想いの交錯、そのゆくえ
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第33話 雪火act.4―side story「陽はまた昇る」
ダウンライトの温かい灯のなかで、ねむる周太は微笑にまどろんでいる。
いつものように幸せそうな微笑みが愛しくて、幸せで英二は微笑んだ。
ずっと見つめていたいけど、そろそろ起こさないといけない。ねむりに艶ほころぶ唇に英二は唇を重ねた。
「…ん、」
ちいさな吐息が微笑んだ唇がいとしい。
きれいに笑って英二は周太の前髪をかきあげると、そっと額にキスをした。
ふれる額にふるえが瞬いて長い睫がかすかに揺れてくれる。
起きてくれるのかな?
長い睫の奥にねむる大好きな瞳がもうじき自分を見つめてくれる?
そんな楽しい予感に見つめる真ん中で、長い睫がゆっくり披かれて黒目がちの瞳が英二を見つめた。
見つめてくれる瞳がうれしくて英二はきれいに笑いかけた。
「おはよう、周太。俺の花嫁さん。……、」
笑いかけたまま英二は息を呑んだ。
いったいどうしてしまったのだろう?めざめてくれた瞳に呼吸が心ごと浚われて英二は見つめた。
ゆっくり披かれた長い睫の奥で、黒目がちの瞳は誇らかに輝いていた。
輝きに透けるような明るさと深い想いが、きれいだった。
やさしく穏やかな愛を抱いている、誇らかな1つの勇気と意志。
初雪の夜の翌朝に周太の瞳にともされた想いたち、それは見つめる今も変わっていない。
けれどもう1つなにかが周太の瞳をまた明るませている。
この明るさはなんだろう?そんな想いと見つめる周太はまた美しくなっている。
すこし紅潮した頬、あわい赤が花のように散る素肌、けぶる艶やかな清楚。
ねむり潤んだ唇こぼれるような微笑は、やさしい幸せにほころんでくれる。
めざめて英二を見つめる瞳はひとつ瞬いて、瑞々しい唇がしずかに英二に微笑んだ。
「おはよう、…英二?」
周太の笑顔は、きれいだった。
あんまりきれいで英二は切なくなった。
きれいな笑顔が切なくて、消えてしまいそうで怖くて、失いたくなくて英二は抱きしめた。
抱きしめた途端なぜか英二の目から涙がひとすじ零れて、白いシーツへと落ちた。
「ん…どうしたの、英二?」
腕のなかから微笑んで周太は訊いてくれる。
やさしい穏やかな、周太の話すトーン。すこし特徴的なゆるやかな話し方は、素のままでいる時の周太。
いまも周太は素顔のままで、きれいな純粋なままで微笑んでいる。いつものように。
それなのになぜ自分は涙がこぼれたのだろう?自分でも解らないまま、英二はやわらかく抱きよせて笑いかけた。
「周太がね、きれいで涙が出た。周太、愛してるよ。ずっとこうしていたいな」
「ん…はずかしくなる。でも、…愛してる、よ?」
頬染めて気恥ずかしげに微笑んでくれる。
いつもどおりの周太の笑顔、いつもどおりの穏やかなトーン。
どれもが幸せで大好きで愛しくて、ずっと離せなくて一緒にいる約束をしている。
でも、なぜ今朝はこんなにも起きたくないのだろう?
「周太、ずっとこうしていたい。ずっと周太の瞳を見ていたいな、抱きしめて周太の肌にふれていたい」
「…ん、…そう、なの?」
「うん、そうだよ。俺の婚約者さん、」
笑いかけながら英二は周太を抱きしめてしまう。
ふれる髪がやわらかに英二の頬を撫でて、おだやかで爽やかな香りがくるんでくれる。
ずっと憧れて好きだった、この香も瞳も全部がずっと好きで追いかけて、こうして今は抱きしめている。
―このまま今日は、ずっと一緒にいたい
今日は弾道調査の現場実験がある。
きっとクライマーウォッチは4時を20分は過ぎてしまった。
それでも起きたくなくて英二は周太を抱きしめて、ときおりキスでふれては見つめていた。
「…英二?もう、起きないと…ね、任務に遅れちゃうよ?」
「もうすこしだけ、ね、周太…いま俺、周太を抱きしめていたいんだ…もうすこしだけ」
そんな「もうすこし」を幾度も過ごしてベッドから出られない。
ずっとこうしていたくて、けれど早朝からの任務が待っていて。
その任務だって周太と一緒に立つ現場、それなのに英二はどうしても起きたくなかった。
ただずっと抱きしめて、大好きな黒目がちの瞳を見つめていたい。
いつもなら周太と過ごした朝でも「任務」は英二の背筋を伸ばさせる。
そして任務の手順を考えながら、ゆっくり周太が淹れてくれたコーヒーで過ごす朝の一時が好きだ。
だから今朝のように任務をさぼってしまいたい気持ちは初めてだった。
いったい自分はどうしたのだろう?
自分で自分が解らない、そんな途惑いと想いのまま周太を抱きしめていた。
このまま素肌ふれて抱きしめて、温もりにおぼれこんで眠りこんでしまいたい。
そんな英二に周太は微笑んで、やさしいキスをしてくれた。
「ね、英二?…俺ね、明日は週休だから、今夜もここに泊まるつもりなんだ」
キスを交して微笑んで周太は言ってくれた。
言ってくれた言葉に驚いて英二は聴き返した。
「ほんとに、周太?」
「ん、ほんとうだよ。だからね、英二?今夜も一緒にいてくれる?」
その言葉がうれしくて英二はすこしだけ「起きてもいいかな?」と思えた。
でもまだ抱きしめていたい起きたくない、英二は周太に訊いてみた。
「でも周太、射撃の自主トレあるんだろ?もう大会まで半月ないから、って言ってた…明日は早く帰っちゃうんだろ?」
すこし拗ねたような口調についなって、我ながら子供っぽいなと英二は微笑んだ。
そう微笑んだ英二の唇に周太は、そっとキスをして微笑んでくれた。
「大丈夫だよ、英二。明日はね、自主トレもキャンセルしたんだ。
急な出張だし野外の狙撃は疲れるから、大会前に疲労をためないよう、明日は休めって上司も言ってくれて。
だからね、英二?…明日は英二が仕事をね、終わるの待ってるから…だから帰りは夜、新宿まで送ってくれる?」
明日も周太は奥多摩にいてくれる?
うれしくて英二は笑って周太に訊いてみた。
「じゃあ周太?御岳山の巡廻とか一緒に回ってくれる?」
「ん、一緒に御岳山にまた登りたい。任務の邪魔にならないなら、連れて行って?」
「うん、連れて行きたい。雪の御岳を見せたい、朝も夕方も見せたい」
「ん、朝も、夕方も、見せて?」
きれいに楽しそうに周太は微笑んでくれる。
やさしい微笑みがうれしくて英二は、想いつくまま全部の「わがまま」を言った。
「じゃあ周太?昼休みはさ、御岳駐在の休憩室へ来てくれる?」
「ん、コーヒー淹れに行ってあげる。そしてね、昼の自主トレにも参加させてくれる?」
「もちろんだよ、周太?きっと国村も周太がいると喜ぶよ、あいつ周太のこと大好きだから」
昨日も一緒に狙撃手を務めながら国村は、やさしい温かい目で周太を気遣ってくれていた。
そんな国村に少し英二は嫉妬しそうだった、自分以外に周太を見つめて欲しくないから。
「そう、かな?喜んでくれるかな?」
「かなり喜ぶと思うよ?だってね、周太?あいつはね、2月の射撃大会も周太と競技したいから出場するんだよ?」
周太が出場すると聴いたとき国村は、急にやる気になって笑った。
それから英二は国村がサボりそうになる度に「周太はさ?」と言ってやった。
そのたびごとに国村は急に「大会も楽しみだな」と機嫌よくなって練習してくれる。
「そうなの?」
「そうなんだよ、周太。だってね?富士の山小屋で、俺が周太を泣かせた話をしたらさ?
あいつ、周太の分だって言って俺のこと蹴飛ばしたんだ。それくらい周太のことを、あいつは好きなんだよ」
「ん、そんなこと、あったの?」
国村は自由人で身軽で、恋愛すらも束縛されることはない。
そういう友人が周太だけは特別に構いたがる、だから英二は「周太は俺のもの」といつも宣言してしまう。
昨日も国村は周太に手出しはしないと約束した、それでも英二は周太にお願いをした。
「でもね、周太?絶対に国村のことなんか見つめないで?
あいつエロオヤジだからさ、ちょっと周太が見つめただけでも喜んで、周太に手出ししそうで嫌だよ?
あいつ本当に良いヤツだし大切なアンザイレンパートナーで友達だけどさ?
でも周太になんかしたら俺、きっと国村を酷い目に遭わせちゃうよ?ね、周太、絶対に俺以外を見つめちゃダメ」
絶対ダメだよ?目でも訴えながら英二は周太にキスをした。
そんな英二に黒目がちの瞳がすこし大きくなっている。それから微笑んで言ってくれた。
「ん。大丈夫だよ、英二?俺はね、英二だけだから…
初めてひとを好きになったのもね、英二だから好きになれた…だから、他のひとはね、きっと誰も好きになれない」
初々しい紅潮に微笑んで告白してくれる。
こんな告白はうれしい、うれしくて英二はキスをして笑った。
「俺だってそうだよ、俺は周太だけしか欲しくない。
だから周太、お願いだ。俺を置いていかないで?俺を独りにしないで、ずっと俺だけの隣でいて?
ほんとうに俺、もし周太が居なくなったらきっと、水がなくなった花みたいに死んじゃうよ…だから隣でいてよ」
きっと水がなくなった花のように。
そう言った途端に英二の目から涙がこぼれ落ちた。
どうして今朝はこんなに周太を離せない?どうして涙が出るのだろう?
解らない。自分でも解らない、でも離せなくて英二はまた周太を抱きしめた。
そんな英二に周太は微笑みかけてくれる。そして頬をふたつの掌でくるんで、やさしいキスをくれた。
「ん、隣でいるよ?今日も一緒に現場に立つよ、ね、英二?だから、起きよう?」
「…明日も、朝も夕方も一緒に御岳山へ登ってくれる?」
念押しするように英二は周太の瞳を覗きこんだ。
覗きこんだ瞳はめざめた時のまま美しくて、まぶしくて英二は見惚れてまたキスをした。
そっと唇を離すと周太は、きれいに笑って約束してくれた。
「ん、一緒に登る。昼休みにはね、コーヒー淹れに行くよ。自主トレも一緒だよ?
そして俺を新宿へ送って、夕食も一緒に食べて?ね、だから英二、起きて仕度しよう?そして一緒に任務に就こう?」
きれいに笑って約束をたくさん決めてくれる。
こんなに楽しい幸せな約束をくれるなら、起きてもいいかもしれない。
でも、と未練が残って英二はもうひとつ「わがまま」を言ってみた。
「じゃあ周太、約束のキスをして?」
「ん…はい、」
ちいさい声。それでも周太は返事をしてくれた。
そして英二の頬を両掌でくるんで、そっと唇をよせてくれた。
かすかなオレンジの香とふれる甘やかな温もり、やわらかなふれる想いが愛しい大切なキス。
初々しさにふるえながら蕩かしてくるキス、幸せで英二は笑った。
「うん、俺、起きるよ?」
そして英二はようやく起きて、大きい自分のシャツにくるんだ周太を抱き上げて浴室へ行った。
バスタブに立たせた周太から、そっとシャツを脱がせながら英二は微笑んだ。
「ね、周太?一緒に入ったら、嫌?」
きっとダメかな?そう覗きこんだ顔は赤くなっている。
やっぱりダメかな、仕方ないな?微笑んで英二はシャツを抱いて浴室を出ようと背を向けた。
そんな英二の背中に、やさしい声がふれてくれた。
「…えいじ、」
背中に温もりがふれてくる。そっと腕が回されて掌が胸の前で交差してくれる。
背中から抱きしめてくれながら、やさしい声がしずかに告げてくれた。
「一緒に、入って?…すこしでも近くで、一緒にいたいから」
告げてくれる言葉、やさしい想いがふれてくる。
背中にふれる想いの合間に、胸に交差された掌に自分の掌を重ねて英二は微笑んだ。
「いいの、周太?昨夜から周太、いつもより俺に触れさせてくれるね?」
「ん、…一緒にいたいから。すこしでも英二のね、…近くにいたい」
ふっ、と温かい雫を背中に感じて英二は振り向いた。
「周太?」
名前を呼んで見つめた頬には、きれいな微笑みだけがうかんでいた。
きれいな微笑うかぶ頬を英二は掌でくるんだ、やわらかな温かさがふれてくる。
気の所為だったろうか?そんな小さな気懸りにも、きれいな微笑から目が離せない。
きれいに笑って英二は周太に答えた。
「うん、一緒にいよう?周太」
そして一緒に風呂を済ませて一緒に着替えた。
着替えて、ベッドを英二が整える間に周太は、いつものようにコーヒーを淹れてくれる。
芳ばしい温かな湯気が夜明け前の部屋に燻っていく、周太には疲れは無さそうに見えた。
手際よくコーヒーを淹れる手許を見ながら英二は幸せだった。
いまコーヒーを淹れてくれる英二よりちいさな手はすこし節がたっている。
それは周太が警察官になる為に積んだ武道と射撃の訓練の痕、周太が積んだ努力の痕だと英二は知っている。
けれどこの掌はほんとうは、大好きな草花を摘んで活けることが好きだ。
そしてこの掌は器用で、拾い集めた落葉や摘んで可愛がった草花を、きれいな押花へと生まれ変わらせる。
そんな器用な掌はいつも英二にコーヒーを淹れてくれる。
そして温かな台所に立つときは、英二の為に温かな食卓を仕度してくれる。
「はい、英二…熱いから気をつけて?」
「ありがとう、周太」
マグカップをサイドテーブルへ置いてくれる、周太の掌。
カップから離れた掌を英二は、そっと自分の掌にとると周太を見あげた。
両掌を英二に預けて周太は微笑んで「どうしたの?」と黒目がちの瞳が訊いてくれる。
自分の長い指の掌のなかにおさめた大切なふたつの掌に、しずかに英二は口づけた。
この掌が自分は大好きで、大切で、ずっと守りたい。
「周太の掌はね、きれいだ」
きれいに笑って英二は周太を見あげた。
夜明前の山は雪の底に眠っていた。
夜闇と雪にすいこまれる静寂に、アイゼン踏む雪道はざくざくと感触がしみてくる。
昨日降り積もった雪は夜の冷気に凍てついて締雪へと変わり始めていた。
暁前の冷気が凍らすように頬を撫でる、吐く息の白さがヘッドライトに靄となって森の夜へとけていく。
「夜明け前が一番冷込むからね。アイゼンは大丈夫?湯原くん」
「はい、大丈夫です」
慣れないアイゼンを履いた周太を国村が気遣ってくれる。
気遣いに素直に頷く周太に細い目を温かく笑ませながら国村は言った。
「この道は岩場や木の根がたまにある。踏んで滑りそうになったら、俺の腕とか掴んでいいからね?支えるからさ」
「はい、ありがとうございます」
周太は前髪をあげて警察官の姿勢になっている。
その横顔がいつになく凛々しくて英二はつい見つめてしまう。
周太は表情と髪型で雰囲気が随分と変わる、今朝めざめた時と今とは別人のようにも見えるだろう。
この2時間ほど前、めざめた朝の周太は美しかった。そして離したくなかった、どうしても。
いつも周太は英二に抱きしめられて目覚めるたびごとに、初めて見た人のように美しく変貌していく。
だから美しくなることは「いつもどおり」のことだった。それなのに今朝はなぜか切なくて堪らなかった。
どうしてか解らない、けれどほんとうは今朝の英二は周太を離せなかった。
きっと今日の任務が無かったら、そのままずっと抱きしめて離せなくなっていた。
― どうして、あんなにも離したくなかったんだろう
足元に気を配りながら雪山を登っていく。
そんないつもの雪山の道もどこか違っていて、違和感が英二の肚に疑問を作っていた。
いったい今朝はどうしてしまったのだろう?
今朝1番目の実験場に着くと夜明け前の空気に充ちていた。
雪の斜面にも冬の朝陽がふり始める、ゆるやかに金と紅あわい色彩が雪の山を照らしだす。
手順通りに設置された的へと向かって、国村と周太が規定位置へと立った。
「夜明けの狙撃は太陽光線の変化が速い。
昨日の夕方とは逆に明るくなっていくからね、目が眩みやすいよ。
ましてここは雪山だ、雪の反射が朝陽は強い。目を傷めないように気をつけてね、湯原くん。」
並んで立つ周太へと国村がアドバイスをする声が聞こえてくる。
国村のテノールで透る声は雪の山中でも明瞭で聞こえやすい、その声に周太は素直に頷いている。
「はい、サングラスは、まだ要らないですよね?」
「うん。日中になったら掛けた方が良いけどね。ところでさ?敬語になってるのは任務中だから?」
「はい。今、俺は警察官ですから」
生真面目な周太の話し方が警察学校を思い出させる。
ちょっと微笑ましい想いに英二は小さく笑うと、吉村医師の隣に立った。
昨日と同様に英二は吉村医師のサポートで狙撃標的の状態確認を担当する。
今回の調査は人体と同じ弾力と骨組で作られた模型の角度を変えながら狙撃していく。
もし雪山で狙撃が行われた場合に標的が受けるダメージを、さまざまな角度と狙撃パターンで検証をする。
そうした検証によって、標的のダメージから狙撃パターンを類推する基準データを作成する趣旨だった。
その基準データがあれば同様の犯行が起きた時に犯行状況の推定がしやすくなる。
今回は降雪時のデータになるが、山間部での狙撃という点では無雪期のデータとしても使えるだろう。
今回この降雪のタイミングを狙っての実験なのは、誤射の防止という理由が一番大きい。
雪の時期は一般登山客も少なく、降雪直後のタイミングでの登山は表層雪崩の危険回避で登山者も減り、入山規制がしやすい。
また雪の季節なら生息する野生獣も冬眠期にあたる為に遭遇率が低い。
そうした無人状態で安全な実験をするためにも、降雪直後を狙っての実験になった。
ただ積雪次第では表層雪崩の危険が高くなる。
奥多摩の山は森林限界を超えてはいない為に、大斜面を持つ富士山のような雪崩は起きにくい。
それでも射撃の振動は表層雪崩を誘発しやすくなる、その危険を考えて積雪10~15cmを想定していた。
太陽光線の度合いが定刻を告げてくる。英二は左手首のクライマーウォッチを見、吉村医師に微笑んだ。
「そろそろ、時間です」
「ではイヤープロテクターをしましょう」
曙光がさし始め規定時刻が実験場に訪れる。
時間が来た合図に2人の射手は、それぞれの標的に向けてライフルを構えた。
今回のテスト用ライフルは狩猟用モデルを、鑑識調査の目的のもと特別許可で使用している。
日本ではスポーツ目的で持つことのできる実銃で、初心者が所持許可を申請できるのは散弾銃とエアーライフルになる。
散弾銃・ショットガンは比較的近距離で動く的を撃つ事に向き、クレー射撃・ランニングターゲット・小型獣の狩猟に使われる。
エアーライフルは静的射撃や鳥の狩猟に使われ、火薬ではなく圧縮した空気で弾丸を射出する。
通常50m以内の狙撃が多いが、ダイビング用の高圧空気を使うプリチャージ式をチューンナップすると100m先まで可能となる。
このエアーライフルで一定の成績を修めると、日本ライフル射撃協会の推薦で小口径の装薬ライフルの所持許可を受ける。
そしてまた経験を積み大口径の許可を取得していく。
今回の狩猟用ライフルは所持許可申請の要件として10年以上の猟歴が必要とされる。
ライフルは銃身の内側にらせん状の刻み・ライフリングを持つ銃で、弾丸に回転をかけることから直進性が高い。
狩猟用のライフルは散弾銃よりも高速で弾を射出するために射程距離が長く弾道も安定している。
そのため100m以遠の標的はライフルが用いられ、日本ではシカ、イノシシ、クマの狩猟に限って使用が許可されている。
また射撃については年齢制限として「年少射撃資格認定制度」がある。
・一定の認定を受けた14歳以上18歳未満の者
・指定射撃場で射撃指導員の監督の下に、当該射撃指導員が許可を受けた空気銃を使用することができる
こうした条件がある為に現在23歳だと通常は、狩猟用ライフルの所持は初めてということになる。
けれど国村は高卒任官で19歳から警察官として銃火器を扱い、狩猟用ライフルは以前もテスト射手として使用していた。
しかも国村の祖父はクマ撃ち名人で青梅署推薦から猟銃安全指導委員を委嘱され、かつ射撃指導員資格の保持者だ。
その祖父から国村は14歳の誕生日を迎えた日から実銃の扱いを教えられ、猟の現場にも連れて行かれてきた。
そんな国村は射撃センスが高い、警察学校での最初の拳銃射撃で10点を撃ち抜き本部特練選抜までされた。
周太は競技射撃ならライフルも拳銃も実績がある。けれど山中での射撃自体は初めて、まして狩猟用ライフルは初めて見た。
そのうえ昨日は夕刻と夜間だった。そんな不慣れな条件でも周太は、国村と同様に標的の規定点を外さなかった。
いま英二の前でも周太は朝陽の中で確実に、角度を変えていく標的を狙撃していく。
大きな狩猟用ライフルを構えて狙撃する周太の小柄な姿は、曙光に染まる雪山のなかで凛と立っていた。
その横では長身の国村が愉しげな空気で狙撃していく、きっと国村には射撃場よりも山中の方が気楽なのだろう。
同じように並んで立つ大柄と小柄の背中を英二は見つめていた。
きっと生真面目な周太にとって、経験も才能も高い国村と並んで狙撃することはプレッシャーだろう。
そして国村も負けず嫌いで、経験が上回る自分が「山」での射撃で負けることなど許せない。
そんなお互いの意地とプライドがぶつかるように、昨日の射撃は2人とも全弾的中だった。
きっと今日も同じ結果だろうな? そんな思いの向こうでライフルでの狙撃が終わった。
狙撃完了した標的が外され、新しいものへと交換されていく。
そして新しい標的に向けて今度は拳銃での狙撃に2人は構えを変えた。
拳銃による狙撃はセンターファイアピストルの姿勢で始まった。
この競技で2人は2月の警視庁けん銃射撃大会で競うことになる。
2人とも背中を真直ぐに伸ばし、的は向かって体をやや斜めにして左掌は腰へ固定に置く。
周太は両目を開いて的を真直ぐ見つめる、ノンサイト射撃の片手撃ちにいつも構える。
国村もノンサイト射撃の片手撃ちだが、目を細めて心もち首を右に傾げる癖がある。
2人の背中越しに標的が狙撃の衝撃にゆらぐのが見える。
銃は発砲の反動と衝撃が大きく、体の保持が出来ないと射手自身も揺るがされてしまう。
けれど2人とも微動だにしないで真直ぐ立って狙撃していく。2人は15cmほどの身長差がある、並んだ背中は周太は華奢に見えた。
国村は体格も恵まれて、最高の山ヤで、そして射手としても才能も環境も整っている。
そんな国村に一歩も退かずに周太は並ぼうとしている。
不慣れな雪山と初めての狩猟用ライフル、そして本来射撃に不向きな小柄で華奢な骨格の体。
それでも周太は努力してここまで来て今も挑んでいる。
― ね、周太?俺はね、努力する周太が好きだよ?
英二は婚約者の背中を見つめた。華奢な背中が愛しい、そして切なくなる。
英二は、台所に立っている周太が一番好きだ。温かい食卓の支度に手を動かす周太は、きれいだから。
次に好きなのは草花とふれあっている姿、周太は植物といると寛いで穏やかな空気がより和らいでいく。
でもほんとうに一番好きなのは、白いシーツの上で穏やかな繊細な素顔のままで、英二に抱きしめられてくれる姿。
今朝のように。
そんな想いに見つめる先で2人の背中が射撃を終えた。
婚約者とアンザイレンパートナー。どちらも本当に大切で、きっとどちらも自分の運命の相手。
そんな2人が並んで立っている姿を不思議な想いで英二は見つめていた。
「さあ、宮田くん。私たちの仕事が始まります」
吉村はイヤープロテクターを外して微笑んだ。
これから英二と吉村医師の担当任務が始まる、英二もイヤープロテクターを外した。
「はい。今日もたくさん教えてください、先生」
「おや?君はこの任務では私の助手ですよ、宮田くん?むしろ私にアドバイスをしてくれないと」
そう笑いながら狙撃済標的の保管場所へ吉村医師と向かった。
昨日は夜間だったから標的の鑑識は後回しだった、けれど今は昼間で明るいため随時すぐ鑑識に入る。
だから今日はチームごと別行動があり、射手の国村と周太はもう一か所の標高1,800m付近にある実験場へと向かう。
これから少し別行動になる英二に国村が声を掛けてくれた。
「じゃあ、宮田?ちょっと湯原くんとデートしてくるね。朝陽の山を一緒に散歩だなんてさ、ロマンチックだよな、ねえ?」
「ダメだよ、国村?これはただの任務だ、今は警察官として周太は同行するだけ。ね、周太?」
絶対にデートとかダメ。そんな想いで周太を見ると首傾げて微笑んでくれている。
前髪をあげて大人びているけれど、笑った顔はやっぱり可愛くて英二は微笑んだ。
そんな英二を見て国村は細い目を温かく笑ませて言ってくれた。
「はいはい、仕方ない男だね?
おまえの奥さんはさ、俺が責任もって安全に山をご案内するよ?ま、おまえはきっちり吉村先生の補佐してな?」
「うん。ありがとうな、国村。周太のこと頼んだよ?」
国村はすぐエロオヤジの発想で笑ってくる。
けれど本当は真直ぐで一度負った責任は必ず守りぬく、佳い男気を豊かに持っている。
そんな国村と一緒なら大丈夫だろう、英二は周太に笑いかけた。
「周太、国村は変なこと言うかもしれないけど、気にしないで?
悪気なんて無いから。それから山のことは信頼できるよ。でも周太、あんまり見つめたりしちゃダメだからね?」
「はい、大丈夫だよ、英二。行ってくるね?」
きれいに笑って周太は、国村と後藤副隊長たちと次の実験場へ向かった。
その姿を見送ると英二は標的を眺めている吉村の隣に片膝をついた。
標的を見ていた吉村医師は英二に笑いかけると、ほっとため息を吐いた。
「見事ですね、全部が規定の点に的中しています。そして、弾痕を見てください」
置かれた4体の標的はどれも「点」を確実に撃っている。
国村の標的と周太の標的、その対比する弾痕は全く同じ形状だった。
「全く同じ弾痕、ですよね?」
「同じ火薬量と同じ弾丸、同じ銃の使用。それでも、こうも全く同じように撃ち抜くことは難しい。
けれど2人の弾痕は全く同じように見えます、そして指定した点からずれていない。さ、計測していきましょう」
まず標的の指定点にあけられた弾痕の直径を計っていく。
それから弾痕部分の断面を測定して標的内での軌道などを調査し、記録にまとめていく。
標的を切開していく吉村医師のサポートを務め、計測データをまとめながら、思わず英二はため息を吐いた。
2人の弾痕は全てのデータが一致していた。
あの2人の狙撃するスタイルはすこし違いがある、それでこうも全く同じに出来るのだろうか?
そう考え込む英二に吉村医師が声を掛けた。
「とても正確な射撃を2人ともされていますね、どちらもブレが無い」
「はい。全てが一致しています。以前の弾道調査でも、こんな感じでしたか?」
2年前にも国村はテスト射手を務めている。
そのときはどうだったのだろう?聴いてみた英二に吉村医師は答えてくれた。
「いいえ。あの時は、国村くんは的中で全弾撃ち抜きました。
けれど他の方はすこし外していたのです、だから比較として正確には言えません」
「では、平均値で基準データを?」
「はい、あのときは3名の射手でした。でもこうして見ると、国村くんのデータが正確だったことが解りますね」
話をしながら今のデータをまとめ、昨夜分も同様に処理していく。
そうしているうちに1,800m地点の実験場から射手とサポートのチームが戻ってきた。
新たな4体の標的を迎えて吉村医師と英二は計測データをとっていく。そこへ周太が覗きこんだ。
「おや、湯原くん?よかったらご覧になりますか、勉強家のきみは興味あるでしょう?」
すぐに気がついて吉村医師は穏やかに微笑んでくれる。
ほんとうに良いのかな?そんな顔で遠慮がちに周太が訊いた。
「はい。でも、お邪魔ではありませんか?
「いいえ、どうぞ遠慮せずに見てください。勉強になって良いでしょう?」
温かい勧めに周太は素直に頷いた。
そして吉村医師の邪魔にならないように測定されていく標的を見守っている。
そんな周太が微笑ましくて、ときおり見やりながら英二はデータ集計を進めていた。
「では上腕部のデータ計測に入ります。まず橈骨と上腕二頭筋の接点、ここは貫通です」
「はい、橈骨の粉砕はどの程度ですか?」
標的は人体と同じ組成と強度で作られ、狙撃された部位ごとの筋繊維の断裂状態、骨の粉砕程度などもデータにとっていく。
こうしたデータを実際の犯罪発生時には被害者と照合して、犯行状況の推定をあいて真相へのヒントにする。
本来なら法医学教室で行う模擬実験かもしれない、けれど青梅署は法医学教室から遠くその恩恵は少ない。
けれど奥多摩は狩猟区域でもあることから狙撃による犯罪の可能性も高い。
青梅署では山岳地域であり遭難救助が主務だが、首都の山岳地域という立地条件から自殺遺体の発見も多い。
そうした自殺遺体の行政見分を青梅署の警察官たちは行うことになる。
そのとき他殺遺体を自殺と誤って判断すれば、犯罪がひとつ隠匿されることに繋がってしまう。
だから青梅署の警察官には個々の鑑識知識が必要とされ、そのため青梅署は独自に奥多摩でのデータを作っている。
青梅署警察医の吉村医師は前職が大学病院のER担当教授だった、そしてその前は法医学教室に在籍した経験がある。
そんな吉村医師の存在が青梅署での調査研究実施を支えてくれている。
手際よく作業する吉村医師の手元を周太は熱心に見ていた。
「周太、楽しい?」
「ん、こういうのって見る機会ないし、おもしろいな?」
いま任務中の周太は警察官の顔のままでいる。
いつも端正な姿勢がどこか緊張している雰囲気が英二には目新しい。
普段の新宿署での業務中も、こんなふうに緊張しているのかもしれない。
思いながらデータ計測を進めていると、国村が来て周太に声を掛けてくれた。
「湯原くん?次の始めるよ、これが終わったらさ、次の実験場へ移動するから」
「はい、今、行きます」
素直に返事をしてから、周太は吉村医師に見せて貰った礼を述べた。
それから英二の隣に来ると微笑んでくれた。
「英二、本当によく勉強しているね?…頑張ってね」
「そうかな?ありがとう、周太」
そう言って笑いかけると周太も笑ってくれる、笑顔を残して周太は国村との狙撃へと戻っていった。
その間に吉村と英二は測定数値をまとめ、最後の4体の測定データ取得を終えた。
そして最終分も終えると、やはり2人の弾痕は全て合致したデータとなっていた。
「この調子ですと、ザイル狙撃も早く終わるかもしれません」
「はい、」
向こうで後藤副隊長たちと話している周太と国村を見ながら、英二と吉村は話していた。
このあと岩場を利用した実験場へと場所移動をする。その岩場での実験場では今頃ザイル係が準備をしているだろう。
けれど英二はザイルへの狙撃の趣旨説明をまだ周太にはしていない。
そろそろ話しておかないといけない、もうザイルへの狙撃が始まるのだから。
「宮田、移動開始だよ?行こう」
「うん、ありがとう。周太は?」
声かけてくれた国村に訊くと、細い目を温かく笑ませて呆れたように笑ってくれる。
そしてすぐ周太を連れてきて英二の隣を歩かせてくれた。
すっかり明るくなった午前中の雪山を歩きながら、英二は周太に笑いかけた。
「周太、ザイルへの狙撃はね?宙吊り遺体収容の再現実験になるんだ」
言った途端に周太の瞳が少し大きくなる。
やっぱりこんな顔させちゃったな?すこし困って微笑みながら英二は説明を始めた。
「群馬県の谷川岳はね、剱岳や穂高岳と、日本三大岩場の一つに数えられる。
ロッククライミングの場所なんだ、それで谷川岳には一ノ倉沢ってとこがある。
ここは穂高岳の滝谷とならぶ厳しい岩場だ。マッターホルンとかに挑戦する練習場としても使われることも多い」
「その一ノ倉沢で起きた遭難事故のこと、なんだね?」
明晰な警察官の顔のままで周太が訊いた。
頷いて英二は言葉を続けた。
「もう50年以上前の事件なんだ、周太。
遺体がザイルで宙吊りになってね、そのザイルを狙撃で切断して、遺体を落下させることで収容したんだ」
1960年9月19日。群馬県警谷川岳警備隊に一ノ倉沢で救助を求める声が聞こえたとの通報が入った。
そして警備隊が現場に急行し、一ノ倉沢の衝立岩正面岩壁の上部200m付近でザイルで宙吊りになった2名の登山者を発見。
遠方からの双眼鏡による観測で確認、すでに2名は死亡していた。遭難の原因は不明だがスリップしたとされている。
現場となった衝立岩正面岩壁は、当時登頂に成功したのは前年の1例のみという超級の難所だった。
そのため接近しての遺体収容は二次遭難の危険が高いと判断され、長い鉄棒に巻いた油布に点火しザイルを焼き切る案が出された。
だが検討の結果不可能と判明し、遺体を宙吊りにしているザイルを銃で狙撃切断して収容することになった。
5日後の9月24日。陸上自衛隊の狙撃部隊が召致され銃撃を試みた。
射手を務めた隊員は射撃特級の資格所持者だった、それでも数百メートル先のザイル切断は難しかった。
狙撃開始2時間で1000発以上の小銃・軽機関銃の弾丸を消費し不成功。
その後、ザイルと岩の接地部分を銃撃することでザイル切断に成功、滑落した遺体を収容した。
遺体が滑落する様子は多くの自衛隊関係者、山岳会関係者や報道関係者が見守りフィルムに記録された。
「最終的に消費した弾丸はね、1300発に上ったんだ。
当時のニュース映画では『あまりに痛ましい遺体収容作業』だったって言っている。
この時のザイル切断をね今日は再現してもらうんだ。弾丸数は限られているし条件も違うけれどね。
奥多摩にもクライミングのポイントがある、同じ事故が起きないとも限らない。備えて対応を考える参考データにするんだよ」
話し終わって英二は周太の顔を見た。
ほっと息を吐いて周太は英二を見あげて見つめてくれる。
そして穏やかな口調で訊いてくれた。
「…一ノ倉沢。いつか、英二も登りに行くのでしょう?」
やっぱり訊かれたな。
大丈夫だよと微笑んで英二は周太に答えた。
「うん、行くよ、周太。この冬の間に国村と行ってくる。いま登っておかないと、来シーズンに間に合わないからね」
ぱさりと雪が梢から落ちた。
その音にも周太は顔をあげない、アイゼンで雪を踏みながら周太は黙って歩いている。
こんなところで話すべきじゃなかったかな、すこし後悔しかけた時に英二は額を小突かれた。
「ほんとバカだね、この男はさ?湯原くん、そんな俯かなくていい。ほら、こっちを見なよ?」
底抜けに明るい目で笑って国村が周太に話しかけた。
声に周太が顔をあげると国村は細い目を温かく笑ませて笑いかけてくれた。
「俺と宮田はさ、体格がそっくりだろ?
俺はね、一ノ倉沢も滝谷もね、無事に登って帰ってきた。マッターホルンもね。
だから大丈夫だよ。俺と似ている宮田なら、必ず無事に登れるね。そして無事に帰ってくる。安心しな?」
底抜けに明るい目は真直ぐに周太を見つめている。
そんな真直ぐな視線に、すこしだけ微笑んで周太は国村に短く訊いた。
「ほんとうに?」
「ほんとうだね。こいつは俺が無事に帰らせるからさ。だいじょうぶだよ、湯原くん?俺が約束するよ」
黒目がちの瞳が国村を見あげて見つめた。
ゆっくり瞬くと考え込むようにまた足元を見つめて歩いていく。
さくさくアイゼンが雪踏む音を聴きながら、どこか寂しげに周太は歩いていた。
そして唇が開いて、周太は言った。
「ん、…そう、だね」
ぽつんと言って微笑むと、周太は向こうの空を見あげた。
その視線の先には岩場とザイルが見えている。
登山口に着くと国村が英二に目配せを送った。
さり気なく横に立つと細い目がすっと細まって英二を真直ぐ見つめた。
「なあ、宮田?湯原くん、大丈夫か?なんか今日はずっと様子が変だ。昨夜、なにがあった?」
低い声で国村が訊いてくれる。
やっぱり様子がおかしいと思うんだ?英二も低い声で話した。
「うん…いつもより周太、一緒にいたがるんだ。
昨夜、そのまま寝ようと思ったんだ。でも周太から求めてくれた、そして今朝も一緒に風呂に入った」
「ふうん?…らしくないね、なんか…うん?そうか、そういうことかな?」
英二の話を聴いて国村が首傾げて頷いた。
なにか国村は解ったのだろう、なんだろうと見つめていると細い目が温かく笑んだ。
「うん、まあ、大丈夫だろ?とりあえずさ、ちょっと銃座まで往復デートしてくるね。
ここまで今日は俺が湯原くん独り占めしちゃってるけどさ?ま、あんまり嫉妬するなよ、宮田?」
からり笑って国村は英二の額を小突いた。そして「じゃ、またね」と軽やかに周太の横へと行ってしまった。
国村と周太は、今度はふたりで狙撃の銃座ポイントへと登ることになっている。
後藤副隊長たちはザイルに吊るされた標的が、滑落する予定ポイントへと回収のため、ここからは別行動だった。
底抜けに明るい目で国村は周太に笑いかけて説明してくれている。
「さ、湯原くん?ここから2人きりだけどさ、安心しなね?襲ったりしないからさ」
「ん、はい…ええ、」
英二は、まだどこか沈んでいる周太の様子が気になってしまう。
登山口へ向かう周太を追いかけて、英二は周太の右掌を掴んだ。
「周太、」
呼んだ名前に振り向いてくれる。
握りしめた右掌は登山グローブに表情が隠されて解らない。
このグローブもいま着てくれている水色のウェアも、年明けに英二が贈ったばかりのものだった。
自分の選んだものを着て、英二の想いと一緒に立ってくれている。
「周太?今夜はね、俺、…周太と晩飯、食えるんだよね?」
どうかお願い頷いて?
祈るような想いで見つめる黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
「ん。一緒に食べて?…なに食べたい?」
「周太が食べたいものが良い、俺、周太がしたいこと一緒にしたい。だから、周太?俺、周太と一緒が良いよ?」
ほんとうは今だって、一緒に山へ登りたい。
けれど自分は吉村医師の助手として、ここに残らなくてはいけない。
でも一緒に行きたいのに?想いが周太の右掌を離せなくて竦みそうになる。
そんな英二に周太は、やさしく微笑んでくれた。
「ん。一緒が良いな?…俺はね、英二が食べたいものが、食べたいな?…考えておいて、お願い、英二」
きれいに微笑んで周太は、右掌を掴んだ英二の手に左掌を重ねてくれる。
そして右掌と左掌でくるむようにして、そっと英二の手を離した。
「行ってきます、英二?」
きれいに笑って周太は踵を返した。
その周太の掌をとって国村が、登山道入り口の凍った沢を越えさせてくれる。
「ここは岩場だ、アイゼンの刃を傷めないようにね?このあとが困っちゃうからさ、」
「ん、…ありがとうございます。もう、手、離して大丈夫です」
「うん?でもここ滑りやすいんだ、このまま渡るよ?」
テノールの透る声がどこか優しい。
遠ざかっていく声と気配を見つめながら英二には、国村の想いが解ってしまう。
国村と英二は似た者同士、だから考えていることが解りやすい。だから信頼が出来る。
けれど直情的な自分は周太を独り占めしたい。ほんとうは、自分が周太の手をひいて山に登らせてやりたい。
自分以外の人間が周太に想いをかけることは、ほんの少しでも本当は嫌だから。
―…あいつね、きっと好きなんだ。恋愛とかじゃなくて、もっと、
今日は国村はずっと周太と行動をしている。そんな2人の様子を見ていて英二は気がついてしまった。
初めて国村にあったとき英二は、どこか周太と似ているように感じた。
それはきっと純粋無垢な心がふたりは同じ、だから似ている部分があっても不思議なはい。
そんな国村も気難しくて人に心を開きにくい、それは周太とよく似ている。
そして国村は両親を、周太は父親をもう亡くしている。だから2人は「時」の大切さを知っている。
きっと鋭敏な国村は周太のなかに、自分と同じものを感じ取っているだろう。だからさっきも周太の様子に気がついていた。
そして共通するものが多い周太を国村は大切に思っている。恋愛とかそういう感情じゃない、ただ大切に思っている。
だから国村は英二が周太のために向かう危険にも、一緒に立とうとしている。
底抜けに明るい目をした誇らかな自由まぶしい大好きな友人。
秀麗な顔に似合わないエロオヤジで、自由な心のままに恋愛も経験も楽しんでいる。
そして真直ぐで偽ることのない山ヤの最高の魂を持って、英二に運命の友達だと言ってくれた。
あの富士の山でアンザイレンパートナーを初めて組んだ、絶対的信頼を結び合える相手。
そんな友人を信じなかったら、自分は誰を信じればいいのだろう?
ことんと肚に想いが落ちて英二は微笑んだ。
― 周太のことも、あいつを信じよう
自分とよく似た直情的で熱情がつよくて誇り高すぎる男。
自分とよく似ているから知っている、あいつは約束を必ず守ること。
そして必ず自分と一緒に最高峰を踏破する夢を叶えていくこと。
―… 何でも俺には言っちまいな?…聴いてさ、蹴飛ばして、笑ってやるよ
そんなふうに笑って信頼と友情をいつも示してくれる。
だからあとで言ってみよう、いま自分が考えてしまった嫉妬と想いも。
そして聴いて笑ってもらって、一緒に笑えばいい。
「宮田、おつかれさん」
ぽん、と肩を叩かれて振向くと藤岡が笑っていた。
藤岡はザイル係として今日はずっと別行動だった。
人の好い笑顔の同期にほっとして、英二は笑いかけた。
「おつかれさま、藤岡。一旦退避?」
「そうだよ、万が一でも流れ弾が当ったら危ないだろ?」
「だな。でもまた登るの大変だな?」
そんな話をしながら岸壁のザイルを英二は見つめた。
そろそろ始まる頃だろうな?英二は左手首のクライマーウォッチを見た。
そして銃声が1発大きく響いた。
銃声の衝撃波が山間に木霊してリフレインしていく。
そこにまた規則正しくそろえるように銃声が1つ響いて、木霊が追いかけていく。
「うわ、…すごいな、銃声」
横で藤岡が目を瞬いた。
驚くよなと目で笑って英二は、発砲時刻をボードの紙に記入した。
スタートから15分経って、まだザイルは切れ落ちない。さすがの2人でもザイルは狙撃が難しいターゲットだろう。
それでも弾丸数は渡された分だけしかない、クライマーウォッチで時間計測しながら銃声音を数えて英二は呟いた。
「…そろそろ、半分かな?」
その瞬間、1声の銃声とともにザイルが切れ落ちた。
「うわ、すげえ!ほんとにザイルを撃ち抜いた!」
横で藤岡が笑った。そして周りでも驚きと称賛の声が上がる。
ザイルが切れて標的が滑落していく、後藤副隊長から無線を受信して英二はとった。
「俺だよ、宮田。こちらからも滑落を目視した、いま回収に向かっているよ。おまえさんの方はどうだ?」
「はい、弾丸数は半分を残していると思います。木霊がすごくて、聴いただけでは正確な数は解りませんが」
「そうか、かまわんよ。空薬莢を見れば弾数は解るからな。それにしても、すごいな?ほんとうにザイルを撃ちぬいたなあ?」
そんなふうに笑って後藤は無線を切った。
けれど英二は素直には喜べないでいた、少し気懸りがある。
ザイルが切れた直後、もうひとつの銃声を英二は聴いた。
「なあ宮田?いま、ザイルが切れた後にさ、1回、銃声が聞こえなかったか?」
横に立つ藤岡が訊いてきたる。聴こえたのは自分だけじゃない、英二は藤岡の顔を見た。
けれど英二はそのまま微笑んで藤岡に答えた。
「そうか?木霊じゃないかな、あの場所ってさ、一回の音に何度か反響するから」
「そっか、そうだね。じゃ、ザイルの回収に行ってくるな」
「ああ、気をつけて」
そう言って藤岡を見送ると英二は、鑑識ファイルを閉じた。
そして吉村医師の元へ行くと計測データのメモを渡して微笑んだ。
「先生、今の計測データです。チェックお願いできますか?
そしてすみません、見て頂いている間に2人を迎えに行っても良いでしょうか。今朝は周太、少し熱っぽかったから気になって」
「はい、構わないですよ?気をつけて行ってくださいね」
「ありがとうございます、」
きれいに笑って英二は登山道を歩き始めた。
いつものペースで登りながらも足運びが早くなっていく。
そうして雪を踏んでいくアイゼンの音を聴きながら、銃声が響いたときの記憶が網膜に甦る。
最後、1つの銃声が響いた。そして火の色が見えた、だからあれは木霊じゃない。
(to be continued)
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第33話 雪火act.4―side story「陽はまた昇る」
ダウンライトの温かい灯のなかで、ねむる周太は微笑にまどろんでいる。
いつものように幸せそうな微笑みが愛しくて、幸せで英二は微笑んだ。
ずっと見つめていたいけど、そろそろ起こさないといけない。ねむりに艶ほころぶ唇に英二は唇を重ねた。
「…ん、」
ちいさな吐息が微笑んだ唇がいとしい。
きれいに笑って英二は周太の前髪をかきあげると、そっと額にキスをした。
ふれる額にふるえが瞬いて長い睫がかすかに揺れてくれる。
起きてくれるのかな?
長い睫の奥にねむる大好きな瞳がもうじき自分を見つめてくれる?
そんな楽しい予感に見つめる真ん中で、長い睫がゆっくり披かれて黒目がちの瞳が英二を見つめた。
見つめてくれる瞳がうれしくて英二はきれいに笑いかけた。
「おはよう、周太。俺の花嫁さん。……、」
笑いかけたまま英二は息を呑んだ。
いったいどうしてしまったのだろう?めざめてくれた瞳に呼吸が心ごと浚われて英二は見つめた。
ゆっくり披かれた長い睫の奥で、黒目がちの瞳は誇らかに輝いていた。
輝きに透けるような明るさと深い想いが、きれいだった。
やさしく穏やかな愛を抱いている、誇らかな1つの勇気と意志。
初雪の夜の翌朝に周太の瞳にともされた想いたち、それは見つめる今も変わっていない。
けれどもう1つなにかが周太の瞳をまた明るませている。
この明るさはなんだろう?そんな想いと見つめる周太はまた美しくなっている。
すこし紅潮した頬、あわい赤が花のように散る素肌、けぶる艶やかな清楚。
ねむり潤んだ唇こぼれるような微笑は、やさしい幸せにほころんでくれる。
めざめて英二を見つめる瞳はひとつ瞬いて、瑞々しい唇がしずかに英二に微笑んだ。
「おはよう、…英二?」
周太の笑顔は、きれいだった。
あんまりきれいで英二は切なくなった。
きれいな笑顔が切なくて、消えてしまいそうで怖くて、失いたくなくて英二は抱きしめた。
抱きしめた途端なぜか英二の目から涙がひとすじ零れて、白いシーツへと落ちた。
「ん…どうしたの、英二?」
腕のなかから微笑んで周太は訊いてくれる。
やさしい穏やかな、周太の話すトーン。すこし特徴的なゆるやかな話し方は、素のままでいる時の周太。
いまも周太は素顔のままで、きれいな純粋なままで微笑んでいる。いつものように。
それなのになぜ自分は涙がこぼれたのだろう?自分でも解らないまま、英二はやわらかく抱きよせて笑いかけた。
「周太がね、きれいで涙が出た。周太、愛してるよ。ずっとこうしていたいな」
「ん…はずかしくなる。でも、…愛してる、よ?」
頬染めて気恥ずかしげに微笑んでくれる。
いつもどおりの周太の笑顔、いつもどおりの穏やかなトーン。
どれもが幸せで大好きで愛しくて、ずっと離せなくて一緒にいる約束をしている。
でも、なぜ今朝はこんなにも起きたくないのだろう?
「周太、ずっとこうしていたい。ずっと周太の瞳を見ていたいな、抱きしめて周太の肌にふれていたい」
「…ん、…そう、なの?」
「うん、そうだよ。俺の婚約者さん、」
笑いかけながら英二は周太を抱きしめてしまう。
ふれる髪がやわらかに英二の頬を撫でて、おだやかで爽やかな香りがくるんでくれる。
ずっと憧れて好きだった、この香も瞳も全部がずっと好きで追いかけて、こうして今は抱きしめている。
―このまま今日は、ずっと一緒にいたい
今日は弾道調査の現場実験がある。
きっとクライマーウォッチは4時を20分は過ぎてしまった。
それでも起きたくなくて英二は周太を抱きしめて、ときおりキスでふれては見つめていた。
「…英二?もう、起きないと…ね、任務に遅れちゃうよ?」
「もうすこしだけ、ね、周太…いま俺、周太を抱きしめていたいんだ…もうすこしだけ」
そんな「もうすこし」を幾度も過ごしてベッドから出られない。
ずっとこうしていたくて、けれど早朝からの任務が待っていて。
その任務だって周太と一緒に立つ現場、それなのに英二はどうしても起きたくなかった。
ただずっと抱きしめて、大好きな黒目がちの瞳を見つめていたい。
いつもなら周太と過ごした朝でも「任務」は英二の背筋を伸ばさせる。
そして任務の手順を考えながら、ゆっくり周太が淹れてくれたコーヒーで過ごす朝の一時が好きだ。
だから今朝のように任務をさぼってしまいたい気持ちは初めてだった。
いったい自分はどうしたのだろう?
自分で自分が解らない、そんな途惑いと想いのまま周太を抱きしめていた。
このまま素肌ふれて抱きしめて、温もりにおぼれこんで眠りこんでしまいたい。
そんな英二に周太は微笑んで、やさしいキスをしてくれた。
「ね、英二?…俺ね、明日は週休だから、今夜もここに泊まるつもりなんだ」
キスを交して微笑んで周太は言ってくれた。
言ってくれた言葉に驚いて英二は聴き返した。
「ほんとに、周太?」
「ん、ほんとうだよ。だからね、英二?今夜も一緒にいてくれる?」
その言葉がうれしくて英二はすこしだけ「起きてもいいかな?」と思えた。
でもまだ抱きしめていたい起きたくない、英二は周太に訊いてみた。
「でも周太、射撃の自主トレあるんだろ?もう大会まで半月ないから、って言ってた…明日は早く帰っちゃうんだろ?」
すこし拗ねたような口調についなって、我ながら子供っぽいなと英二は微笑んだ。
そう微笑んだ英二の唇に周太は、そっとキスをして微笑んでくれた。
「大丈夫だよ、英二。明日はね、自主トレもキャンセルしたんだ。
急な出張だし野外の狙撃は疲れるから、大会前に疲労をためないよう、明日は休めって上司も言ってくれて。
だからね、英二?…明日は英二が仕事をね、終わるの待ってるから…だから帰りは夜、新宿まで送ってくれる?」
明日も周太は奥多摩にいてくれる?
うれしくて英二は笑って周太に訊いてみた。
「じゃあ周太?御岳山の巡廻とか一緒に回ってくれる?」
「ん、一緒に御岳山にまた登りたい。任務の邪魔にならないなら、連れて行って?」
「うん、連れて行きたい。雪の御岳を見せたい、朝も夕方も見せたい」
「ん、朝も、夕方も、見せて?」
きれいに楽しそうに周太は微笑んでくれる。
やさしい微笑みがうれしくて英二は、想いつくまま全部の「わがまま」を言った。
「じゃあ周太?昼休みはさ、御岳駐在の休憩室へ来てくれる?」
「ん、コーヒー淹れに行ってあげる。そしてね、昼の自主トレにも参加させてくれる?」
「もちろんだよ、周太?きっと国村も周太がいると喜ぶよ、あいつ周太のこと大好きだから」
昨日も一緒に狙撃手を務めながら国村は、やさしい温かい目で周太を気遣ってくれていた。
そんな国村に少し英二は嫉妬しそうだった、自分以外に周太を見つめて欲しくないから。
「そう、かな?喜んでくれるかな?」
「かなり喜ぶと思うよ?だってね、周太?あいつはね、2月の射撃大会も周太と競技したいから出場するんだよ?」
周太が出場すると聴いたとき国村は、急にやる気になって笑った。
それから英二は国村がサボりそうになる度に「周太はさ?」と言ってやった。
そのたびごとに国村は急に「大会も楽しみだな」と機嫌よくなって練習してくれる。
「そうなの?」
「そうなんだよ、周太。だってね?富士の山小屋で、俺が周太を泣かせた話をしたらさ?
あいつ、周太の分だって言って俺のこと蹴飛ばしたんだ。それくらい周太のことを、あいつは好きなんだよ」
「ん、そんなこと、あったの?」
国村は自由人で身軽で、恋愛すらも束縛されることはない。
そういう友人が周太だけは特別に構いたがる、だから英二は「周太は俺のもの」といつも宣言してしまう。
昨日も国村は周太に手出しはしないと約束した、それでも英二は周太にお願いをした。
「でもね、周太?絶対に国村のことなんか見つめないで?
あいつエロオヤジだからさ、ちょっと周太が見つめただけでも喜んで、周太に手出ししそうで嫌だよ?
あいつ本当に良いヤツだし大切なアンザイレンパートナーで友達だけどさ?
でも周太になんかしたら俺、きっと国村を酷い目に遭わせちゃうよ?ね、周太、絶対に俺以外を見つめちゃダメ」
絶対ダメだよ?目でも訴えながら英二は周太にキスをした。
そんな英二に黒目がちの瞳がすこし大きくなっている。それから微笑んで言ってくれた。
「ん。大丈夫だよ、英二?俺はね、英二だけだから…
初めてひとを好きになったのもね、英二だから好きになれた…だから、他のひとはね、きっと誰も好きになれない」
初々しい紅潮に微笑んで告白してくれる。
こんな告白はうれしい、うれしくて英二はキスをして笑った。
「俺だってそうだよ、俺は周太だけしか欲しくない。
だから周太、お願いだ。俺を置いていかないで?俺を独りにしないで、ずっと俺だけの隣でいて?
ほんとうに俺、もし周太が居なくなったらきっと、水がなくなった花みたいに死んじゃうよ…だから隣でいてよ」
きっと水がなくなった花のように。
そう言った途端に英二の目から涙がこぼれ落ちた。
どうして今朝はこんなに周太を離せない?どうして涙が出るのだろう?
解らない。自分でも解らない、でも離せなくて英二はまた周太を抱きしめた。
そんな英二に周太は微笑みかけてくれる。そして頬をふたつの掌でくるんで、やさしいキスをくれた。
「ん、隣でいるよ?今日も一緒に現場に立つよ、ね、英二?だから、起きよう?」
「…明日も、朝も夕方も一緒に御岳山へ登ってくれる?」
念押しするように英二は周太の瞳を覗きこんだ。
覗きこんだ瞳はめざめた時のまま美しくて、まぶしくて英二は見惚れてまたキスをした。
そっと唇を離すと周太は、きれいに笑って約束してくれた。
「ん、一緒に登る。昼休みにはね、コーヒー淹れに行くよ。自主トレも一緒だよ?
そして俺を新宿へ送って、夕食も一緒に食べて?ね、だから英二、起きて仕度しよう?そして一緒に任務に就こう?」
きれいに笑って約束をたくさん決めてくれる。
こんなに楽しい幸せな約束をくれるなら、起きてもいいかもしれない。
でも、と未練が残って英二はもうひとつ「わがまま」を言ってみた。
「じゃあ周太、約束のキスをして?」
「ん…はい、」
ちいさい声。それでも周太は返事をしてくれた。
そして英二の頬を両掌でくるんで、そっと唇をよせてくれた。
かすかなオレンジの香とふれる甘やかな温もり、やわらかなふれる想いが愛しい大切なキス。
初々しさにふるえながら蕩かしてくるキス、幸せで英二は笑った。
「うん、俺、起きるよ?」
そして英二はようやく起きて、大きい自分のシャツにくるんだ周太を抱き上げて浴室へ行った。
バスタブに立たせた周太から、そっとシャツを脱がせながら英二は微笑んだ。
「ね、周太?一緒に入ったら、嫌?」
きっとダメかな?そう覗きこんだ顔は赤くなっている。
やっぱりダメかな、仕方ないな?微笑んで英二はシャツを抱いて浴室を出ようと背を向けた。
そんな英二の背中に、やさしい声がふれてくれた。
「…えいじ、」
背中に温もりがふれてくる。そっと腕が回されて掌が胸の前で交差してくれる。
背中から抱きしめてくれながら、やさしい声がしずかに告げてくれた。
「一緒に、入って?…すこしでも近くで、一緒にいたいから」
告げてくれる言葉、やさしい想いがふれてくる。
背中にふれる想いの合間に、胸に交差された掌に自分の掌を重ねて英二は微笑んだ。
「いいの、周太?昨夜から周太、いつもより俺に触れさせてくれるね?」
「ん、…一緒にいたいから。すこしでも英二のね、…近くにいたい」
ふっ、と温かい雫を背中に感じて英二は振り向いた。
「周太?」
名前を呼んで見つめた頬には、きれいな微笑みだけがうかんでいた。
きれいな微笑うかぶ頬を英二は掌でくるんだ、やわらかな温かさがふれてくる。
気の所為だったろうか?そんな小さな気懸りにも、きれいな微笑から目が離せない。
きれいに笑って英二は周太に答えた。
「うん、一緒にいよう?周太」
そして一緒に風呂を済ませて一緒に着替えた。
着替えて、ベッドを英二が整える間に周太は、いつものようにコーヒーを淹れてくれる。
芳ばしい温かな湯気が夜明け前の部屋に燻っていく、周太には疲れは無さそうに見えた。
手際よくコーヒーを淹れる手許を見ながら英二は幸せだった。
いまコーヒーを淹れてくれる英二よりちいさな手はすこし節がたっている。
それは周太が警察官になる為に積んだ武道と射撃の訓練の痕、周太が積んだ努力の痕だと英二は知っている。
けれどこの掌はほんとうは、大好きな草花を摘んで活けることが好きだ。
そしてこの掌は器用で、拾い集めた落葉や摘んで可愛がった草花を、きれいな押花へと生まれ変わらせる。
そんな器用な掌はいつも英二にコーヒーを淹れてくれる。
そして温かな台所に立つときは、英二の為に温かな食卓を仕度してくれる。
「はい、英二…熱いから気をつけて?」
「ありがとう、周太」
マグカップをサイドテーブルへ置いてくれる、周太の掌。
カップから離れた掌を英二は、そっと自分の掌にとると周太を見あげた。
両掌を英二に預けて周太は微笑んで「どうしたの?」と黒目がちの瞳が訊いてくれる。
自分の長い指の掌のなかにおさめた大切なふたつの掌に、しずかに英二は口づけた。
この掌が自分は大好きで、大切で、ずっと守りたい。
「周太の掌はね、きれいだ」
きれいに笑って英二は周太を見あげた。
夜明前の山は雪の底に眠っていた。
夜闇と雪にすいこまれる静寂に、アイゼン踏む雪道はざくざくと感触がしみてくる。
昨日降り積もった雪は夜の冷気に凍てついて締雪へと変わり始めていた。
暁前の冷気が凍らすように頬を撫でる、吐く息の白さがヘッドライトに靄となって森の夜へとけていく。
「夜明け前が一番冷込むからね。アイゼンは大丈夫?湯原くん」
「はい、大丈夫です」
慣れないアイゼンを履いた周太を国村が気遣ってくれる。
気遣いに素直に頷く周太に細い目を温かく笑ませながら国村は言った。
「この道は岩場や木の根がたまにある。踏んで滑りそうになったら、俺の腕とか掴んでいいからね?支えるからさ」
「はい、ありがとうございます」
周太は前髪をあげて警察官の姿勢になっている。
その横顔がいつになく凛々しくて英二はつい見つめてしまう。
周太は表情と髪型で雰囲気が随分と変わる、今朝めざめた時と今とは別人のようにも見えるだろう。
この2時間ほど前、めざめた朝の周太は美しかった。そして離したくなかった、どうしても。
いつも周太は英二に抱きしめられて目覚めるたびごとに、初めて見た人のように美しく変貌していく。
だから美しくなることは「いつもどおり」のことだった。それなのに今朝はなぜか切なくて堪らなかった。
どうしてか解らない、けれどほんとうは今朝の英二は周太を離せなかった。
きっと今日の任務が無かったら、そのままずっと抱きしめて離せなくなっていた。
― どうして、あんなにも離したくなかったんだろう
足元に気を配りながら雪山を登っていく。
そんないつもの雪山の道もどこか違っていて、違和感が英二の肚に疑問を作っていた。
いったい今朝はどうしてしまったのだろう?
今朝1番目の実験場に着くと夜明け前の空気に充ちていた。
雪の斜面にも冬の朝陽がふり始める、ゆるやかに金と紅あわい色彩が雪の山を照らしだす。
手順通りに設置された的へと向かって、国村と周太が規定位置へと立った。
「夜明けの狙撃は太陽光線の変化が速い。
昨日の夕方とは逆に明るくなっていくからね、目が眩みやすいよ。
ましてここは雪山だ、雪の反射が朝陽は強い。目を傷めないように気をつけてね、湯原くん。」
並んで立つ周太へと国村がアドバイスをする声が聞こえてくる。
国村のテノールで透る声は雪の山中でも明瞭で聞こえやすい、その声に周太は素直に頷いている。
「はい、サングラスは、まだ要らないですよね?」
「うん。日中になったら掛けた方が良いけどね。ところでさ?敬語になってるのは任務中だから?」
「はい。今、俺は警察官ですから」
生真面目な周太の話し方が警察学校を思い出させる。
ちょっと微笑ましい想いに英二は小さく笑うと、吉村医師の隣に立った。
昨日と同様に英二は吉村医師のサポートで狙撃標的の状態確認を担当する。
今回の調査は人体と同じ弾力と骨組で作られた模型の角度を変えながら狙撃していく。
もし雪山で狙撃が行われた場合に標的が受けるダメージを、さまざまな角度と狙撃パターンで検証をする。
そうした検証によって、標的のダメージから狙撃パターンを類推する基準データを作成する趣旨だった。
その基準データがあれば同様の犯行が起きた時に犯行状況の推定がしやすくなる。
今回は降雪時のデータになるが、山間部での狙撃という点では無雪期のデータとしても使えるだろう。
今回この降雪のタイミングを狙っての実験なのは、誤射の防止という理由が一番大きい。
雪の時期は一般登山客も少なく、降雪直後のタイミングでの登山は表層雪崩の危険回避で登山者も減り、入山規制がしやすい。
また雪の季節なら生息する野生獣も冬眠期にあたる為に遭遇率が低い。
そうした無人状態で安全な実験をするためにも、降雪直後を狙っての実験になった。
ただ積雪次第では表層雪崩の危険が高くなる。
奥多摩の山は森林限界を超えてはいない為に、大斜面を持つ富士山のような雪崩は起きにくい。
それでも射撃の振動は表層雪崩を誘発しやすくなる、その危険を考えて積雪10~15cmを想定していた。
太陽光線の度合いが定刻を告げてくる。英二は左手首のクライマーウォッチを見、吉村医師に微笑んだ。
「そろそろ、時間です」
「ではイヤープロテクターをしましょう」
曙光がさし始め規定時刻が実験場に訪れる。
時間が来た合図に2人の射手は、それぞれの標的に向けてライフルを構えた。
今回のテスト用ライフルは狩猟用モデルを、鑑識調査の目的のもと特別許可で使用している。
日本ではスポーツ目的で持つことのできる実銃で、初心者が所持許可を申請できるのは散弾銃とエアーライフルになる。
散弾銃・ショットガンは比較的近距離で動く的を撃つ事に向き、クレー射撃・ランニングターゲット・小型獣の狩猟に使われる。
エアーライフルは静的射撃や鳥の狩猟に使われ、火薬ではなく圧縮した空気で弾丸を射出する。
通常50m以内の狙撃が多いが、ダイビング用の高圧空気を使うプリチャージ式をチューンナップすると100m先まで可能となる。
このエアーライフルで一定の成績を修めると、日本ライフル射撃協会の推薦で小口径の装薬ライフルの所持許可を受ける。
そしてまた経験を積み大口径の許可を取得していく。
今回の狩猟用ライフルは所持許可申請の要件として10年以上の猟歴が必要とされる。
ライフルは銃身の内側にらせん状の刻み・ライフリングを持つ銃で、弾丸に回転をかけることから直進性が高い。
狩猟用のライフルは散弾銃よりも高速で弾を射出するために射程距離が長く弾道も安定している。
そのため100m以遠の標的はライフルが用いられ、日本ではシカ、イノシシ、クマの狩猟に限って使用が許可されている。
また射撃については年齢制限として「年少射撃資格認定制度」がある。
・一定の認定を受けた14歳以上18歳未満の者
・指定射撃場で射撃指導員の監督の下に、当該射撃指導員が許可を受けた空気銃を使用することができる
こうした条件がある為に現在23歳だと通常は、狩猟用ライフルの所持は初めてということになる。
けれど国村は高卒任官で19歳から警察官として銃火器を扱い、狩猟用ライフルは以前もテスト射手として使用していた。
しかも国村の祖父はクマ撃ち名人で青梅署推薦から猟銃安全指導委員を委嘱され、かつ射撃指導員資格の保持者だ。
その祖父から国村は14歳の誕生日を迎えた日から実銃の扱いを教えられ、猟の現場にも連れて行かれてきた。
そんな国村は射撃センスが高い、警察学校での最初の拳銃射撃で10点を撃ち抜き本部特練選抜までされた。
周太は競技射撃ならライフルも拳銃も実績がある。けれど山中での射撃自体は初めて、まして狩猟用ライフルは初めて見た。
そのうえ昨日は夕刻と夜間だった。そんな不慣れな条件でも周太は、国村と同様に標的の規定点を外さなかった。
いま英二の前でも周太は朝陽の中で確実に、角度を変えていく標的を狙撃していく。
大きな狩猟用ライフルを構えて狙撃する周太の小柄な姿は、曙光に染まる雪山のなかで凛と立っていた。
その横では長身の国村が愉しげな空気で狙撃していく、きっと国村には射撃場よりも山中の方が気楽なのだろう。
同じように並んで立つ大柄と小柄の背中を英二は見つめていた。
きっと生真面目な周太にとって、経験も才能も高い国村と並んで狙撃することはプレッシャーだろう。
そして国村も負けず嫌いで、経験が上回る自分が「山」での射撃で負けることなど許せない。
そんなお互いの意地とプライドがぶつかるように、昨日の射撃は2人とも全弾的中だった。
きっと今日も同じ結果だろうな? そんな思いの向こうでライフルでの狙撃が終わった。
狙撃完了した標的が外され、新しいものへと交換されていく。
そして新しい標的に向けて今度は拳銃での狙撃に2人は構えを変えた。
拳銃による狙撃はセンターファイアピストルの姿勢で始まった。
この競技で2人は2月の警視庁けん銃射撃大会で競うことになる。
2人とも背中を真直ぐに伸ばし、的は向かって体をやや斜めにして左掌は腰へ固定に置く。
周太は両目を開いて的を真直ぐ見つめる、ノンサイト射撃の片手撃ちにいつも構える。
国村もノンサイト射撃の片手撃ちだが、目を細めて心もち首を右に傾げる癖がある。
2人の背中越しに標的が狙撃の衝撃にゆらぐのが見える。
銃は発砲の反動と衝撃が大きく、体の保持が出来ないと射手自身も揺るがされてしまう。
けれど2人とも微動だにしないで真直ぐ立って狙撃していく。2人は15cmほどの身長差がある、並んだ背中は周太は華奢に見えた。
国村は体格も恵まれて、最高の山ヤで、そして射手としても才能も環境も整っている。
そんな国村に一歩も退かずに周太は並ぼうとしている。
不慣れな雪山と初めての狩猟用ライフル、そして本来射撃に不向きな小柄で華奢な骨格の体。
それでも周太は努力してここまで来て今も挑んでいる。
― ね、周太?俺はね、努力する周太が好きだよ?
英二は婚約者の背中を見つめた。華奢な背中が愛しい、そして切なくなる。
英二は、台所に立っている周太が一番好きだ。温かい食卓の支度に手を動かす周太は、きれいだから。
次に好きなのは草花とふれあっている姿、周太は植物といると寛いで穏やかな空気がより和らいでいく。
でもほんとうに一番好きなのは、白いシーツの上で穏やかな繊細な素顔のままで、英二に抱きしめられてくれる姿。
今朝のように。
そんな想いに見つめる先で2人の背中が射撃を終えた。
婚約者とアンザイレンパートナー。どちらも本当に大切で、きっとどちらも自分の運命の相手。
そんな2人が並んで立っている姿を不思議な想いで英二は見つめていた。
「さあ、宮田くん。私たちの仕事が始まります」
吉村はイヤープロテクターを外して微笑んだ。
これから英二と吉村医師の担当任務が始まる、英二もイヤープロテクターを外した。
「はい。今日もたくさん教えてください、先生」
「おや?君はこの任務では私の助手ですよ、宮田くん?むしろ私にアドバイスをしてくれないと」
そう笑いながら狙撃済標的の保管場所へ吉村医師と向かった。
昨日は夜間だったから標的の鑑識は後回しだった、けれど今は昼間で明るいため随時すぐ鑑識に入る。
だから今日はチームごと別行動があり、射手の国村と周太はもう一か所の標高1,800m付近にある実験場へと向かう。
これから少し別行動になる英二に国村が声を掛けてくれた。
「じゃあ、宮田?ちょっと湯原くんとデートしてくるね。朝陽の山を一緒に散歩だなんてさ、ロマンチックだよな、ねえ?」
「ダメだよ、国村?これはただの任務だ、今は警察官として周太は同行するだけ。ね、周太?」
絶対にデートとかダメ。そんな想いで周太を見ると首傾げて微笑んでくれている。
前髪をあげて大人びているけれど、笑った顔はやっぱり可愛くて英二は微笑んだ。
そんな英二を見て国村は細い目を温かく笑ませて言ってくれた。
「はいはい、仕方ない男だね?
おまえの奥さんはさ、俺が責任もって安全に山をご案内するよ?ま、おまえはきっちり吉村先生の補佐してな?」
「うん。ありがとうな、国村。周太のこと頼んだよ?」
国村はすぐエロオヤジの発想で笑ってくる。
けれど本当は真直ぐで一度負った責任は必ず守りぬく、佳い男気を豊かに持っている。
そんな国村と一緒なら大丈夫だろう、英二は周太に笑いかけた。
「周太、国村は変なこと言うかもしれないけど、気にしないで?
悪気なんて無いから。それから山のことは信頼できるよ。でも周太、あんまり見つめたりしちゃダメだからね?」
「はい、大丈夫だよ、英二。行ってくるね?」
きれいに笑って周太は、国村と後藤副隊長たちと次の実験場へ向かった。
その姿を見送ると英二は標的を眺めている吉村の隣に片膝をついた。
標的を見ていた吉村医師は英二に笑いかけると、ほっとため息を吐いた。
「見事ですね、全部が規定の点に的中しています。そして、弾痕を見てください」
置かれた4体の標的はどれも「点」を確実に撃っている。
国村の標的と周太の標的、その対比する弾痕は全く同じ形状だった。
「全く同じ弾痕、ですよね?」
「同じ火薬量と同じ弾丸、同じ銃の使用。それでも、こうも全く同じように撃ち抜くことは難しい。
けれど2人の弾痕は全く同じように見えます、そして指定した点からずれていない。さ、計測していきましょう」
まず標的の指定点にあけられた弾痕の直径を計っていく。
それから弾痕部分の断面を測定して標的内での軌道などを調査し、記録にまとめていく。
標的を切開していく吉村医師のサポートを務め、計測データをまとめながら、思わず英二はため息を吐いた。
2人の弾痕は全てのデータが一致していた。
あの2人の狙撃するスタイルはすこし違いがある、それでこうも全く同じに出来るのだろうか?
そう考え込む英二に吉村医師が声を掛けた。
「とても正確な射撃を2人ともされていますね、どちらもブレが無い」
「はい。全てが一致しています。以前の弾道調査でも、こんな感じでしたか?」
2年前にも国村はテスト射手を務めている。
そのときはどうだったのだろう?聴いてみた英二に吉村医師は答えてくれた。
「いいえ。あの時は、国村くんは的中で全弾撃ち抜きました。
けれど他の方はすこし外していたのです、だから比較として正確には言えません」
「では、平均値で基準データを?」
「はい、あのときは3名の射手でした。でもこうして見ると、国村くんのデータが正確だったことが解りますね」
話をしながら今のデータをまとめ、昨夜分も同様に処理していく。
そうしているうちに1,800m地点の実験場から射手とサポートのチームが戻ってきた。
新たな4体の標的を迎えて吉村医師と英二は計測データをとっていく。そこへ周太が覗きこんだ。
「おや、湯原くん?よかったらご覧になりますか、勉強家のきみは興味あるでしょう?」
すぐに気がついて吉村医師は穏やかに微笑んでくれる。
ほんとうに良いのかな?そんな顔で遠慮がちに周太が訊いた。
「はい。でも、お邪魔ではありませんか?
「いいえ、どうぞ遠慮せずに見てください。勉強になって良いでしょう?」
温かい勧めに周太は素直に頷いた。
そして吉村医師の邪魔にならないように測定されていく標的を見守っている。
そんな周太が微笑ましくて、ときおり見やりながら英二はデータ集計を進めていた。
「では上腕部のデータ計測に入ります。まず橈骨と上腕二頭筋の接点、ここは貫通です」
「はい、橈骨の粉砕はどの程度ですか?」
標的は人体と同じ組成と強度で作られ、狙撃された部位ごとの筋繊維の断裂状態、骨の粉砕程度などもデータにとっていく。
こうしたデータを実際の犯罪発生時には被害者と照合して、犯行状況の推定をあいて真相へのヒントにする。
本来なら法医学教室で行う模擬実験かもしれない、けれど青梅署は法医学教室から遠くその恩恵は少ない。
けれど奥多摩は狩猟区域でもあることから狙撃による犯罪の可能性も高い。
青梅署では山岳地域であり遭難救助が主務だが、首都の山岳地域という立地条件から自殺遺体の発見も多い。
そうした自殺遺体の行政見分を青梅署の警察官たちは行うことになる。
そのとき他殺遺体を自殺と誤って判断すれば、犯罪がひとつ隠匿されることに繋がってしまう。
だから青梅署の警察官には個々の鑑識知識が必要とされ、そのため青梅署は独自に奥多摩でのデータを作っている。
青梅署警察医の吉村医師は前職が大学病院のER担当教授だった、そしてその前は法医学教室に在籍した経験がある。
そんな吉村医師の存在が青梅署での調査研究実施を支えてくれている。
手際よく作業する吉村医師の手元を周太は熱心に見ていた。
「周太、楽しい?」
「ん、こういうのって見る機会ないし、おもしろいな?」
いま任務中の周太は警察官の顔のままでいる。
いつも端正な姿勢がどこか緊張している雰囲気が英二には目新しい。
普段の新宿署での業務中も、こんなふうに緊張しているのかもしれない。
思いながらデータ計測を進めていると、国村が来て周太に声を掛けてくれた。
「湯原くん?次の始めるよ、これが終わったらさ、次の実験場へ移動するから」
「はい、今、行きます」
素直に返事をしてから、周太は吉村医師に見せて貰った礼を述べた。
それから英二の隣に来ると微笑んでくれた。
「英二、本当によく勉強しているね?…頑張ってね」
「そうかな?ありがとう、周太」
そう言って笑いかけると周太も笑ってくれる、笑顔を残して周太は国村との狙撃へと戻っていった。
その間に吉村と英二は測定数値をまとめ、最後の4体の測定データ取得を終えた。
そして最終分も終えると、やはり2人の弾痕は全て合致したデータとなっていた。
「この調子ですと、ザイル狙撃も早く終わるかもしれません」
「はい、」
向こうで後藤副隊長たちと話している周太と国村を見ながら、英二と吉村は話していた。
このあと岩場を利用した実験場へと場所移動をする。その岩場での実験場では今頃ザイル係が準備をしているだろう。
けれど英二はザイルへの狙撃の趣旨説明をまだ周太にはしていない。
そろそろ話しておかないといけない、もうザイルへの狙撃が始まるのだから。
「宮田、移動開始だよ?行こう」
「うん、ありがとう。周太は?」
声かけてくれた国村に訊くと、細い目を温かく笑ませて呆れたように笑ってくれる。
そしてすぐ周太を連れてきて英二の隣を歩かせてくれた。
すっかり明るくなった午前中の雪山を歩きながら、英二は周太に笑いかけた。
「周太、ザイルへの狙撃はね?宙吊り遺体収容の再現実験になるんだ」
言った途端に周太の瞳が少し大きくなる。
やっぱりこんな顔させちゃったな?すこし困って微笑みながら英二は説明を始めた。
「群馬県の谷川岳はね、剱岳や穂高岳と、日本三大岩場の一つに数えられる。
ロッククライミングの場所なんだ、それで谷川岳には一ノ倉沢ってとこがある。
ここは穂高岳の滝谷とならぶ厳しい岩場だ。マッターホルンとかに挑戦する練習場としても使われることも多い」
「その一ノ倉沢で起きた遭難事故のこと、なんだね?」
明晰な警察官の顔のままで周太が訊いた。
頷いて英二は言葉を続けた。
「もう50年以上前の事件なんだ、周太。
遺体がザイルで宙吊りになってね、そのザイルを狙撃で切断して、遺体を落下させることで収容したんだ」
1960年9月19日。群馬県警谷川岳警備隊に一ノ倉沢で救助を求める声が聞こえたとの通報が入った。
そして警備隊が現場に急行し、一ノ倉沢の衝立岩正面岩壁の上部200m付近でザイルで宙吊りになった2名の登山者を発見。
遠方からの双眼鏡による観測で確認、すでに2名は死亡していた。遭難の原因は不明だがスリップしたとされている。
現場となった衝立岩正面岩壁は、当時登頂に成功したのは前年の1例のみという超級の難所だった。
そのため接近しての遺体収容は二次遭難の危険が高いと判断され、長い鉄棒に巻いた油布に点火しザイルを焼き切る案が出された。
だが検討の結果不可能と判明し、遺体を宙吊りにしているザイルを銃で狙撃切断して収容することになった。
5日後の9月24日。陸上自衛隊の狙撃部隊が召致され銃撃を試みた。
射手を務めた隊員は射撃特級の資格所持者だった、それでも数百メートル先のザイル切断は難しかった。
狙撃開始2時間で1000発以上の小銃・軽機関銃の弾丸を消費し不成功。
その後、ザイルと岩の接地部分を銃撃することでザイル切断に成功、滑落した遺体を収容した。
遺体が滑落する様子は多くの自衛隊関係者、山岳会関係者や報道関係者が見守りフィルムに記録された。
「最終的に消費した弾丸はね、1300発に上ったんだ。
当時のニュース映画では『あまりに痛ましい遺体収容作業』だったって言っている。
この時のザイル切断をね今日は再現してもらうんだ。弾丸数は限られているし条件も違うけれどね。
奥多摩にもクライミングのポイントがある、同じ事故が起きないとも限らない。備えて対応を考える参考データにするんだよ」
話し終わって英二は周太の顔を見た。
ほっと息を吐いて周太は英二を見あげて見つめてくれる。
そして穏やかな口調で訊いてくれた。
「…一ノ倉沢。いつか、英二も登りに行くのでしょう?」
やっぱり訊かれたな。
大丈夫だよと微笑んで英二は周太に答えた。
「うん、行くよ、周太。この冬の間に国村と行ってくる。いま登っておかないと、来シーズンに間に合わないからね」
ぱさりと雪が梢から落ちた。
その音にも周太は顔をあげない、アイゼンで雪を踏みながら周太は黙って歩いている。
こんなところで話すべきじゃなかったかな、すこし後悔しかけた時に英二は額を小突かれた。
「ほんとバカだね、この男はさ?湯原くん、そんな俯かなくていい。ほら、こっちを見なよ?」
底抜けに明るい目で笑って国村が周太に話しかけた。
声に周太が顔をあげると国村は細い目を温かく笑ませて笑いかけてくれた。
「俺と宮田はさ、体格がそっくりだろ?
俺はね、一ノ倉沢も滝谷もね、無事に登って帰ってきた。マッターホルンもね。
だから大丈夫だよ。俺と似ている宮田なら、必ず無事に登れるね。そして無事に帰ってくる。安心しな?」
底抜けに明るい目は真直ぐに周太を見つめている。
そんな真直ぐな視線に、すこしだけ微笑んで周太は国村に短く訊いた。
「ほんとうに?」
「ほんとうだね。こいつは俺が無事に帰らせるからさ。だいじょうぶだよ、湯原くん?俺が約束するよ」
黒目がちの瞳が国村を見あげて見つめた。
ゆっくり瞬くと考え込むようにまた足元を見つめて歩いていく。
さくさくアイゼンが雪踏む音を聴きながら、どこか寂しげに周太は歩いていた。
そして唇が開いて、周太は言った。
「ん、…そう、だね」
ぽつんと言って微笑むと、周太は向こうの空を見あげた。
その視線の先には岩場とザイルが見えている。
登山口に着くと国村が英二に目配せを送った。
さり気なく横に立つと細い目がすっと細まって英二を真直ぐ見つめた。
「なあ、宮田?湯原くん、大丈夫か?なんか今日はずっと様子が変だ。昨夜、なにがあった?」
低い声で国村が訊いてくれる。
やっぱり様子がおかしいと思うんだ?英二も低い声で話した。
「うん…いつもより周太、一緒にいたがるんだ。
昨夜、そのまま寝ようと思ったんだ。でも周太から求めてくれた、そして今朝も一緒に風呂に入った」
「ふうん?…らしくないね、なんか…うん?そうか、そういうことかな?」
英二の話を聴いて国村が首傾げて頷いた。
なにか国村は解ったのだろう、なんだろうと見つめていると細い目が温かく笑んだ。
「うん、まあ、大丈夫だろ?とりあえずさ、ちょっと銃座まで往復デートしてくるね。
ここまで今日は俺が湯原くん独り占めしちゃってるけどさ?ま、あんまり嫉妬するなよ、宮田?」
からり笑って国村は英二の額を小突いた。そして「じゃ、またね」と軽やかに周太の横へと行ってしまった。
国村と周太は、今度はふたりで狙撃の銃座ポイントへと登ることになっている。
後藤副隊長たちはザイルに吊るされた標的が、滑落する予定ポイントへと回収のため、ここからは別行動だった。
底抜けに明るい目で国村は周太に笑いかけて説明してくれている。
「さ、湯原くん?ここから2人きりだけどさ、安心しなね?襲ったりしないからさ」
「ん、はい…ええ、」
英二は、まだどこか沈んでいる周太の様子が気になってしまう。
登山口へ向かう周太を追いかけて、英二は周太の右掌を掴んだ。
「周太、」
呼んだ名前に振り向いてくれる。
握りしめた右掌は登山グローブに表情が隠されて解らない。
このグローブもいま着てくれている水色のウェアも、年明けに英二が贈ったばかりのものだった。
自分の選んだものを着て、英二の想いと一緒に立ってくれている。
「周太?今夜はね、俺、…周太と晩飯、食えるんだよね?」
どうかお願い頷いて?
祈るような想いで見つめる黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
「ん。一緒に食べて?…なに食べたい?」
「周太が食べたいものが良い、俺、周太がしたいこと一緒にしたい。だから、周太?俺、周太と一緒が良いよ?」
ほんとうは今だって、一緒に山へ登りたい。
けれど自分は吉村医師の助手として、ここに残らなくてはいけない。
でも一緒に行きたいのに?想いが周太の右掌を離せなくて竦みそうになる。
そんな英二に周太は、やさしく微笑んでくれた。
「ん。一緒が良いな?…俺はね、英二が食べたいものが、食べたいな?…考えておいて、お願い、英二」
きれいに微笑んで周太は、右掌を掴んだ英二の手に左掌を重ねてくれる。
そして右掌と左掌でくるむようにして、そっと英二の手を離した。
「行ってきます、英二?」
きれいに笑って周太は踵を返した。
その周太の掌をとって国村が、登山道入り口の凍った沢を越えさせてくれる。
「ここは岩場だ、アイゼンの刃を傷めないようにね?このあとが困っちゃうからさ、」
「ん、…ありがとうございます。もう、手、離して大丈夫です」
「うん?でもここ滑りやすいんだ、このまま渡るよ?」
テノールの透る声がどこか優しい。
遠ざかっていく声と気配を見つめながら英二には、国村の想いが解ってしまう。
国村と英二は似た者同士、だから考えていることが解りやすい。だから信頼が出来る。
けれど直情的な自分は周太を独り占めしたい。ほんとうは、自分が周太の手をひいて山に登らせてやりたい。
自分以外の人間が周太に想いをかけることは、ほんの少しでも本当は嫌だから。
―…あいつね、きっと好きなんだ。恋愛とかじゃなくて、もっと、
今日は国村はずっと周太と行動をしている。そんな2人の様子を見ていて英二は気がついてしまった。
初めて国村にあったとき英二は、どこか周太と似ているように感じた。
それはきっと純粋無垢な心がふたりは同じ、だから似ている部分があっても不思議なはい。
そんな国村も気難しくて人に心を開きにくい、それは周太とよく似ている。
そして国村は両親を、周太は父親をもう亡くしている。だから2人は「時」の大切さを知っている。
きっと鋭敏な国村は周太のなかに、自分と同じものを感じ取っているだろう。だからさっきも周太の様子に気がついていた。
そして共通するものが多い周太を国村は大切に思っている。恋愛とかそういう感情じゃない、ただ大切に思っている。
だから国村は英二が周太のために向かう危険にも、一緒に立とうとしている。
底抜けに明るい目をした誇らかな自由まぶしい大好きな友人。
秀麗な顔に似合わないエロオヤジで、自由な心のままに恋愛も経験も楽しんでいる。
そして真直ぐで偽ることのない山ヤの最高の魂を持って、英二に運命の友達だと言ってくれた。
あの富士の山でアンザイレンパートナーを初めて組んだ、絶対的信頼を結び合える相手。
そんな友人を信じなかったら、自分は誰を信じればいいのだろう?
ことんと肚に想いが落ちて英二は微笑んだ。
― 周太のことも、あいつを信じよう
自分とよく似た直情的で熱情がつよくて誇り高すぎる男。
自分とよく似ているから知っている、あいつは約束を必ず守ること。
そして必ず自分と一緒に最高峰を踏破する夢を叶えていくこと。
―… 何でも俺には言っちまいな?…聴いてさ、蹴飛ばして、笑ってやるよ
そんなふうに笑って信頼と友情をいつも示してくれる。
だからあとで言ってみよう、いま自分が考えてしまった嫉妬と想いも。
そして聴いて笑ってもらって、一緒に笑えばいい。
「宮田、おつかれさん」
ぽん、と肩を叩かれて振向くと藤岡が笑っていた。
藤岡はザイル係として今日はずっと別行動だった。
人の好い笑顔の同期にほっとして、英二は笑いかけた。
「おつかれさま、藤岡。一旦退避?」
「そうだよ、万が一でも流れ弾が当ったら危ないだろ?」
「だな。でもまた登るの大変だな?」
そんな話をしながら岸壁のザイルを英二は見つめた。
そろそろ始まる頃だろうな?英二は左手首のクライマーウォッチを見た。
そして銃声が1発大きく響いた。
銃声の衝撃波が山間に木霊してリフレインしていく。
そこにまた規則正しくそろえるように銃声が1つ響いて、木霊が追いかけていく。
「うわ、…すごいな、銃声」
横で藤岡が目を瞬いた。
驚くよなと目で笑って英二は、発砲時刻をボードの紙に記入した。
スタートから15分経って、まだザイルは切れ落ちない。さすがの2人でもザイルは狙撃が難しいターゲットだろう。
それでも弾丸数は渡された分だけしかない、クライマーウォッチで時間計測しながら銃声音を数えて英二は呟いた。
「…そろそろ、半分かな?」
その瞬間、1声の銃声とともにザイルが切れ落ちた。
「うわ、すげえ!ほんとにザイルを撃ち抜いた!」
横で藤岡が笑った。そして周りでも驚きと称賛の声が上がる。
ザイルが切れて標的が滑落していく、後藤副隊長から無線を受信して英二はとった。
「俺だよ、宮田。こちらからも滑落を目視した、いま回収に向かっているよ。おまえさんの方はどうだ?」
「はい、弾丸数は半分を残していると思います。木霊がすごくて、聴いただけでは正確な数は解りませんが」
「そうか、かまわんよ。空薬莢を見れば弾数は解るからな。それにしても、すごいな?ほんとうにザイルを撃ちぬいたなあ?」
そんなふうに笑って後藤は無線を切った。
けれど英二は素直には喜べないでいた、少し気懸りがある。
ザイルが切れた直後、もうひとつの銃声を英二は聴いた。
「なあ宮田?いま、ザイルが切れた後にさ、1回、銃声が聞こえなかったか?」
横に立つ藤岡が訊いてきたる。聴こえたのは自分だけじゃない、英二は藤岡の顔を見た。
けれど英二はそのまま微笑んで藤岡に答えた。
「そうか?木霊じゃないかな、あの場所ってさ、一回の音に何度か反響するから」
「そっか、そうだね。じゃ、ザイルの回収に行ってくるな」
「ああ、気をつけて」
そう言って藤岡を見送ると英二は、鑑識ファイルを閉じた。
そして吉村医師の元へ行くと計測データのメモを渡して微笑んだ。
「先生、今の計測データです。チェックお願いできますか?
そしてすみません、見て頂いている間に2人を迎えに行っても良いでしょうか。今朝は周太、少し熱っぽかったから気になって」
「はい、構わないですよ?気をつけて行ってくださいね」
「ありがとうございます、」
きれいに笑って英二は登山道を歩き始めた。
いつものペースで登りながらも足運びが早くなっていく。
そうして雪を踏んでいくアイゼンの音を聴きながら、銃声が響いたときの記憶が網膜に甦る。
最後、1つの銃声が響いた。そして火の色が見えた、だからあれは木霊じゃない。
(to be continued)
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