萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第31話 春兆act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-01-11 23:59:34 | 陽はまた昇るanother,side story
ふたりでかさねた記憶と想いと、いま




第31話 春兆act.3― another,side story「陽はまた昇る」

川崎駅まで母を見送って、周太は英二と近所のスーパーマーケットを覗いた。
年明けの華やいだ空気が店内にも明るい、客も店員もどこか和やかな雰囲気がやさしげでいる。
今夜の料理に足りないものと明日の朝と昼の材料を買い足したいな、あと冷蔵庫に足りなくなっていた物も。
そう思いながらショッピングカートに買い物かごをセットすると、物珍しげに隣から英二が覗きこんだ。

「へえ、かごをこうやって置くんだ?それで周太、これに何か入れるの?」

なんでそんな質問をするのだろう?
ごく普通のスーパーマーケットのカートと買い物かご、なのに英二はどうして訊くのかな?
よく解らないままに周太は少し考え込みながら答えた。

「ん、…買いたいものをね、かごに入れるんだけど…」
「ふうん、そうなんだ。ね、周太?このカートをさ、あんなふうに押して歩いていくんだよな?」
「ん、…そうだけど…」

まるで知らないみたいに英二が質問してくる。
それとも英二の近くにあったスーパーにはカートは無いのだろうか?
いまどきそんなスーパーあるのかな?考え込んでいると英二が楽しそうに訊いてきた。

「ね、周太。これ、俺が押してもいい?」
「あ、…ん、いいけど…はい、お願いします」

そんなふうに店内を歩き始めた英二は、物珍しげにカートを眺めている。
なにがそんなに珍しいのかな?どこか変わっているのだろうか。
英二の様子を不思議に思いながらも周太は、食材を選んでカートのかごに入れていった。

「周太?かごに品物どんどん入れているけど、支払いはどういうシステム?カートに入れると自動的にカウントされるとか?」

英二は冗談を言っているの?
でも英二、あんまり面白くないんだけど…笑ってあげるべきなの?
すこし途方にくれながら周太は結局、いつもどおりに生真面目に答えた。

「いや、自動的にとかは無いよ?…レジにまとめて持って行くんだけど…」
「あ、レジがあるんだ?広くって解らなかったよ、周太。ずっと歩いていくとあるんだ?」
「ん、…そう、だよ?」

どうもおかしい。
なんで英二はこんな質問ばかりするの?
英二の切長い目は別に冗談を言っていない、いつもどおり静かだけれど明るい目をしている。
そして微笑みはやさしい穏やかさにいる、ちょっと物珍しそうにしているけれど。

…ほんとうに英二、物珍しいだけ、なのかな

でも何が物珍しいのだろう?
ここは普通のスーパーマーケットでチェーン店だから東京にもあるだろう。
ショッピングカートもごく普通のもの、レジの場所も普通の形式と変わらない。

もしかして。
そんな思いに「まさか、ね?」と心で返事が返ってくる。
けれどこの英二の様子はどう考えても、そんな雰囲気でいる。
そうかもしれない?安くなっていた刺身用の鯛をカートのかごに入れながら、周太は英二に尋ねた。

「あの、…英二って、スーパーマーケットって、初めて来た?」

もし違っていたら失礼な質問かもしれない。
そう遠慮がちに訊いてみた周太に、さらっと英二は笑顔で答えてくれた。

「うん、周太。そうだよ? デパ地下とかコンビニはあるけどさ、
 あとパン屋とか個人店。でもこういう店って俺ね、入ったこと無かったんだ。いま周太とが初めてだよ?」

やっぱりそうだった。
英二は自分と同じ23歳で社会人の男、なのにスーパーマーケットに行ったことが無いなんて?
あんまり意外で周太は呆気にとられて、ぼんやり英二の顔を見つめてしまった。

「どうしたの、周太?なんか俺、おかしいこと言ってるかな」

なんかおかしいのかな?そう首傾げながら英二が覗きこんでくれる。
そんな切長い目は本当に不思議そうに周太を見つめて、すこしも冗談の気配がない。
こっちこそ不思議だよ英二?そう思いながら周太はまた尋ねてみた。

「じゃあ、英二?…英二の家では、食事の買物は、どうしているの?」
「スーパーマーケットが配達してくれるんだよ、周太。
 駅の近くに店があって、そこが配達してくれるらしい。でも周太、近所もみんなそんな感じだよ?」

英二の実家の最寄駅は成城学園前。
あの駅の最寄りの大学に、学生時代に研究会の用事で一度だけ行ったことがある。
確か高級で有名なスーパーが駅の傍にあった、たぶんその店のことを英二は言っているのだろう。

…そういえば、元町のスーパーでも配達があったな?

中学生の頃から周太はときおり県立図書館を利用している。
神奈川県内ではあの図書館がいちばん蔵書が充実しているし、勉強場所も静かで居心地が悪くない。
それに横浜にある県立図書館まで行けば、わずらわしい知人に会うこともなくて気楽で好きだった。
その帰りは少し歩いて元町の商店街に寄って買物をする、母から頼まれた買物や珍しい食材を揃えるのに元町は便利がいい。
そして元町のスーパーには配達制度がある。
元町に近接する高級住宅地の山手に住む客が常連らしい、それと同じことを英二の家もしている。

…やっぱり英二、結構お坊ちゃんなんだ、ね?

学生時代に訪れた成城学園駅の近隣は、大きな家ばかり建っていた。
街も高級そうなレストランが普通に建っていて、街路樹も珍しい種類の桜が植えられていて贅沢だった。
あの駅が最寄で一軒家だというから宮田家は、それなりに余裕のある家だろうとは周太も思っていた。
けれどまさかスーパーマーケットにも行ったことが無いなんて?途惑いながら周太は、ぽつんと英二に訊いてみた。

「…そう…お金持ちって皆、そんなふう?」

訊いたとたん英二の切長い目が大きくなった。
そんなふうに考えたこと無いよ?そんなふうに意外だと驚いた顔をして英二は口を開いた。

「どうなんだろ?俺んち普通だと思っていたけど、違うのかな?でも周太、奥多摩でも配達してもらう家、結構多いと思うけど」

普通だと思っていた―そんな言葉からも以前の英二の交友関係はハイクラス同士だったことが解ってしまう。
しかも同じ東京とはいえ奥多摩と世田谷をそんなふうに同じに思ったりして?
ほんとうに英二は「普通」の感覚がずれているんだ?

「…奥多摩はね、英二?お店が無い地域だと、移動販売が来るのでしょ?…世田谷とはちょっと違うと思う…」

「へえ、そういうもんなのか?そういえば移動販売?の来るとこは店、少ないかもな。周太、よく知ってるね?」

どうしよう?まさか自分とこんなに育ちが違うなんて?
ちょっと途惑いながら周太は、そのまま買物を続けつつ答えた。

「ん、…あのね、英二?『お店が無いから』と『お店があるけれど配達してもらう』では大きな違いがあるんだよ?…」

「ふうん?…あ、『仕方ないから』と『便利だから』の違いかな、周太?」

「ん、そう、だね…だいたい、そうなんだけど…
 たぶん世田谷の方は有料か、ある程度の高い金額じゃないと、たぶん…配達してくれないんじゃないかな」

「へえ?そういうもんなんだね、周太。だったらさ、こうして自分で買いに来る方がいいよな。
 安く済むし楽しいし、実際に見て選べるしさ。俺、周太と一緒にこうして買物するの楽しいよ?ね、周太?」

「ん、楽しいね?」

どうやら英二は警察学校に入るまで「何不自由ない」暮らしが当然だったらしい。
でも言われてみれば思い当たる節が多すぎる。
いつも英二は服を買ってくれる、その店も「セレクトショップ」と言われる洒落た店らしい。
11月に瀬尾と関根と4人で飲んだときに瀬尾から「その服ってあの店だよね、結構いい店で好きだよ」と言われた。
そんな瀬尾の実家は英二と同じ成城で、たしか会社経営をしている。そんな瀬尾はそれなりの店での買物をするだろう。

…そんな店でも英二は、値札あまり見ないで買ってくれている、な

けれどそのくせ英二は、自分のクライマーウォッチを自分で買うときは安い方を選んで買っている。
その理由を英二は「今の自分にはまだ贅沢だと思ったんだ」と言っていた。そんな堅実さも英二は持っている。
そんな堅実な性格のくせに英二は、周太と会うまで茶の淹れ方すら知らなかった。
ほんとうに家事など一つもやったことが無かったのだろう。

…英二、警察学校の寮の初日って、洗濯はどうしていたのかな?

きっと洗濯機の使い方も知らなかっただろう。
けれど靴の洗い方や手入れは知っていて、山岳訓練の後で怪我した周太の靴まできれいにしてくれた。
クリスマスに風呂掃除をしてくれた時は「小学校の課題で『家の手伝い』があったから姉ちゃんに教わったんだ」と言っていた。
たぶん英二は本質が実直だから、自分が興味あることは責任を持って覚えて、自分で出来るようになったのだろう。
そして英二はいま「スーパーマーケットでの買物」に興味を持っているらしい。

…この調子で英二、ちゃんと「普通に生活」する方法を身に付けてくれるといいな

実家での不自由ない生活から英二は寮生活になった。
寮生活なら洗濯と自室の片づけが出来れば生活に困らないだろう、だから今はまだ英二は不自由がない。
けれどいずれ寮を出た時には、買物から炊事、きちんとした掃除が出来ないと困ってしまう。
ほんと困ってしまう。そう思いながら周太が会計も済ませ袋に品物を入れると、感心したように英二が口を開いた。

「へえ、よくこの大きさにあれだけ入るな?周太って器用だね、それともこの袋なんか特別なの周太?」

やっぱりエコバッグも知らなかった。
こんなにも世間知らずだと今まで気がつかなかった、もう9ヶ月ほど一緒にいるのに?
ほんとうに育ちが違い過ぎるんだ、ちょっと困りながらも周太は答えた。

「…普通のエコバッグだよ?英二、…エコバッグ知らないの?」
「エコバッグって言うんだ?うん、俺、知らなかったよ。便利で良いな、これ。ね、周太?どこで売ってるんだ?」
「ん、…スーパーとか、雑貨屋とか…だけど」

そっと周太はため息をついた。
こんなにも不自由なく英二を育てたのは、もちろん英二の母親だろう。
この美しい息子を溺愛して、きっと何もかも全て彼女が整えて手元に愛してきた。
そんな英二の母親はこんなふうに、英二に買物をさせて荷物を持たせることを何て思うのだろう?

…けれど、英二本人はね、…ほんとうに楽しそうにしている、よね

感心しながらエコバッグを持つ英二は、初めて持つ食材の買物袋が楽しくて仕方ないという顔をしている。
そんな英二は周太の右掌をとって左掌にくるむと英二のコートのポケットに入れてしまった。
そのまま店を出て歩きだす英二は幸せそうで、つい見上げてしまう。そんな周太に英二が笑いかけてくれた。

「周太。俺ね、知らない事いっぱいあるんだ。
だからさ、俺って周太から何でも教わっているだろ?国村にも言われたんだ、宮田って湯原くんに何でも教わってるよなあってね」

「…そう、なの?…英二って物知りだと俺、いつも感心しているんだけど…」

実直な性質の英二は物事をきちんと調べるところがある。
だから話してみると知識も話題も豊富で、そんな英二だから寡黙な方の周太も話していて楽しい。
そういう英二が生活的な事柄はほとんど知らないでいることが、周太には意外で驚かされた。

…けれど、育ちが良いのと物知りは、別の話、だよね…

思い至って周太はちいさくため息を吐いた。
自分と英二は育ちが違う、けれどもう婚約をしてしまった。
こんなに育ちが違うのに大丈夫かな、ほんのすこし不安に胸噛まれる周太に英二は笑ってくれた。

「うん、知っていることもあるよ。
 でもね、周太?生きるのにさ、基本的な大切なことはね、ほとんど全部を俺、周太から教わってばかりいる。
 俺ってね、そういうこと本当に何も知らないんだ。だからね、周太?俺ってね、ほんとに周太がいないとダメなんだ。
 だからさ、周太に早く奥さんになってほしいよ?そして俺のことたくさん教育してよ、周太。夫って妻が教育するものなんだろ?」

…奥さん、妻、教育

なんてきはずかしいことばだろうどれも?
ほらもう首筋が熱くなってくる、ここは外で通りを歩いているところなのに。
けれど、恥ずかしい分だけほんとうは、どれも幸せな単語でいる。

―ほんとに周太がいないとダメなんだ。だからさ、周太に早く奥さんになってほしいよ?

そんなふうに必要としてもらえて、やっぱりうれしい。
やっぱりそんなふうに求めてもらえると応えたくなってしまう、だって想いはもう深いのだから。
そして思ってしまう ― ほんとうは今すぐに一緒に暮らして教えてあげたい。
けれどそれはまだ出来ない、でも必ず「いつか」そう出来るようになりたい。
そんな想いのままに周太は覗きこんでくる英二の目を見つめて答えた。

「…ん、あの…はい、…でも、待たせるかと思うけど…でも、がんばります」

ほらやっぱり答えるだけで恥ずかしい。
もう頬も熱くなってしまっている、こんなに赤くなって余計に恥ずかしい。
そう思っている周太の頬に素早いキスがふれて、きれいに英二が笑った。

「うん、がんばって?俺の婚約者さん」

がんばるけどでも待って?
お願いこういうことも待ってほしい困ってしまう。
でもうれしいどうしよう?途惑ったまま周太はお願いしてみた。

「…あの、…きゅうにそんなことされるとちょっと…あのうれしいんだけどでも…こころのじゅんびが、ね」
「うれしいって周太が想ってくれるとさ、俺、ほんと幸せだよ周太?…はい、帰ってきたよ」

右掌をコートのポケットのなかでそっと握りながら英二は家の門を開けてくれた。
飛石を踏んでいく庭は冬の午後の陽射しに淡くオレンジ色になっている、ふと英二の視線が庭を眺めて微笑んだ。
そんな英二に気がついて周太も視線を追うと一緒に微笑んだ。

「ん、…今日もね、『雪山』たくさん咲いてくれてるね…」

山茶花『雪山』は今日も真白な花を咲かせてくれる。
この花木を見るたび父が自分の誕生を寿いでくれた、その想いがそっと寄り添ってくれるようで温かい。
この木の緑は冷たい空気にも変わらない、そんな緑に囲まれる花は真白でやわらかで可憐な姿を見せている。
華奢な幹にうすい花びらの白い花の優美で可憐なやさしい花木、けれど冬のさなかにも花を咲かせる木。

「花言葉は『困難に打ち克つ』だったな。ね、周太?」

隣から微笑んで英二が訊いてくれる。
その花言葉が自分ではいつも不思議に想える、そのままを素直に周太はつぶやいた。

「ん、…不思議な感じ、だね…」
「なにが不思議?」

やさしい穏やかな、きれいな低い声が訊いてくれる。
尋ねられて周太はすこし首傾げると、空いている方の左掌を頬に当てて、ゆっくりと答え始めた。

「ん…この木は幹も細くてね、花も繊細な感じでしょ?…だからね、そういう強い言葉なのが、不思議なんだ」
「そうだね、周太。この木は繊細な感じするな。でもね、周太?とても強い木でもあるって、俺は想うよ?」
「そう、なの?」

自分の花木について考えてくれている。
そして自分が気がつかないことを教えてくれようとしている、それが嬉しい。
どんなふうにこの隣は見てくれているのだろう?見つめる先で英二は微笑んで教えてくれた。

「うん。同じ『雪山』がさ、御岳山にもあるのを周太、見つけて俺に教えてくれただろ?
 でね、周太?その御岳山の『雪山』はさ、どんなに寒くて雪が降る日でも、きちんと花が咲いているんだ」

御岳山の『雪山』は風雪にも花を開かせる。
それを雪ふる日の巡回にも英二は見つめてくれていた、自分が見つけた『雪山』に目を留めてくれた。
そんなふうにいつも自分を想いながら歩いてくれている?
そんな想いに周太は隣を見あげて、話してくれる切長い目と端正な唇を見つめた。

「ね、周太?雪の冷たさにもね、花は落ちないんだよ。
 俺ね、それを初めて見た時にさ。周太とよく似ているって想ってね、愛しかった」

愛しかった、似ているって想って。
雪の冷たさに落ちない花に自分を重ねて見つめて、愛しさに微笑んで。
そんなふうに自分をいつも想って微笑んでくれているの?

…やっぱり、…このひとが、すき

そっと心につぶやきがこぼれてしまう。
やっぱり自分はこのひとが大好きで、愛していて。一緒にいたくて。
そしてこんなふうに想われていたら、もう、誰に何て言われても離れることは出来ない。

自分とは育ちが違うひと、「普通の幸せ」を当然と生きていたひと。
なに不自由なく育てられ溺愛されてきた、そんなふうに自分とは別世界に育ったひと。
きっと人生の風雪と言えるような厳しさとは無縁に英二は育ってきた。
けれどいま英二が望んで立っているのは「風雪」峻厳な掟が支配する冬山の世界。
警視庁管轄でも最も厳しい現場である奥多摩で、山岳救助隊として英二は生きることを選んだ。
そんな英二だから、風雪にも花咲く姿に心奪われること、当然だろうと納得できてしまう。
そんな花に自分を重ねて、そして想いを告げてくれている。

…このひとは、本気…心からもう、自分を望んで求めてくれている

だから、ごめんなさい。ごめんなさい英二のお母さん。
やっぱり後悔なんて出来ません、あなたの息子を受入れてしまったこと。
こんなに本気で望んで愛してくれて、こんなに幸せな笑顔を見せてくれる、あなたの息子を拒むことは出来ません。
あなたの怒りも哀しみも憎悪も解っています、けれど後悔も拒絶も出来ません。

英二のお母さん。
きっとお会いする日が来るでしょう、その時きっと俺の頬を叩くでしょう?
卒業式の翌朝に、あなたは愛する息子の頬を叩いた。けれど本当に叩きたかったのは、俺の頬なのでしょう?

…そのときはね、好きなだけ、俺の頬を叩いてください

きっと何度叩いても、あなたの哀しみも怒りも止まない。
けれどあの朝からずっと考えているんです、あなたの息子の腫れた頬を見た時から。
ほんとうは俺に向けるはずの怒りを、愛する息子へ向けざるを得なかった、あなたの哀しみが哀しい。
ほんとうは俺が受けるべきだった怒りを、代わりに受けさせてしまった英二の、哀しみ痛みを受け留めたい。

自分が受けるべき全てを胸張って受け留めたい。
だって自分はこの隣への想いが誇らしい、真直ぐに愛されて自分も愛していること誇らしい。
だからこの想いに関わるものならば、全てから自分は逃げたくない。

…だからね、英二のお母さん…あなたの想いも俺はね、受け留めたい

「繊細で純粋なままでも、厳しい寒さに真直ぐに立っている姿はさ。本当に、きれいなんだ」

御岳山に咲く『雪山』の話をしながら英二が笑ってくれる。
自分の素直な想いに望んで立つ厳しい現場にこそ、美しさを見つめて英二は笑っている。
こんなに幸せそうに英二は笑ってくれている、隣の笑顔がうれしくて周太は微笑んだ。

「…ん、そうなの?」 
「うん…周太、」

そっと唇に唇が重ねられる。
穏やかだけれど熱い英二のくちづけ、言葉にはならなくても想いは饒舌に伝えられる英二のキス。
大好きだ愛している求めているよ?そんな想いが重なる熱のはざまから訴えかけてくる。
そっと離れた唇が微笑んでくれる、そんな隣を見上げて周太は微笑んだ。

「英二?…また、御岳の『雪山』にも、会いに行きたいな」
「うん。また奥多摩に来てよ、周太?冬山は厳しいけれどね、本当にきれいなんだ。大会が終わったら来れる?」

英二が愛し始めている「冬山」
低温と雪と氷が支配する冷厳にねむる冬の山、その厳しさと凛冽の美しさこそ英二は愛している。
だから自分も見つめてみたい、この愛するひとが見つめ愛するその世界を。
その冬山の冷厳さにひそむ危険に自分は不安にさせられる、この愛するひとの無事を祈ってもうこんなに胸が痛い。
けれど不安ばかりに捕われていたくない、だから自分も隣に立って見つめてみたい。

ね、英二?一緒に見つめられたらきっと見つけられるね?
あなたの愛する世界が危険をはらんでいても、その真実の美しさに自分も気づけるはず。
そして一緒にまた幸せな記憶を重ねていけるね?そんな想いが嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、…たぶん休暇がもらえると想うんだ…でも、英二も訓練とか、あるよね?」
「登山訓練なら周太も一緒に出来るだろ?吉村先生と一緒に登るときはね、周太?参加してみたいだろ」

青梅署警察医の吉村医師。
英二のことを実の息子のように想って、いつも温かく見守ってくれているひと。
そして英二に奥多摩の山を教え、山の遭難事故とそれへの対応を医師として山ヤとして教えてくれるひと。
吉村医師は婚約のこと何て言ってくれるのだろう?
それを聴きたい、そしてアドバイスをしてほしい。自分もあのひとは好きで尊敬しているから。
そんな吉村の笑顔の記憶が温かい、微笑んで周太は答えた。

「あ、…それは参加したい…吉村先生にお会いしたいな、一緒させてくれる?」
「もちろん。吉村先生もね、周太に会いたがっているよ?またコーヒー淹れてほしいってさ」

話しながら手を繋いで玄関へ歩いていくと、英二は首に提げた合鍵を荷物を持ったままの右手だけで取り出した。
ふつうの小さな合鍵だけれど父の遺品で、そして今は英二の宝物の鍵でいる。
その鍵で開錠すると扉を開いて英二は、そっと周太の右掌をポケットから出して離した。
そうして先に玄関先に立つと振向いて、きれいに周太へと微笑んでくれた。

「お帰り、周太」

ほら、なんて幸せそうな笑顔だろう?
こんな顔で英二は自分に笑いかけてくれる、こんな幸せな顔で。
だから自分は隣から離れられない、自分が離れたらこの笑顔を曇らせてしまうと思い知らされている。
― おいで?
そんなふうに切長い目が笑いかけてくれる。微笑んで周太は一歩玄関へと踏み込んだ。

「ただいま、英二」

きれいに笑って周太は英二の腕に入ると、そっと背に掌をまわして広い背中に抱きついた。
自分よりずっと広い背中、ずっと高い背、そして強靭な腕や肩。
出会った頃は自分の方が武道も喧嘩も強かった、けれど今はもう違ってしまっている。
もう英二は軽々と自分を抱き上げてしまう、もう自分が守られる方になってしまった。
それでも自分こそがこのひとを守りたい。
だって英二がいちばん幸せそうに笑ってくれるのは、自分が隣にいる時なのだから。

「ね、周太?俺、周太が作ったココアが飲みたいな。作ってくれる?」
「ん。じゃあ、父にも持って行ってくれる?…俺もね、今日は作ろうって想っていたんだ」

こんな「おねだり」も自分にだけしてくれる。
こんな特別が幸せで温かい、もっと甘えてほしい、そして安らいで?
そして必ず自分の隣に帰りたいと願ってほしい、いつも冬山からでも無事に帰って来られるように。

「やっぱり気が合うね、俺たち。ね、周太?もう夫婦みたいだね?」
「…そういうこというのちょっとはずかしくなるから…だいどころたつまえだとあぶないから…でも、うれしい」

でも、こういうこというのは、ちょっと。
うれしいんだけどはずかしいんだけど…なんだかよくわからなくなるよ?
そんなふうに見上げる自分の頬が熱い、困ってしまう。どうしよう?

「周太がね、うれしいなら、俺もうれしいな。
周太、俺はね、周太の隣が大好きなんだ。だってさ、うれしい周太の顔をいちばん近くで見られるだろ?」

こんなふうに言われたら幸せになってしまう。
ほらもうこんなに心が温かい、だからきっとと確信してしまう「ふたり一緒にいることは正しい」
さっき婚約の花束を水切りしながら、母に言われた通りに素直に想いが頷いてしまう。

「…ん、俺もね、英二の隣が大好きだよ」

そう、大好き。
だから台所に立とう、ココアを入れてお節の支度して。そして喜ばせてあげたい。
こういう家庭的なことなら自分にもできる、ずっと母の為にしてきたことだから。
ささやかだけれど温もりを英二に贈ってあげられたら、ふたりきりでも家庭は温かく築けるかもしれない。

…大切な母のために、努力してきたからね?…きっと、けっこう頑張れるはず。だよね?

ささやかな自信に微笑んで、周太はお節料理の支度をしながらココアを作り始めた。
昼食の時にもお節料理の支度を進めていたから残りの支度はあと少しだけ。
昼食はパンとスープとサラダとアイスクリームだった、たぶん英二はすぐお腹が空くだろう。
きっと夕食は早めの方が良いだろうな、そう考えている肩にふと気配を感じて周太は振り向いた。
振向いた視線にすぐ切長い目が微笑んでくれる、幸せそうなのに悪いんだけど?そう思いながら遠慮がちに周太は申し出た。

「…あのね、英二?…あんまり見つめられると恥ずかしくて…きんちょうするんだけど…それに」
「それに、なに?周太」
「…ちょっと距離が近い…です、あぶないです。…ね、英二?そこの椅子にすわってまっていて?」
「嫌だよ周太、離れたくないよ。だって周太、風呂に入る時はさ、離ればなれだよ?
 そのとき周太はね、たくさん俺に我慢させるんだからさ。他では好きなようにさせてよ。ね、周太?いいだろ」

…また風呂の話なのえいじ?

すこし周太は呆れながら困ってしまった。
クリスマスの日に英二は散々「一緒に風呂に入って」とねだってくれた。
でもこればっかりは言うことを聴いてあげられない、だって恥ずかしすぎてきっとだめ。
だって風呂場で恥ずかしくて真赤になったら、逆上せすぎて気絶するかもしれない、そんなの困る。

ほらいまもう赤くなってきているきっと。
それにしても「一緒にいたい」って想ってもらうの、嬉しいけれど、こんなに駄々っ子されたら困ってしまう。
こんなに英二は大人びて美しくなったのに、こんなふうに子供に戻るなんて?
すこし途惑いながら周太は頬赤くしたまま、そっと英二に言った。

「…英二、駄々っ子みたい…だよ?」

言われた切長い目がすこし大きくなる。
この顔かわいくて好き、見上げて周太はちょっと微笑んだ。
そう見上げた端正な顔がすぐ幸せ華やかに笑って、英二は周太の顔に白皙の頬を寄せてくれた。

「うん、俺ね。周太には駄々っ子にもなりたい。
 だってさ、夫は妻には甘えるものなんだろ?だからね周太、俺は周太には甘えて駄々っ子にもなるんだ」

…周太には、駄々っ子に…甘えるもの、甘えて駄々っ子に

ふっと周太のココアの小鍋を混ぜる手が止まった。
英二の言葉に迫り上げるような想いが深いところから温かい、これはなんの想い?
きっとこの想いは、そう「無償の愛情」なんじゃないのかな?
だっていま肩に載っている端正な顔が、無条件で愛しくて可愛くて仕方ない。
そんな自分の想いに気づかされ、そして愛しさと一緒に哀しみが深くから温かく湧き起る。

…ね、英二?…誰にも、心から甘えたこと、なかったんだね?

美しい華やかな容貌の英二。
警察学校の修学旅行で言っていた「子供のころからモテていた」そう聞いたときは自分の孤独に痛かった。
けれどこうして英二を見つめるようになって気づいたことがある。
きっと英二はこの容貌のために、想いのまま心から誰かと触れあったことが無い。

―あの夜にさ、周太の部屋からもれる光が、俺を待ってくれている一つだけの場所に思えたんだ

雲取山に登った後で英二は、警察学校時代に脱走した日の想いを話してくれた。
あのときの言葉「一つだけの場所」その言葉の意味が今、はっきり思い知らされてしまう。
きっと英二は本当に「孤独」に生きていたのではないのか?
自分も他人と壁を作って孤独だった、けれど母には素顔で接することが出来ていた。
お互いよく似た親子だから本当に辛い13年間は逆に涙を見せられなかった、けれど理解しあって想いあっている。
でも英二はきっと母親にすら素顔を見せることを諦めて、あの「冷たい仮面」で接していた。

…英二の、お母さん…あなたはこのことに、気がついていますか?この美しいひとの孤独を、知っていますか

あなたが息子へかけた愛情は、母親として真実だったのでしょう?
けれど知っているんです、あなたの息子がどれだけ寂しい想いで生きて来たのか。
だって初めて会ったときの英二の目は「冷酷な仮面」の底で泣いていたのだから。
あなたが見つめたのは「美しい容貌の息子、能力ある息子」だったのでしょう?
けれど、あなたの息子の本当の美しさは、容貌でも能力でもないんです。
このひとが美しいのは、真直ぐな心から見つめる想いの美しさなのだから。
だから英二は苦しんだ、心を見つめてもらえない苦しみに「冷酷な仮面」に閉じこもって。
そのことに俺は気づいてしまったんです、だから「冷酷な仮面」を壊してしまいました。

だからこそ、自分が全て受け留めたい。
だって英二の仮面を壊したのはこの自分、そして英二を今の道に立たせたのは自分だから。
そうして英二を自由に生きさせて、あなたの手元から放してしまったのは自分だから。

…あなたの息子への愛情は…籠の中のきれいな鳥、…

英二の容貌は確かに美しくて惹きつけられてしまう。
けれど英二は「容貌」に閉じ込めていい人じゃないんです。
英二の本質は今いる通り「自由ほこらかな誇り高き山ヤ、そして山岳レスキュー」それが英二の輝く姿です。
それは大らかで人の範疇を超えた世界、美しくて峻厳な掟に生きる人の姿そのものなんです。

…そして、それは籠の中では、生きられないひとの姿なんです

だから俺は英二が最高峰へ立つという夢を止めることはしません。
その場所の危険を知っている、それでも止めないのは英二が「生きる」姿を愛して信じているから。
だから英二に仮面を作らせ閉じ込めた、あなたの愛情に頷くことは自分には出来ません。
あなたの愛情は間違っていた「英二を生かす」という意味において、あなたは間違えてしまった。
けれど愛する想いは自分にもわかる、だからあなたの想いを自分が受け留めたい。

…そして、ね?見てほしいです、ほら、この笑顔

周太はガスを停めると、静かに英二に向き直って見上げた。
こうして見つめただけ。それなのに英二の顔には幸せな笑顔が大輪の花のように咲いてくれる。
この美しい笑顔に気づかされてしまう、これまでの英二の孤独と英二の幸せがどこにあるのか。

…ね、英二?…ほんとうに寂しかったんだね、…姿じゃなくて、心を見つめてほしかったんだよね?

俺は知っているよ、英二?
だって自分はずっと、あなたの目を見つめてきたのだから。
真直ぐ見あげて目を見つめながら周太は、そっと英二の首に腕を回して端正な体に抱きついた。
ふれる温もりが穏やかで幸せで微笑んでしまう、微笑んで周太は英二に告げた。

「ん…甘えてくれるの、うれしい…俺でもね、甘えてもらえる…英二の役に立てるなら、…うれしいんだ…」

よりそった温もりがすこし震えて、そっと力強い腕が周太を抱きしめてくれる。
役に立つとかそんなんじゃないのに?そんなふうに切長い目が微笑んで、やわらかく腕に力を入れながら英二が言ってくれた。

「役に立つとか違うよ周太?言っただろ、俺はね、周太がいないとダメなんだ。ほんとだよ、」
「ん…ほんとうに?」

周太の額に額を付けて英二が瞳を覗きこんでくれる。
こんなに近いと気恥ずかしい、けれど真直ぐ周太も見つめ返した。
そう見つめあいながら英二はきれいに笑って答えてくれた。

「ほんとうだよ、周太。だって俺ね、姉ちゃんにまで言われたんだ。
 あんたは湯原くんがいないとダメ、他に迷惑かけると困るから一緒にいてもらいなさい。だってさ。ね、だから俺、周太がいないとダメなんだ」

英二の、お姉さん。
2度会ったことがある英二によく似た美しい女のひと。
そのまなざしは聡明で、きっと自分に出会うまでは英二の一番近くにいたひと。
そのひとが、そんなふうに自分をみてくれるの?

「…お姉さんまで、そう言ってくれるの?」

― 唯一つの居場所を見つけられる。とてもきれいで、素敵な事よ

11月に会ったとき彼女はそう言って笑ってくれた。
そして周太に胸を張ってほしいと言ってくれた、そんな温かなやさしい美しいひと。
あのひとは自分を受入れようとしてくれている、そして祝福してくれる。

ほんとうは英二のお母さんに憎まれて苦しい、それから逃げるつもりは無いけれど。
だから尚更に英二の姉の想いが心に響く、そんな想いが幸せで嬉しくてならない。
そんな想いの熱が瞳の奥にそっと昇って周太の視界を温かく揺らしていく。
そんな周太に英二は微笑んで、今にも零れそうな目許にそっとキスをしてくれた。

「そうだよ周太?姉ちゃんな、周太のこと好きなんだって。
 だから籍を入れたらね、甥っ子としてデートして可愛がりたいってさ。
 でね、また会いたいなって言ってたよ。2月の射撃大会終わったらさ、会ってやってくれる?」

自分こそ会いたい。
ほんとうに自分は彼女にたくさん背負わせてしまっている、それを謝りたい。
そして「ありがとう」を伝えたい、それから1つでも彼女が喜んでくれることを教えてほしい。
しずかに涙が頬伝うのを感じながら周太は英二に答えた。

「ん、…俺もね、お姉さんに会いたい。…俺もね、お姉さんのこと好きだよ?…おれ、…うれし、いよ…」

あふれて零れていく涙を英二がキスで拭ってくれる。
ふれる唇の熱が温かくて愛しくて、幸せの底からこの唇の主の笑顔を祈ってしまう。
どうかこの美しい優しいひとを自分に守らせて?そう見つめる笑顔が幸せそうに周太を抱きしめてくれた。

「きっとね、周太?俺と一緒なら周太は、たくさん幸せを見つけられるよ?だから周太、ずっと一緒にいよう?
 今は離ればなれで暮らしているけれど、『いつか』には絶対に一緒にいよう?法律でも、住む場所も、一緒にいよう、周太」

法律でも住む場所でも、ずっと一緒に。
そのために英二は分籍して家を捨てる、そして英二の姉が宮田の家を背負ってしまう。
だから自分もこの家の跡取りであることを捨てる、そんなにまでしても、自分は一緒にいたい。
だからお願い愛するひと、どうぞ自分を抱きしめていて?

「…ん、いっしょにいて?英二…俺のこと、はなさないで?」

「うん。俺ね、絶対に周太を離さない。
いつだって、どんな場所からだって、俺は周太を救って掴んで離さない。
だって俺、周太がいないとダメなんだ。もうね、これは仕方ないんだよ周太?」
 
「ん…仕方ない、ね?英二」

きれいに笑って周太は大好きな笑顔を見上げてた。
この笑顔に自分は全てを懸けて生きていく。
いまエプロンのポケットに入れてあるクライマーウォッチは英二の大切な時間と夢の結晶でいる。
それをもう自分は受け取った、そして今日は婚約と求婚の花束も受け取って抱きしめた。

― きみを愛している 幸せは、きみと一緒にしか見つけられない

すこし背伸びするよう周太は英二を抱きしめて、そっと唇に唇でふれた。
ふれるだけのキス、それでも自分には精一杯の想いのキス。
あなたを幸せにしたい、きれいな笑顔を一つでも多く見つめさせて?
そんな想いを残しながら静かに離れて周太は英二を見つめた。

やっぱり自分からするのは尚更に気恥ずかしい。
けれど想いを伝えれて幸せで、そう見上げる先で英二がきれいに笑った。
いつもより少し切ないような笑顔が不思議で見つめていると、さらりと英二は周太に言った。

「ね、周太?だからさ、風呂も一緒に入ってよ?俺、周太がいないとダメなんだから」

なんてこというのこんなときにまで?
言われた途端にもう、また顔が熱くなってしまう。
もうだめ。そんな想いに背中押されて周太は英二の腕から抜け出してしまった。
そのままココアの鍋を火にかけると黙々と手を動かし始めた、ほんとうに困ってしまう。
それなのに英二は笑いながら声をかけてくる。

「周太?沈黙は了解、ってことでいいの?」

お願いやめて?
手を動かしたまま周太は一瞬ふるえて、けれど即答した。

「…だめです、ふろはだめです…」

だめ恥ずかしい、そんなの絶対に無理で。
だって本当に英二は変わってしまった。警察学校の時と今では3ヶ月だけれど別人になっている。
服を着ていて抱きしめられたってわかる、英二の体つきは精悍さを強めている。
きっと毎日の訓練が英二の心身を鍛えている、それくらい英二が真剣に取り組んでいることがわかる。
そして本当に、ベッドで抱きしめられる度ごと英二の変化が顕著で途惑っている。

ずっと自分より逞しくて美しい体が強く自分を求めてくる、そんなときいつも自分は壊れそうになる。
いつもの自分と違う自分にされて、心ごと浚われて全て奪われて繋がれてしまってもう何も解らなくなる。
そんな翌朝に目覚めれば英二の体を見ることになる、その姿は強靭で美しくて見惚れてしまう。
そして夜のことを想いださせられて恥ずかしくて困ってしまう、けれど幸せは温かくて。

それでもベッドならシーツに包まっていられるから、まだいい。
けれど風呂場ではどうしたらいいの?どうにも出来ないでしょだから無理もうだめ。
しかもこの家の風呂は広くて白熱灯のランプも明るい。昼間だって窓からふる太陽の光で明るい。

…だからふろなんてぜったいだめ…きっと恥ずかしすぎて真赤になりすぎて…きぜつするにきまっている

もう今だって考えただけで真赤になっている。
これ以上なんてもう絶対に無理、だから英二ごめんね諦めてね?
そう考えながらココアの小鍋をスプーンでぐるぐる回していると、きれいな低い声が背後から言った。

「ね、周太?周太がさ、今は俺と風呂入ってくれないのは、いつも俺が周太のことを脱がせて抱いちゃう所為なんだ?」

……べっどでだきしめられるごとに……


かたん、



………スプーンが、木の床に落ちた…音か、な







(to be continued)

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第31話 春兆act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-01-10 23:28:38 | 陽はまた昇るanother,side story
うけとめて想いにほほえんで




第31話 春兆act.2―another,side story「陽はまた昇る」

調理台に面した出窓からふる冬の陽射しが温かい。
よく台所は北向きの家が多いけれど、この家では東側に面して窓も2つとっている。そこからは庭の眺めと陽射しが気持ちいい。
おかげで出窓は温室のようにハーブ類の栽培に使える、そこへ手を伸ばして周太はイタリアンセロリとパセリを摘んだ。
母が作ってくれたスープの彩と風味づけに使うつもりだった、あとサラダにも少し入れる。
サラダには鶏肉、牛蒡、さつまいも、蓮根、人参とレタスを使ってある、根菜類と鶏肉はお節料理に使う下拵えを利用してみた。
こうすると昼食のサラダと同時にお節料理の支度も進められる。

…あと、甘いもの、お母さんきっと欲しいよね?…英二も甘いもの嫌いじゃないみたいだし

ここにある材料で何かできるかな?
すこし考えて周太は下拵えしたさつまいもを鍋に入れて酒、みりん、砂糖と蜂蜜に塩少々を加えて練り始めた。
それを濾器で滑らかにすると買ってきた蜜栗を加えてざっくり混ぜ込めば栗きんとんが出来上がる。
ここに仕上げに周太はバニラエッセンスを加える、こうすると香がよくなって甘さも引き立っておいしい。
それをボールにすこし取り分けると冷凍庫を周太は開いた。

「…きっと買ってあると思うけど…あ、」

見つけて微笑むと周太は冷凍庫からホームサイズのバニラアイスを取出した。
アイスが好きな母は大抵こうして買い置きしてある、蓋を開けてボウルへといくらか取り分けてまたケースを戻した。
ざっくり栗きんとんとアイスを混ぜ込んでならす、それから冷凍庫へとボウルをしまった。これでモンブランアイスになる。
食べる時に盛り付けてからココアをふりかけたら美味しいかな。そう考えながらお節料理の支度を進め始めた。

黒豆と数の子、昆布巻きは買ってきた。この3つは煮る・味をなじませる等の時間がかかってしまうから仕方ない。
周太はミキサーを出すとはんぺんをちぎって入れ、出汁とみりん、砂糖、はちみつ、卵を割りいれた。
スイッチをするとすぐにきれいに混ざってくれる、これを卵焼き用の厚手のフライパンで弱火でじっくり焼いていく。
ふっくらと火が通った所を見て裏返すと、きれいな焼き色がついている。
うまく今年も出来そうでうれしい、広げた巻簀へと上手に卵焼きを広げると熱いうちに巻き込んでいく。
きれいに巻き終わると巻簀ごと輪ゴムで止めて涼しいところへと置いた、冷めたら切り分ければいい。

「…紅白なます作ったよね、あと田作りもした…他に今作るものあるかな?」

すこし冷ましたり馴染ませるものは今、作ってしまう方が良い。
焼海老や筑前煮などは後でもいいだろう、そう思いながらエプロンのポケットからクライマーウォッチを出して時間を見た。
台所へ立って30分くらい経っている、そろそろ母と英二が戻ってくるかもしれない。
そろそろ昼食かな?周太は買ってきたパンをオーブンに並べて温める用意をすると、サラダをボウルに盛り付け始めた。
盛り付けたサラダをダイニングに運んで、具だくさんのスープを温め始める。
母がスープを作ってくれたお蔭でお節料理に時間をとれた、ありがたいなと思いながら周太はかまぼこの飾切を始めた。
「あやめ」「梅」それから縁起物の「結び」を3つずつ作ると、あとはシンプルな市松に揃える。
最後の一つを作り終えて皿に並べると、台所の扉が開く音が背後で聞こえた。

「周太、」

きれいな低い声が名前を呼んでくれる、きっと庭の散歩が終わったのだろう。
ゆっくり振向くと予想通りに英二が微笑んで立っていた。きれいな笑顔がうれしくて見惚れてしまう、そっと周太は微笑んだ。
けれど、まだ英二は花束を抱えたままでいる、なぜまだ母に渡していないのだろう?不思議に思って周太は訊いてみた。

「英二?…花、お母さんにまだ渡していないの?」
「うん。周太、ちょっと手を止めてくれる?俺、教えてほしいことあるんだ」
「ん、?…ちょっと待って」

どうしたのかな?瞳だけで訊きながら周太は包丁を置くと、流しで手を洗ってきちんと拭いた。
そしてスープ鍋の火を止めてから、英二に向き直って見上げると微笑んだ。

「…なに?英二」

見あげた切長い目が穏やかに微笑んでくれる、やさしく周太を見つめながら英二がこちらへ一歩踏み出した。
そして周太の前に立つと少し体をこちらへ傾けて、きれいに笑って英二は言ってくれた。

「周太、あらためて訊かせて?いつか必ず、俺の嫁さんになってください。
 そうして入籍することはね、周太から湯原の姓を法律で取り上げることになる」

― 入籍、…湯原の姓を法律で取り上げて…?

言葉に心が、とくんと響いて何かが周太に深くなる。
クリスマスの日にも英二が言ってくれた「男でも嫁ぐことが出来る方法」その話を真剣に向き合ってしようとしてくれている。
そんな決意が見上げている切長い目から、きれいに真直ぐ周太を見つめてくれている。

「けれど信じてほしい、この家は俺が必ず残してみせる。そしてこの家の想いも全て俺が周太に教えてあげる。
 よく考えて答えて周太?俺と入籍すれば湯原の姓は残せない。けれど家は守っていくよ。それを理解したうえで、答えて?」

真剣に考えて英二は今この話をしてくれている、そして「入籍」が周太にもたらす変化をきちんと話してくれている。
その変化で問題になるのは「入籍すれば湯原の姓は残せない」この意味を受け留めなくてはいけない。
よく考えて答えなくてはいけない、頬に右掌をそっと添えて考え込むように周太は頷いた。

「はい、……法律では英二の姓を名乗るしかない、そういうことだね?」
「そうなんだ。俺の方がすこし先に生まれたからね、年長者である俺の戸籍に周太が入るんだ」

英二の戸籍に周太が入る。
そうすれば湯原の姓は捨てなくてはいけない、それは湯原の家を断絶することになる。
この湯原家の跡取りは一人っ子である自分しかいない、だから自分が英二の戸籍に入ってしまえば湯原の跡取りは居なくなる。

…そうすれば自分はもう、湯原家の主になることは無い

書斎に置かれているビロード張りの書斎椅子。父が祖父が曾祖父が座ってきた湯原家の主のための椅子。
もし自分が英二と入籍を望むなら、あの椅子に自分が座って湯原家を守ることは無くなる。
そうしたら父たちの想いはどこへ行ってしまう?

…でも、英二?いま言ってくれたよね

―この家は俺が必ず残してみせる。そしてこの家の想いも全て俺が周太に教えてあげる

いま英二はそう約束してくれた。
だからきっと英二が全てを守ってくれる、そして父たちの想いも受け留めてくれるだろう。英二は必ず約束を守るひとだから。
そしてそんな英二を自分は恋して、愛して、唯ひとりだけ求めている。

…だから信じてずっと傍で生きていきたい

でも、英二の戸籍に入ることは「宮田家」の戸籍に入ることになる。
そして自分は知っている、その宮田家の大切な人が自分を受け入れてくれないこと。
そのひとは心から周太を憎んで、周太を許さないと思っているだろう。そのことを自分は解っている。
そう解っている、それがずっともう哀しくてならない。右掌を頬に添えたまま周太は首を傾げた。

「…でも、英二のお母さんは反対するでしょう?…だから宮田の戸籍には、俺、入れないと思う、けど…」

卒業式の夜、英二は周太に想いを告げてくれた。
その夜に初めて、心ごと体を重ねて想いを交して一緒に生きたいと共に望んだ。
そして卒業式の翌朝、英二は実家に戻ると家族に周太のことを話してくれた。
英二の父と姉は受け留めてくれた、けれど母だけは拒絶して英二の頬を叩くと義絶してしまった。

華やかな容貌は惹きつけるほど美しくて、能力もある大切な長男。
どんなに英二の母は誇らしく自慢に思っていただろう、可愛い息子の将来に夢を描いていただろう。
そんな夢をきっと23年間ずっと、英二の母は大切に温めて息子への期待を想っていた。

…それを、壊してしまったのは…俺と出会ったから、だよね?

なんども考えてきた、自分が英二にしてしまったことの罪を。
あの卒業式の夜に自分は英二の想いに頷いてしまった、それが英二を喜ばせると想ったから。
けれど自分が英二を受け留めれば、美しいままに与えられるはずだった英二の普通の幸せを奪うことになる。
その悩みにクリスマスの日までずっと周太自身が苦しんできた。

もう英二の想いから逃げないと決めている。
英二は素直な想いのままに真直ぐ周太を愛して、想いのままに求めて望んでくれる。
だから自分も想いに素直になろうと決めている、ただ真直ぐに向けられる想いを見つめて生きようと決めている。

…それでも、英二のお母さんは…

クリスマスまで苦しんできた想いは「英二の母」に対しては現実のこと。
決して目を背けてはいけない「英二の母」の哀しみと憎悪を自分は知っている。
だからきっと「宮田家」の戸籍には自分は入れない、心にため息を吐きながら周太は英二を見あげた。
けれど、そんな周太の顔を覗きこんで英二は微笑んでくれた。

「大丈夫だよ、周太」

泣かないでいいのに?そんなふうに目で言って英二が見つめてくれる。
目で言われて気がつくと右掌にひとしずく涙が伝っていた。そんな右掌に英二は自分の左掌を重ねて微笑んだ。

「俺ね、本配属が決ったら実家から分籍して自分の戸籍を作るんだ。
 もう俺は警視庁の山岳レスキューとして生きることになる、今後の配属は七機か奥多摩地域の警察署だ。
 どのみち俺の拠点はさ、奥多摩になるだろ?なら本籍を移した方が都合がいい。
 だから俺、世田谷の実家から分籍しようと思う。だから周太、いつか時がきたら俺の戸籍に入って?」

…分籍?

訊きなれない言葉に周太は心裡で首を傾げた。
英二の話からすると、宮田家の戸籍から出て英二単独の戸籍を作ることらしい。
警視庁随一のクライマーである国村のパートナーに選ばれた英二は、山岳レスキューとして任官し続けることが決定されている。
だから確かに言うとおり、拠点になる奥多摩に本籍がある方が公式的な手続きなどに便利ではあるだろう。

その理由も本当なのだろう、けれど本当には他の理由が大きいのでしょう?
そう考え込んでいる周太を、きれいな切長い目が真直ぐ見つめて、穏やかに微笑んで見守ってくれている。

「ね、周太?俺だけの一人ぼっちな戸籍は寂しいよ。だから周太、絶対に必ず、いつか俺と入籍してくれないかな」

ちょっと強引な入籍と求婚の「おねだり」とお願い。
これは自分に気を遣わせないため、そしてそれ以上に英二は自分の想いのまま「我儘」を言ってくれている。
そんな「おねだり」が可愛くて温かい、可愛くて可笑しくて周太はちょっと微笑んだ。

「俺がその…にゅうせきしないと、英二、ひとりぼっちになっちゃうの?」
「そうだよ。そんなの俺、寂しいだろ?」
「ん、…」

分籍すれば英二は戸籍筆頭者になる、そうしたら入籍も英二の一存で出来る。
そして自分を守る為に英二はリスクを厭うつもりが無い、そこに宮田の家を巻き込まない為に戸籍を分けるのではないの?
それに英二が山岳レスキューの道に立ったのもきっかけは、自分が警察学校の山岳訓練で怪我をしたことだった。

…分籍する理由。ほんとうは俺を守るため…それが全てなのでしょう?

自分のために英二は分籍までしてくれる。
まだ「分籍」の意味を自分は正確には知らない、けれど宮田家を英二が出てしまうことだとは分かる。
そんなふうに英二は自分のために生家を出る覚悟までしてしまった。
英二は実直で真面目な性質で責任感も強い、そんな英二が「長男」であることを軽く考えるはずがない。
そんな英二が長男であることまで捨てると言ってくれる。ただ自分を守る為だけに。

…ね、英二?…ほんとうに俺のために、すべて捨てるつもりでいるね?

どうしたらいいの?
こんなに想われて全てを懸けられて愛されている。
どうしたらいいの、こんな真直ぐな愛情は本当に自分に与えられているものなの?

…こんなこと、自分の現実に起きるなんて…どうして?

どうして?そんな驚きと不思議な想いに心が浚われそう。
けれど今ここは自分の台所で、いつものエプロンをして、現実に目の前に美しいひとが笑っている?
こんなに真直ぐに美しい想いで自分を見てくれる、こんなに想ってくれる美しいひとが現実に目の前にいる。
そんな美しいひとは周太に向かって、きれいに笑って訊いてくれた。

「周太、いつか必ず、俺の嫁さんになってください。ゆっくりでいい、よく考えた周太の返事を、また俺に聴かせて?」

きれいに笑って英二は、持っていた花束を周太に手渡してくれた。
あわい赤の冬ばら、純白の冬ばらとスカビオサ、クリームカラーと深紅のカーネーション。
赤いラインのきれいな八重咲きチューリップにアイビーのグリーン、それから白い花々がたくさん。
白い清楚と赤い艶が美しくて可憐な冬と春の花々、渡されて抱えあげた花束の翳から周太は英二に訊いた。

「あの、…これ、俺に、くれるの?」

母にあげる花束だと思っていた、でも英二の抱えていた花束は2トーンあった。
きっと2つを一緒に抱えて英二は、2つの花束を1つに見えるようにして隠していた?
こんなふうに自分に渡して驚かせようと考えていてくれた?そんな想いと見上げる先で英二は、きれいに笑って言ってくれた。

「そうだよ、周太。これはね、プロポーズの花束なんだ。花言葉で花も選んである、そこに付いているカードに書いてあるよ」

…プロポーズ、

言われて素直に周太はカードを手にとった。
そこには11種類の花々の意味がいくつかずつ書かれている、その意味と花の名前が「プロポーズ」だと本当に告げてくる。
こんな花束を自分が貰うだなんて?驚きと気恥ずかしさで首筋が熱くなってくる。

…でも、…うれしい、な

うれしい、素直にそう想えてしまう。
そんな周太の様子を見ながら英二は微笑んで教えてくれた。

「周太の父さんがさ、花言葉に詳しかったって言っていたろ?
 だからね、花屋でお願いして作ってもらったんだ。周太、気に入ってくれるかな?」

花言葉のカードと花束を見比べながら、頬まで赤く染まっていく。
もとから植物が好きだから、どの花がどんな言葉なのか見当はついてしまう。
今こうして抱いている花々どれもが英二の深い想いを告げてくる。

…この花束は、英二の求婚のラブレターで、一生の想いの約束…

こんなふうに自分が好きな植物に託して想いを告げてくれている。
その想いのために本当に全てを懸けて自分を愛そうとしてくれる。

  警察官の俺には、明日があるのか分らない
  だから今この時を大切に重ねて、俺は生きたい。湯原の隣で俺は今を大切にしたい
  湯原の為に何が出来るかを見つけたい、そして少しでも多く湯原の笑顔を隣で見ていたい
  湯原を大切に想う事は止められない、隣に居られなくても何があっても
  きっと、もう変えられない
  
卒業式の夜、そんなふうに英二は想いを告げてくれた。
その言葉の通りに英二は、あの夜から3ヶ月間以上ずっと周太を見つめてくれている。
たった3ヶ月間、そうかもしれない。けれどこの3ヶ月間には多すぎるほどの出来事があった。

あの3か月前の卒業式の夜に。
あの夜、初めての恋を自覚した瞬間に自分は大人の恋愛が始まった。
それからの3ヶ月間は止めていた13年間がいっぺんに動き出す時間だった。

恋をして愛して。その想いのために哀しみと憎悪の対象にもなって。
友達が出来て、嫉妬もして、身を退こうと考えたこともあった。
そして13年前の父の殉職事件に1つの決着がついて、1つ父の想いを見つめることが出来た。
そんな様々な想いの全てが自分にとって「初めて」のことばかりだった。
こんなに濃密な3ヶ月間は23年間の人生で「初めて」、今までに無い時間と記憶の積まれた3ヶ月。

そんな「初めて」への途惑いも涙も喜びも、全ては英二が隣で支えてくれたこと。
そしてどれもが、一度は泣いたとしても必ず最後には笑顔へと英二が変えてくれていた。

…そう、英二のね、きれいな笑顔…ずっと見つめたいって、想ったんだ

  お前の隣が、好きだ。
  明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい

卒業式の夜に告げた想い、今もその想いは変わらない。
それどころか尚更に深くなって、いまこうして台所にすら立っている。
そう、自分の想いは変わらない。想いはもっと深くなっていく、きっとそう。

きっと自分の想いはこれから、年月と記憶を重ねていく分だけ濾過されて、もっと深く澄んでいく。
この3ヶ月間が想いは静かに深まって、勇気も決意もこうして抱いていったように。
そんな確信と一緒に周太は花から顔をあげて、真直ぐに英二を見つめた。

「英二、『いつか』が来たら、…俺を、湯原の家から浚って?」

真直ぐに切長い目が周太を見つめてくれる。
その目は穏やかな静謐が温かで、実直な真摯と底に秘めた深い熱が映しこまれていた。
すこし首傾げて英二は周太に尋ねてくれる。

「周太、後悔しない?いま、約束してしまったら。本気で俺は、いつか周太を嫁さんにするよ?
 そうして一生ずっと、俺の腕の中に閉じ込めてしまうよ?…「湯原」の苗字すら奪って、俺の名前に周太をしちゃうよ?」

後悔なんてするわけがない。
だって本当はもう卒業式の翌朝に、とっくに自分は涙の底で気づいてしまっている。
いま言ってくれたこと「腕の中に閉じ込めてしまう」その言葉こそが嬉しいのだから。

…英二?ずっとね、望んでいたんだ…

あの朝に目覚めた瞬間。そのとき自分が見たものは、きれいな切長い目と美しい笑顔だった。
前日の卒業式の朝も寮の狭いベッドで、一緒に徹夜明けの朝を迎えた。
その時に見つめたのと同じ顔、けれどもう違う表情だった。
ただ想いを真直ぐに告げて求めてくれる、全てを許して愛しむ笑顔、本当にきれいだった。
そんなふうに見つめられて幸せで。その幸せの分だけ心が叫び声をあげてしまった。

 …お願い離れないで?ひとりにしないで
   このまま離さないで?どうかお願い、あなたの腕に閉じ込めて?
   離れたくない別れが怖い…離れなくちゃいけない、解っている、でも嫌…ただ一緒に、いたい

あの朝シャワーの湯のふるなか自分は泣いた。
ただ一夜で変えられてしまった体と心を、ひとり抱きしめたまま涙が止まらなかった。
そんな想いは声に出来ないまま心も喉も灼いて痛くて、痛くて。崩れそうな心も体も支えるのが精一杯だった。
そして母に想いを告げる時ですら自分はもう、本当は心の底から願ってしまっていた。

 ― 家を捨てても大切な母を捨てても、英二の傍に居たい、全てと引き換えにしても、一緒にいたい
   あの笑顔を見つめたい帰りたいあの隣に、今すぐもう逢いたい、あの腕の中に自分を帰して?

あのときの想いと願いが、いま叶うというのでしょう?
あのときの想いも願いも何一つ、自分にとっては変わらないままでいる。
それなのに後悔なんて出来るわけがない、これでもう、あなたから離れないで済むのだから。
そんな想いの真中にいる愛する人へ微笑んで、静かに周太は答えた。

「ん、…後悔しない。だって俺、決めているんだ、もうずっと…」

しずかなトーンで落ち着いた声が自分の唇から告げてくれる。
どうか想いを今こそ伝えさせて?ずっと自分が抱いていた想いを告げさせて?
あの夜からずっと想いつまれてきた、この想いをあなたに告げて応えたい。

「俺は英二の子供を、産んであげられない。
 けれどね、温かい家庭は…二人きりだけれど、でも、温かい家庭は、俺でも作ってあげられるかもしれない。
 そうやって俺、『いつか』英二のためだけにね、…生きたい。そう決めているんだ…だからその時が来たら、湯原の姓を捨てたい」

きれいな切長い目が見つめてくれる、やさしい穏やかな目はあの日と変わらない。
あの日よりも大人びて美しくなった笑顔で、静かに英二は訊いてくれた。

「周太、『いつか』ってどんな時のこと?」

ずっと使ってきた『いつか』、それを今ここできちんとしよう?
そんな想いが切長い目に微笑んでくれる、実直で真摯な心のままに真直ぐ周太を見つめてくれる。
このひとの想い抱き留めさせて?そっと想いの花束を抱いて周太は答えた。

「父の想いを全てを見つめ終わってね、…俺が自分の人生を歩きはじめる時。
 その時には…俺の人生をね、英二にあげたいんだ…
 そして一緒にいさせてほしい、英二だけの隣で居場所で、帰ってくる場所にね、俺はなりたい」

この想い、告げられた。
こんなふうに大好きなひとに想いを告げられてうれしい。
ほら、自分から告げられたひとは本当に幸せに微笑んでくれる。
きれいに微笑んで英二が周太の顔を覗きこんだ。

「周太、『いつか』が来たら必ず俺と籍を入れてください、それまでは俺の婚約者でいてください。
 どうか周太?『いつか』俺の嫁さんになってください。そして俺とずっと一緒に暮らしてください」

どうか頷いてほしいよ?そんなふうに笑いかけてくれる。
こんな幸せな「おねだり」を自分の台所で言ってもらえた、そして自分は想いの約束をこめた婚約の花々を抱いている。
自分にとって、こんな幸せな婚約はきっと他に無い。きれいに笑って周太は頷いた。

「はい、英二…やくそくする、ね」

きれいな幸せな笑顔が英二の顔に咲いてくれた。
こういう笑顔をずっと見たかった、そして自分はきっとずっと見つめさせてもらえる。
うれしくて微笑んで見上げる周太の肩を花束ごと抱いて、静かに英二は顔を近寄せてくれた。

「周太、婚約のキスだよ?」

穏やかに幸せなキスを、台所の温もりの中でふたりは重ねた。

…ね、英二?今日を、ずっと忘れない。きっとあなたを幸せにする、ね?

あたたかでやさしい想いに微笑んで、静かに周太は英二のくちづけを受けた。
やわらかにふれる熱が愛しくて、ふれる想いが温かで幸せがそっと充ちてくる。
これは決して楽な事ばかりじゃない選択、それでも一緒にいられる道であるなら選びたい。

― きみを愛している 幸せは、きみと一緒にしか見つけられない

きっと幸せを見つけてみせる、そしてこのひとを幸せにする。
きっと本配属になれば自分は父の軌跡を辿ることになる、それでも必ず無事にこの腕に帰ってみせる。
そして父の想いを拾い上げて受け留めて、この想いのために生きる道を掴みたい。
その道の途中でも自分はもう、このひとのもの。

「ね、周太?いま、幸せ?」

そっと離れて英二がきれいに笑いかけて訊いてくれる。
きれいな笑顔を見つめて周太は、きれいに微笑んで応えた。

「ん、幸せだよ、英二?…お腹すいたよね、すぐお昼ご飯にするね」

周太の言葉に幸せそうな笑顔が咲いてくれる。
うれしそうに英二が笑いかけて言ってくれた。

「うん、腹減ったな。俺ね、周太の作ったものが一番好きだよ?手伝いってあるかな」
「ん、…じゃあね、スープ皿と取り皿を出してくれるかな?…あの、花をね、水にいれてきていい?」
「うん、周太。あとオーブンのパンを温めればいいかな?」
「ん、5分くらいかな?…ありがとう、英二。お願いするね?」

笑って周太は抱きしめた花束を、水切りのために風呂場へと抱えていった。
きれいなバケツを出して花束をほどくと、バケツへと活けてシャワーをかけてやる。
冷たい水を浴びて花たちは息吹き返すよう滴にきらめいた。

「…きれいだね?…今日はね、想いを伝えてくれて、ありがとう」

約束の想いを語ってくれる花々に、そっと周太は微笑んだ。
こんなふうに植物は無言なようで饒舌でいる、植物って不思議だな?
そんな想いで見つめていると浴室の扉が開いて周太は振り返った。

「お花、きちんと受け取ったのね、周?」

微笑んで母が隣へと来てくれる。
立ち上がって周太は水を止めると、母の黒目がちの瞳を見つめて言った。

「ん、…お母さん、俺、ね…湯原の姓を捨てるんだ…」

あえて自分は母に相談しないで決めた、それが自分の立場の筋だろうと思えたから。
自分はこの家の唯ひとりの跡取りでいる、だから自分が湯原姓を捨てれば家名は「断絶」してしまう。
その決定をする相談を母にしてしまったら「断絶」の責任を母にも背負わせることになる。
その重荷を母に背負わせたくなかった、だからこの家の行く末は自分だけで決めた。

…その責任はね、俺ひとりが背負えばいい…だって、跡取りは俺だけだから

自分が他家に入籍すること。
それは湯原姓を消し戸籍も途絶えて、全てが「断絶」することになる。
その重みを自分も解っているつもり、だって一人っ子長男だから考えざるを得ないでいた。
父は何も語らなかった、けれど家の造りや遺された蔵書の贅沢さから感じられてしまう。
この家には歴史があることそんな節々から解っている、たぶん簡単に断絶を選べる家じゃない。

…けれど、英二は本当に、全てをね…俺のために、懸けてくれている

だから自分も全てを懸けてしまいたい、そうして英二の想いに応えたい。
自分は英二と生きることを選びたい、たとえ断絶しても後悔なんて出来ない。
きっとあの卒業式の夜にもう想いは定まってしまっていた。
もう自分で決めてしまった、けれど母には謝っておきたい。そっと周太は唇を開いた。

「お母さん、…お父さんが亡くなってから、この家を守ってくれたのは、お母さんだね?
 お父さんのために俺のために…守ってくれた。それなのに俺が、この家を終わらせてしまう。お母さん、ごめんなさい」

静かに頭を下げた周太の瞳から、ぽとんと一滴涙がこぼれた。
だって自分は知っている、母が女手一つで自分を育て家を守ることが、どんなに大変だったか。
父も母も両親はすでに亡くなっている、そして親戚なども全くいない。そんな孤立無援で母はひとりこの家を守った。
その母の想いを想うと心から申し訳なくて心が痛い、けれど自分はどうしても英二と生きていきたい。

「いいえ…周、謝らなくていいのよ?ほんとうよ」

穏やかなトーンの微笑む声が下げた頭にふってくる。
その声に静かに頭をあげて周太は母の黒目がちの瞳を見つめた。
いったいどういうことだろう?そう見つめる周太に母は微笑んで教えてくれた。

「お父さんはね、こう言っていたの『もう自分以外の誰も、この家に縛られないで欲しい』」
「…お父さんが?」

静かに頷いて母が微笑んだ。

「そうよ、周。あなたが生きたいように、あなたの想いのままに生きること。それがお父さんが望んでいたことなのよ?
 だから周太、あなたの決断は正しい。なにも知らなくても周太は、きちんとお父さんの想いに添って選択が出来たのよ」

父の想いを自分が気づけた?そういうの?
そうなら、もしそうなら本当に誇らしい。だって自分はそのために13年間を生きてきた。
ただ父の想いを探して見つめて、そのためだけに警察官にすらなって今がある。

「…お母さん、俺、…お父さんの想いを、きちんと見つけられている?」

「ええ、見つけられたでしょう周?今の決断だってそうでしょう?
 だからね、周太。きっと、あなたなら、きちんとお父さんの望みを叶えてあげられる。お母さん、そう想います」

こんな自分でも父の想いを受けとれた。
いつも本当は泣き虫なのは自分、逃げたいのは自分。けれど逃げたくなくてただ泣いているのは嫌で。
そして愛するひとまで見つけて守りたくて、そのために自分は強く賢くなりたくている。
そんな自分になる為にも父の想いを受けとりたい。
こんな自分でも父の息子、だから強く賢いひとだった父のように自分もなれるかもしれない。
そんな想いと父への哀惜から自分は、父の軌跡を追い始めてしまった。

だから母が言う通りなら嬉しい、うれしくて周太は微笑んだ。
そんな周太に母は可笑しそうに、そして幸せそうに種明かしをしてくれた。

「それにね、周?英二くんは言ってくれたのよ。
『この家の想いと記憶は俺が守りたいです。この家の空気も全部が好きなんです。だから背負えたら嬉しい』
 こんなふうに英二くん言ってね?お母さんに周太へのプロポーズをしていいかって、きちんと了解を訊いてくれたわ」

さっき屋根裏部屋から見た庭先の光景。
母と英二と並んで立って話していた、その場所は父の造ったベンチの前だった。
そういうことなの英二?気づいた英二の想いに心が温かい、そっと周太は母に確認した。

「…英二、…俺がお母さんには相談できないって、解っていて、先にお母さんに訊いてくれた、のかな?…それも、お父さんのベンチの前で」

「そうね、きっと彼なら、そういう考え方をするでしょうね?英二くん真面目だから。
 きっとね、お父さんの気配が見ている前を選びたかった。
 そうしてお母さん一人で決断するのじゃなくて、お父さんの代弁者にお母さんをしてくれたのだと思うわ」

どうして、英二?
どうしていつもそんなふうに、俺のことを解ってくれているの?
どうしていつもこんなにも誰のことも受け留めて、やさしく笑うことが出来るの?

「…っ、えいじ…」

こんな美しいひと、自分は他に知らない。
そんなにも美しいひとが自分だけを求めて想いを懸けて、想い込めて約束の花束を贈ってくれた。
母を見つめる視界に涙の紗がかかっていく、そして温かな滴が頬こぼれて落ちていく。
そう見つめる母の頬にも一滴きれいな光の跡がきらめいてこぼれた。

「ね、周?…あなた本当に幸せね?…だから周太、必ずあなたは、英二くんを幸せにするの。
 それがね、きっと一番の彼にとっての贈り物。
 そして、ふたりが一緒に幸せになることが、お父さんにも一番の幸せ。もちろん私にとっても、ね?」

どうしたらいいの?
自分に与えられている現実が幸せで途惑ってしまう。
ほんとうに自分は幸せで、そして父と母の想いが切なくて、温かくて。

…生きていて、よかった…

この想いが温かい、そしてこの想いを絶対に忘れたくない。
いま1月の上旬、この半年後には本配属が決まって自分は運命が動くだろう。
そのときには辛い道を生き抜かなくてはならない、そのとき今日この想いが自分を支えてくれるはず。
どうか決して忘れないように―そんな想いに周太は微笑んで、母に告げた

「…はい。お母さん、そして、お父さん…ありがとうございます…」

この家に生まれて、よかった。
この父と母の子に生まれて、よかった。
この場所に自分として生まれたから、自分はあの美しいひとから愛される幸せを得られた。
この得難い幸せだけ見つめて信じて生きていきたい。そうして困難も乗り越えて、あの美しいひとを幸せにしたい。

そのための勇気も決意も、自分はもう抱いている。
そんな想いに周太は、きれいに笑って母に言った。

「お母さん、お昼ごはんにしよう?…サラダちょっと工夫したんだ。デザートもね、簡単だけど作ったよ」
「うれしいな、周の作ってくれる甘いもの、おいしいのよね」

そんなふうに話しながら浴室から廊下へと出た。
並んで歩く廊下にふる冬の陽があたたかい、そして心にも温もりは充ちている。
きっと自分はもう大丈夫、そっと周太は微笑んだ。
そんな想いで台所の扉を開けると、大きな窓辺から外を眺めて英二が佇んでいた。

「周太、」

振り向いてくれる笑顔が心から幸せそうに咲いてくれる。
この笑顔のために自分は、どんな時どんな場所でも生きていこう?
そんな覚悟と決意がさり気なく心にことりと座って、きれいに周太は笑った。

「英二?…お待たせして、ごめんね。お昼ご飯にしよう?」



(to be continued)

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第31話 春兆act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-01-09 22:58:14 | 陽はまた昇るanother,side story
とくべつの意味、




第31話 春兆act.1―another,side story「陽はまた昇る」

車窓から見えるビル群の頂は青空がまぶしい。
北西の空も晴れていた、その空の様子がうれしくてほっと息ついて周太は微笑んだ。
今朝の当番勤務中に眺めた時の北西の空は薄く曇っていた、それが幾分の不安とその不安を超える勇気をそっと起こしていた。
けれど午前6時半すぎ届いたメールの送信人名が信頼と安心を温めて、やさしい安堵の吐息をくれている。
だからきっと予定通りに着いているはず、ちいさく呟いて周太は微笑んだ。

「…ん、だいじょうぶ」

だいじょうぶ、英二はもう新宿駅に着いているだろう。
それより問題なのは今の自分の状況のほう、周太はすこし困って目だけ動かして考え込んだ。
今日は年始の金曜日でお昼前、しかも新宿方向だからか車内が混み合っている。

…遅れるってメール、送りたいけれど…携帯なんて、とても出せない

どうも「初売り」とやらがある為に人出が動いているらしい、そんな会話が体を押してくる人達から聞こえてくる。
こんな人ごみで下手に手を動かしたら痴漢だと間違われるかもしれない、それは今の警察官の制服姿では本当に困ってしまう。
こんなとき背がもっと高かったら体ももう少し自由が効いて、メール送ったりできるのかな。ちょっとため息を吐いて周太は困り果てた。
今日の射撃特練は予想外に時間がかかった、そのせいで予定が狂ってしまった。

昨日は当番勤務で新宿東口交番での泊まり込みだった。
その明けの今朝8時に新宿署独身寮へ戻って風呂を済ませて、また制服を着て。
そして朝食後にまたすぐ新木場の術科センターでの射撃特別訓練員の練習に参加してきた。
いつもなら午前の訓練は11時前には終わって11:45には新宿に戻れる、だから12時の待合せで大丈夫だと思っていた。
けれど今日は違っていた、「2月の警視庁大会まで1ヶ月を切ったから、弾数は1.5倍になる」そう言われ練習弾を渡された。
そして時間も1.5倍かかって、新木場を出るのが11:30前になってしまった。

…国村さんの真似が出来たら、よかったのにな

またため息をつきながら思って、そんな自分の考えに少しだけ周太は笑った。
国村は同じ年でも高卒任官だから4年先輩で、英二のアイザイレンパートナーで青梅署山岳救助隊員でいる。
そんな国村は周太と同じセンターファイアピストルの青梅署代表としてエントリーされた。
けれど国村は拳銃射撃は得意なくせに大嫌いでいる、だから練習にはいつも英二が監視役として同行している。

「周太、国村のやつな?早く終わらせたいからって、1回に2発ずつ狙撃しちゃうんだよ」
「…1回分の的に、2回撃つってこと?」

「そうなんだよ周太。それでさ、俺より弾数が倍くらいあるくせにね、俺より先に終わっちゃうんだ。
 だから毎回さ、武蔵野署の指導員に注意されるんだよ。でもあいつ、早く終わらせたい気分の時はやっちゃうんだよな。
 だから俺が平謝りするんだよ、笑い堪えながらね。でもね周太、安本さんがフォローしてくれるから、すごく助かってるんだ」

安本は周太の父の同期で、父を殺害した犯人を逮捕して更生させてくれた。今は武蔵野署で事情聴取と射撃の指導員をしている。
武蔵野署射撃訓練場は奥多摩地域の訓練場になっているから、英二と国村は週2回は通っているらしい。
なんだか国村らしく英二らしくて可笑しいな、そんなふうに聴きながらも周太は気になって訊いた。

「あの、1回の的に2発ずつ狙撃していたらね?…ふつうの狙撃とは装填のタイミングがずれる。どうしている?」
「うん?狙撃の合間に装弾しているよ。周太もそうだろ?」
「ん、…実戦を意識すると、そうなるんだけど…」

実戦を意識すると装弾は狙撃合間にバラ弾で補充するようになる。
英二がそうしていることは周太も知っていた、英二の射撃は周太からもコツを教わっているから。
けれど国村は「山」が一番だし拳銃は大嫌いと言っている、だから実戦を意識した射撃訓練をするのは意外だった。
それなのになぜ実戦風の装弾に手馴れているのだろう?そう思っている周太に英二は教えてくれた。

「国村のやつな、クマ撃ちでもあるんだよ。
 周太、クマ撃ちの装弾は素早くやらないと、ほんとうに命に関わっちゃうんだ。
 野外での狙撃は立木は邪魔だし風も吹くから外しやすいだろ?でも、クマは待ってくれないし、襲われたら一溜まりもないからね」

「…あ、…そう、か」

答えを聴いて周太は少し自分が恥ずかしかった。
周太はこれから父の軌跡を辿る進路の中で、実戦にも遭遇する可能性がある。でもそれは今後の話でいる。
けれど国村は奥多摩の農家として、クマとの共存の中で既に現場での射撃を行っている。
狙撃の相手は人間だけじゃない、むしろ自然の中で狙撃するほうが条件が不確定な分だけ難易度は高くなる。
そんな中で銃を扱ってきた国村は自分よりよほど技術があって当然だろう、そっと周太はため息を吐いて訊いてみた。

「国村さん、速撃ちのときも…2発ずつ撃ってる?」

遅撃ちは精密射撃ともいい、5分間の制限時間内に5発撃ちを4回だから、1発あたりの時間は15秒。
そして速撃ちは速射ともいい、7秒ごとに3秒間現われる標的を1発ずつ5回で、1発当たりの時間は3秒。
速撃ちは遅撃ちの1/5の時間、だから遅撃ちでは腕を45度下に一旦向けて休ませるけれど、速撃ちになれば構え直す時間も無い。
そしてもし速撃ちで狙撃合間に装弾するなら、4秒~5秒間で装弾完了しないと狙撃に間に合わない。
それでも2発撃っているなら、相当の集中力と手捌きのスピードを持っていることになる。

「うん、周太。あいつね、速撃ちのときも2発ずつ撃ってるよ。標的がクマだとしたら当然だろ?だってさ」

そんな答えを想定していた、けれどやっぱり衝撃だった。
そして山岳地域で暮らすことの厳しさが、そんな国村の姿勢に伺えて素直にすごいなと思えてしまう。
国村が生まれ育ち英二が憧れて生きる拠点に選んだ奥多摩、東京随一の山岳地域。
その場所に生きる人達の向き合うものは「自然」なのだと実感させられる。そんな大らかで峻厳で明るい逞しさが素敵だと思えた。

だから今日も訓練の時、ちょっと国村が羨ましくなった。
だって自分も国村のように2発ずつ狙撃が出来たら、今日も待ち合わせに遅れずに済んだだろう。
けれど自分は元から本当は射撃なんて向いていない、ここまで必死の努力で頑張っただけでいる。
なにより自分の性格ではきっと、そんな規格外に自由な狙撃は出来ないだろう。
そんな高望みしても仕方ない、それに自分にはきっともっと向いている道がある。

  全て終わったら、ほんとうに周太の生きたい道がわかるよ
  周太は一途だから、今はまだ他のこと考えられないだろう?
  でも大丈夫、全て終わったら周太なら、きっと見つけられる。俺はね、そう信じているよ

クリスマスの日の実家の台所で、英二はこんなふうに言ってくれた。
父の軌跡を追って父の想いを受け留める「全て」が終わったら、自分の道がきっと見つけられる。
そう自分は信じている、そして愛している人も自分を信じてくれている。
だからもう妬まない、羨ましくなっても大丈夫、だって自分を信じて支えて愛してくれている人がいる。
こんな想いは幸せで温かい、そっと微笑んで周太は心で想う人へと呼びかけた。

…ね、英二?…俺でも英二のために生きられて、俺にならできること、きっとあるよね?

きっと大丈夫、微笑んで車窓を見たとき軽い振動に電車が止まった。
扉が開いてたくさんの人が降りていく、人波に浚われる様に周太も新宿駅のホームに降りた。
ほっと息ついて左腕のクライマーウォッチを見ると12時過ぎている、すっかり約束に遅れてしまった。
このまま待ち合わせ場所に顔を出そうか?そう南口へと歩きかけて周太は立ち止まって自分の袖口を見つめた。
袖口は紺色で警察官の活動服をいま着ている、そしてホルスターには拳銃が収めれられている。

  周太はね、豊かな感受性が素敵だよ?そして穏やかで純粋なやさしさが、本当にきれいだ
  そんな周太の掌にはね、拳銃なんか似合わない
  もっと美しいことに使うことが似合う掌だよ

クリスマスの日の台所で英二は周太に、そんなふうに言ってくれた。
そしていつも「台所に立つエプロン姿が好きだ」と微笑んで、きれいに笑って見つめてくれる。
そんなふうに言われる「台所でのエプロン姿」は素顔のままでいる時の自分だろう。
だからやっぱり、この警察官の姿のままで英二に会うことは今日はしたくない。
だって今日は新年になって初めて英二と会う日。

…それに、婚約者になってから、待ち合せるのも初めての日

そっと左腕の時計の、紺青色のフレームを周太はやさしく撫でた。この時計は英二が大切に使っていたものだった。
英二が大切にしている時計だから欲しかった、そして周太は英二に時計を贈った代わりに望んで英二の手で左腕に嵌めてもらった。

 「その英二の腕時計を、俺にください。
  そして英二は、俺の贈った時計を、ずっと嵌めていて?
  そうして英二のこれからの時間も、…全部を、俺にください。そして一緒にいさせて?」

そんなふうに想いを告げて腕時計の交換を周太は求めてしまった。
それに英二は応えて腕時計を交換してくれた。
そして英二は「これは婚約だよ、もちろん俺の答えはYesだよ」そう言って、以来ずっと周太のことを「婚約者」と呼んでくれる。

やっぱり着替えて、素顔の自分のままで会いたい。
それは少しでも早く逢いたい、クリスマスの翌日に別れた瞬間からずっと逢いたかった。
けれど英二には素顔の自分を見つめてほしい、いちばん好きと言ってくれる素顔の自分で逢いたい。
西口へと向きを変えて歩きながら周太は、携帯を開くと着信履歴から通話に繋いだ。

「周太、おつかれさま」

すぐに繋がって応えてくれる、きれいな低い声がやさしくて温かい。
やっぱり大好きな声、ほんとうに早く逢いたい大好きなひと。
なのに待たせてしまったことが申し訳なくて、よけいに急いで歩きながら周太は謝った。

「ごめん英二。俺、遅くなった…いま新宿に着いたんだ」
「じゃあさ、周太?寮の近くの街路樹で待合わせしよう。20分くらい後に着くけどいい?」

やさしい英二、こんなふうに気遣って迎えに来てくれる。
改札を抜けてすこし早足に歩きながらも、やさしい婚約者が嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん。…ありがとう、英二。急いで仕度する」
「周太、早く逢いたいな。でも焦らなくていい、気をつけておいで?」

短い会話のあとで携帯を閉じると周太は制帽を脱いだ、そして携帯をきちんとしまうと新宿署へと走り出した。
制帽を被って警察官の制服姿で走ったら、周りの人達は事件だと驚くだろう。
けれど制帽を脱いでしまえば威圧感が減るし、警備員ふうに見えなくもない、おかげで振り向く人はあまりいなかった。
すぐに新宿署近くに着いて制帽を被りなおすと、歩いて警察署の中へと周太は入った。
そして携行品の返却を済ませて独身寮へと戻ると、周太は急いで制服を脱いで用意しておいた私服に着替えた。

ざっくり編まれたVネックの白いニットはクリスマスに英二が贈ってくれた。
あの日いつもの店で「周太は白が似合うから」と言って選んでくれた、袖口と裾と襟元にきれいなブルーの刺繍が入っている。
いま履いている細身のキャラメル色のカラージーンズも英二が前に買ってくれたもの。
ダッフルコートもマフラーもそう、どれも周太の服は英二のセレクトで贈られたものばかりになっている。

…いつも、こんなに悪いな…どうしたらいいの?

そう途惑うけれど慣れていなくて、どうしていいのかなんて周太には解らない。
母にも訊いてみたけれど「男の人って服を贈りたがるタイプもあるのよ。喜んで着てあげて?」なんて笑っている。
たしかに母の言う通りで、着ていると英二は喜んでくれるから着ないわけにもいかない。
それに自分も英二の選んだ想いと、選んでくれていた時の様子の記憶がうれしいと思ってしまう。

…でも、お金とか大丈夫なのかな?

同じ大卒の同期で卒業配置期間だから、給与もまだ同額のはず。
同じように寮暮らしだけれど英二の場合、奥多摩の生活ではお金をほとんど使っていないらしい。
勤務先の御岳駐在周辺は店も少ないから所長夫人が昼食を出してくれると言っていた。
本来の真面目な性質のまま今は生活する英二は、遊ぶことは国村や藤岡と河原で飲むくらいでいる。
あとは勉強の本を買うくらいで普段お金を使う必要は少ない。

…けれど冬山シーズンの登山装備を買い揃えたり…英二は物入りじゃないのかな

周太は幼い頃に父と冬山に登ったことがある。
そのとき冬山用の装備を買いに行った記憶がある、本格的な装備は全部そろえると30万円くらいになると言っていた。
その金額は今の給料の1ヶ月分を超えてしまうだろう、英二は大丈夫だろうか?すこし心配になってしまう。

「…こんやくしゃなら、そういう心配しても…おこがましくないよ、ね?」

着替えながら呟いて周太は赤くなってしまった。
たぶんきっと、おこがましくはないだろう。けれどこんな心配までするなんて、なんだかほんとうにおくさんみたい。
こんなこと考えていると気恥ずかしくて困ってくる、早く支度して行かないといけないのに。
早く行かないと。急いでコートを羽織って用意しておいた鞄とマフラーを持つと、周太は部屋の扉を開けて廊下に出た。
もう外泊申請は提出してあるけれど担当窓口に一声かけて、それから寮の出入口の階段を降りていく。

通りへ出ると青空がきれいだった。
その空に今朝4時ごろの夜明け前の空模様を思いだして周太は小さく息をついた。
今朝4時ごろは北西の空に雲の気配があった。奥多摩は雪だろうか?今日の英二は早朝に登山訓練の予定だったから心配だった。
今日明日と新年の休暇を周太と過ごしてくれるために、英二は今日の午前中に登山訓練と射撃訓練を済ませてくれた。
きっと疲れているだろう、なるべく午後はゆっくりさせてあげたいな。そう思いながら待ち合わせの街路樹を見あげた。
見あげる梢は常緑の葉がきれいな艶に冬の陽に映えている、きれいだなと微笑んで、ふと気配を感じて周太は振り向いた。

振向いた視線の先、ブラックグレーのコート姿が歩いてくる。
きれいな髪かすかな冬の風に揺らしながら歩く、考え事するような目は穏やかで白皙の頬がまた少し大人びていた。
冬と春の花々の大きな花束を提げて歩く端正な長身の姿は、明るい冬の陽光のなかで華やいで惹きつけられてしまう。
こんなに、きれいなひとが自分の婚約者。気恥ずかしくて、けれど幸せで周太は微笑んで名前を読んだ。

「英二、」

名前を呼ばれて、きれいな切長い目が見つめてくれる。
ここにいるよ?そう首傾げて微笑み返すと、端正な白皙の貌に華やかな笑顔が咲いた。

「周太、」

名前を呼んで隣に来てくれる。
名前を呼ばれて幸せで見上げると、英二は抱えた花束ごと周太をそっと抱きしめてくれた。
花束から穏やかな花の香が周太の頬にふれる、クリスマスの日もこうして花束と一緒に抱きしめられた。
そのときの切ない記憶が心にふれて周太は、ゆっくりと瞳を瞬いた。

素直な想いのままに英二は奥多摩での日々を生きている。
山岳救助に立つ警察官の誇りと山に生きる想いは、本来英二が持っていると才能と人間性を輝かせ始めた。
そして英二はトップクライマーの国村と出会い、アイザイレンパートナーに望まれて最高峰への美しい夢に生き始めた。
そんな英二は大人の男として山ヤとして美しくなった、だから自分は迷い始めていた。
美しい英二には自分の隣より相応しい場所があるかもしれない?そんな迷いと悲しみが痛くて苦しかった。
愛する唯ひとりの人だからこそ、本当に幸せになってほしくて迷ってしまった。
けれどクリスマスの日に駅のコンコースで、花束と一緒に英二に抱きしめられたキスに想い知らされた。

―もし運命があるなら、この美しいひとが「運命」

そんな静かな確信と決意が、心の深い哀しみも痛みも呑みこんでしまった。
運命なら従えばいい、真直ぐ向けてくれる英二の美しい想いだけ信じて、ただ自分は見つめればいい。
花の香の翳に重ねてくれた熱い唇の想い。こんなに美しい想いを伝えてくれるひとは自分こそが守りたい。
これからも自責は痛み自分は苦しむだろう、それでも英二の求めに応えたいと願っている。
だからあの日に自分から望んでクライマーウォッチを交換してもらった。
英二の時間を受けとる願いを告げて、生涯の約束を結んでもう逃げないと、心に「決意」を刻んだ。

…もう、逃げないよ?英二…

ゆっくり瞳を瞬いて周太は、いま抱きしめてくれる英二に微笑んだ。
すこしだけ体を傾けると英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「逢いたかった、周太」

きれいに笑って英二は抱えた花束の翳で、静かに周太にキスをした。
ふれてくれる唇は熱いのに穏やかで、やさしい静謐と心からの想いが温かい。
うれしくて幸せな想い、頬にふれる冬と春の花の香が迎える季節に重ねる想いを予兆させる。
きっと冬山に心配して春の訪れに安らいで、それから美しい山の季節たちを一緒に見たいと願ってしまう。
この愛する人が幸せに輝くその姿を自分も一緒に見つめていきたい、そんな願いが静かに心にふりつもる。

― きみを愛している 幸せは、きみと一緒にしか見つけられない

自分の幸せはきっと、あなたの姿に見つめられるよ?
だっていつも自分はずっと、あなたを見つめてきた、出会った日からあなたばかりを。
そしてあなたの隣で過ごした日々に孤独は崩れ落ちて、あかるい光が自分を照らしてくれた。
いま自分の前にはいつも、あなたの笑顔がきれいに咲いてくれる。そんな自分の周りには気がつけば、笑顔の人達もいてくれる。

…あなたがいたから、英二…自分は笑って生きることをね、想いだせた

だからきみを愛してしまう。
だからこんな自分は幸せはもう、きみと一緒にしか見つけられない。
だからずっと隣にいて?そんな想いを遺しながら静かに熱い唇が離れていく。
離れていく熱、残される花の香。今また心刻まれた「決意」に静かに周太は微笑みながら、素直に謝った。

「…英二、遅くなってごめんね?特練が長引いたんだ、…もっと早く終わると思ったんだ、俺」

見上げて謝る自分を切長い目が優しく見つめて微笑んでくれる。
そんな謝らなくていいのに?そう目で言いながら英二は周太の右掌をとって笑ってくれた。

「うん、周太。早く逢いたかったから、ちょっと寂しかったな。でも俺もね、電車の時間あぶなかったんだ」
「そうなの?」

話しながら英二は周太の右掌を自分の左掌と繋いで、自分のコートのポケットにしまい込んだ。
繋がれた掌がうれしい、けれどここは新宿警察署の傍で誰かに見られるかもしれない場所でいる。
誰かに見られてしまったら何て言われるのだろう?そんな想いに周太は1つ瞳を瞬いた。
そんな周太の顔を隣から英二が覗きこんだ。

「周太?やっぱここだと困る?」

やっぱここだと困る?
そうかもしれない、困るかもしれない。もし誰かに見られたら?
けれどこうも思ってしまう「もし見られたらそれでも構わない」それで何か言われてもいい。
だってこの愛する人と手を繋げること、本当は得難いことだと知っている。

このひとは雪山の世界にもう立っている、そして再来週には冬の富士山に3日も過ごす。
きっと無事に帰ってくると信じている、願っている祈っている、絶対に帰ってきてほしい。
けれどどんなに約束したって人はもし、それが「運命」ならもう、帰れないことがあることも知っている。
13年前あの春の夜に、父がもう帰って来られなかったように。

だから今こうして、隣に立って手を繋げること。
この幸せを手放す事なんて自分には出来ない、だって次がある保証なんて誰がしてくれるの?
必ず帰ってきてくれる、いつもそう信じている。それでも今こうして繋がれた幸せがあるのなら掴んでいたい。
いまこうして繋がれている人こそが自分の「運命」なのだから。

この美しい人こそ自分の「運命」だから、だから運命なら従えばいい。
こうして真直ぐ向けてくれる美しい想いだけ信じて、ただ自分は見つめればいい。
いま繋いでくれた掌の温もりと見上げる目へと微笑んで、ただ見つめて周太は答えた。

「ん、…見られたら困る、かも…でもね、俺も手を繋ぎたかったから…うれしい」

気恥ずかしい、けれど周太は答えて微笑んだ。
そんな周太にきれいに笑って、そっと左掌に繋いだ周太の右掌をやわらかく英二は握りこんでくれる。

「ありがとう、俺の婚約者さん。そういうのってさ、ほんと俺、うれしいよ」
「ん…俺もね…ほんとうはいつも英二のね、うれしいんだ。…あとね英二、今朝のメール。写真きれいだった、ありがとう…今朝も早かった?」
「うん、今朝は3時かな?でも昨夜早く寝たから大丈夫だよ、周太」

昨夜早く寝たと言ってくれる、けれど自分との電話を切ったのは21時半でしょう?
それからきっと勉強をして本を読んで、それから寝たのでしょう?
どんなに長くてもきっと英二の睡眠時間は4時間もない、それが自分には解る。
どうにかして昼寝の時間を作ってあげたいな。話ながら改札を通って山手線のホームへ立った。

「あ、…昼ごはんだけど、途中でパン屋に寄ってもいい?あとはね、簡単なスープ作るつもりだけど…足りないかな?」
「大丈夫だよ、周太。周太こそ疲れただろ?夕飯とかも簡単でいいよ?」

そうはいかないよ?
そんなふうに心でつぶやいて周太は隣を見あげた。
だって年明けの新年初めての帰省でいる、やっぱり年初めの祝い膳を整えて出してあげたい。
電車に乗り込んで扉が閉まると周太は隣を見上げて微笑んだ。

「夕飯はね、おせち料理を簡単だけどするから…だから買い物とか、つきあってくれる?」
「周太、作ってくれるんだ?」

きれいな笑顔が隣に咲いた。
ほらやっぱり喜んでくれる、きっと喜んでくれると思ったんだよ?
でも本来はお節料理は3日かける、今回は時間がずっと少ないから簡単になるけれど。
でも喜んでもらえたらいいな。そんな想いで見つめる英二が楽しそうに笑いかけてくれる。

「うれしいよ、買い物はいったん帰ってからにする?」
「ん。…あの、母がね?今日もまた温泉に行くらしい…だから途中まで送りがてら、買い物行こうかなって」

言いながら周太は首筋を少し赤らめてしまった。
だって心の準備があまりできていない、また2人きりで夜を過ごすことになるなんて。
この温泉旅行を母が知らせてくれたのは今日の当番勤務明けだった。

「あのね、周。お母さん今日は午後から温泉行くからね?お留守番またお願いね」
「…え、でもお母さん、俺、今夜はお節料理つくるのに…一緒に食べないの?」
「あら素敵ね、英二くん喜ぶね?じゃあ、私の分とっておいてくれるかな?明日の夜に帰ってきてから食べさせてもらうね?」
「明日の帰り、遅いの?」
「うん、ちょっと観光も楽しいとこみたいでね?ゆっくりお正月の温泉旅行させてくれるかな?」

そんなふうに母にねだられて、もう何も言えるわけがない。
最近は母はすっかり温泉旅行に行く癖がついてしまった、そんな自由に楽しんでくれる笑顔は嬉しい。
けれどこんなにも母と離れていることは今までに周太には無かった。ずっと母子二人きりで肩寄せあっていたから。

…これが、親離れ子離れ、っていうのかな

いつかしなくては、いけないことだろう。
そしてたぶん自分たち親子は、かなり遅い時期での「親離れ子離れ」なのだろうとも思う。
やっぱりすこし寂しい、けれど自分も23歳になって社会人で警察官にすらなった。
あまり母にくっついてばかりもいられない、男だし、大人なのだから。

…それに、英二と2人きりなのも…はずかしいけどうれしいなともおもうんだしやっぱり

「うん、送りにいこう。ね、周太?今夜2人きりだね。俺はさ、うれしいけど?」

微笑んで周太の顔を覗きこむと、きれいに笑って英二は花束を抱えなおした。
そして左掌にくるんだ周太の右掌を大切に握ってくれる。
考えていたことを見抜かれたように言われて余計恥ずかしい、それでも周太は俯きながら答えた。

「ん、…はずかしくなるそんないいかた…でも、…一緒はうれしい、な」
「素直でいいね、周太。お、品川に着くな。乗換だね、周太?」

手を繋いだまま乗り換えのために電車を降りて、東海道線へ乗り込んだ。
すこし混んでいる車内でまた窓際に立って、車窓を眺めながら周太はふと訊いてみた。

「ね、英二?…今日の花束は、いつもより大きいね?」
「うん?そうだね周太、ちょっと大きいかな?こういう花束、周太は好き?」

訊かれて周太は顔の横にある花束を覗きこんだ。
冬と春の花々が可憐な香をおくってくれる。あわい赤にクリームカラー、白い花のトーンが可愛らしい。
でもよく見ると花束は半分ずつで印象がどこか違っている、もう片側は薄紅や藤色などが落ち着いた雰囲気がきれいだった。
半分ずつ雰囲気をかえた花束なんて珍しいな、冬ばらやチューリップに大輪のカーネーションを見、周太は微笑んだ。

「ん、…きれいでいいね…白い花のあたりとか俺はね、すきだな」
「そっか、白い花は周太、似合うね?かわいい周太、俺、白い服の周太って好きだな。特に夜の白いシャツ」
「…あんまりそういうことこんなとこでいわないでよ…ほんとにおれこまってしまうしあかくなってこまるし」

そう俯いた周太の首筋に、ふっと熱がふれて素早く離れた。
なんだろう?不思議で見上げた隣から嬉しそうに英二が笑った。

「今日の周太、白いニットかわいい。やっぱり白が似合うな、周太。白い襟に赤くなった首筋がね、今すごく可愛かったよ、周太?」
「…え、あの…そう?…このニット、ん、…おれもすきだけど」

こんなに喜んでくれるなんて着て来た甲斐があるかな?
そんな想いで気恥ずかしく想いながら答えると、幸せそうに微笑んで英二が花束の翳でそっと周太にささやいた。

「だってね周太、あんまり可愛いからさ?俺、つい首筋にキスしちゃったよ」

さっき俯いたとき熱がふれた。
それのこと?それが熱がキスだった?
それって英二がキスしたときの感触だった、そういうこと?
そう途惑っている周太の右掌が、コートのポケットの中で優しく握られた。

「ほら、周太?川崎に着いたよ。家に帰ろう?周太」

開いた扉へと繋いだ掌のまま降りてくれる。
そんなふうに手を曳かれながら周太は今言われた言葉から離れられない。
だってほんとうに幸せな言葉じゃないのかな?

― 家に帰ろう?

こんなふうに一緒に家に帰り続けたいな。
ずっと一緒に生きて同じ場所を帰る場所にして、毎日の朝と夜を隣で過ごして。
そんなことを想いながら買い物を済ませて、実家の門を潜って英二が父の合鍵で玄関を開けてくれた。
そして一足先に玄関へ入ると振向いて周太に微笑んだ。

「お帰り、周太。ほら、」

家に帰ろう?一緒に帰ろう。
そして自分を迎えて抱きしめて?そして幸せと笑顔と温かい時間と記憶を一緒に作って。
ずっと自分はひとりで玄関を開けていた、けれど今はもう迎えてくれる人がいる。
うれしくて幸せで英二に周太は抱きついた。

「英二、…ただい、ま、」

抱きついたブラックグレーのコートは、胸も背中も温かい。
抱きしめてくれる腕が力強くて温かくて、おだやかな安らぎが幸せで。
そう抱きしめてくれながら英二は微笑んでくれる。

「うん、お帰り周太。こういうのってさ、うれしいよ?」
「ん、…俺ね、…お帰りって言ってもらうの、うれしい…ほんとうは、クリスマスの時も…だきつきたかったんだはずかしいけど」

ほんとうは抱きつきたかった、あのときも。
けれど何だか気恥ずかしくて涙もとまらなくて、何より急なことで嬉しすぎて竦んでしまった。
でも今日は抱きつけて嬉しい。そんな周太に英二は額に額をつけて瞳見つめながら、きれいに笑いかけてくれる。

「もっと抱きついてよ?周太。今だって俺さ、ちゃんと周太を抱きとめられただろ?俺はね、いつだって周太を抱きとめるよ」
「ん、…うれしい、な」

どうかいつも抱きとめて?
だからどうかずっと無事に帰ってきてね、自分の隣に。
いま着ているコートは冬である証拠、この季節の美しさと冷厳な掟が想われてしまう。
けれど信じて待っているから帰ってきて抱きとめて?そんな想いに周太はそっと英二を抱きしめた。
抱きしめたまま見上げると、すこしおどけたように英二が周太の顔を覗きこんだ。

「あのな、周太。お母さん、先にもう帰っているみたいなんだけど?」
「…え、」

驚いて見た玄関先には華奢な靴が端正に揃っている。
きっと母はこの様子に気がついているよね?気恥ずかしさに首筋が熱くなってくる。
たぶんリビングの扉の向こうで母は楽しそうに笑っているだろう。
そんな気配へ向かって英二が楽しそうに声をかけた。

「ただいま、お母さん」

掛けた声に呼応するようステンドグラスが嵌められたオーク材の扉が開けられる。
そして重厚だけれど繊細な扉の向こうから現れた、快活な黒目がちの瞳が微笑んだ。
可笑しそうに笑って首傾げながら母が見つめてくれる。

「お帰りなさい、ふたりとも。ね、周?お母さんたら、タイミング悪くてごめんね?」
「ん、…ただいま、お母さん。迎えてもらってね、うれしいよ…すごくいまはずかしいんだけれど、ね」

見つめられて周太は首筋から頬まで赤さを昇らせながら、それでも気恥ずかしげに微笑んだ。
そんな周太に母は温かな微笑みで瞳を見つめくれる。

「うん、ごめんね周?あのね、お母さん少し早く帰れたから簡単だけどスープ作ったの。たまにはお母さんの料理も良いでしょ?」

母はエプロン姿で佇んでいる、今まで台所に立っていたのだろう。
たまにはなんて自嘲しないでいいのに?けれど母の気遣いが嬉しくて温かい。微笑んで周太は答えた。

「ん。ありがとう、お母さん…俺ね、お母さんの手料理、好きだよ?」
「よかった、でもサラダまだなの。周、お願いしてもいい?」
「ん、」

サラダの支度しながら夕飯の支度もしようかな。
靴を脱ぎながら周太は台所の手順を考えた、きんとんに使うさつまいもをサラダにも使おうかな?
そう考え事しながら脱いだコートを持つと靴を揃えようとして、英二がまだ玄関先にいることに気がついた。
そして靴を脱がずに玄関先から英二は、母を真直ぐに見て笑いかけた。

「お母さん。庭のことで俺、聴きたいことがあるんです。いま教えてもらえますか?」
「ええ。今なら庭も陽射しが暖かいものね?周、ちょっと散歩してもいいかな?」

母も気軽に頷くとエプロンを外しながら周太に訊いてくれる。
今日は天気も良くて陽射しが暖かい、庭先ならコートを着ないでも大丈夫だろう。
そう思いながら周太は母に微笑みかけた。

「ん。その間に食事の支度しておくね…あ、庭の芝生すこし濡れていたから、サンダルじゃない方が良いよ?」
「ありがとう、周。じゃ、ちょっと英二くん借りちゃうね?」

借りちゃうって。
それでは英二が自分のものみたい、でもちょっと嬉しい?
でもやっぱり、さらっとそんなこと言われると、なんだか照れてしまうし恥ずかしい。

「…かすとかかりるとかないとおもうんだけど…でも、はい。…かえしてね」

気恥ずかしげに言うと周太は、急いで自分の靴をそろえて台所へ行ってしまった。
台所の扉を開いて閉めると2人が話す声の気配が聞こえる、たぶん恥ずかしがって逃げた自分が話題だろう。
英二は自分と同じ年なのに母と対等に話が出来る、それはどんな話題でもいつもそう。
そんな英二は大人びていて、たぶん同期の他の誰よりも大人でいるだろう。
きっと初任総合で教場に戻ったら驚かれるのかな。考えるうちに玄関扉が閉まる音がして、ホールがしんと静かになった。

…もう、行ったかな?

そっと扉を開いて様子をうかがうと誰もいない。
ちょっと息ついて周太はコートと鞄を持って2階の自室へと向かった。
扉を開くと陽射しがカーテン越しにも暖かい、馴染んだ居心地に周太は微笑んだ。
ダッフルコートを大切にハンガーに吊るすとエプロンをクロゼットから出した。

「…屋根裏部屋、カーテン開けてこようかな?」

カーテンを開けると温室のように小部屋は暖まる。
たぶん英二は疲れているはず、この部屋でのんびり昼寝でもしてくれたらいい。
小部屋に上がると周太は窓辺に立ってカーテンを開いた。

「…あ、…」

その視線の先にちょうど、庭のベンチの前に立つ2人の姿があった。
ゆるやかな冬の陽光ふる庭で、並んで立っている2人の姿はどこか切なくて、きれいだった。
いつもこんなふうに2人の並ぶ姿を見ると、周太は不思議な気持ちになってしまう。

…親子の年の差なのに、…なんだか2人は似合うのは、なぜかな…

なぜかいつもそう想ってしまう、そして不思議になる。
だって自分は知っている、母が愛している人は唯ひとり父だけ。だから再婚もせずこの家から離れない。
そして英二が愛しているのも唯ひとり自分だけ。一緒に過ごしてきた9ヶ月と少しの時間全てが確信と告げてくれる。
母と英二はそれぞれに愛する人がいる、けれど2人はなにか不思議な繋がりを持っている。そんな気がしてならない。
そんな2人を眺めながら周太は素直な想いに微笑んだ。

「…お母さん、英二…俺はね、ふたりとも大好きで、…愛しているよ?」

いま生きている人で、自分が愛している唯2人だけのひと。
この2人が自分は大好きで、そして自分を心から愛してくれる2人。
この2人は守っていきたい、そして幸せに笑ってほしい。

だからまず今は。おいしい昼食を仕度して2人に喜んでもらえたらいいな。
そんな想いに微笑んで周太はエプロンを着ながら、梯子階段を降りた。





(to be continued)

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第31話 春隣act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-01-08 23:59:51 | 陽はまた昇るside story
※後半1/5R18(露骨な表現はありませんが念のため)

想いも記憶も抱きしめて、さらって




第31話 春隣act.5―side story「陽はまた昇る」

抽斗の鍵が開かれた、周太の父の遺品「合鍵」で。
そっと英二は息をのんで、それから緩く力を入れて静かに抽斗を開いた。
乾いた軋み音と一緒にすこしずつ抽斗が動いていく、ふるい木の香と古い紙の香がどこか懐かしい。
そして開かれた抽斗を見つめて英二は、ちいさくつぶやいた。

「…日記帳?」

抽斗の中には4冊の分厚い日記帳が収められている。
どれも紺色の布張りがしっかりとした表装、ハードカバーのような特徴的で立派な作り。
そっと1冊を取出すと英二は壊さないようにページを開いた。
繰ったページに綴られる文字を見た英二の、切長い目が少し大きくなって吐息が零れこんだ。

― ラテン語、

繰っていくどのページにもラテン語で文章が綴られている。
冒頭に記される日付だけはアラビア数字で読める、けれど本文はほとんど読めない。
このラテン語の筆跡は見覚えがある、そしてこれだけ流暢にラテン語で日記を綴れるのは?
日記帳を持ったまま立ち上がると英二は書斎机の写真を見つめた。

「…お父さん、あなたの日記帳ですよね?」

このタイプの日記帳はきっと珍しい、おそらく限られた場所でしか売られていない。
そう思って英二は日記帳の一番後ろを見て、やっぱりと思った。
一番後ろにはこの日記帳のメーカー名が記されている、それは海外の文房具メーカーだった。
これを売っている店はどこだろう?そう考えてすぐにある場所がふっと思い浮かんだ。

― 大学の購買

英二は私立大学に通っていた、そこには海外の文房具も何点か置かれていた記憶がある。
そんな学生には手の出ない良品たちは教員達向けの商品として売られていた。
きっと名の通る大学ならばどこでも、そういうコーナーも設けられているだろう。
そして周太の父は相当の大学を卒業しただろう。英二は他の日記帳も取出し机の上に置くと1冊ずつ開いていった。

― ラテン語をこれだけ学べる大学は、数が少ない

周太の父は英文学科に学び、ラテン語も得意だったと周太は言っていた。
そして日記帳はどれも流麗な筆跡でラテン語が綴られている。
こんなふうに日記を書けるほどラテン語が流暢なのは、きっと普通のレベルではないだろう。
それだけ学べるほどの環境が整った大学に周太の父は在籍していた。
おそらく時折に交るローマ字綴りの大学名が周太の父の母校なのだろう。
そんな一文や断片的な単語に、なぜ?と疑問が起き上がってしまう。

なぜこんなにも博学だった男が警察官になったのだろう?きっと警察官以外の道があっただろう、なのになぜ?
しかもなぜノンキャリアで任官してしまったのか?
もし警察官になりたいならキャリアを目指す方が妥当な学歴、なのになぜだろう?

そんな疑問を抱きながら英二は日記帳の年代を遡っていった。
日記帳は13年前の4月の日付が最新だった、きっと殉職する前日の日付なのだろう。
それ以前までの毎日を周太の父は几帳面に綴っている、大体1冊が5年分くらいのペースになっていた。
そして一番下に収められていた日記帳の最初のページを開くと、ある日付と英文の綴りが目に映り込んだ。

「…やっぱり、」

つぶやいて英二は予想通りの日付と、使用言語と文面に小さくため息を吐いた。
日付は1978年4月、国立大学入学式の当日の日付だった。
周太の父親の大学入学式の日付なのだろう、この日付こそが4冊の日記帳20年間の一番最初の日付になる。
そして流麗な英文で綴られた冒頭の一文に英二は心が軋んだ、その文面は明るい希望に満ちて、だからこそ英二は哀しかった。

 I will remember this day always. I'm hopeful of success.Be ambitious.Never give up,always be hopeful.

  “決して今日を忘れない。成功を信じている。志を持て、希望を持ち続け、決してあきらめるな”

この最初の一文を書いた想いには、明るい喜びと自分の進むべき道への意志と誇りにあふれている。
そんな想いが今の英二には痛いほどわかる、男に生まれたのなら道を見つけて立つことに憧れないはずがない。
そしてその道の最初の一歩をしるせた時は、どれだけ喜びと幸福感が温かく祝福された想いか。
その全てを自分は知っている、自分も今まさに最初の一歩を記している時だから。

― きっと本当に、この道に全てを懸けて、生きる意味も誇りも見つめていた…そうですよね?

英文のページを繰っていくと思った通り、途中からラテン語と英語を交えた文章にとなっていく。
そして少しずつ日記の文章は英文からラテン語へと変わって、大学2年生の終わりにはラテン語の文章へとなった。
このころに周太の父はもう、ラテン語もマスターしたうえで英文学へと向き合い始めたのだろう。
そんな様子からも周太の父が懸けていた想いが伝わってくる。そっとため息を吐いて英二は写真の笑顔を見つめた。

「…どうして、この道を進めなかったのか…俺が、教えてもらっても良いですよね?」

英二はそっと合鍵を握りしめた。この合鍵は周太の父の遺品で今は英二の合鍵として握っている。
だからきっと?そう自然と想えてしまう ― この合鍵を自分が持ったのは、きっと周太の父の想いを自分が見つめるため。
だからこそ今日この抽斗に自分は気づかせてもらえた、そんな気がしてならない。
すこし写真に微笑みかけると英二は抽斗を閉めて鍵をかけた。
そして紺色の日記帳4冊を大切に携えるとマグカップを持って、扉を開いて書斎を後にした。

― なぜ?どうして…大学入学の春から警察学校に入る、4年の間に何があったのだろう?

考えを巡らしながら周太の部屋に入ると、まだ周太は来ていない。
ほっと息を吐くと英二は4冊の日記帳を自分の鞄に大切にしまった。
この日記帳はまだ周太にも周太の母にも知らせたくない。

― こんな想いは…今は、まだ自分だけで良い。

さっき読んだばかりの英文綴りだった冒頭の3ヶ月分、それだけでも英二の心は軋んで周太の父の想いが哀しい。
きっとあの冒頭だけでは周太の父の、その後の人生を知っている人間は誰もが辛い想いを抱えこむことになる。
あの日記帳は全てのページを読み込んでから、どうするか考えたい。
考えながら英二は姉へと短いメールを作ると送信を押した、たぶん今日中には返信をくれるだろう。

携帯を閉じるとマグカップを持って、梯子階段を上がると英二は静かにロッキングチェアーに腰かけた。
見あげる天窓からふる陽が温かい。青い空と陽射しの色を眺めながら、ゆっくりココアを啜りこんだ。
冷めかけているけれど温かな甘さが優しい、この甘さを愛していた紺色の日記帳の主を想って英二は瞑目した。

―自分の道を捨てること…俺なら、耐えられるだろうか?

きっと難しくて辛い、きっと心が欠けてしまう。
きっと自分なら周太の為だったら喜んで捨てるだろう、結局自分は周太がいちばんで周太がいない道は欲しくないから。
けれどそれ以外の理由でなんて、きっと絶対に自分の道を捨てることなんか出来やしない。
自分は山岳レスキューとして生きることに自分の道と誇りを見つめている、そのために分籍という辛い選択も惜しめなかった。

周太の父も同じように、大学入学式の春から自分の道を見つめ始めたことが日記帳に記されている。
けれど周太の父の選択の結果は「警察官」になってしまった。
どうして、なぜ、周太の父は警察官になったのだろう?― きっと答えは未読のラテン語で綴られた箇所に隠されている。
おそらく辛い答えなのだろう、だって幸せなあの冒頭の文通りの道を周太の父は生きていないから。
それを見つめることは哀しい辛い想いをする、もしかしたら警察官である自分にも疑問を持つかもしれない。
けれど。英二は瞑目する目の底に映る周太の父の笑顔に、そっと話しかけた。

― それでも俺、あなたを見つめたいです。だって俺、あなたを尊敬している

いつも笑顔でいた周太の父。
大学入学の春には考えてもいない警察官となった彼は、おそらく最も苦しい任務に立たされていた。
せめてもしキャリアで任官したのなら結末は違うはずだった、けれど現実は「殉職」という哀しい結末になった。
それでも彼は最後の瞬間をすら微笑んで、復讐に捕われかけた友人も自分を殺害した犯人すらも温かい想いに救ってしまった。
そうして遺していく息子へと温かな想いを、形見のように犯人の心と想いに遺していった。

辛い運命に追い込まれても、いつも笑顔だった男。
いつも温かな想いに駆け出して誰かを救って、それでも自分は孤独を抱いたまま斃れてしまった男。
そして遺した妻からずっと想い続けられ愛し続けられて、いつも花を供えられ微笑まれている男。
そんな男の笑顔の残像に微笑んで、英二はそっとつぶやいた。

「…俺にね、全部を受け留めさせてください。そして俺に、守らせてください」

そっと微笑んで英二は瞑目から静かに瞠らいて、ココアの残りを啜りこんだ。
ゆっくり立ち上がると英二は、飲み終わったマグカップをサイドテーブルに置いて梯子階段を降りた。
そして押入れのマットレスを出すとまた登って、天窓の陽だまりに敷いて片胡坐に座りこんだ。
温かにふる陽射しが気持ち良くて、目を細めながら天窓を流れる雲をぼんやりと見ていた。

― 岩崎さんと国村、そろそろ山かな?

今頃は奥多摩の駐在所では皆、午後の巡回へと出るころだろう。
この1月を迎えてから遭難はまだ発生していない、降雪で一般ハイカーが敬遠したからかもしれない。
今日も無事で何も起きないといいな、そんな思いめぐらす自分にちょっと英二は微笑んだ。
こんな安らかな小部屋で空を見上げながら、遠くの空の自分の職場について思いめぐらしている。
こんなにも仕事に熱心な自分がなんだか可笑しくて、そして誇らしい。

もうすっかり自分は山ヤで山岳救助隊員になっている。
そういう感覚がうれしい、ふと思いながら見た掌には固くなっている部分が出来ていた。
毎日のザイル下降やルートクライミングで出来たものだろう、もう掌から自分は変わっている。
こういう掌になっていけるのはいいな、ちょっと微笑んだとき携帯が振動して英二は画面を開いた。
開いた画面には姉からのメールが入っている、さっき英二から送ったメールへの返信だった。
やはり姉は頼りになる、ありがたいなと微笑んで御礼のメールを簡単に返信した。
そしてまた天窓を見あげて目を細めると、ぼんやりと英二は考えごとの想いへとしずみこんだ。

紺色の日記帳、紺青色の壊された本、書斎机の無い書斎 
あるべき英文原書とイタリア原書たちの行方、遺された仏文学の蔵書たち
この家の主たち3人がそれぞれ遺して行った想いの軌跡はどこにあるのだろう?

「…っん、?」

ふっと目を開いて英二は、一瞬どこで自分がどうしているか考え込んだ。
さっき座っていたはずだけれど、どうやら今は横になって寝転んでいる。
いつの間にか眠り込んで、座っていた体勢から横になってしまったのだろう。まだ陽はいくぶん明るい。
16時くらいだろうか?左腕のクライマーウォッチを見ようとして、ブランケットの存在に気がついた。
いつの間にか眠り込んだ自分にブランケットをかけてくれてある。

「…周太?」

きっと周太がかけてくれた、うれしくて英二はブランケットを抱きしめた。
こんなふうに眠っているうちに、そっと温もりでくるんでくれること。本当に幸せだと想える。
そんな想いで見た時計はやはり16時だった、夕方にさしかかる直前の明るい陽射しに英二は体を起こした。
このブランケットをかけてくれた人は、今どこにいるのだろう?
しずかに梯子階段を降りると、想った通りに小柄な姿を見つけて英二は笑いかけた。

「周太、ブランケットありがとう」

デスクの前に座っている周太が、ゆっくり振向いてくれる。
その前には冬と春の花々が咲いて、おだやかな香が英二の頬をそっと撫でた。
振向いて微笑んだ周太は持っていた鋏を置いて、立ち上がってくれた。

「ん、…よく眠っているみたいだったから…気分どう?」
「うん、すっきりしてるよ?周太、花を活けていたんだ」
「ん。たくさんあるから…いくつかに分けて活けてた」

デスクの上には大きめの花瓶と小さな花瓶が置かれている。
それぞれに淡い赤やクリームカラー、白に深紅と花々が活けられていた。
どの花も英二には見覚えがある、大切に活けてくれている様子がうれしい。幸せに笑って英二は周太を抱きしめた。

「大切にしてくれるんだね、周太?俺からの花束、喜んでくれたんだ」
「ん、…やっぱり…そのなんていうかうれしいし…あ、お腹空いてる?」

やわらかな髪から花々が香って英二は急に切なくなった。
このまま抱きしめてしまいたいな、そんな想いに抱きしめている腕が動いて小柄な体を抱き上げた。
そう抱き上げられて周太はすこし驚いて、英二の顔を覗きこむと首傾げるように訊いてくれる。

「英二?…あの、俺、自分で歩いて階段、降りるよ?…あ、お米も炊いた方が良いよね?」

そんなつもりで抱き上げたんじゃないのにな。
そう黒目がちの瞳を見かえして、けれどなんだか微笑ましくて英二は笑ってしまった。
こうして見つめる自分の婚約者は清楚で初々しい艶が色っぽい、けれど心は10歳のままでいる。
だからこんなふうに気づいてくれないし、そしてすぐ恥ずかしがって赤くなってしまう。
そんなとこ全部やっぱり好きだな、そんな想いに微笑んで額に額をつけると英二は答えた。

「うん、米もあると嬉しいな。ね、周太。このまま台所まで行こう?周太をね、抱っこしていたいよ」
「あ、…ん、炊くね…あの、だっこそんなにすきなのえいじ?」
「好きだよ?だって周太とくっついていられるだろ。周太とね、少しでも俺、近づきたいんだ」
「…ん、あの…そう、…」

周太の首筋も頬も赤く染まっていく、そんな様子も可愛くて英二はそのまま廊下に出た。
磨きこまれたフローリングに冬の陽が輝いている、落ち着いたダークブラウンの木材がこの家は多い。
落着いた木材の重厚な温かみと白に近いクリームカラーの壁紙、穏やかで静かな家の佇まい。
どこか不思議な温もりを家に感じながら英二は大切なひとを抱きかかえて、階段を降りて台所へ入った。

「これ、周太が全部を仕度したのか」

そっと周太を台所の床に立たせておろしながら、英二はテーブルの上に驚いた。
きれいな重箱を据えた周りを、祝いの席の配膳がきちんと囲んでいる。
塗の食器たちと真白な小皿には南天の緑が添えられて、そんな細やかな華やぎが正月らしい。
こんなふうに仕度できるなんてすごいな、素直に驚いて隣を見ると気恥ずかしげに周太が答えた。

「ん、…あの、簡単で申し訳ないんだけど…ごめんね、英二?」
「周太、簡単じゃないよ?すごいなって俺、驚いているんだけど。だってね周太、今日、全部を仕度したんだろ?」
「ほんとうは3日くらいかけてね、お節ってするんだ…
でも今日だけしか時間ないから、買ってきたのもあるんだ…黒豆とかちょっと煮れなくて…ごめんね?」

周太は10歳の少年のままでいる、けれど黒豆を煮れなかったことを残念がるほど熟練の台所の主もある。
なにより23歳でお節料理をきちんと作るなんて、いまどき女性にだって少ないだろう。
ほんとうにすごいのにな?そう思いながら英二は黒目がちの瞳に笑いかけた。

「ほんとうにね、周太?俺には十分すぎるくらいだよ。俺、いますごく幸せだよ?」

きれいに笑いかけて英二は周太にキスをして、そっと抱きしめた。
抱きしめる想いが幸せでひどく贅沢な気分がして、なんだか自分はずいぶんと幸運だなと思えてしまう。
こんな婚約者が隣にいてくれる、幸せで微笑んで英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
そう見つめた瞳も微笑んでくれると、うれしそうに恥ずかしげに周太が言ってくれた。

「ん、…喜んでくれて、うれしいな…口に合えばいいんだけど…あ、お米炊くね」
「ありがとう、周太。あ、なんか俺、腹減ってきたな?午前中に訓練全部やったからかな」
「すこし早いけど、食べ始める?…ごはんは30分くらいかかるけど、…お雑煮とか食べてるうちにね、炊けるよ?」

話しながら周太は米を炊く仕度を進めてくれる。
そうして手際よく米をセットすると、雑煮の支度を始めてくれた。
本当に手際よくて感心してしまうな。おとなしく椅子に座って眺めながら英二は大好きなエプロン姿に微笑んだ。

「はい、英二。お待ちどうさま…熱いから、気をつけて?」

熱い雑煮の椀を英二の前に置いてくれる。立ち昇る湯気からは、きちんと出汁をとった吸い物の香が温かい。
椀を覗きこむと醤油がふわっと芳ばしい、きれいな出汁の底には焼いていない丸餅に蕪が添えられていた。
シンプルな椀を見ながら英二は実家との違いが面白くて訊いてみた。

「ね、周太?この雑煮はさ、湯原の家に伝わるもの?」
「ん、…そう。でもね、父の記憶から母が再現したから…本当にあっているかは解らないみたい」
「ふうん、丸餅なんだ。丸餅は西日本に多いよな、周太?」
「ん。なんかね、…山口県の方から、曾祖父が移ってきたとか…言っていたかな」

そんな話をしながら向かい合って熱い椀に箸をつけた。
上品な出汁の香が良い、まろやかで旨いなと微笑んで英二は見つめてくれる人を褒めた。

「旨いよ、周太。これ何の出汁だろ?」
「ん、いりこ出汁なんだ…それと醤油でね、味付けするんだ…口に合うなら、よかった」

ひとつずつ重箱をおろして広げながら、英二の笑顔に幸せそうに周太が微笑んでくれる。
ほんとうに可愛い笑顔だな、こんな笑顔がうれしいなと思いながら英二は重箱の中を見た。
毎年に見慣れた祝料理が、どこか温かな雰囲気と端正な美しさで重箱へと納められている。
きれいな料理に心から感心しながら英二は口を開いた。

「周太、ほんとうにすごいね。今日ひとりで作ったんだろ、周太?これだけ出来るひと、少ないんじゃないのかな」
「ん、…でもね、黒豆は買ったのだよ?…数の子も塩抜きの時間が無いから、味付きの買ったし…」

ちょっと残念そうに言いながら首傾げている。そんな様子も可愛くて見つめながら英二は重箱の料理に箸を運んだ。
一品ずつを口に入れるたび、黒目がちの瞳が気になるふうに見つめてくれる。
こんなに見てくれるの嬉しいな。そう微笑んで英二は想ったままに感想を述べた。

「旨いね、周太。どれもきちんと作ってある、周太は本当に料理上手いな。俺ね、周太が作ったものがさ、いちばん好きだ」
「よかった、…英二は、どれが一番お節では好き?」
「そうだな。筑前煮と、あと周太?これ旨いね、きれいだし」
「鶏肉の信太巻、だね…気に入ってくれたなら、よかった」

嬉しそうに笑ってくれる顔を見ながら一緒に迎えた年の祝膳を囲んでいる、ごく普通の幸せな新年の食卓だろう。
けれど自分にとっては本当に得難かった、送ったばかりの去年を想うほど得難さが心に痛くなる。

去年の春から夏は見つめているだけだった。けれど想いは諦められなくて傍にいる努力を探していた。
そして出会った山岳レスキュ―の道に、自分の生きる場所も周太を守る方法も見つめて信じて青梅署へ卒配を決めた。
それから秋に告げてしまった想いを周太と重ねて、それでもまだ一緒にいられる確信は持てなくて。
そして13年前の事件と周太が向き合った。あの日もし15分間遅れていたら、きっと周太と自分は遠く隔てられていた。
そしてきっと自分はもう壊れて、孤独の底でまた人形に戻ってしまったかもしれない。

そんな秋を越えて迎えた初雪の夜に、結んでくれた「絶対の約束」が愛しくて。
その約束の想いと繋がれていく心に立った自分の夢が、クライマーウォッチの交換を周太に望ませた。
だから自分は告げてしまった「それは婚約」そして今日この家に許しを乞いに訪れて、家と本人に了解をもらうことが出来た。

この想いに初めて気づいた瞬間に、ほんとうは自分は諦めていた。
だって巻き込みたくなかった、男同士で生涯を生きる約束は「普通の幸せ」を奪ってしまうから。
それでも自分は諦められなくて卒業式の夜に想いを告げた、あの瞬間から始まって今この時間がある。
今こんな時間が夢のようにすら想うほど幸せで、ささやかな喜びがくれる幸せが温かい。

「 周太。俺はね、いま、本当に幸せなんだ。ほんとだよ?」
「ん、…そんなふうにね、言われると…はずかしいけれど、うれしい、な」
「うれしいの?」

食事を終えて片づけながら、英二は笑いかけて黒目がちの瞳を覗きこんだ。
覗きこまれて困ったような赤い顔も可愛らしい、こんなとき英二はすこし不思議にも思ってしまう。
周太は同じ男で同じ23歳でいる、けれどこんなにも自分と違っていて10歳の子供の純粋さのままでいる。
どうして周太はこんなふうに可愛らしいままでいるのだろう?

けれど警察官の顔になれば凛々しくて有能な顔になってしまうことも知っている。
そんな一面をまた2月の警視庁拳銃射撃大会では見せてくれるのだろう。
でも自分としては、やっぱりこういう可愛い素顔の周太が好きだな。
片づけを終えてエプロンを外した周太を英二は、素早く掴まえて抱きかかえた。

「…っ、英二?どうしたの?」

驚いて黒目がちの瞳おおきくなる、この顔が可愛くて好きだ。
可愛らしい婚約者がうれしくて英二は抱きかかえたまま、額に額をつけて笑いかけた。

「うん、周太。だって掴まえないとね、周太は逃げちゃうだろ?だから抱っこしたくなるよ、俺」
「…逃がさないで、どうしたいの?」

困ったような顔で訊いてくれる周太に、すこし可笑しくて英二は微笑んだ。
どうしたいのかなんて本当はたくさんありすぎる、けれど訊きたいことを今は聴こう。
黒目がちの瞳を覗きこんで英二は訊いてみた。

「まだ、結婚前です、そんなのダメ。さっき周太そう言ったよな?ね、結婚したらさ、周太は一緒に風呂に入ってくれるの?」

抱きかかえた顔が真赤になっていく。
またやりすぎたかな?すこし心配で見つめた先で小さくため息がこぼれた。
それから周太の瞳が英二を見あげて、なんとか声を小さくても押し出してくれた。

「…いつもはきっとだめ…でもたまにならしかたないかなっておもう…だってそういうものなんでしょ」
「そういうもの?」
「…いまもうだめ、これいじょうは、ね?…お願い、英二。あんまり困らせないでよ?」

お願いなんて言われたら、ちょっと弱い。
抱えたまま英二は、リビングのソファに座ると周太を下して笑いかけた。

「困らせないよ、周太。俺さ、ちゃんと一人で風呂入ってくるな。そしたら周太の部屋に先、行っていてもいい?」
「ん、いいよ…あ、飲み物、なんか用意しておこうか?」
「うん?じゃあさ、さっき買ってきたやつ。あとで一緒に飲もうよ?」

そんな会話の後で英二はおとなしく一人で風呂を済ませた。
髪を拭きながら2階へ上がって周太の部屋を開けると、ちょうど周太が梯子階段を降りてくる所だった。
その右掌に2つの封筒を持っている、たぶんそうだろうと思いながら英二は笑いかけた。

「周太。美代さんの手紙、読んでいたんだ?返事も書けた?」
「ん、この間の手紙の返事とね…2月に遊びに来てね、て。…だからね、射撃大会の後の休暇にね、てね、返事書いた」
「そっか、じゃあ俺、また預かっていって渡せばいいかな?」
「ん…お願いしていいかな?…じゃあ俺、風呂済ませてくる、ね」

きれいな白い封筒を英二に渡すと、微笑んで周太は着替えを持って下へと降りていった。
預かった封筒を英二は手帳に挟むと鞄にしまって、すこし伸びをしてからデスクを眺めた。
木造りのデスクの上には英二が贈った花が、きれいに活けられてデスクライトに輝いている。
その花びらに長い指を伸ばすと、そっと壊さないように英二はふれて微笑んだ。

「…Yes,って言ってくれたよね、周太?」

  俺は英二の子供を 産んであげられない
  けれどね 温かい家庭は 二人きりだけれど でも温かい家庭は俺でも作ってあげられるかもしれない
  そうやって俺『いつか』英二のためだけにね 生きたい そう決めているんだ だからその時が来たら湯原の姓を捨てたい
  父の想いを全てを見つめ終わってね 俺が自分の人生を歩きはじめる時 その時には俺の人生をね 英二にあげたいんだ
  そして一緒にいさせてほしい 英二だけの隣で居場所で帰ってくる場所にね 俺はなりたい

英二の求婚に周太はそう応えてくれた。
そして今日の夕食に周太はお節料理を作ってくれて、家庭の温かい新年の食卓を英二にくれた。
あんなふうに周太はもう、とっくに英二に「温かい家庭」を作ってくれている。
そんな時間がひどく幸せでうれしくて、失いたくなくて切なくて、愛しくてたまらない。

「…父の想いを全てを見つめ終わって」

周太も言っていた「周太の父の軌跡と想いを追うこと」そのために周太は危険へと立っていく。
こんどの春の初任総合の2か月が終わって、7月になれば本配属が決るだろう。
そのあとに、きっと周太は運命が動く。

「でもね、周太…俺が必ず守るよ?絶対だ」

自分こそが周太を守ろうと決めている。
周太が望むのなら自分は手を汚してもいい、そのために7月本配属と同時に自分は分籍をする。
父も母も姉も守りたい、だから分籍をして家族と断絶することで自分のリスクを及ぼさない。
そして周太を守る力を手に入れるために7月本配属後、自分は世界の高峰へ登る日々が始まっていく。

だから解っている、きっと今は平穏な時。
この平穏なうちに自分は能力も技術も身に付けなくてはいけない。
そして1日も早く最高のレスキューに近づいて、国村のアイザイレンパートナーに相応しい実力をつけたい。
けれどこの平穏な時にもう一つしたいことがある、周太と想いを重ねて幸せを積んで、周太の自信を作ってやりたい。
本配属になって危険に立った時でも、望んで周太が必ず自分を呼んで「援けて」と頼ってくれるように。

「ね、俺の婚約者さん?…ほんとにね、愛しているんだ。だから頼って甘えてよ?」

つぶやいて花へと微笑んで、廊下の気配に英二は振り返った。
そう振り向いた視線の先で扉が開くと、待っていた小柄な白いシャツ姿がトレイを持って微笑んだ。

「お待たせして、ごめんね?…花を見ていたの、英二?」
「うん、どの花がいちばん周太のイメージに合うかなって。はい、トレイ持つよ」

笑いかけて英二は周太のトレイを受けとると、ベッドサイドへと置いた。
置いたトレイの瓶を開くと2つのグラスに注いで1つを周太に渡してやる、そして並んでベッドに腰掛けて壁にもたれこんだ。
受けとったグラスに唇をつけて周太は、ひとくち飲んでほっと微笑んだ。

「ん、おいしい…花の、イメージを見ていたの?」
「うん、周太。どの花もきれいだけどさ、白いばらとか白い花が周太は似合うな。ね、周太はさ、どの花が好き?」
「…なんかはずかしくなるなんていえばいいの…でも白い花はすき…ね、英二?オレンジの味なんだね、これ、なんていうの?」

気恥ずかしげに考え込んでから周太は急にグラスを見て質問してくれた。
きっと恥ずかしくて話題を逸らしたかったのだろう、けれど質問の方がきっと照れさせる。
ちょっと楽しい予感に微笑んで英二は周太へと答えた。

「うん、ミモザって言うんだよ?オレンジジュースとスパークリングワインのカクテルなんだ」
「ミモザ?…木に咲く花の名前だね、かわいいな」

にっこり笑うと周太はグラスをそっと飲みほした。
そんな様子も可愛くて英二は自分もグラスを空けるとトレイに戻して、隣にならんで座る婚約者の瞳を覗きこんだ。
見つめられる黒目がちの瞳がすこし不思議そうに見かえしてくれる、その掌の空いたグラスを英二はそっととった。
そのままグラスをトレイに戻すとまた瞳を見つめて、きれいに笑って英二は周太に告げた。

「ミモザはね、周太。ヨーロッパでは結婚式で飲まれるカクテルなんだよ?」

結婚式、そんな言葉を聴いたとたんに黒目がちの瞳が大きくなる。
すこし大きくなる黒目がちの瞳、穏やかで繊細で10歳のまま純粋で美しい、英二を惹きつけて離さない瞳。
この瞳が大好きだ。想いの真中に見つめながら英二は、静かに周太の唇にキスをした。

「…周太、俺の、婚約者さん?…もう先にね、結婚式のお酒を飲んじゃったね?」

そっと瞳見つめて囁いて、唇に唇を重ねて白いシャツの肩を抱き寄せた。
オレンジの香と甘やかな温もり、深く重なっていく熱が愛しくて離せない。
ゆっくりと口づけを交していきながら抱きしめて、長い指の掌で白いシャツのボタンに手をかけていく。
ときおり重なる唇のはざまに吐息こぼしながら抱き寄せられて、白いシャツを絡めとられながら艶やかな素肌が晒されていく。
素肌にされる華奢で洗練された肢体を座ったまま抱きとめて、きれいに英二は笑いかけた。

「…きれいだね、周太。ね、今夜も『好きなだけ』させてくれるんだよね?」

きれいな肌をデスクライトのおだやかな光に晒されながら、英二の腕の中で途惑いがすこし俯いている。
でも躊躇わないでほしいな?そんな想いに俯いた顎を長い指で上向けさせると唇を重ねた。
重ねた温もり愛しくて、やわらかにふれる熱が理性を熔かせて際限なくさせる。
すわって抱きしめたままで英二は愛しい肌へと唇をよせて想いを刻みこんだ。

「周太、…愛している、」
「…っ、」

首筋へ、肩へ、鎖骨のくぼみ、胸元へ。
ゆるやかにキスを落としながら淡い赤の花が、きれいな艶めく肌へと次々に咲いていく。
すわったまま抱き寄せた腰、腕まわす背中が崩れそうになるのを腕で支えて英二は微笑んだ。

「ね、周太?…もう俺と婚約したよね?お願い、好きなだけ、させて…いいよね?」

やわらかな髪を英二の肩にもたせかけて、抱える腕に身をゆだねて周太が息をついた。
その吐息にオレンジの香がきれいで英二は唇を重ねた、こんな吐息すら愛しい。
そっと離れて見つめる黒目がちの瞳が、純粋なまま深く艶やかないろに見つめてくれる。
そして静かに周太の唇が開いた。

「…必ず、帰ってきてくれる?…富士山からも、毎日登る冬の山からも…俺の隣に、いつも?」
「うん、必ず帰るよ?…だってね、俺、こんなふうにね…周太のことずっと、抱きしめたいんだ」

そんな言葉と想いと一緒に英二は、抱きしめる腕の中のひとの肢体に長い指でふれた。
愛しくて欲しくて心ごと解いて熔かして、ずっと一緒にいたいと願ってしまう。
もうこんなに好きで愛している、どうかずっと自分の居場所でいてほしい。
求めて唇を重ねてふれそうな吐息かわして、そっと英二は微笑んだ。

「愛してる、周太…ね、俺のこともっと愛してよ?…そして俺の嫁さんになって、ね?」

きれいに笑いかけて、ねだってみせる。
笑いかけられて気恥ずかしそうに黒目がちの瞳が微笑んで、そして周太が答えてくれた。

「ん、…はい。…およめさんに、して?」

うれしい、きれいな笑顔が英二の顔に華やいだ。
気恥ずかしげな裸の肢体を抱きしめて、きれいな黒目がちの瞳を見つめて。
抱きしめた婚約者を白いシーツへとしずめながら、幸せそうに英二は微笑んだ。

「うん、嫁さんにする。周太?俺とね、世界一に幸せになろう?」
「…はい、」

きれいな笑顔が小さく答えた周太に咲いた。
うれしくて微笑んで周太に英二は笑いかけると、唇に唇を重ねた。
重ねた唇を深くしながら、ずっと体も心も解きあかして抱き寄せながら、想いを深く刻み込んだ。
ずっと唇で刻み続けている周太の右腕の赤い痣にも、想いのままに唇よせて刻み付ける。

愛している、幸せは君と一緒にしか、見つけられない

どうしてこんなふうに想いが強くなるのだろう?
どうしてこんなに惹かれて求めて愛してしまう?
けれど想いは穏やかな静謐が安らかで、愛しい想いが清らかで。
英二は結婚の約束と一緒に想いのひとを抱きしめて、幸せに微笑んで眠りに安らいだ。




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第31話 春隣act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-01-07 23:59:38 | 陽はまた昇るside story
遺された想い、




第31話 春隣act.4―side story「陽はまた昇る」

川崎駅まで周太の母を見送って、英二と周太は近所のスーパーマーケットを覗いた。
年明けの華やいだ空気が明るい店内で英二は、自分が押している買い物かごを乗せたカートが物珍しい。
こんなふうに買い物ってするんだな、そう眺めている英二を周太の方こそ珍しげに見つめていた。

「あの、…英二って、スーパーマーケットって、初めて来た?」
「うん、周太。そうだよ?デパ地下とかコンビニはあるけどさ、あとパン屋とか個人店。
 でもこういう店って俺ね、入ったこと無かったんだ。いま周太とが初めてだよ?…周太?なんか俺、おかしいこと言ってるかな」

なんかおかしいのかな?
そう首傾げて見る隣では黒目がちの瞳が驚いている、すこし大きくなった瞳のままで周太がまた尋ねた。

「じゃあ、英二?…英二の家では、食事の買物は、どうしているの?」
「スーパーマーケットが配達してくれるんだよ、周太。駅の近くに店があってさ。でも周太、近所もみんなそんな感じだよ?」
「…そう…お金持ちって皆、そんなふう?」

周太に訊かれて英二は驚いた。そんなふうに自分の家を考えたことが無い、それが普通だと思っていたから。
そう思ったまま素直に英二は口を開いた。

「どうなんだろ?俺んち普通だと思っていたけど、違うのかな?でも周太、奥多摩でも配達してもらう家、結構多いと思うけど」
「…奥多摩はね、英二?お店が無い地域だと、移動販売が来るのでしょ?…世田谷とはちょっと違うと思う…」

他愛ない話にお互い驚きながら、周太は手馴れた様子で会計も済ませて袋へと品物を入れていく。
こんなに入るのかなと袋と品物を見比べていると、きれいに袋へと全部が納まって英二は感心した。

「へえ、よくこの大きさにあれだけ入るな?周太って器用だね、それともこの袋なんか特別なの周太?」
「…普通のエコバッグだよ?英二、…エコバッグ知らないの?」
「エコバッグって言うんだ?うん、俺、知らなかったよ。便利で良いな、これ」

感心しながらエコバッグを持つ英二を、不思議そうに黒目がちの瞳が見つめている。
そんな顔も可愛いなと思いながら、周太の右掌を左掌にくるむと自分のコートのポケットに入れて英二は店を出た。
帰路を歩きだすと、英二は不思議そうに見上げてくれる隣へと微笑んだ。

「周太。俺ね、知らない事いっぱいあるんだ。
 だからさ、俺って周太から何でも教わっているだろ?国村にも言われたんだ、宮田って湯原くんに何でも教わってるよなあってね」

「…そう、なの?…英二って物知りだと俺、いつも感心しているんだけど…」

「うん、知っていることもあるよ。でもね、周太?
 基本的な大切なことはね、ほとんど全部を俺、周太から教わってばかりいる。俺ってね、そういうこと本当に何も知らないんだ」

ほんとうにそうだ、自分は何も知らない。そして周太にいつも教えられている。
田中の四十九日法要の前夜、四十九日の意味を教えてくれたのも周太だった。
周太のお蔭であの日も、田中の孫の秀介や国村の想いをきちんと受け留めることが出来ている。
いま山ヤの警察官で山岳レスキューとして生きていられること、それ自体が周太に教えられた大切な事達があるから。
そんな想いと通りを歩きながら英二は周太に笑いかけた。

「だからね、周太?俺ってね、ほんとに周太がいないとダメなんだ。
 だからさ、周太に早く奥さんになってほしいよ?そして俺のことたくさん教育してよ、周太。夫って妻が教育するものなんだろ?」

奥さん、妻、教育。そんな単語を英二は真昼の通りを歩きながら言った。
その隣を歩いている周太の、あわいブルーグレーのダッフルコートの襟足が真赤になっていく。
きれいな赤い首筋に気がついて、ちょっと率直に言い過ぎたかなと英二は気がついた。
どうも自分は想った通りを率直にしか言えないばかりに、周太をしょっちゅう困らせてしまう。
しまったかなと少し反省しながら、でも何て答えてくれるかも聴きたくて、英二は隣の黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「…ん、あの…はい、…でも、待たせるかと思うけど…でも、がんばります」

頬も真赤にしながら周太は答えてくれた。
自分のために頑張ってくれる、なんて嬉しいこと言ってくれるんだろう?
うれしくて微笑んで英二は、素早く周太の頬にキスをして笑った。

「うん、がんばって?俺の婚約者さん」
「…あの、…きゅうにそんなことされるとちょっと…あのうれしいんだけどでも…こころのじゅんびが、ね」
「うれしいって周太が想ってくれるとさ、俺、ほんと幸せだよ周太?…はい、帰ってきたよ」

よけいに真赤になる周太の右掌を、コートのポケットのなかで穏やかに握りながら英二は家の門を開いた。
冬の午後の陽射しが淡くオレンジ色になる庭を、ふと英二は眺めて微笑んだ。
あわいオレンジ色の光の中で咲く、真白な花の凛々とした様子が美しい。どの庭木も美しいけれど英二には、この花こそが愛しい。
そんな英二の視線に気がついて周太も一緒に花を見て微笑んだ。

「ん、…今日もね、『雪山』たくさん咲いてくれてるね…」

周太の誕生花『雪山』という名の真白な花咲かせる山茶花、これは周太の父が息子の誕生を寿いで植えた木だった。
ゆるやかに常緑の梢は空を抱いて冷たい空気に佇んでいる、濃緑の艶やかな葉にくるまれて咲く純白の姿は清らかだった。
この花木は持ち主と佇まいが似ている、どちらも愛しくて英二は微笑んだ。

「花言葉は『困難に打ち克つ』だったな。ね、周太?」
「ん、…不思議な感じ、だね…」
「なにが不思議?」

想うひとの言葉に英二は尋ねてみた。
尋ねられて周太はすこし首傾げると、空いている方の左掌を頬に当てて、ゆっくりと答え始めた。

「ん…この木は幹も細くてね、花も繊細な感じでしょ?…だからね、そういう強い言葉なのが、不思議なんだ」

たしかに『雪山』は繊細な印象の花木でいる。
けれど英二はいつも御岳山にも生えている『雪山』の木を見ている、その木を想いながら微笑んで口を開いた。

「そうだね、周太。この木は繊細な感じするな。でもね、周太?とても強い木でもあるって、俺は想うよ?」
「そう、なの?」
「うん。同じ『雪山』がさ、御岳山にもあるのを周太、見つけて俺に教えてくれただろ?
 でね、周太?その御岳山の『雪山』はさ、どんなに寒くて雪が降る日でも、きちんと花が咲いているんだ」

御岳山の『雪山』は風雪にも花を開かせる。
それを最初に見た雪ふる日の巡回で、英二は小さな驚きと納得を感じて見上げていた。
雪ふる山上で、繊細な純白の花は雪の白さにとけるように咲いていた。その花をくるむ常緑の葉も緑あざやかに佇んでいた。

「ね、周太?雪の冷たさにもね、花は落ちないんだよ。俺ね、それを初めて見た時にさ。
 周太とよく似ているって想ってね、愛しかった。繊細で純粋なままでも、厳しい寒さに真直ぐに立っている姿はさ。本当にきれいなんだ」
「…ん、そうなの?」

気恥ずかしげに周太がそっと頷いてくれる。
そんな様子が愛しくて英二は静かに体を傾けると、そっと唇に唇を重ねた。
やわらかな温もりが穏やかで愛しい、そんな想いに微笑んで離れると周太が見上げて微笑んでくれた。

「英二?…また、御岳の『雪山』にも、会いに行きたいな」

周太は植物を幼い頃から好んで、父の生前は植物標本の採集帳で植物図鑑を自作していた。
それは父親との記憶が詰まったものだった、だから殉職の日から13年間ずっと周太は目を背けしまい込んだ。
けれど11月に雲取山へ英二と登り落葉を集めると、再び採集帳を周太は開き13年ぶりに作り始めている。
そんなふうに13年間の孤独を超えて周太は、すこしずつ自分の人生を取り戻し始めた。
また植物や自然にふれる時間を作ってあげたい、きれいに笑いかけて英二は周太に提案をした。

「うん。また奥多摩に来てよ、周太?冬山は厳しいけれどね、本当にきれいなんだ。大会が終わったら来れる?」

黒目がちの瞳がうれしそうに微笑んで頷いてくれる。
頷いて楽しげに見あげてくれながら英二に訊いてくれた。

「ん、…たぶん休暇がもらえると思うんだ…でも、英二も訓練とか、あるよね?」
「登山訓練なら周太も一緒に出来るだろ?吉村先生と一緒に登るときはね、周太?参加してみたいだろ」
「あ、…それは参加したい…吉村先生にお会いしたいな、一緒させてくれる?」
「もちろん。吉村先生もね、周太に会いたがっているよ?またコーヒー淹れてほしいってさ」

話しながら手を繋いで玄関へ歩いていくと、英二は首に提げた合鍵を荷物を持ったままの右手だけで取り出した。
ふつうの小さな合鍵。この周太の父の遺品である合鍵は、今は英二の宝物の鍵でいる。
その鍵で開錠すると扉を開いて英二は、そっと周太の右掌をポケットから出して離した。
そうして先に玄関先に立つと振向いて、きれいに周太へと微笑んだ。

「お帰り、周太」

微笑んで見つめた黒目がちの瞳が、穏やかに幸せそうに笑ってくれる。
その笑顔へ長い腕を伸ばして、おいで?と目で笑いかけると、あわいブルーグレーのダッフルコート姿が一歩玄関へと踏み込んだ。

「ただいま、英二」

きれいに笑って周太は英二の腕に入ると、そっと背に掌をまわして広い背中に抱きついた。
こういうのは幸せだ、うれしくて英二は小柄な体ごと幸せを抱きしめて笑った。

「ね、周太?俺、周太が作ったココアが飲みたいな。作ってくれる?」
「ん。じゃあ、父にも持って行ってくれる?…俺もね、今日は作ろうって想っていたんだ」
「やっぱり気が合うね、俺たち。ね、周太?もう夫婦みたいだね?」
「…そういうこというのちょっとはずかしくなるから…だいどころたつまえだとあぶないから…でも、うれしい」

また真赤になりながらも周太は、お節料理の支度をしながらココアをいれてくれた。
昼食の時にもお節料理の支度を進めていたらしく既に何品か出来ている。そのどれも実家で見慣れた仕出しに遜色がない。
ほんとうに手際よくて上手だな、あらためて周太の家庭的才能に感心しながら紺色のエプロン姿を英二は眺めた。
そんな視線にそっと振り向くと周太は気恥ずかしげに、すこし遠慮がちに英二に申し出た。

「…あのね、英二?…あんまり見つめられると恥ずかしくて…きんちょうするんだけど…それに」
「それに、なに?周太」
「…ちょっと距離が近い…です、あぶないです。…ね、英二?そこの椅子にすわってまっていて?」

言われて英二は紺色のエプロンの肩越しに黒目がちの瞳を覗きこんだ。
覗きこまれた瞳がちょっと困ったように見つめ返してくれる。そんな顔も可愛くて、つい英二は言ってしまった。

「嫌だよ周太、離れたくないよ。だって周太、風呂に入る時はさ、離ればなれだよ?
 そのとき周太はね、たくさん俺に我慢させるんだからさ。他では好きなようにさせてよ。ね、周太?いいだろ」

ずいぶんと我儘な発言だな、我ながら思いながら英二は言って笑ってしまった。
そんな英二の顔を見つめている周太の顔が赤くなっていく。
たぶん「風呂」に反応したんだろうな、そんな推測に見つめる赤い顔がちいさく呟いた。

「…英二、駄々っ子みたい…だよ?」

駄々っ子。
子供に還ったみたいな形容詞を遣われて、英二はすこし驚いた。
けれどこんなふうに、子供みたいに誰かに自分が甘えていることは初めてでいる。
なんだかそれが幸せで温かい、うれしくて英二は赤い顔に自分の白い頬を寄せて微笑んだ。

「うん、俺ね。周太には駄々っ子にもなりたい。夫は妻には甘えるものなんだろ?だからね周太、俺は周太には甘えて駄々っ子にもなるよ」

ココアの小鍋を混ぜる周太の手が止まった。
そのままガスを停めると、静かに英二に向き直って見上げてくれる。
そう見上げながら伸ばした腕を、そっと英二の首に回して周太は抱きついてくれた。

「ん…甘えてくれるの、うれしい…俺でもね、甘えてもらえる…英二の役に立てるなら、…うれしいんだ…」

寄りそってくれる温もりが愛しい、愛しくて幸せで英二は小柄な体を抱きしめた。
役に立つとかそんなじゃないのに?やわらかく腕に力を入れながら英二は微笑んだ。

「役に立つとか違うよ周太?言っただろ、俺はね、周太がいないとダメなんだ。ほんとだよ、」
「ん…ほんとうに?」

周太の額に額を付けて英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
気恥ずかしげで純粋で、けれど深い真直ぐな視線が見つめ返してくれる。
ほんとうに美しい瞳だと見つめながら英二はきれいに笑って答えた。

「ほんとうだよ、周太。だって俺ね、姉ちゃんにまで言われたんだ。
 あんたは湯原くんがいないとダメ、他に迷惑かけると困るから一緒にいてもらいなさい。だってさ。ね、だから俺、周太がいないとダメなんだ」
「…お姉さんまで、そう言ってくれるの?」

黒目がちの瞳が大きくなる、この顔すきだなと見つめる先で瞳に水の紗がかかっていく。
そんなに泣かなくていいのに?やわらかく微笑んで英二は泣き出しそうな目許にそっとキスをした。

「そうだよ周太?姉ちゃんな、周太のこと好きなんだって。
 だから籍を入れたらね、甥っ子としてデートして可愛がりたいってさ。
 でね、また会いたいなって言ってたよ。2月の射撃大会終わったらさ、会ってやってくれる?」

「ん、…俺もね、お姉さんに会いたい。…俺もね、お姉さんのこと好きだよ?…おれ、…うれし、いよ…」

黒目がちの瞳に涙があふれて頬零れていく。
きれいだなと見つめながら英二は涙に唇よせて、そっと吸いのんだ。あたたかな潮が愛しくて純粋な瞳が大切で愛しかった。
こんなに想えるひとが自分の腕の中にいる、きれいに笑って英二は小柄な体を抱きしめた。

「きっとね、周太?俺と一緒なら周太は、たくさん幸せを見つけられるよ?だから周太、ずっと一緒にいよう?
 今は離ればなれで暮らしているけれど、『いつか』には絶対に一緒にいよう?法律でも、住む場所も、一緒にいよう、周太」

「…ん、いっしょにいて?英二…俺のこと、はなさないで?」

黒目がちの瞳が涙のなかで笑ってくれる。
ほら、こんなに愛しい。見つめていれば幸せで、隣にいれば安らかで。そんなふうに英二は見つめてばかりいる。
もうずっと見つめてばかりいる、警察学校で過ごした寮の部屋で片想いの時からずっと見つめてきた。
けれど卒業の日が来て離れなくてはいけなくて、二度と会えなくなる可能性に背中を押されて想いを告げた。
それから3ヶ月と1週間を超えた今、見つめて抱きしめて結婚の約束をしている。
こうしてもう抱きしめてしまった、もう離すことなんか出来やしない。きれいに笑って英二は答えた。

「うん。俺ね、ずっと絶対に周太を離さない。
 いつだって、どんな場所からだって、俺は周太を救って掴んで離さない。だって俺、周太がいないとダメなんだ。仕方ないよ、周太?」
「ん…仕方ない、ね?英二」

きれいに笑って周太が見上げてくれる。
そしてすこし背伸びするよう肩に回した腕で英二を抱きしめて、そっと唇に唇でふれてくれた。
周太からのキス。やわらかくて温かで、おだやかな静かな優しいキス。
ふれるだけ、けれど幸せで甘やかで愛しくて。こんな幸せなキスは英二は周太に出会うまで知らなかった。
そっと温もりが離れていく、すこし切ない想いで周太の唇を見つめながら英二は周太に訊いた。

「ね、周太?だからさ、風呂も一緒に入ってよ?俺、周太がいないとダメなんだから」

言われた途端にまた顔を真赤にして周太は、さらりと英二の腕から抜け出してしまった。
そのままココアの鍋を火にかけると、周太は黙々と手を動かし始めた。
そんな様子が可愛くて可笑しい、そんなに嫌なのかなと笑いながら英二は声をかけてみた。

「周太?沈黙は了解、ってことでいいの?」

振り向いてくれない背中のまま、一瞬に肩が揺れてすぐ答えてくれた。

「…だめです、ふろはだめです…」

気恥ずかしくてたまらない、そんな空気が紺色のエプロン姿から伝わってくる。
そんな様子に英二は年越警邏の時に国村から聞いたことを思った。

  前は友達だから意識しなかったんでしょ。しかも彼はその頃まだ処女だろ?恥じらいとか知らなかったろうね
  今はもう友達と違うしさ。裸ですること、やられちゃってるだろ?それで恥ずかしいんじゃないの
  彼は初々しいだろ?そして脱がされるばっかりだからさ、そりゃ恥ずかしいんだって

国村は怜悧で冷静沈着で判断力に優れて、山でもいつも的確な行動選択ができる。
そんな国村の観察眼はいつも明晰で正しい、だから周太のことも正解だろう。
そう思ったままを英二は周太に訊いてみた。

「ね、周太?周太がさ、今は俺と風呂入ってくれないのは、いつも俺が周太のことを脱がせて抱いちゃう所為なんだ?」

言った途端に止まった周太の掌が、そのまま周太の頬を挟んで固まった。
周太の手から落ちたココアの付いたスプーンが、かたんと木の床を転がっていく。
いつにないほどの動揺と途惑いが周太を覆うのを、調理台の窓を向いたままの後姿から解ってしまう。
やっぱり正解だった、けれど驚かせすぎたかな?思いながら英二はガスを止めて周太の顔を覗きこんだ。

「周太?だいじょうぶ?」

真赤になった顔がいつも以上に赤くなって視線まで固まっている、その様子に英二はちょっと驚いた。
このままだと熱でも出てしまうかもしれない、そんな判断が救命救急対応モードに英二を切り替えた。
周太は少し意識が飛んでいる、立ったままでは転倒するかもしれない。英二は驚かさないように静かに周太を抱きかかえた。
ゆっくりと隣のリビングのソファへ座らせて、そっと脈を測るとだいぶ早くて拍動が大きい。
やっぱり自分はやりすぎた、反省をしながら英二はコップに水を汲んだ。

「…周太?水、飲める?」
「…ん、…はい、」
「うん。じゃあ周太、ゆっくり飲んでみよう?」

やっと返事してくれた、ほっとしながらコップを渡すと両手で受けとってくれる。
受けとった周太の手に自分の手を添えると、小柄な体を支えながら静かにコップを口元へ寄せた。
ゆっくり水を飲んで周太が、ほっと息を吐きながら瞳をゆっくり瞬いている。
そんな瞳が気恥ずかしそうに英二を見、そっと周太は唇を開いた。

「…ん、…驚かせて、ごめんね?英二」
「俺こそだよ、周太?ごめん、あんなに周太を驚かせちゃうなんて、俺、思わなくって」

まだ赤い顔を見つめながら英二は素直に謝った。
そんな英二に小首を傾げながら周太は、右掌を頬に当てて考え込んでいる。
そのまま静かに唇を開くと周太は、ゆっくりと英二に話してくれた。

「あのね、英二?…俺はね、英二と同じ年だ。でもね、俺って…ほんとうにね、英二が初めてなんだ…
 友達になることも、その…好きになることも…今まで俺、一度もなくて。
 俺、その…れんあいはね、9ヶ月の子供と同じなんだ…ほんとうに英二と出会ってから、だけなんだ……
 幸せで…でも、すごく途惑ってもいて…それで、その…ふろとかちょっとむりだとおもうんだはずかしすぎて…きっとだめ」

赤い顔のまま、でも一生懸命に周太は話してくれる。
全てが周太にとって「初めて」のこと、そう英二も解っていた。
父の殉職から13年間を周太は、ただ父の軌跡を追って父の想いを見つめるだけで生きてきた。
そんな孤独な生き方は能力の面では大人になれても、人同士の想いの交流という面では成長を止めたままでいる。
そうして周太の心は強い意志や精神力は育っても、人と想いを交す面では10歳の少年のままで、23歳になってしまった。

「周太、謝らないでよ?…ごめんね、周太。ほんとうにね、俺が悪いんだ」
「…英二?」

周太は10歳の少年のままで、英二に恋をして愛して体も捧げてしまった。
10歳の子供が大人の恋愛に応えることは難しい、それでも応えるなら勇気も覚悟も23歳より何倍も必要になる。
そんな周太の純粋な心が切なくて愛しくて、英二は周太を抱き寄せた。

「周太。俺はね、たくさんの人から恋愛を求められてきた。
 でも、誰とも本当には俺、恋愛できなかった。それぐらい俺ってね、弱くて心が欠けていた。
 だから俺ほんとにね、周太がいてくれること嬉しくて幸せなんだ。それで、つい周太に求めすぎるんだ…ごめんね、周太」

きれいな黒目がちの瞳が英二を見あげてくれる。
その瞳は深い想いと勇気がまぶしい、けれど10歳の子供のまま純粋で美しい。こんな瞳だからこそ英二は恋に落ちた。
そして愛してしまって今がある、今の幸せを想いながら英二は言葉を続けた。

「俺はね、周太?恋愛はさ、たしかに体の経験は多いけれど、心の経験はゼロなんだ。傷つけあった経験だけなんだ」
「…そんな、…」

見あげてくれる瞳が哀しそうに見つめてくれる。
きっと自分の想いを気遣ってくれる、こういう繊細な優しさが英二を惹きつけて今がある。
今は大丈夫だよ?そう見つめながら英二は口を開いた。

「俺はね、周太。こういう派手な外見だろ?
 だからね、性格も外見通りだって思って俺を好きになる人ばっかりだったんだ。
 でも俺って外見と性格が違うだろ?だから俺、いつも相手をガッカリさせていたんだ。
 それが辛くなって俺、要領良いフリして生きれば楽だなってさ。本音で生きることを諦めて、人形になったんだ」

「…人形、…」

ぽつんと呟いてくれる声が哀しげで、自分を心から想ってくれることが伝わってくる。
こんなふうに自分の愛するひとは繊細で、10歳の少年のまま純粋でも細やかな優しさが温かい。
このひとの隣が本当に好きだ、英二は微笑んだ。

「うん。きれいな外見だけ相手に与えてね、ただ相手が求めるとおりに頷いて笑っていた。
 そんなのは人形と同じだ、本当の恋愛なんかじゃない。だから皆そのうち飽きて、どこかへ行っちゃったんだ」

「…っ、」

黒目がちの瞳から涙がこぼれた。
こんなふうに自分のために泣いてくれる、うれしくて幸せで英二は周太にキスをした。
キスをして瞳を見つめて、そっと離れると微笑んだまま英二は話した。

「そうして誰もね、俺の心なんか見つめてくれなかった。だから俺もね、誰にも心を見せたくなかった、どうせ傷つくから。
 そんなふうにさ、俺、あの脱走した夜もね、あの時の彼女に傷つけられたんだ。
 あのとき俺、警察官になりたいって本音を初めて言ったんだよ、彼女に。
 でも、解ってもらえなかった。かっこ悪いから、もういらないって言われた。見せびらかせない俺には用は無いんだって」

また一滴の涙が周太の瞳からこぼれた。
涙の瞳は隣から真直ぐに英二を見あげて、そして周太は言ってくれた。

「…英二は、…かっこいい、よ?…もう、あの時から…もっと前から…かっこいい…俺は、しってる…だって、ずっと…見てた」

次々あふれる涙の、一滴ずつの全てが愛しい。
こんなふうに真直ぐ見つめてくれていた、そんな瞳が好きで自分はここにいる。
なつかしい記憶と今の想いを見つめながら英二は、きれいに笑いかけた。

「うん、周太は見ていてくれたね?だから俺、あの夜は周太の部屋にね、行きたくなったんだ」
「…ん、」

きれいな頬を涙が伝っていく。そっと長い指で拭いながら英二は微笑んだ。
どうしていつも周太は、こんなに純粋できれいなのだろう?
どうして辛い運命に向き合っても周太は、純粋なまま生きてこられたのだろう?

そして自分は弱かったと思い知らされる。
相手の思惑に振り回されるほど弱かった、だから自分は人形に成り下がっていた、そんな弱い生き方を選んでいた。
そのことを今朝の国村との会話からもう気づいている、だからもう自分は思惑には心を動かさない。
そして強くなってこの愛するひとを守りたい、きれいに笑って英二は周太に告げた。

「周太だけが俺の心を見つめてくれた。そして人形だった俺にね、本音で生きる自由をくれたんだ。
 そうして俺は自分の夢も生き方も見つけることが出来たんだ。だからね、周太?
 俺に必要なものは全て、周太が俺にくれたんだ。俺を初めて見てくれた人なんだ、そんな周太を好きになってもさ、仕方ないだろ?」

右掌を頬に当てて周太が考え込むように首傾げる。
それから英二の目を見つめて静かに訊いてくれた。

「…仕方ない、の、かな」
「うん、仕方ないよ。だからね、周太?俺に好きになられても、逃げないでよ」

言って笑って英二は周太にキスをした。
そのキスを気恥ずかしそうにしながらも受け留めて、そっと周太は微笑んでくれる。
その微笑みを見つめて英二は、あらためて婚約者へと告白をした。

「本当に俺はね、周太が初恋なんだ。俺にはね、周太は俺の救いで初恋で、唯ひとり守りたくて愛する人なんだ」

周太の左掌もあがって頬に当てられる。
両掌で顔を支えるようにして周太は赤くなる想いを抱えて、それでも笑って応えてくれた。

「ん、…そんなふうにね、想ってもらえて…うれしい。また途惑うかもしれない、でもね、俺、…本当に幸せなんだ」
「本当に?」

今度は英二が訊き返してみた。
何て応えてくれるかな?そう覗きこんだ隣は両掌を頬からおろした。
その掌をこんどは静かに英二の頬へむけると、やさしく英二の顔が温もりでくるまれていく。
やわらかな温もりふれる頬に微笑んで、英二は目の前の瞳を見つめた。
そうして見つめる想いの真中で、黒目がちの瞳がきれいに微笑んで静かに想いが告げられた。

「英二、心からね…あなただけを、愛している」

きれいに笑って周太は、そっと英二にキスをしてくれた。

一途な想いと強い意志、深い想いに人を愛する勇気、繊細で細やかな優しい心。
穏やかな静謐は安らかで、10歳の少年の純粋さのまま困難に歪められない強靭な潔癖。
そして聡明で端正な姿勢が美しくて。

もうずっと自分はこの人に恋をしている、そしてずっと愛し続けるだろう。
ふれるだけのキス、それでも蕩かされるほど愛しくて甘くて幸せにさせられる。
この想う人のためにずっと自分は生きていく、そんな自分の道が幸せで英二の頬ひとすじ涙がこぼれ落ちた。

― 周太、…ありがとう

俺と出会ってくれて、愛してくれて、ありがとう。
そんな想いが心に温かい確信をくれる ― この隣となら自分は幸せに生きていける。
温かい確信を抱いたまま静かに離れると、英二は大好きな瞳に笑いかけて、明るくおねだりをした。

「ね、周太?やっぱり今夜はさ、一緒に風呂入ってよ?」

言われて黒目がちの瞳がおおきくなる、そして可笑しそうに笑ってくれた。
そう笑いながら赤くなりながら、周太は軽く頭をふった。

「だめです、いけません…まだけっこんまえですそんなのだめ…あ、ココア温めてあげる、ね?」

気恥ずかしそうに笑いながら周太は、軽やかに腕を抜けて台所へと行ってしまった。
ひとりソファ残された英二は、いまの周太の言葉に座りこんで首傾げた。
だって今なんて周太は言ってくれた?

「…まだ、結婚前です、そんなのダメ…?」

反復して思わずつぶやいて、切長い目を英二は大きくして台所を見た。
それってそういうことなのかな?そうならちょっと良い気がする。
なんだか幸せで嬉しくて英二は台所へ行った。

「ね、周太?訊いてもいい?」
「…いまはだめです、あぶないからあとにして?」

かわいい口調で断られて英二は残念だけれど微笑んだ、たぶん自分が思った通りなのだろう。
だってココアの小鍋を火からおろす周太の首筋が赤くなっていく、ここが周太のいちばん素直な場所だから。
言われた通りに英二は「あとにして」口を閉じて、食器棚からマグカップを3つ出すとテーブルに並べた。
それを見て周太が英二に微笑んでくれる。

「ん、…ありがとう、英二」
「こっちこそ、周太。ココアありがとうな」

注がれていく甘い香の湯気を見ながら英二は笑った。こういうのは幸せで良い。
うれしくて周太の手元を眺めながら、今後をすこしだけ考え込んだ。
この優しい手をどうしたら傷つけずに守れるだろう?

「英二、父に持っていってくれる?…良かったら英二もね、書斎で飲んで?…今の時間はね、きれいな陽射しが部屋に入るんだ」

周太に声かけられて英二は考えを脳裏に仕舞った、また後で続きは考えればいい。
そんな想いごと納めると微笑んで、周太の提案に頷きながら尋ねた。

「うん、周太は?」
「俺はね、夕飯の支度がもう少しあるから…でも、終わったら2階にいくね?」
「じゃあ周太、書斎でお父さんと話してくるよ。そのあとさ、屋根裏に上がっていてもいい?」
「…ん、いいよ。陽当たり良くて気持ち良いと思う…あ、昼寝するならね、マットレスとか使って?」
「うん、ありがとう周太」

2つのマグカップを受けとると英二は、そっと周太の頬にキスをした。
またすぐ頬を染めながらも周太は微笑んでくれる。
そんな笑顔にもう一度きれいに笑いかけてから、英二は書斎に向かった。

書斎の扉を開くと光の梯子が窓からいっぱいに部屋を満たしていた。
オーク材を多く使うダークブラウンの重厚な部屋では、あざやかな光跡で冬の陽をみせてくれる。
きれいだな。周太の言葉通りの部屋の様子に微笑んで、英二は書斎机の前に立つと写真立てを見つめた。
写真の中からは穏やかに誠実な笑顔が笑いかけてくれる、いつも笑顔を絶やさなかった周太の父は写真にも笑っていた。
その写真の傍へと紺色のマグカップをそっと供えて、英二は微笑んだ。

「あけましておめでとうございます、お父さん…俺、今日は結婚の申し込みをさせてもらいました」

周太の父の写真の傍には、いつものように花が活けられている。
その花が今日は2つ活けられていた。1つは周太の母に贈った花束のもの。
そしてもう1つは周太に贈った結婚の申し込みの花束にあった花だった。
その花の花言葉を想いだして切れ長い目がすこし大きくなる、そっとその言葉を英二はつぶやいた。

「愛、温かい心…君のみが知る」

あわい赤が可憐な冬ばらは、オールドローズと呼ばれる種類らしい。
やさしい雰囲気、まるみやわらかな花の形が周太らしいと想って見た花だった。
けれどこの花の言葉はどこか、この書斎の主の姿を映したようで英二の心がすこし揺らされる。
ため息をついて英二は自分のマグカップをサイドテーブルに置くと、もういちど写真の笑顔を見つめた。

「…あなただけが知っている、この家の想いは何だったのですか?」

この書斎には謎が多い。
その謎にまだ周太の母も周太も気づいていない、たぶん日常的に暮らす空間だから違和感を感じないでいる。
けれど英二には気づけてしまう、書棚を見あげながら考えをめぐらしてしまう。

なぜ英文科出身でラテン語が得意な人の蔵書が、フランス文学の原書ばかりなのか?
この家には英文学書は数冊しか置かれていない、そしてラテン語ならイタリア文学の原書も興味を持つはずなのに1冊も無い。
そんなふうに現実に見上げる書棚にはフランス語の背表紙ばかりが並ぶ。
そして。
この並んだ仏文学の原書一冊は、壊されたままで書架に収められている。
書棚の隅へと納められた紺青色の背表紙に、英二は長い指を伸ばして抜き出した。

『Le Fantome de l'Opera』

邦題『オペラ座の怪人』フランス文学の恋愛小説では著名な本。
そっと英二は紺青色の本を開いた、その開いた大半のページは抜け落ちている。
物語の最初と最後の部分を遺して大きくページが欠けた『Le Fantome de l'Opera』壊れたままの本。
これと同じ本を周太は、あの初めての外泊日に新宿の書店で買っている。

  「家にもある本なんだ…けどね、家のは壊れているんだ。それで読んでみたくて買ったんだ。
   残っているページだけだと、推理小説みたいだったから…俺、れんあい小説だなんて思わないで買ったんだ」
  「それで買ったんだ。でも湯原?どうして家のは、壊れているんだ?」
  「ん、母もね、知らないんだ…たぶん古くなって抜け落ちたのかな」
  「ふうん、古い本なんだ?」

警察学校の寮で何気なく周太と話したこと。この記憶を英二は思いだして以来、ずっと考え込んでいる。
この壊された本を実際に見たのはクリスマスの日に、今のように周太の父にココアを供えた時だった。
その時は周太との会話をまだ思いだせなかった、けれどクリスマスの翌日に奥多摩へ戻る車中で記憶が蘇っている。

― 古い本

そっと英二は紺青色の本の最後のページを開いた。
そこには出版年月日と発行年月日が記されている、そして想った通りに古い発行年が書かれていた。

「1938年…昭和13年、か」

昭和13年。太平洋戦争よりも前、たしか全日本学生ワンダーフォーゲル部が創設された年。
そして周太の父が生まれる20年以上前の年になる。
英二はポケットから携帯を出すと写真モードに切り替えて、そのページを撮影した。
それから他の残された僅かなページも全て撮影すると、携帯をポケットにしまった。

周太の父が生まれる前に発行された本が、なぜ周太の父の蔵書にあるのか?

古本を買った、普通ならそれで済む話だろう。
けれどこの本は「壊されて」いる、「わざと壊す」ために古本を買う人間はいないだろう。
こういうハードカバーの立派な装丁の本は、古本の方が発行年などで付加価値が高値にする。
だから「わざと壊す」目的で買うようなことはしないはずだ。

そう、この本は「わざと壊されて」いる。

英二は窓辺に立つと抜け落ちている部分の背部分を見た。
背表紙とページの接合されていたはずの場所には、やっぱり刃物の跡がある。
ナイフで抉り取るように糸綴じを切り裂いて無理に外した、そんな痕跡が観てとれてしまう。
こういうナイフ痕を英二は死体見分の時に見たことがあった。

非番の日に吉村医師の手伝いで立会った時で、縊死遺体の傍に落ちていた文庫本がこんなふうに壊れていた。
なぜ壊れた本が落ちているのだろう?不審に思って英二は一緒に見分立会いをしていた刑事課の澤野に訊いてみた。
それを澤野は聴いてくれた、そして吉村医師も遺体を見て所見を述べてくれた。

「このご遺体は自殺ではない可能性が高いです。見てください、ここに砂が付着しています。
 奥多摩の森で亡くなった方の髪に、なぜ砂がつくのでしょう?…しかも砂はべたついている、おそらく海水を含んだ砂です」

調べてみるとその本からは遺体以外の指紋が検出され、犯人検挙につながった。
けれど、なぜページが切り取られたのかは犯人も知らなかった。
ただその本は犯人と被害者の思い出の本だった事は解った、そう聞かされた時に吉村医師は哀しげに微笑んだ。

「きっとね、思い出があるから捨てられなかった。
 けれど、何か辛い内容が書かれていたから、そのページを切り取って持っていたのかもしれませんね」

この本もページが切りとられている。
何かの理由と事情が無かったらこんな事はしない、切りとるだけの想いがあったのだろう。
そして切りとられた断面は紙の色が幾分かは新しい、けれど周太の母はこの本のことを知らないでいる。
きっと周太の母が嫁入る前に切りとられている、おそらく周太の父が若い頃に切りとったのだろう。

周太の父の蔵書はどれも保管状態が良い、きっと本を愛して大切にする人だった。
周太も本を大切に扱っている、そんな息子である周太の姿勢からも彼の本への扱いは見てとれる。
そういうタイプなら、もし読まなくなった本なら古本屋に売るなり人に譲るだろう。
だからこの本が「壊されて」も残されていることに英二は違和感を感じられて仕方ない、きっと何か事情があった。

「…この本は、この書斎の前の主の蔵書だった。違いますか?」

書斎机の写真へと英二は語りかけた。
この書斎は湯原家の主がずっと使っていると聴いた。だから周太の祖父がこの部屋の前の主になる。
周太の父が生まれる前に発行された本、それは周太の祖父が若い頃に買い求めた時の発行年。
周太の父がページを切り取っても手元に残したかった本、それは周太の祖父の蔵書だったから手元から離せない。
きっとこの本は周太の祖父の蔵書だった、だから周太の父は手元に残したかったのではないか?

けれど謎は残ってしまう、どうしてページを切り取ったのだろう?
ページを切り取った事情は何だったのだろう?

そしてもう一つ「書斎」にまつわる謎がこの家にはある。
この家には一時「もう一つの書斎」があった、その書斎も謎が隠されている。

  この屋根裏部屋はね、元は祖父の書斎だったらしい。
  そのトランクも祖父のなんだ…あ、本棚もね、父が作ったらしい

いま周太が使っている部屋の屋根裏部屋、そこが周太の祖父の書斎になった時期がある。
きっと当時この書斎を周太の父に譲ったから、周太の祖父は別の場所に自分の書斎を設けたのだろう。
けれどあの部屋には本棚があっても「書斎机」は存在しない。

なぜ書棚を作っても、書斎机を周太の父は作らなかったのだろう?

あの小部屋は入口が押入の天井に開けられた部分になる、それは人が通るのは充分の広さがある。
けれど置かれている書棚や揺椅子のような大きめの家具は通せない、きっとあの部屋で周太の父は組み立てたのだろう。
だから書斎机もきっと部屋で組み立てなくてはいけなかった。そして組み立てた家具はもう部屋から出せない。
けれど書斎机はあの小部屋には無い「書斎机がない書斎」など普通は考えられない。

周太の祖父の蔵書だった『Le Fantome de l'Opera』周太の父に壊された本。
書斎机が存在しない周太の祖父の書斎だった部屋。

「…周太の、お祖父さん」

そっと呟きながら紺青色の本を閉じると英二は書棚に戻した。
サイドテーブルのココアを一口飲んで、そっと息を吐くとまた書斎机を見つめてしまう。
その視線の先に微笑む周太の父の写真、そして可憐な冬ばらに「君のみが知る」の花言葉が問いかけてくる。
マグカップを置いて英二は書斎机の椅子の隣へと立った。
重厚で艶やかなビロード張りの書斎椅子、ここに周太の父と祖父、そして曾祖父が座った椅子。
この椅子に座った湯原家の主たち3人、彼らの想いはいったいどこにあるのだろう?

「…ん、?」

ふっと英二の目が書斎机の抽斗に留められた。
この机には抽斗が4つある、天板下の浅い抽斗と3段の袖抽斗が備えられている。
袖抽斗には鍵がついている、けれど1段だけ鍵の形が違っているのが見てとれた。

― なぜ1段だけ違うんだろう?

抽斗の前に片膝ついて英二は鍵穴の形状を見た。
やっぱり1段だけ違う種類になっている、そしてその鍵穴に英二は見覚えがある。
まさか?そんな想いのままに英二は胸に提げてある合鍵を取出した。

「…そうかもしれない、」

周太の父の遺品である、この家の合鍵。
けれどよく見ると鍵の根元に小さな凹みが刻まれている、これは元からあった刻みではないだろう。
おそらく周太の父が刻んだ凹み、そしてきっと周太の母の鍵にも周太の鍵にもない。
たぶんこの鍵穴は鍵の根元まで入る、そう思いながら英二は鍵穴に家の合鍵を挿し込んだ。

かちり、音ともに抽斗は開錠された。



(to be continued)

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第31話 春隣act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-01-06 17:44:59 | 陽はまた昇るside story
消えるものと残るもの、そして想いのつながり




第31話 春隣act.3―side story「陽はまた昇る」

川崎の周太の実家は、ゆるやかな冬の陽射しの静謐に穏やかだった。
ふるい木造の門から続く飛石を踏んで、英二は周太の父の合鍵で玄関を開いた。
そして一足先に玄関へ入ると振向いて周太に微笑んだ。

「お帰り、周太。ほら、…っ」

ことばを言いかけた英二に思い切ったように周太が抱きついた。
やわらかな髪がブラックグレーのコートの肩口にふれる、背中に回された掌は慣れていないと途惑いが震えに伝わってくる。
けれど抱きついたまま気恥ずかしげに周太が言ってくれた。

「英二、…ただい、ま、」

ブラックグレーのコートの背中に回された掌が温かい。
こんなふうに周太から抱きついてくれるのは初めてのこと、うれしくて幸せで英二は周太を抱きしめて微笑んだ。

「うん、お帰り周太。こういうのってさ、うれしいよ?」
「ん、…俺ね、…お帰りって言ってもらうの、うれしい…ほんとうは、クリスマスの時も…だきつきたかったんだはずかしいけど」

こんなこと言われたら幸せになってしまう。
きれいに笑って英二は、額に額をつけて黒目がちの瞳を見つめた。

「もっと抱きついてよ?周太。今だって俺さ、ちゃんと周太を抱きとめられただろ?俺はね、いつだって周太を抱きとめるよ」
「ん、…うれしい、な」

黒目がちの瞳が気恥ずかしげに微笑んで、けれど幸せそうで英二は嬉しかった。
このまま抱きしめていたいけれど、でもそろそろ悪いかな?すこしおどけて英二は周太の顔を覗きこんだ。

「あのな、周太。お母さん、先にもう帰っているみたいなんだけど?」
「…え、」

驚いて周太が玄関先を見た、その視線の先には華奢な靴が端正に揃っている。
さっき英二は玄関に入ってすぐ靴に気がついた、それを言いかけた時に周太が抱きついて言葉が途切れてしまった。
たぶんリビングの扉の向こうで周太の母は楽しそうに笑っているだろう、そんな気配へ向かって英二は声をかけた。

「ただいま、お母さん」

掛けた声に呼応するようステンドグラスが嵌められたオーク材の扉が開けられる。
そして重厚だけれど繊細な扉の向こうから現れた、快活な黒目がちの瞳が微笑んだ。

「お帰りなさい、ふたりとも。ね、周?お母さんたら、タイミング悪くてごめんね?」

可笑しそうに笑って首傾げながら彼女は息子を見つめた。
そう見つめられて周太は首筋から頬まで赤さを昇らせながら、それでも気恥ずかしげに微笑んだ。

「ん、…ただいま、お母さん。迎えてもらってね、うれしいよ…すごくいまはずかしいんだけれど、ね」
「うん、ごめんね周?あのね、お母さん少し早く帰れたから簡単だけどスープ作ったの。たまにはお母さんの料理も良いでしょ?」

温かな微笑みで彼女は、息子の黒目がちの瞳を見つめながら言った。
そんな彼女はエプロン姿で佇んでいる、今まで台所に立っていたのだろう。
言われた周太の瞳がすこし大きくなって、そしてすぐ幸せそうに微笑んだ。

「ん。ありがとう、お母さん。俺ね…お母さんの手料理、好きだよ?」
「よかった、でもサラダまだなの。周、お願いしてもいい?」
「ん、」

周太の母は夫の殉職後に復職して、スーパー経営会社の営業管理部門に勤務している。
そのために休暇も不定期で、息子の帰省に合わせて半休をとっても帰りが遅いことが多い。
だから今日のように母親に出迎えてもらうことは、周太にとって久しぶりのことだろう。
こんな笑顔が見られてうれしいな。そんな隣の笑顔を見ながら英二は微笑んだ。
そして靴を脱がずに玄関先から英二は、周太の母を真直ぐに見て笑いかけた。

「お母さん。庭のことで俺、聴きたいことがあるんです。いま教えてもらえますか?」

そんな英二を快活な黒目がちの瞳が見つめてくれる。
その瞳が穏やかに微笑んで静かに頷いてくれた。

「ええ。今なら庭も陽射しが暖かいものね?周、ちょっと散歩してもいいかな?」
「ん。その間に食事の支度しておくね…あ、庭の芝生すこし濡れていたから、サンダルじゃない方が良いよ?」
「ありがとう、周。じゃ、ちょっと英二くん借りちゃうね?」
「…かすとかかりるとかないとおもうんだけど…でも、はい。…かえしてね」

気恥ずかしげに言うと周太は、急いで自分の靴をそろえて台所へ行ってしまった。
そんな初々しい様子が可愛くて微笑んで見送ると、英二は花束を抱えたままで玄関を出た。
玄関先から見上げる青空がまぶしい。冬晴れの青を見つめながら1つ息を吐くと、英二は庭のベンチへと歩き出した。
その後を周太の母がエプロンを外しながら歩いてくれる。そしてベンチの前に並んで立つと英二は静かに口を開いた。

「お母さん、クリスマスに周太から、この腕時計をもらいました。
 そして…周太は、俺の腕時計を欲しいって言ってくれたんです。
 だから俺、周太に俺の腕時計を嵌めてやりました。それで俺は婚約と同じだと周太に言って…周太、頷いてくれました」

ゆっくりだけれど、ひと息に英二は彼女に言った。
ゆるやかな黒髪が冬の陽に輝きながら、おだやかな風に見上げる梢と一緒にゆれていく。
快活な黒目がちの瞳が微笑んで、頷きながら彼女も教えてくれる。

「ええ、このあいだ周太が帰ってきた時に教えてくれました。あの子ね、…ほんとうに幸せそうだった」

そのときの記憶を愛しむように微笑んで、彼女は英二を見つめた。
もう彼女は解っているのだろう、自分がこれから何の話をするのか。
彼女はどのように判断してくれるのだろう。彼女の率直な想いを聴かせてほしい、そう想いながら英二は告げた。

「お母さん。俺は、本気で周太との入籍を考えています。
 今の日本では同性の結婚は法律で認められません、けれど養子縁組の形式でなら事実上の結婚ができます。
 まだ今すぐは難しいです、けれどいつか必ず籍を入れたい。その許しが欲しくて今日は俺、お母さんに会いに来ました」

向き合っている黒目がちの瞳を英二は真直ぐに見つめた。
彼女は穏やかに微笑んで、落ち着いた口調のまま言ってくれる。

「ええ。すこし私もね、その話を予想していたの。だから少しだけならね、養子縁組の意味が解っていると思うわ」

微笑んでいる黒目がちの瞳が「思うことを全て話してね?」と促してくれる。
きっと辛いことを自分は言うことになる、それもたぶん聡明な彼女は解っているのだろう。
すみません ― そう心で詫びながら英二は口を開いた。

「養子縁組は条件があります、年長者が養親になり養子は養親の氏を名乗る、これが必須です。
 そして俺と周太だと俺が年長者になります、だから入籍したら周太は俺の姓を名乗ることになります。
 俺と入籍したなら周太は『湯原』の姓は名乗れません、そして…湯原の家は絶えることになります。
 お母さん、それを踏まえたうえで教えてください。いつか俺は、周太と籍を入れてもいいですか?」

現行の日本の民法では、同性婚は婚姻の形では認められず普通養子の形で入籍することになる。
その普通養子に関する規定のことが英二の気懸りだった。

第793条 尊属又は年長者は養子とすることができない
第810条 養子は養親の氏を称する

ここで言う年長者は一日でも早く出生していれば該当するから、養子と養親は同年齢であっても構わない。
だから英二と周太は養子縁組をすることが出来る、そして誕生日は英二が先だから周太が養子に入ることになる。
そうすると周太は英二の宮田姓を名乗ることになり、湯原姓を捨てることになってしまう。
けれど周太は湯原家の唯一人だけの跡取り息子でいる、周太が湯原姓を捨てればそれで家名が絶えてしまう。

― せめて、俺が1日でも生まれたのが遅かったなら、よかったのに

そっとため息をついて英二は、ずっと考え込んでいた重さをすこし吐き出した。
英二には年子の姉がいる、その姉が宮田の姓も血も残してくれる。そのことが英二を思うままに生きさせてくれている。
本来は英二が長男で宮田の家を守らなくてはいけない、けれどこの年末年始にかけて英二は姉と電話だけれど話し合ってきた。
最初は姉は「つきあって3ヶ月でもう結婚の相談?」と笑ってしまった、けれどきちんと英二と向き合ってくれた。
そして何度か日を置いて考えながら電話で話して、出した結論が「英二は分籍し、姉が宮田の家を守る」ことだった。

「だってね、英二?あんたが決った人を見つけられた事って奇跡だもの。あのまま女の人を泣かせて生きるより、ずっと良い。
 それに私、やっぱり湯原くん好きだわ。彼が甥っ子になるならね、堂々と私は可愛がってデートさせてもらうね。
 まだきっとお母さんは受け入れ難いと思う。でも英二が分籍すれば、湯原くんの入籍も自由に出来るのでしょう?」

「うん。分籍はね、20歳以上で独身ならさ、本人が届ければ誰でも出来るんだ。本配属のタイミングでするよ。
 そうやって俺が新しい戸籍作ればね、俺が筆頭者になるし責任も俺だけ背負えばでいいから。
 でも…ごめんね、姉ちゃん。自由にさ、好きなひとのとこに嫁に出してやれない。俺のせいで、…ごめん」

やはり日本では男は姓を変えたがらない。だから婿入りを嫌がる男も多い、そして長男だとまず結婚相手に望めないだろう。
そんな枷を姉につけてしまう。それが英二には哀しくて姉に申し訳ない。
けれど姉は「そんなこと大丈夫よ」と軽く笑って、でもねと続けてくれた。

「でも英二?湯原くんは一人っ子でしょう?あんたと入籍すれば、湯原のお家を絶やすことになる…それが問題かな。
 ね、英二の話だと湯原くんの家って由緒ありそうよね?そういうお家の名前って、簡単に絶やせるものではないでしょう?
 だから英二、私達には判断できない。湯原のお母さんと湯原くん自身がどう考えるのか、その考えに任せるしかないと思う」

そんなふうに姉は軽やかな覚悟とアドバイスを英二にくれた。
いつも姉は英二を理解し的確な言葉をくれる、たった1歳違いの姉だけれど敵わないなと思わされてしまう。
こんなふうに英二と姉とで宮田家の方針は決められた、そして英二はその結論を持って今日は湯原家の門をくぐった。

分籍は、今まで親の戸籍に入っている子どもが、親の戸籍から抜けて新しく戸籍を得ること。
分籍した子どもは新戸籍において筆頭者となり元の戸籍から完全に独立することになる。
そして分籍した場合は二度と親の戸籍には戻れない、戸籍上は親と断絶することになってしまう。
戸籍法上では断絶しても相続権や親族扶養義務がなくなるわけではないが、親族扶養義務の拒絶も相続の全部放棄も可能になる。

だから周太と生きることを両親に反対され、連れ戻される可能性を断ち切るために英二は分籍を決めた。
そして分籍してしまえば周太の入籍も、戸籍筆頭者である英二の自由にすることが出来る。
分籍者本人が届け出ること。 分籍者は成年、20歳以上であること。 結婚していないこと。
この条件が満たされていれば誰にでも分籍は出来る。

そして姉には言っていない、もう一つの分籍する理由が英二にはある。
本配属になれば周太は本当の危険へと巻き込まれ始めるだろう、そのリスクを英二は背負っていくことになる。
そうした英二のリスクから宮田の家を守るためにも、英二は自分が分籍して宮田の家と絶縁することを考えた。
その為に英二は、周太との入籍を周太の母に断られても分籍だけはしてしまうつもりでいる。
こうした理由で英二は以前から、卒業配置期間が終了し本配属になり次第、すぐ分籍の手続をとろうと決めていた。

― ごめん、父さん、母さん。姉ちゃん、勝手して我儘を言って、ごめん

分籍は自分が選んだ生き方では止むを得ないこと。
両親はきっと哀しむだろう。こんなふうに両親と縁を切ってしまう事は、やはり哀しいと自分も思う。
それでも自分は周太を守りたい。周太の笑顔を見つめて生きていたい、そのためなら全て懸けて生きようと決めている。
その想いを打ち消せる理由なんて英二には、ひとつも考えられない。

だから周太が腕時計の交換を望んで「英二の時間を全部ください」と言ってくれた時、ほんとうに英二は嬉しかった。
ずっと片想いの時から英二は全て周太に懸けてしまった、それを周太に望んでもらえることが幸せだった。
周太も自分の生き方を望んでくれている。その確信から婚約と入籍を英二は本気で願い、姉にも相談して考えた。

けれど民法「第793条 尊属又は年長者は養子とすることができない」
この条文で周太の入籍は湯原家を断絶させることになる、その重みを判断する権利は英二にはない。
英二も長男だから断絶の重みが解ってしまう、そして実直な性質の英二には湯原家の想いを考えざるを得ない。
自分は大逸れた事をしている、そんな自戒も起きて「入籍」は言わずに黙っていようとも考えた。

― それでも、諦められない

そう、諦められない。
直情的な自分は結局は、本気で欲しいものは何をしても掴んでしまいたい。
だから自分は法律上で両親を捨てようとさえしている、例え家族と生家を守る為でも親不孝だと解っている。
そんな危険を選んで立とうとする事自体が本当は、とんでもない親不孝なのだと知っている。
それでも、どうしても守りたい。純粋なままでも辛い運命に立とうとする周太を、どうしても自分が守りたい。

ずっと人形のように生きていた自分。
外見と性格のギャップに悩んで本音で生きることを諦めて、要領良いフリして楽に生きようとしていた。
ただ微笑んでウワベの優しさに取り繕って「きれいな愛玩人形」でいれば傷つくことは減る。
けれど本当はいつも苦しくて寂しくて、ずっと心の底ではいつも問いかけていた。

―ほんとうは、率直に、素直に、生きていきたい。生きる意味、生きる誇り、ずっと探している―

きっと誰も答えてくれやしない、どうせ誰もが自分の外見にしか用が無い。
そんな投げやりな想いと、ありのまま本当の自分を見つめてくれる「誰か」を諦められない想いと。
そんな「誰か」の為に生きたくて、心から想えるひとに出会いたくて自分の居場所が欲しくて。
そしてあの春浅い日に警察学校の校門で周太に出会った。

真直ぐで強い視線、そのくせ穏やかで繊細な黒目がちの瞳。
真直ぐな端正な視線の向こうには、やさしい純粋な温もりが英二を見つめてくれていた。
そして寮の隣室になって隣で過ごす日々、周太は言葉はないまま瞳で語りかけてくれた。

  あなたの真実の姿、実直で温かい、やさしい穏やかな静謐。
  あなたの真実の姿、そのままで、生きていて?
  そのままの姿で、率直に素直に生きるなら。あなたなら、きっと見つめられる、見つけられる。
  生きる意味、生きる誇り。それからあなたに、必要な全て。

その瞳を見つめて自分は、人形として生きることを止められた。
素直に本音のままで生きられる自由を手に入れて、そして周太のために生きたいと願った。
唯ひとり自分を解放してくれたひと、唯ひとり自分に「必要な全て」を与えてくれたひと。
そして真直ぐで端正な生き方と、やさしい純粋な穏やかな居心地で、自分を惹きつけて離さない。
そうしてもう愛してしまった、だからもう諦めることなんか出来ない

けれどいま目の前で自分を見つめる、快活な黒目がちの瞳のひと。
自分が愛するひとを生み育ててくれた唯ひとりの女性、この人の想いを無視することは出来ない。
なぜならもう自分は、この女性すら周太ごと愛しているだろうから。
自分の母親とは全く違う生き方をしている、この美しい瞳の穏やかな女性。
息子の置かれた運命と想いを真直ぐ見つめて理解して、そして息子への愛情のために英二のことすら受け留めてくれる。

― お母さん、あなたを裏切ることは俺は、きっと出来ません。でも、周太が望んだら…

周太が望んだら、自分はどんなことでもするだろう。
そんな想いで英二は冬晴れの青い庭先で、周太の母の瞳を真直ぐに見つめていた。
見つめる想いの先で快活な黒目がちの瞳は、ふわり穏やかに微笑んで彼女の唇も静かに微笑んだ。

「英二くん?もし宮田の家に入籍するなら、ご両親の反対があっては出来ない。そうでしょう?…どうするつもりなの?」

きっと訊かれると思っていた。
きっと自分の考えは、この人をまた罪悪感に悩ませるかもしれない。
それすらも自分が全て背負いたい、きれいに微笑んで英二は彼女に告げた。

「俺は宮田の家から分籍をします。7月には本配属になります、そのとき分籍して新しい戸籍を作ります。
 そうしたら俺は戸籍の筆頭者になります、責任も権利も全て俺だけの判断で出来ます。
 でもね、お母さん?この分籍は、俺の自分の都合ですることです。入籍だけの為じゃありません」

快活な黒目がちの瞳がすこし大きくなる。
このことは意外だったのだろう、きっと驚いている。そんな彼女に微笑んで英二は言った。

「お母さん、俺は周太の為ならね、全て懸けたって惜しくないんです。これはね、まだ片想いの時から変わっていません。
 だから分籍も同じことです。俺が自分のために考えて、もう姉と何度も話し合って確認して決めたことです」

大きくなった黒目がちの瞳がゆっくり瞬いた。
そして静かに彼女は英二を見あげて口を開いた。

「…お姉さんにまで、お願いしたのね?」
「はい、姉に言われました。周太と一緒にいないと俺は、また女の人を泣かせるから迷惑だそうです。
 だから一緒にいろって言われました。それくらいにね、俺って周太がいないとダメなんです。困ったもんですよね?」

すこし寂しげに、けれど覚悟したように黒目がちの瞳が微笑んだ。
そして穏やかな瞳のままで、ゆっくり周太の母は話し始めた。

「私がこの家にお嫁に来たとき、周太の父は一人ぼっちでした…穏やかで優しい人、けれど寂しそうだった。
 そしてこの湯原の家について夫は、ほとんど語りませんでした。きっと事情がある…そう気づいても私は何も訊けなかった」

小さくため息をついて、すこし寂しげに彼女は微笑んだ。
そんな笑顔に、そっと冬の陽射しが象る木洩陽がさしかかる。その温もりに安らぐように彼女はまた続けた。

「ただ夫はこう言っていました『もう自分以外の誰も、この家に縛られないで欲しい』
 それだけを私に告げたまま、…あのひとは全てを沈黙したまま、亡くなってしまいました」

黒目がちの瞳をゆっくり水の紗が覆いはじめる。
その瞳からおおきくあふれた涙が、堰を切るように白い頬を伝って砕けた。

「あのひとは、私に何も言ってくれなかった…そして私は…孤独なまま、あのひとを逝かせてしまった…
 だから、私は今も後悔しているの…無理にでも訊きだしてあげれば良かった、あのひとの孤独を壊してあげればよかった
 …そして、あのひとの背負う重荷を、少しでも分けてもらえたら、…あのひと死なないで済んだかもしれないのに」

あふれる涙を静かに長い指で英二は拭った。
そして黒目がちの瞳を覗きこんで、きれいに笑いかけて言った。

「お母さん、この家にはお父さんの作った家具が、たくさんありますよね?
 そして庭木も植えられている、そのどれもを周太は『大好きなんだ』って俺に教えてくれます。
 そして俺もね、この家が好きです。自分の実家よりも落ち着けます。
 そういう場所って幸せなひとにしか作れないって思うんです。だからきっとね、お父さんは幸せだったと思います」

「…あのひと、幸せだったかな?」

ぽつりと周太の母は呟いた。
きっとずっと彼女は心に泣いてきたのだろう、そんな想いが切なくて受け留めてやりたい。
きれいに笑って英二は彼女に頷いた。

「はい、きっと。だってね、お父さんのことを話す周太は、とても幸せな笑顔が可愛いんです。
 そんな周太のお父さんが、ただ孤独なだけだったとは思えないでしょう?それにね、お母さん。
 男なら誰でも孤独な部分は持っています。個人差はありますけれどね、でも孤独な部分があるから魅力も出るってもんです」

最後は明るい調子で軽やかに告げて、英二は笑った。
そんな英二を見つめて彼女も、やっと笑ってくれた。笑ってくれることが嬉しい、そう笑顔を見つめながら英二は口を開いた。

「お母さん。俺が周太と結婚すれば湯原の姓は消えてしまいます。けれどこの家の想いと記憶は、俺が守りたいです。
 お母さんの言うとおり、この湯原の家は秘密が多いです。けれどその秘密ごと俺は、この家も周太も抱きしめたい。
 だからお母さん。俺との入籍を許してください。法律でもずっと、周太と一緒にいられるようにさせてください」

「…この家の過去まで、英二くんは背負うというの?」

すこし微笑んで彼女が訊いてくれる。
そんな彼女の問いかけに真直ぐ、見つめて頷いて英二は答えた。

「はい、背負います。だって俺、この家の空気も全部が好きなんです。だから背負えたら嬉しい、そのつもりで婚約も申し出ました」

ただ英二は想ったままを告げた。
冬の陽光の中佇んで彼女は英二を見あげたまま続けてくれる。

「…周太のために英二くんは、自分のお家を捨てるのでしょう?それでも、そんなにしてまで、あの子を望んでくれるの?」
「はい、俺は周太だけ欲しいんです」

迷わず真直ぐに英二は答えて微笑んだ。
そんな英二を見つめて微笑んだ黒目がちの瞳から、ゆるやかに涙一滴こぼれおちていく。
その滴を長い指で拭いとると、きれいに笑って英二は頭を下げた。

「俺は本気です、もう心は動かせません。だからお願いします、いつか時が来たら周太を、俺の嫁さんにください」

ふっと空気が穏やかにゆるんで、やさしい静謐が英二の前をながれた。
ゆっくり下げた頭をあげると、黒目がちの瞳が幸せそうに微笑んで見つめてくれる。
そして穏やかに彼女は唇を開いた。

「はい、解りました。あの子がね、Yesと言ったら、それで決まりね?健闘を祈っているわ、英二くん」

きれいに笑って周太の母は英二を見あげてくれた。
はっと大きく息を吐いてから英二も笑った、心から嬉しくて切長い目も笑んでしまう。
きれいに明るく笑いながら英二は白状した。

「よかった、俺、すごい緊張しました」
「そうなの?見えなかったわ、意外ね。大人の男らしい貫録があって、英二くん、とっても素敵だったわよ?」

楽しげに黒目がちの瞳が笑ってくれる。
そんな彼女に英二は提げていた花束のひとつを手渡した。

「年始のごあいさつと、Yesを戴いたことへの感謝です。お好みに合いますか?」
「ええ、とっても素敵な花束ね?Noって言わなくてよかったわ。貰えないとこだった」

そんなふうに笑いあいながら玄関へと戻り始めた。
きっと周太の食事の支度も出来ているだろう、そう思いながら玄関扉を開ける英二に彼女が微笑んだ。

「ね、こっちの花束は、もしかして周太へのプロポーズ?」

そう、その通り。
そのために新宿の花屋で一生懸命に言葉を考えて、想いに添った花束を作ってもらった。
さすがにすこし気恥ずかしく笑いながら、英二は彼女に答えた。

「はい。まだ周太はね、この花束に気付いていないんです。お母さんの花束と一緒に抱えてきたから、花束は1つだけと思っています」
「サプライズね、素敵だわ。いつ渡すの?」

楽しそうに共犯者のような彼女が笑って訊いてくれる。
彼女の質問に英二は、ちょっと笑って答えた。

「いますぐです。台所に立ったエプロン姿の周太に渡したいんです、その姿の周太がね、俺いちばん好きだから」

母のために英二のために料理をする姿。
そんなふうに自分の大切な相手のために、手を動かしている周太の姿が愛しい。
ほんとうは白いシーツにうずめられた周太が、いちばん清楚できれいだと英二は思っている。
けれどそんなシーンで花束を渡されたら、恥じらい過ぎて周太は真赤になって何も答えられないだろう。
さすがにこんな本音は言えないな、そんな考えにすこし笑って英二は台所の扉を開いた。

「周太、」

名前を呼んで、ゆっくりと紺色のエプロン姿が振向いてくれる。
振向いた黒目がちの瞳が不思議そうに、英二と花束を見つめながら微笑んで呼んでくれた。

「英二?…花、お母さんにまだ渡していないの?」
「うん。周太、ちょっと手を止めてくれる?俺、教えてほしいことあるんだ」
「ん、?…ちょっと待って」

どうしたの?そんなふうに穏やかに瞳で訊きながら、包丁を置いて手を拭いてくれる。
そしてガスの火を止めると、エプロン姿のままで英二に向き直って微笑んでくれた。

「ん…なに?英二」

訊いてくれる瞳を見つめながら、英二は一歩を踏み出した。
そして周太の前に立つと少し体を周太へ傾けて、きれいに笑って言った。

「周太。いつか必ず、俺の嫁さんになってください。
 でも、そうして入籍することはね、周太から湯原の姓を法律で取り上げることになる。
 けれど信じてほしい、この家は俺が必ず残してみせる。そしてこの家の想いも全て俺が周太に教えてあげる。
 よく考えて、周太?俺と入籍すれば湯原の姓は残せない。けれど家は俺が守っていく。それを理解したうえでの周太の答えを教えて?」

きれいな黒目がちの瞳が真っ直ぐに英二を見あげてくれる。
その頬に右掌をそっと添えて、ゆっくりと考え込むように周太は頷いた。

「はい、……法律で、英二の姓を名乗るしかない、そういうことだね?」
「そうなんだ、同じ年でも俺の方が先に生まれたからね。年長者である俺の戸籍に周太が入るんだ」

すこし黒目がちの瞳が困ったように瞠られた。
そして右掌を頬に添えたまま、すこし哀しそうに周太は首を傾げた。

「…でも、英二のお母さんは反対するでしょう?…だから宮田の戸籍には、俺、入れないと思う、けど…」
「大丈夫だよ、周太」

しずかに微笑んで周太の顔を覗きこむと、黒目がちの瞳がすこし泣きそうになっている。
泣かないでいいのに?そんな想いで周太の右掌に英二は自分の左掌を重ねて微笑んだ。

「俺ね、本配属が決ったら実家から分籍して自分の戸籍を作るんだ。
 もう俺は警視庁の山岳レスキューとして生きることになる、今後の配属は七機か奥多摩地域の警察署だ。
 どのみち俺の拠点はさ、奥多摩になるだろ?なら本籍を移した方が都合がいい。
 だから俺、世田谷の実家から分籍しようと思う。だから周太、いつか時がきたら俺の戸籍に入って?
 ね、周太?俺だけの一人ぼっちな戸籍は寂しいよ。だから周太、絶対に必ず、いつか俺と入籍してくれないかな」

ちょっと強引かな?そんな想いのままに英二は「我儘」を言ってみた。
そんなおねだりに周太は、ちょっと可笑しそうに微笑んでくれる。

「俺がその…にゅうせきしないと、英二、ひとりぼっちになっちゃうの?」
「そうだよ。そんなの俺、寂しいだろ?」
「ん、…」

なぜ分籍するのか?その理由の全てを言うつもりは英二にはない。
だって知ればきっと周太は遠慮したくなる、だから今に言う必要などない。
ただ周太には湯原姓を絶やしていいのかだけ考えてほしい、きれいに笑って英二は周太に訊いた。

「周太、いつか必ず、俺の嫁さんになってください。ゆっくりでいい、よく考えた周太の返事を、また俺に聴かせて?」

きれいに笑って英二は、持っていた花束を周太に手渡した。
あわい赤、純白、クリームカラー、深紅とグリーン。初々しい艶と清楚なふんいきの冬と春の花々。
渡されて抱えあげた花々に囲まれて、黒目がちの瞳が驚いてすこし大きくなっている。
この顔かわいくて好きだな、そう眺めて微笑む英二に周太が尋ねた。

「あの、…これ、俺に、くれるの?」
「そうだよ、周太。これはね、プロポーズの花束なんだ。花言葉で花も選んである、そこに付いているカードに書いてあるよ」

言われて素直に周太はカードを手にとった。
それを見つめながら周太の首筋が、さあっと赤く染めあげられていく。
そんな周太の様子を見ながら英二は微笑んで教えた。

「周太の父さんがさ、花言葉に詳しかったって言っていたろ?
 だからね、花屋でお願いして作ってもらったんだ。周太、気に入ってくれるかな?」

花言葉のカードと花束を見比べながら、頬まで赤く染まっていく。
植物が好きな周太はきっと、どの花がどんな言葉なのか見比べているのだろう。
そう見比べるごとに額まで赤くした周太が、ようやく花から顔をあげて英二を見つめてくれた。

「英二、『いつか』が来たら、…俺を、湯原の家から浚って?」

真直ぐに黒目がちの瞳が英二を見つめてくれる。
その瞳は深い想いが澄んで、きれいな静謐と落着いた心が映しこまれていた。
すこし首傾げて英二は自分の想い人に尋ねた。

「周太、後悔しない?いま、約束してしまったら。本気で俺は、いつか周太を嫁さんにするよ?
 そうして一生ずっと、俺の腕の中に閉じ込めてしまうよ?…「湯原」の苗字すら奪って、俺の名前に周太をしちゃうよ?」

「ん、…後悔しない。だって俺、決めているんだ、もうずっと…」

しずかなトーンで落ち着いた声が答えてくれる。
きれいな瞳で英二の目を見つめて、穏やかな想いに周太が教えてくれた。

「俺は英二の子供を、産んであげられない。
 けれどね、温かい家庭は…二人きりだけれど、でも、温かい家庭は、俺でも作ってあげられるかもしれない。
 そうやって俺、『いつか』英二のためだけにね、…生きたい。そう決めているんだ…だからその時が来たら、湯原の姓を捨てたい」

「周太、『いつか』ってどんな時のこと?」

ずっと使ってきた『いつか』、それを今ここできちんとしたい。
そんな想いで訊いた英二に、そっと花束を抱いて周太は答えてくれた。

「父の想いを全てを見つめ終わってね、…俺が自分の人生を歩きはじめる時。
 その時には…俺の人生をね、英二にあげたいんだ…
 そして一緒にいさせてほしい、英二だけの隣で居場所で、帰ってくる場所にね、俺はなりたい」

こんなふうに大好きなひとに言われたら。
本当に幸せで英二は微笑んで、花に囲まれている周太の顔を覗きこんだ。

「周太、『いつか』が来たら必ず俺と籍を入れてください、それまでは俺の婚約者でいてください。
 どうか周太?『いつか』俺の嫁さんになってください。そして俺とずっと一緒に暮らしてください」

どうか頷いてほしいよ?そんなふうに英二は笑いかけた。
そして婚約の花々から周太が、きれいに笑って頷いた。

「はい、英二…やくそくする、ね」

きれいな幸せそうな笑顔が周太の顔に咲いている。
こういう笑顔をずっと見たかった。うれしくて微笑んで英二は、そっと周太の肩を花束ごと抱いて顔を近寄せた。

「周太、婚約のキスだよ?」

穏やかに幸せなキスを、台所の温もりの中でふたりは重ねた。





(to be continued)

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第31話 春隣act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-01-05 23:56:18 | 陽はまた昇るside story
2つの想いへの覚悟、




第31話 春隣act.2―side story「陽はまた昇る」

河辺駅10:58発の青梅線に乗り込んで英二は、ほっと息を吐いた。
雲取山から青梅署に戻ったのは8時半、それから武蔵野署へ射撃訓練に行って青梅署に戻ったのは10時半だった。
携行品返却と着替えを済ますと用意してあった鞄を持って、吉村医師の診察室に顔だけ出してから予定通りの電車に乗り込んだ。
まだ11時前だけれど随分と今日は充実したスケジュールだったな、すこし微笑んで英二は座席に座った。
座って眺める車窓は白銀の街と山脈が、冬晴れの青空にあかるく真白でいる。
こういう冬景色が英二は好きになった、けれど山岳レスキューの立場としては冬山の脅威を思わざるを得ない。

― そして冬山も、奥多摩と長野や富山では様相が違う

心に独りごちながら英二は鞄から一冊の本を出してページを開いた。
『レスキュー最前線 長野県警察山岳遭難救助隊』長野県警の山岳レスキュー実録書になる。
いまと同じようにクリスマスの朝には、富山県警山岳警備隊の実録書を読みながら電車に座っていた。
ふっと心裡へと思い出された山岳警備隊の言葉が低い呟きになって口をつく。

「…山岳警備隊は、華々しく世界の名峰に登頂するアルピニストにあらず。
 いついかなるときも、尽くして求めぬ山のレスキューでいよ。目立つ必要は一切ない」

この一文に最初はショックを受けた。
生粋の山ヤで最高のクライマーである国村には、そうした枠組みは当てはまらないだろう。
けれど自分は国村のような天才とは違う、それなのに国村と最高峰を登る約束をした自分が恥ずかしかった。

自分は天才じゃない、自分だけでは最高峰を本気で目指す発想すらない。
富山県警のプロフェッショナルなクライマーですら、山岳レスキューの誇りにかけて名峰の登頂を望まないのに。
それなのに自分が登頂を目指していいのだろうか?大逸れた約束を自分はしてしまったのだろうか?
そんなショックでこの一文を見つめながら英二は、クリスマスの朝の電車に揺られていた。
けれど見つめるうちに2つの言葉が、そっと心に寄りそって自分の想いとしっくり馴染んだ。

『尽くして求めぬ』 『目立つ必要は一切ない』

この2つの言葉が、自分が山岳救助隊を志願した想いと重なっていることに気がついた。
英二が山岳救助隊を目指したきっかけは、警察学校の山岳訓練で周太を救助したことだった。
救助した周太を背負った時は不慣れで肩も背中も痛んだ、けれど周太の生命と安心を背負える喜びの方が英二には大きかった。
もっと周太を背負える自分になりたい、周太の辛い運命を支えて救けるためのヒントが欲しい。
ただ「周太に尽くしたい」そんな想いが山岳救助隊への興味に繋がった。

そして帰寮してから警視庁山岳救助隊の資料を開いた英二を、一枚の写真が心をノックした。
白銀の雪山に立つスカイブルーのウィンドブレーカー、その背中は誇らかな自由と自信がまぶしかった。
そんな山岳救助隊の写真を見て英二は心から憧れを抱くようになった、この背中を自分も備えたいと願った。
そして向き合った山岳救助隊の姿は、英二が立ちたい生き方そのものだった。

職人気質のクライマーは「山ヤ」と呼ばれる。
そんな山ヤの警察官として山岳救助隊は、峻厳な山の掟に立つ危険と静謐に生きていく。
日々の任務に遭難者の人命救助と自殺者の遺志を抱きとめ、山に廻る生と死に向き合う穏やかな強さがそこにある。
ちいさな人間の範疇ではない世界「山」で、生死を超えて「人」の想いに尽くしていく山ヤの警察官の姿。
そういう生き方がまぶしくて自分もそう生きたいと心から想えた。

また山岳救助隊は警視庁山岳会の中核として、登山を愛して山岳会に所属する警察官たちとの紐帯も持つ。
そうした横の紐帯を築くことも可能な立場は、本来は縦社会の警察社会でも誇らかな自由を持たせてくれる。
この立場に立ったなら、警察社会の暗部へ向かわざるを得ない周太を救うことが出来るかもしれない。
そんな可能性に気がついて英二は、警視庁での山岳レスキューについて任務や所属などを調べた。

そして英二は山岳救助隊になることに2つの意味があると気がついた。
1つには周太を警察官として援けられる立場を得る、もう1つは「山ヤ」が自分らしい生き方になるかもしれない。
その2つを手に入れられたら、ひとりの男としても警察官としても、周太を背負うことが出来るかもしれない。
そう気がついて英二は山岳救助隊を志願し努力を重ねて、今の立場と日常を手に入れることが出来た。

だから英二が山岳救助隊である理由は、英二が名峰を目指すアルピニストだからではない。
ただ周太に尽くしたかった事がきっかけで、そして山で出会う誰かのために尽くしたいと思うようになった。
そんな生き方はただ「山ヤで山岳レスキュー」であるだけでいる。
こんなふうに自分の原点に気がついたとき英二は、自分が何を求めて国村と約束をしたのか気がつけた。

― あくまで自分はアイザイレンパートナーとして最高のクライマーに尽くしたい。
  自分の山ヤとしての夢も重ねて友人で最高のクライマーを支えて叶えたい、
  そのために自分は、最高の山岳レスキューになりたい。

最高のクライマーの無事を守るため、その専属レスキューとして共に最高峰へ登っていく。
だから自分は最高の山岳レスキューになる必要がある、そのためにはトップクライマーにだって自分はなっていく。
そんなふうに自分は山ヤと山岳レスキューの誇りを懸けて、国村の生涯のアイザイレンパートナーでいたい。
そうして最高のクライマーをサポートして最高峰へ登って、最高峰から周太へと想いを告げたい愛したい。
そんな最高の山岳レスキューとして立場と発言力を得たなら、周太の運命だって変えることがきっと出来る。

「…いついかなるときも、尽くして求めぬ山のレスキューでいよ。目立つ必要は一切ない」

そっと低く呟いて英二は微笑んだ。
自分は目立つ必要はない、ただ尽くしていく最高の山のレスキューになればいい。
それがきっと周太を救い幸せにできる、自分に可能な唯ひとつの道になる。
そして自分も幸せな生き方―山ヤの誇り、男としての夢、大切な友人と叶える夢、そして生きる意味。全てが手に入るだろう。
だから自分は努力を惜しみたくない、だって直情的な自分は本当に欲しいものは必ず手に入れたいから。
その「欲しいもの」を想いながら英二は、左腕のクライマーウォッチに穏やかに微笑んだ。

―俺がほんとに欲しいものはね、きっと、ひとつだけ

英二は良くも悪くも欲がない、そして地道な生き方を好んでしまう。
だから登頂する時すらも国村が一番乗りで英二は全く構わない、むしろ2番手のほうが満足と思ってしまう。
だから今朝も国村に言われた通り、欲がないから相手の期待に応えようとして変な遠慮もしてしまう。
けれど本気で欲しいものは絶対に掴んで離さない、傲慢なほどの直情が自分にはある。

きっと自分はその「欲しいもの」を離さない為になら、どんなことでも出来る。
その為になら自分は遠慮なんかしない、手に入れる為なら全てを懸けたって後悔なんか出来ない。
だってどんなに考えても否定しても、自分の「欲しいもの」への想いを誤魔化すことは少しも出来なかった。
いつだって気がつけば願ってしまっていた、唯ひとりの隣を自分の居場所にしていたい、それだけが欲しい。
だって自分は実直で直情的で思ったことしか言えない出来ない、だから本気で欲しかったら諦められる訳がない。
そんな想いに英二は、左腕のクライマーウォッチを見つめて微笑んだ。

―ね、周太?俺はね、本気で周太が欲しいんだ

このクライマーウォッチはクリスマスに周太が贈ってくれた大切な腕時計。
これを贈ってもらった英二は、元の自分のクライマーウォッチを周太の左腕に嵌めた。
それは山岳救助隊志願を決めてからずっと身に付けていた、英二の大切な時間を刻んだ腕時計だった。
そのクライマーウォッチを周太から望んで「欲しい」と言ってくれた、そして英二の時間を欲しいと望んでくれた。
そんな周太の行動と言葉は「婚約」の通りで、英二は周太に「これは婚約だよ」と告げて入籍の約束を求めた。

―入籍、

開いたページを読みながら心裡に呟いてみる。
男同士でも養子縁組の形で入籍をして、事実上の結婚をすることが日本でも許されている。
まだ卒業配置の立場である今は、そうした手続きを進めることは難しい。けれどいつか時が来たら自分は必ず周太と結婚する。
だって自分はその「いつか」のために努力して全て懸けている、だから諦めることは絶対にもう出来ない。
その「いつか」の許しを今日は周太の母に求めるためにも、英二は川崎の家に行く。

  あの子の最期の一瞬を、あなたのきれいな笑顔で包んで、幸福なままに眠らせて
  そして最後には生まれてきて良かったと、息子が心から微笑んで、幸福な人生だと眠りにつかせてあげて欲しい

周太の誕生日に彼女はそう告げて、英二に息子を託してくれた。
そんな彼女は息子が幸せならと入籍も許したいだろう、けれど英二には気懸りなことが1つだけあった。
その気懸りが彼女を「入籍」に頷かせることを躊躇させるかもしれない。
もし彼女にNoと言われたら、自分はどうすればいいのだろう?
そして自分が入籍の許しを乞うこと自体が、彼女にまた1つ重荷を背負わせることになるかもしれない。

―今日この話を彼女にすることは、本当に正しいことだろうか?

ずっとそのことを考えているうちに、今日になってしまった。
きっと周太は自分が英二と入籍することに伴う問題には、何も気がついてはいない。
その問題を周太自身に話していいのかすら英二は、まだ答えを見つけられないでいる。
あの純粋で端正な親子に自分は重荷を背をわせるかもしれない、いったいどうしたらいいのだろう?
こんなふうに考え込んでいる自分は真面目すぎるのかな?ふと英二は今朝の国村の言葉を思い出した。

  おまえならさ、我儘もきっと正しいよ

周太との「入籍」を望むこと、これもきっと我儘だ。
欲しいものを手に入れたくて自分は我儘を言いたくて仕方ない。
この我儘を自分は周太と彼女に告げてみたい、そして受け留めて欲しくて仕方なくている。
いつも周太は英二の全てを受け留めてくれる、そんな周太の深い想いは英二を安らがせてくれる。
その安らぎを今すぐ欲しくて仕方ない、やっぱり今日話しておきたいと願っている。ページを捲りながら英二は呟いた。

「…うん、富士の前に話したいよな」

再来週には2泊3日で、富士山の雪上訓練と登頂をする予定になっている。
標高2,000mを超える登山は英二には初、本格的な雪渓も初めてだった。
そして国村と高山でのアイザイレンパートナーを組むことも初めてになる。
この富士山での訓練は、英二が国村と最高峰を踏破する可能性への試金石にもなっていく。
英二にとって未踏の標高2,000m超、森林限界を超えた雪山の世界が富士登山訓練になる。

森林限界を超えると風雪を遮るものが無くなり、直接の風雪に煽られ転落や滑落の危険が増してしまう。
そして岩の露出も多くなるために的確なアイゼンワークが求められる。
富士山は日本の最高峰だけれど冬山のレベルとしては比較的ハイグレードではない。
けれどベテランクライマーでも特有の突風に煽られて滑落死している。
山はどんな低山でも危険がある、そのことは3ヶ月超の山岳救助隊員としての日々から身に染みている。
だから今回の富士登山訓練は英二にとって、未踏の経験としても心構えが必要だった。

―それでも、楽しみな気持ちのが大きいな

森林限界を超えた雪山の世界。
警察学校の学習室で見た資料、青梅署独身寮で借りた資料、そして御岳のクライマーだった田中が撮った写真。
どの写真でも写っているのは、雪と氷が支配する世界の峻厳と白銀の荘厳な美しさだった。
人間の力など及ばない世界、今いる場所よりも遥かに空へと近い場所。

―そこへ立った時、自分は何を想うのだろう?

左腕のクライマーウォッチを見て英二は微笑んだ。
日本最高峰の富士山、そこで自分はきっと周太のことを想うだろう。
それから何を想うだろう?きっと森林限界を超えた高山での山岳レスキューについても考えるだろう。
いま開いているページはそんな現場に立つ、長野県警察山岳遭難救助隊の実録が綴られている。

警視庁山岳救助隊の英二は管轄の奥多摩が標高2,000m以下のために、こうした高山の現場に立つことは無い。
けれど国村とアイザイレンパートナーを組むための登山訓練で、これから高峰へと登っていく。
それら高峰ではどんな遭難事故が発生する可能性があるのか、そして最適の対応はどうするべきか。
そんなヒントを少しでも欲しくて英二は、他管轄の山岳レスキューの資料を求めては読んでいる。
こうした国内の高峰での訓練が今シーズンは積まれていく。
そして英二の卒配期間が終わり本配属となり次第、国村と世界の高峰への踏破が始まる。

世界の高峰への踏破、その時には標高8,000m超の現場に立つことになる。
そこでは簡単に救助要請など出来はしない、登山の大原則「登山は自己責任」が当然のルールとなる。
そして国村は生粋の山ヤとして誇り高く、自身が選んだ英二以外とはアイザイレンを組むつもりが全く無い。
だから国村のレスキューはアイザイレンパートナーの英二が務めるしかない。
最高のクライマーで大切な友人の国村、その生命と山ヤの夢を守れるのは自分しかいない。
そうして国村を守ることが自分に立場と発言力を与えてくれることにもなる、そして周太を援けることも出来るだろう。

そんな世界への第一歩が再来週の富士登山訓練になる。
きっと周太とは富士登山前に会えるのは今日が最後になる、だから今日は周太とその母にきちんと許しを乞いたい。
そして心にも1つ決着をつけてから、その第一歩へと踏み出せたらいい。
そんな想いで英二は本を閉じると、中央特快に乗り換えるために立川駅で降りた。


新宿駅で中央特快を降りると、いつものとおり南口改札を抜ける。
左腕のクライマーウォッチを見ると、ちょうど約束の12時だった。
まだ周太は来ていない、きっと射撃特練が長引いたのだろう。ブラックグレーのコート姿で英二は駅前通りへ出てみた。
眺める街には雪の跡は無いけれど寒い、きっと昨夜の新宿はすこし雪が舞っても積もらなかったのだろう。
けれど奥多摩は雪が積もっていた。やはり新宿と奥多摩では気候が違うのだな、そんな違いも楽しくて英二は微笑んだ。
通りから待合せ場所を振向くと周太はまだ来ていない、ふと振動を感じて英二は携帯を開くと耳に当てた。

「周太、おつかれさま」
「ごめん英二。俺、遅くなった…いま新宿に着いたんだ」

すこし焦ったような困ったような声がなんだか可愛い。
きっと約束に遅れるなんて、いつもは無いことに困っている。微笑んで英二は答えた。

「じゃあさ、周太?寮の近くの街路樹で待合わせしよう。20分くらい後に着くけどいい?」
「ん。…ありがとう、英二。急いで仕度する」
「周太、早く逢いたいな。でも焦らなくていい、気をつけておいで?」

短い会話のあとで携帯を閉じると改札の方を振向いた。
そう振り向いた視界の端いつもの花屋が映り込んで、思いついて英二は店先に立った。

「こんにちは、花束をお願いできますか?」

微笑んで声をかけると、いつもの売り子の女性が気がついてくれる。
カウンターの奥から出てくると微笑んで、英二に訊いてくれた。

「いつもありがとうございます、今日はどういった花束をお求めですか?」
「この前と同じひとへ、感謝の花束をお願いできますか?」
「かしこまりました、あわいお色のブーケがよろしいですね」

いつものようにパステルカラーの花を選んで、手際よく美しい花束を作ってくれる。
周太の母への花束をお願いしながら、もう一つの花束のため英二は花を見渡していく。
どんな花が良いのだろう?こういうことは初めてでよく解らない、けれど選んであげたいな。
そう見回していくうち思いついて、売り子の女性に英二は訊いてみた。

「すみません。花言葉で花束を作ってもらうことは出来ますか?」
「はい、大丈夫ですよ?…もう一つ花束をお作りいたしますか?」
「ええ、お願いします」

答えながら英二は、手帳からメモを1枚切りとるとペンでいくつかの言葉を綴った。
それを売り子の女性に渡しながら英二は微笑んだ。

「この言葉に合うような花をね、まとめてみて頂けますか?」
「はい…どんな方に差し上げる花束でしょう?」

訊かれながら見つめられて、英二は少し考えた。
それから軽く頷くと幸せそうに、きれいに笑って答えた

「瞳がきれいで、すぐ赤くなるくらい純情で、笑うと最高に可愛い。俺の、いちばん大切なひとです」

そんな英二を彼女は見つめていた。
けれどすぐに笑ってPC画面を英二へと見せながら、花言葉のHPを出してくれた。

「こちらの言葉ですと、このお花になります。いかがですか」
「きれいですね、店頭にありますか?」
「はい、こちらになります」

話しながら彼女は、きれいに花束をまとめてくれる。
あわい赤、深紅、白、それからグリーン。可愛くて初々しい艶ふくんだ清楚なトーン。
イメージに合うなと眺めながら英二は微笑んだ。
リボンをかけて仕上げると、彼女はカードを添えて英二に花束を渡してくれた。

「こちらに花束に使ったお花の、花言葉を書いてあります。添えて贈られてもいいかと思います」
「ありがとう、こういうカード良いですね。きっと喜びます」

2つの花束とカードを受けとって英二は、きれいに笑った。
そんな英二の笑顔を見つめて、そっと彼女は微笑んだ。

「どうぞ、お幸せに。…また、いらしてくださいね?」
「はい。今日は本当に良い花束を、ありがとう」

幸せに笑って英二は2つの花束を抱えて花屋を後にした。
そう歩きだした背中に、ふと視線が感じられる。けれど英二は振り返らないで西口に繋がる道に入った。
たぶん自分が感じることは当たっているだろうな。そんな感じに尚更に英二は振り返りたくなかった。
だってもう自分は全て周太のもの、だから誰にも欠片も自分をあげられない。

ごめんね、でも大丈夫。あなたに相応しい人が、きっといるから

そんなふうに背中の向こうの視線に問いながら、英二は久しぶりの通りを眺めた。
この通りはクリスマスの朝に周太と歩いて、雪の中のカフェで朝食をとった。
そのカフェの前を通りながら幸せな朝の記憶に英二は微笑んだ。
これから今日は川崎へと向かう、たぶん川崎の家に着いてから遅い昼食をとるだろう。
きっと訓練が長引いて周太は疲れたはず、仕度を簡単に済まさせてあげたいな。
考えながら歩いているうちに、いつもの街路樹に着いていた。

「英二、」

名前を呼ばれて英二は街路樹の下を見つめた。
見つめる木の下闇から穏やかな気配が動くと、あわいブルーグレーのダッフルコート姿が微笑んだ。
クリスマスに贈ったコートを着てくれている、うれしくて英二はきれいに笑った。

「周太、」

名前を呼んで隣に立つと英二は、抱えた花束ごと周太をそっと抱きしめた。
抱きしめた花束とやわらかな髪からの香が頬にふれる、ふれる香の記憶が幸せな想いを重ねてくれる。
すこしだけ体を傾けると英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「逢いたかった、周太」

きれいに笑って英二は抱えた花束の翳で、静かに周太にキスをした。
ふれる温もりが穏やかで、かすかなオレンジの香と甘さが懐かしい。
うれしくて幸せな想いが温かい、花束ごと英二は自分の幸せを腕いっぱいに抱えて佇んだ。

「…英二、遅くなってごめんね?特練が長引いたんだ、…もっと早く終わると思ったんだ、俺」

しずかに離れて見上げながら周太が謝ってくれる。
そんな謝らなくていいのに?そう目で言いながら英二は周太の右掌をとって笑った。

「うん、周太。早く逢いたかったから、ちょっと寂しかったな。でも俺もね、電車の時間あぶなかったんだ」
「そうなの?」

話しながら英二は周太の右掌を自分の左掌と繋いで、自分のコートのポケットにしまい込んだ。
そんな英二の様子に、すこしだけ黒目がちの瞳が困ったように瞬いた。
やっぱり日中に新宿署の近くでは拙いかな?隣の顔を英二は覗きこんだ。

「周太?やっぱここだと困る?」
「ん、…見られたら困る、かも…でもね、俺も手を繋ぎたかったから…うれしい」

気恥ずかしそうに微笑んで周太が答えてくれた。
こういうのは嬉しい。そう素直に英二は思ってしまう。求めてもらえて恥じないでもらえる態度が嬉しい。
それは周太にとって勇気がいることだと知っている、そんな周太の想いが英二は嬉しかった。
きれいに笑って英二は、そっと左掌に繋いだ周太の右掌をやわらかく握りこんだ。

「ありがとう、俺の婚約者さん。そういうのってさ、ほんと俺、うれしいよ」
「ん、…俺もね、…ほんとうはいつも、英二のね…うれしいんだ」

穏やかに微笑んでくれる黒目がちの瞳が、クリスマスの翌日に別れた時より深く静かに澄んでいる。
この隣はまたきれいになった、一緒に歩きながら英二は自分の想い人が不思議で愛しかった。
どうしてこんなふうに周太は逢う度ごと、きれいになってしまうのだろう?
こういう人に出会ったことは今までになかった、男でも女でも周太のような人を英二は知らない。
本当に出会えて良かったと素直に思えてしまう。

「英二、…今朝のメール。写真きれいだった、ありがとう…今朝も早かった?」
「うん、今朝は3時かな?でも昨夜早く寝たから大丈夫だよ、周太」
「あ、…昼ごはんだけど、途中でパン屋に寄ってもいい?あとはね、簡単なスープ作るつもりだけど…足りないかな?」
「大丈夫だよ、周太。周太こそ疲れただろ?夕飯とかも簡単でいいよ?」

話しながら改札を通って山手線に乗り込んだ。
金曜日の日中で混雑はしていないけれど、座らずに窓際に並んで立った。
扉が閉まると隣から見上げて周太が微笑んだ。

「夕飯はね、おせち料理を簡単だけどするから…だから買い物とか、つきあってくれる?」
「周太、作ってくれるんだ?うれしいよ、買い物はいったん帰ってからにする?」
「ん。…あの、母がね?今日もまた温泉に行くらしい…だから途中まで送りがてら、買い物行こうかなって」

ちょっと困ったように言うと周太は首筋を少し赤らめてしまった。
たぶん周太が母の外出を知らされたのは今日、そして2人きりになる事が周太は気恥ずかしいのだろう。
温泉のことは、英二は周太の母から元旦の朝に訊いている。
今日明日の連休が決まってすぐ連絡をしたときに、周太の母から留守にするからと告げられていた。
きっと2人の時間を遠慮なく過ごせるよう気を遣ってくれている、そして彼女自身が自由に友人と過ごす事を望んでもいる。
けれど彼女は息子の性格をよく知っているから、直前まで黙っていたのだろう。微笑んで英二は隣の顔を覗きこんだ。

「うん、送りにいこう。ね、周太?今夜2人きりだね。俺はさ、うれしいけど?」

きれいに笑って英二は花束を抱えなおした。
そして左掌に繋いだ自分より華奢な右掌を大切にくるみこんだ。

「ん、…はずかしくなるそんないいかた…でも、…一緒はうれしい、な」
「素直でいいね、周太。お、品川に着くな。乗換だね、周太?」

これから今日は、この隣とその母に自分は決断を迫らなくてはいけない。
そうした我儘を言うことは少しだけ重たく怖い、けれど本当に周太を大切にするためには必要になる。
ひそやかに1つ呼吸をすると、手を繋いだまま乗り換えのために電車を降りた。



(to be continued)

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第31話 春隣act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-01-04 23:58:18 | 陽はまた昇るside story
見つめる想いと一緒に




第31話 春隣act.1―side story「陽はまた昇る」

目覚めた視界は青い暁闇に見つめられた。
夜明けはいくぶん遠い静謐に部屋は鎮まっている。きっと3時頃と枕元のクライマーウォッチを見ると長針と短針の位置は予想通りだった。
今朝も時間が当って英二はちょっと微笑んだ。そのまま起きあがって窓を見ると白く曇っている。
静かにサッシに手をかけて開けていくと、その隙間からそっと水けを含む冷気が部屋へ滑りこんだ。
そんな冷気に白いガラス窓を開いた向こうは、白銀おだやかな山麓の街が夜の底に眠っていた。

「…新雪だな、」

そっとつぶやいて英二は笑った。きっと今頃は国村も喜んで外を見ているだろう。
笑って見つめる山嶺は雪明りに白く夜に稜線を描いていく、その上空には雪雲がまだうすく残っている。
山上は雪が降っているかもしれない、そのつもりで装備を準備しようと英二は窓を閉めた。
これから山岳訓練を3時間半コースで国村とこなす、そのあと武蔵野署で射撃訓練をして青梅署に戻り携行品返却をする。
それから新宿で周太と12時に待ち合わせて、川崎の家に向かう。
今日はハードスケジュールになるけれど、どれも英二には楽しみだった。

年明けてからは山岳訓練も射撃訓練も初めてになる、どちらも1週間ぶりで楽しみに思えてしまう。
御岳駐在所は管轄に武蔵御嶽神社を持つため、年末年始は警邏や参拝登山客の対応など忙しい。
そのために訓練は休憩合間の短時間ですむボルダリングやザイル下降しか出来なかった。
登山は国村とのショートコースでの早朝登山や御岳山巡回はほぼ毎日こなしてはいる、けれどグレードがやはり違う。

「そういえば、今日はどの山に登るか訊いてなかったな?」

思わず独りごとに英二は首を傾げた、いつもなら前夜にはコースを言われて地図でチェックをする。
けれど昨日はシフト交替で非番になった国村は、実家に帰って家のことをしていた。それで帰寮も遅かったらしい。
でもメールもないから多分、英二がよく知っているコースなのだろう。
そう考えながら着替えを済ませ救急用具の点検が終わるころ、また扉が勝手に開かれて国村が覗きこんだ。

「おはよ、宮田。出れる?雲取山に行くよ、野陣尾根で急登の訓練な」
「おはよう、出れるよ。って国村…勝手に鍵開けたらダメだろ?」

隣室に迷惑かけないよう笑いながら念のため英二は文句を言った。
けれどやっぱり国村は飄々と笑っている。

「ノックしたら近所迷惑だろ?どうせ簡単に開くんだしさ、このほうが手っ取り早いよ、ねえ?」
「まあな、確かに音はしなくていいけど」

もとから器用な国村は道具でも料理でも何でも工夫がうまい。そして射撃や逮捕術も器用にこなして特技になっている。
そんな特技のひとつが「開錠」らしく、いつも英二の部屋の鍵も針金で簡単に開けて入ってしまう。
もし警察官でも兼業農家でもない無職なら、凄腕の犯罪者になってしまったかもしれない。
こいつが農家の一人っ子長男に生まれた事は、世の中にとって幸運かもしれないな。
そう考えながら笑う英二の顔を見て、すうっと細い目をさらに細めて国村が笑った。

「宮田?おまえ、また俺のこと犯罪向きとか考えてるだろ?」
「うん、だって本当だろ?」

登山靴を履きながら英二は素直に答えた。
そんな英二にゲイターを投げてよこしながら愉快げに国村が答えた。

「だね。まあ、そういう転職する時もさ、おまえには声かけるからね。生涯のアイザイレンパートナーとしてさ、ねえ?」
「犯罪までアイザイレンパートナーするのは嫌だよ?周太が哀しむことは俺、絶対にしないからな」
「おまえってさ、ほんと湯原くんが全てだよね。やっぱり婚約するって違う?」

登山靴の上からきっちりゲイターを履いて、ザックを背負うと英二は立ち上がった。
そして同じ高さの細い目を見て、幸せに英二は笑いかけた。

「そうだな、人生をきちんと背負わせてもらえたなって自信になるな。でも周太が全てなのは、つきあう前からなんだ、俺」
「ふうん?それってさ、いつからだよ。あ、時間無いから歩きながらね?」

しずかに廊下へ出て扉に鍵をかける。午前3時20分、まだ寮は眠りの静寂にしずまっていた。
まだ薄暗い廊下を、冬用登山靴の固い踵が鳴らないよう気をつけて歩いていく。
個室エリアを抜けてから低い声で英二は答えた。

「…前にさ。国村んちの河原で、初めて藤岡も一緒に飲んだ時に話したことだよ」
「…あばずれに振られた脱走の夜?それとも、公園の初ベンチか?」

さらり「あばずれ」と言われて英二は横の顔を見た。
当時の彼女に騙されて英二は警察学校を脱走した、その彼女を国村は「あばずれ」と呼んでいる。
そんな国村は上品な顔で飄々と笑っている、けれど英二の話を思いだして国村は怒っているのだろう。
こんなふうに国村は怒ると笑顔のままでも、さり気なくキツイことを言ってしまう。
なんだか申し訳ない気分で英二は、すこしフォローを言ってみた。

「うん、公園のベンチの時…なあ?あばずれ、って言うのはちょっと悪いよ?俺だって悪いんだしさ」
「なに言ってんのさ、あばずれで充分だろ?」

またさらっとキツイ形容詞を遣いながら、国村は微笑んだ。
でもなと見る英二を見かえしながら人差し指一本立てて国村は笑った。

「山ヤは自然の掟に生きるから誇り高いんだ。
 そういう山ヤの誇りを汚す人間はさ、自然のルールに逆らうのと同じだよ。そういう傲慢な人間は蔑まれて当然だね」

山と自然の峻厳な掟、それが自身のルールでもある生粋の純粋無垢な山ヤで国村はいる。
だからだろうか、こんな話を国村とするとき英二は、いつも山の化身とでも向き合う気持ちになっていく。
けれど国村は自分と同じ年で、上品な顔に似合わずオヤジで、愉快な友人でいる。
そして今も同じ山ヤとして友人として、当時の彼女に怒ってくれているのだろう。
こんな真直ぐな友人の想いが嬉しくて、英二は微笑んだ。

「うん、ありがとう国村。誇りを傷つけられたことはね、河原でも話した通りだ…
 俺、やっぱり許せないでいる。でもさ、あのころは自分にも嘘ついて生きていたからさ、仕方なかったっても思ってるんだ」
「そんなにさ、自分を責めるんじゃないよ?まったく真面目だね、宮田はさ」

呆れたように言って、けれど細い目は温かく英二に笑いかけてくれる。
でも、と言いたげな英二を抑えるように、立てた人差し指で国村は英二の額を小突いた。

「宮田の外見が美形すぎて目立ち過ぎるからってさ、外見だけで勝手な妄想しすぎて宮田の心と向き合えなかった。それだけだろ?
 そうやって宮田を傷付けたことはね、勝手な妄想にハマった相手の責任だ。おまえの責任じゃないよ、美形なのは持って生まれただけだ」
「そうかな?」
「そうだろ。おまえってさ、ほんと損な性格している時あるよね?
 そんだけ美形なんだしさ、我儘に自分をゴリ押ししちゃっても普通モテるだろ?変に気を遣うなよ、おまえ素で充分いけてるよ」

そう言って国村は楽しげに青梅署ロビーから雪へと一歩踏み出した。
さくりと新雪を踏んで満足げに笑っている顔は、色白で上品に整って秀麗な文学青年風でいる。
この国村も美形だけれどずっと自由なまま生きている、自分とは何が違っていたのだろう?思ったままに英二は訊いてみた。

「国村ってさ、きれいな顔しているよな。体格も俺と同じ感じだし。でも俺みたいなことって無かったのか?」
「うん?宮田みたいに『きれいな愛玩人形』にされるってことか?」
「…うん、」

いつも褒められる「華やかな外見」に人は寄ってくる、けれど英二は実直で真面目な性格で地道な性質でいる。
だから華やかな外見通りの性格を求められると相手を失望させてしまう、そのたびに英二は傷つけられてきた。
そして本音で人と接することを諦めて、求められる姿通り「きれいな愛玩人形」として楽に生きようと思ってしまった
そう諦めてしまえば傷つくことは少なくなった、でもそれは悔しくて辛いだけの寂しい生き方だった。
けれど英二は周太と出会ったことで本音で生きることを取り戻し、そのお蔭で今ここに立っている。
周太に出会えていなければ英二は、相手の期待ばかりに応えて自分を押し殺し続けて、本当に自分を壊していただろう。

そんな生き方を一時でも選んだ自分と、ずっと自由に素顔で生きられている国村の違いは何だろう?
この自分と似ている友人の答えを知りたくて、英二は並んで歩く秀麗な顔を見つめていた。
そう英二が見つめる細い目を可笑しそうに笑ませて国村は口を開いた。

「まあね、勝手な妄想するやつはさ、いたりもするみたいだよ?」

さらっと答えて国村が笑ってくれた。
思った通りだったな。自分と同じ経験をした人間がいてくれる、そんな安心感に英二は微笑んだ。

「やっぱり?国村も性格と見た目のギャップ、酷いもんな」
「だろ。俺って結構いけてるよな?しかも性格とのギャップは宮田よりずっと酷いね。それでも外見だけで妄想するヤツいるんだよな」
「たとえば、王子様とか?」
「そ。まあ俺は和顔系だからね、『若様』とかさ、中国の武将の名前で呼ばれたりね。で、どれも耽美なイメージでさ。笑っちゃうだろ?」

話しながら雪つもった青梅署の駐車場を歩いていく。
すぐに国村の四駆に着くと、運転席に乗り込みながら国村はからり笑った。

「でも俺は俺だからさ、そんな妄想と俺は無関係だね」

自分は自分、だから人の思惑なんて関係ない。
そんな真直ぐな強さが国村らしい、なんだか嬉しくて英二は横へと笑いかけた。

「そっか。俺は俺だよな?」
「そうだよ。自分が自分であることにね、遠慮なんかいらないだろ?
 宮田は真面目すぎてさ。相手に気を遣い過ぎるから、変に遠慮しすぎる時がある。
 相手に遠慮してさ、相手の期待に応えないと悪いって思うだろ?そのせいで人形になっちゃったんじゃないの。あ、シートベルトしめな?」

真面目すぎて遠慮しすぎ。
自分は周りに遠慮しすぎて自分自身を歪めてしまった、そう国村は言ってくれる。
そうかもしれない、英二は国村の言葉に頷いた。

「そうだな。俺、なんか相手の期待に応えないと悪いと思ってた」
「だろ?真面目なのはいいけどね、見当違いな期待にまで応えなくていい。そういう度外れた真面目は止めときな。
 だからさ、宮田。俺には絶対に遠慮するなよ、何でも言っちまいな。でなきゃ生涯のアイザイレンパートナーなんかやってらんないからね」

からり笑いながら国村はハンドルを捌いていく。
まだ暗い車窓の向こうは白銀がしずまっていた、それを友人の向こうに見ながら英二は微笑んだ。

「うん、ありがとう。俺もさ、国村みたいに我儘もっと言おうかな?」
「良いんじゃない?おまえならさ、我儘もきっと正しいよ」

そんなふうに国村は温かく目を細ませて、おだやかに笑ってくれた。
けれどすぐに底抜けに明るい目で愉快そうに唇の端を上げた。

「あ、そうするとストッパー居なくなっちゃうか。やっぱ宮田は程々にしとけ、俺が自由にできなくなる」
「なんだよ、それ?」

あっけらかんと笑う国村に英二も笑ってしまった。
一緒に笑いながら国村が続けて言ってくれる。

「だってさ、俺たちってパートナーだろ?やっぱバランスがあるね。だから俺が勝手する分をさ、宮田が真面目にフォローすりゃ調度良いよ」
「それじゃ俺、周りの期待に応えることになるよ?さっきと言ってること違うだろ、ほんと国村って自由だよな」

ちょっと呆れながらも笑ってしまう。
だってこれも国村らしい我儘と優しさの表現だろう。こうやって国村は英二に「もっと言っちまえよ」と促してくれている。
こういう男っぽい大らかな優しさが国村らしくて、そんなところが英二は好きだなと思う。
こいつやっぱり良いやつだな、そう笑っていると国村が言った。

「どうせ宮田は真面目人間だからね、我儘を言いまくるとか出来ないんじゃないの?仕方ないからさ、もう一生ずっと俺のフォローしてな」

一生ずっとフォロー。きっとそうなるのだろう、英二は微笑んだ。
生涯のアイザイレンパートナーとして、最高のクライマーをサポートするレスキューを自分は目指すのだから。
でもきっと山以外の場所では ― 周太を守るためには英二が国村にサポートしてもらうだろう。
それも国村は解ってくれている、フォローし合って山も他も越えようと言ってくれている。
それが本当にうれしくて、ありがたくて英二は笑った。

「そうだな、一生フォローするよ。だから国村、俺のフォローも頼んだよ?」

ちらっと細い目が英二を見て笑ってくれる。
それからテノールの透る声で国村が言ってくれた。

「おう、任せな。ま、俺のフォローはさ、ちょっと驚かせるかもしれないけどね?」
「ありがとう、驚くのも楽しみだな」
「だろ? さ、着いたよ」

軽やかに笑って国村は車を停めた。
AM4:00まだ日原林道は暗い夜でいる、ヘッドライトを点けてアイゼンを履く足元が白い。
青梅署周辺よりも雲取山の方が当然雪は深い、ゲイターを装着した踝までが雪へと踏み込んだ。

「ちょっとラッセルも必要かもね、良い訓練になるな」
「うん、指導よろしくな」

落葉松分岐の手前にかかる吊橋も雪化粧していた。
雪で滑りやすい足元に気をつけながら渡りきると、野陣尾根へと道をとる。
まだ暗いブナ林は雪の底へと音が全て吸いこまれ静謐が佇む。「冬の眠りにつく」と言う通りだな、ほっと英二は息ついて微笑んだ。
その吐く息が凍っている。気温マイナス5℃、見上げるとブナの梢には樹氷が美しい。
アイゼンに気をつけて歩きながら英二は、ブナ林の樹氷をヘッドライトと星明りに透かして眺めた。

「今日の日の出は何時だっけ?」

少し前を歩く国村が笑って訊いてくる。
訊かれて英二は昨日チェックした国立天文台の暦計算室HPに掲載されたデータを答えた。

「6:51だよ。日の出を見てから下山する?」
「そりゃ見たいよね。でもな、そうすると武蔵野署に着くの遅くなるな?うん、やっぱり今日はさ、射撃は休んじゃおうよ」

わが意を得たりと言わんばかりの顔で国村が笑った、やっぱり本当は射撃訓練など嫌いなのだろう。
もう1か月後には開催される警視庁拳銃射撃大会に、センターファイアピストル青梅署代表として国村はエントリーされている。
エントリーされた時は国村は不貞腐れた、警察学校時代に本部特練選抜された嫌な経験から拳銃嫌いになっている為だった。
そんな国村は出場する条件を3つ出し全て承諾された上でエントリーが決定している。
その条件「一人で嫌な事したくないから宮田も射撃訓練に参加する」の通り、英二は国村の射撃訓練につきあっていた。
けれど英二が訓練に付き合うのは「国村が訓練放棄しないよう管理する」ように後藤副隊長達に頼まれたのが真相になる。
そんなわけで英二は、今日も真面目に国村を窘めにかかった。

「それはダメだろ、国村?手配してくれる後藤副隊長に悪い、ちゃんと今日も行こうな」
「でもさ、日の出を見て下山したら唐松谷分岐に8時前だろ?
 それから武蔵野署へ行ったらさ、青梅署に戻るの10時半だけど?そしたらさ、湯原くんとの約束に遅れちゃって困るだろ?」

そんなふうに国村は英二のスケジュールを引き合いに、射撃訓練をサボる正当性を主張した。
英二と国村は山岳救助隊でもパートナーを組むため、お互い相手のスケジュールを把握している。
山岳救助隊ではパートナー同士のスケジュール把握は、非番や週休でも遭難現場に駆けつけられる場所にいれば召集対応するため必要だった。
特に英二と国村は180cm超の大柄なうえ細身でも筋肉質で重く、釣合う体格はお互いしかおらずパートナーの代理は立てられない。
そのため2人は必ずセットで召集が掛かる、そんな理由もあって英二と国村は互いにスケジュール把握をしている。
そんな唯一無二のパートナーの発言に、微笑んで英二は答えた。

「青梅署10時半なら問題ない、元からそのつもりで予定してあるから」

英二は新宿12時に待ち合わせてある。
きっと国村は日の出を山頂付近から見たがるだろう、そう思って逆算した上で予定を組んでいた。
こんな予想通りの展開が可笑しい、可笑しくて英二は微笑んだ。
そんな英二の顔を見た国村の細い目が、すこし大きくなって「参ったなあ」と笑った。

「おまえさ、最近どうも俺のこと操縦するの巧いよね?」
「まあね、俺だって学習していますから?それにさ、生涯のアイザイレンパートナーを組むならこれくらい必要だろ」

笑って英二は答えた。
国村も文学青年風の端正な顔を笑ませると楽しげに口を開いた。

「頼もしいね、よろしく頼むよ宮田。じゃあ日の出はさ、七ツ石山から見よう。
 あそこからなら俺たちだと1時間かからず下山できるだろ?それに雲取山頂と七ツ石山頂の2つ三角点に行けるな」
「いいな、2つ行けるのは楽しそうだな。で、登山計画書はどんなルートで出している?」
「野陣尾根の往復だよ、急登の訓練のつもりだったからね。なに、計画書通りじゃないとNGか?」

おまえって真面目だからなあ、そんな目を国村に向けられて英二は首を傾げた。
これも予想通りの展開だなと思いながら英二は答えた。

「計画書は大事だろ?でも変更していいよ。青梅署もね、携帯からでも計画書変更できるようになったから」
「へえ、そんなこと出来るようになったんだね。もしかしてさ、宮田がやった?」

歩きながらも細い目が少し大きくなって英二を見やった。
そんなパートナーを見やって英二は、野陣尾根の急登をテンポよく登りながら微笑んだ。

「うん、この1月から稼働させたんだ。登山計画書出してもさ、天候とか体調で変更することあるだろ?
 そういう時の対応が出来たら良いなって後藤副隊長と話していてさ。それで青梅署だけでもって始めてみたんだ」
「ふうん、最近はメールとかネットで登山計画書だせるのは多いよな?あんな感じか」
「そう。あんな感じでメールフォームを作ってみたんだ。でも電波が届かないと使えないからさ、どこまで役に立つかな?」

そんな話をしながら小雲取山を通過すると、雲取山頂へと5時半に着いた。
左腕のクライマーウォッチに時間を確認しながら、この時計の贈り主を想って英二は微笑んだ。
この7時間後には想いの人の、なつかしい笑顔の隣に自分が立っているといい。
そんな想いで見まわした山頂は静かで、昨夜の降雪の為かテント泊も今日はいない。
無人の様子に機嫌よく笑うと国村は、左手のグローブを外しながら雲取山頂を示す三角点の前に立った。

「よし、俺が一番乗り」

うれしそうに笑うと三角点に積もった新雪へ、左手を突っ込んで手形をつけていく。
器用に雪から掌を抜くと巧く手形が出来上がっていた。

「ほら、宮田もやんなよ」
「うん、ありがとうな」

促されて英二は左手のグローブを外した。
そして周太から贈られたクライマーウォッチを嵌めた左で、英二は三角点に手形を付けた。
ゆっくり左手を抜きとると雪の中に手形がついている。国村の手形を壊さなくてよかった、おだやかに英二は微笑んだ。

「よし、宮田が2番目だ」

愉快そうに笑いながら国村は外したインナーグローブとオーバーグローブを左手にはめなおした。
英二も左手に2つのグローブをきちんとはめなおす。冬期はこんなふうに2枚重ねでグローブをする。
グローブをはめ終わって英二は山波の向こうを遠望した、そこは新宿の夜景が広がっている。
あの新宿の光の海では、周太は今頃きっと当番勤務で起きているだろう。

― 周太。いま俺はね、雲取山頂から周太を見つめているよ。この東京の最高峰から、周太を想っている

おだやかで純粋な笑顔を想いながら英二は夜景へと微笑んだ。
それから携帯を取り出すと国村を振り返った。

「登山計画書の変更申請しようよ」
「あ、そうだったな。じゃ電波のポイントに行かないとね」

雲取山では携帯電話はほぼ圏外になる、けれど数少ないポイントを国村は知っていた。
この山頂でもピンポイントが一ヶ所だけある、そこへ英二は立つと登山計画書の変更申請をメールフォームで送った。
手続きが終わってポケットに携帯を戻すと、楽しげに国村が英二を促した。

「じゃ、七ツ石山に行くよ。目標タイムは30分で」
「わかった、国村のペースで歩いてくれ。俺、付いていくから」
「結構ハイペースだよ?ま、アイゼンに気をつけて付いてこいな」

話しながら今度は尾根を歩いていく。
まだ夜の闇にしずむ山脈は蒼いままでいる、けれど雪の反射で稜線が星明りに浮かんできれいだった。
そんな光景は雪の静寂にひそやかで、氷を張りつめたような大気が頬撫でる。
ヘッドライトの下で並んで歩く顔は冷気に紅潮して、落ち着いた秀麗な顔だけれど幼げだった。
ちいさいころに絵本で見た雪ん子みたいだ、なんだか微笑ましくて英二は微笑んだ。

「なに宮田?俺の顔を見てひとりで笑って」
「うん。おまえさ、寒いと頬が赤くなるだろ?なんか雪ん子みたいだな」
「ああ、よく言われる。結構かわいいだろ?」

からり笑って細い目を笑ませた。
そうして他愛ない話をしながら30分弱歩いて、七ツ石山頂の三角点に6時前に到着した。
ここから雲取山頂もよく見える、さっきまでいた場所をこうして眺めるのは不思議な感じだった。
すこし背の高い三角点の石も雪で今日は半分くらい埋まっている、こんもり積もった三角点の頭の雪に国村は手形を押した。

「よし、ここも俺が一番乗りだな。宮田、次のスタンバイしなよ?」
「うん。ありがとうな、国村」

あたりの新雪には国村と英二の足跡しかつけられていない。
時刻はまだ6時過ぎ、日の出までの時間が40分はある。こんな時間に山頂へ立つ物好きも少ないだろう。
こんな物好きに自分がなるなんて、去年の春に警察学校へ入校したときは思ってもみなかった。
国村の後から手形を押しながら、こういう今の自分が英二は愉快でうれしくて微笑んだ。
ゆっくり手形から左手を抜くと英二は、掌についた新雪をそっと握りしめた。

「宮田、朝飯にしようよ。ここらへん雪除けな」
「いいな、腹減ったなって思っていたんだ。俺もね、クッカー持ってきたんだ」
「このあいだ買ったやつか、今日が初めて使うんだろ?」
「駐車場で試しはさ、吉村先生と1回やってみたんだ。結構いい感じだよ?」

話しながら雪を除けて、座る場所とクッカーを設置する場所を広げる。
こういう作業にも英二はだいぶ手慣れた、ほぼ毎日の早朝をショートコースでも登って国村と露営の練習をしている。
すぐに場所を作るとクッカーで湯を沸かしながら、ザックに座って英二は国村に包みを渡した。
受けとると、国村は機嫌よく笑って包みを開いた。

「握り飯だ、いいね。昨夜のうちに用意したんだ?」
「うん、食堂の調理師さんが作ってくれたんだ。カップ麺だけじゃ腹減るだろ?」
「そうなんだよね。カップ麺のスープにさ、握り飯入れても旨いんじゃない?」
「雑炊みたいだな、いいかもな」

そんな会話の合間に、ゆるやかな湯が沸く音が早朝の静寂に響きだす。
沸いた湯をカップ麺に注いで蓋をすると、いつものように国村が英二に注文をした。

「じゃ、3分な」
「いいよ。国村、マグカップ出して。インスタントコーヒー先に飲もうよ、夜明け前で寒いだろ?」

言いながら英二は自分のマグカップをザックから出して地面に置いた。
そんな英二の様子を見ながら国村は、温かく細い目を笑ませて自分のマグカップを出した。

「ありがとな。うん、宮田もさ、なんだか手馴れてきたね」
「ほとんど毎日な、国村きちんと教えてくれるだろ?そのお蔭だよ。後藤副隊長と吉村先生にも教わっているしさ」
「そっか、そうだな。宮田が来て3ヶ月ちょっとか?特にさ、12月は山ばっかだもんね。もう宮田、すっかり馴染んだろ?」
「だな。なんかもっと昔からさ、こういう生活しているような気がすることあるな。はい、熱いから気をつけろよ」

他愛ない会話をしながらコーヒーを啜って握り飯を頬張った。
山の冷気で握り飯は冷えているけれど、熱いコーヒーで気にならない。
そういえばと想いだしながら英二は口を開いた。

「あのな、温かい飲み物は冬山ではさ、必ず飲んだ方が良いらしいな」
「うん?ああ、なにか吉村先生に教えてもらったね」
「そうなんだ。温かい飲み物でな、血流を保つことが凍傷予防に効果的なんだ」

いつも英二は吉村医師の手伝いを朝夕とさせてもらっている。
そして週休に調度よく吉村の予定と会えば一緒に山へ登り、遭難事故が起きやすい状況や地形について実地講習を受ける。
吉村医師は自身も山ヤだから現場に即した医学知識と見解を持つ。そういう吉村医師の講義は現場から入った英二には解りやすい。
そんな英二の知識に感心したように底抜けに明るい目で国村は頷いた。

「なるほどね、体に必要だからさ、旨いって感じるのかもね」
「その通りなんだ。あ、3分だ」

出来上がったカップ麺は今朝もちょうどいい具合になっている。
握り飯と一緒に腹へと納め終わるころ、すこし空が明るみ始めた。
簡単な露営を片づけ元に戻すと、ふたりで三角点の前に立って明るんでくる空を眺めた。
そうして立つ頬ふれる風が急激に冷え込んでいく、その冷たさに夜明けの近さを感じながら英二は空を見つめていた。

「…日の出だ、」

ゆっくりと赤く輝きだした空と稜線の向こうから、黄金まぶしい太陽が顕れた。
うすく残っていた雪雲が陽光にそめあげられて薄紅や朱、金色へと刻々輝いてあざやいでいく。
そして極彩色の雲の下には新宿の街の夜景が広がっていた。
きれいだな、思わず見惚れてしまう英二を横から、国村が小突いて笑ってくれた。

「ほら、写メール送ってやるんだろ?ボケッとしてないで撮りなよね」
「あ、うん。ありがとう、国村」

礼を言いながら英二はポケットから携帯を取り出した。
そして美しい写真を撮ると、英二は文章を添えて周太へと送信した。

T o  :周太
subject:今朝の頂上
添 付 :七ツ石山から眺める夜明けの空と新宿の夜景
本 文 :おはよう周太、今朝は雲取山と七ツ石山に登っているんだ。
     いまは七ツ石山の山頂に立って、新宿を見つめている。
     今はまだ離れているけれど、空を通じて繋がっているなって実感できるよ。
     それでも俺はね、周太。やっぱり周太の隣に帰りたい。だから待っていて?必ず俺はね、周太の隣に帰るよ




(to be continued)

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第30話 歳新―side story「陽はまた昇る」

2012-01-03 22:59:22 | 陽はまた昇るside story
山上から告げて、届けて



第30話 歳新―side story「陽はまた昇る」

大晦日の御岳山は二年参りの人出でにぎやかだった。
もう除夜の鐘が奥多摩にも響き始め、駐在所の前も年改まる華やぎに人波が往来していく。
今日は初日の出を楽しむハイカーも多い、昼すぎまで何件もの登山計画書が提出されている。
楽しげな通りをたまにパソコンデスクから眺めながら、英二は提出された登山計画書を整理しながらデータ入力していた。

「宮田、3分よろしく」
「おう、」

休憩室から国村に声かけられて、何気なく英二は書類に目を通しながら答えた。
計画書は提出時にすぐチェックは入れてある、けれど英二は入力時にきちんと見直すことにしている。
万が一に遭難となった時、登山計画書が頭に入っていれば迅速な対応がとりやすい。
そして救助はスピード勝負でもある、少しでも万全に備えたくてこんな処理をしていた。

―いま2分5秒かな?

感覚の隅で時間計測を進めながら英二は、御岳山の登山計画書を終えて大岳山の分を入力し始めた。
御岳山から大岳山へ抜けるルートや御前山まで足を伸ばす計画書もある、そして大半が山小屋泊となっていた。
山小屋での年越しを楽しんで初日の出を元朝に眺める、そんな正月を都心から近い奥多摩で過ごす人も多い。
今夜の奥多摩はどこの山小屋も賑やかだろうな、そんな楽しい想いに微笑んで英二は休憩室へ声をかけた。

「はい、3分」

英二の声掛けに、休憩室でファイルを眺めていた国村が顔を上げた。
その前にはカップ麺が割り箸を乗せて置いてある。やっぱり3分計測はこの為なんだな、可笑しくて英二は微笑んだ。
そんな英二に細い目を笑ませて国村が手招きした。

「ほら、宮田。ちょっと来なよ」

言われて素直に英二はデータ保存してパソコンを休止状態にした。少しでも席を立つ時、英二はいつもこうしている。
御岳駐在所は人の出入りが多い、登山計画書の提出も多いが岩崎の人柄か町の人も立寄って茶飲み話を楽しんでいく。
そんな日常からセキュリティの為にも英二は、几帳面に都度パソコンを閉じていた。
整理を終えた書類ファイルを持って立ち上がると、英二は休憩室を覗きこんだ。

「なに、国村?」
「見ろよ、またちょうどいい具合だろ?おまえってさ、ほんと時間正しいのな。真面目だね、宮田は」

言いながら国村はカップ麺の蓋を開けて示すと、満足げに目を細めて笑わせている。
こんなふうに英二は時間感覚が鋭い所がある、それが国村は面白いらしくて英二の感覚精度を試したがる。
それで国村はおやつのカップ麺を作るとき、いつも英二を砂時計代わりにつかう。

「ほら、延びる前に食いなよ。麺、増やしたいなら止めないけどさ」
「またくれるんだ?いつも悪いよ、」
「もう作っちゃったんだ、あげたくなければ作らないだろ?だから遠慮なんかいらない、さっさと食いなよ」

そう英二に勧めながら国村は麺を啜りこんだ。こんなかんじに国村はいつも英二におやつを分けてくれる。
今日も奢ってくれるつもりらしい、書類ファイルを戻すと英二も休憩室に座った。
そしてカップ麺の蓋を見て英二は笑った。

「おまえさ、蕎麦はさっき夕飯で食っただろ?なんでまた蕎麦なんだよ」

英二の前にはカップ蕎麦が置かれていた、これだと今日2食目の蕎麦になる。
今日は大晦日だからと国村の祖母が夕飯時に、旨い手打ちそばを差し入れてくれた。
それなのに夜食も蕎麦とはね?そう思っていると国村が涼しい顔で言った。

「だって年越しだろ?蕎麦食わないとね。それにさ、そのカップ麺は俺んとこのJAで作ったやつだよ。旨いから食いな」

言われて蓋のラベルと見ると「JA西東京」と表記されていた。
国村は蕎麦と梅を主にする兼業農家の警察官だから、JAや青年団との付き合いが深い。
感心しながら英二は蓋を外しながら訊いてみた。

「へえ、じゃあ国村が作った蕎麦を使ってたりするわけ?」
「そ。これは他の家のも混ざっているけどさ、まあ御岳の蕎麦も悪くないと思うよ。ほら、食えよ?国内産蕎麦の需要に勤めなね」
「そっか。じゃあご馳走になるな…あ、旨いね。ちょっと市販のと違うな?
「だろ、」

そんな話をしながら平らげると、英二は左腕のクライマーウォッチを見た。その長針は1を差そうとしている。
このアナログとデジタルの複合式クライマーウォッチは、クリスマスに周太が贈ってくれた大切な時計だった。
もとから英二がほしかったモデルで、それに周太は気がついて選んでくれた。

  その英二の腕時計を、俺にください。
  そして英二は、俺の贈った時計を、ずっと嵌めていて?
  そうして英二のこれからの時間も、…全部を、俺にください。そして一緒にいさせて?

そんなふうに周太は英二に「わがまま」を言ってくれた。
それで英二が元々嵌めていたクライマーウォッチは、今は周太の左手首に嵌められている。
元のクライマーウォッチは警察学校時代に自分で買い求めたものだった。
学校の山岳訓練で周太を救助したことがきっかけで、英二は山岳救助隊を目指すことに決めた。
そうして進路を決めてすぐの外泊日に新宿で買った腕時計だった、その時も周太と一緒に買い物をした。

―外泊日、なつかしいな

なつかしさに英二は微笑んで、そっと時計のフレームを撫でた。
外泊日はいつも一緒に新宿で、本屋を覗いてラーメン屋で昼を食べて、それからあの公園のベンチに座った。
ベンチで缶コーヒー飲んで夕方に実家に帰って。そして翌日の昼に新宿で待合わせて、またラーメン食べて帰寮した。
そんな周太との時間が楽しみで英二は、外泊日は毎回いつも次回の約束をして半年間ずっと周太を独り占めしていた。
そうやって片想いでも一番近くで周太を見つめていたかった、そして他の誰にも盗られたくなくて独り占めし続けた。

―でも今はもうね、「わがまま」言ってくれたしさ。

クリスマスとその翌日を想いだして英二は微笑んだ。
クリスマスに腕時計の交換を周太から望んでくれた、そして「これからの時間を全部ください」と言ってくれた。
そんなプロポーズになる台詞と一緒に腕時計を贈るのは婚約になってしまうのに。
婚約の結納品は女性には指輪で男性は腕時計かスーツが一般的だけれど、最近は男女とも腕時計を贈り合うことも多い。
けれど怜悧でも世間に疎い周太のことだから、きっと意味なんか解らずに望んでいると英二はすぐ気がついた。
それでも「腕時計の交換」の既成事実を作ってしまえば周太も断れなくなる、英二は喜んで腕時計を交換してしまった。

  俺、しらなくて…でもじかんがほしいとかいうのって、…あの、同じことになっちゃうのかな

やっぱり想った通りに周太は知らなかった。
そして途惑っていたけれど周太は、英二に言われた通り信じて「婚約」に素直に頷いてくれた。
それ以来うれしくて何度も周太を「婚約者」と呼んでしまう、そのたびに気恥ずかしそうにしながらも返事してくれる。

―Yes,ってことだよね、周太

クリスマスは最高峰の約束と、いつか必ず籍を入れる約束もできた。
これでもう周太は他の誰かにまず盗られない、油断はもちろんしないけれど。
けれど一緒に風呂に入ることは、周太に断固断られてしまった「だめです、今はだめ」の一点張りで逃げられて。
警察学校では毎晩一緒だったのに何でダメなんだろう?そんな考えに沈んだ英二の額を国村が小突いた。

「…痛いよ、国村?」
「痛いよ?じゃないよ。おまえな、またエロ顔になってるけど?年の瀬までなんてさ、エロ顔の仕納めってこと?」

飄々と笑っている国村は、もう山岳救助隊服に着替えている。
ほら行くよと笑いながら国村は、ぼんやり座りこむ英二の腕を掴んで立たせた。
そして更衣室へと連行すると、勝手に英二のロッカーを開けて救助隊服を投げてきた。

「さっさと着替えな?登山道巡視もう出る時間だろ?ボケッとしてるんじゃないよ」
「あ、うん…ごめん、」

ぼそりと答えて英二は着替え始めた。
そんな沈んだ英二の様子に国村は少し首傾げると、英二の左肩を掴んで覗きこんだ。
その肩には1つ赤いきれいな痣が刻まれている。周太がクリスマスにキスでつけてくれた大切な痣だった。

「…なんだよ、国村。勝手に見ないでくれる?」
「うん?お前さ、なに急に不機嫌になってるんだよ?いつもなら幸せそうに笑って喜ぶくせにさ」
「あ、うん…ごめんな」

国村の言うとおり自分は不機嫌になっている。
ひとつため息を吐いて救助隊服を着終えた英二に、国村が訊いてくれた。

「ほら、言いたいことあるんだろ?言えよ宮田」
「うん、…じゃあさ、言うけど」

ちょっといったん切って英二はウィンドブレーカーを着ながら国村の目を見た。
相変わらず底抜けに明るい目が話してみろよと笑ってくれる。
英二は更衣室の扉をあけながら、国村に訊いてみた。

「周太がさ、一緒に風呂入るの断固拒否するんだ。なんでだと思う?」

言った途端に国村の細い目が呆れたように笑った。
そして人差し指一本立てて「まあ待てよ」と目で笑うと、駐在所の奥へと声をかけた。

「岩崎さん、警邏と巡視行ってきますけど」
「おう、ちょっと待て」

奥から岩崎が出てきて簡単な引継ぎをしてくれる。
それが済むと国村が笑ってちょっと背筋伸ばして立つと、折り目正しく敬礼をしてみせた。

「では、国村警部補、宮田巡査と警邏の任務に行ってまいります」
「はい、よろしくお願いします」

そんな改まった挨拶を交わすと笑い合って、それから駐在所の外へと並んで出た。
外の空気は凍てついて吐く息が真白な靄になる向こうで、夜闇に透ける森の梢が霜で白い。
人通り多い雪残る道を歩いて御岳山へ向かう道すがら、英二はたった今生まれた疑問を横へと訊いた。

「国村ってさ、警部補なんだ?」

訊かれて国村がちらっと英二を見やり笑った。
その頬がすっかり寒さに紅潮している、そんな幼げに若返った顔でからり答えた。

「うん?そうだよ、知らなかったっけ?」
「ああ、初めて聞いた。でも国村は高卒任官で先輩だけど俺とタメだろ?23歳で警部補の昇進試験って受けられるのか?」

英二や国村は警視庁の採用試験に合格し警察官となった、いわゆるノンキャリアになる。
ノンキャリアの階級は巡査から始まり、警部までは階級ごとに昇進試験を受け合格することで昇進していく。
巡査部長への昇進試験を受験する資格は、大卒の場合は実務経験1年、高卒なら4年。
その次の警部補は巡査部長合格から大卒は1年、高卒は3年で受験資格を得ることになる。

そうすると高卒の国村の場合、順調に合格しても警部補の昇進試験は26歳で受験資格を得ることになる。
だから23歳で警部補なのは計算が合わない、どういうことだろう?
そんな疑問の顔でいる英二に、ちょっと国村は笑って答えた。

「うん、巡査部長は去年受験して合格したね。警部補の昇進はこの間の春だけどさ、まあ『口封じ』だよな」
「口封じ?」

昇進が口封じ?どういうことだろう。
思わず訊き返した英二をちらっと見、底抜けに明るい細い目がすっと可笑しそうに細められる。
そんな細めた目のままで国村は唇の端を上げた。

「春の雪山でさ、ちょっと間抜けなヤツに物申した。それだけだよ?」

国村はトップクライマーだった両親やその友人の後藤副隊長、親戚の田中など一流のクライマー達に山ヤへと育てられた。
そして5歳で奥多摩最高峰の雲取山へ自力で登り、幼少期から職人気質のクライマー「山ヤ」として生きている。
そんな国村は峻厳な山の掟に向きあい、小さな人間の範疇には捉われない誇らかな山ヤの自由が明るい。
だから無秩序な登山者には厳然とした態度で臨み「国村の一言」でキツイお灸をすえてしまう。
そのお灸がとんでもないことが多い、けれどそんな国村を山ヤであれば誰もが好きでいる。

  国村なあ。以前に不用意な道迷いで救助した、さるお偉いさんを号泣させた事があってなあ

11月の鷹ノ巣山での道迷遭難の捜索時、後藤副隊長が英二に言ったある経緯。
その経緯のために山岳救助隊の皆が「国村の一言」に気を遣うようになったらしい。
もしかして「さるお偉いさんを号泣」が国村の言う「口封じ」と関係あるのだろうか?
ならんで歩く通りに並ぶ夜店を眺めながら、可笑しい答えを予想しながら英二は訊いてみた。

「国村、なんて『物申し』てお灸すえたんだ?」
「うん?そうだな、確か『勲章と命だとさ、どっちが重くて大切ですかね?』って感じかな」

いま国村は「勲章」と言った。
以前にも国村は勲章について笑ってのけたことがある。
「勲章がいっぱいついている人はさ、一個くらい軽くした方が体に良いよな」
2月開催の警視庁拳銃射撃大会にむけた練習へ通う道で、国村はそんなことを言って笑っていた。

それと考え合わせると国村がお灸をすえた「間抜けなお偉いさん」はいったい誰なのか?
勲章がいっぱいついて、勲章と生命の重みを問われるような人間。
なんだかとても嫌な予感と痛快な予想がする、思ったままを英二は声を低めて訊いてみた。

「もしかして国村…警視庁の関係者にお灸据えたんだ?」

しずかに訊いた英二の目を細い目が可笑しそうに見つめ返した。
細い目は底抜けに明るいまま、愉快な記憶を面白がるように国村は口を開いた。

「そうだけど?あいつ『やんごとなき方が登られる事前の視察』とか言ってさ、春先に青梅署に来たんだよな。
 で、副隊長と俺で案内したんだよ。でさあ?その時期に登るくせにさあ、軽アイゼンも持って来ないんだよね。
 そのくせ温泉に行く準備は持っていやがる。危機感覚ゼロ、そんなのが危険に向かう警察官のトップだなんてさ、マジ間抜けだろ?」

文学青年風に上品な顔が「あいつ」呼ばわりでせせら笑っている。
そして「そんなのがトップ」と国村は言った、英二は卒業式で見た勲章で埋めた制服姿の男に少し同情した。
同情はするけれど、確かに国村が言うとおり「間抜け」としか思えない。
春先の奥多摩は雪が残る、それを知らずに軽アイゼンも持たず視察に訪れることは、立場的にも下調べが杜撰すぎる。
そういう態度は警視庁幹部として恥ずかしい無知だろうし、奥多摩地域への軽視が透けて伺えてしまう。
きっと彼の態度は、山岳救助隊全員の神経を逆撫でしただろうな。そっとため息を吐いた英二の横で国村は「間抜け」の話を続けた。

「でさ、その前の夜に20cmくらい雪降ったんだよね。
 だからさあ、アイゼン貸しましょうかって俺は言ってやったよ?
 でも、あいつさあ。ちっとも言うこと、聞かないでさあ『私には不要だ』なんて、空威張りしやがるんだよね」

「アイゼン履かずに、どこに登ったんだ?」

ちょっと驚いて英二は訊き返した、雪山でのアイゼン不使用は転倒の危険が大きくなる。
まして奥多摩は低山とはいえ登山道は急斜や急登も多く細い尾根道もある、足元の不用意での滑落事故も多い。
いくらなんでも無謀だろう、そう考えながらすれ違う町の人と挨拶を交わしながら国村が答えた。

「鷹ノ巣山だよ、浅間尾根から登ってさ、石尾根を下るルート。
 で、六ツ石山まで来たとき、水根山付近の救助要請があったんだ。なのにさあ、あいつ『私は早く下山したい』とか言い出してさ。
 仕方なく副隊長だけ救助に行ったんだよ?マジありえない。で、あいつと俺は2人にされてさあ、ほんと面倒くさかったよ?」

遭難救助の邪魔までするなんて?さすがに英二は呆れてすこし目を大きくした。
そんな英二を見ながら国村は、さらりと付け加えた。

「そしたらさあ?ちょっと滑落したんだ、あいつ」

さらりと「ちょっと滑落」だなんて言うことは、ほんとうに2,3m滑った程度なのだろう。
まあ大事なくてよかったと思いながら英二は微笑んだ。

「やっぱりアイゼンないと怖いよな。すぐ助けられた?」
「まあね、助けてくれっていうからさ。で、助けてやったよ?
 でもさあ、あいつ。今度は俺に説教なんか始めやがってね『君たちのルート選択が悪いからだ』だってさ、ねえ?」

救助の邪魔をし、山のルールに従わず滑落したうえ、理不尽な説教まで国村にしてしまった。
これで無事には済まされる訳はない。仕方ないなと思いながら英二は「それから?」と目だけで国村に訊いてみた。
そんな英二に愉快げに細い目がすっと細く笑んだ。

「だからさ、あいつに自分でルート選ばせてやったんだ。それで違う道を下山することになってさ。で、あいつ泣いたんだよ」

ただルート選択しただけでは泣かない、その選択ミスでアクシデントでも起きたのだろう。
たぶん国村はアクシデントを予想してそんな対応をしている、英二は訊いてみた。

「どこのポイントで何て言って、ルート選択させたんだ?」
「うん、三ノ木戸林道と石尾根に別れる三叉路だよ。俺は予定通りにこっち行きますけど、お好きな道をどうぞ?ってね」

その分岐点は石尾根と、三ノ木戸山頂にむかうルートと三ノ木戸林道から下山するルート。
きっと石尾根は意地で選ばないだろう、そうすると残り2つを選ばざるを得ない。
そのルートが問題になる、英二は解答をしてみた。

「三ノ木戸山頂へ行って、それから三ノ木戸林道を下ったけれど道迷いになった。そんなとこ?」
「当たり。しかもさ?あいつ地図も懐中電灯も持っていなかった。
 山の三品は必要だってくらいさ、警察学校では山岳訓練で教わると思うんだけど。キャリアは大学校で教わんないのかな、ねえ?」

「多分教わると思うんだけど。でも、それじゃ道迷いしちゃうだろうな、」

三ノ木戸林道は別名を小中沢林道とも呼ばれ、針葉樹林帯を抜けるために暗くなりやすい。
そして標識はあるが仕事道が交差する迷いやすい道になる。
そういうルートを地図も持たず、「山の三品」の1つ照明器具も持たないで歩くことは危険だろう。
警察官としてそれくらいは知って装備してほしいな、そう考えている英二に国村は言った。

「三品も持たずに道迷いで遭難なんてねえ?ほんと山を舐めきってるよな。あんなヤツが山岳救助隊の上司であるわけないよな、ねえ?」

すごい痛烈な皮肉をからりと国村は言ってのけた。
ほんとうにこんな道迷い遭難を警察官がしたら、恥さらしもいいところだろう。しかも山岳救助隊の上司とはとても言えない。
なぜ「あいつ」が泣いたのか?きっと同じようなことを言ったのだろう、横へと英二は訊いてみた。

「国村さ、今言ったことを言ったんだろ?どんな状況で言ったんだ?」
「奥多摩交番に戻って茶を飲んでいたらさ。あいつから携帯で救助要請が交番に来たんだよね。
 で、水根山の救助から戻っていた副隊長とさ、あいつの遭難救助に出動したってわけ。
 もう暗くなってる林道でさあ、真っ青な涙目で俺に抱きついてきたんだよ、あいつ。ほんとマジ迷惑だよな、ねえ?」

可笑しそうに笑いながら国村はヘッドライトを点灯すると、御岳山登山口へと歩き始めた。
英二もライトを点けて登山口へはいると、ぱりんと薄氷の割れる感触が登山靴の底に広がる。
今夜も冷えるなと並んで歩きながら「マジ迷惑」な情景を思って英二に苦笑いが浮かんだ。

「それで国村、抱きつかれたところで言っちゃったんだ?」
「当然だろ?むさくるしいオッサンに抱きつかれたんだ、我慢の限界もあるよなあ。で、言わせてもらったよ
『出鱈目な遭難で命落としかけた人間が、首都の治安を守れるとは不思議ですね?勲章と命はどちらが重くて大切かな』ってね」

3月では奥多摩はまだ寒く、雪があれば凍死による遭難死もある。
凍死者は幻覚症状から錯乱状態になることがあるが、そんな手前だったのかもしれない。
「真っ青だった」と国村も言っている、割と危険な状態まで追い込まれていただろう。でも自己責任の問題が誘引したことだ。
なにより山ヤとしては国村の怒りは正当だし、警察官としても「あいつ」の態度と行動は褒められない。
結局は小さな警察社会の「箱庭」人間らしい人なのかな。そんな感想と歩きながら登山道に気を配る英二に、国村は続けた。

「そしたら数日後に昇進の辞令が来たんだよ。でもまあ、昇進の理由なんか聴いていないし?口封じになるかは俺次第だけどさ」
「…あ、そうだよ国村?俺に話してよかったのか?」

気がついて英二は横を歩く色白の顔を見やった。
けれど国村は飄々と笑いながら冷気に紅い頬で、からりと言ってのけた。

「うん?だって宮田はさ、俺の生涯のアイザイレンパートナーだからね。
 万が一のためにさ、知っておいてもらう方が無難だろ?大体、あんなヤツの考えになんで俺が従わなきゃいけないんだ?」

国村が自分をそうやって信頼してくれる事はうれしいなと思う。
でも少しは許すことも「あいつ」にとっても必要かな、そんな想いで英二は自分のパートナーを見た。

「そうだな。でもまあ隠したくなる気持ちもさ、解らないでもないんだろ?」

まだ23歳で高卒任官の巡査部長に、大幹部の自分が泣いて縋ってしまった。
それを警視庁山岳会長でもある後藤に目撃されてしまい、しかも泣いた原因が自分の油断が招いたミス。それは隠したくもなるだろう。
けれど細い目は底抜けに明るく笑いながら「嫌だね、」と答えた。

「あいつは自分でミスを犯したんだ、危険管理に責任ある立場のくせにね。その責任と恥を消そうなんてさ、甘ったれすぎるだろ?」
「うん、」

やっぱり国村は厳しい、そして言う通りで何もフォローなんかできない。
そう素直に頷いた英二に国村は唇の端を上げてみせた。

「けれどさ、こんな特例の昇進させるなんて、ねえ?
 自分から『なにかありました』って自白するようなモンなのにさ。それとも俺が恐縮するとでも思ったのかな?
 なんにせよ、ほんと良いカードをくれたよな、あいつ。このカードは何の目的で使うかな、ねえ?宮田は何か良い案ある?」

そして国村は怜悧で冷静沈着な悪戯好き知能犯だ、きっと「良いカード」もすごい使い方をするだろう。
あのひと助かったのは良かったけれど、また随分と悪い相手に弱みを握られたものだな。その点は英二は心からの同情を寄せた。
けれどこの「良いカード」を国村がどう使うのかもちょっと楽しみになってしまう。
いったい何に国村は使う気だろう?考えながら登山道を抜けると富士峰園地へ出た。

「ここは人、そんなに多くないな」
「うん、この時間は社殿が混雑するよね、やっぱり」

話しながら歩いて、いちばん見晴らしのいい場所に並んで立った。
そこからは新宿の夜景が遠くはるかに、けれど華やかな無数の燈火があざやかに眺められていく。
あの大きなビルらしき灯りの辺り周太がいるのだろうな。見つめる目がふっと熱くなりかけて英二はゆっくり瞬いた。

―今夜も一緒に居たかったな、

クリスマスは幸せだった。
朝早く雪の中を電車に乗って本を読む合間、会ったら何て話そうか考えて。
仕事を終える周太を待ちながら雪の街角に佇んで、驚いて喜んでくれる顔を想いながら幸せで。
11月に別れた木の下で抱きしめて、一緒にカフェで公園のベンチで、それからショップと花屋で。
そして川崎の家で過ごした、やさしい温かな時間と熱い甘やかな時は幸せで離れられなくて。

―新宿での別れが、辛かったな

クリスマスの翌日は、ゆっくり朝食をとってから屋根裏部屋でのんびり昼寝して。
それから庭をすこし散歩してから簡単な昼食をとって、一緒に片づけて。
片付けが終わった周太がエプロンを外しながら微笑んで訊いてくれた。

「ね、英二?午後は何しようか…川崎を散歩する?それとも新宿へ出る?」

「午後」と聞いて英二は途端に寂しくなってしまった。
もうあと8時間くらいで離れないといけないー別れを意識した途端に哀しくなった。
そして気がついたら周太を抱き上げて階段を登り始めていた。

「…英二、どうしたの?」
「俺が周太を抱っこしたいんだ…いいよね、俺の婚約者さん?」
「…あ、」

驚いている周太を静かにベッドへ沈めると、そっと抱きしめ唇を重ねた。
そんなつもりは無かったのに離れる時刻が迫ることが哀しくて、もう離せなかった。
離れてしまうなら少しでも温もりを感じたくて、熱を刻みたくて止められなかった。
そうして素肌を抱きしめて目覚めた時、陽射しはゆるく朱色を帯びていた。

「…周太、」

名前を呼んで、飽きずに黒目がちの瞳を見つめて。
やわらかな髪を長い指で梳きながら、暗くなるまで抱きしめたまま過ごした。
そんな時間は愛しくて、けれど別れが迫ることが切なくて。どうしようもなくて唇を重ねて抱いて、愛しい温もりを求めて。
こんなに離れたくないなんて自分はどうかしている?そう想ってしまうほどに離れたくなくて、離せなかった。
そんな自分に周太は静かに微笑んで、そっとキスをしてくれた。

「…ね、英二。大丈夫だよ?俺はね、いつも英二の帰る場所でいるから…
 だからね、英二?…俺の想いをね、そのクライマーウォッチに見つめて?
 俺も英二のクライマーウォッチに英二を見つめるから…そうやって離れても傍にいる、だって…こんやくしゃなんでしょ?」

最後の方が気恥ずかしげなトーンになったのが可愛くて、やっと英二は笑うことが出来た。
そして頬に頬寄せてキスをして、もう一度抱きしめてやっと英二は腕をほどくことが出来た。

「うん、婚約者だ。周太はね、俺の嫁さんになる運命だよ?だからさ、そのためにも俺、ちょっと頑張ってくる」
「ん、…頑張ってきて?待ってるから…英二だけを、ね」

そんなふうに笑いあって、それから支度をして新宿に出て。
いつものラーメン屋で食事して店の主人とも笑いあって。
そしていつものカフェのベンチでいつものホットドリンクを楽しんで、新宿署独身寮の傍の木の下で別れた。
そしてほんとうは、木の下から見送る姿が寮の階段へと見えなくなった瞬間、涙がひとつこぼれ落ちた。

―こんどの金曜日には、あえるといいな

今のところは英二の週休と周太の非番が重なる日になっている。けれどもし遭難救助が入れば英二は召集がかかるだろう。
年始のあいさつと婚約の許しを周太の母に話しもしたい、何も起きないでほしいな。そんな想いに思わず1つため息を英二は吐いた。
そんな額を小突かれて英二は横に並んだ、友人で同僚で2階級も上だった男に微笑んだ。

「なに、国村?」
「なに?じゃないだろ、お前のさっきの質問だよ?」
「あ、…風呂のこと?」

さっき「周太がさ、一緒に風呂入るの断固拒否するんだ。なんでだと思う?」と訊いてそのままだった。
そういえば国村の階級の話題になっていた、そのあと考え事していたな。あらためて英二はこの怜悧な友人に尋ねた。

「なあ?なんで周太はさ、一緒に風呂入ってくれないんだろ?警察学校では毎日一緒だったのに」
「うん、当然じゃないの?」

さらっと答えると国村は可笑しそうに笑った。
なにがそんなに可笑しいのだろう?すこし首傾げて見つめる英二に呆れたように国村が教えてくれた。

「前は友達だから意識しなかったんでしょ。しかも彼はその頃まだ処女だろ?恥じらいとか知らなかったろうね」

男に「処女」という言葉は普通は遣わないだろう。
けれど周太には何だか似つかわしくて、英二も自然と頷いてしまった。

「そうか、前と今とじゃ違うってこと?」
「そ。今はもう友達と違うしさ。裸ですること、やられちゃってるだろ?それで恥ずかしいんじゃないの」

なるほどなと思いながら英二は聴いていた。
でも自分は一緒に入りたいのにな、そう考えていると額をまた小突かれて国村が笑った。

「だからさ、宮田?おまえはね、やる方だから気にならないの。
でも彼は初々しいだろ?そして脱がされるばっかりだからさ、そりゃ恥ずかしいんだって。
こういうことはさ、能動と受動は違うだろうが。おまえ女の経験は多いくせにさ、そんなこと解んないわけ?」

解らない、自分には。
ちょっと考えてから少し笑って英二は答えた。

「うん、解らない。だって俺、一緒に風呂入りたいとか周太以外には無かったし。
こんなにいつも考えていることも周太が初めてだよ。俺はね、ほんとに周太が初恋なんだ。
だからさ、たぶん前の経験とかは別だと思う…ほんとにさ、こんなに一緒に居たいとか思わなかった、俺」

ずっと一緒にいたいな、だからこそ山岳救助隊も最高峰へ登ることも辞められない。
ずっと一緒にいられる日を迎えるために、今を我慢して努力しなくてはいけない。
そう解っていても気持ちは誤魔化せない。また溜息をつきかけた英二の背中を、ポンとひとつ平手で国村が叩いてくれた。

「5日はさ、俺んち忙しいから休みほしいんだけど?宮田の7日とシフト交換してよ」
「うん、…いいけど?じゃあ射撃と山の訓練も7日に移動か?」

7日は土曜日で射撃訓練場の武蔵野署までは道路が混むかな。
そう考えていると額を白い指にきつめに小突かれて、英二は眉をしかめた。

「痛いよ、国村?」
「痛いよじゃないよ?おまえって賢いくせにね、時々なんか馬鹿だよなあ。7日は射撃行かなくていい。
 代わりに6日の早朝に山登ってさ、その後に朝一で武蔵野署へ行くよ。それで青梅署に10時に戻れば、昼に新宿へ着けるだろ?」

6日は週休でまだ正月だから、後藤と吉村医師の個人指導は休みになっている。
そして7日が一日自由なら2日休みがとれて、6日非番で7日週休の周太と休みが合わせやすい。
それでも周太は多分非番は午前中が射撃訓練だろう、でも昼前には終わるから待ち合わせが出来る。

「国村、気遣ってくれてんの?」
「宮田がこんだけ萎れてるってことはさ、たぶん湯原くんはもっと、だろ?それに富士の訓練前に逢いたいんだろ?」

英二と国村は今月中旬には富士山での雪上訓練を2泊3日で行う予定になっている。
標高2,000mを超える場所、本格的な雪渓での登山は英二には初めてだった。
後藤副隊長と岩崎駐在所長が相談して日程を決め、パートナーを組んで訓練できるよう計らってくれている。
その訓練前に出来れば顔を見せて、周太とその母を安心させてやりたいと思っていた。
けれど何も英二は言っていなかった、それでも国村は気づいてくれている。うれしい感謝に英二は微笑んだ。

「うん。俺、逢いに行きたかったんだ。ありがとうな、国村」
「どういたしまして。ま、俺も5日は忙しいからさ、ちょうどいいかなって思ってね。
 それにお前、富士山でそんな気の抜けた顔されたら危険だろ?
 アイザイレン組むんだからさ、俺の命かかってるんだ。きっちり充たされてさ、気を引き締めてこいよ?」

明け透けだけれど細やかな気遣いは的を得ている、そして心から考えてくれている。
もう本当に「生涯のアイザイレンパートナー」なんだな、こういう友人がいるのは良いと英二は微笑んだ。

「うん。ありがとう、国村」
「おう、…あ、そろそろお互い時間だな。じゃ、宮田。10分後またな」

からりと笑うと国村は、端に雪残る武蔵御嶽神社の参道へと歩いて行った。
そこで国村は美代と新年の顔合わせを毎年している、そうして任務合間にも年越しには寄り添うのが恒例らしい。
あの二人のそうした決まり事は、本当に小さい頃からずっと積んでいるものばかりでいる。
そのどれもが自然で純粋できれいで、幸せになってほしいなと英二は心から祈ってしまう。

国村のアイザイレンパートナーとして、どこでも国村の無事を俺が守ろう。
そんな願いをそっと想ってから、英二はクライマーウオッチを眺めながら携帯電話を開いた。
時刻は23:58、発信履歴から英二は通話を繋いだ。

「待ってた?周太、」
「ん、…待ってた。だって英二の声、…聴きたかったんだ」

気恥ずかしげな声が穏やかに答えてくれる。
その向こうの喧騒は新宿の神社が賑わっていることを教えている、きっと周太は寂しかっただろう。
微笑んで英二は愛しい想い人へ話しかけた。

「俺こそ周太の声はずっと聴いていたいよ?抱きしめて見つめたいな、周太は俺の婚約者なんだから。ね、携帯も繋がったろ?」

幸せな呼び名「婚約者」もうこう呼ぶことを自分は許されている。
そんな呼びかけに恥ずかしそうに頷いて、ゆっくりしたトーンで周太は答えてくれた。

「ん、…うれしいな。あのね、いま、奥多摩の方角をね、見てるよ?」
「そういうのってさ、うれしいよ、周太。俺はね、いま御岳山から新宿の街を見てる。周太のこと見てるよ?」

除夜の鐘が響いていく奥多摩の山脈、山上の神社の荘厳だけれど賑やかな空気。
そんな向こうへ眺める山嶺の彼方には、新宿の街の灯が満天の星を映したように輝いている。
あのひとつに周太がいま立って、自分と声で想いを繋いでいる。その左腕に自分のクライマーウォッチを見つめながら。
そんな愛しい姿を想いながら微笑んだ英二に、おだやかな声が聴いてくれた。

「…英二?御岳山は雪があるの?」
「少しだけあるよ、でも風が少し湿気ているから明日の朝は雪かもしれないな…あ、」

話しながら左腕のクライマーウォッチを見て英二は微笑んだ。
そして迎える年の最初の想いを愛する婚約者へと英二は告げた

「あけましておめでとう、周太。今年もよろしくな、俺の婚約者さん」

うれしくて幸せな、新年最初に告げた想いと願い。
想いも願いも繋いだ電話から、気恥ずかしげな微笑みと一緒に返してくれた。

「あけましておめでとうございます、英二…いちばん大切なひと、今年も無事に帰ってきて。ね、英二?」

無事に帰る、それは絶対の約束。
今年だけじゃなく一生ずっと帰るからね?そんな想いと一緒に英二は周太に約束を一つ教えた。

「おう、帰るよ?一生ずっとね。でね、周太?6日の昼に新宿で待ち合わせよう?そしたら夜はさ、川崎の家に泊まれるかな?」
「…休みがとれるの?英二」

すこし息をのむような驚きと期待に満ちた声が伝わってくる。
こんなふうに喜んでくれる、うれしくて英二はきれいに笑って答えた。

「うん、2日休めるんだ。だからね、周太?遅くなるけれどさ、正月をしよう?お母さんにも連絡していいかな?」
「ん、…連絡してあげて?きっと喜ぶから…じゃあね、おせち少し作るね。簡単にだけど…」

おせち料理を手作りで。
英二にとっては初めてのことだった、いつも実家では決まった店の仕出しだったから。
それも周太が作ってくれる、うれしくて仕方ないままで英二は言った。

「周太、それすげえ幸せなんだけど?なんか婚約者の特権って感じだし。どうしよう俺、テンションあがってこの後、大丈夫かな?」
「あ、…任務はちゃんとして?しかも夜間登山なんだからね、気をつけて?…でないと作ってあげない」
「うん、わかった。俺、ちゃんと落ち着いて任務遂行します。だから作らないとか言わないでよ、周太?」

そんな会話で笑ってから、約束をして電話を切った。
携帯をポケットにしまいながら振り向くと、もう国村が立って待っていた。

「よお、休暇は喜んでくれた?」
「すごい喜んでくれた。ありがとうな国村」

底抜けに明るい目を温かに笑ませて、おだやかに国村が微笑んだ。
こういう顔のときは、本当に優しげな温もりが国村はきれいでいる。
けれどすぐ愉快げに細い目が笑って国村は言った。

「ま、ね?アイザイレンパートナーの婚約者はさ、哀しませるわけにいかないだろ?」

英二はまだ誰にも、周太と婚約したことは言っていない。周太の母にも6日に話すつもりでいる。
だのにどうして国村は知っているのだろう?考えかけてすぐに納得して英二は笑った。

「おまえさ、10分後って言っておいて8分後には背後にいただろ?」
「あれ、そうだった?まあ、ちょっと話が聞こえちゃったかな。幸せな会話を聞くのは良いもんだよな、ねえ?」

そんな会話をしながら雪と氷が残る中を、御岳山から大岳山を回って歩いていく。
除夜の鐘は山上にも響き渡る、冬は空気が澄んで音の屈折もあってよく聞こえる。
こんなふうに山で年越しをするなんて、前の自分には想像もつかなかった。けれど今ほんとうに楽しい。
途中でアイゼンを着脱しながら雪道を歩いて、御岳駐在所へとAM2:00に2人は戻った。

「うん?…明日は新雪かもしれないね」
「やっぱりそう?ちょっと風が湿気てるよな」

どうも雪の気配が空気にある、国村も同じ意見らしい。
そんな話をしながら中へ入ると、奥の休憩所から藤岡が笑いながら出迎えてくれた。

「お帰り。約束の持ってきたよ」
「うん、ありがとうね。藤岡はもう上がり?」
「そうだよ。ウチの管轄の神社はさ、もう人出が引けたからね。御岳はまだすごい人だなあ」

楽しそうに話しながら国村は、藤岡が持ってきた紙袋を開けていく。
夜食に差し入れを持ってくると藤岡が言っていた。何を持ってきてくれたのかな。
そう思いながら更衣室で活動服に着替えると、英二は休憩室を覗きこんだ。
そして英二は絶句した。

「…なあ、それってさ?いつもの酒じゃないの?」

見慣れた一升瓶が駐在所の休憩室で鎮座していた。
その前にコップを持った国村が、細い目を笑ませて座りこんでいる。
持っているコップの中身はもう半分になっていた。
ご機嫌で国村はコップを啜ると、楽しげに英二に言った。

「これはさ、正月の縁起物だよ。で、俺が賭けで勝ちとった酒だからね。いつもより旨いかな」
「あ、…俺の肩の?」

国村と藤岡は英二の左肩の痣で賭けをしていた。
その痣は周太が英二にキスで刻んでくれた想いの痣だった、これを英二は風呂の時に藤岡に見つかり国村にも見つけられている。
そして2人は賭けようとなり、年明けまで痣が残っていれば国村の勝ちで、年越し警邏明けの酒を藤岡が奢るという話だった。

「うん。負けたから俺、買ってきたんだよ。でもさ、宮田と湯原が幸せそうで良かったよ。だから俺、賭けに負けても嬉しいな」

負けたくせに幸せそうな人の好い顔で藤岡が笑ってくれる。
やっぱり藤岡って良いヤツだ。英二は藤岡の酒で赤い顔に微笑んで、こんどは国村に話しかけた。

「それで国村、さっそく勝った酒を呑んでるんだ?」
「そ。こういう酒って旨いよな」

そう言ってまたコップを啜りこむと、立ち上がって英二の腕を国村は掴んだ。
これは嫌な予感がする、腕を解こうと白い掌を掴んだけれど離れない。
そんな英二に上品な笑顔だけれど底抜けに明るい目で、国村が笑いかけた。

「ほら、宮田?俺はお前の先輩で階級も上なんだよ?酌ぐらいしろよな」
「なに国村?こんな時だけ先輩になるわけ?」

可笑しくて英二は笑ってしまった。
その声を聴いて岩崎も奥から出てくると、休憩室の様子に笑い出した。

「お、国村?今年は仲間がいて楽しそうだな」
「はい、今年は良いですよ。岩崎さんも座ってください、祖母の差入よかったらどうぞ」
「お、うれしいなあ。国村のお祖母さんの料理は旨いよな、うちの嫁さんも褒めてたよ」

さらっと岩崎も酒宴に加わってしまった。
毎年こんな雰囲気なのかな?そう眺めながら英二は、岩崎のコップに酒を注いだ。

「おう、宮田ありがとうな。うん、男でも美人の酌は良いよなあ」
「そうですか?じゃあ俺の見た目も、職場に役立っていますか?」
「ああ。宮田の笑顔はさ、遭難者だけじゃなく町の人にも好評だよ。もうファンレターぐらい貰っているんだろ?」

こういう質問は酒の席だと多いな?とくに何も言わずに英二は微笑んで箸をとった。
重箱の料理を口に入れてしまえば、答えなくても済むだろう。
そう思って口を動かしていると、国村が勝手に答えてくれた。

「その通りですよ、岩崎さん。宮田、もう10通くらいお礼の手紙貰ってます。女性8割で子供が1名、あと男性1名ですけどね」
「へえ、宮田って相変わらずモテるんだなあ」
「ふうん、さすがだな宮田。やっぱり美形はそんなもんか?」

案の定な風向きに英二は少し首傾げるだけで答えた。
どうやら年越の警邏と巡視が明けると、こういう席になるのが恒例らしい。
自分まで酒の肴にされてはいるけれど、こうして友人や尊敬する先輩と呑むことは楽しい。
でも一応ここは酒は呑まないでおこうかな?そう思いながら英二は夜食を口に運んだ。




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第5話より 道刻―P.S:side story 「陽はまた昇る」

2012-01-02 23:59:46 | 陽はまた昇るP.S
それは道しるべ、道程への鍵




第5話 道刻―P.S:side story 「陽はまた昇る」

ビルの谷間を熱風が吹き抜ける。
コンクリートジャングルなんて新宿を呼ぶけれど、本当にそんな暑さに歩きながら英二はネクタイを弛めた。
アスファルトの照り返しが頬にも熱い、陽射しに目をすこし細めながら隣の黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「湯原、足の調子どう?」
「ん、大丈夫」

ちょっと微笑んで黒目がちの瞳が見上げてくれる。
その額が聡明に清らかで、ちょっと見惚れながら英二はお願いをした。

「なるべく早く買いもの済ませるな。でも湯原、辛かったら絶対すぐ言ってくれよ?」
「ん、解った…でも大丈夫だよ?」

隣は頷いて見上げてくれる、けれど英二は隣がすぐ遠慮する癖を解っている。
少し前に湯原は山岳訓練で怪我を負った、もう大丈夫と校医にも言われているけれど痛みはまだ多少残るだろう。
ここは念押ししたい、英二は口を開いた。

「うん、湯原。我慢とかさ、俺には絶対しないでくれよ?」

言われて隣の瞳がすこし大きくなる。
この顔かわいくて好きだな、うれしくて微笑んで英二は覗いた瞳を見つめた。
見つめられた瞳は1つゆっくり瞬くと、そっと微笑んだ。

「ん、…ありがとう。俺、宮田には割と言えてる、から」

うれしい、「宮田には割と」が嬉しくて仕方ない。
でも、もっと言ってほしいな?うれしくて英二はきれいに笑った。

「おう、言ってくれな?」
「ん、」

素直に頷いてくれる頭が可愛くて、ちょっと英二は困った。
この頭かかえて抱き締めたくなってしまう、けれどそれは出来ないことだから。
こんな想いを自覚して2ヶ月過ぎになる、あの日は英二の外泊禁止が解けた初めての外泊日だった。
あの日は書店で湯原は本を買った、そして初めて一緒に外食して服を贈って。
その街角で元彼女を見かけ嫌な気持ちから、湯原の腕を掴んでひたすら歩いた。
そして偶然たどり着いた公園にある森の中で座ったベンチで、湯原への想いは自覚となって心から肚へ座りこんだ。

― きっとこれが、俺の初恋 誰より居心地のいい隣、これは得難い居場所、唯ひとつの想い

けれど湯原は自分と同じ男で寮の隣人で親しい同期だ、勘違いだろう。そう疑いを自分でも思った。
そして警察学校内での恋愛禁止という規則がある、これを破れば辞職の可能性すら否めない。
この想いは勘違い、どうせ求められないような想いを自分が抱くわけもない。
そう諦めようと何度も自分を納得させようとした。
けれど毎日見るたび心がどこか響いてしまう、そして英二の確信が深まっていく。いま歩いているだけでも。

…きれいに見えるなんて、今まで誰にも無かった

アスファルトとコンクリート、はでやかな看板の埃っぽい街角。
けれど今この隣を歩くひとは、どこか透明で穏やかな静けさに端正な姿勢で佇んでいる。
こんな都会の真ん中でも、陽射しけぶる睫が清らかで見つめてしまう。
きれいで見惚れて目が離せなくて、本音もっと近づきたい。
けれど出来ない、湯原の道と想いを邪魔することは自分には出来ない。

…掴んではいけない

だって知っている、この隣がどんな想いで警察学校に入ったのか。
湯原は殉職した父の真相と想いを見つめるため、警察官の道に立っている。
きっとそれは危険が多い道になる、それも承知で湯原は任官した。
だから湯原は危険に誰も巻き込みたくなくて孤独に生きてきた。そんない端正な姿勢に惹かれてしまう。
なにより湯原の素顔は穏やかで繊細で、優しい純粋な少年のままでいる。そんな湯原の隣は居心地良くて英二は離れられない。

…離れられない、けれど、掴んではいけない

解っている、自分がどういう選択をしたのか。
これは報われない想い、きっと自分こそ孤独な生き方を選んでいる。
それでも自分を誤魔化せなくて、それでも湯原の為に生きたいと想ってしまった。
それがどんなに馬鹿な選択かと思う、きっと尽くしても尽くしても想いは報われないと解っている。
それなのに、この隣が笑ってくれるならそれだけで良い、そんな想いがもう心に座って動けない。

…だからせめて、支えてやれる立場を手に入れる そうして少しでも近くから見つめさせてよ?

だから湯原が立つ道を、支えてやれる道を自分は選ぶ。
この隣を支えてやれるなら、この想いに殉じて自分は生きてみたい。
だって唯ひとりだけ、自分の本音を受けとめ泣かせてくれたひと。
唯ひとりだけだった「きれいな人形」だった自分を解放してくれたひと。
そして唯ひとり、生きる誇りも生きる意味も、その行動で示して教えてくれた、自分の生き方を変えてくれたひと。

…ね、湯原?俺はね、湯原に出会えなかったら、一生ずっと人形だった そしていつか壊れて心すら失ったと思うんだ

だから選ぶ。唯ひとり自分を生かしてくれた、きれいな瞳を守りたいから。
この隣を支えてやれる道に立つことを選んで生きていく。
その覚悟をいまから想いごと時間に刻んで生きていく。

「湯原、ちょっと待ってくれな?」
「ん、…ゆっくり選んで?」
「おう、ありがとうな。でももう見つけたから、すぐだよ」

隣に微笑んで英二は店員に声をかけた。

「すみません、このクライマーウォッチを頂けますか?」

クライマーウォッチは、登山に必要な情報計測の機能が搭載された腕時計。
たとえば高度計を使って、標高差に対する登高タイム計測をすることでペース把握の参考にできる。
これを英二は自分の進路を決めたときから買おうと決めて、2つの候補から1つを選んだ。
在庫があってよかったな、ほっとしながら店員の手元を眺めていると隣から湯原が訊いてくれた。

「宮田、…クライマーウォッチって、登山に使う腕時計か?」
「うん、そうだよ。高度計や気圧計とかさ、コンパスも全部ついているんだ。山では便利でさ、ほしかったんだ」

すこし隣へと体傾けると英二は微笑んだ。
そんな英二を黒目がちの瞳が見上げて、また英二に質問をした。

「…もしかして、本当に奥多摩地域への配属を考えている?」

警視庁の奥多摩地域は東京都では山岳地域になる。
奥多摩は最高峰でも2,000m程度の低山脈だが、都内という気軽さが原因ともなり遭難事故が多い。
そして登山道へのアクセスが容易なゆえに自殺志願者が迷い込みやすく、その死体見分も珍しい業務ではない。
なかでも青梅警察署は東京最高峰の雲取山を管轄にし、年間40件を超える遭難事故が起きている。
その状況は英二も調べて知っている、それでも選びたい。きれいに笑って英二は頷いた。

「うん、俺、出来れば青梅署に行きたいんだ」
「青梅署だと…山岳救助隊を兼務する駐在員だな…原則は経験者しか配属されない、難しいぞ?」

すこし眉を顰めて湯原は英二を見あげている。
これは湯原が言うとおりだと英二も解っていた、山岳経験が無くては山岳救助隊員への任官は難しい。
けれどそのための努力を自分は惜しまない、左手首の腕時計を外しながら英二は微笑んだ。

「うん、解ってる。だから俺さ、努力するよ?最近の俺ってちょっと真面目だろ?」
「ん、…そうだな、宮田は変わったな。…この間の救急法の講義でも、真剣だった」
「だろ?」

湯原と同じ道は自分は選べない、適性も体格も違い過ぎるから。
けれどこの道は適性も能力も自分にはある、そのことに山岳訓練の時からずっと向き合って気づけた。
この道は厳しい道、そして自分には経験すらも未だ無い未踏の道。それでもこの道を選んで自分は守りたい。
この山岳レスキューの道に立つ、それはきっと警察社会の暗部へ向かう湯原すら救うことが出来る道だから。
だからどんなに辛くても、自分はこの道を投げ出さない。

「お待たせいたしました、こちらのお品でよろしいですか?」
「はい、このまま嵌めたいので箱から出していただけますか?」

店員は箱だけ別に包んで、クライマーウォッチを英二に渡してくれた。
濃い紺青色のフレームと濃紺のナイロン生地ベルトが特徴的なクライマーウォッチ。
これからこの腕時計に時間を見つめて、自分が立つ道への想いも努力も刻んでいく。
うれしくて左手首に嵌めながら英二は隣へと微笑んだ。

「湯原。俺はね、山岳救助隊員になりたいんだ」

自分は警視庁山岳救助隊を目指す。
そして職人気質のクライマー、山ヤに自分はなる。
山ヤの警察官である山岳救助隊員は、誇らかな自由に生きる厳しさに立っている。
その厳しさに自分を立たせて強くなりたい、賢くなりたい、そして大切なひとを背負える背中を手に入れたい。

きっと、この道は湯原を支えていく為に自分が出来る唯一つの道。だから自分はそこへ立つ。




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