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第75話 回顧act.5-side story「陽はまた昇る」
峰集落跡は鳩ノ巣の棚沢から入った山腹の廃村で峰平と呼ばれている。
今は杉や檜の植林から薄暗い、けれど往時は陽当りの良い平地だった。
もう訪れる人も少ない山深い場所、そこから更に奥の滝を目指して迷う人もある。
「今回の道迷いは滝探しのハイカーだからな、まるっきり初心者の装備じゃないとは思うんだが、」
困ったよう渋い声が言いながら慣れた足取に登ってゆく。
その後を付いて行きながら英二は初めて踏みこむ道に微笑んだ。
「俺もこの先は初心者です、後藤さんに付いていくしかありません、」
「お、宮田は峰平までしか登ったこと無かったか、じゃあ今ちょうど良い機会だ、」
大らかに笑ってリードしてくれる呼吸に乱れは無い。
元の通り速いピッチで慎重に歩いてゆく、その浅黒い横顔がただ嬉しい。
―よかった、息苦しさとか無いみたいだ、でも余計に気をつけないと、
元気に登ってゆく笑顔は手術前と変わらない。
だからこそ気遣わしくて声かけた。
「後藤さん、すこしペース落して下さい。傷に障ります、」
「お、早速お目付けだな?解かったよ、」
応えてくれるトーン明るく笑って歩調ゆるめてくれる。
以前ならこんな進言は考えつきもしなかった、そんな想いから鼓動すこし軋む。
―警察も山も2年目の俺が後藤さんにブレーキ掛けるなんて、
去年の秋今ごろ後藤から個人指導を受けるようになった。
初心者のクセに山岳救助隊を志願したくて卒業配置に奥多摩方面だけを希望した、それが無謀だと自分で解かっていた。
けれど諦めたくなくて、救急法や関連科目の首席を目指しながら週末はクライミングジムに通い素質と意志を示した結果に卒配された。
その幸運を逃したくない、そう願うから救助隊エースの光一を真似てトレーニング積みながら吉村医師を手伝い応急処置の知識技術も磨いた。
そして山岳技能の警視庁技能指導官トップである後藤に指導を願った秋から一年、こうしてパートナーを組める自分になれている。
唯一年、それでも去年の秋と今は違い過ぎて時に本当は途惑う。
けれど全ては傍にいたいと唯ひとり願う相手の為だけでいる、だから途惑いすら誇らしく背筋を伸ばす。
それほど想いながら裏切ってしまった夜の悔恨は「山」にこそ生まれた、そう気づかされる登山靴の歩みに泣きたい。
―俺が山岳救助隊に志願しなかったら光一を抱くことも無かったんだ、光一も周太も傷つけなかったのに、
なぜ自分は山を志してしまったのだろう?
その始まりは警察学校の山岳訓練だった、あのとき周太を救助した事が原点になっている。
あれも奥多摩の山だった、そして山岳救助隊員を知りたくなって見た資料写真で光一を見つけた。
雪の尾根立つスカイブルーあざやかな冬隊服姿は真直ぐに誇らかで、あの背中に憧れて追いかけて、抱いてしまった。
―アイガーで俺は間違えたんだ、ただ自分が抱きたくて…利用して、
あの夜を誘ってくれたのは光一だった、けれど光一の想いを自分は間違えた。
あのとき光一が抱いてほしかった相手は自分じゃない、それが時経て解かるごと自分の慾が露呈する。
あの夜すべきことはセックスじゃなかった、ただ「別人」だと納得させるだけで良かった、それを気づかぬフリして抱いてしまった。
―光一は雅樹さんの死を確かめたかっただけだ、俺が雅樹さんじゃないと納得したかっただけなんだ、それなのに俺は、
死んだ人は生き返らない、それだけだった。
必ず帰る、そう願いあった約束は真実でも死ねば生きて帰ることは出来ない。
どんなに願っても想い続けても生き返ってなどくれない、それを光一は知りたかっただけだった。
それなのに光一の雅樹への想い利用して抱いてしまった、こんな自分の慾深さは時経るごと醜いと思い知らされて疎ましい。
この後悔は生きる限り続くのだろうか?
そんな想いにも山路はどこか懐かしくて泣きたくなる。
このルートは途中までなら一度だけ来た、その先へ初めて踏み込んだ一歩前から肚響く声が呼んだ。
「宮田、おまえ御岳剣道会に入ってるんだったな?」
「あ、はい、」
呼ばれて思案そっと止めて笑顔になる。
いま考えていた事は後藤に知られたくない、そんな想いに大らかな深い声が教えてくれた。
「御岳剣道会の師範は福島先生だろう?あの先生の家はな、今の峰集落に昔はあったんだよ、」
御岳、この地名ひとつに今は痛む。
そこを故郷にする人を思い出させられ疼きだす、この罪悪感ごと見透かされたよう痛む。
ただ痛くて、この秋に見つめ続けた自責ごと現実が軋みだして鼓動ぐっと喉から迫り上げた。
「っ、うぐ…っ!」
吐く、
そんな痛覚ぐわり昇って口許を押えこむ。
心臓から蝕まれて立ち止まる、呼吸ひとつ治めこもうとしても痛む。
ただ吐き気だけで何も出ない、それでも肩から吐かれた呼吸に抱きとめられた。
「宮田、すこし座れ、」
とん、背中そっと敲かれて息ひとつ出来る。
ゆっくり肩を押されて道端しゃがみこむ、そのまま支えられ座りこんだ。
「疲れが貯まってるんだろう、まだ陽も高いし急がなくて良い、すこし休んでいこうな?」
穏やかに肚響く声が言ってくれる。
その言葉にただ不甲斐無くて英二は微笑んだ。
「すみません、足手まといですね、俺…えらそうに言っておいて申し訳ありません、こんな…ぅぐ、」
また吐き気こみあげ掌に押えこむ。
俯いて整える呼吸が荒い、なにも吐瀉物は無いのに嘔吐感だけが込みあげる。
―こんなこと今まで一度も無かったのに、
山で体調を崩すなど一度も無かった、日常生活でも感じたことが無い。
いったい自分はどうしたのだろう?ただ途惑い座りこむ背中をそっと大きな手が撫でた。
「謝らないといけないのは俺の方だよ、宮田?おまえに背負わせすぎてる所為だろうからなあ、」
背負わせすぎている、
そんな言葉に気づかされて、ことん、肚ひとつ得心が落ちる。
得心ごと吐き気すこしずつ治まりだす、その背やわらかに撫でてくれながら山ヤは笑ってくれた。
「富士でも言ったがな、おまえは未だ2年目なんだ。山も警察官も社会人としても2年目の男だ、未熟で当り前の時だよ、でもそれを忘れてしまうなあ、
おまえの才能と精神力につい期待してなあ、期待のまんま俺は責任と立場を宮田に負わせているよ、疲れが貯まることも当たり前だ、すこし休もう?」
すこし休もう?
そう提案してくれる声は深く温かい。
ただ期待して、その期待ゆえに心配もしてくれる。
そんな言葉ごと背中の掌は大きく温かで、この温もりに瞳の底から熱こぼれた。
―俺が泣いてる?
俯いた視界の真中に一滴、登山パンツの膝が濡れる。
また掌に口許は抑えこんだまま瞳から熱こぼれだす、この涙に本音を探してしまう。
本音ひとつ見つめて瞬いて呼吸する、そんな背そっと撫でながら山の先輩は笑ってくれた。
「すまんなあ、宮田。富士でも話した通りだよ?俺は岳志を宮田に見過ぎているんだ、だから厳しくしすぎてるよ、訓練も責任も厳しくしすぎてる、
警察官としてレスキューとして追い込んどるよ、山の経験だって2年目なのになあ、責任たくさん背負わせて北壁まで登らせたんだ…すまんなあ、」
すまんなあ、
そんな詫びの言葉は大らかな深い声のまま温かい。
その言葉たちに想い気づかされてしまう、本当は自分は誰に謝ってほしいのか?
いま何のために嘔吐感こみあげて涙あふれだすのか、この本音ゆっくり息吐いて英二は顔を上げた。
「違うんです後藤さん、後藤さんの所為じゃありません、これは…父との問題です、」
なぜ自分が「奥多摩の山」に吐きそうになるのか?
その原因の源は父にある、そう気づかされて涙また零れだす。
こんなふう泣いてしまうなんて思っていなかった、それでも止まない涙に微笑んだ。
「俺が山岳救助隊になったのは光一に憧れたからです、資料写真の光一の背中が、山ヤの警察官の背中がかっこよくて俺もなりたかったんです、
でも今は、山は父への反発が大きいんです…母のこと、周太のこと、父にも責任があると思えて辛くて、父と顔合わせない為に山へ逃げてます、」
あの父が馨を忘れるだろうか?
その疑問ずっと本当は抱いていた、夏に縁戚の事実を知ってからずっと考えている。
3月、遭難事故のあと静養していた湯原家を父が来訪した、あのとき父は何も言わなかった。
初めて来たとも言わず懐かしいとも言わなかった、あの「何も言わない」に自分が抱えた欠片を声にした。
「後藤さん、俺が母とうまくいっていない事はご存知ですよね…俺が周太を救けようとしていることも、馨さんのこともご存知ですよね?
たぶん父も同じです…父は本当は知ってるし解かってるんです、だから俺が全部を背負いこみたくて無理してます、周太を救えば赦されるから、」
なぜ父は検事にならず弁護士になったのだろう?
その疑問を考えたことは無かった、けれど今は推測ひとつ出来てしまう。
きっと父は「解かっている」からこそ検事にならず母とも結婚して、たぶん「罠」すら知っている。
『 La chronique de la maison 』
あの小説を父は読んだ、そして晉の死に「記録」事実なのだと気づいた?
そう考えたなら父が検事を選ばなかった理由も母と結婚した動機も見つかってしまう、それが赦せない。
赦せないからこそ自分が全て背負いこみたいと願って、その願いのために光一を抱いてしまった本音を微笑んだ。
「俺は父を赦せなくなりそうなんです、それが嫌だから周太を俺が救いたいんです、何をしても幸せにしたくて光一まで巻きこんでいます、
雅樹さんと俺が似てること利用して光一を惹きこもうとしたんです、だから奥多摩の山を歩くことが今、辛いんです…それでも周太を救けたい、」
なぜ光一を抱いてしまったのか?その本音と動機が今は解かる。
だからこそ自分の慾が赦せなくて体から現実を拒絶する、そんな嘔吐感ごと本音に笑った。
「後藤さん、俺は奥多摩が好きです、ここを故郷って呼びたくて、いつか奥多摩に家を移そうって周太とも約束しました。でも今は赦せないんです、
光一ごと雅樹さんを利用した俺が二人の故郷に赦されるはずがありません、俺自身も、だから今…すみません、自分勝手に変なこと言ってますね、」
こんな自分勝手な理由で光一ごと雅樹も傷つけた、そんな自分が二人の故郷を歩くことなど赦されない。
それでも「故郷」と呼びたくて、だからこそ赦せないまま自分も父も壊してしまいたい衝動に軋み迫り上げた。
「っ、う…ぐ、」
心臓が痛い、肺が痛い、脈打つ鼓動ごと呼吸が痛い。
吐き気こみあげるのに吐く事すら出来ない、ただ呼吸を拒絶する体が軋む。
―こんなに俺は弱いのか、背負うって決めたのにこんな、
全て自分が背負う、そう決めたのは自分。
それなのに今こんなふう体が拒絶して嘔吐感に蝕まれる、こんな弱さが自分で赦せない。
この弱さが今こうして後藤の脚すら引張っている、そんな自責ごと吐気こらえる背中そっと大きな手が撫でた。
「ふるさとに想って良いんだ、」
大らかに低い声が告げる、その言葉へ顔を上げる。
ゆるやかな木洩陽に深い瞳は笑って奥多摩の山ヤは言ってくれた。
「奥多摩はな、心のふるさとの山だとも言われてるんだ。奥多摩は誰のものでもない、ふるさとに想う者には故郷になってくれる、俺もそうだった、」
ふるさとに想う者には故郷になってくれる。
そんな言葉に呼吸すこし息吐かす、それでも赦せない本音に微笑んだ。
「俺もそう思います、でも俺と後藤さんは同じではありません…俺は光一を、奥多摩の山っ子を傷つけたんです、赦されなくて当然です、」
「だが宮田は山火事から護ったろう?雷撃された木を腕一本で鎮火したじゃないか、きっと山に感謝されてるだろうよ、」
笑って言ってくれる通り9月、訓練中に被雷した木を消火した。
それでも免罪になると想えない本音がそっと笑った。
「あれも周太に山を見せたいだけです、そんな自分勝手な理由じゃ償いになりません。だから今も救助を手伝いたいんです、」
後藤の体が心配で救助活動のパートナーを組みたくて今ここにいる。
奥多摩の山岳レスキューを援けることで少しでも償いになればいい、そう願うからこそ今日も帰ってきた。
この贖罪を呼吸ごと見つめて嘔吐感ゆっくり治まりだす、このまま治めて立ち上がりたい想いに深い瞳そっと微笑んだ。
「おまえは真面目だなあ、ほんとうに…本当に佳い男だ、」
佳い男だ、
そう告げてくれる声は大らかに温かく肚響いて背中さすってくれる掌に温かい。
この温もりこそ本当はずっと欲しかった?そんな想い座りこんだ足元に木洩陽は明るくて、どこか懐かしい。
(to be continued)
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第75話 回顧act.5-side story「陽はまた昇る」
峰集落跡は鳩ノ巣の棚沢から入った山腹の廃村で峰平と呼ばれている。
今は杉や檜の植林から薄暗い、けれど往時は陽当りの良い平地だった。
もう訪れる人も少ない山深い場所、そこから更に奥の滝を目指して迷う人もある。
「今回の道迷いは滝探しのハイカーだからな、まるっきり初心者の装備じゃないとは思うんだが、」
困ったよう渋い声が言いながら慣れた足取に登ってゆく。
その後を付いて行きながら英二は初めて踏みこむ道に微笑んだ。
「俺もこの先は初心者です、後藤さんに付いていくしかありません、」
「お、宮田は峰平までしか登ったこと無かったか、じゃあ今ちょうど良い機会だ、」
大らかに笑ってリードしてくれる呼吸に乱れは無い。
元の通り速いピッチで慎重に歩いてゆく、その浅黒い横顔がただ嬉しい。
―よかった、息苦しさとか無いみたいだ、でも余計に気をつけないと、
元気に登ってゆく笑顔は手術前と変わらない。
だからこそ気遣わしくて声かけた。
「後藤さん、すこしペース落して下さい。傷に障ります、」
「お、早速お目付けだな?解かったよ、」
応えてくれるトーン明るく笑って歩調ゆるめてくれる。
以前ならこんな進言は考えつきもしなかった、そんな想いから鼓動すこし軋む。
―警察も山も2年目の俺が後藤さんにブレーキ掛けるなんて、
去年の秋今ごろ後藤から個人指導を受けるようになった。
初心者のクセに山岳救助隊を志願したくて卒業配置に奥多摩方面だけを希望した、それが無謀だと自分で解かっていた。
けれど諦めたくなくて、救急法や関連科目の首席を目指しながら週末はクライミングジムに通い素質と意志を示した結果に卒配された。
その幸運を逃したくない、そう願うから救助隊エースの光一を真似てトレーニング積みながら吉村医師を手伝い応急処置の知識技術も磨いた。
そして山岳技能の警視庁技能指導官トップである後藤に指導を願った秋から一年、こうしてパートナーを組める自分になれている。
唯一年、それでも去年の秋と今は違い過ぎて時に本当は途惑う。
けれど全ては傍にいたいと唯ひとり願う相手の為だけでいる、だから途惑いすら誇らしく背筋を伸ばす。
それほど想いながら裏切ってしまった夜の悔恨は「山」にこそ生まれた、そう気づかされる登山靴の歩みに泣きたい。
―俺が山岳救助隊に志願しなかったら光一を抱くことも無かったんだ、光一も周太も傷つけなかったのに、
なぜ自分は山を志してしまったのだろう?
その始まりは警察学校の山岳訓練だった、あのとき周太を救助した事が原点になっている。
あれも奥多摩の山だった、そして山岳救助隊員を知りたくなって見た資料写真で光一を見つけた。
雪の尾根立つスカイブルーあざやかな冬隊服姿は真直ぐに誇らかで、あの背中に憧れて追いかけて、抱いてしまった。
―アイガーで俺は間違えたんだ、ただ自分が抱きたくて…利用して、
あの夜を誘ってくれたのは光一だった、けれど光一の想いを自分は間違えた。
あのとき光一が抱いてほしかった相手は自分じゃない、それが時経て解かるごと自分の慾が露呈する。
あの夜すべきことはセックスじゃなかった、ただ「別人」だと納得させるだけで良かった、それを気づかぬフリして抱いてしまった。
―光一は雅樹さんの死を確かめたかっただけだ、俺が雅樹さんじゃないと納得したかっただけなんだ、それなのに俺は、
死んだ人は生き返らない、それだけだった。
必ず帰る、そう願いあった約束は真実でも死ねば生きて帰ることは出来ない。
どんなに願っても想い続けても生き返ってなどくれない、それを光一は知りたかっただけだった。
それなのに光一の雅樹への想い利用して抱いてしまった、こんな自分の慾深さは時経るごと醜いと思い知らされて疎ましい。
この後悔は生きる限り続くのだろうか?
そんな想いにも山路はどこか懐かしくて泣きたくなる。
このルートは途中までなら一度だけ来た、その先へ初めて踏み込んだ一歩前から肚響く声が呼んだ。
「宮田、おまえ御岳剣道会に入ってるんだったな?」
「あ、はい、」
呼ばれて思案そっと止めて笑顔になる。
いま考えていた事は後藤に知られたくない、そんな想いに大らかな深い声が教えてくれた。
「御岳剣道会の師範は福島先生だろう?あの先生の家はな、今の峰集落に昔はあったんだよ、」
御岳、この地名ひとつに今は痛む。
そこを故郷にする人を思い出させられ疼きだす、この罪悪感ごと見透かされたよう痛む。
ただ痛くて、この秋に見つめ続けた自責ごと現実が軋みだして鼓動ぐっと喉から迫り上げた。
「っ、うぐ…っ!」
吐く、
そんな痛覚ぐわり昇って口許を押えこむ。
心臓から蝕まれて立ち止まる、呼吸ひとつ治めこもうとしても痛む。
ただ吐き気だけで何も出ない、それでも肩から吐かれた呼吸に抱きとめられた。
「宮田、すこし座れ、」
とん、背中そっと敲かれて息ひとつ出来る。
ゆっくり肩を押されて道端しゃがみこむ、そのまま支えられ座りこんだ。
「疲れが貯まってるんだろう、まだ陽も高いし急がなくて良い、すこし休んでいこうな?」
穏やかに肚響く声が言ってくれる。
その言葉にただ不甲斐無くて英二は微笑んだ。
「すみません、足手まといですね、俺…えらそうに言っておいて申し訳ありません、こんな…ぅぐ、」
また吐き気こみあげ掌に押えこむ。
俯いて整える呼吸が荒い、なにも吐瀉物は無いのに嘔吐感だけが込みあげる。
―こんなこと今まで一度も無かったのに、
山で体調を崩すなど一度も無かった、日常生活でも感じたことが無い。
いったい自分はどうしたのだろう?ただ途惑い座りこむ背中をそっと大きな手が撫でた。
「謝らないといけないのは俺の方だよ、宮田?おまえに背負わせすぎてる所為だろうからなあ、」
背負わせすぎている、
そんな言葉に気づかされて、ことん、肚ひとつ得心が落ちる。
得心ごと吐き気すこしずつ治まりだす、その背やわらかに撫でてくれながら山ヤは笑ってくれた。
「富士でも言ったがな、おまえは未だ2年目なんだ。山も警察官も社会人としても2年目の男だ、未熟で当り前の時だよ、でもそれを忘れてしまうなあ、
おまえの才能と精神力につい期待してなあ、期待のまんま俺は責任と立場を宮田に負わせているよ、疲れが貯まることも当たり前だ、すこし休もう?」
すこし休もう?
そう提案してくれる声は深く温かい。
ただ期待して、その期待ゆえに心配もしてくれる。
そんな言葉ごと背中の掌は大きく温かで、この温もりに瞳の底から熱こぼれた。
―俺が泣いてる?
俯いた視界の真中に一滴、登山パンツの膝が濡れる。
また掌に口許は抑えこんだまま瞳から熱こぼれだす、この涙に本音を探してしまう。
本音ひとつ見つめて瞬いて呼吸する、そんな背そっと撫でながら山の先輩は笑ってくれた。
「すまんなあ、宮田。富士でも話した通りだよ?俺は岳志を宮田に見過ぎているんだ、だから厳しくしすぎてるよ、訓練も責任も厳しくしすぎてる、
警察官としてレスキューとして追い込んどるよ、山の経験だって2年目なのになあ、責任たくさん背負わせて北壁まで登らせたんだ…すまんなあ、」
すまんなあ、
そんな詫びの言葉は大らかな深い声のまま温かい。
その言葉たちに想い気づかされてしまう、本当は自分は誰に謝ってほしいのか?
いま何のために嘔吐感こみあげて涙あふれだすのか、この本音ゆっくり息吐いて英二は顔を上げた。
「違うんです後藤さん、後藤さんの所為じゃありません、これは…父との問題です、」
なぜ自分が「奥多摩の山」に吐きそうになるのか?
その原因の源は父にある、そう気づかされて涙また零れだす。
こんなふう泣いてしまうなんて思っていなかった、それでも止まない涙に微笑んだ。
「俺が山岳救助隊になったのは光一に憧れたからです、資料写真の光一の背中が、山ヤの警察官の背中がかっこよくて俺もなりたかったんです、
でも今は、山は父への反発が大きいんです…母のこと、周太のこと、父にも責任があると思えて辛くて、父と顔合わせない為に山へ逃げてます、」
あの父が馨を忘れるだろうか?
その疑問ずっと本当は抱いていた、夏に縁戚の事実を知ってからずっと考えている。
3月、遭難事故のあと静養していた湯原家を父が来訪した、あのとき父は何も言わなかった。
初めて来たとも言わず懐かしいとも言わなかった、あの「何も言わない」に自分が抱えた欠片を声にした。
「後藤さん、俺が母とうまくいっていない事はご存知ですよね…俺が周太を救けようとしていることも、馨さんのこともご存知ですよね?
たぶん父も同じです…父は本当は知ってるし解かってるんです、だから俺が全部を背負いこみたくて無理してます、周太を救えば赦されるから、」
なぜ父は検事にならず弁護士になったのだろう?
その疑問を考えたことは無かった、けれど今は推測ひとつ出来てしまう。
きっと父は「解かっている」からこそ検事にならず母とも結婚して、たぶん「罠」すら知っている。
『 La chronique de la maison 』
あの小説を父は読んだ、そして晉の死に「記録」事実なのだと気づいた?
そう考えたなら父が検事を選ばなかった理由も母と結婚した動機も見つかってしまう、それが赦せない。
赦せないからこそ自分が全て背負いこみたいと願って、その願いのために光一を抱いてしまった本音を微笑んだ。
「俺は父を赦せなくなりそうなんです、それが嫌だから周太を俺が救いたいんです、何をしても幸せにしたくて光一まで巻きこんでいます、
雅樹さんと俺が似てること利用して光一を惹きこもうとしたんです、だから奥多摩の山を歩くことが今、辛いんです…それでも周太を救けたい、」
なぜ光一を抱いてしまったのか?その本音と動機が今は解かる。
だからこそ自分の慾が赦せなくて体から現実を拒絶する、そんな嘔吐感ごと本音に笑った。
「後藤さん、俺は奥多摩が好きです、ここを故郷って呼びたくて、いつか奥多摩に家を移そうって周太とも約束しました。でも今は赦せないんです、
光一ごと雅樹さんを利用した俺が二人の故郷に赦されるはずがありません、俺自身も、だから今…すみません、自分勝手に変なこと言ってますね、」
こんな自分勝手な理由で光一ごと雅樹も傷つけた、そんな自分が二人の故郷を歩くことなど赦されない。
それでも「故郷」と呼びたくて、だからこそ赦せないまま自分も父も壊してしまいたい衝動に軋み迫り上げた。
「っ、う…ぐ、」
心臓が痛い、肺が痛い、脈打つ鼓動ごと呼吸が痛い。
吐き気こみあげるのに吐く事すら出来ない、ただ呼吸を拒絶する体が軋む。
―こんなに俺は弱いのか、背負うって決めたのにこんな、
全て自分が背負う、そう決めたのは自分。
それなのに今こんなふう体が拒絶して嘔吐感に蝕まれる、こんな弱さが自分で赦せない。
この弱さが今こうして後藤の脚すら引張っている、そんな自責ごと吐気こらえる背中そっと大きな手が撫でた。
「ふるさとに想って良いんだ、」
大らかに低い声が告げる、その言葉へ顔を上げる。
ゆるやかな木洩陽に深い瞳は笑って奥多摩の山ヤは言ってくれた。
「奥多摩はな、心のふるさとの山だとも言われてるんだ。奥多摩は誰のものでもない、ふるさとに想う者には故郷になってくれる、俺もそうだった、」
ふるさとに想う者には故郷になってくれる。
そんな言葉に呼吸すこし息吐かす、それでも赦せない本音に微笑んだ。
「俺もそう思います、でも俺と後藤さんは同じではありません…俺は光一を、奥多摩の山っ子を傷つけたんです、赦されなくて当然です、」
「だが宮田は山火事から護ったろう?雷撃された木を腕一本で鎮火したじゃないか、きっと山に感謝されてるだろうよ、」
笑って言ってくれる通り9月、訓練中に被雷した木を消火した。
それでも免罪になると想えない本音がそっと笑った。
「あれも周太に山を見せたいだけです、そんな自分勝手な理由じゃ償いになりません。だから今も救助を手伝いたいんです、」
後藤の体が心配で救助活動のパートナーを組みたくて今ここにいる。
奥多摩の山岳レスキューを援けることで少しでも償いになればいい、そう願うからこそ今日も帰ってきた。
この贖罪を呼吸ごと見つめて嘔吐感ゆっくり治まりだす、このまま治めて立ち上がりたい想いに深い瞳そっと微笑んだ。
「おまえは真面目だなあ、ほんとうに…本当に佳い男だ、」
佳い男だ、
そう告げてくれる声は大らかに温かく肚響いて背中さすってくれる掌に温かい。
この温もりこそ本当はずっと欲しかった?そんな想い座りこんだ足元に木洩陽は明るくて、どこか懐かしい。
(to be continued)


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