってくれた。
「ほんとに湯原くん、きっと疲れていると思うよ。俺たちの心配した上にさ、あの環境での狙撃だろ?疲れて当然だよ」
今回の狙撃は夕刻から夜間にかけて、雪の山中に設けた標高差がある2ヶ所の実験場を往復して行った。
時間としては夕刻・日没直後・夜間の3時点。場所は標高1,500m付近と1,800m付近。
各ケースの狙撃がどんな影響を受けるのかを、照準を定める所要時間・着弾率・弾道の伸びと角度などのデータを収集した。
光線量と気温、湿度、時間経過による雪の凍結に伴う足場の変化と標高が影響を受けるポイントになる。
とくに夕刻は光線量が刻々と変化していく為に視界が不明瞭になりやすい、「誰彼時」という言葉もそこから生まれた。
そんな狙撃調査の感想を、ハンドルを捌きながら国村が教えてくれる。
「湯原くんはさ、屋内の競技射撃に慣れているだろ?野外は全く環境が違うんだ、特に風と障害物が気を遣う。
でさ、初弾から夕方の視界が悪い状態での狙撃だった。そのあとも夜間の目視と暗視スコープを使っての狙撃だろ?
しかも足場は雪山だ、傾斜のある足場だけでも不慣れなのに、雪で滑りやすかったはずだ。
発砲の衝撃を受けたときは踏ん張りも大変だったろうね。どの条件にしても湯原くんは初めての環境だ。そりゃ疲れるよ?」
それでも周太は全弾中心点を撃ちぬいていた、そして国村も。
いつも国村はわざと2割は中心点を外して狙撃する。けれど今日の国村は全弾的中で狙撃した。
そんな国村の狙撃精度は生真面目な周太にとってプレッシャーだったろう。
けれどそのことは英二から触れることはしない、周太には周太の誇りがあることを英二も知っている。
英二は国村に訊いてみた。
「うん、そうだよな。やっぱり国村は平気なんだ?」
「まあね、俺はクマ撃ちがベースだからさ?山での狙撃が基本だ、時間も場所も選ばないよ。だからこっちの方が俺は気楽だね」
からり笑うと国村は青梅署の入り口近くにミニパトカーを停めた。
そして助手席を振向くと英二に笑って提案してくれた。
「ほら、宮田?荷物をまとめてこいよ。これじゃ湯原くん起きれないだろ?このままホテルまで送ってやるよ、」
「え、でも悪いな?」
ここからはプライベートなのに公務用のパトカーを遣うのは気が退ける。
いつもの真面目に英二が首傾げると呆れたように国村が笑ってくれた。
「ほら、先輩の俺が良いって言ってるんだ。さっさと仕度して来いよ?おまえもどうせ、一緒に泊まる気なんだろ?」
「うん、ありがとう。でもさ、ちょっと吉村先生の前で言われると俺でも気恥ずかしいな?」
そんなふうに笑いながら助手席の扉を開けると、英二は急いで独身寮の自室へ戻った。
外泊申請は弾道実験に行く前に提出してある、自分の着替えを手早くまとめて周太の荷物と一緒に持つと廊下へ出た。
そこにちょうど藤岡が通りかかって英二は微笑んだ。
「藤岡、おつかれ」
「お、宮田。富士訓練の後でさ、そのまま調査だろ?おつかれさま」
「うん、俺は大丈夫だよ。国村も元気だ、」
「そっか。俺も明日はサポート入るよ、ザイルの係なんだ」
一緒に歩きながら話して外泊・外出の申請窓口まで来ると英二は一声かけた。
それから急いで歩きながらまた話しはじめた。
「藤岡は明日、ほんとは非番だろ?」
「うん。でも宮田だって今日は非番で明日は週休だろ?それに湯原なんかさ、新宿から来てすぐ射手をやったんだろ?」
「あ、藤岡、射手のこと知ってたんだ」
「そりゃね?俺も明日は人員だからさ、説明で聴いたよ。よかったな、おまえら会えてさ」
人の好い顔で藤岡は笑ってくれる。
こんなふうに藤岡は気の良いヤツだ、けれどたまに無意識ですごい図星をついてくる。
そろそろ危ないかな?ちょっと覚悟したところに藤岡が、からりと言った。
「明日は5時過ぎにここで集合だよな。今夜はさ、湯原を疲れさせるなよ?じゃあ明日な」
藤岡の中ではすでに「英二は周太に手を出している」と確定しているらしい。
もう左肩の痣も国村と一緒に飲み会で見られているし、仕方ないのかもしれない。
それに人の好い藤岡はフラットな目で見てくれていることも英二はよく解っている。
それでも同期だからこそ話せないことも多い、それが寂しい気もするけれど仕方ない。英二は微笑んだ。
「おう、気をつけるよ?じゃ、また明日な、藤岡」
そんなふうに別れてミニパトカーに戻ると、吉村医師は相変わらず周太を凭せ掛けたまま座っていてくれた。
急いで助手席に乗り込んで英二は吉村に頭を下げた。
「すみません、先生。お帰りになりたかったんじゃないですか?」
「いや、大丈夫です。ちょっとの時間ですしね?」
おだやかに温かな眼差しで笑ってくれる。
そしてすこし済まなそうに静かに言ってくれた。
「堀内から聴きました、あと佐藤小屋のご主人にも。2人から雅樹に間違われたそうですね?」
「はい、」
短く答えて英二はきれいに笑った。
どうか謝らないでくださいね?そう目でだけ英二は吉村医師に伝えた。
そんな英二に微笑んで吉村は教えてくれた。
「2人ともね、宮田くんのことを好きだと言っていましたよ?そして言われました、
『しっかり救命技術と山を教えてやれ、そして雅樹の分も山へ登って貰え』そんなふうにね、笑っていました」
吉村医師の目許からひとすじだけ涙がこぼれた。
けれど笑って吉村は言った。
「雅樹のこと、尊敬してくれるんですね、宮田くん。2人から聴きました、そして私はね、心から嬉しかった。ありがとう」
本当のことを自分は言っただけ、けれど本音だから聴いて貰える。
きれいに笑って英二は答えた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
雅樹と自分の出会いは、生きてめぐり会ったことはない。
けれど誰かに聞かされるなかで、自分にとって大切な親しい人と思えてしまう。
そんな雅樹のことを尊敬している自分がいる。彼のように出会う人を救け、惜しまれる男になれたらいい。
そう考え事をするとすぐ、前にも周太が泊まったビジネスホテルへと着いた。
「じゃ、宮田。明日は5時過ぎに青梅署ロビーな?朝飯は食ってこいよ、昼は肚塞ぎの握飯が用意されるってさ」
「うん、ありがとう。また明日な、」
そんなふうに別れると英二はビジネスホテルのエントランスを潜った。
そう入ってきた英二を見てホテルマンが驚いた。
「お客さま!お加減でもお悪いのですか?」
英二は登山ザックを背負った救助隊冬服姿で周太を抱きかかえていた、その周太は登山ウェアを着ている。
山岳救助隊員が登山ウェアを着た人間を抱えていたら、遭難救助だと思われるだろう。
これじゃ驚かれても仕方ないかな?ちょっと可笑しくて笑いながら英二は答えた。
「いいえ、ただ疲れて眠っているだけです。先に部屋で寝かせてからのチェックインでもよろしいですか?」
「はい、かしこまりました。ではお部屋でお手続きのご案内を致します、このままではドアも開けられませんでしょう?」
「そうしていただけると助かります、お手数をすみません」
部屋へ案内されて開錠してもらうと、周太をソファへおろしてから英二はチェックイン手続きを済ませた。
もとから周太が予約した部屋と別室で英二は自分の部屋をとった。今回の周太は公務だから領収書を提出するだろう。
そのときに領収書が英二と同じだと困ってしまう。
でも、同じ部屋に泊まるけどね?そう心に思いながらソファを覗きこむと周太は眠っている。
ウェアの上着だけ脱がせて毛布を掛けると、英二は救助隊服のアウターシェルの上着だけ脱いだ。
クライマーウォッチを見ると20時半前だった、きっと駅ビルの食品街はまだ開いている時間だろう。
周太はいつ起きるか解らない、それに明日の朝食も必要になる。私服のミリタリージャケットを羽織ると英二は外へ出た。
買物をして戻ってくると周太はまだ眠りこんでいる。
しずかに買ってきたものをサイドテーブルに置くと、英二は浴室のバスタブの蛇口をひねった。
そっとソファを覗きこむと周太はかすかな紅潮した幼顔で眠っていた。
「…いつ見ても、かわいいな」
うれしくて微笑んで英二は毛布を掛けたままでそっと周太の服に手をかけた。
そして眠り込んだままの周太を浴室へ連れて行くとバスタブの湯に気をつけて浸からせてやる。
これで起きるかな?そう見ても少し身じろいだだけで起きてくれない。
こんなことが前にもあった。
―お父さんの殺害犯に、会った日の翌朝だったな
周太の父の殺害犯は更生してラーメン屋の主人になっていた。
その彼に会いに行ったときも英二は山岳救助隊服を着ていた。
そのあと泣いていた周太を放っておけなくて英二は、新宿に泊まって翌朝は周太を奥多摩へ連れ帰った。
あれから2か月以上が経った今、また救助隊服を着た英二は今度は奥多摩で周太を風呂に入れる。
なんだか既視感で可笑しいな?ちょっと笑って英二は自分も救助隊服を脱いで浴室の扉を閉めた。
周太が目を覚ましたのは風呂も済んで、いつもの白いシャツに着替えさせた後だった。
先に急いで服を着た英二が周太のシャツのボタンを留め終わった所で、ベッドの上で周太は睫を開いた。
披いてくれた瞳がうれしくて英二は笑いかけた。
「おはよう、周太。俺の婚約者さん、」
黒目がちの瞳がひとつゆっくり瞬く。
すこし小首を傾げて不思議そうに周太は見上げてくれる。
そして静かに手を伸ばして英二の頬に掌を添えてくれた。
「…えいじ?」
呼んでくれた名前がうれしくて英二はきれいに笑った。
見つめる周太も綺麗に微笑んで、掌でくるんだ英二の顔をそっと惹きよせてくれる。
頬ふれる温もりがうれしくて、英二は惹かれるままに周太の唇にキスをした。
かさねた唇からこぼれる吐息がなつかしい。
やわらかな温もり、ふれる甘やかな気配、しずかな想いが充ちてふれてくる。
今日の朝には風雪の中に自分は立っていた、この唯ひとりを想って帰りたいと痛切に願った。
そして今は現実にくちづけをして温もりにふれている、そんな幸せな想いが温かい。
しずかにキスを離れて英二は周太を見つめた。
「周太、俺のこと、迎えに来てくれたね?…ありがとう、周太。愛してるよ」
「…ん、…ただ待っているのは、嫌だったんだ…あいしているから」
気恥ずかしそうな紅潮が昇る頬を見下ろしながら英二は幸せだった。
周太は泣き虫で純粋で、けれど聡明な努力家で潔癖に誇り高い。
その誇り高い潔癖が周太を支えて、孤独にも凛として立って13年間を生きてこられた。
そんな周太は泣くことは出来なかった、けれど英二に素直になった周太は涙を流すようになった。
そうして今日も周太は吉村医師に素直に泣いて、英二の為にここまで来てくれた。
「周太、おいで?」
笑って英二は周太を抱き上げるとソファに座らせてやった。
そして買ってきたパンと洋惣菜をならべると、グラスに飲み物を注いで周太に渡してやる。
オレンジ色の発泡性の飲み物に周太が気恥ずかしげに英二の顔を見あげた。
気付かれちゃったかな?笑いかけながら英二は周太のグラスに自分のグラスでかるく触れた。
「ミモザだよ?軽めの酒だし一杯だけだ、よく眠れるようにね、周太?」
スパークリングワインとオレンジジュースでつくったカクテル「ミモザ」は欧州では結婚式の祝の酒として飲まれる。
それを英二は知っていて、婚約を申し込んだ年始の夜にこれを周太に飲ませた。
その時の記憶が気恥ずかしいのだろう、首筋を赤く染めながら周太はグラスを見つめ、それから微笑んだ。
「…ん、はい」
恥ずかしげに頷くとグラスに口をつけてくれる。
ひとくち飲んでほっと息をつくと周太は微笑んでくれた。
「おいしいね?オレンジの香で好き…けっこんしきのなのは…はずかしいんだけど」
「うん、周太。やっぱり気に入ったみたいだね、好きなら恥ずかしがらずに飲んで?周太、オレンジのケーキもあるよ」
「あ…うれしいな、甘いもの、ちょっと食べたかったんだ。あ、」
急に思い出したように周太は席を立つと、自分の大きなボストンバッグを開いた。
気をつけながら紙袋を取出すと、それを持って周太はソファに座りなおした。
その紙袋に見覚えがある、微笑んで英二は訊いてみた。
「いつものパン屋、今日も行ったんだね、周太?」
「ん…いつもね、当番勤務の日はここで買って、夕飯にするんだ」
また恥ずかしげに言いながら袋を開けると、皿の上にクロワッサンとオレンジブレッドを出してくれる。
見覚えのあるクロワッサンがうれしくて英二は周太に訊いてみた。
「ね、周太?このクロワッサン、半分こしてくれる?」
「1個ぜんぶ英二が食べてもいいよ?…俺、オレンジの食べたいし」
やさしい笑顔で英二に笑いかけてくれる。
けれど英二は微笑んで半分にすると1つを周太に渡した。
「はい、周太?俺ね、半分こしたいんだ。周太とね、1つを分けっこしたい」
「そうなの?」
不思議そうに周太が見つめてくれる、そんな様子も可愛くて英二は周太の頬にキスをした。
ふれた頬があわく赤に彩られていく、こういう初々しい周太が英二は大好きだった。
やっぱり周太、かわいいな?そんな婚約者がうれしくて見つめながら英二はクロワッサンをかじった。
そしてふと露天風呂の一件を思い出して、すこし笑ってしまった。
「どうしたの、…英二?」
素直に半分こしたクロワッサンを食べながら訊いてくれる。
真白なシャツを着た周太は純粋で清楚な艶がきれいで、ほっと英二は見惚れながら微笑んだ。
「うん、周太はね、きれいで可愛くって、大好きだなあって思って」
「それで、笑っていたの?」
「そうだよ、周太。周太が俺の婚約者で良かったなあってさ、幸せで笑った」
「ん…?そう、なの?」
不思議そうに聞いてくれる様子が、だいぶ元気そうで英二は少しだけ安心した。
さっきまで周太はぐったりと墜落睡眠に眠り込んでいた、それだけ疲れ果てたのだろう。
熱でも出したらと心配だったけれど、いまはすっかり元気になって食事もきちんと摂り終えてくれた。
そしてコーヒーを周太は淹れてくれると、うれしそうにオレンジのケーキにフォークをつけた。
「ん、…英二、このケーキおいしいよ?」
「よかった。ね、周太?俺にもひとくちくれる?」
「はい、どうぞ?」
やさしく微笑んで周太はケーキ皿を差し出してくれる。
けれど英二は笑って長い人差し指で自分の口元を指差してみせた。
「ね、周太?あーん、してよ」
言われて皿を持ったまま周太が停まってしまった、その首筋に紅潮が昇っていく。
こんなことでも周太は気恥ずかしがって、赤くなってしまう。
でもしてほしいな?隣にすこし体を傾けて英二は微笑みかけた。
「お願い、周太?俺、周太に食べさせてほしいよ?」
「…そう、なの?」
「そうだよ?」
すこし指先を触っていた周太はフォークを持つと、オレンジのケーキを一口分切ってくれる。
そしてフォークの先に刺して英二の口元へ持ってきてくれた。
「あの、はい…」
頬まで赤くしながら「精一杯です」という顔が困っている。
これは「あーん、って言ってよ?」とまで要求したらきっとダメだろうな?笑って英二は差し出されたケーキを口に入れた。
ほろりオレンジの香がとけて甘さが口に広がる、これはきっと周太好みの味だったろう。
そう思いながら口を動かして隣を見ると、赤い頬のままで周太はケーキを口に運んでいる。
その唇の端に赤いものがついていた。たぶんトマトかな?そっと顔を近寄せると英二は周太の口もとを舐めとった。
「…っ!」
黒目がちの瞳が大きくなって呼吸が一瞬止まってしまう。
そんなに驚かなくてもいいのに?そう瞳を覗きこむけれど驚く様子が愛おしい。
やっぱり自分は周太が可愛くて愛しくて他を考えるのは無理だろう、微笑んで英二は周太に教えた。
「トマトが付いていたんだよ、周太?」
「…ん、はい…とってくれてありがとうございます」
少し困った顔で自分でも指先でそのあとにふれている。そんな様子が可愛らしい。
さっき吉村医師にも言われたように周太の心は、やっと10歳10か月を迎える少年のままでいる。
そういう少年のような可愛らしい23歳の周太が好きな自分は、ちょっと合法的犯罪者みたいだな?
そう思ったときにアウトローな自分のアンザイレンパートナーを思い出してまた英二は笑ってしまった。
「英二?…今日はどうしたの?」
「うん?ね、周太?もし俺がね、誰かに襲われちゃったら、どうする?」
なにげなく英二は訊いてみた。
さあ周太は何て答えてくれるだろ?そう覗きこんだ瞳は驚いて大きくなっている。
この顔が可愛くて英二は好きだった、かわいいなと見て思わずキスをして、英二は微笑んだ。
けれど周太は哀しそうに俯いてしまった。
「周太?ね、どうしたの?」
哀しませてしまった?
すこし焦って英二は周太の顔を覗きこんだ。
そう見つめる周太の瞳から涙がこぼれている、そして小さな声がそっと周太の唇からこぼれおちた。
「…くにむらさんと、なにかあった、の?」
そう言って周太は膝を抱え込んでしまった。
この姿勢になった周太を英二は見たことがある。
― 修学旅行の時、周太は俺に誰か好きな人がいる、て思ったんだよな?
そして周太はこの姿勢になって「今は近寄らないで」と全身で訴えていた。
いま周太は同じ姿勢になって抱えた膝に顔を伏せてしまっている。
きっとあのときと同じ意味で周太は、この姿勢のなかに閉籠ってしまった。
「…周太、」
英二は膝を抱きこんだ周太をそのまま背から抱きしめて頬に頬寄せた。
寄せた頬がふるえている。
周太は泣いている、ふるえる肩もかすかな涙のむ声も周太の哀しみが痛い。
周太は今日こうして来るために「吉村医師に電話で泣いてしまった」と言っていた。
周太がそんなふうに泣くのには、いったい何の話を吉村医師にして周太は泣いたのか?
そこまでして周太が来てくれたのに、こんな誤解に泣かせてしまっている。
自分が不甲斐なくて哀しい。
けれど今は自分のダメさや哀しみよりも周太の誤解をきちんと解いておきたい。
そしてこうなった周太には全てを正直に話した方が良い。
どうか逃げないで聴いて?そんな想いと抱きしめて英二は口を開いた。
「国村ね、怪我しただろ?それをさ、あいつ本当は誰にも知られたくなかったんだ。
山ヤが誇り高いのは自分のミスを許さないからだ。
謙虚に山を学んで自分のミスを許さない、そんな誇りが山を登る自由を山ヤに与えてくれるんだ。
だから最高の山ヤの心を持った国村にはね、自分のミスじゃなくても遭難しかけたことが許せないんだ。
あいつはさ、尊敬も憧れも愛情すらね、全てを『山』に見つめている。あいつには山が全てなんだ。
そんな山に自分が怪我をさせられたなんてね、国村は誇りに懸けて許せなくて、誰にも知られたくなかったんだ」
抱きしめている肩のふるえは止まらない。
けれど周太は聴いてくれている、やさしい周太には無視するなんて残酷は出来ないから。
そんな周太の優しさに自分はどれだけ癒されて甘えているだろう?
まだ10歳10か月にもならない周太の心に、どれだけ自分は受け留めて貰っている?
― このひとだけが欲しい、隣にいたい
心から願ってしまう、この純粋無垢なままでも勁く真直ぐな優しさを抱いているひと。
だから祈ってしまう掴まえてしまう、このひとには嫌われたくない、誤解されていたくない。
どうかお願いだから聴いてほしいよ?抱きしめる腕にやわらかく力を籠めて英二は続けた。
「だから国村はね、俺に口止めしようとしたんだ。こんなふうにね?
『誰かに喋るならそれでも構わない、きっと知られたらストレスだろう、でもおまえで楽しませて貰えば解消できるから』
そんなふうに俺のことをね、あいつ脅迫したんだよ?あいつはね、俺を手籠めにしたって自分の山ヤの誇りを守りたいんだ」
「…てごめ?」
ぽつんと周太が訊いてくれる。
でも訊かれた単語がちょっと困ったな?けれど抱きしめる腕に力こめて英二は答えた。
「無理やりにね、裸にさせてしちゃうことだよ?でも大丈夫、俺はそんなことされていないから」
「…ん、」
ちいさなこえ、だけれど頷いてくれた。
まだすすり上げる小さな声がふるえる肩のはざまから零れおちてくる。
泣きながらも一生懸命に聴いてくれようとしている、このひとが自分は愛しくてならない。
微笑んで抱きしめながら英二は言った。
「国村はね、雪山に怪我をさせられた。けれど、雪山によって手当てされたんだよ、周太」
「…雪山が、手当て?」
顔はまだ上げてくれない。それでも涙の間から相槌を打ってくれようとしている。
いま哀しんでいるのは周太、それなのに英二を気遣って一生懸命に相槌をしてくれる。
やさしい婚約者の想いに微笑んで英二は続けた。
「そうだよ、周太?雪の塊がぶつかって国村は打撲を負った。
その直後に雪に埋められることで怪我は冷やされ固定された、雪へ埋まることで応急処置と同じ効果を受けたんだ。
そして国村の怪我は最小限で済んだ。だから俺は思ったんだ。国村は本当に山に愛されている、本当に山の申し子だってね。
こういう事があるのかって不思議だった。でも国村らしいって思ったよ。だから俺はね、あいつに思ったまま言ったんだ」
「…ん、…よろこんだでしょ?国村さん」
「うん。明るい顔でね、うれしそうだったよ、周太」
小さな声の相槌にも相手への気遣いまで周太はしてくれる。こんなふうに周太は自分より相手を気遣ってしまう。
そういう周太だから相手に遠慮して自分から他人へ踏み込めない、辛い人生の自分に誰かを巻き込みたくない。
だから周太は13年間なおさら孤独に生きて自分の心の時まで止めてしまった。
この優しいひとの為なら自分は全てを懸けてしまう、だからその想いをいま告げたい。英二は抱きしめて微笑んだ。
「そこまでしても国村が誇りを守りたい気持ち。それは俺にも解るんだ。俺もね、周太のことでは同じだから」
そっと周太の顔が膝からあげられた。
涙のあとが瑞々しい頬はすこし紅潮して黒目がちの瞳が濡れている。
この顔が愛しくて切なくて英二はそっとキスをした。
「周太?俺はね、周太を守る為なら何だってする。
周太を守って幸せにする事、それがね、俺にとって一番の誇りなんだ。だからお願いだ、周太?俺を捨てないでよ」
黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
微笑んで抱いていた膝から離れた掌が英二の頬に添えられる。
そしてきれいに笑って周太は英二の唇にくちびるを重ねてくれた。
おだやかな温もりがふれて甘いオレンジの香がそっとはいりこむ。
ふれるだけ、それなのに甘くて蕩かされてしまう英二が愛するキス。
幸せな想いが温かでやさしい、いつも傍にいてほしいと願ってしまう瞬間が胸に痛い。
そんな痛みと一緒にしずかに離れて、黒目がちの瞳が真直ぐ見つめてくれた。
「捨てない。俺は英二の隣でいたい。
だから今日も俺、…ごめんなさい、英二…ほんとうは俺、今すぐに、警察官を辞めようって思ったんだ…」
「周太?どうして、」
すこし驚いて、けれど穏やかに英二は訊いた。
殉職に斃れた父親の軌跡を追うために、無理にでも努力を積んで警察官の道に立った周太。
それなのに父親の軌跡もその想いも、見つめ終わる前にその道を捨てるだなんて?
この道に立つ覚悟を警察学校時代に周太は英二に話してくれた、それは頑固なまでの強い覚悟だった。
それをどうして?そんな想いに見つめる真ん中で周太は静かに唇を開いた。
「いちばん大切なひとの元へと、自由に駆けつける。その自由が欲しい…だから警察官を辞めようとしたんだ」
黒目がちの瞳に涙の紗が降りる。
それでも周太は涙こぼさずに英二を真直ぐに見つめた。
「いま…奥多摩に行かなかったら、きっと後悔します…そう吉村先生に言ったんだ。
英二がどちらの場合でも、きっと…今日すぐ、逢わなかったら後悔する。いま逢って伝えたい、…そう言ったんだ」
「俺たち、明日には逢う約束をしていたよね。それなのにどうして周太、いま俺に逢いたかったの?」
おだやかに微笑んで英二は訊いた。
その英二を真直ぐに見て、周太は言った。
「だって…明日があるか、解らない…っ、」
周太は英二に抱きついた。
「…英二…!」
背中に腕を回してくれる、ふれる掌が温かい。
やわらかな髪から香りたつ英二が洗ってあげたシャンプーと、周太自身の穏やかで爽やかな香。
むねにふれる温かな鼓動がすこしだけ早い、ふるえる肩から周太の不安と想いがあふれだす。
あふれる想いに見あげる黒目がちの瞳から涙がこぼれ落ちていく。
「英二、待ってる、いつまでだって…
だから帰ってきて英二、俺の隣だけに…お願い、英二、他のところへなんて行かないで…!」
呼んでくれる名前、告げてくれる約束、そして言ってくれる「お願い」と想いの祈り。
どれもが涙がとけて、ふれる温もりが現実のことだと告げてくれる。
この声に涙に温もりに、どれだけ想ってくれるのか伝わってくる。
やさしい指がそっと頬の傷にふれて、また涙がこぼれ落ちていく。
「…怪我…なんて…ダメ…
俺の知らない所で、怪我なんて、しないで!…無事でいて、お願い…笑って帰ってきて、…!」
冷たい風雪の氷に裂かれた頬を撫でて、黒目がちの瞳が訴えてくる。
英二を見つめて涙と想いをあふさせて、強い願いと祈りをこめて自分の目を見つめてくれる。
どこまでも純粋なまま泣き虫で、それでも強く凛と立つ姿が美しくて、決して逃げない潔癖。
そうして自分の為に1つの勇気を抱いて決意を持って隣に立ってくれている。
この純粋な瞳ばかり見つめて英二はここまで来た、そして今こうして求められることが幸せで英二は微笑んだ。
「周太、必ず帰るよ?俺はね、ほんとうに周太だけだから」
「…ほんとうに?…英二、」
抱きしめる肩は鍛えた痕がわかる、けれど本当は華奢な骨格だと知っている。
頬にふれる指は武道のために節が立っている、けれど本当は繊細で草花を摘むと知っている。
ほんとうはどこまでも繊細でやさしいひと、それでも父への想いの為に困難にも真直ぐ立っている。
「周太、ほんとうに周太だけ。俺にはね?周太だけが、きれいなんだ」
どうしてこのひとを抱きしめないで、他の誰かを抱きたいと想えるだろう?
出会った瞬間から想っている、憧れて反発してそれでも隣にいたくて。
掴みたくて耐えて、それでも応えあって繋ぎとめてしまった。
「周太?俺はね、周太の為だけに全て選んでここにいる。だからね、周太?
俺が消えるのは、周太が消える時だけだ。そうして俺はね、ずっと周太の隣に帰るよ。離れたりしない」
「…ほんとう?ずっと隣にいてくれる?…何があっても?」
「何があっても、約束だよ、周太?」
きれいに笑って英二は、長い腕で周太を抱きしめた。
抱きしめて抱き上げて、額に額くっつけて英二は微笑んだ。
「ね、周太?こんなことしたいのはね、周太だけだよ?」
「…ん。…でも、遭難救助とかでは、抱っこするでしょ?」
「抱っこはね?でも周太、おでこくっつけたりしないよ?」
「ん、」
含羞んだように笑ってくれる、そんな笑顔が大好きで幸せで英二はキスをした。
そしてベッドへ座らせると隣に座って、微笑んで周太に訊いた。
「周太?いま着ているシャツ、なんか違うって気づいてる?」
「…ん、…サイズ大きいかな、て…」
気恥ずかしげに答えて周太はシャツの袖をすこしひいた。
気付いたけれど黙って着てくれていた、きっと嫌じゃなかったのだろ。
「そうだよ、周太?それはね、俺のシャツなんだ。
年明けの時、大きいサイズ着た周太がね、ほんとに可愛かったからさ。俺、また見たかったんだ、」
「ん、…そうなの?」
「そうだよ?ほんと癒される、かわいいな、周太」
寮から白いシャツを2枚英二は持ってきた。
そして1枚を周太に着せて眺めて、さっきから幸せな気分でいる。
幸せで微笑む英二に周太は、そっと訊いてくれた。
「あの…もしかして、風呂も、…入れてくれたの?」
「周太、シャンプーの香するだろ?」
言われて真っ赤になると俯いてしまった。
ほんとうは結婚したら時折は一緒に風呂に入ると周太は言ってくれている。
けれど今回は周太は眠り込んでしまっていた、不可抗力だよ?目で言いながら英二は微笑んだ。
「周太、すごく可愛い顔で眠って、起きてくれなかったんだ。
でも雪山の後だからさ、体を温めないといけないだろ?だから俺が抱っこして、一緒に風呂に入ったんだよ」
「…だっこしてなの?」
ますます気恥ずかしい顔できいてくれる。
そんな初々しい様子もうれしくて英二は笑って答えた。
「うん、すごく可愛かったよ、周太。
それにさ、明日は4時には起きる。早起きで狙撃は大変だ、周太を疲れさせたらいけないだろ?
だから今夜は俺、周太を抱いちゃいけないからさ。だからね、周太?風呂で見るのくらい許してよ、ね、周太?」
周太は黙り込んでしまった。
そんなに嫌だったのかな?すこし心配になって周太の顔を英二は覗きこんだ。
「嫌だった、周太?ごめんね…っ、」
覗きこんだ英二の唇に周太が唇を重ねてくれた。
そっと重ねた唇からふれる吐息がオレンジの香に甘やかで惹きこまれてしまう。
― 周太、
重ねたキスが深くなる、覗きこんだ体勢のまま英二は周太の肩を抱きしめた。
そして周太を長い腕に抱きこめキスをして、英二は白いシーツの上に仰向けて周太を見あげた。
白いシャツ2枚を透かして温もりが寄りそってくる。
くちびるが静かに離れると、やわらかな感触が頬の氷の傷へとおりてくる。
ふるような口づけが頬の傷にふれて、額に目許にとキスがふる。
やわらかで温かな感触に英二は周太の体を抱きしめて囁いた。
「…周太、だめだよ…そんなにキスしたら、俺、…きっと抱いちゃう、我慢できなくなるから、」
きっと歯止めが効かなくなる。自分の熱情が自分で怖い、だって明日の周太は射手として早朝から雪山に立つ。
それなのに自分が好きなだけしてしまったら?そんな自分への不信感が募る。
けれどほんとうは、逢ってからずっと抱きしめたいと願っている。
でもきっと今はダメだ、富士で危険に遭って普段以上に尚更に求めたくている。
そんな自分は普段からも熱情的すぎると知っている、きっと今夜は歯止めが効かなくなる。
きっと始めたら止められなくなる、周太を傷つけるのが怖い、そんな自分が怖い。
「…だめじゃない、」
いまなんていったの?
ちいさな声が英二の心におちた。
抱きしめたひとの頬に頬寄せて英二はそっと訊いた。
「周太…なんて言ってくれたの?」
いま言ったこと、もう一度きかせて?
寄せた頬を頬で撫でて確認してしまう、そんな英二にちいさい声でも周太は言ってくれた。
「…明日があるかなんて…解らないから…だから…いま抱きしめて?英二…」
「周太、いいの?…でも、明日の射手は…」
言いかけた英二の唇に周太の唇がふれる。
やわらかな甘さに英二の言葉がとかされ消えて、そして周太が微笑んだ。
「英二がいちばん大切なんだ、他に優先するものなんてない。
だって俺はね…もう、決めている。こんなの警察官として失格だと想う、でも…俺は英二の為だけに生きたい。
今はまだ父のために辞職はしない。それでも本当はもう、俺は英二の為だけに生きている。だから、だから、…」
いま隣にいる愛しい顔を長い指でくるんで見つめて
見つめてくれる黒目がちの瞳をまっすぐにでも穏やかに覗きこんで
その瞳の奥にはもう強く美しい意志と勇気がこちらに微笑んでくれる
そうして見つめる想いの真ん中で、やわらかな唇から大好きな声が告げてくれた。
「だから英二…抱きしめて?そして朝には、花嫁として見つめて…?」
婚約の花束にあった真白なスカビオサの花。
あの花の言葉を英二も覚えている、だって英二にとっても一世一代の婚約の申し込みだから。
あの花の言葉に寄せた想いは「朝の花嫁」そんな幸せを毎朝に迎えられる日への祈りの花。
それを周太は覚えてくれている、きれいに笑って英二は答えた。
「周太、愛しているよ?俺の花嫁さん。朝も、今も、この先もずっと。きっと出会う前からずっと愛してる」
微笑んで抱きよせて、くちづけを交して
やさしい温もりと肌から香る想いを抱きしめて、想いを刻んで繋いで約束を確かめて
しあわせな熱と甘やかな感覚に蕩かされる心を重ねて、抱きしめて、おだやかな夜まどろんで
まだ暗い4時に英二は贈られたクライマーウォッチの時刻に微笑んだ。
そして腕のなかに微笑んで眠る周太にキスをした。
そっと額にキスをして
(to be continued)
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