萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第XX話 誓環oath―side story「陽はまた昇る」

2012-05-21 23:54:50 | 陽はまた昇るside story
想い、どこからも



第XX話 誓環oath―side story「陽はまた昇る」

朝7:30、警察学校寮の部屋に戻って窓辺に佇んだ。
この部屋は青梅署独身寮よりも狭い、けれど懐かしい記憶と想いがここにはある。
その記憶のすべてに周太が佇んでくれる、そして今も隣に周太が立ってくれている。
この1年前も同じように周太の隣に立っていた、けれど今と去年は全く違う。
去年と違う呼び方で英二は、隣に笑いかけた。

「周太、そろそろ食の最大になるよ?」

湯原、そんなふうに一年前は呼んでいた。
まだ隣人で同期で、けれど気になる相手だった。
そして隣に居たい相手になって、どうしても離れられなくなって、今がある。

「ん、…もう輪っかになってるね?」

専用のサングラスから目を離して、黒目がちの瞳が笑いかけてくれる。
明るくて幸せな笑顔が隣に咲いている、こんな笑顔を見たいと願い始めた時が遠く近く感じてしまう。
この今が幸せだな?そんな気持ちで英二は空に目を細めた。

7:34 

ふたりのクライマーウォッチが時を示す。
そして薄曇りの東京上空に、金環日食が象られた。

「…あ、英二?輪っかになったよ、見て?」

嬉しそうな笑顔で周太がサングラスを貸してくれる。
けれど渡そうとしてくれる掌を受けとめたまま、やわらかく長い指に包みこんだ。

「えいじ?」

すこし驚いた黒目がちの瞳が見上げてくれる。
この大好きな瞳を見つめて英二は綺麗に笑いかけた。

「周太、君を愛してる」

笑いかけた唇で、愛する婚約者の唇にキスをした。

ほんの一瞬のキス。
ここは警察学校寮だから、ゆっくりキスすることも出来はしない。
けれど、この一瞬でもふれられたキスが嬉しくて、やわらかな感触とオレンジの香は変わらずに優しい。
ほんの一瞬のキスふれて、愛するひとの瞳見つめて、英二は綺麗に笑いかけた。

「周太、教えて?いつかの日には、結婚指輪をしてくれるかな、」

ゆっくり黒目がちの瞳が瞬いて、見つめ返してくれる。
見つめてくれる頬に首筋に、あわい紅が昇りだして桜の花が咲いていく。
そうして気恥ずかしそうに微笑んで、周太は頷いてくれた。

「ん…英二が、くれるんなら…したいな、」

Yes、そう言ってもらえた。
幸せな返事が嬉しい、婚約者の左掌をとって英二は笑いかけた、

「うん、俺に贈らせてほしい。だから今は、その予約の指輪を贈らせて?」
「よやく?」

不思議そうに首傾げ微笑んでくれる、こんな稚い仕草も愛おしい。
この愛しいひとの左掌を宝物のよう掲げて、そっと薬指の付け根にキスをした。

「キスの指輪だよ、周太。これを結婚指輪を贈る、予約の指輪にさせて?」

Yes、って言ってほしいな?
そんな想いに見つめた先で、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。

「キスの指輪、なの?」
「そうだよ。見えないけれど、ダイヤモンドより堅い想いが籠ってるから、」

笑って答える、これは本音。
きっと、どんな指輪より自分の想いは堅い。

「ダイヤモンドより堅いの?」
「うん、だって俺、青梅署では『堅物』って呼ばれているだろ?」
「ん、…そうだね?…そんなに堅い、の?」

気恥ずかしげなトーンで幸せな笑顔が訊いてくれる。
こんな言葉をこの場所で交わせることが嬉しい、こんな今に英二は微笑んだ。

「そうだよ。だから周太、俺のキスの指輪を受けとってくれる?」

純粋な瞳が見上げてくれる。
ひとつ瞬いて、こんどは周太が英二の左掌を両手に包んでくれた。

「ね、英二?…英二も、結婚指輪ほしい?」

そんなの答えは決まっているのに?
もう決まっている答えに英二は微笑んだ。

「周太が贈ってくれるのだけ、ほしいよ、」

答えに、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
やさしい両手は英二の左掌を空へ掲げて、そして薬指に太陽が掛かった。

「太陽の指輪を、予約の指輪にさせて?…世界中からも、最高峰からも、見える指輪だよ?」

大好きな声がゆるやかに告げてくれる。
この言葉籠めてくれる想いが嬉しい、うれしいまま頷いて英二は応えた。

「これなら、どこからも見えるな?」
「でしょ?」

黒目がちの瞳が羞みながら、うれしそうに笑ってくれる。
けれどすこし寂しげになった瞳で、それでも周太は明るく笑ってくれた。

「これなら俺のこと…どこにいても、忘れないね?」

どこにいても忘れない。
この言葉に籠められる想いが切ない、痛い。

いま初任科総合の期間で警察学校に戻って、周太と毎日一緒に過ごしている。
けれど期間が終わる1ヶ月半後には所属に戻り、青梅署と新宿署に別れてしまう。
所属に戻ったら、クライマー枠での正式任官をした英二は、海外の高峰での遠征訓練が決っている。
この1か月半後には周太も本配属が決まっていく、そして「遠い」部署に離される可能性が高い。

きっと周太が配属される「遠い」部署は、警察組織の中で最も暗い過酷な世界。
その場所に居ることを家族にすらいえない、そんな昏い秘密も任務の名の下に負わされる。
そこに周太の父は生きていた、だから周太は父の軌跡を追ってそこに行くだろう。
その場所にまでは、英二はどこまで傍にいれるのかすら、まだ解からない。

―だから周太は、どこからも見える指輪をくれる

いま贈ってくれる「太陽の指輪」に籠めた周太の想いが切ない、そして温かい。
この温もりを信じていたい、どんなに遠くなっても絶対に離さない。
そんな覚悟と意志を見つめて英二は婚約者に笑いかけた。

「ほかのこと全部忘れたって、周太のことだけは忘れないよ?信じて、周太。どこにいても離さない、ずっと一緒にいるよ、」

ずっと永遠に信じてほしいよ?
ずっと離さないで守っていくから、どこにいても見つめているから。
そしてずっと一緒に生きていたい。この願い籠めて見つめた想いの真中で、黒目がちの瞳は幸せに笑ってくれた。

「ん、…信じてる、英二、」

幸せな笑顔の唇が、英二の左薬指にキスをくれた。

太陽の指輪と、キスの指輪。
ふたつの指輪重ねて結んだ約束は、ダイヤモンドの堅固に誓われて、
そして、あまねく照らす明るい光が充ちている。


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第43話 花想act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-21 21:13:30 | 陽はまた昇るanother,side story
残り香、花あざやぐ宵と豊喜の春を



第43話 花想act.4―another,side story「陽はまた昇る」

夕食が終わり、ふたりは遠い山へと発って行った。
静かな夜ゆるやかな和室で、母とふたり茶を点て久しぶりの稽古をしていく。
開け放した窓からふる桜の風が、ときおり花の香をはこんでくれる。
ふたり点法を互いに終えて、ほっと息吐いたとき母は嬉しそうに微笑んだ。

「周、きれいになったね?たった一晩なのに、大人になってる、」
「ん、そう?…」

そんなふうに言われると、面映ゆい。
気恥ずかしさに熱くなっていく首筋に掌あてたとき、ふわり袖がおりて右腕が露になった。

…痣、

露になった右腕の、深紅の花びらの痕。
この花のような痣は、初めての夜からずっと英二が刻みこんできた。
いつも端麗な唇に吸って、白い歯に噛んで、深く刻み込んでくれる花の痣。
そして昨夜も今朝も刻んでくれた、あまやかな幸福の記憶に周太は微笑んだ。

「大人に、なったかもしれないね?…昨夜を、超えたから」

昨夜は、14年前に父の亡くなった夜。
ずっと哀しい夜だった、痛みと苦しみの夜だと14年見つめてきた。
けれど昨夜に見つめたのは、哀切ごと受けとめられる安らぎと愛される幸福の時だった。
そして迎えた今朝は、やさしい春の霞と光に充たされていた。

「あのね、おかあさん?今朝ね、英二は、すみれと蓮華草をくれたんだ、」

暁の目覚めを迎えてくれた花と、朝の庭で渡してくれた花。
どちらも小さな野の花だけれど、籠めた想いの真心が瑞々しくて愛しい。
うれしかった朝の記憶に笑った周太に、母も嬉しそうに笑ってくれた。

「よかったね、周。じゃあ、お父さんのとこに活けてあったの、あれも英二くん?」
「ん、そう…お父さんの好きな花って、お墓参りのときに、おかあさん言っていたから、って…草取りの時だよね、」
「あれを英二くん、ちゃんと聴いて覚えていてくれたのね?うれしいわ、お礼のメールしないとね、」

茶碗を掌に抱いて、幸せに母が微笑んでくれる。
明るい幸せな表情がうれしい、こんな母の顔がみれる今が幸せで嬉しい。
この想い素直なまま周太は母へと笑いかけた。

「英二はね、いつも、解かってるよ?だってね、…昨夜、ワーズワスを読んでくれたんだ、」
「ワーズワスを?…英二くん、自分で選んだの?」

すこし驚いたように母が訊いてくれる。
やっぱり驚くかな?なんだか誇らしい気持ちで周太は頷いた。

「ん、選んでくれた…フランス語は出来ないから、これくらいしか読めないけど、って言ってくれて…でね、
すごくきれいなキングスイングリッシュで、読んでくれたの。それからね、英二は『みどりのゆび』も、知っていたんだよ?」

「あら、『みどりのゆび』なつかしいね?」

書名を聴いた母の顔に、きれいな明るい花が咲いた。
ほら、こんなふうに英二は「笑顔のゆび」を持っている。
母に咲いた笑顔がうれしくて周太も笑った。

「ね?それでね、お母さん。俺のこと、チトと似てるって英二も言うんだ…おだやかな雰囲気とか、花が好きなところ、」
「あと、すぐ寝ちゃうところも、って言われたでしょう?」

愉しげな黒目がちの瞳が訊いてくれる。
やっぱり皆でそう想うの?ちょっと気恥ずかしく想いながらも正直に頷いた。

「ん、言われちゃったよ?…でも俺、授業中は寝ないよ、って答えたんだ。ね?同じだよね、お母さん、」

穏かな雰囲気、花が好き、すぐ寝てしまう。
どれも父が言ってくれた言葉たちと、同じ言葉。
そして同じように幸せな気持ちになれた、英二の言葉たち。

「不思議だよね?英二は、知らないのに…どうして、お父さんと同じこと言うんだろう?不思議で、うれしかったんだ…」
「そうね、不思議ね?…英二くんて、」

頷いて、床の花を黒目がちの瞳が見つめた。
青磁の壺に活けられた、深紅あざやかな牡丹の蕾。
この今日に座っていた英二の姿を写したよう華やかで、高雅な花の姿は美しい。その花に母はやわらかく微笑んだ。

「顔立ちも似ていないし、体格も違う。ずっと背が高いし、華やかで。それなのに、そっくりな時があるね?」

母が言う通り、英二は全く父と似ていない。
それなのに、なぜか哀しい笑顔のときは驚くほど似ている。
それから仕草がそっくりな時がある、涙を拭いてくれる時、膝に抱き上げてくれる時。
そんな仕草の「そっくり」を今日も見つけた、すこし首傾げこんで周太は母に言ってみた。

「今日、お茶を点てている時に、ね?…おとうさんと英二、似ているな、って思ったんだけど…」
「周も、思ったのね?お母さんもよ、」

やっぱり同じように感じるんだな?
茶碗を膝に抱いて首傾げこんだまま、周太は床の花を見つめた。

深紅あざやかな緋牡丹の花。
大きな丸い蕾は艶やかで、ほころびかけた風情が華やいでいる。
この花の姿に似た婚約者は優しくて、不思議で温かい。きれいな笑顔のくれた温もりに周太は微笑んだ。

「お母さん?昨日は俺ね、楽しかったんだ…お父さんの命日なのに、幸せな日だったよ、」

昨日は、警邏に立っていた御苑まで迎えに来てくれた。
そのあと服を買ってくれて、きれいで気楽なトラットリアで食事して。通りを歩きながら桜の花びら掴まえた。
あの大好きな花屋にも一緒に行って、父が亡くなった場所にも花を供えてくれた。
そして夜は、ずっと幸せだった。
幸せな記憶が温かで微笑んだ周太に、母も笑いかけてくれた。

「よかった。お母さんも、楽しかったよ?今日もね、英二くんも光一くんもいて、楽しかった」
「ん、楽しかったね…お父さんも、楽しかったかな?」
「きっと、そうよ?」

同じように笑ってくれる黒目がちの瞳が嬉しい。
母子お互いに14年間の春は寂しかった、けれど、これからは明るい春が毎年来るだろう。
この変化を自分たち母子にくれた、大切な婚約者を想いながら周太は立ち上がった。

「お母さん、ワイン飲むんでしょう?仕度するね、…テラスで夜桜を見ながら、にする?」
「お花見いいわね。周、お相手してくれる?」

周太の提案に母も笑って立ち上がってくれる。
明日は日勤だから朝早く新宿に戻らないといけない、けれど母との時間を過ごしたい。
すこしなら大丈夫だよね?そんな想いと頷いて周太は微笑んだ。

「ん、するよ?」

昨夜は英二とふたり花見を楽しんだ。
そして今夜は母とふたりで花見をする、こんなふうに大切な2人と時間を過ごせることが嬉しい。
きっと今夜も楽しいだろうな?少し後の時間を楽しみにしながら母子ふたり、茶道具をしまい始めた。



おやすみなさいを言って自室に戻ると、周太は静かに窓を開いた。
窓のむこう桜の花が月に咲いている、すずやかな馥郁とした風が頬に心地いい。
もう宵の時間にかかる庭は静謐の眠りについて、寝息のよう花の香をおくってくれる。
この静寂の時ふたりは今、何所にいるのだろう?

「…7時間はかかる、って言っていたよね…長野に、入る?」

ふたりが発ったのは18時半ごろだった。
いま23時前だから、あと2時間半は目的地までかかる。

「すごい体力だよね、ふたりとも…」

長い時間を車で移動して、仮眠をとってから入山していく。
それも積雪期最高難度とも言われる山に、2人は登りに行ってしまった。
あの場所に自分は付いていけない、こうして無事を祈ることしか、今もう出来ない。

…どうか無事に楽しんで、ちゃんと帰って来ますように

願いを月に見上げて周太は、掌の時計と紅色の御守袋をそっと握りしめた。
きっと英二も左腕のクライマーウォッチを見て、周太のことを考えてくれるだろう。
そして紺と紅色の守袋に微笑んで、ここに帰って来たいと願ってくれる。
そんな想いに掌を開いて見た守袋は、藤色の房に紅の錦が艶やかでいる。
この紅のいろに床の間の花が想われて、花に似た愛するひとの面影が重なっていく。

そして記憶あざやかに映るのは、明るい夕方に見た黒紅の襦袢姿。
黒椿のように妖艶で緋牡丹の様に艶麗な、英二の華やかな姿が月明かりの部屋に甦っていく。

―遠慮なくイっちゃってイイよね?

悪戯っ子に笑いながら光一は、英二がまとう袷の帯を解いた。
静穏に渋い縹色は墜ちて、艶麗な黒紅の襦袢姿を夕初めの光に顕した。
白皙の肌に深く謎含むような深紅まとった英二は、妖艶なほど美しくて、黒椿の花姿のようだった。

きれい、

ため息と見惚れたとき、光一は英二を抱き上げ床に横たえ、組み敷いた。
襦袢の裾を光一の長い脚は肌蹴させ、白皙の脚は黒紅からこぼれだして。
夕映え艶めく床の上、あざやかに乱された黒紅の衣姿は、そのまま花綻んだ緋牡丹の姿だった。
深紅がからまる白皙の肌に、困惑すら美しい貌に、細い無垢な目は微笑んでいた。

まばゆい

ただ一言に見つめていた。
茶の席で英二の袴姿を見たときと同じように、讃嘆と恋慕が綺麗だった。
この部屋の床に咲いた緋牡丹の花を、山っ子は恋愛の眼差しで真直ぐ見つめていた。
欲する想いのまま正直に、白い手を深紅の襦袢に掛けおろし、紅い唇に噛んだ白い衿を寛げて。
この美しい緋牡丹を手折りたい、愛したい。そんな望みが無垢の透明な瞳に切なかった。

「…牡丹に、キスしてたね、光一、」

ほっと溜息交じりの記憶が心をゆらめかす。
今日の茶花に活けたと同じ緋牡丹を、光一は迷わず庭の花園から見つけだした。
やわらかく白い手は深紅の花にふれて、嬉しそうに細い目は花へ微笑んだ。

―これくらい、赦してよ?

そう言って悪戯っ子に笑って、緋牡丹にやさしいキスをした。
キスふれて離れて、愛しむ眼差しに緋牡丹を見つめた光一はきれいだった。
あの言葉とキスの意味は誰のことなのか、きっと自分は解かっている。

「ね、光一?…ほんとうに英二のこと、好きなんだね」

光一は、心ごと体を繋げたことが無い。
ずっと光一は9歳の冬から、相手に周太だけを望んで待っていてくれたから。
それなのに自分は応えられない、あんなに一途に待ってもらいながら出来ない、叶えられない。
けれど今は、きっと光一は周太以上に心と体を繋げたい相手がいる。

光一は周太のことを不可侵の目で見つめてくれる。
光一が敬愛する「山」で最も大切にする山桜の精だと信じて、周太に山の神秘を見つめている。
だから光一は、決して無理に周太には触れようとしない。
だからこそ光一は、英二が周太を犯したと知った時は本気で怒りをぶつけた。
そんなふうに光一は「犯さざるべき者」遠い神聖な存在のように周太を見ている。

けれど英二は違う。
光一にとって英二は誰より近い存在で、いつも手を繋げる相手と信じている。
自分に近い親しい存在だからこそ、光一はいつも英二には触れたがる。

「光一、きっと…ほんとうに恋して愛したのは、英二…そうでしょう?」

光一が最も大切にする「山」で共に生きられるひと。
どんな時も必ず支え合える、いつも受け留め泣かせてくれるひと。
そして失った最愛の面影を宿し、亡くした志すら繋いでくれる最高の友人。
そんな存在に出逢ったら、山っ子が愛さない訳が無い。

「紅い牡丹がほしいね、光一?大切な、大好きなパートナーだもんね…でも英二は、ね、」

こぼれた言葉が、花の夜風に消えていく。
言葉溶けこんだ風に撫でられた頬へ、温もりが一滴こぼれた。
あの美しい山っ子の想いが切ない。
綺麗で切なくて、切ないまま純粋な想いが響いて、涙になって溢れだす。


唯ひとりの存在になりたい、独り占めに愛されたい。
けれど「独り占め」は叶わないと解っている。
でも、それでも構わない。
愛されているならそれでいい、独り占めも唯一も叶わなくても、それでいい。
こうして触れられるなら、生きて愛して、共に山に生きて行けるなら、それでいい。


無償の愛が、山っ子の想い。
この無償の愛があんまり無垢で綺麗で、切なく痛い。
もう二度と生きて逢えない、死に裂かれた最愛の相手がいる光一。そして知ってしまった孤独の諦観が光一にはある。
哀しみが深い分だけ強く美しい諦観、これが光一の大らかな無償の愛になっている。

―国村ね、雅樹さんのこと、本当に大好きなんだ…今でも、愛しているんだよ、あいつ

そんなふうに今朝の食卓で、英二は「北鎌尾根」を話してくれた。
光一と雅樹。このアンザイレンパートナが結んだ約束と想いが紡ぐ「北鎌尾根」の物語。
光一が雅樹に手向けた慰霊登山のトレースに籠めた想い、この哀切から生まれた想いが光一の大らかな愛になっている。
そんな無償の山っ子の愛が、本気で英二に向けられだした。
それなのに、

「でも、英二は…俺のこと、ばかりで…ごめんね、でも…」

どうして自分はいつも、光一の願いを邪魔することになるのだろう?
ほんとうに大切な初恋相手で恩人の光一、それなのに光一の本当の望みを何一つ叶えてあげられない。

こんなこと、どうにもならない、そう解っている。
それでも、英二になら出来るのではないかと思ってしまう、願いを言ってしまいたくなる。
どうにもならないと解っている、自分は英二に言われて哀しかったのに、それでも思ってしまう。
この自分も母も英二は幸せにしてくれた、14年間を哀しみ続けた「昨日」すら幸せに変えてくれた。
そんな深い懐を持っている英二なら、この望みすら叶えてくれるのではないかと、思ってしまう。

「俺には出来ないの…でも、幸せな時間をあげたい…こんなのわがままかな、英二…」

もし英二が望むなら。
光一に、自分と同じことをしてあげてほしい。

きっと本当にそうなったら、自分は泣くだろう。
きっと拗ねてしまうと解っている、わがままで甘えん坊な自分は、欠片だって英二を誰にも渡したくない。
だからこそ解かってしまう、いまどんなに光一が切ない哀しい想いでいるのか自分には解る。

だってもう気づいている。
いつも英二を取りっこする時に、見えてしまう。
ほんとうは光一と自分は似た者同士、寂しい一人っ子で無条件に甘えられる懐がほしくて仕方ない。
だから解かってしまう、自分と同じ光一は、寂しい哀しみが傷んでいると解る。
この哀しみの痛みが解かるから、だから願ってしまいたい。

…孤独は、かなしい…寂しくて、冷たくて…ほんとうは、温かな腕に、抱きしめられたい。だから、

ずっと自分より強くて、美しい光一。
けれど愛されたい想いは同じで、求め甘えてしまう心も変わらない。そして気難しいところも。
だから光一が英二を選んでしまう事も自分にはよく解る、他人事にならず解かってしまう。
傷みも哀しみも寂しさも、愛しみ恋い慕う想いすら、すべて自分事として解かってしまう。

自分事、だから、この心が想い願ってしまう。
光一の哀しみを幸福に変えてあげたいと、この心が願ってしまった。けれど、

「けれど、英二から思わないと意味がない…心から、繋がりたいのだから…誰が口出ししても、いけない、ね…」

どうにもならない。

人の心の想いなんて、コントロールして自由に出来るわけじゃない。
想い寄せてしまえばそれで決まり。誰を愛するかの選択権なんて本当は、本人にすらないのかもしれない。

悩んでも苦しんでも、結局は同じこと。
理由も理屈も通用なんてしやしない、自分の意志にすら「想い」は反逆する時もある。

意志にすら「想い」は変えられないと、自分自身で知っている。
この自分の運命と危険に英二を巻きこみたくない、それが自分の意志。けれど結局は英二を求め離れられない。
だから解ってしまう。光一だって自分と同じこと、もう想い定まったのなら誤魔化せやしない。
どんなに言い繕っても心は誤魔化せない、自分自身が最も偽れない相手なのだから。
誤魔化すことすら出来ないなら、真直ぐ見つめるしか出来ない。

…正直にあるしかない、ね

どんなに哀しくて痛くても仕方ない、今に正直に向き合うしか出来ない。
どんな哀しみ痛んでも、今この時は同じに過ぎていく。それならば、泣くよりも笑顔で向き合う方が良い。

「ん、…笑顔、いつも喜んでくれるから…ね、」

微笑んで見つめる空は、月が明るく照らしてくれる。
夜照らす月から降りる風は花の梢を揺らし、涙の頬を撫でていく。
馥郁と桜やさしい風に微笑んで、周太は涙を拭いさった。

「英二、愛してる。光一、好きだよ…ふたりとも、笑顔で帰ってきてね?」

桜のむこう昇っている月に微笑んで、そっと窓を閉じた。

御守りを鞄に仕舞って、ベッドに腰掛けながらスタンドランプを点ける。
サイドテーブルに腕時計を置いてから携帯を開くと、メールが届いていた。
きっとそうだろうな?予想しながら開けた受信メールは美代からのものだった。

「ん、地理の質問?…氷食地形について、…国内、」

注意深く質問を読んで、解答と解説をメールに書いていく。
美代は東京大学理科Ⅱ類を受験すると決めた、その勉強について毎日メールで質問してくれる。
先月末の公開講座をふたり一緒に受講して、青木樹医と出会い話した時間は楽しかった。
あの楽しい時間から美代は、夢に生きる道の扉を開いた。

いま美代は周太と同年の23歳で、今年24歳になる。だから25歳で大学入学となってしまう。
きっと世間的には遅いスタートになる、結婚も遅くなってしまう。だから美代の両親も進学には反対をしている。
それでも美代は、青木樹医が美代の青い本に記した詞書の通りに、自分で選んで道に立った。

“大切なことは道に立つ勇気です。成ろうと成るまいと、信じて夢に向かい努力を続けていく…心大きな人の道です”

あの言葉が美代の決意を固め、本気で努力する勇気を目覚めさせた。
あのとき周太も同じ瞬間に、自分の夢を見つけに行く道に立った。
こんなふうに一緒に夢を追える友達がいるのは、幸せだ。
そんな美代は英二を好きで、けれど互いに英二の話もきちんとできてしまう。
こんなふうに夢も恋愛も話しあって、互いにライバルで一番の理解者だと想い合える。
この友人がいる幸せが、ほんとうに温かい。大好きな友達の面影に微笑んで、周太は送信ボタンを押した。

「いっしょに、がんばろうね?」

携帯画面の「送信完了」表示に微笑んで、サイドテーブルに携帯を置くとテキストを手にとった。
このテキストは今月末から開講の青木准教授の公開講座用になる、昨日帰ってきたら受講証と一緒に届いていた。
本当はすぐ見てみたいとも思ったけれど、英二と一緒に過ごしたくてまだ開かないでいた。
はやる想いに微笑んでサイドテーブルのランプにページを開く、明りに照らされたページが嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、わかりやすい…青木先生、やっぱりすごいな、」

美代は今、一生懸命に受験勉強をしている。
けれど仕事と受験の両立は忙しい、たぶん公開講座の勉強は満足にはできないだろう。
だから周太がきちんと勉強して、これも教えてあげればいい。そんなふうに友達を手伝えることが嬉しい。
うれしい気持ちでページを読みながらベッドに寝転ぶと、ふっ、と香が心くすぐった。

「…あ、」

深い森の樹木に似た香が、やさしく包みこんでくれる。
そっとシーツに頬寄せて周太は微笑んだ。

「…英二、気配を残してくれた…?」

いまごろは英二は光一とふたりきりでいる。
そう想うと寂しい気持ちも起きてしまう、けれど、このベッドに眠ることを英二は一番に望んでくれると知っている。
この古いけれど綺麗な木造のベッドは、ちいさい頃から周太が夜を過ごしてきた。
そんな記憶ごとを英二は愛しんで、ここで周太を体ごと繋げて夜を恋人の時に変えてくれる。
その幸せな時間の残り香が、今横たわるシーツにやさしく温かい。

「大好き、」

幸せな笑顔は、愛する恋人の香にくるみこまれた。


翌朝、仏間での朝の挨拶を済ませると周太は、床の間の花を見た。
大輪に花ひらいた緋牡丹は、朝の光に艶めき華やいでいる。
水揚げが上手に出来ていた、そうして元気に花咲いてくれる姿は嬉しい。

「おはよう、きれいに咲けたね?」

きっとこの花に似たひとは今日も元気に、雪の高峰で笑っているだろう。
そんな確信を花に見つめて、周太はきれいに笑った。

「…おはよう、英二?」

愛しい面影映してくれる花に、そっと周太はキスを贈った。
この花もきっと忘れられない花になる。

暁の目覚めに見つめた野すみれ、長い指が摘んだ朝露の蓮華草。
豊麗な枝垂桜のもとふれたキスは幸せで、愛するひとの衣写した緋牡丹は華やいでいる。
それから御苑新宿門で、万朶の桜ふるなか見つめた、英二の綺麗な笑顔。
いま春の花たちは、大切なひとの面影と幸せの記憶が映りこんでいる。

春はもう、歓びの季節。



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第43話 花想act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-20 23:55:37 | 陽はまた昇るanother,side story
花に願い、祈り、



第43話 花想act.3―another,side story「陽はまた昇る」

瞳を明けると宵の帳がまだ深い。
ゆるやかに見上げた恋人は、深い眠りに微睡んでいる。
ほのかに明るいオレンジの光に、濃い睫けぶる煌きが綺麗で惹かれてしまう。
抱きよせられて、頬よせる白皙の胸は規則正しい鼓動が温かい。

…生きていて、くれる…

ふっと瞳にうかぶ温もりが、しずかに頬伝って鼓動の胸にしみていく。
やすらかな深い眠りの微笑を見つめて、微睡む唇に静かなキスでふれた。
ふれる吐息は眠りの夢におだやかで、健やかなひとの温もりが幸せになる。
この温もりに夜を籠めて愛された、その記憶が自分の全身に心にあざやいでしまう。

―…安心して、周太?恥ずかしがらせると思うけど、必ず幸せにするから…俺に君を任せて

そう告げて、やさしいキスをしてくれた。
そしてこの体と心の隅々まで、恋人は深い愛撫に浚いこんだ。
おだやかな熱とあまやかな感覚は幸せで、たくさんの羞恥すら幸せに想えてしまった。
そうして深く甘い幸せの夢に沈んで、いま、宵の目覚めに佇んでいる。

「…すぐ、もどってくるね?」

微笑んで、周太はそっと婚約者の腕から脱け出した。
素肌に夜はひんやりと纏わりつく、ベッドから降りて床の白い衣を拾いあげ羽織りこんだ。
露わな肩に木綿がやさしい、ほっとする肌触り微笑んで藤色の兵児帯を手早く結いあげた。
静かに鞄を開いて手帳を広げる、最後の見開きについたポケットの小さなカードを周太は出した。
それを持って、デスクの抽斗から小さな裁縫箱を出すと梯子階段に足を掛けた。

きぃ、きっ…

かすかな木造の軋みが夜に響く。
ゆっくり上がりきると屋根裏部屋のフロアーランプを点けて、ふるい木のトランクを開いた。

「…ん、ちょうど良さそうだよね?」

微笑んで中から小さな赤い袋と組紐を2つずつ取りだすと、元通りにトランクを閉じた。
フロアーランプを近寄せて、床に敷いたクッションに座りこむ。
そうして周太は細かな手仕事を始めた。

静謐の底に灯るランプの明りに、赤い錦の袋が輝いて見える。
この袋は、静養を終えた英二を穂高連峰へ見送ったあと、母に出して貰った古裂で作った。
曾祖母か祖母が使っていたらしい巾着袋をほどいた生地は、絹の手触りがやさしい。
会ったことはないけれど、自分が生まれる繋がりを生んでくれた人の想い伝わるようで、温かい。
この綺麗な赤い錦袋に、手帳から出したカードを入れてみた。

「ん、やっぱりサイズ、合ってた、」

プラスチックカードに作りあげた押花は、袋にきちんと納まってくれる。
このカードには白澄椿の花びらと花芯を綴じこんだ。
片方には雄蕊、片方には雌蕊、それぞれ花びらと一緒に入れてある。
こんなふうに1つの花を2つに分けて、夫婦で御守りに持つと離れてもまた逢える。そう本で読んで、作ってみた。

「…この花なら、願いを叶えてくれるよね?」

ちいさな呟きに祈りを微笑んで、錦袋に藤色の組紐と縫い綴じる。
総角結びにして端を房に作ると、きれいな御守り袋に仕上がった。
これなら上出来かな?小さな守袋に笑いかけて、雄蕊の方の錦袋を手にとった。
此方の方には紺色の組紐を縫い綴じて、より丁寧に造りこんでいく。

「ん、きれい、」

出来上がった御守りをランプの下に見て、周太は微笑んだ。
この御守りにした白澄椿は、英二が雪崩に遭った時ちょうど、庭で周太が受けとめた花だった。
そのときは綺麗な花が無事に受けとめられて嬉しくて、水盤に活けこんで可愛がった。
そして、英二の事故状況と受傷状態を聴かされて、この花が符号のよう想えてきた。
この白澄椿は大輪の千重咲きで、高潔に優雅な華やぎが英二と似ている。だからこそ殊更に縁を感じた。

この花は不思議な花。
そんな想いから御守りにしようと思いついた。

明日の夜、英二はまた雪山訓練にと発っていく。
明日の午後には光一が英二を迎えに来る、そして常人に踏みこめない氷雪の高峰へふたりは行ってしまう。
そこに周太は付いていけない、けれど想いを守袋に籠めることなら出来る。
今冬のクリスマスには、自分を忘れずに無事帰ってほしくてクライマーウォッチを贈った。
そして英二は雪崩からも無事に帰ってきてくれた。それでも尚更の無事を祈りたくて、御守りを思いついた。

「…どうか、英二を守ってください、白澄椿…」

掌にのせた花の御守りに、静かな祈りを周太は籠めた。
そしてロッキングチェアーの主に、赤い2つの守袋を見せて微笑んだ。

「ね、小十郎も、お願いしていい?…英二を、守ってほしいんだ。すごく、大切なひとなの…」

テディベアの黒い瞳が見つめてくれる。
父の身代わりとして自分の下に来てくれた、不思議なクマのぬいぐるみ。
このテディベアなら願いも叶えてくれる。そんな気持ちになるのは、父の願い籠められたクマだからかもしれない。
この宝物に今夜は謝ることがある、黒い瞳見つめて周太は口を開いた。

「小十郎、14年前はごめんなさい…ほんとうに、ごめんね、」

14年前の今夜、父が亡くなった知らせを聴いた瞬間に周太は「小十郎」を忘れた。
そのとき父に纏わる記憶は次々と欠け落ちて、自分の名前に父が籠めた言葉すら心から消えた。
そうして、大切な初恋の相手との約束すらも、記憶の底に眠りこませてしまった。
もし初恋と光一を忘れていなかったら、自分は英二を今の様に愛しただろうか?

「ね、小十郎?もし、光一を忘れなかったら、英二のこと…」

初めて逢った瞬間に見つめた、冷酷な笑顔に隠された真直ぐな想い。
ずっと生きる誇りを探している、そう問いかける実直な眼差しに自分は恋をした。
あの想いに出逢っても自分は、恋に墜ちずにいられるだろうか?
そんな考えめぐる夜の衣から、ふっと深い森の香が昇った。

この香が慕わしい。
この残り香を自分に沁みこませた人の心も体も無しには、いま自分は生きられない。
こんな自分が、恋に墜ちずにいられただろうか?

「…きっと、すきになったね?…きっと、今と同じ、ふたりが大切で…ずるい自分でも、正直にいるしかないって想いながら…」

こんな自分は、ずるい。
こんなにも英二を愛している、けれど光一を無視することも出来ない。
どうしても英二を守りたい、この盲目な想いのなか自分は奥多摩山中に発砲の罪を犯した。
あの罪を肩代わりしてしまった初恋相手は、この自分を愛し続けていくと断言する。
そしてきっと彼は、英二のことも愛し始めている。

「きっと、光一はね…また違う気持ちで英二のこと、愛してる…きっと、俺に対するより強い想い…」

純粋無垢で怜悧な光一は、その分だけ気難しい。
よく人の心まで見抜く真直ぐに無垢な瞳は、そう簡単には誰かを愛せない。
そんな光一が周太を愛するのは、周太を山桜の精霊と信じ「山の秘密」に守る出逢いだからだろう。
だから大切な「山」のパートナーである英二を、光一が愛さないわけはない。
光一が大切にする山の世界を共に生き、様々な「山の秘密」を共有していく相手を愛さないはずがない。

「英二は、雅樹さんに似ているの…光一の、いちばん大事な人と似てる、そして、英二はそれだけじゃないから。きっと…ね、」

やさしいテディベアは話に微笑んで見える。
きっと父も笑って聴いてくれている、周太も微笑んで静かに言った。

「お願い、小十郎、ふたりを守ってね…俺のことはいいから、ね?」

父の優しい祈り籠るクマを撫でて、周太は立ち上がった。
フロアーランプを消して音をたてないよう、ゆっくり梯子階段を降りていく。
そのままデスクの抽斗に裁縫箱をしまって、2つの御守袋を鞄に納めた。
今夜にしたかったことが、これで全部終えられた。

…お父さん、今夜を俺も、踏み出せたよね?…お母さんと一緒に、

うれしい想いに静かに微笑むと、周太はベッドの傍らに佇んだ。
そっと白いリネンを見ると、安らかな寝息が静謐にながれている。
この安らいだ夢に横たわるひとは、腕をまだ抱きしめるようにしたまま眠っていた。

…俺のこと、抱きしめてくれてるの?…夢の中でも、ずっと

ずっと一緒にいよう、離さない。
そう言ってくれた通り、ずっと腕のなかに自分を抱いてくれている。
愛していると、眠る白皙の腕から想いが伝えられてしまう。
愛されている、その幸せが温かい。

「…ずっと、腕のなかにいるね?」

幸せに微笑んで、藤色の帯を解いた。
さらり床に散る藤色へと、白い浴衣も肩からすべらせおとす。
そうして宵の目覚めと同じ姿に戻って、愛する腕のなかに周太は戻った。



7時半すぎの庭は、まだ霞が残っていた。
やわらかに瑞々しい空気のなか、家庭菜園も朝露にきらめいている。
ひとつずつ手籠に使いたい野菜を摘んでいく、その手が露にみちていく。
春になって青物がよく育つ、美代からもらった種の野菜たちも彩が瑞々しい。

…おいしく食べさせてもらうね、ありがとう、

心の裡に礼を言いながら、ひとつずつ摘んでいく。
その向かいから、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。

「周太、玉ねぎは幾つ掘る?」
「ん、…4つ、玉ねぎは夜の分も掘って?」
「なに作ってくれるの?」

楽しそうに手を動かしながら訊いてくれる。
軍手をはめた腕は山岳訓練に鍛えられているけれど、白皙の肌は艶やかに美しい。
ダークブラウンの綺麗な髪のした、端正な笑顔は華やかで育ちの良さが香っている。

…きれい、

心に思わずつぶやいて見惚れてしまう。
警察学校の頃よりも今の英二は髪が伸びて、優雅な雰囲気があざやかになった。
ゆるやかな朝陽にきらめく髪が、温かな霞の風にゆれていく。ゆれる髪と白皙の貌に惹かれながら、周太は問いに答えた。

「朝はね、お味噌汁に使うの…夜は、付合わせの焼野菜とサラダ、」

答えながらも不思議で、自分の婚約者の姿を見てしまう。
だって不思議で仕方ない、周太は挿絵の記憶と一緒に英二を見つめた。

…やっぱり英二って、王子さまみたい、だな?

幼い日に読んでもらった、外国の絵本や詩の美しい挿絵たち。
そこに描かれた「王子」は、白皙の肌と華麗な容貌が美しい青年だった。
あの挿絵に似た、こんな綺麗なひとが家庭菜園の土を掘っている姿は、不思議な感じがする。
けれど一緒に仕事してくれる事は、やっぱり嬉しい。

「味噌汁いいね、楽しみだな。はい、掘れたよ、」

綺麗な低い声が笑いかけてくれる。
この婚約者は姿どころか声も綺麗だな?そんなことを想いながら周太は微笑んだ。

「ありがとう、…じゃあ、水道で洗うね?」
「うん、一緒にやらせて、」

軍手を払いながら笑いかけてくれる笑顔がやさしい。
この笑顔をずっと、見つめていけたら良いな。そんな想いに微笑んで水場へと立った。
野菜を洗う水は朝の冷たさが気持ちいい、ふたり並んで洗い終えると英二が笑いかけてくれた。

「周太、すこし庭の散歩しよう?朝のデートだよ、」

朝のデート。
そんなふうに言われると面映ゆいな?羞みながらも周太は微笑んだ。

「ん、…はい、」
「素直で可愛いね、周太、」

きれいに笑って、額にキスしてくれる。
まだ濡れている前髪が額にふれて、髪が濡れている理由が気恥ずかしくなってしまう。
長い指ふれられる前髪の感触に羞んでいると、綺麗な低い声が微笑んだ。

「髪、まだ濡れているね、周太。俺、もう少し拭けばよかったな?ごめんね、」

いま前髪に絡められる長い指は30分ほど前、この髪も体も洗ってくれた。
その前には目覚めたばかりの周太をほどいて、恋人の時に体ごと抱き籠めてくれた。
この愛される時の記憶たちに、面映ゆく周太は微笑んだ。

「大丈夫、すぐ乾くから…、」

すこし首筋が熱くなるのを感じながら、ゆっくり庭を歩みだした。
菜園から東庭にまわると紅けぶる海棠が揺れ、足元には苧環が咲きはじめている。
北庭にさしかかると一叢に咲く藤紅の花が愛らしい。可憐で素朴な花姿に足を止めて英二が微笑んだ。

「周太、この花は、なんて言う名前?」
「蓮華草、だよ。田んぼによく咲いているんだ…おかあさん、この花が好きでね。俺も好きな花なんだ、」
「周太、好きなんだ?ひとつ、摘んでも良いかな、」

切長い目の微笑に、笑いかけて周太は頷いた。
うなずく周太に綺麗な笑顔むけて、長い指が1輪摘んでくれる。そして周太の手に持たせてくれた。

「かわいい花だね、可憐で、周太と似合うな」
「ありがとう…ちょっと恥ずかしいけど、うれしいな?」

好きな花と似合うのは嬉しいな?
素直に微笑んだ周太の頬にキスすると、英二は幸せに笑ってくれた。

「奥多摩でも、咲きそうな花だな、」
「ん、たぶん咲くと思う…おじいさんが植えたらしいから、」

やさしい朝霞の庭はどこか幻想的で、ゆらめく花たちが嫋やいでいく。
北庭の牡丹とバラたちも、霞のベールにやわらかく咲き零れている。
華やかな容姿の花もやさしい朝の風情に、英二が笑いかけてくれた。

「きれいだな、周太が手入れしているんだろ?」
「ほんのすこし、花を手伝うだけだよ。花が自分で、きれいに咲いてくれるんだ…警察学校に入ってからは、ほんとに少しだし」
「でも、すごいな。これだけ広い庭を、きれいに出来るなんてさ。きっと周太は、緑の指を持っているんだな、」

綺麗な笑顔が言ってくれた言葉がうれしい。
あの本を英二も読んでいる?嬉しくなって周太は訊いてみた。

「チトのゆび?」
「やっぱり、周太もあの本、読んでいたんだ、」

ほら、やっぱり英二も読んでいた。
同じ本を読んでいた。こういう一緒も嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、書斎の本棚にあるよ、」
「やっぱりあるんだな?じゃあ周太、原書で読んだんだ?」

微笑んだ周太に英二は、うれしそうに笑ってくれる。
なんだか気恥ずかしくなりながら、周太は頷いて答えた。

「ちいさい頃は、お父さんが日本語に訳して読んでくれて…自分で読んだのは、中学1年生、かな?」
「中1でフランス語が読めたんだ、周太、すごいな?」
「ううん、すごくない…何度も読んでもらっていた本だから、読みやすかったんだ…英二は、いつ読んだの?」
「俺は小学校の時かな?姉ちゃんが貸してくれたんだ、岩波のだったよ」

『みどりのゆび』は、どこでも草花を咲かせる不思議な指をもった、少年の物語。
初めて父が読んでくれた時から好きで、何度も読んでもらって。
あの不思議な「緑の指」が素敵に想えて、主人公のチトに憧れていた。

―…周は、チトとすこし似ているね?
  ほんと?おとうさん、そうおもう?
  ん、想うよ…穏かなところとか、植物が大好きなところとか。あと、すぐ眠っちゃうところ。
  たしかにすぐ、ねちゃうけど、でも…ぼくは、授業中は起きてるよ?

読んでもらうたびに父と交した会話が、ゆっくりと蘇ってくる。
懐かしい幸福なひと時が心に優しい、こんなふうに思い出しても、もう哀しいだけにはならない。

…それはね、今が幸せだから

この今を受留め愛してくれる隣がいる、この幸せが過去の哀しみも和らげ包んでくれる。
いま隣に佇んでくれる綺麗な笑顔がいてくれるから、もう哀しみより歓びの記憶だと微笑める。
この幸せに微笑んだ周太を、切長い目がのぞきこんだ。

「あの主人公と周太、ちょっと似てるな?」

父と同じことを婚約者が口にする。
どうして英二はこうなのだろう?不思議で、なんだか嬉しくて周太は微笑んだ。

「ほんと?英二、」
「うん。おだやかな雰囲気とか、花が好きなところ。あと、ことんって寝ちゃう感じかな?」

ほら、やっぱり同じことを言ってくれる。
この話はいちども英二にしたことはない、それでも英二は記憶の軌跡をなぞってしまう。
こんな不思議な恋人を持っている自分は、きっとチトよりも幸せだな?この幸せに微笑んで周太は口を開いた。

「ん、でも俺、授業中は寝てないよ?」
「そうだな、でも周太の掌も、緑の指だよ、」

きれいに笑顔が咲いてくれる。
霞やさしい春の庭に咲く幸せな笑顔、この笑顔があるから昨日も今日も幸福な時間になっている。

…もう、春は哀しいだけじゃない、幸せな時だ

この季節が、愛しい。
そんな素直な想いを抱いて、他愛ない話と西の庭を歩いていく。
花梨の薄紅、花水木の白と紅、ひなげし揺れる花壇に山吹の黄色、春の花が道を辿らせる。
そして戻った南の庭は桜の下に薄紫の花叢がやさしい、その花姿に周太は微笑んだ。

「すみれ、ここから摘んできてくれた?」
「うん、」

見あげた先で優しい笑顔が頷いてくれる。
暁時に目が覚めた時、ベッドサイドに菫が一輪きれいな葉と一緒に活けられていた。
こうした気遣いが英二は細やかで、いつも周太と母を笑顔にしてくれる。

…英二は「笑顔のゆび」を持っている、な?

あの緑の指も素敵だと思う、けれど英二の「笑顔のゆび」はもっと素敵だろう。
今朝も目覚めの花を摘んで、朝の瞬間から笑顔を贈ってくれた。ついさっきも蓮華草で笑顔にしてくれている。
この1年前の自分は母以外の前で笑うことを忘れ果てていた、けれど英二が笑顔を取り戻してくれた。
この1年前の春に出逢ってから幾度も笑わせてくれた、そして笑顔で誰とも話せるようになっている。

…ほんとうに英二は、俺には魔法をかけてくれた…いつも、ずっと

この今朝だって目覚めてからもう、幾度、笑っているだろう?
いつも笑顔をくれる大切なひとに、きれいに周太は笑いかけた。

「すみれ、うれしかったよ?…ありがとう、英二」

すこし背伸びして、やさしい白皙の頬にキスをする。
キスした頬のむこうには、豊麗な枝垂桜の天蓋が花霞に美しい。
この美しい花の滝に似合う、この綺麗なひとは自分の大切な婚約者。
心から大切な想いのまま周太は、頬から唇にもキスでふれた。

薄紅の花の滝が霞の風に揺らめく。
そっと閉じた瞳のむこうに、薄紅色の光の明滅がうつろっていく。
花の光やわらかな口づけ交わして離れて、見上げた端正な貌に花翳がやさしく映る。
ほのかな桜色にそまる貌は、幸せな笑顔が華やかにほころんでくれた。

「こういうの、ほんと嬉しいんだけど。周太、」

白皙の掌が周太の頬ふれて、唇にキスふれてくれる。
ふれるだけで、心から温まっていく幸せなキス。
やさしい温もりと穏かな感触に、ふっと森の香が昇ってくれる。
この香は愛するひとの肌の温度、大切なひとが生きている証の温もり。

…どうか、ずっと笑っていて、生きていて

いま揺らめく枝垂桜の花の滝、この花をずっとふたり見つめられますように。
この大好きなひとの香安らいで、この春の今祈る、この幸せが温かい。



午後になって母が戻り、光一が奥多摩から訪れた。
珍しいジャケット姿の光一がなんとなく眩しい、きっと黒いジャケットは昨日の父の命日に因んでくれた。
こうした気遣いの優しさも眩しく見える理由だろうな?そんな想い抱いて周太は茶の末席に座った。

「ほんとうに見事な桜ですね、手入れもきちんとされている。見事だな、って拝見しましたよ、」
「ありがとう。どれもね、周が丹精してくれているから、」
「なるほどね、周太なら、桜の守りは上手でしょうね、」

母と光一が楽しげに会話している。
透明なテノールが庭を褒めてくれるのを聴きながら、周太は床の花を見つめた。
今日は緋牡丹の蕾を活けてある。紅華やいだ色彩が、英二の着物に似合うと想って選んでみた。
きっと英二が本座に坐ったとき、床の花と英二の仕草は紅の色彩に呼応して綺麗に見える。

本来は、亭主は客をもてなすのだから目立たないよう衣装も地味めにする。
だけれど今日、初めて亭主を務める英二を惹きたてたくて、道具立ても英二の衣に合わせた。
きっと、きれいだろうな?そんな想像をしているうちに、静かに茶道口が開いた。

…きれい、

ほっと心に溜息吐いて、周太は微笑んだ。
優雅な物腰で本座についた英二は、綺麗だった。

白皙の肌に縹の渋い青色と謹厳な勝色がよく映えている。
縹色の袂こぼれる紅色と、勝色の袴のぞく藍と紅の博多帯が華やいで、床の花色と響く。
花活も大ぶりの青磁を選んで、英二の青系にそろえた衣と合わせた。
亭主と床の花が呼応して惹きたつ、この赤と青の意匠が美しい。

…この色合わせ、似合う…御守りも、揃えてみたけれど

昨夜、作り上げた守袋も赤と紺の組み合わせを選んだ。
さっき渡したけれど、喜んでもらえて嬉しかった。
ちょっと女の子みたいで恥ずかしいかな?そう想っていたけれど、大丈夫だった。
この色の組み合わせも、英二の好みに合ったのかもしれない。

他のふたりは、どんな反応だろう?
そっと隣を見ると母が「良い組みあわせね?」と瞳で笑ってくれた。
母のお眼鏡に叶うなら良かった。ほっとして周太は微笑んだ。

…光一は、どうかな?

光一は元から祖母に茶道を仕込まれている。
初めて光一が家に来たときは周太が亭主をした、あのとき光一は主客をきちんと務めていた。
茶を飲む所作も大らかに秀麗で、光一の性格そのままの風格ある雰囲気が老練だった。
そんな光一の評価はどうだろう?そう見た雪白の横顔に周太の呼吸が止められた。

まばゆい、

ただ一言、無垢な瞳は語る。
いつも核心貫く瞳は、一言の想いに真直ぐ英二を見つめていく。

そんなふうに見つめる相手は、どんな相手?
まばゆいのは、誰?

つきん、

周太の心が刺された。



母の言葉で茶の席がお開きになって、光一に誘われ周太は庭に降りた。
花ふる庭は遅い春の午後に明るい、桜も満開で草花も彩り豊かに風に揺れていく。
いま美しい春の庭が愛しい。自分が大好きで大切にしている庭が、こんなに美しいのは嬉しい。
けれど、すこし哀しい想いに周太は花を見あげた。

「うん、ほんとうにきれいだね?桜も好い、陽光もあるね、」

美しい桜の梢に光一は笑っている。
相変わらず底抜けに明るい目は愉しげで、率直に周太の大切な庭を褒めてくれる。
それでも心の深くには、さっき見てしまった横顔が、まだ氷の欠片のよう刺さりこんで、痛い。

…光一、ほんきなんだね

どこか予感し解かっていたこと。
元々、光一は英二のことが大好きで、いつもくっついている。
それは3人一緒の時も同じ態度で、いつも英二の取りっこになって周太を拗ねさせる。
けれどさっきの表情は、今までと違っていた。

…きっと、穂高連峰のこと、だね…

今朝の食卓で英二は、慰霊登山のことを話してくれた。
吉村医師の次男、雅樹が亡くなった場所をふたりで登り、光一が15年の涙を流したこと。
ふたり歩いた雅樹最期の軌跡の道で、英二は不思議な感覚を見つめていたこと。
そんな光一と英二の時間は「山の秘密」に深い。

山の秘密を見つめた相手を、山っ子は恋い慕う。

そのことを自分を通して周太は知っている。
だから光一が英二を深く慕い始めても、不思議はないと思ってしまう。
けれど、

「周太、庭を一周しようよ?北庭に牡丹園があったよね、見ごろじゃないの?」

透明なテノールに笑いかけられて、周太は意識を戻された。
見あげた細い目は、愉しげに春の陽射しと笑っている。

「ほら、行こう?」

楽しげに笑って白い手が周太の右掌を繋いでくれる。
そして東庭から北庭へと、花ふるなか歩き始めた。
海棠のなまめかしい薄紅をくぐり、蓮華草の藤紅をよけながら歩いていく。
今日まとう白い袷に紅色がふりかかる、卯の花がさねの袂に春の陽がやさしい。

「爛漫の春、だね?」

透明なテノールが楽しげに花に笑う。
いつもどおり明るい透明な、無邪気な笑顔は春の庭に咲き誇る。
こんなに美しい笑顔の初恋相手、けれど小さな胸の痛みと見てしまう。
けれど、この痛み以上に自分は望んでしまった「今」がある、だから後悔も出来ない。

…ごめんなさい、光一。でも、謝らないから、

無邪気な笑顔に心で謝りながら、濃二藍の袴をさばき微笑に歩いた。
あわい赤のトーンが多い花々を通りぬけていく。そして明るい陽光ふる牡丹の花園が現われた。

「やっぱり、見事だね、」

底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
褒めて貰えるのは素直に嬉しくて、周太も微笑んだ。

「ん、今年はとくに、きれいなんだ…大したこと、してあげられないのに、」
「うん?そんなことないだろ、見ればわかるよ。みんな、可愛がられているね、」

楽しげに花を眺めて、そっと白い手が花にふれて微笑む。
白、黄、うす桃、赤、そして深紅。百花繚乱という字の如くに咲きだした牡丹たち。
この豊かな色彩のなかで、雪白の肌と黒いジャケット姿が色彩を統べるよう佇んでいる。
極彩色に佇むモノトーンの美丈夫は、透明なテノールで花たちへ笑いかけた。

「よしよし、良い子だね?花びらも、たっぷりついたんだ…うん、愛されているな?」

美しい笑顔は牡丹とも、大らかに対話を楽しんでいく。
花をあやすような仕草と眼差しは、昔話に読んだ花の王を想わせる。
いつも光一はどこか不思議で、大らかな優しさは懐広やかに温かい。
このひとを自分は大好きだと素直に想う、けれどそれだけではない。

…きっと光一は、緋牡丹に立ち止まる

そんな想いと見つめた先、白い手は深紅の牡丹にふれた。

「きれいだね、君が最高の別嬪だな、」

細い目が慈しむよう愛しむよう微笑んで、周太を振り返る。
白い手を花に当てたままで、愉しげに光一は笑った。

「茶花は、この花だろ?あいつとよく似あっていた、イイ組み合わせだったね、」
「ん、ありがとう…きれいだと、思ったんだ、」

素直に微笑んだ周太に光一が笑いかけてくれる。
そして透明なテノールが周太に告げた。

「ドリアード。俺は、あいつのこと愛してるよ?君とはまた、すこし違うかたちでね、」
「ん、…」

静かに微笑んで、周太は頷いた。
もう解っていたこと、さっき氷の欠片のよう心つき刺した現実が言葉になっただけ。
あの氷の欠片の意味を、そっと周太は口にした。

「光一、俺はね、英二とずっと離れない…ずっと英二が望んでくれるから。英二の一番は俺、だよ?…それでも?」
「うん、構わないね、」

さらり応えてテノールの声が笑う。

「俺は俺のやり方で、あいつを愛してるよ。君を愛するようにね?そして、あいつなりに俺を愛している、だから構わない、」

氷の欠片が心をすべり落ちていく。
この無垢な瞳の初恋相手は、なにを求め生きているのか?それが愛しくて切なくなる。
この無垢な瞳が周太に求めることには応えられない、それが切ない。
もう自分の身は英二にだけ愛されたい、だから応えることが出来ない。

…夜も朝も、昼も、英二だけ…他は、出来ない

この数時間前も、真昼のベッドで英二は愛してくれた。
ほんとうは恥ずかしかった、けれど英二の想いが嬉しくて身を委ねて、そして幸せだった。
そんな自分が光一に出来ることは何もない、けれど偽らない事だけは出来る。
ずっと見つめてきた覚悟に周太は綺麗に笑った。

「ん、そうだね?英二なりに、光一のこと愛しているね…でも、英二が結婚したいのは、俺だけだよ?」

いつも英二が告げてくれる想いを、素直に言葉にする。
英二が結婚したい相手は自分、この想い受けとめていると誇示したくて今日、白い袷を選んで纏った。
この「白」の意味が光一なら解る、そう見つめた先で初恋相手は温かに微笑んだ。

「ふうん?言うようになったね、君もさ…白、ね?」

底抜けに明るい目が、温かい愉快に笑った。
やっぱり白い衣の意味をわかってくれる、こういう光一の繊細な感性が好きだと思う。
このひとは初恋相手で罪すら共に負ってくれる恩人、それでも生涯を望む恋だから遠慮できない。
この想いに微笑んで、真直ぐ光一の目を見つめて、周太は心のままを口にした。

「本当のことだから。英二が帰りたい場所は、俺の隣…ずっと一緒に眠りたいのも、俺なの。難しい山にいても、心は俺の隣だよ、」

どんなに光一が英二を想っても、英二が光一を愛しても。
いくど2人きりで高峰の頂に登ろうとも、そこへ周太は踏みこめなくても。
心から望み英二が帰る場所は、この自分。この自分こそ伴侶にと英二が望んでいるのだから。
この誇りと意志を初恋相手に示したい「白」の衣。

「ま、ね?たしかに、そうだね、」

秀麗な貌が微笑んで周太を見つめてくれる。
見つめ返す先の瞳は透明で、真直ぐ無垢な意志と想いが美しい。
このひとは綺麗、けれど英二が求めている安らぎは自分があげられると知っている。

…だから、嫉妬しない

ずっと見つめた覚悟と深い想いが心支えてくれる。
だから今日も英二と光一を山に送りだしていく、胸に抱く想いに周太は微笑んだ。

「英二は俺だけの、恋の奴隷なの。でもね…最高峰の世界では、俺は祈って待つしかない。光一しか、英二の傍にいられない、
だから英二のこと守って?必ず英二は光一を守るから…そして、2人とも必ず無事に帰ってきて、ふたりとも元気で…待ってる、」

「俺の無事も、祈ってくれるんだね、ドリアード?」

細い目が笑んで訊いてくれる。
その問いに周太は素直に頷いた。

「ん、光一のことも、祈ってる…英二みたいには愛せないけど、でも大切なひとだよ?だから、祈ってる、」
「ありがとう、」

底抜けに明るい目が笑って、そっとかがみ込むと周太の耳元にキスをした。
このキスの想いが切なく、けれど温かい。

「これは、約束のキスだからね。俺が必ず、あいつを連れて帰ってくる、ってね。だからさ、これくらい赦してよ?」

すこし悪戯っ子に微笑んで、深紅の花に雪白の顔を近づける。
そして山っ子は紅華やぐ大輪の花に、やさしい口づけをした。




(to be continued)

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第43話 花想act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-19 23:59:00 | 陽はまた昇るanother,side story
名づく夢、花翳の祈り



第43話 花想act.2―another,side story「陽はまた昇る」

桜ふるなか墓碑は鎮まっている。
白皙の掌に磨かれた御影石は、きらめく陽光に花翳うつしていく。
こんなふうに英二の実直さは父達も大切にしてくれる、嬉しくて周太は微笑んだ。

「きれいになったね?英二、ありがとう、」

声に端正な笑顔がふり向いてくれる。
隣から母も嬉しそうに笑った。

「ほんとね、いつも丁寧にしてくれて。英二くんだと高い所も楽に手が届くね、ありがとう、」
「喜んでもらえるなら、うれしいです、」

きれいな笑顔が楽しげに咲いている。
この笑顔が自分は大好き、想い素直に見つめた先で綺麗な低い声が母に尋ねた。

「ね、お母さん?皆さん、お名前は一文字なんですね、」

墓碑銘に記された俗名を白皙の手が示す。
たしかに言う通り、曾祖父から父まで3人とも名前は一文字となっている。
示された碑銘を見ながら母は笑って教えてくれた。

「代々ね、一文字らしいの。だからね?ほんとうは周も、最初は一文字で『あまね』だったのよ、」
「え、そうなの?」

知らなかった。
驚いた周太に、母がすこし意外だったよう微笑んだ。

「そうなのよ、周。話したこと、無かった?」
「ん、初めて聞いたよ?…あまね、だったの、俺の名前、」

確かに自分だけ「太」がついて2文字だなとは思っていた。
けれど本当は違う名前だったとは、考えたことが無い。
でもなんで「太」がついたのだろう?首傾げこんでいると英二が母に訊いてくれた。

「なぜ、『しゅうた』にしたんですか?」
「出生届を出す直前になって、あのひとが『太』を付けたい、って言いだしたのよ、」

そんなに急に名前を変えたんだ?
なんだか真面目な父らしくない急な行動が意外だな?
意外な父の姿を不思議に思っていると、母は楽しそうに口を開いた。

「心の器が大きい人になるように。そんな意味を籠めてね、あのひとは『太』を付けてくれたの、」

―…周太、君の名前はね?
  「あまねく」広くたくさん、っていう意味と「大きい」って意味なんだ。
  たくさんのことを正しく勉強して、沢山の人に役立つ学問をする、そういう大きな学者になるように。
  君を育むすべてに感謝して、謙虚に学問を生かし、沢山の笑顔を手助けする。
  そんなふうに生きて、君の心が大きく豊かになるように。
  あまねく全てを歓びの基にして、心豊かな大きなひとに成る。そういう名前なんだ…

幼い日に父が教えてくれた、ひとつずつの言葉が蘇える。
この言葉通りに生きようと、幼い日に自分は誇らしく想っていた。
けれど14年前の春に「名の誇り」は見失ったまま、父の軌跡を追うことだけ考え生きてきた。
そんな盲目のまま苦しんだ果に英二と出逢い、幼い傷痕まで吉村医師が受けとめてくれた。

―…君は多くの痛みを知っているだけ、多くの人の想いを理解して受けとめられる
  そうして多くの視点を持っていけば、必ず大きな心の人に成れます

この言葉を吉村医師に言ってもらった時、自分は嬉しかった。
体が小さいことがコンプレックスでいた自分にも、大きな人になれる道を思い出させてくれた。
そして、青木樹医と出会うことが出来た。

 “大切なことは道に立つ勇気です
  成ろうと成るまいと、信じて夢に向かい努力を続けていく
  その勇気こそが学問を志す者の資質であり、心大きな人の道です”

青木樹医が美代の本によせた詞書は、周太にも温かかった。
結果よりも自分を信じた努力が尊いと、この言葉が努力だけに生きた13年間を肯定してくれた。

それなりに勉強も運動も出来はする。
けれど本当の才能は無くて、ただ必死の努力だけだと自分が一番知っている。
その全てが父を喪った苦痛を超える手段、この義務と責任だけに重ねた努力だった。
そんな努力だけの自分は本当の1番も、夢すらも、何も掴めない。
そんな想いが虚しくて、本当は苦しかった。

けれど青木樹医は「無駄な努力は1つも無い」と詞書に記してくれた。
信じて夢に向かい続ける努力こそが、心大きくするのだと示してくれた。
この意義が嬉しかった。
その喜びが、自分だけの夢を探しに行く勇気になった。

人間の医師である吉村と、樹木の医師である青木。
この2人の医師が贈ってくれた言葉たちと、父が名前に籠めてくれた想いが響き合う。
この自分の名前への言祝ぎは「心こそ大きくあれ」と問いかけ微笑んでくれる。

…ね、お父さん?俺が青木先生のところで勉強すると、喜んでくれる?

花翳の墓碑を見あげ、問いかける。
桜の天蓋に護られるなか、やわらかな風が頬撫でていく。
この風が父の掌に重なるようで、ふる花は励ましだと静かに想えてくる。

…応援してくれるね、お父さん、

どんなに忙しくても、青木樹医の講義を一年間きちんと貫こう。
この努力に向かっていく覚悟を、花翳やさしい墓碑に見つめ微笑んだ。
微笑んで花束を手にとると2つに分けはじめる、その傍で婚約者と母は楽しげに笑いあっていた。

「『周太』って、いい名前ですよね。でも、『あまね』も可愛くて良かったな、って思います」
「でしょう?私もね、『あまね』って可愛いなって思ったの。でも『しゅう』も呼びやすいし、ね、」

代々の名づけに因んだ「あまね」
その伝統に父が想い加えた「しゅうた」
どちらも父が自分のためを考え、与えてくれた、大切な名前。
この名前たちに相応しいよう、心豊かに大きな人になれたなら。

…お父さん、必ず、大きいひとになるね?見守っていてね…

やさしい父の面影抱きながら、周太は花束を墓碑に捧げた。
活けた白い芍薬に、翳す桜から薄紅がうつりこんだ。



実家の門には枝垂桜の花房がゆれていた。
華やぐ紅色やさしい細やかな枝に、ふっさり咲く花が愛しい。
ゆっくり開いていく門の軋みも懐かしい、家族みんなで帰って来た幸せに周太は微笑んだ。

「ん、…3人一緒に帰ってこれるって、嬉しいね、」

大切な婚約者と母と、一緒に門を潜る。この幸せがずっと続けていけますように。
そんな祈りに見た先で、桜餅の包みを携えた母が綺麗に笑ってくれた。

「そうね、お母さんも嬉しいな、」

穏かな黒目がちの瞳が楽しそうに笑ってくれる。
楽しげな笑顔の衿元ひるがえる、青色やわらかなブラウスのリボンも、どこか自由に明るい。
そんな母の笑顔は1年前よりずっと明るくて、快活な温もりが昔のまま戻りだした。

…ほんとうに、英二が来てから変わった、うちは…

華やかに明るい綺麗な笑顔、実直なまま優しい心。
こんな英二の存在が、自分たち親子をどれだけ明るくしているだろう?
この頼もしい婚約者を見あげた周太に、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。

「花盛りだな、庭も。この桜は、染井吉野だっけ?」
「ん、染井吉野…きれいだね、」

頷いて見上げる梢は、あわく青い空に交わす花枝がまばゆい。
白に薄紅に咲いている花々の彩に、訪れた「今日」の時がどこか明るんで温かい。

…去年までの桜と、こんなに違う…今年の桜は、

薄墨を刷いたよう見えていた、去年までは。
黒い幹透かす花びらは喪の色に見えて、この庭を愛した主を悼むよう沈んでいた。
梢わたす風の音もレクイエム奏でていく、そんなふうに桜は弔いに染まったままだった。
そんな哀切は寂しすぎて、ただ母と互いに涙まで隠していた。
それが去年までの「今日」だった。

けれど、今年の「今日」は薄紅に咲き誇る。

「春は、こんなに明るかったのね?」

穏かな声が微笑んで、白い手にやわらかな髪押え花を見あげる。
桜見あげる母の横顔は14年前の昼間のまま、幸せに笑ってくれていた。
いまと同じように桜餅の包みを携えて、母子ふたり手を繋いで花を見た、あの幸せな午後のように。

―…周、きれいね?夜はね、もっときれいよ。お父さんと一緒だから、もっと楽しいのよ、

そんなふうに笑って花を見あげていた母は、心から幸せに輝いていた。
あのときの笑顔を今日、また見ることが出来た。

…ね、お母さん?笑っていてね、ずっと

あふれる喜びが温かい。
歓びの温もりが瞳から頬こぼれて、幸せに周太は微笑んだ。

「ん、…春は明るくて、きれいだね?」

ほんとうに今年の春は、美しい。
万朶に花咲く庭は、染井吉野に遅咲きの枝垂桜、山桜。
牡丹と芍薬も早い花がほころびだす、山吹の黄金も丸い蕾が可愛らしい。
あふれる草木の花々彩る庭の森は、おだやかな春の陽に輝いていく。
この春のきらめきに、父が教えてくれた詩の一節が映りだす。

“The spirit of pleasure and youth’s golden gleam”

詩を映すような黄金の陽光が、「今日」の庭にふりそそぐ。
14年を喪に染めていた春は今、明るい輝きに充たされ笑顔が花の香と響いていく。
この「今日」が、明るい日の輝きに還っていく。

…ね、お父さん?春が、うちに還って来たね…

暖かな陽のふる花はもう、喪の色には見えない。
もう母の笑顔にも、哀しみの翳より喜びの光が濃く甦った。

いま蘇える耀きの春、この光はこんでくれた人は隣で笑ってくれる。
この愛するひとへの想いは枯れない花だと、また想いは募ってしまう。
そんな心を抱いて歩く春は、のどやかに周太の足元を照らしてくれる。
この春のどけき光のなかを、3人笑いながら飛石踏んで玄関ポーチに上がった。

「周太、玄関の鍵を開けるよ?」

きれいな低い声の提案に、周太は笑って頷いた。
そうして白皙の長い指は、父の合鍵で家の扉を開いた。

…お父さん、帰って来たね?

父の合鍵が開錠する音に、どこか懐かしい温もりが心ふれてくる。
自然と昇る笑顔に見上げた黒いスーツ姿は、革靴に三和土を踏んで玄関に入っていく。
そして振向いて、周太と母に向き合った優しい笑顔は、きれいな低い声で言ってくれた。

「お帰りなさい、お母さん、周太、」

きれいな笑顔咲いて、母と自分を迎えてくれる。
この「今日」に、自分たち母子を迎えてくれる笑顔がいてくれた。
こうして迎えてもらうことは、自分たち母子には心に響いてしまう。

…英二、どうして、いつも解かるの?

14年間ずっと、母子2人きり過ごした「今日」は寂しかった。
いつも2人きり墓参して、誰もいない玄関の鍵を開ける母子2人の寂寥感。
親戚すら無くて、この2人きり他に誰もいないと思い知らされる寂しさは、辛くて。
けれど母子互いに辛さも哀しさも、言葉にすら出来なかった。もし言葉にしたら、想いが音になった分だけ辛いから。
そうして互いに口噤んで、孤独をふたつ並べて「今日」を見つめていた。

この孤独な寂寥を、まだ英二にも言っていない。
けれど英二は何も言わなくても解かっている、だから自分たち母子を今、玄関で迎えてくれた。
この迎えてくれた笑顔に、快活な黒目がちの瞳は幸せに笑いかけた。

「ただいま、そして…お帰りなさい、」

ひとしずく、母の白い頬に涙つたって三和土に落ちた。
涙おちた頬は明るく微笑んでいる、この笑顔に英二は笑いかけてくれた。

「ただいま、お母さん。ココア、作っていただけますか?」

ことん、心に響く「ただいま」とそれからの言葉たち。

この言葉たちは本当は14年前の夜、ここで響くべき言葉だった。
この玄関を開いて、きれいな笑顔が帰ってきて、そして言ってくれるはずの言葉だった。
この想いはきっと母も同じ、そう見つめた母の顔には幸せな笑顔が花咲いた。

「ええ、作るわ。すぐ仕度するね、」

快活な黒目がちの瞳が笑ってくれる。
笑顔の母は靴を脱ぐと「着替えてくるね」と微笑んで、2階に上がって行った。

…ね、お父さん…?英二は、お父さんの約束を叶えてくれるよ…

14年前の「今日」の朝に父が母宛に書き残したメモ。
そのメモに記された約束の「ただいま」が今、母を出迎えてくれた。
こんなふうに母を出迎えて貰えた、うれしくて周太は大好きな切長い目に微笑んだ。

「お母さん、すごく喜んでる…ありがとう、英二、」
「良かった、」

綺麗な笑顔が笑ってくれる。
そして長い腕を広げて、周太を見つめて幸せが微笑んだ。

「おかえり、周太。おいで?」

自分を、今日、出迎えてくれる頼もしい腕。
この腕をひろげてくれる笑顔に、周太は綺麗に笑いかけた。

「ただいま、英二、」

安堵と、幸福と、慕い愛する想いのまま、周太は抱きついた。
頬ふれるシャツ透かして鼓動が温かい、深い森想わす香に安らいでいく。
瞳からこぼれる熱が抱きよせられる懐に沁みていく、心ほぐれて寂しさは消えてしまう。
いま、幸せが温かい。

「周太、おかえりなさい。ずっと、がんばってきたね?もう、大丈夫だから、」

もう大丈夫

ずっと誰かに、そう言ってほしかった。
ずっと誰かと一緒に生きてほしくて、けれど誰でも良いわけじゃなくて。
そして今はもう、一緒に生きて欲しい人が抱きとめてくれる。この愛するひとに周太は頷いた。

「…ん、大丈夫だね?…ずっと、一緒にいてね、」
「うん、ずっと一緒だよ。ずっと周太を愛して、ずっと傍にいるよ?」

綺麗な低い声の言葉が温かで、嬉しくて笑顔になっていく。
涙の瞳のまま見上げて、周太は愛するひとへ綺麗に笑った。

「うれしい、ありがとう…ずっと一緒だね、」

見あげて背伸びして、大切な婚約者の唇に周太はキスをした。

「お帰りなさい、英二、」

お帰りなさい

この言葉をずっと言いたい、このひとに。
ありふれた言葉、けれど宝物の言葉と自分は知っている。
この言葉の温もりに「今日」の哀しみが今、喜びに変わる涙になって周太の瞳からこぼれた。
そうして温かい涙はゆっくりと、玄関の三和土に染みこんだ。



ジャケットをハンガーに掛けて鞄を置くと、周太はすぐ階下に降りた。
いまから英二が着替えをするから、一緒に部屋に居るのは気恥ずかしい。
すこし足早に階段を降りていく、そしてリビングに入ると外出姿の母が立っていた。
黒いパンツスーツをカジュアルなパンツに履き替えて、けれど青いシフォンブラウスはそのまま着ている。
どう見ても出掛ける雰囲気でいる、不思議で周太は母に尋ねた。

「…お母さん?どうして出掛ける格好なの?」

今日のこの後は家にいる、その予定のはずなのに?
なんでだろうと見つめる周太に、母は穏やかに微笑んだ。

「今夜から、お友達と温泉に行ってくるね?明日の14時には帰ってくるから、」
「…どうして?」

どうして今日、母は泊まりに行ってしまう?
今日は父の命日で、必ず家で過ごして父を偲んでいた。
それどころか母は、英二がこの家に来るまで13年間ずっと、仕事以外の外出すら稀だったのに?

「今夜はね、家以外のところで過ごしてみたいの。赦してくれるかな?」

おだやかな黒目がちの瞳が笑いかけてくれる。
けれど周太は泣きそうに即答した。

「だめ!」

今にも泣きそう、だって母の気持ちが解らない。
どうして?ただ疑問符が廻るまま周太は口を開いた。

「どうして今夜、行っちゃうの?お父さんが亡くなったの、今夜だったんだよ?…なぜ、今夜なのに行っちゃうの?
なんで?どうして今夜いないの?お父さんと俺のこと、置いて行っちゃうの?…どうして?解からないよ、なんで急にそんなこと?」

「周、」

すこし困った顔で、やさしい母の声が名前呼んでくれる。
けれど周太は頭を振って、涙とじこめながら言葉を続けた。

「おかあさん、どうして行っちゃうなんて言うの?行かないで、お父さん置いてかないで?俺のこと、置いて行かないで…嫌!」

嫌、そう言った途端に涙がひとつ瞳からおちた。
すぐ指で涙拭って、真直ぐに母を見つめる。けれど、行かないでと見つめても母は静かに微笑んだ。

「周には、英二くんがいるわ。もう、大丈夫でしょう?」

離れる練習、そんな単語も頭に浮かぶ。
もう23歳の大人だから離れることも必要と解かっている、けれど今夜だけは嫌。周太は頭を振った。

「お母さんだって、ずっと一緒にいるって、約束したよ?…英二は大切、でも、お母さんだって、すごく大切なんだから…ね、」
「ありがとう、周。お母さんも、周が大切よ、英二くんのことも、」
「だったら、行かないで?ね、今夜は一緒に家にいて?ねえ、お母さん、」

青いシフォンブラウスの白い手を周太はとった。
母の手を握りしめて止めようとするけれど、母は静かに笑っている。

「周、お母さんね、踏み出そうって想うの。ね、行かせて欲しいな?」
「いや…だめ、だめっ、行っちゃだめ、」

こんなの小さい子供と同じ、そう解っていても嫌。
どうしても嫌で母を留めたくて、涙も呑みこんだ向こうでリビングの扉が開いた。

「…えいじ!」

英二なら、母を留めてくれるかもしれない。
縋るような想いで周太は、賢明な婚約者を見あげて訴えた。

「英二?お母さん、夜から温泉に出かけるって言うんだよ?ね、止めて?」

すこし驚いたよう英二は周太を見つめて、母の方を見た。
どうしたんですか?そんなふうに尋ねる切長い目に、母は微笑んだ。

「ワガママ言って、ごめんね?英二くん、」
「いえ、わがまま言って頂くのは、嬉しいんですけど、」

言葉を切って、すこし首傾げて英二は母に笑いかけた。
おだやかに母も微笑んで、そして静かに口を開いてくれた。

「おととしが13回忌だったの、そして今年は14年目だわ。それでも私は、あのひとに恋しているの。
だからこそ、今日に拘ることは止めたいの。あの人が亡くなった夜だからこそ私、この家から離れてみようと想うの。だめかな?」

母が今もずっと父を想いつづけている。
この母の想いを自分は知っている、毎日活け替えられる書斎の花に母の想いは現れている。
生と死に別れても想い結びあう、そんな両親の姿が自分は大好きで誇らしい。
けれど、遺されている母の寂しさは?

…終わらない恋人は幸せで、でも…寂しい。だって抱きしめられない、笑顔すら見られない

もし自分が英二に抱きしめて貰えなくなったら?
そんな想像は本当に怖い、だから今日も英二が新宿署に現れることを止めたかった、危険から英二を遠ざけたかった。
どうしても離されたくない、だから鋸山の雪崩のときも、昏睡状態に陥った英二の掌を握りしめ離せなかった。
あの冬富士の雪崩もそう、なんども英二を自分から離そうとしたのは、自分の昏い危険に巻きこみたくなかったから。
英二に生きて笑っていてほしい、幸せな笑顔を見ていたい。だから英二を生きて守りたい。
それでも、もし失ってしまったら?

…きっと、英二を想いだす全てが宝物で、けれど、記憶が辛く哀しくもなって、

きっと母にとって、この家は恋人の記憶の棺。
この家で父と母は恋を重ね愛を深め、そして結婚して自分を産んでくれた。
この家のすべては、母にとっては「終わらない恋」のすべて。きっと家の全てに面影を追っている。
だから恋人が消えた「今夜」を、恋人との記憶が多すぎるこの家から離れてみたい。
この意志にこもる悲哀と愛惜と、それでも前に踏み出そうとする勇気を、止められる?

…止めたら、いけない、きっと…でも、置いて行かれるのは、寂しい

「いいえ、だめじゃありません、」

綺麗な低い声に周太は隣を見あげた。
止めたらいけない、けれど母に置いて行かれたくない。こんな縋る想いが心に廻ってしまう。
途惑うまま見つめた周太に、切長い目が笑いかけてくれた。

―どうか俺を信じていてね?

そんな想い述べてくれる眼差しは優しい。
優しい目に心安らいでいく、ほっと溜息吐く想いの隣できれいな低い声が母に答えた。

「俺が、この家にいます。だから、お母さんは離れてみてください。心配は要りません、」
「よかった、」

きれいに笑った母の瞳は、明るい決意に笑ってくれる。
この瞳に解かってしまう、今日から母は新しく踏み出していく。
もう「今日」の過去に横たわる哀しみだけ見つめることは、終わらせていく。
その覚悟は本当は、自分にだって解っている。だって墓参に祈ったことは自分の「明日の先」だったから。
だから、母と自分は同じことだろう。

「でも、お母さん?桜餅とココアは、桜を見ながら召し上がっていってくださいね?これは約束ですから、」
「はい、見て、食べていきます。今からココア、作るわね?」

楽しげに英二と母が話している。
こんなふうに前向きになっていく母は綺麗だと思う、けれど寂しい想いも誤魔化せない。
持てあます寂しさに溜息吐きかけた時、隣はふり向いて綺麗に笑いかけてくれた。

「周太?甘い冷たい吸い物、作るんだよな?それも一緒に、3人で食べよう。蓬を摘んでくればいい?」

綺麗な低い声に周太は真直ぐ見あげた。
どうか笑ってほしいな?そう大好きな目は笑ってくれる。
この大好きな目はきっと、自分がずっと拗ねていたら哀しい目になってしまう。
それは嫌で、だから周太は心頷いて微笑んだ。

「ん、皆で、食べようね?…英二、一緒に蓬、摘んでくれる?お母さんも、」
「ええ、周。もちろん、一緒に摘むわ、」

おだやかに母が笑いかけてくれる。
その笑顔に母も本当は「寂しい」ことが垣間見えて、周太は気づかされた。
母だって周太と離れることは寂しい、けれど「明日の先」を母も見つめ決意してくれている。

…それなのに、男の自分がいつまでも寂しがって、泣いていたらダメ、

こんな泣き虫で甘えん坊のままは、恥ずかしい。
すこし恥ずかしい想いと母を明るく送りだしたい想いに、周太は母に笑いかけた。

「お母さん、今夜はね、楽しんできてね?…明日は、帰ってきてね、」
「はい、もちろん帰ってくるわ、お客さんがあるし、」
「約束だよ?」

うれしそうな母の微笑が、明日の約束に頷いてくれる。
ほら、こんなふうに母はいつも息子の為に、真剣に考えてくれているのに?
こんな気丈で優しく強い母が本当に自分は大好きで、ずっと大切にしたい。
すこしでも明日を楽しみにして笑ってほしい、そんな想いと周太は微笑んだ。

「白ワイン、買っておいてあげるから、帰ってきてね、」
「ありがとう、周。お母さん、明日の夜は、浅蜊のワイン蒸とか食べたいな?」
「ん、いいよ?…明日は、ワインは夕食とは別に飲むよね?…それなら、おつまみいる?」
「うん、そうしてほしいな。周、お相手してね?」

楽しげな母のおねだりが嬉しい。
こんなふうに少しでも甘えて貰えるように、もっと自分も大人なりたいな?
そんな想い抱きながら母に頷いて、周太はエプロンをかけた。



やさしい月明かりに桜は、万朶の花を風に揺らしている。
テラスの窓いっぱい華やぐ姿は美しくて、夜闇を透かす花は紫にあわい。
ほんとうは今夜、ここで母も一緒に過ごすつもりだった。けれど母は「今日」から旅立っていった。
そして今、こうして婚約者とふたり籐の安楽椅子に寛いで花を眺めている。

「月が明るいね、今夜は。おかげで桜が良く見える、」

浴衣姿の英二が本を片手に笑いかけてくれる。
きれいな笑顔が間近く見れて嬉しい、けれど面映ゆさと緊張に首筋がすこし熱い。
いつもより明りも落とした陰翳の美しい空間で、どこか気恥ずかしく周太は微笑んだ。

「ん、…きれいだね、」

夕食と風呂を済ませた寝間の浴衣姿で、冷たいワインと本で夜桜を楽しむ。
夜のときを想わす姿にアルコールの香、そんな大人びた花見にすこし緊張してしまう。
けれどこの緊張はどこか甘くて、この不思議な甘さに安らいでいる自分がいる。
こんなふうに母も父と同じ窓辺で、ふたりきり恋人同士の時間を過ごしたかもしれない。
そんな想いに見上げる夜桜は優しくて、すこし開いた窓から香る桜と夜の風がここちいい。
ここちよくて、花の姿も香りも嬉しくて微笑んだ周太に、綺麗な低い声が笑いかけた。

「周太、今夜は、すごく美人だね?…夕飯の時も言ったけど、なんだろう、大人びたね?」

そんなふうに言われると、嬉しいけれど気恥ずかしい。
なにより今がほんとうは少し気恥ずかしいのに?すこしだけ困りながら周太は口を開いた。

「ありがとう、でも…こんなお膝されながら大人びた、ってへんじゃないかな…」

本を読んでくれる前に、英二は周太を膝に乗せてくれた。
そのまま膝に抱かれて周太は、婚約者が朗読してくれる英文詩とワインを楽しんでいる。

…しかも、お父さんが亡くなった夜を思い出して、泣いたりもしたのに…

父を恋い慕って泣いて、膝に抱きかかえられて。
こんなの子供っぽいんじゃないのかな?こんな自分に首筋熱くなりながら周太はすこし俯いた。
けれど綺麗な低い声で笑って英二は教えてくれた。

「変じゃないよ?周太、お膝はね、恋人同士でもするから、」
「ん、そうなの?」
「そうだよ、」

可笑しそうに笑って長い腕を伸ばすと、白皙の指にワイングラスを絡めとる。
きれいな持ち方のグラスに口付けてから、端正な恋人は微笑んでくれた。

「だからさ、俺の膝は周太の特等席だよ?恋人で、婚約者だからね、」

そんなふうに言われると、うれしいけれど気恥ずかしいな?
熱くなる頬に掌を当てながら、周太は困ってしまった。

「恥ずかしい、でも…とくとうせきはうれしいな?ありがとう、」
「こっちこそだよ、俺は周太専用になりたいんだ。周太、次は、どの詩を読もうか?」

専用、この言葉は面映ゆい。
けれど独占できていると言うことが嬉しくて、周太は微笑んだ。

「ん、…『序曲』の5、あたりかな?」

白皙の掌が持つ本のページを捲っていく。
そして見つけた一篇にすこし顔赤らめて、周太は英二に示した。

「これ、…読んでくれる?」
「うん?『When,in a blessed season』ってとこでいい?」
「ん、それ…325まで、」

周太の指定に優しい笑顔で英二は頷いてくれる。
この詩を一度、英二の声で読んでほしいと想っていた。
その願いが叶うな?嬉しい気持ちで周太は、そっと頼もしい肩に頭を凭せ掛けた。

When,in a blessed season
With those two dear ones ― to my heart so dear ―
When in the blessed time of early love,
Long afterwards I roamed about
In daily presence of this very scene,
Upon the naked pool and dreary crags,
and on the melancholy beacon,fell
The spirit of pleasure and youth’s golden gleam―
And think ye not with radiance more divine
From these remembrances,and from the power
They left behind?

きれいな低い声が、流暢なキングスイングリッシュで読み上げてくれる。
ほんとうに上手だな、感心して周太は英二に笑いかけた。

「上手だね、英二?…英会話とか、通ってたの?」
「姉ちゃんに教わったんだよ。姉ちゃんはさ、英文科でイギリス文学を専攻していたから、」

英二の姉の英理は、英国に本社がある食品会社で通訳を務めている。
彼女ならきっと良い先生でもあるだろうな?納得しながら周太は微笑んだ。

「お姉さん、いいね…俺はね、父に少しだけ教わったんだ、」

周太の言葉に切長い目が一度、ゆっくり瞬いた。
瞬いて周太の瞳見つめて、英二は訊きながら微笑んだ。

「お父さん、英語を教えてくれたんだ?」
「ん、そう…それでね、この本がテキストだったんだ、」

だからこの本を今夜、英二が選んでくれたのは嬉しい。
父が教えてくれた英語と英文学の時間は、楽しい幸せな記憶になっている。
懐かしい温もりの時に微笑んで、周太は婚約者にねだった。

「ね、英二?翻訳もして、お願い、」
「周太のお願い、なんでも聴くよ?」

きれいな笑顔が優しい眼差しに見つめてくれる。
そして綺麗な低い声が、邦訳をしながら読み上げてくれた。

「祝福された幸せな季節に。
 心から想い愛する人と、ふたり。祝福された若い恋の時間に歩いた所。
 長い年月が過ぎて、同じ場所を毎日のように散歩した時に、
 手つかずの池と荒涼とした岩山と、切ない山頂の道しるべに、
 あふれる喜びの想いと、若き黄金の輝きとが降りそそいだ。
 あの古い記憶、この記憶が残した力から、
 これ以上に神秘的でまばゆい輝きが得られると、考えられるだろうか?」

“The spirit of pleasure and youth’s golden gleam”

この一節に周太は、雲取山の落葉松やブナの林で見た英二を思い出す。
黄金かがやく林のなかで深紅のウェア姿の英二は、どこか神秘的なまで美しかった。
あの日の姿をきっと自分は「祝福の記憶」として忘れない。
そして黄金ふる光には、午後に見つめた春の庭の陽光が重なっていく。

もう春は、哀しみだけの季節じゃない

この今をくるんでくれる愛するひと、この伴侶と共に見つめたなら全ては喜びに変えられる。
そんな想いと見つめたページを白皙の手が閉じて、綺麗な笑顔が笑いかけてくれた。

「こんな感じで、よかったかな?周太、」
「ん、…嬉しかった、ありがとう…、」

やさしい時間への感謝に微笑んで、周太は愛するひとにキスを贈った。



【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』「The Prelide(1805)」(5)Spots of Time―When,in a blessed season】

(to be continued)

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第43話 花想act.1―another,side sotory「陽はまた昇る」

2012-05-18 18:20:33 | 陽はまた昇るanother,side story
花ふる蔭にて、



第43話 花想act.1―another,side sotory「陽はまた昇る」

万朶の桜があふれていた。
立哨する園内からは、華やかなさざめき声が風に乗ってくる。
いま観桜の園遊会は酣となっているのだろう。

…何時かな?

そっと左手首を見ると、制服の袖口から11時前とデジタル表示が覗いた。
もうじき交替になるだろう、すこし姿勢を正すと見慣れた長身の先輩が来てくれた。

「おつかれさま、湯原。もう上がってくれ、交替しよう」

珍しい制服姿で佐藤が笑いかけてくれる。
刑事課勤務の佐藤は普段、私服のスーツ姿だから周太は初めて制服姿を見た。
やっぱり背が高いとかっこいいな?少しだけ羨ましく想いながら周太は敬礼をした。

「おつかれさまです、佐藤さん。まだ5分ありますけど…」
「構わないよ、湯原。お父さんの法事なんだろう?なのに無理に出て貰ったんだ、もうあがってくれ、」

今日は父の命日で、菩提寺でお経をあげて貰う。
ちょうど今日明日が非番と週休に当ったから、法事と墓参の後は実家に帰る予定でいる。
けれど昨夜から花見が都内で集中して警邏人数が割かれ、この観桜会にかかる人数も午前だけ不足した。
それで当番勤務明けのまま周太は、この新宿門付近の警備に配置されている。
すこし急に決まった任務だけれど、予定の変更は要らなかった。だから大丈夫なのに?周太は佐藤に笑いかけた。

「お気遣い済みません、ありがとうございます。でも、佐藤さんこそ大丈夫ですか?昨夜も、お忙しかったですよね、」
「大丈夫だ、湯原のおかげで仮眠とれたから。湯原こそ、当番明けで疲れただろう?でも助かったよ。ありがとう、」

快活な笑顔で佐藤が交替を促してくれる。
ここは素直に従った方が良いだろうな?素直に周太は頷いて佐藤と交替の手続きをした。
すべて済まして歩いていく道にも、花は万朶と咲き誇っている。この場所で今日咲く花に、周太はちいさく微笑んだ。

…14年前の今日、お父さんも、ここで警邏していたんだ…

あの日の自分は小学生で、母と一緒に和菓子屋に桜餅を買いに行った。
夜になったら父が帰ってくる、そうしたら家族3人いっしょにココアと桜餅で庭の夜桜を楽しむ。
それからテラスの窓辺に座って、いつものように父の膝に乗って本を読んでもらう。
そんな楽しい春の夜になるはずだった。

けれど、父の笑顔は帰ってこなかった。

「…おとうさん、」

ちいさな呟きと一緒に涙ひとつ頬伝う。
もう14年、それなのに哀しみは色褪せてはくれない。
あの日の朝に父とした約束は自分にとって宝物で、いつもどおりの幸福が大切だった。
だから断ち切られてしまった約束に、心の糸まで一緒に絶ち切られ13年が過ぎ去った。

それからは、毎年ずっと母と2人きり今日を迎え、今日を送りだしてきた。
母子2人きり互いの涙を見せられず、孤独を2つ並べてただ、亡くした幸せを偲んできた。
けれど今日この14年目の春は、きっと今までと違う「今日」になる。
今日は、英二が帰ってきてくれるから。

…お父さん?英二に逢わせてくれたのは、お父さんだよね?

今日からは3人になる、だからもう寂しくは無い。
だから今日この公園で警邏に立つことを、穏かな心で引き受けることが出来た。
こんなふうに今、明るい心でいられるのは大切なひとが隣にいてくれるから。
幸せに微笑んで見上げた向こうに、新宿門が見えた。

「…きれいだね、」

新宿門も桜が満開だった。
紅色においやかな一重咲きがきれいで嬉しい、花の梢を見あげ周太は微笑んだ。

「ん、…陽光、って名前、」

この桜は名前も良いなと思う。
ここは門の外からも桜が見えるから、閉門後に来たら夜桜がきれいかもしれない。
明後日は日勤だから、勤務後に見てみようかな?夜の花を想い見上げる横顔に、大好きな声が呼びかけた。

「周太、」

きれいな低い声が名前を呼んでくれた。
うれしい想いと振向いた視界には、華やぐ花のもと黒いスーツ姿が映りこんでくれる。
桜に佇んだ端正な姿に、周太は大好きな名前を呼びかけた。

「英二?…」

薄紅の花の天蓋のした、やさしい綺麗な笑顔が咲いた。
黒衣まとった長身が、桜霞のむこうから歩いて来てくれる。

…ここまで、迎えに来てくれた

ここに今日、来てくれたことが嬉しい。
嬉しくて素直に笑った時、ふわり風がブラックスーツのジャケットを翻した。
裾ひるがえす風は中空に昇っていきながら、梢ゆらし花をふらせた。

「…あ、花が、」

思わずあげた声のむこう、薄紅の花びらが舞いふっていく。
やわらかな青の空ふる桜色は風誘われて、ゆるやかな花の風に変わりだす。
やさしい風が頬撫でて、そっと涙の痕を消してくれる。
やさしい花の風の掌は、この日に逝った優しい父の面影に重なってしまう。この想い素直に周太は微笑んだ。

「桜、今日、満開になったんだ…ね、英二?やっぱり、今日だから咲いてくれたかな、」
「うん、お父さんの亡くなった日だからだ、って俺も思うよ?」

きれいな笑顔が優しく頷いてくれる。
このひとに同じよう想ってもらえるのは嬉しい、嬉しくて周太は笑いかけた。

「ん、…英二がそう言ってくれると、嬉しいな?あ、」

一陣の風に誘われて、紺青色の制帽が空に舞った。

…おとうさん?

ふと心に浮かんだ笑顔と一緒に、桜と制帽は中天へと昇っていく。
あの制帽を、14年前の今日この場所で、同じ制服姿の父も被っていた。
あのとき父の衿元を留めたボタンは今、この制服の胸ポケットに納められている。
この今日を父と同じ場所に立つ、この想い抱いて朝からずっと、ここの桜を見あげていた。
きっと14年前に父も見ていた光景を、いま自分が見ている。そんなふうに「今日」の父の軌跡を見つめていた。
そんな今の瞬間に、制帽は桜の風に脱がされて空に舞っていく。

…お父さん、どうして制帽を、脱がせてくれるの?

不思議な想いと父への問いかけに、花に舞う紺青色を見あげてしまう。
そうして見つめる想いの真中で、黒い袖に包まれた長い腕が空へ伸ばされた。
白皙の長い指先に紺青色が掴まえられる、そして制帽を綺麗な笑顔が手渡してくれた。

「警邏、お疲れさま。もう交替だよな?」
「ん、ありがとう…さっきね、交替の引継ぎしたから、署に戻ろうって思ってたとこ」

このひとが掴まえて渡してくれる、それがなんだか不思議なまま嬉しい。
そして黒いスーツ姿によせてくれる「今日」への気持ちが温かい、制帽を受けとると周太は微笑んだ。

「英二、スーツで来てくれたんだね?」
「うん。俺は初めてだしね、やっぱり、礼は尽くしたいから。でも、ネクタイはして来なかったけどね?」

ほら、こんなふうに真面目で誠意を示してくれる。
こんなところが自分は好き、嬉しい気持ちで一緒に歩きながら周太は尋ねた。

「明日から、山だったよね?…荷物はどうしたの?」
「国村が明日、持ってきてくれるんだ。墓参りだと荷物じゃまだろ、って言ってくれてさ、」
「そう、よかったね…今度も荷物、重たいよね?」
「そうだな、山では1泊だけど予備もあるし、訓練だからね?それなりの荷重がないとダメだろ?」

愉しそうに笑って明日からの山行を話してくれる。
積雪期登山は装備も重たく、少なくとも30kgにはなるらしい。
そして英二と光一の場合は山岳救助隊として訓練の一環であるために、大人1人分の重さは背負っていく。
ふたりは60Kg以上の荷物を背負ったまま雪山を歩き、雪壁も登攀していく。それは普通なら難しいだろう。

…そんなに体力があったら、俺なんて敵いっこないよね、

同じ男として羨ましい、前はそんな嫉妬が苦しかった。
けれど、自分にも誇りと夢の可能性を見つけた今は、嫉妬も焦燥感も減っている。
この嬉しい余裕に周太は微笑んだ。

…青木先生と、美代さんのお蔭…誰よりも、英二のお蔭、

もし英二と出逢えていなかったら。
あのラーメン屋の主人を自分は復讐にかられ殺害していた。
そして青木樹医と出会うことも無く、美代と友人に成ることも出来なかった。光一との再会も無い。
そうして孤独は増々冷たく硬くなって、心ごと縛りあげて、母のことも絶望の哀しみに突き落としただろう。
そうなったら、自分はどうしていただろう?

…自ら、命を、絶ったかもしれない…

この今に与えられている温もりを想うとき。
この今と違う方向の分岐点に待ち受けた奈落が、どれだけ酷いものなのか想う。
だからこそ今が大切で愛しい、この今を与えてくれた隣の存在が大切で愛しくて、守りたい。
だから今日も、このひとの無事を守りたい。微笑んで周太は隣を見あげた。

「英二、どこで待っててくれる?…クリスマスの時の、カフェ?」

新宿署の近くでは待たないでほしい、「カフェ」で待っていてほしい。
どうかお願いだから言うこと聴いて?そんな想いで見つめた先で、素直に切長い目は頷いてくれた。

「うん、そこで待ってる、」
「ん、待っててね…お昼、なにが食べたいか考えておいてね、」

答えながら安堵の溜息が心にこぼれてしまう。
もう、新宿署には英二を近づけたくはない。あの場所に英二が来ることは危険すぎるから。
あの危険から少しでも遠ざけてしまいたくて、周太は英二に笑いかけた。

「全速力で着替えて、走って行くから。ちゃんと待っててね?」
「そんなに俺に、早く逢いたいって想ってくれるんだ?」

きれいな低い声で返されて、首筋が熱くなってきた。
もちろんその理由もあるけれど。
そんな心の声に尚更熱が昇りながら、気恥ずかしいまま周太は微笑んだ。

「ん、逢いたい…だから、すぐ行くね?」

大切な婚約者に笑いかけて、制帽を被ると周太は踵を返した。
歩きながら操作した携帯を右袖に落としこんで、そのまま新宿署へと入って行く。
まず保管庫に行くと携行品返却の手続きをとり、独身寮へと周太は向かった。
すこし急ぎ足で歩きだす、そのとき視界の端に映った者に心止められた。

やっぱり、来た

なにげなく壁際に寄りながら、制帽を目深くかぶりこんだ。
すこし俯きかげんになってPフォンを取出すと、左掌で操作をしながら瞳だけ動かし回廊むこうを窺っていく。
制帽の蔭から透かす視線の先、身形の良い50代の男と鋭い目をした40代の男が話している。
むこうからは死角になって見えない、けれど此方からなら様子がうかがえる。

…あの2人は、やっぱり仲間…2人とも、父を知っている、

この新宿署を父に纏わる人間が監視している。
きっと周太がここに卒配されたことも、この「監視」と無縁ではないだろう。
この新宿署は若い頃の父が勤務し、最後に斃れたのはこの管轄内だった。
この管轄内のガード下で父は狙撃され死んだ、その直前に父はここで射撃指導をしている。
だから、最後に父が立った警察組織の場所は、この新宿署内だった。

…だから今日、ここに、「亡霊」が現れる…そう思っている、あの人たちは

12月、父の亡霊が新宿署長の前に現われた。
2月には警視庁拳銃射撃競技大会で、父の亡霊を別の人間が目撃している。
そして4月の今日は、父の命日。
ほんとうに父の「亡霊」が存在するならば、今日ここに現れる。
そんなふうに父の関係者達は考え、今日、ここに来るだろう。

…「亡霊」の正体を知りたいから、だから来たんだ…英二の正体を知るために、

父の「亡霊」の正体は、英二。
だから英二を、新宿署には近づけたくなかった。

いつもの英二は明るい華やかな雰囲気で、全く父と似ていない。
けれど憂悩を抱いたとき、英二の笑顔は父そっくりになる。
そんな「似ている」を利用して英二は、父の関係者達を炙りだそうとしている。
もう、それを英二にさせたくない、危険すぎる。だから「カフェ」に、英二を留めたかった。

…けれど英二が作ってくれた「今日」の機会は、生かしたい

そんな想いを見つめながら、そっと右袖から自分の携帯を掌に滑りこませた。
この制服の袖は小柄な周太には少し長い、お蔭で手許へと物を隠すことが出来てしまう。
もう携帯のセッティングは済ませてあるから、ボタン操作1つで写真が撮れる。

…上手く、撮れますように、

右掌の指の隙間にレンズが覗くよう持つと、シャッターを切った。
ちゃんとシャッター音は響かない、けれど微かな振動から画像撮影が出来たと解る。
ほっとして心裡で微笑むと、静かに周太は独身寮へと歩き始めた。

…よかった、音、鳴らなかった

この携帯は自分で少し、いじってある。
元は市販の携帯だからシャッター音は鳴る、けれど無音になる設定を自分で作った。
こんなときに使おうと改造しておいたけれど、やっぱり役に立つらしい。

…工学部に行ったこと、無駄にはならない、ね

父の軌跡を追うためには、工学部がいちばん役立つ。
そう想って決めた進路だけれど、その選択は間違っていないだろう。
そんなふうに義務と責任で決めた学部だから、大学院進学の話も断って未練はない。
でも、この間の公開講座は、全く違う世界だった。

あの1時間半すべてが、冒険するような高揚感のなか過ぎていった。
あんなふうに学問を面白いと、愉しいと思ったことは初めてのこと。
どんなに忙しくても大変でも、学び続けたいと願ってしまう。
だから通年講座の話は本当に嬉しかったし、受講許可証が届いた時は幸せだった。
あれは実家に届いている、今日帰ったら忘れず鞄にすぐ入れよう。そんなことを考えながら周太は自室の扉を開いた。

「…ん、」

扉を鍵かけて、すぐに右袖から携帯を出して確認する。
そして映しだされた画像に、ほっと周太は溜息を吐いて微笑んだ。
微笑んだ先の画像には、2人の男たちが映っていた。
どうしても携帯だから画像の精度は良くはない、それでも役立つ可能性は充分にある。

…英二のおかげで、1つ手駒が受けとれた…けれど、

けれど、英二を危険に晒す手駒は、自分は欲しくない。
それでも作ってくれた以上は受け取らないといけない、どんなに哀しくても貴重であることは変わらない。
この哀しい貴重な画像に保護ロックを掛けてから、周太は携帯を鞄に入れた。

「急がないと、ね、」

ひとりごと呟いて、周太は上着と制帽をハンガーに吊るした。
それから支度しておいた着替えを持って、当番明けの風呂へと向かった。



通りにも桜の花が風に舞っていた。
花ふるなか鞄を持って走っていく先に、カフェの窓が見えてくる。
きれいな窓の向こうでは、端正な横顔がコーヒーカップを持って寛いでいた。

…待っていて、くれた?

たしかに今は座ってくれている。
けれど、ずっと座って待っていたのかは、まだ解らない。
どうか待ってくれていたのなら良い、願いと一緒に周太はカフェの扉を開いた。

「お待たせ、英二…ごめんね、待たせちゃって、」
「大丈夫だよ、周太?」

きれいな笑顔で迎えてくれる、そんな英二の様子に変わったところは無い。
向かいのソファに座りながら英二のカップを見ると、周太は切長い目を見つめた。

「あ、コーヒーだいぶ飲んじゃったね?…待たせたから、」
「気にしないでいいよ、周太も何か飲む?それとも、昼飯の店でなんか飲む?」

大好きな笑顔が優しく訊いてくれる。
この笑顔をすこしでも疑うことが哀しい、けれど守りたい想いに微笑んで尋ねた。

「ん、…あの、そのコーヒー貰っちゃダメ?」

もし、断られたら、どうしよう?
そんな哀しい予想をしかけたけれど、素直に英二はカップを差し出してくれた。

「俺ので良いなら、どうぞ、」

いつもの笑顔で渡して貰えたことが嬉しい。
まずは小さな安心に微笑んで、周太は英二のカップを受けとった。

「ありがとう、」

そっと口付けると、コーヒーがぬるい。
けれど濃いめの味もカップの温度も、水で薄めたのではないと解る。
この温度と味が示す時間経過に、ほっと息吐いて周太は笑った。

「ぬるくなっちゃったね?…待っていていくれて、ありがとう、」

ずっとここで英二は待っていた。
新宿署には一歩も足を踏み入れていない、そう示すコーヒーのカップを返すと切長い目が微笑んだ。

「うん、待ってたよ?」

きれいな笑顔は、いつも通りに明るく華やいでいる。
そんな華麗な容貌とうらはらに、不器用なほど実直な英二は嘘が嫌いで思った事しか出来ないし言わない。
けれど責務なら口をつぐむ事も厭わない。そのことは英二自身の遭難事故を黙秘する責務を、完璧に守りぬく態度から解る。
だから確信してしまう哀しみがある、笑顔の奥で周太は身を切る痛みになぶられた。

…だから、婚約者の責務としてなら、きっと英二は嘘も貫ける

実直なまま責任感が強い英二は真面目すぎるほど職務に取組んで、結果、すでに出世の道も掴んでしまった。
こうした強い責任感を英二は、何よりも周太に対し抱いてくれている。
だからこそ英二を疑ってしまう、周太のために危険を犯すのではないかと、怖い。

…怖い、けれど…止められない、

ほんとうはコーヒーの温度なんて細工の方法はあるだろう。
だから本当は英二はずっとカフェにいたのではないかもしれない、それでも。
もし周太が確認する可能性を考えて、コーヒーの温度から計算してアリバイを英二が作り上げているなら。
それだけ緻密に取組もうとする意識と、実行する能力が英二にはあるということだろう。
そうした才能が英二にはあることは、父の殺害犯探しの時に思い知らされている。

…英二はレスキューだけじゃなく、警察官としても優秀。だからアリバイも裏工作も巧い、緻密で冷静で…

たしかに自分は同期の首席だった。
けれど本当は英二の方がはるかに賢明で、冷静緻密な頭脳を持っている。
この天賦の才に自分は敵わない、英二が本気で構築したならアリバイも嘘も自分には破れない。

…けれど、それ以上に気持ちが解かるから、止められない…

なにより、英二が周太を守るために危険も冒す意志を抱いたなら、止める方法なんて自分には無い。
もし自分と英二が逆の立場なら、自分だって同じように嘘を吐いてでも英二を守りたいと願うから。
そうしたら自分は、英二に何を一番に願う?
この答えに周太は、そっと心で微笑んだ。

…もし自分が英二なら、信じてほしいと願う…だから、

だから、信じよう。

英二が嘘を吐くことさえ厭わず自分を守ろうとする、その意思を信じよう。
その嘘と意志のむこうにある真実と想いを、ただ真直ぐ見つめて信じていけばいい。
そう信じて自分も英二を守ればいい、そして2人無事に父の軌跡を見つめ終えて「いつか」を迎えたい。
きっと「いつか」を2人で迎えてみせる、そんな覚悟を心に抱いて周太は外の花風に微笑んだ。

「英二、見て?窓の外、すごい花吹雪だよ?」
「うん、きれいだな?出よう、周太。花びら、掴まえたいんだろ、」

優しい笑顔で立ち上がってくれる。
こんなふうに自分の好きなことを知って、楽しませてくれようとする。
この優しい真心を、自分は見つめ信じて共に歩きたい。

「ん、押花にしたいな。行こう?英二、」

微笑んで一緒に立ち上がると、周太は先に外へ出た。
まだ花寒の風に薄紅の花が踊っていく、この花を運ぶ風に願い祈りを見つめながら掌を伸ばした。
ふわり、伸ばした掌に花が1輪舞いおりて、心から周太は微笑んだ。

「ありがとう、」

この花は自分の願いが叶う徴。
そう信じて周太は、そっと手帳に花を挟みこんだ。



花ふる街を歩きだすと、カーディガン透かす風がすこし冷たい。
やっぱり薄着だったかな?そう想って直ぐ小さいくしゃみがでた。

「大丈夫?周太、」

すぐ気がついて切長い目が心配そうに覗きこんでくれる。
やさしい眼差し見つめながら英二は、ジャケットを脱ぐと周太に着せてくれた。

「ありがとう、英二…でも、英二がシャツだけになっちゃうよ?」
「俺は大丈夫だよ?いつも寒い所で生活しているし…周太、ちょっと昼の前に寄り道するよ?」

笑いかけながら英二は、周太の手を繋いで笑いかけてくれる。
どこにいくのかな?考えながら素直に付いていくと、いつもの店の扉を英二は開いた。

「いらっしゃいませ、お久しぶりです、」
「お久しぶりです、見せて貰いますね?」
「はい、ごゆっくり、」

懐かしい店員の笑顔に英二は笑いかけて、そっと周太の掌を曳いて階段を上がっていく。
もしかして、また服を買ってくれるつもりなのかな?そう気がついて周太は困って首傾げこんだ。
けれど困っているうちに周太は、綺麗な木造の鏡の前に立たされた。

「きれいな色がいいな…これ、どう?」
「…あ、ん、…」

英二は楽しげにジャケットを選んで合わせてくれる。
ほんとうに楽しげな笑顔になんだか申し訳ない、困りながらも周太は声を掛けようとした。

「あの、…」
「あと、これな?スーツになってるから、便利だよ。うん、周太、かわいい、」

もう貰い過ぎなくらいに、たくさんの服を英二はプレゼントしてくれている。
この今着ている服も靴から鞄まで全て英二からの贈り物ばかり、これ以上は申し訳ない。
遠慮がちに周太は口を開いた。

「あの、えいじ?…ほんとに、悪いから、ね?」
「悪くないよ、周太?」

やさしい笑顔が心から「悪くないだろ?」と笑いかけてくれる。
それでも困って見上げていると、綺麗な低い声が楽しそうに言ってくれた。

「婚約者に服を買って、なにが悪いの?ありがとう、って言ってほしいな?」

…こんやくしゃってそういうものなんだ?

そう言われたら嬉しくて、気恥ずかしい。
けれど幸せで、言ってくれる婚約者の想いが温かい。
こういう気持ちは素直に受け取りたい、想いのまま周太は頷いた。

「…ん、ありがとう…これで良いの?」

頷いて微笑んだ周太に、綺麗な笑顔が幸せに咲いてくれる。
こんな笑顔見せてくれるなら嬉しくなるな?微笑んで見上げた先で英二が言ってくれた。

「うん、良いよ。周太、他に欲しいものある?」

これ以上を望むなんて?
けれど本当は欲しいものがあって、それは何所にも売っていない。そんな想いを抱いて周太は笑いかけた。

「ううん、…気を遣わせて、ごめんね?」
「気を遣っていないよ、俺がしたいだけ。恋人には、自分好みの服を着てほしいから、」
「…ん、ありがとう、」

話しながらも気恥ずかしくなって、首筋が熱くなってしまう。
熱くなる頬を気にしながら周太は、選んだ2着とも抱えてくれた英二と階下へ降りた。

「これはタグを外してください、すぐ着ますから、」
「はい、かしこまりました、」

快く引き受けて店員は濃いグレーのジャケットからタグをとってくれる。
濃い色に、あわいブルーのストライプが映えてきれい。
そのブルーを眺めているうちに支度が済んだジャケットを、英二は周太に着せてくれた。

「これで寒くないな?うん、似合うよ、」
「ん、…ありがとう、」

素直に礼を言って周太は微笑んだ。
きれいな色と軽い着心地がやさしい、選んでくれた人の想いがなにより優しくて嬉しい。
嬉しい想いと見つめた先で、店員から紙袋を受け取った英二が笑いかけてくれた。

「お待たせ、周太、」
「ん、」

店の外へ出ると、植込みの桜が風に揺れている。
あわく晴れた空ゆらめく花枝から、薄紅いろが穏やかにこぼれだす。

…きれい、

万朶の桜ふる姿が、やさしく心ふれていく。
花は素直な喜びになって心ふりつもる、こんな想いで桜を見られる今幸せに温かい。
ゆるやかな風に舞う花びらが嬉しくて、周太は掌で受け留めた。

「ね、上手に受けとめられたよ、俺、」
「うん、見てたよ?」

やさしい綺麗な声が笑いかけてくれるもとで、周太は手帳に花びらを挟みこんだ。
ひらいたページにも花びらが降りてくれる、木からの贈り物のよう嬉しくてそのままページを閉じた。
うれしい想いに花の梢を見あげると、そっと長い腕が惹きよせてくれた。

「ん…英二?」

なんだろうな?
不思議で見あげた先で幸せな笑顔が華やいでいる。
桜よりきれいな笑顔だな?そんな想いで笑いかけた唇に、きれいな唇が重ねられた。

…あ、

そっとふれるだけのキス。
やさしい花の香をはさみこんだキス、おだやかで甘い香が融けあっていく。
ふれて、静かに離れて切長い目が周太に微笑んだ。

「キス、桜の香だったよ?」

桜より綺麗な笑顔に、言われてしまった。
こんなの嬉しいけれど気恥ずかしい、嬉しいと困ったに挟まれて首筋が熱くなってくる。

「…はずかしいからそういうこといわれるの…ここそとだしはずかしいから…」

きっと頬も真赤だろうな?こんなに恥ずかしがりな自分が困ってしまう。
青木樹医も赤面する性質だけれど、自分ほどは酷くないかもしれない。
この今も真赤で困るけれど、それ以上に本当の気持ちを伝えたくて、周太は婚約者へと笑いかけた。

「でも、…うれしい、逢いたかったから、」
「俺こそ、ずっと逢いたかったよ。だからキス、我慢できなくなっちゃった、」

伝えた想いに英二は幸せそうに笑ってくれる。
この笑顔がうれしい、首筋を赤くそめながら周太は微笑んだ。

「ん、…ほんとうはね、俺も、その…したかったの、」
「そんなこと言われると、ほんとに困るよ?」

桜のもと微笑んで、やさしい手が掌繋いで惹いてくれる。
ふたり花ふる道を歩いて英二は、一軒の瀟洒な店の扉を開いてくれた。



気軽で美味しい昼食を終えると、いつもの花屋に英二は寄ってくれた。
ふたりで訪れるのは久しぶりになる、あの女主人はどんな顔をするのだろう?
すこし緊張しながら店先を覗くと、ラナンキュラスの丸く可愛い姿と清楚な芍薬が迎えてくれる。
それから、耀くような純白の小花がきれいな花枝は、自分が好きな花。
きれいで可愛い花たちが嬉しくて周太は笑いかけた。

「かわいいね、きれい…ここに連れて来てもらって、よかったね?」

この花屋の主に束ねて貰えるなら、きっと花も幸せだろうな?
やさしい女主人の掌を想った周太に、やわらかい声が掛けられた。

「こんにちは、この子たち、かわいいでしょう?」

すっかり馴染んだ笑顔が優しく笑いかけてくれる。
やっぱり今日も素敵だな?気恥ずかしく想いながらも周太は声の主に笑いかけた。

「こんにちは。あの、この間は花束、ありがとうございました、」

公開講座の翌日、この店に美代を連れてきている。
そのとき可愛いミニブーケを作って貰って美代に贈った。あのとき美代の笑顔がうれしかった。
そして女主人の笑顔も周太は嬉しかった、楽しかった記憶に微笑んむと彼女も笑ってくれた。

「こちらこそ、良いお嬢さんに花を連れて行ってもらえて、うれしかったわ。今日は、ひとりなの?」
「いえ、あの…ふたりです、」

なんだか気恥ずかしくなりながら、周太は後ろを振り向いた。
振向いた先で切長い目が微笑んで、周太の後ろから花のなかへと英二が現われた。

「お久しぶりです、こんにちは、」
「あ、…」

綺麗な低い声のあいさつに、彼女の目が一瞬大きくなる。
けれどすぐ柔らかに微笑んで、いつものように彼女はあいさつしてくれた。

「こんにちは、ご来店ありがとうございます。今日は、どんなお花をご用意しましょうか?」
「50代の男性に感謝の花束を、2つお願いします、」
「2つですね。別々の方でしょうか、どんな雰囲気の方でしょう?」
「同じ方宛です、笑顔がとても美しいひとです、」

綺麗な低い声がいつものようオーダーを告げていく。
真白なシャツに漆黒のスーツ姿が映える長身は、花々の彩に華やいでいる。
こんな姿は見惚れてしまうな?綺麗な婚約者に見惚れながらも周太は、女主人を見た。

「では、芍薬をメインにいかがでしょう?」

白い花をとってくれる掌が、宝物あつかう仕草に美しい。
やさしい面差しの花を愛するひと、慈しむよう花持つ掌が美しいひと。
このひとは本当に花を愛している、そんな雰囲気が子供の頃に読んだ神話の女神を思い出させた。

…花の神さま、フローラ…クロリス、っても言うな?

とても素敵だなといつも見惚れてしまう、そう美代にも話したら「ほんとね?」と同意に頷いてくれた。
あの日は実家で母と3人朝食を楽しんでから美代と新宿に出た。
雪の御苑を珍しい植物を見つけながら散歩して、大学受験のテキスト選びに書店へ行った。
それからこの花屋によった後、遅めのランチを一緒にしてから美代をホームまで見送った。
そんなふうに半日を、植物の話題と受験勉強の話で美代と一緒に楽しんだ。

…公開講座も勉強会も、みんな楽しかったな。研究室とか…

あんなふうに好きなことを、好きなだけ話せる相手は良いなと思う。
そう互いに思って友達でいることが嬉しい、こんど会うときは受験勉強の話題が増えるだろうな?
考えを巡らしながら花と彼女の掌に見惚れているうち、上品な花束が2つ出来上がった。

「いかがでしょう?」
「きれいですね、」

英二も楽しそうに花へと笑っている。
ほんとうに綺麗な花束だな?そう見ていると彼女は周太にも笑いかけてくれた。

「お花。こんな感じで、いいかしら?足し引きあるかな?」
「あ、とても素敵です…いつも、ありがとうございます、」

不意に声かけられて、どぎまぎしてしまう。
けれどなんだか嬉しい気持ちで周太は、花束を1つ彼女から受け取った。



ガード下は相変わらずの人波に洗われていく。
誰もが無意識に歩いていく道の、一点に周太は婚約者と共に立った。

「…お父さん、」

ちいさな声で呼びかけて、白い小花を1輪だけ花枝から摘んだ。
かがみこんで、すり抜けてくれる雑踏のはざま白い花をそっと供える。
供花の純白は、アスファルトの黒い道に小さな星のよう輝いた。

「周太?この花、あのときの花束にも入っていたね。なんて言う名前の花?」

きれいな低い声がおだやかに尋ねてくれる。
白い花を見つめたまま微笑んで、周太は静かに答えた。

「ダイヤモンドスター。ホワイトスターとも言うんだ…信じあう心っていう意味の、希望の星の花だよ?」

14年前、斃れた父の血を飲んだ黒い道。
ここにこそ、どうか希望の花は純白に咲いてほしい。
どんなに昏い道が父の軌跡であったとしても、希望こそ星のよう心明るく照らしだすように。

いまこの隣立つ愛するひとは、きっと自分たち親子の希望の星。
このひとを想い信じる心を希望にして、どんな真実を見つめても父を信じ続けたい。
どんなに昏く哀しい現実が父の姿であったとしても、優しい父を信じたい。

「いい意味と名前の花だね、」
「ん、…この花もね、俺は好き。父も母も好きだから、喜ぶね?」

ふたり笑いあって、純白の花を見つめた。

新宿のガード下、白い星の花は輝いている。
星の花ひらく脇の壁際には、純白と緑の花束が清楚な香に咲いてた。
昏い都会の真中で、白い花たちは優しい想いのまま明るく道を照らしだす。


(to be continued)

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第43話 花惜act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-05-17 23:58:13 | 陽はまた昇るside story
※中盤念のためR18(露骨な表現は有りません)

花ふる暁に、



第43話 花惜act.4―side story「陽はまた昇る」

暁時の庭は、静謐の霞がたちこめていた。
下駄の素足に露ふれる、涼やかに瑞々しい朝が爪先を濡らしていく。
やわらかに藤紅の空かざす桜の下、一叢の花に英二は足を止めた。

「喜ばせて、くれるかな?」

足元の薄紫やさしい花に笑いかけて、かがみ込んだ。
朝風ひるがえる袂に残り香が昇る、香が呼ぶ夜の記憶が愛おしい。
愛する香に靡きながら長い指を伸ばして、朝露と摘んだ薄紫に英二は微笑んだ。
この花は婚約者が愛する花、そして衿元おさめた合鍵の主も愛しむ花。
ふたりのために朝露の2輪を摘みとると、花霞くるまれる家にもどった。

そのまま洗面室へむかい、戸棚から2つの白い小瓶を出す。
水を張り活けこむと、やさしい白肌の磁器に薄紫と葉の緑が映えてくれる。
これなら喜んでくれるかな?片手に2つながら携えて、静かに英二は階段を上がった。

ぎし、きぃ、…

ふるい磨き抜かれた木肌が、やさしい軋みを足に伝える。
この家がずっと大切に愛されてきた、そんな気配が足元からも伝わってくる。
敦が屋敷を建て、晉が奥多摩を庭に映し、馨が身を堕してすら守ろうとした家。
そして14年前の春からは、幼かった周太が母と共に大切に守ってきた。

「1914年、…98年、か、」

98年、およそ百年の時を見つめる家。
この一世紀という星霜に、この家は家族の時を見つめ続けている。

たくさんの哀しみと、それでも幸せを見つめる優しい心を抱いて、この家は佇んでいる。
この家が自分は愛しい、守り続けてきた1人ひとりが今はもう、他人とは思えない。
この家の階段を昇り、降りていた人たちの足跡を今、自分の足が踏み重ねていく。
この自分の今が過去に繋がるのを感じながら、英二は書斎の扉を静かに開いた。

重厚で微かにあまい香が、まだ夜に籠る部屋から頬撫でる。
扉開いたままで英二は部屋を進むと、カーテンを引いた。

「…きれいだ、」

やさしい暁の光が部屋を満たしていく。
この窓からも暁透ける桜は見えている、きっと馨もこの眺めを愛していただろう。
14年前、醒めない眠りについた心想いながら、書斎机の前に英二は立った。

「おはようございます、お父さん。すみれを1つ、摘んできました、」

写真立の微笑に笑いかけて、ちいさな花活を置いた。
この小さな薄紫の花が、すこしでも陰翳の笑顔を慰め明るませてくれたらいい。
そんな想いに微笑んで、英二は書斎を後にした。

静かに部屋に戻ると、すこし開いた窓から馥郁の風がやさしい。
純白の衣散る床のむこう、深い眠りの気配は安らいでいる。
やはり昨夜は疲れさせただろうな?ちいさな反省を抱きながら英二はベッドサイドに花活を置いた。

ことん、

ちいさな音が立つ。
それでも白いリネンの眠りは安息に微笑んでいる。
この寝顔がなにより自分は大切で愛おしい、静かに添寝にはいると合鍵を首から外した。
長い腕伸ばし、サイドテーブルに合鍵を置く。その小さな音に、ふっと懐抱いた寝顔の黒髪がゆれた。

「ん、…」

ちいさな吐息が唇からもれてくれる。
もしかして目を覚ましてくれるかな?そんな期待に眠る唇へとキスでふれた。

「…ん、…、」

やさしい吐息に長い睫がゆっくり披いてくれる。
あわい暁の光のなかで、ゆるやかに黒目がちの瞳が英二を見つめて、微笑んだ。

「…えいじ、おはようございます、…はなむこさん?」

永遠の約束の名前で呼んで、純粋な瞳が微笑んでくれる。
暁に咲いた無垢の笑顔が綺麗で、見惚れる想いうれしくて、英二は綺麗に笑った。

「おはよう、俺の花嫁さん。今朝も、本当にきれいだね、」

本当に綺麗で、心がまた浚われてしまう。
ほら、目覚めて一瞬で君はまた、俺を恋に墜とすんだ?
そんな想い心に微笑んで、英二は婚約者に目覚めのキスを贈った。
ふれる温もりが愛しくて、かすかなワインの残り香とオレンジの香があまい。
こんな甘やかなキスをしたら、また時を恋人の時間にしたくなる。
すこし困りながらも、けれど今日の予定を考えて時間計算して、英二は婚約者を抱きよせた。

「周太、さっき庭に出てみたんだ、霞がきれいだったよ、」
「散歩してきたの?…うちの庭、春の朝もきれいでしょ?」
「うん、花が霞みにくるまれてね、幻想的で。ほんとうに森みたいだった、すみれも咲いていたよ、」
「すみれ…5月の初めくらいまではね、咲くの…あ、」

ふっ、と薄紫の花が香って声がこぼれた。
黒目がちの瞳が花を見とめて、幸せに微笑んでくれる。
英二の肩越しに花を見つめながら、うれしそうに周太は言ってくれた。

「きれい、すみれ…ありがとう…朝露も、きれいだね、」

好きな花に喜んでくれた。
この笑顔が見たくて自分は庭に出た、愛する笑顔がうれしくて英二は微笑んだ。

「喜んでもらえて、よかった。ね、周太?周太も俺のこと、喜ばせてくれる?」
「ん、…喜んでほしい、な、」

無垢の笑顔が素直に応えてくれる。
笑顔には、夜を籠め愛された幸福と甘やかな疲れが、美しい陰影に艶めいている。
こんな大人びた美しさも見せるようになった、この恋人に見惚れ惹かれながら英二は尋ねた。

「そう言ってもらえると嬉しいな?周太、俺をどうやって喜ばせてくれるの?」
「ん、とね…」

すこし考え込むよう黒目がちの瞳が笑いかける。
この大人びはじめた恋人は、どんな答えをくれるかな?楽しみで見ている先で、幸せそうな笑顔が咲いた。

「あのね、…朝ごはん、肉じゃが、するね?あと、甘い玉子焼き…」

英二の好物を言ってくれながら、無邪気な笑顔がキスをしてくれた。
こういうのは勿論うれしい、こんな稚い恋人が自分は可愛くて仕方ない。
こんな相変わらず無垢な発想が可愛いくて「大人びた」はまだ些少だなと思ってしまう。
この愛らしい無垢に笑いかけて、英二は正直に自分の望みを告げた。

「ありがとう、周太。朝飯、楽しみだな。でも今すぐ俺は、君を食べたいよ?」
「…あ、」

無垢な笑顔に紅潮が昇って、桜いろの誘惑が花ひらく。
ほら、そうやって君は、無意識に俺を誘いこんでしまうんだから?
そんな心裡の声に笑って英二は、勝色の帯を解いてひき抜いた。

「周太、いちばん俺を喜ばせられるのは、君自身だから…」
「…ん、」

長い睫が恥らいに伏せられる。
それでも掌を英二の肩にかけて、そっと白い浴衣を肩から滑らせてくれた。
桜いろ艶めく頬を魅せながらキスで唇ふれて、そっと離れると黒目がちの瞳が含羞のまま微笑んだ。

「あの、…どうぞ、」

どうぞ、
こんなに短いのに、貞淑な誘惑が香って心掴まれる。
こんな清楚な誘惑をくれる恋人が愛しくて、幸せで、英二は心から抱きしめた。

「愛してるよ、周太、」

すみれと桜の香が素肌のはざまふれていく。
馥郁充ちるベッドの上で体ごと心繋いで、幸せな暁の夢にしずみこんだ。



正午を迎えると、周太は英二を袴姿にしてくれた。
黒紅の襦袢に縹色の袷を重ね、藍と紅の帯を結ってくれる。
かいがいしく手を動かして、勝色の袴を着つけてくれると嬉しそうに微笑んでくれた。

「すてきだね、英二…ほんとうに、凛々しくて、」

うっとり見惚れてくれる無邪気な笑顔が愛おしい。
この笑顔が見られるなら、なんだって着てあげたくなる。この愛しさに微笑んで英二は恋人を抱きしめた。

「周太が嬉しいなら、俺は幸せだよ?…周太も、着替えるんだろ?」

着替える、そう聴いた途端に首筋が赤くなっていく。
きっとこれから自分が言うことを予測して、恥らっているんだろうな?
そう想いながら英二は、婚約者の予測通りの言葉を口にした。

「周太が着替える時も、一緒で良いんだよな?」

困惑の羞みが長い睫を伏せさせる。
やっぱり恥ずかしがってしまう恋人に、英二は笑いかけた。

「やっぱり嫌?嫌なら、」
「ううん、一緒にいて、」

ちいさく頭を振って即座に応えてくれる。
ほんとうに一生懸命な様子が愛しくて、無理させていると罪悪感が疼いてしまう。
なんだか本当に幼妻だな?そんな感想に微笑んで、英二は恋人にキスをした。

「じゃあ、ここに居て良い?」
「はい、…」

そっと答えて頷くと、背を向けてカットソーを脱ぎ始めた。
かすかに震えるまま艶めく背中が現われる、カーゴパンツのウェストにかけた手もふるえている。
露になった首筋は桜のよう赤らんで、恥じらいが背にも染まりだす。
こんなに恥ずかしがっている姿が可愛くて、けれど可哀そうにもなって英二は襦袢を手にとった。

「はい、周太、…ごめんな、」

やわらかに素肌の肩にかけて、英二は笑いかけた。
真赤な顔が見上げてくれる、途惑うよう、けれどほっと安堵した瞳が微笑んだ。

「…ありがとう、えいじ…あの、ごめんなさい、」
「あやまらないでよ?」

襦袢ごと抱きしめて英二は笑いかけた。
そのまま抱き上げベッドに運ぶと、カーゴパンツのウェストに手を掛けた。

「ごめんね、周太?最初から…こうすれば良かった、」

笑いかけて、ウェストを下着ごとひき抜いた。

「あ、…」

途惑いに声がこぼれて周太が身を起こそうとする。
けれど構わず露された肌にキスをして、襦袢も抜きとると細い腰を抱きしめた。

「周太、キスさせて?…、」
「まって、じかん、…あ、あっ、」

逃れようとするけれど、構わずに体の中心を唇に納めこむ。
ふるえて呑まれていく体の一部に、恋人の艶がこぼれた。

「ん、…だめ、えいじ…あ、…ん、…っ、」

艶やかな声があまく蕩けていく。
こんな声で制止しても、誘惑にしかならないのに?
素直に誘惑されたまま英二は、愛しいひとを真昼の時へと浚いこんだ。

「…は、ぁっ、」

おおきなふるえに貫かれて、小柄な体が力を失った。
あふれだす熱を零さず呑みこんで、舌と唇で大切なところを清めていく。
最後の一滴まで呑みこんで微笑むと、英二は恋人の顔を見つめた。

「周太、きれいだね…いま、恥ずかしいの?」

問いかけに黒目がちの瞳が、涙湛えたまま見つめ返してくれる。
また無意識の誘惑に自分は真昼まで愛しんで、こんな自分は本当に変態かもしれない?
そんな自分に困りながらも微笑んで、熱に潤んだ肢体を抱き起すと襦袢を纏わせた。

「ごめんね、周太…怒ってる?」
「ん、…驚いたけど、でも…ちがうの、」

ゆるやかに瞬いた長い睫から、涙ひとつこぼれおちる。
襦袢だけの艶めいた姿が綺麗で見惚れながら、けれど胸噛みつく罪悪感に英二は微笑んだ。

「違うの?周太、…どう違うの?」
「怒ってない…はずかしいけど、でも…うれしい、の…」

告げながら腕を伸ばして、抱きついてくれる。
こんなふうに素直に受け入れてくれるから、いつもつい手を出してしまう。
こんなこと、これから来る客にばれたらまた変な綽名をつけられるな?
そう想いながら英二は、愛するひとに笑いかけた。

「うれしいなら、俺も幸せだよ。でも、疲れさせたね、すこし眠る?」
「ううん、だいじょうぶ…着替える、」

きれいな微笑を見せて、ゆっくり起きあがってくれる。
英二の腕に立ち上がると周太は、綺麗な所作で着付けを始めた。
そして出来上がった袴姿に、英二は息吐いて微笑んだ。

「きれいだね、周太、」

あわい翠に白い袷をかさね、藍の袴をつけた姿は清楚に美しい。
翠に映える桜いろのうなじが艶やかで、真昼の恋を想わせてしまう。この艶に、午後の客は気づくかもしれない。
そんな見せつけをしたいほど自分は、この恋人を独り占めしたい本音が隠せなくなった。

―ごめん、

大切なアンザイレンパートナーを想いながら、そっと心で詫びをおくった。



周太の母が帰宅して、間もなくに奥多摩からの客は訪れた。
四駆のエンジン音に下駄ばきで庭に降りると、雪白の横顔は桜を見あげ笑っていた。

「うん、きれいに咲いているね?…よしよし、きっと葉も見事になるよ、」

白い掌が桜の幹を慈しんでいる。
薄紅の花ふる下に立つ漆黒のジャケット姿は、この庭の花木達を統べるようだった。
いつもながら樹木をあやす山っ子に、英二は笑いかけた。

「ようこそ、国村、」
「おう、じゃましにきたよ。ん?…ふん、」

ふり向いた底抜けに明るい目が、愉しげに笑った。
桜の下から飛石踏んで、軽やかに近寄ると下駄の足元から眺めてくる。
そして細い目を笑ませ満足げにテノールが笑った。

「イイね、よく似合ってる。やっぱり黒紅の襦袢がサイコーにチラリズムエロだね、」
「また変な名前、つけないでよ?」

相変わらずの調子に笑ってしまう。
そんな英二に明るい目は笑いながら、顎で東屋の方を指した。

「あの東屋だよね?」
「うん、…いま見る?」

ため息まじりに頷いた英二に、国村も頷いた。
芝生を踏んで、緑の葉を茂らす彼岸桜のもとに歩いていく。
ゆるやかに梢伸ばす葉桜の下、ふるい瀟洒な東屋に2人で入った。

「…ふん、この柱だね?」

視線だけで示してテノールの声が訊いてくれる。
英二も視線だけで見て、無言で頷いた。

「なるほどね、…ルミノールで青になりそうだ、」
「この柱だけなんだけどね、…テーブルは多分、クロスが掛けられていたはずなんだ、」
「他の年のだと、そういう感じだもんね?…コッチもさ、飛沫は気づかなかったんだろな、小さいから」

ほっと溜息ついて振向くと「行こう、」と目だけで示してくれる。
玄関の方へと戻りながら、いつものように笑って国村は四駆の方を指さした。

「ウェアとかトランクだけど、出す?」
「うん、あとで着替えるから出すよ。持ってきてくれて、ありがとうな、」

礼を言いながらトランクを開けて、英二は自分の装備を取出した。
今夜、ここから雪山訓練に向かうことになっている。その装備一式を昨日、国村に預けてきた。
ザックとウェアの入ったスポーツバッグを下げると、英二は玄関を指さした。

「おかあさんと周太が待ってる、行こう、」
「うん、ありがとね。この家の桜、見事だな。ちょっと驚いたね、」
「だろ?」

桜に笑いながら家の玄関を入ると、ホールに周太の母が出迎えてくれる。
ふたりが挨拶を交わすのに微笑んで、英二は部屋へと荷物を置きに上がった。
ザックとウェアの重量でいつもより僅かに板張りが軋む、どこか懐かしい木音を聴きながら部屋の扉を開いた。

「英二、」

白い着物の袴姿がふり向いて笑いかけてくれる。
すこし驚きながら英二は微笑んだ。

「周太、水屋に居ると思ってた、」
「ん、…仕度はもう、出来てるの…」

気恥ずかしげに黒目がちの瞳が見つめてくれる。
どうしたのかなと笑いかけながら荷物を床に降ろすと、そっと両掌を差し出してくれた。

「あのね、…これ、あげる、」

掌には、深紅の錦織で作られた守り袋が載せられている。
神社名などは入っていないけれど、きれいな紺青の房もつけられた端正な造りが美しい。
この愛しいひとが贈ってくれるなら嬉しい、受け取って英二は笑いかけた。

「ありがとう、周太。守り袋だな?」
「ん、そう…おまもり、」

いつも以上に気恥ずかしげに見上げてくれる様子が可愛らしい。
随分と恥ずかしがるな?そう見ていると周太は教えてくれた。

「…あのね、自分で作ったんだ…こんなの、女の子みたいで、おかしいかもしれないけど…」
「周太の手作り、嬉しいよ?」

ほんとうに嬉しい、心から笑って英二は白い着物の肩を抱きしめた。
いつのまに作ってくれたんだろう?感心しながら婚約者に微笑んだ。

「ありがとう、周太。これは、どういう意味の御守り?」
「あの、白い椿のこと、覚えてる?…この間まで、応接セットのテーブルに活けてあった、」

すこし首傾げながら尋ねてくれる。
その花のことは自分も覚えている、あの不思議な白澄椿を想いながら英二は頷いた。

「うん、覚えてるよ?俺が雪崩に遭った日に、周太の掌が受けとめてくれた花だろ?」
「ん、それ…」

英二の言葉に周太は頷いて微笑んだ。
嬉しそうに微笑んで見上げてくれながら、周太は御守りのことを教えてくれた。

「あの椿、きれいで不思議だったから、あのあと押花にしたんだ…それで、ね?
いちばんきれいな花びらと雄蕊を1つずつ、ちいさな栞にして、御守りに入れてあるの…あの椿、英二に似ているから、」

ちょうど英二が雪崩に遭った頃、この家の庭で白澄椿がひとつ梢から落ちた。
その花を周太は雨のなか、傘を放り出して受けとめてくれた。
そのころ英二は雪の谷に投げ出され頭から岩にぶつかった、それなのに軽傷で済んでいる。
けれど真っ二つに割れたヘルメットと、ゴーグルの崩れたフレームが激突の酷さを語っていた。

―周太が花を受けとめた、そして俺の頭は異常が無かった…偶然、だろうか?

この白い花に纏わる偶然を周太に聴いた時から、英二自身も不思議に想っている。
この不思議さを、周太も同じように想ってくれていた。
それを押花と守袋にしてくれた心遣いが、草花を愛し家事の巧い周太らしくて嬉しくなる。
こんなふうに共有できる想いが愛しい、英二は心から婚約者に微笑んだ。

「ありがとう、すごく嬉しいよ。ずっと大切にするな?この時計と同じくらい、」

クリスマスに贈られたクライマーウォッチを示しながら英二は笑いかけた。
この御守りを贈ってくれたのも、時計を贈ってくれたのと同じ想いなのだろう。
このあとで行く山は危険が多いと周太も知っている、だからこそ今日、御守りを贈ってくれている。
こうして無事を祈ってくれる想いが嬉しい。嬉しい想いに見つめると周太も笑って、すこし背伸びしながら抱きついてくれた。

「ん、大切にして?…俺もね、お揃いの御守り、持ってるから、」
「そうなんだ?周太のは、どんなの?」

なにげなく訊くと、途端に頬が桜いろに染めあがって額まで真赤になった。
どうしてこんなに恥ずかしがるのかな?そう見つめた先で、すこし口ごもりながら恋人は答えてくれた。

「あの、にばんめにきれいな花びらと…雌蕊が入ってるの、…ね、」

ひとつを2つに分けて持ち、必ずまた1つになれるように。
ひとつの花を2つに分ける意味を、そんなふうに本で読んだことが英二にもある。
心と体で契り交わした恋人同士の約束を祈るのだと書いてあった。
そして、周太の分け方にはより深い意味を想ってしまう。

―ずっと無事に帰って、夫婦の契りを幾度も、ってこと…

こんな艶っぽい御守りを周太が作ってくれた。
意外で、けれど花を使ったところが植物好きで純粋な周太らしい。
どこか推いほど純粋のまま大人びていく周太には、相応しい愛情の示し方だろう。
純粋で艶やかな愛情が幸せで、英二は黒目がちの瞳に笑いかけた。

「対になっているんだな?夫婦の御守り、って感じなんだ、」
「ん…そう、」

素直に頷いて応えてくれる。
けれど真赤な困り顔のまま、恥ずかしそうなトーンで周太は唇を開いた。

「やっぱりはずかしいよね?こんなのつくっておとこなのにはずかしいね…ごめんなさい、」

自分で贈りながら自分で真赤になる様子が、可愛らしい。
こんな様子は幼げで中性的な美しさが強い、けれど周太は23歳の男で有能な警察官で、家を継ぎ立派に守っている。
こうした姿を見ていると、人の強さは1つの尺度では測れないのだと気付かせて貰える。
この端正で無垢な姿が隣にいてくれたなら、自分は大切なことを忘れないでいられるだろうな?
心から大切な想いに英二は愛するひとに笑いかけた。

「はずかしくないよ?男とか関係ないだろ?周太は俺の自慢で、大好きだよ。この御守りも本当に嬉しいんだ、」
「…ほんと?」

黒目がちの瞳が遠慮がちに見上げてくれる。
ほらまた、そんな奥ゆかしい目で見て惹きつけるんだ?惹きつけられる恋人に英二は笑いかけた。

「ほんとだよ。いつも周太で俺は、幸せになれるんだ。だから、ずっと隣にいて?」

優しく強い恋人に、英二は感謝と約束をこめてキスをした。

英二が点法をするのは、これが5回目になる。
静養中に3回、今日の昼前に1回ずつ周太が練習してくれた。
だから周太以外の前で点法するのは、今回が初めてになる。
窓に華やいでいる染井吉野と枝垂桜を眺めながら、のんびり茶を喫して国村は笑った。

「うん、まあまあだね。5回目にしちゃ上出来だよ、」
「そうかな?」

すこし首傾げ微笑みながら、周太の母にも茶碗を供した。
礼をして服すると、彼女も楽しげに笑ってくれた。

「ほんと、上手ね?周から聴いていたけど、センスがあるのかな、」
「お手本が良かったんですよ、」

きれいに笑って答えながら英二は周太を見遣った。
周太も嬉しそうに微笑んでくれている、こんな笑顔がうれしくて笑った英二にテノールの声が言った。

「イイ顔で笑ってるね?おまえ、こういう格好も似合うし、よかったね、」

この家の男たちは代々、茶をたしなんでいる。
いわゆる流派の師匠に付くのではなく、父から子へと茶を教え楽しんできた。
そんな家に入る英二を「似合う」と国村は言祝いでくれる。
この友人の心に感謝して、英二は微笑んだ。

「うん、ありがとう、」

素直に礼を述べた英二に細い目が温かに笑んで、端正な所作で国村は茶を飲み終えた。
元々、国村自身も祖母から茶を教わっている。その馴れた手つきを見習いたいと英二は想ってしまう。
こうした国村の方が自分よりも周太には相応しい、そう自分でも解っている。
けれど譲れないのだから、もう努力して補っていくしかない。そんな覚悟に微笑んだ英二に周太の母が言ってくれた。

「はい、お点法おつかれさまでした。ここからは自由にしましょう、」

ほっと息吐いて、英二は礼をすると席を終わらせた。
ごく親しい内々の席と言っても、やはり緊張するな?
そう想っている先で国村が立ち上がりながら、周太に笑いかけた。

「周太、庭を案内してほしいな?」

声かけられて周太が英二の方を見てくれる。
軽く頷いて「行っておいで?」と目で促すと、周太も立って庭に降りて行った。
ふたりを見送って、英二は周太の母に笑いかけた。

「お母さん、着物、ありがとうございました、」
「気に入ってくれたみたいで、よかったわ。よく似合ってるね、」

快活な黒目がちの瞳が笑ってくれる。
ほっと寛がされる明るい穏やかさに、英二は口を開いた。

「お母さん。美代さんから俺、好意を持ってもらっています…それが、どうしたらいいか、解からないんです、」

この間から彼女に聴きたいと思っていたこと。
2月に美代から想いを告げられてから本当は悩んでいる、そんな想いに黒目がちの瞳は微笑んでくれた。

「美代ちゃん、とても良い子だものね?しかも、周太と本当に仲良しで…困っちゃうね、英二くんは?」
「はい、」

素直に頷いて英二は、困った顔のまま微笑んだ。
すこし考えるよう首傾げて、そして彼女は言ってくれた。

「正直でいれば、それで良いと思うわ?心を誤魔化しても、仕方ないもの。それに、あの2人はもう、覚悟も決めてるみたいよ?」
「覚悟?」

あのふたりが何か取り決めをしている事は、英二も気が付いてはいる。
それを周太の母も見てとったのだろう、穏かに微笑んで彼女は教えてくれた。

「英二くんのことで、お互い遠慮しないで正直に言いあうこと。そんな感じかな?
泊まりに来てくれた時も2人で、楽しそうに英二くんのこと話していたの。だから、英二くんらしくしてれば良いと思うな、」

お互いに偽らないこと、そう2人は決めてくれた。
たぶん互いに悩んでいた事もあったろう、それでも2人は互いを友人として認め合い深めていっている。
そういう2人に応えるのは彼女が言う通りだろうな?ほっと息吐いて英二は微笑んだ。

「そうですね、俺、変に気を回しすぎでした。ありがとうございます、」
「すこしでも参考になったかな?あまり良い事も解からなくて、ごめんなさいね、」

愉しげに彼女が笑ってくれる。
こんなふうに相談して話が出来る相手がいてくれることは嬉しい。
受け留めて貰える感謝に微笑みながら、英二はクライマーウォッチを見た。

「そろそろ俺、着替えてきますね、」
「そんな時間ね、もう。お夕飯は食べていくのでしょう?」
「はい、ありがとうございます。着替えたら、ここの片づけしますね、」
「いいわよ、このままで。あとで周とお点法のおさらいしたいから、」

話しながら一緒に立ちあがって廊下へと出た。
そのとき、ちょうど玄関扉が開いて周太と国村が戻ってきた。

「うん?宮田、着替えに行く気だね、」

からり笑って靴を脱ぐと国村は英二を肩に担ぎあげた。
途端に穂高で言われたことを思い出して、困りながら英二は笑った。

「こら、国村?俺は要救助者じゃないんだから、担ぐ必要はないって、」
「駄目だね、ほら行くよ?」

底抜けに明るい目が可笑しげに笑って、軽やかに国村は階段を昇りだした。
このままだと困ったことになるな?どうしようか考えているうちに部屋へと連れ込まれた。

「さ、お召し替えの時間だね。お手伝いするわ、ア・ダ・ム、」

愉しげに細い目が笑って、白い指が袴の紐に掛けられる。
制止する間もなく袴がほどかれ腰から落ちた。

「待てよ、国村?ちょ、ダメだって、」
「なに恥ずかしがってんの?おまえ、いつも俺と風呂も入ってるし、朝から生着替え見せてるよね?さ、脱・い・で、」
「なんかヤダ、やめろってば、こらっ、」

困りながら帯の結び目を抑えていると、部屋の扉が開いた。

「…えいじ?…こういち?」

名前を呼ばれて、一緒にふり向くと袴姿の周太が首傾げている。
なにをしているのかな?不思議そうに見つめて佇む姿に愉しげなテノールが笑いかけた。

「周太、イイ所に来たてくれたね。こっちにおいで?」
「ん?…なに?」

素直に微笑んで周太が一歩、部屋に踏み込んだ。
そんな素直な姿に国村の唇の端があがって、細い目が悪戯っ子に笑った。

まずい、

こんな目をした時は赤信号の兆候だ。
パートナーの考えに気がついて、英二は婚約者の名前を呼んだ。

「周太、来たらダメだ、お母さんのところに逃げて」

じゃ、代わりに周太を剥いちゃおうかな。周太だったら俺、好きに出来ちゃうもんね

そんなふうに国村は穂高で笑っていた。
このエロオヤジに言われた言葉が実現したら、本当に嫌だ。
どうか逃げて?そんな願いで見つめた先で、純粋な瞳が哀しそうになってしまった。

「…なんで?…なかまはずれにするの?」

黒目がちの瞳が寂しそうに見つめてくれる。
そんな周太に白い手が伸びて引っ張りこまれると、扉がぱたり閉められた。

「仲間外れになんてしないよ?さ、周太も協力してね?」

人質をとられた。

この状況に英二は心底、困り果てた。
どうしたら良いだろう?心からため息を吐いた先で、愉しそうに国村は周太を椅子に座らせた。

「さ、周太?ここに座って見ていてね、」
「ん?…なにを?」

純粋な瞳が微笑んで首傾げている。
こんな純粋無垢な視線の前で、これから自分は何をされるのか?
事態への対処に迷っているうちに、愉しげにパートナが帯に手を掛けた。

「さて、遠慮なくイっちゃってイイよね?」
「ちょっとは遠慮してよ?」

正直な気持ちを訴えたけれど、底抜けに明るい目は愉しくて堪らないと笑っている。
笑いながら白い指は手早く帯を解いて、ぱさり紅と藍の錦が落とされた。

「お、イイね、黒紅が覗くのがエロだね、み・や・た、」

縹色の袷の衿にも遠慮なく白い指が掛けられる。
そして渋い青色も床に散らされて、黒みがかった紅色の襦袢姿に英二はさせられた。

「国村、これで満足だろ?ほら、あとは自分で着替えるから、」
「なにいってんのさ、こっから本番だろ?ほら、」

からり笑った国村に、あっという間に抱き上げられて床へと英二は横たえさせられた。

「ちょっ、なにやってんのこら!」

さすがに抵抗して白い手を握って封じ込んだ。
けれど黒いジャケット姿は微笑んで、巧みに長い脚で英二の裾を露にした。

「白皙の肌に黒紅、サイコーにエロいね?眼福だよ、」
「嫌だってば、こらっ、なに捲ってんの!…あ、」

見あげた先で、デスクの椅子で周太が固まっている。
だから逃げてほしかったのに?困りながら英二は婚約者に訴えた。

「周太、逃げて?そうじゃなかったら、助けてくれる?」

名前呼ばれて、黒目がちの瞳がひとつ瞬いた。
我に返った瞳が驚いて、すぐ立ち上がると国村に組みついてくれた。

「やめて、光一っ、英二に変なことしないで!」
「止めてもイイよ?でも、代わりがあればの話だけどさ。ね、み・や・た、」

代わりとか絶対ダメ。
そう言いたいけれど、この状況も困る。
さすがに2人に乗っかられると、ちょっと重たいし苦しいかもしれない。
困ったまま英二は、自分の上で喧嘩を始めた2人を見上げた。

「ダメ!英二からはなれてってば、こういちのばかばか!」
「はなれたらね、大変なコトしちゃうかもよ?…さ、宮田?きれいな肌に、赤が映えるね、もっと肌を魅・せ・て、」
「いやっ、ぬがしちゃダメ!えいじは俺のなのっ、」
「違うね、俺のモンでもあるからね?…うん、白い肩に黒紅と白衿は、エロいよ…ソソられちゃうね、」
「ばかっ、こういちの馬鹿えっち変態やめてってば!」

またこんなことになっている。
どうして3人一緒だと、一度はこんなことになるのかな?
2人分の体重に圧し掛かられながら、英二は心底困り果てた。



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第43話 花惜act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-05-16 23:59:49 | 陽はまた昇るside story
※最後の方は念のためR18(露骨な表現は有りません)

花にふる、約束と夢



第43話 花惜act.3―side story「陽はまた昇る」

風呂から上がると、テラスにふたりで座った。
落としたフロアーライトの明りを籐の安楽椅子に近寄せて、本を広げる。
冷たいワインで口を湿らしてから、英二は婚約者に笑いかけた。

「やっぱり書斎は、ほとんどフランス語の本だな。この本くらいしか俺、読んであげられそうにないんだ。ごめんな、周太、」

『夜桜を見ながらココアと桜餅を食べて、本を読んであげる』
これは馨が息子の周太にした約束だった、けれど約束の夜に馨は永遠の眠りに沈んだ。
この途絶えた約束を全て叶えると、初めて仏間に参った時に英二は約束をした。
その約束を今夜、これから叶える。

「フランス語が読めたら良かったな、俺。そうしたら周太の好きな本、選ばせてあげられたのに、」
「この本ね、ちいさい頃から好きなんだ…だから、英二に選んでもらえて、嬉しいよ?」

白い浴衣姿の周太が無垢の笑顔をみせてくれる。
やわらかな藤色の帯を前結びした姿は可憐で、この窓辺にひろがる桜とよく似合う。
ほんとうに綺麗だな、見惚れるよう微笑んで英二は一旦本を置いて立ち上がった。

「周太、すこし窓を開いていい?」
「ん、いいよ?」

素直に頷いてくれる笑顔が愛しい。
愛しさに笑いかけてから、掛金の錠を外して窓を開いた。
開いていく窓から花の香が吹きこんでくる、吹きこむ夜気が運ぶ春の風に空間が充ちていく。
そして薄紅いろ優しい花びらは、ゆるやかにテラスへと舞いふった。

「…きれい、」

桜の風が夜の月から降ってくる。
あわい光のテラスへと、ふわり降りる薄紅の花に綺麗な微笑が幸せに咲いた。

「英二が花を、迎え入れてくれたね?…ありがとう、うれしい、」
「喜んでくれたなら、うれしいよ?」

この笑顔がうれしくて、想いに恋人を見つめて英二は静かにキスをした。
ふれる柔らかな温もりが幸せで、けれど今夜はどこか切ない想いが残ってしまう。
そっと離れて、見つめた黒目がちの瞳に温かい光がうかんだ。

「あのときもね、おかあさん窓を開いて…桜を、部屋に迎え入れてくれたんだ、」

幸せな笑顔に涙ひとつ、頬に軌跡を描いていく。
涙の頬ぬぐうよう吹きこむ花に、微笑んで周太は言葉を続けた。

「おとうさんが、ねむっている枕元に…花びら、おりて…泣いているおかあさんの…肩にも、花が、」

14年前の春の夜の記憶が、周太の唇からこぼれ落ちていく。
14年間ずっと抱え続けた想いが、言葉になって桜の風におくられ始めた。

「満開の桜に、おとうさんは連れて行ってもらうの、だから…幸せ、おとうさん幸せなのよ…
そう言って、おかあさん、幸せそうに笑って…でも泣いていたの、おかあさん…白い頬に涙、とまらないの、なみだ…ずっと、
そうしたら…泣いてる頬にね、桜のはなびら、ひとつ…おとうさんの手にも桜の花が、ね…それで、手にふれたら、つめたくて…」

涙が黒目がちの瞳から、ひとしずく生まれおちていく。
そっと涙に唇よせて拭って、ラタンに座る小柄な体を抱きしめた。

「周太…おいで、」

抱きしめて、優しく抱き上げて膝に抱え込む。
愛しい婚約者を膝に抱いて、ラタンの安楽椅子に英二は座った。

「お膝で抱っこだよ、周太?これで、本を読めばいいな?」

瞳のぞきこんで笑いかけながら、右掌を繋ぎ合わせる。
やわらかく握りしめて、左手に本を持つと英二は微笑んだ。

「周太、俺の手は温かいだろ?俺は、生きて傍にいる。そしてね、この俺のなかに、お父さんは生きている」
「…英二のなかに、おとうさん?」

膝に抱いたひとが、そっと尋ねてくれる。
ふたつの白い衣透す温もり通わせながら、英二は綺麗に笑いかけた。

「そうだよ、周太?だって俺はね、なんだか気持ちが解るな、ってことが多いんだ。
それに最近はね、後藤副隊長にまで言われるんだよ?笑顔が湯原そっくりな時があるな、って。懐かしそうに言ってくれるんだ」

この「そっくりな時」は、遭難救助の現場が厳しい時になる。
厳しい現実に向き合うとき、それでも呼吸1つで自分は笑顔になることを自分に課す。
そんなとき生まれてしまう陰翳の笑顔が「似ているなあ、」と副隊長を懐かしませ、記憶を辿らせてしまう。
だから解かってしまう。きっと馨の現実は厳しいままだった、そのために笑顔から陰翳が去らなかった。
この陰翳を今からでも、馨から拭い取ってあげたい。そんな想いと微笑んだ英二に、周太が笑いかけてくれた。

「そう…後藤さんまで、言うの?」
「そうだよ、あと、安本さんにも言われるんだ。ほんとに、飲みいかないとな?」

安本は武蔵野署の射撃指導員だから、第九方面青梅署所属の英二は射撃訓練の時に会う。
いつも「3人で飲みに行きたいですね」と話しながら、都合が合わないまま雪山シーズンとなり英二の時間が暫く作れない。
初任総合の外泊日には時間が作れるかな?考えていると周太が謝ってくれた。

「ん、行きたいな…俺、あまりシフトとか変えられなくて、ごめんね?」
「違うよ周太。俺が一番予定が合わないんだ、ごめんな?でも安本さん、忙しくてすみません、って謝ってくれるんだよ」

本来は安本は先輩で階級も上だから、縦社会の警察組織において新人の英二に謝る必要などない。
けれど安本は丁寧に英二にも接し、敬意まで示してくれる。そういう安本への好意に周太も微笑んだ。

「ほんとうに良い人だね、安本さん…お父さん、きっと安本さんのこと、好きだったね、」
「うん、大好きだったろうな?安本さんご自身は、お人好しすぎるって、困ってるみたいだけどね、」

安本は直情的すぎるらしく、警察官としては少々お人好しなところがある。
そんな安本だから馨には大切で一番親しい同期だったろうし、そういう性質こそが馨の最期の願いも叶えられたのだろう。
この人が好い大先輩への敬意に、英二は微笑んだ。

「でもさ、そういう安本さんだから、ラーメン屋のおやじさんのこと救けられたんだ、って思うよ?」

馨の殺害犯をラーメン屋の主人にまで更生させたのは、安本だった。
もし自分だったら安本の様に、友人を殺した犯人を温かく守り続けるなど出来るだろうか?
この問いに対して賞賛と敬意が温かい、心裡に英二は大先輩を賞した。

―お人好しも、あそこまで真直ぐなら、すごい…敵わない、

真直ぐな情熱が、馨の最期の約束を守り信じ抜いて、犯人を生き直させた。
そして、かつての犯人は今、温かな店を守り人々を憩わせ、周太をも寛がせてくれる。
彼は周太が馨の息子だと知らない。けれど1人でも通うほど店を好む周太を温かに受けとめ、可愛がってくれる。
あの温もりに周太は、どこか父の面影を感じるから、あの店で寛げるのだろう。
そんなふうに安本は馨の想いを彼に伝え、馨の温もりを遺してくれた。

あの温もりが遺されたからこそ、周太は寂しかった新宿署の勤務にも温もりを見つけはじめた。
そして周太は、あの温かな店で憧れの樹医と再会し、大切な宝物の1冊を受けとれている。
この1冊をめぐる運命に曳かれるよう、周太は馨の母校で聴講生になることも決められた。
そうして周太は今、夢を見つける道の扉を開こうとしている。

もし安本が14年前の今夜、親友を奪われた怒りと哀しみのままに復讐を遂げていたら?

そう思う時、「お人好し」の真直ぐな心こそが尊いと響く。
安本と初めて面会した11月のとき、自分は本当は「お人好し」を小馬鹿にしていた。
周太を傷つける無知の善意が忌々しくて、愚か者だとせせら笑う心があった。
けれど、それだけじゃないのだと、今は解かる。

もし、50年前に晉が、安本と同じ心に立てたなら。
そんな叶わぬ願いを想うほどに「お人好し」の尊さが解からされる。
きっと馨は、真直ぐな心の価値と復讐の愚かしさを、痛いほど知っていただろう。
このことを、隠されていたアルバムに考えてきた過程で、ようやく気づけた。

―お父さん、俺は、浅はかですね?

安本と飲みに行ったら、謝罪したい。
正直に自分の小利口な傲慢を告げて、正直に謝って。それでもし許されるなら、また会う機会の約束をしたい。
そうして馨の想いを辿って、安本が抱いている馨との約束を繋ぎたい。
きっと、繋いだ想いには馨の温もりが遺されているはずだから。

「ね、英二?…安本さんに会ったら、俺、お礼を言いたいんだ…ラーメン屋のおじさんのこと、ありがとう、って」
「うん、言ってあげて?きっと、安本さん喜ぶよ、」

もう14年、それでも馨の温もりは遺されている。
同期の安本が、かつての犯人が、馨の心の温度を周太に伝えてくれる。
そして、周太の母は最愛の恋人として、馨の全てを愛し受けとめ、この家と庭を残した。
14年を経ても遺されている温もりへの敬意に、英二は微笑んだ。

―お父さん?いま、きっと皆、お父さんのこと、考えてますね、

きっと今夜は安本も店の主人も、後藤副隊長も馨を想っているだろう。
そして、周太の母も今頃は、友人と酒を傾けながら永遠の恋人を偲んでいる。
いま自分が周太を抱きしめながら、馨への敬意と愛惜を想っているように。

「ね、英二?こんど、一緒にお店に行ってね、」

涙の痕が可愛い頬が、おねだりの幸せに笑いかけてくれる。
この笑顔のためなら何でも言うこと聴くよ?そう目で笑い返して英二は答えた。

「うん、久しぶりに行きたいな。今度は俺、酒を持って行きたいんだ、2月に約束したから。ゆっくり時間、作っていこうな、」
「ん、」

こんなふうに約束が出来ることが、幸せだ。
そんな「幸せ」を今夜は改めて感じさせられる、馨の途絶えた約束を想うと尚更切ない実感になる。
だから今夜は、馨の途絶えた約束のトレースを自分が繋ぐ。

「さあ、周太?そろそろ、本を読むよ?」

きれいに婚約者へと笑いかけると、英二は1冊の詩集を開いた。



何篇かの詩を英文と邦訳で読み聞かせて、英二は本を閉じた。
抱き上げている白無垢の浴衣姿は、英二の肩に凭れながら幸せに微笑んでくれる。
なんとか満足してもらえたかな?英二は愛するひとへ笑いかけた。

「こんな感じで、よかったかな?周太、」
「ん、…嬉しかった、ありがとう…、」

幸せな笑顔がほころんで、そっと英二に近寄せてくれる。
そして優しいキスをくちびるに残してくれると、気恥ずかしげに周太は微笑んだ。

「あのね…お母さんが行っちゃって寂しかったんだ、ほんとうは…でも、今はね、…ふたりきりが、うれしい、」

ふたりきりが、うれしい。
そんなふうに言ってもらえたら、こっちこそ嬉しい。
嬉しい想いのまま抱きよせて、瞳見つめて英二はキスをした。

「そう言ってもらえたら、うれしいよ。ね、周太?こんどは、周太の話を聴かせてほしいな、」
「俺の話?…ん、この間の、公開講座のこと、とか?」

あの講義の日は春の雪がふって、英二は遭難救助に出ている。
そして中央線が止まり美代は御岳に帰れず、この家に泊まっている。
そのときの事が本音は気になっていた。だから話して貰えるなら聴かせて欲しい、微笑んで英二は頷いた。

「そうだな、電話では話してくれたけど、聴かせてくれる?」

周太の気持ちは疑っていないし、美代が自分に寄せてくれる好意も知っている。
それでも本音は気になって仕方ない、ふたりは似合いで、世間にも公認される組合わせと解かるから。
そんな理解が哀しくて、寂しい気持ちも本当はある。
だから今日逢えることを、本当は焦燥感も抱いて待っていた。
だから聴かせて欲しい、この想いを拭ってほしい。長い腕伸ばし本をテーブルに置くと、英二はワイングラスを手にとった。

「はい、周太。飲みながら、好きなように話して?」
「ん、ありがとう…いい香り、」

素直にグラスに口付けて、黒目がちの瞳が笑ってくれる。
英二も自分のグラスを手にすると、微笑んで周太は口を開いてくれた。

「雲取山麓のね、ブナ林の講義だったんだ…知っているところだから、楽しいね、って美代さんと話してね。
こんど、一緒に見に行こうね、って約束したの。4月の半ば過ぎに行こうかな、って…ね、美代さんと行ってきても良い?」

さっそく次の約束があるんだな?
すこし寂しいような想い隠しながら、英二は微笑んだ。

「うん、もちろん良いよ?美代さんと一緒なの、周太は楽しいんだろ?」
「ん、楽しい、」

迷わずに即答した笑顔は、心から楽しげでいる。
こんな笑顔はちょっと妬けちゃうな?あの晩に国村達と飲みながら想ったことを英二は口にした。

「ね、周太?ほんとうは周太は、美代さんと居るのが一番楽しいだろ?」

周太を美代の婿にしたい、そう美代の家族が願っていると国村からも聴かされた。
それは周太からも「嬉しいけれど困るね?」と前に聴いた、このとき以上に周太と美代は親しくなっている。
今はどう想っているだろう?そんな想いと微笑んだ先で、素直に周太が微笑んだ。

「ん、ほんとう言うとね…いちばん楽しいな、って時もあるよ?」

やっぱり。
そんな単語に寂しさを見た瞬間、黒目がちの瞳が気恥ずかしげに笑いかけてくれた。

「でもね…いちばん幸せなのは、英二と一緒の時…だから、いま、すごく幸せだよ?」

告げてくれる唇が微笑んで、静かに近寄せてくれる。
そっと優しいキスが唇ふれて、純粋な瞳が見つめて微笑んだ。

「ね、英二。ずっと一緒にいてね、今夜だけじゃなくて…お願い、」

恥ずかしげな微笑が、無垢の誘惑になって心を掴む。
お願いされなくても自分は前から願っている、唯ひとつの願いごと。
それをこうして、愛しい唇から言ってもらえることが嬉しい。膝の上の幸せに英二は笑いかけた。

「ずっと一緒にいるよ、周太?…だから、『いつか』が来たら、嫁さんになって?」

もう何度も聴いて、なんども約束を貰っていること。
それでも何度も聴きたくて、今夜もまた訊いてしまう。
どうかYesを聴かせてよ?そう見つめた先で、紅潮そまる笑顔が幸せに咲いてくれた。

「ん、…はい。およめさんにして?…ごはん作って、おふとんほすから、…ずっといっしょにねて?」

最後の一言、ちょっと反則です。

幸せすぎる言葉はきっとアルコールよりも酔いが熱い。
恋に酔わされるまま英二は、婚約者を抱いて立ち上がった。

「周太、窓は、鎧戸も閉めればいい?」

戸締りをする、その後は?
そんな意味に笑いかけた英二に、長い睫が伏せられた。

「ん、…ねるまえはしめないと、ね…」

恥ずかしそうな声が答えてくれる。
この初々しい羞みが可愛くて、いつも恥ずかしがらせたくなる。
この大切な宝物を抱き上げたまま、英二は鎧戸と窓を閉じた。
そのまま2階へと上がって、そっと白いベッドに恋人を沈めこむ。
純白の衣姿で白いリネンに埋もれた姿は清楚で、心惹きよせられていく。それでも英二は自分の体を起こした。

「戸締り全部見て、レモン水つくってきてあげる。他にほしいもの、なにかある?」

酒を呑んだ後だから、周太に水分をとらせたい。
それに加えてなにか欲しいものがあれば、なんでも言ってほしいな?
おねだりをして欲しくて見つめた先で、黒目がちの瞳が1つ瞬いてくれる。
瞳見つめて、ゆっくりベッドから身を起こすと周太は、そっと首に腕をまわしてくれた。

「今夜は、ずっと一緒にいてくれるんでしょ?…戸締りも、ぜんぶ一緒にいく、」

こんなこと言われると、ちょっと幸せすぎます。

今夜は周太の父の命日、最も一年で哀しい日だろう。
それなのに自分は、こんな幸せになっていて良いのかな?
こんな反省を想いながらも英二の腕は、素直に恋人を抱きしめた。

「うん、一緒にしよう?おいで、」

また抱き上げて、額よせてキスをする。
嬉しそうに見つめてくれる瞳が幸せで、今この時が珠玉なのだと心にふれる。
白い浴衣を透かす互いの体温が幸せで、けれどもどかしい想いも起きてしまう。
もどかしさ宥めながら階段を降り、戸締りを確認すると台所の扉を開いた。
そっと床に立たせると恥ずかしげに微笑んで、出窓に周太は佇んだ。

「あのね…このハーブを入れると、おいしくなるよ、」

出窓に設けた緑ゆたかな鉢から、きれいな長い草を摘んでくれる。
受けとって、ふっとレモンに似た香が頬撫でていく。良い香に英二は微笑んだ。

「レモンみたいな草だな?これと、レモンの薄切りを入れたらいい?」
「ん、そう…レモングラス、って言うんだ、」

カラフェに氷を入れてくれながら、楽しそうに教えてくれる。
レモンを薄く切って氷水におとすと、レモングラスを周太は入れてくれた。
カラフェとグラス2つを置いたトレイを持つと、英二は恋人にキスをした。

「これでいいかな、他に、なにかある?」
「ん、だいじょうぶ…」

応えてくれながら恥ずかしげな微笑に紅さしていく。
これからの時間を想うと気恥ずかしい、そんな含羞が愛しくさせられる。
こういうところが自分は好きだ、片手でトレイを持って左掌に掌を繋ぎながら英二は笑いかけた。

「おいで、」

そっと掌包んで、照明を落としながら2階へと上がっていく。
部屋の灯をつけて、静かな夜くるむベッドサイドにトレイを置くと、英二は恋人を抱きよせた。

「周太、逢いたかった…ね、顔を見せて?」
「ん、…はい、」

素直にあげてくれる顔が気恥ずかしげに微笑んでくれる。
こんな素直さが嬉しくて、愛しい想いに抱き上げるとベッドに腰掛けさせた。

「はい、周太。酒の後だから、水を飲んで?」

カラフェから注いだ氷水を英二は手渡した。
素直に周太は受けとってくれながら、きれいに微笑んだ。

「ありがとう、」

うれしそうにコップに口付けてくれる。
そんな笑顔が愛しくて、飲み終えたコップをサイドテーブルに戻す掌を、長い指に絡めとった。

「英二?…どうしたの?」

すこし驚いて、けれど微笑んで黒目がちの瞳が見あげてくれる。
愛しい想いごと恋人を抱きよせて、静かに白いベッドへ埋めこんだ。

「好きだよ、周太…今夜も、君を抱いていいの?」

懇願するよう見おろす先で、初々しい含羞が薄紅に昇っていく。
赦しがほしいな?目で訴えに微笑んだ先で、ちいさな声が応えてくれた。

「ん、…いっしょに、ってやくそくでしょ?…英二と、いっしょになりたい、よ…」

言いながら赤くなっていく顔が愛しい。
愛しい想いに微笑んで、英二は綺麗に笑いかけた。

「うん、一緒になろう?…周太、」

名前を呼んで、唇を重ねあわせる。
抱きしめて、キスを深くしながら体温が2枚の衣を透していく。
あまやかな唇の想い溺れながら、やわらかな帯を指が解いていく。
細やかな腰抱きあげて、きれいな藤いろ抜きとると床に薄紫の川が流された。

「周太、…君を、見せて、」
「…あ、」

帯解かれた白い衣を、長い指の掌が寛がせていく。
あわい光のなか艶やかな肌が顕れて、披かれた衣が床に零される。
白いシーツの上で恥じらう裸身に薄紅の翳が昇りだす、淑やかな花ひらく肌に英二は微笑んだ。

「きれいだ、…桜が、咲いていくみたいだね、」

見惚れ見つめる隠されない肌が、羞恥の慎みのままに身を伏せる。
そっとシーツひきよせて視線から逃れようとする、そんな仕草が奥ゆかしい誘惑に見えてしまう。
こんな仕草にこそ余計なほど熱煽られる、甘い熱に微笑んで英二は、艶やめく体を抱きとめた。

「駄目だよ、周太…隠さないで?キスさせて、」
「あ、…」

シーツに隠れようとする肢体を背中から抱きこめて、伏せた顔の頬へとキスをする。
うつぶせた首筋からキスふれて、肩に背に唇と舌でふれていく。
なめらかな肌が愛しくて、背中から抱きしめふれて、腰へとキスをおとしていく。
細やかな腰を抱きしめながら、やわらかに隠されたところを長い指の掌でそっと押し広げた。

「…っ、だめ、えいじ…あ、」

恥ずかしいと訴える声を聴きながら、隠された所にキスふれていく。
唇ふれながら舌であやして緩やかに解いていく、ふれる唇に舌に素直な反応が伝わってくる。
もう風呂で英二の手に仕度され充分ほどかれたまま、素直に披かれ愛撫を受容れてしまう。

「っ、…だ、め、…あ、…ん、」

愛しい吐息が甘くなっていく。
唇と舌でほどこす愛撫に、ふれるところも素直な反応をしてくれる。
抱きしめた裸身から力が抜かれていく、俯せたまま身を委ねてくれる。
されるがままに素直な体が嬉しい、微笑んで英二は愛するひとの体を仰むけさせた。
桜いろ透かす肌は艶めく誘惑が充ちている、愛しい誘惑を見つめながら英二は長い指をコップに伸ばした。

「きれいだね、周太…可愛くて、きれいだ、」

美しい裸身を見下ろしながら冷たい水に唇を清めて、英二は自分の帯を引いた。
衣擦れの音に濃藍の帯は解けて、白い衣が肩から床へと散っていく。
純白のひろがる床に微笑んで、ゆっくり身をしずめ恋人を抱きしめた。

「周太、ひとつになろうね…俺に、任せてくれる?」

見つめる想いの真中で、黒目がちの瞳が熱潤んだまま微笑んでくれる。
そして大好きな声が、あまやかなトーンでねだってくれた。

「ん、まかせる…ひとつにして、離れないで…お願い、愛してるなら、いうこときいて…」

こんな命令を言いながら、全身の肌を恥じらいの紅にそめている。
誘惑する台詞、それなのに瞳は純粋無垢に見つめて、すこしの怯えと愛されたい願いが微笑む。
この愛しいひとが自分に、今夜を恋人の時に変えてと願ってくれる。

「言うこと聴くよ、周太?…愛してる、離れない、」

右の掌を愛するひとの掌に繋ぎとめる。
この掌に心も繋いで、体ごと繋ぐ幸福の夢に酔ってしまいたい。
この望みに微笑んで腰を抱きよせて、そっと婚約者の大切なところにキスをした。

「あっ、…」

あがる声と一緒に、一瞬だけ体がふるえた。
あまやかな怯えを感じながら、唇から納めて熱を絡ませていく。
呑みこんでいく熱ふれる愛撫ごと、純白のリネンに愛しい喘ぎがこぼれた。

「ん、…あ、…え、いじ…あ、だ、め、」

だめじゃないよ?
そんな言葉の代わりに絡めとる熱を深くする、途端に抱いた腰から恥らいが伝わった。

「ああっ、や…はずかし、あ、…ん、っ、」

恥らいながら素直に応えくれる素肌が、初心なままの無垢に艶めいていく。
もう体の繋がりを結んで半年が過ぎた、そして3月には周太の体を大人にしている。
それでも変わらない含羞と、初々しい反応が愛おしい。愛しさに英二は微笑んだ。

「可愛いね、周太は…大人になっても、素直だね…好きだよ」
「ん、…もっと、すきに…な、て、」

こぼれる吐息のはざまから、おねだりを告げてくれる。
これ以上もし好きになったら、きっと大変だろうな?
すこし可笑しくて、けれど吐息の言葉が幸せで、英二は微笑んだ。

「もっと、好きになって良いの?…そうしたら俺、もっと周太に、いろいろしたくなっちゃうよ?」

ゆっくり身を起こして、長い指を冷たいコップに伸ばす。
さわやかな香を喉に流しこんで吐息をついて、見つめた黒目がちの瞳が熱含んで潤んでいる。
こんな瞳をされると、狂わされてしまうのに?

「そんな目で見られると、…ほんとに好きになるよ、周太…恥ずかしいこと、たくさんしたくなるよ、」
「そう、なの?…」

熱潤む瞳が困惑に艶めいている。
そんな目は本当に狂ってしまいそう、こっちの方こそ困らせられる。
この黒目がちの瞳に魅惑されて、へし折られそうな自制心がまた軋みを上げていく。
こんな途惑い隠すよう微笑んで、ゆるやかに恋人に身をふせながら英二はキスをした。

「そうだよ?俺、周太を好きすぎる。君への恋に狂ってるよ?だから、もっと好きになったら、大変だよ?」
「大変なの?…あの、恥ずかしいの?」
「そうだよ、周太が真赤になること、もっと、いっぱいしたくなる、」

幼子に教えるよう微笑んで、前髪をかきあげて額にキスおとす。
愛しい顔を見つめながら笑いかけて、キスで瞼に頬にふれていく。
そうしてキスふれた唇が、恥ずかしげでも微笑んで言ってくれた。

「もっと好きになって?それで、ずっと隣に帰ってきて?…いうこと、きいてよ、」
「…周太、」

すこし驚いて英二は黒目がちの瞳を見つめた。
ほんとうに好きになって良いの?驚いて、けれど期待に見つめた瞳に長い睫が伏せられていく。
恥らい伏せた睫にキスふれると、ゆっくり長い睫はあげられて淑やかな瞳が微笑んだ。

「ね、…まっかになること、して?…もっと愛して?ずっと無事に、隣に帰ってきて?」

ずっと無事に隣に帰り続けていく。
この約束の為にまた愛するひとは、体のすべてを委ねようとしてくれる。
こんなふうに純粋な想いで体繋いでくれる、この婚約者が愛しい。

「うん、ずっと無事に、隣に帰る…愛してるよ、周太?だから…好きなだけ、君を抱かせて?」

もう必ず、Yes、って言ってくれるよね?
そう見つめた愛する瞳は、恥じらいと幸せに微笑んで綺麗な笑顔に咲いてくれた。

「ん、…して?」

英二の自制心は、息の根を止められた。

「たくさん、恥ずかしがらせるよ?でも、逃げないでね、約束して?」
「…それは、逃げるかもしれないけど…でも、つかまえちゃうんでしょ?」

そんなこと言われたら可愛くて困ります。
あんまり可愛くて、また恋に墜とされながら英二は笑いかけた。

「掴まえるよ?だって、お赦し頂いたんだよね、俺?だから遠慮しないよ、…いいよね?」
「ん、…でも、あの、…おてやわらかに、ね、」

すこし不安げに見つめてくれる、儚げな様子が愛おしい。
そっと抱きしめて唇キスふれて、素肌ふれ交わす温もりが幸せに融かされる。

「安心して、周太?恥ずかしがらせると思うけど、必ず幸せにするから…俺に君を任せて、」
「はずかしいの怖いけど、でも…はい、」

微笑んで告げた言葉に、黒目がちの瞳も微笑み返してくれる。
こんなに素直で委ねきってしまう無垢が愛しくて、純粋な誘惑に心縛られていく。
また募ってしまう愛しさ見つめながら、英二は恋人の体をほどきはじめた。



あわい薄紅の光がふれて、英二は目を覚ました。
きっといま5時20分くらい?そんな予想に長い腕を伸ばすと、クライマーウオッチの時刻は合っている。
今朝も時間を当てられた。いつもの予測正解に微笑んで、懐ねむる恋人の額にキスすると静かにベッドを降りた。
床に散らされた薄紅いろ明るんだ衣を拾いあげて、ふわり羽織ると帯を結いあげながら窓辺に歩みよる。
あかるみ映えていくカーテンを引いて、ほっと英二は息吐いて微笑んだ。

「きれいだ、」

万朶の桜が、朝陽あわく輝いている。

花透かす薄紅はきらめいて、藤色たおやかな暁空に咲いていく。
やわらかな金の雲たなびき黎闇は払われて、春爛漫の朝が目覚めだす。
桜咲く窓から眺める暁は、やさしい色の記憶に彩られていた。

かちり、

静かな音が立って窓の錠が開く。
ゆっくり窓をひらいていくと、ゆかしい花の香が涼しい風に運ばれる。
ゆるやかに明けていく空の薄紅と、馥郁と桜ふく暁風が優しくて英二は微笑んだ。

「お父さん、もし、生きていたら…こんな朝が、見られたんですよ?」

14年前の昨夜に絶ち切られた生命に、静かな涙が英二の頬を流れた。



(to be continued)

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第43話 花惜act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-05-15 23:59:45 | 陽はまた昇るside story
約束、花降る夜に



第43話 花惜act.2―side story「陽はまた昇る」

川崎の市営墓地は、桜の花にくるまれていた。
あわい紅いろ舞いふるなかを3人、ダークカラーの姿で歩いていく。
仕事帰りの周太の母は、薄青のシフォンブラウスをあわせた黒いパンツスーツ姿だった。
やわらかなリボンタイを風に翻しながら、英二が抱えた花束に彼女は微笑んだ。

「とても素敵な花束ね。清楚で落着いていて、あのひとが好きな雰囲気よ、」
「お母さんに、そう言ってもらえると嬉しいです、」

白と緑に深紅をあわせたシックな花束。
この大きな花束に、嬉しそうに周太も笑って母に教えた。

「お母さん、あの花屋さんに作って貰ったんだ…バラの棘も全部取ってくれたの。それでね、この子、ってまた言ってたよ?」
「周が大ファンの花屋さんね。なんてオーダーして、作って貰ったの、」

母に訊かれた周太が、英二を見あげてくれる。
黒目がちの瞳を受けて、英二は答えと微笑んだ。

「50代の男性に、感謝の花束を。とても笑顔が美しい人です。そんなふうに、お願いしてみました、」

快活な黒目がちの瞳が、心から嬉しそうに笑ってくれる。
そして穏やかな声が感謝に微笑んだ。

「ありがとう、英二くん。主人のこと、そう言ってもらうの嬉しいわ、」

ブルーのシフォンが花の風に揺れる。
やわらかな髪を手に抑えながら、少女のままの笑顔が華やいだ。

「私にとって、あのひとはね?亡くなっても終わらない恋人なの。だから、そんなふうに花束をオーダーして貰うの、嬉しいな、」

終わらない恋人

永遠の恋をしている、そう言う意味。
そんな言葉は桜に抱かれた恋人同士には、とても似合うかもしれない。
いま胸元に下げた合鍵の持主を想いながら、英二は綺麗に笑った。

「そう言ってもらえて、俺も嬉しいです、」

そんな会話を交わしながら、家の墓所に着いた。
咲き誇る桜の天蓋のもと、おだやかな陽をあびて墓碑は迎えてくれる。
花束を傍らに置くと、墓碑に頭を下げて英二は墓石を磨きはじめた。
周太の母が用意してくれたサラシで磨き上げていく、その間に彼女は息子と草取りを始めた。

「お彼岸に来たばかりだから、あまり生えていないわね、」
「ん、そうだね…あ、お母さん、今年もここに、すみれが咲いてくれたよ、」
「ほんとね?お父さんが好きな花だから、喜んでるね?」

母子で笑いあいながら、楽しそうに手を動かしている。
ずっと13年間をこうして、ふたりきりで墓を守ってきたのだろう。
ふたりきり生きてきた。この事実に見つめる想いが、切ない。

―その13年間も、一緒に過ごしたかった…守りたかった、

こんなふうに「守りたい」と想うなんて、一年前の自分には想像つかない。
けれど今はもう、こんなにも痛切な想いと願いを抱いている。
こんな今が不思議で、心から幸せだと微笑が起きあがってしまう。

―これからは、ずっと守らせて欲しい、一緒に過ごさせて欲しい

この美しい母子が許してくれる限り、共に寄添って生きていけたら良い。
こうして墓を磨いて守って、自分がこの家を守り、繋いでいく努力をさせてほしい。
そんな想い見つめながら、最後の一拭きを英二は終えた。

「きれいになったね?英二、ありがとう、」

愛しい声が、嬉しそうに微笑んだ。
嬉しい声にふり向くと、その隣から敬愛するひとも笑ってくれた。

「ほんとね、いつも丁寧にしてくれて。英二くんだと高い所も楽に手が届くね、ありがとう、」

母子が一緒になって褒めてくれる。
嬉しい気持ちと質問を思いながら、英二はふたりに笑いかけた。

「喜んでもらえるなら、うれしいです。ね、お母さん?皆さん、お名前は一文字なんですね、」

墓碑銘に記された俗名を示しながら、英二は尋ねた。
彼女も碑銘を見ながら、気さくに笑って教えてくれた。

「代々ね、一文字らしいの。だからね?ほんとうは周も、最初は一文字で『あまね』だったのよ、」
「え、そうなの?」

きれいな黒目がちの瞳が大きくなっている。
周太自身も初耳だったらしい、けれど英二にとって予想していた事だった。

「そうなのよ、周。話したこと、無かった?」
「ん、初めて聞いたよ?…あまね、だったの、俺の名前、」

たぶん日記帳の1988年11月3日には、このことも書いてあるだろうな。
そっと心で確信しながら英二は彼女に質問をした。

「なぜ、『しゅうた』にしたんですか?」
「出生届を出す直前になって、あのひとが『太』を付けたい、って言いだしたのよ、」

笑って彼女は答えてくれる。
そして彼女は「太」にこめた意味を教えてくれた。

「心の器が大きい人になるように。そんな意味を籠めてね、あのひとは『太』を付けてくれたの、」

 “ひろく普くを歩む佳き人生を祈って”
 “佳き馨のように周くを歓ばせる人生を祈って”

隠されていたアルバムの詞書に記された、周太の祖父と父の命名由来。
晉の命名と馨の命名に「あまね」という意味は共通して使われ、馨には「周」の文字で記されていた。
この命名由来から周太の名前は付けられたのだろう。

―「太」は、50年の連鎖を超えていくように、そんな祈りかもしれない

祖父も父も超え心大きいひとになるように、負の連鎖をも超える強い人になるように。
きっとこの祈りが込められている、そんな想いに目の奥が熱くなる。
けれど熱を想いごと肚に飲みこんで、英二は綺麗に笑った。

「『周太』って、いい名前ですよね。でも、『あまね』も可愛くて良かったな、って思います」
「でしょう?私もね、『あまね』って可愛いなって思ったの。でも『しゅう』も呼びやすいし、ね、」

息子の名前を話してくれる彼女は、楽しげで幸せそうでいる。
きっと、息子が生まれた時や名づけの時の幸福な記憶が、彼女の心を充たしているだろう。

―この笑顔も守っていきたい。ふたりとも、守りたい、

心ふれる願いに英二は、花ふる墓碑へと祈りを運んだ。


川崎の家に着いたのは16時だった。
ブラックスーツから着替えて階下に降りると、リビングで周太が母に拗ねている。
どうしたのかなと見ると、泣きそうな顔で周太が訴えてきた。

「英二?お母さん、夜から温泉に出かけるって言うんだよ?ね、止めて?」

今日は周太の父の命日だから、家で過ごすだろうと英二も思っていた。
すこし驚きながら彼女を見ると、快活な黒目がちの瞳が微笑んだ。

「ワガママ言って、ごめんね?英二くん、」
「いえ、わがまま言って頂くのは、嬉しいんですけど、」

どういうことなんだろう?
そう見つめた先で、彼女は口を開いてくれた。

「おととしが13回忌だったの、そして今年は14年目だわ。それでも私は、あのひとに恋しているの。
だからこそ、今日に拘ることは止めたいの。あの人が亡くなった夜だからこそ私、この家から離れてみようと想うの。だめかな?」

終わらない恋人。
その想いは幸せで、けれど寂しくて、きっと全てに面影を追っている。
そんな恋人が消えた「今夜」を、恋人との記憶が多すぎる場所から離れてみたい。
この意志にこもる悲哀と愛惜と、それでも前に踏み出そうとする勇気を、誰が責められるだろう、止められるだろう?

―…行こうよ、雅樹さん…槍の穂先を、俺と超えてね、俺と一緒に
  約束ごと消えた…だから今日、うれしかったんだ、約束まもってくれた、うれしかった
  ふれられないのは寂しいよ…抱きしめてほしい、昔みたいに笑ってほしい…一緒に山に生きたかった…救けたかったのに

遺された者の尽きない想いを、国村の慟哭に教えらえた。
最愛の存在に先立たれた想いを、北鎌尾根で、槍ヶ岳で穂高で見つめ向き合ってきた。
だからこそ自分には、今日、踏み出そうとする彼女の勇気が解かる。
彼女への敬愛のままに、英二は口を開いた。

「いいえ、だめじゃありません、」

答えて、英二は微笑んだ。
そんな英二に隣から、縋るよう驚いたよう純粋な視線が向けられる。
どうか俺を信じていてね?そう隣の視線に笑いかけてから、英二は彼女へと答えた。

「俺が、この家にいます。だから、お母さんは離れてみてください。心配は要りません、」
「よかった、」

やっぱり、あなたは同士ね?

そんな言葉を隠しながら、快活な黒目がちの瞳が笑ってくれる。
どうか彼女が新しく踏み出せますように、そんな想いで笑い返しながら、英二はお願いをした。

「でも、お母さん?桜餅とココアは、桜を見ながら召し上がっていってくださいね?これは約束ですから、」
「はい、見て、食べていきます。今からココア、作るわね?」

楽しげに彼女も答えてくれる。
けれど、隣で自分と母を見つめる視線は、寂しい。
この寂しい気持ちも解かるな?英二は隣の視線をふり向いて、きれいに笑いかけた。

「周太?甘い冷たい吸い物、作るんだよな?それも一緒に、3人で食べよう。蓬を摘んでくればいい?」

純粋な黒目がちの瞳が真直ぐ見あげてくれる。
どうか笑ってほしいな?そう見つめた先で、やっと愛しい瞳が笑ってくれた。

「ん、皆で、食べようね?…英二、一緒に蓬、摘んでくれる?お母さんも、」
「ええ、周。もちろん、一緒に摘むわ、」

おだやかに笑いかけた母の笑顔に、周太は微笑んだ。
そして少し恥ずかしげに、けれど笑って周太は母に言った。

「お母さん、今夜はね、楽しんできてね?…明日は、帰ってきてね、」

なんとか折り合いを付けられたらしいな?
そう見ている先で、周太の母は嬉しそうに息子に笑いかけた。

「はい、もちろん帰ってくるわ、お客さんがあるし、」
「約束だよ?…白ワイン、買っておいてあげるから、帰ってきてね、」
「ありがとう、周。お母さん、明日の夜は、浅蜊のワイン蒸とか食べたいな?」

楽しそうに母子は話し始めた。
これなら周太も大丈夫だろうな?微笑んで英二は籠を取りに水屋に向かった。



夕映えの始まりかけた仏間で3人一緒に、薄緑の白玉うかべた冷たい澄し汁を囲んだ。
テラスの洋窓ふる桜を眺めながらココアと桜餅も楽しんで、黄昏が終わる前に周太の母を駅まで見送った。
改札口を通り愉しげに階段を降りていく背中が見えなくなると、そっと周太から掌を繋いだ。

「ね、英二…一緒にいてね?」

黒目がちの瞳が、見つめてくれる。
いま大好きな母親が「今夜」から旅立っていく、それが良いことだと解っていても、寂しい。
この寂しさを共に過ごしてと求めてくれる、この瞳の願いは全て叶えたい。
なにより、この願いは自分の祈りでもある、微笑んで英二は頷いた。

「うん、ずっと一緒にいるよ?ね、周太、」

きれいに笑いかけて、長い腕伸ばして英二は恋人を抱きしめた。

「えいじ?だめ、こんなとこではずかしいよ、はなして、」

抱きしめた小柄な体から抗議の声が上がる。
けれど、背中に回してくれる掌は、ぎゅっとジャケットを掴んだ。
独りにしないで、離さないでほしい、傍にいてほしい。
ほんとうは抱きしめてほしい、そう掌が伝えてくれる想いに英二は笑いかけた。

「今は良いんだ、抱きしめても。ね、周太?だから、笑ってよ、」
「ん、…ありがとう、でも、…ちょっとはずかしいやっぱり、」

言いながら見上げて、赤い頬で笑ってくれる。
この笑顔がうれしい、今夜はたくさん笑わせてあげたいな?
抱きしめたまま素早くキスをして、そっと離れると英二は微笑んだ。

「周太、家に帰ろう?買物して行くんだよな?」

家に帰ろう。
いい言葉だなと、素直に想えてしまう。
こんなふうには周太に逢うまでは想ったことが無かった。

「ん、買物して、帰ろうね?…ね、今夜、なにが食べたい?」

嬉しそうに頷いて訊いてくれる。
なにが食べたいなんて本当のことを言ったら、きっと真赤になって大変だろうな?
そんなことを考えながら、英二は夕食に関しての答えを述べた。

「甘いワイン、今夜も飲もうか?それに合うもので、俺も一緒につくれるもの、って出来るかな?」
「出来るよ、…ね、ワインで夜桜見るの?」
「そうだよ、もう桜餅とココアは食べちゃったし、花見酒って言うだろ?」

ふたり今夜の予定を話しながら、家の方に歩いていく。
こういう何気ない時間こそ幸せで温かい、この今の瞬間こそが愛しい。
この愛しい温もりくれる恋人に微笑んで、英二はスーパーマーケットの入口を潜った。



今夜はテラスに夕食の席を設えた。
南面の洋窓いっぱいに、染井吉野が万朶と華やいでいる。
桜の梢に垣間見る月へと、嬉しそうに周太は微笑んだ。

「月の明りが、きれいに桜を見せてくれるね?…きれい、」

フロアーライトの落とした灯だけのテラスは、ダイニングバーのような雰囲気になる。
こういう大人びた雰囲気の店では、ふたり一緒に食事したことが未だ無い。
あのタイプの店なら個室も多いから周太も寛げるだろう、こんど連れて行ってあげようかな?
そんなこと考えながら見つめる恋人は、おだやかな光と月明かりのなか雰囲気がいつもと違っている。

―美人、って感じだな、周太…

可愛らしい感じの風貌が、陰翳とワインの酔いに大人びている。
静養で帰っていた時も、ここでワインを一緒に楽しんだ。あの時よりずっと大人びたように想う。
もしかしたら今夕、母を送りだしたことで周太は少しまた、大人になったのかもしれない。

「周太、今夜は、すごく美人だね?」

素直な想いを率直に言って、英二は微笑んだ。
笑いかけ見つめた向こう側、首筋から頬まで桜いろに紅潮が昇りだす。
こちらを気恥ずかしげに見ながら、周太は笑ってくれた。

「恥ずかしくなるよ?…でも、英二に言われると嬉しい、ありがとう、」
「ほんとのことだよ、周太?…なんだろう、すごく大人びた雰囲気だね、」

食事の箸を動かしながら恋人に笑いかける。
そんな英二に長い睫の瞳がゆっくり瞬いて、首傾げながら訊いてくれた。

「ん、そうかな?…なんか、変?」
「変じゃない、魅力的、ってこと。…やっぱり周太、大人になったから、かな?」

大人になったから。
この言葉が示す夜の記憶に微笑んで、英二は婚約者を見つめた。
見つめた先で長い睫が含羞に伏せられる。

「…恥ずかしい、そんなふうに…でも、そう、…ね?」

ゆっくり上げられる睫から、黒目がちの瞳が恥らいに微笑む。
その様子が艶やかで、心が一瞬で掴まれた。

―君はまた、俺を恋に墜とすんだ?

恋の吐息が心こぼれて、視線が離せない。
この婚約者が魅せる誘惑は、どれも全てが無垢で、無意識のままでいる。
そんな意図のない誘惑は清らかで、そのくせ魅惑が強くて惹きこまれてしまう。
ほらまた、こんなふうに俺を引き摺りまわすんだ?この緊縛が嬉しくて英二は微笑んだ。

「大人になった周太、大好きだよ?…綺麗で、目が離せない、」

想ったままを言葉に変えて、愛する瞳を見つめていく。
見つめられた瞳はまた恥じらう睫に伏せこんで、唇が質問を投げかける。

「ん、とまどう、なんか…ね、なんて、答えたらいいの?」
「俺のことも、好き、って答えてよ?…俺を見てよ、」

口説き文句が、自然と出て来てしまう。
この相手は婚約者、もう互いの親から承諾も実質もらっている。
それなのに自分は尚更に、このひとの気を惹きたくて仕方ない。

「ね、周太?答えてよ、…俺を見て?」
「ん、…」

グラスを見つめていた瞳が上げられる。
長い睫に明りが艶めいて、黒目がちの瞳が困惑と見つめてくれる。
無垢な瞳が見つめて、そして英二にだけ微笑んだ。

「大好き、英二…愛してるよ?」

月明かりと桜みあげる窓辺、また恋に墜ちていく。
このテラスは仏間の続き間で、この恋人の父祖みんなが見つめているだろう。
そんな場所ですら口説きだした婚約者を、いったい皆どう想うのだろう?
自分で困ったものだと思いながらも、大切な恋人との時間が幸せで英二は綺麗に笑った。

「愛してるよ、周太。今夜はずっと、一緒にいよう?…Yesって言って?」
「ん、…はい、」

口説き文句に瞳伏せながらもも、赤い頬で応えてくれる。
なんだか本当に、ダイニングバーで意中の相手を口説き落とす時のよう。
こんな夕食も幸せで、なにより「はい、」の返事が嬉しい。
嬉しい想いと、ときめく想いに英二は恋人との花見を楽しんだ。



花見の夕食が終わると、ふたりで片づけをした。
こんなふうに、ふたり一緒に台所をするのは夫婦みたいで嬉しいな?
なんだか幸せで微笑んだ英二に、最後の皿をしまい終えて周太が言ってくれた。

「おふろ湧いたから、先に入って?」
「ありがとう、周太。じゃあ、一緒に入ろうな、」

さらり提案して英二は、周太の肩と膝の下に腕を入れて抱き上げた。
不意打ちに抱き上げられて驚きながらも、周太は口を開いた。

「まって、あの、けっこんしてからっていったでしょ?…ね、おろして、」
「ダメだよ、周太?さっき、Yesって言ってくれたんだから、」

笑いながら英二は洗面室の扉を開いた。
そっと周太を浴室の前に降ろすと、後ろ手に扉を閉じてしまう。
そうして通せんぼしながら英二は笑いかけた。

「周太、駅でも言ってくれたよな?一緒にいてね、って。だから今夜は、ずっと周太のこと離さないよ?」
「あの…、一緒にって…おふろもとかそういういみになっちゃうの?」

困ったまま頬染めている顔が、可愛くて困ってしまう。
こんな困った顔で気恥ずかしげにされたら、昼間に宥めていたことが目を覚ますのに?
我ながら少し自分に呆れながらも、英二は正直に恋人へと願いをねだった。

「そういう意味だろ、周太?それとも…俺の勘違い、ってこと?」

すこし哀しげな顔を見せてみる。
そんな自分を見つめてくれる黒目がちな瞳も、哀しそうになっていく。

「勘違いとかじゃなくて…ちょっと違う意味で…ごめんなさい、そんな顔しないで?」
「周太がさせてるんだよ、こんな顔に。俺を傷つけられるの、周太だけなんだから…そっか、周太、違う意味だったんだ?」

ほんとうは違う意味だったくらい充分承知だけれど、知らんふりしたい。
知らんふりで解かっていないフリをして、それで哀しそうにしたら優しい婚約者は言うことをきいてくれる。
そんな計算隠して見つめると、黒目がちの瞳が泣きそうなまま首傾げて、応えてくれた。

「ん、…ちょっと違かったんだけど、でも…英二のいうとおり、だったかも、」
「じゃあ、周太、どういう意味なの?」

哀しい顔のまま拗ねてみせてしまう。
こんな自分を哀しそうに困りながら見つめて、そして周太は優しく笑いかけてくれた。

「ん、…ずっと離れないで一緒に、って」

やっぱり周太は「No」と言えない、優しすぎるから。
そんな純粋な心につけこんで、わざと哀しい顔をしてみせたら思惑通り頷いてくれる。
こんなに純粋で優しい婚約者には、こんな自分でも罪悪感を感じてしまう、そっと心で英二は謝った。

―純粋さにつけこんで、ごめんね。でも赦してよ、幸せにしたいから…

こんな自分は直情的でほしいものは掴んでしまう性質でいる。
手に入れる為なら手段を択ばない、そんな図々しい自分だから口説きも巧くて一夜の相手に不自由しなかった。
そういう相手は誰もが結局は体だけで、心まで欲しい相手じゃないから何も感じなかった。
けれど、この純粋な婚約者には罪悪感を感じてしまう。
ごめん、でもいっぱい幸せにするから赦してね?心で謝りながらも英二は、幸せの言葉をしっかり掴まえた。

「ほんと?周太、ずっと今夜は、俺と離れないで一緒にいたい、って想ってくれる?」
「ん、…一緒に、いて?」

強引でも、Yes、って言ってもらえた。
うれしい気持ちのままに、英二は恋人を抱きよせ微笑んだ。

「ずっと一緒だよ?今夜は、ずっと離さない、」

きれいに笑いかけて、笑顔近づけて唇を重ねる。
ふれるキスから、熱絡ませるキスをして。
あまやかなワインの香に吐息交わして、キスの甘さと瞳を閉じる。
ふれそうな睫の気配に微笑んで、抱きよせて、腰結わえるエプロンの紐を解いていく。

「…あ、」

かすかにずれた唇のはざまから、恋人の吐息がこぼれおちる。
こぼれかけた吐息からめとるように唇重ねて、深いキスのなか小柄な体の服に手をかけた。



(to be continued)

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第43話 花惜act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-05-14 23:53:00 | 陽はまた昇るside story
花の記憶、微笑んで



第43話 花惜act.1―side story「陽はまた昇る」

御岳駐在所のパソコンの前、英二はかすかに微笑んだ。
画面には国村が呼び出した人事ファイルの、自分の履歴書が映しだされている。
そこは自分以外の欄は、空白だった。

「ちゃんと全部消えたね、良かったな?」

テノールの声が笑ってくれる。
莞爾と笑う秀麗な貌に英二も笑いかけた。

「うん、良かった。ありがとう、」
「どういたしまして、だよ?」

底抜けに明るい目が笑って、画面を巧妙に閉じていく。
閉じられていく画面を見つめながら、自分の道を英二は眺めていた。



新宿御苑は万朶の桜に埋もれる。
花びらが舞いふる門へと歩いていくと、紺青色の制服姿が目に映りこんだ。
花見あげる頬は薄紅いろに染まって、嬉しげに微笑んでいる。
きっと満開の花が嬉しいんだろうな?そんな想い計りに英二は呼びかけた。

「周太、」

呼ばれた名前に、制服姿がふり向いてくれる。
咲き誇る桜うつした薄紅の頬は、幸せに英二へと微笑んだ。

「英二?…」

名前呼んでくれる声が嬉しい。
嬉しくて素直に笑ったそのときに、ふわり風がブラックスーツのジャケットを翻した。

「…あ、花が、」

愛しい声のむこう、薄紅の花びらが舞いふっていく。
花ふる下の姿には、桜に始まり終った1つの物語が蘇えるよう想えてしまう。

―馨さん?この場所で、恋に出逢ったんですよね…

26年前の春の夜、この桜の下に生まれた恋。
その恋が育まれ、生まれた命と心は今、この桜を見あげ佇んでいる。
この万朶の桜咲く下で、愛するひとは花散る風に微笑んだ。

「桜、今日、満開になったんだ…ね、英二?やっぱり、今日だから咲いてくれたかな、」

桜が今日、満開になる意味。
この意味に英二も頷いて、きれいに笑いかけた。

「うん、お父さんの亡くなった日だからだ、って俺も思うよ?」
「ん、…英二がそう言ってくれると、嬉しいな?あ、」

ちいさな声と一緒に、紺青色の制帽が風に浚われた。

薄紅色の花びらと一緒に、中天へと舞い昇っていく。
やわらかな髪を風に遊ばせながら、黒目がちの瞳が帽子を追っていく。
花舞うなか黒髪ゆらめく姿に見惚れかけながら、英二は長い腕を空へと伸ばした。

白皙の長い指先に、紺青色の制帽が掴まえられる。
掴んだ帽子を手渡しながら、英二は婚約者に微笑んだ。

「警邏、お疲れさま。もう交替だよな?」
「ん、ありがとう…さっきね、交替の引継ぎしたから、署に戻ろうって思ってたとこ、」

卯月、万朶の桜咲く日。
新宿御苑では春の園遊会が華やいでいる。
この今と同じように、14年前も華やかな春の陽なかの今日だった、
けれど、14年前に迎えた春の夜は、ひとつの恋愛と生命が散り急いだ。

「英二、スーツで来てくれたんだね?」

黒目がちの瞳が微笑んで訊いてくれる。
ブラックスーツのジャケット翻しながら、愛する瞳のために英二は綺麗に笑った。

「うん。俺は初めてだしね、やっぱり、礼は尽くしたいから。でも、ネクタイはして来なかったけどね?」

舞いふる桜の日。
喪の色を纏う今日は、周太の父、馨の命日。



「英二、どこで待っててくれる?…クリスマスの時の、カフェ?」
「うん、そこで待ってる、」

待合せ場所の約束をして、新宿署に戻っていく周太を英二は見送った。
小柄な背中が完全に見えなくなる。見済まして、ちいさく英二は微笑んだ。

「…ごめんね、周太、」

ポケットから黒いネクタイを出す。
手際よく衿元に端整に締めると、英二は新宿署ロビーに踏みこんだ。

昼下がりの今、どこか署内は閑散として、静かな息を潜めている。
ゆるやかな窓の陽に鎮まるベンチを見遣ると、英二は自販機コーナーに進んだ。
前にも見た通りの商品を目で追って、2つの缶を買い求める。
そうして窓辺に向かうベンチへと、英二は腰をおろした。

ことん、

ココアの缶を隣に置いて、ワイシャツの胸元に長い指でふれる。
指先に堅い合鍵の輪郭がふれてくれる、この鍵の持主に英二は微笑んだ。

「…お父さん、約束を叶えさせてもらいますね、」

26年前に馨が遺した、愛しい家族との約束たち。
これを叶えるために今日は帰って来た。
そして、たぶんもう1つの目的も今日、果たされるだろう。

きっと、現れるのだろうな?

予想に微笑んで、もう1つのココア缶のプルリングを引いた。
かつんと小さく音立てて缶が開かれる。
あまい香に笑って口をつけると、温かな甘さが喉を降りていく。
今夜もこの香を楽しむことになるんだろうな?楽しい切ない予定を想いながら、英二はココアを飲干した。
空の缶をダストボックスに落としこんで、ベンチにまた座る。
その背中に、視線を感じて英二は微笑んだ。

―ほら、来た、

視線の数は2つある。
今日という日だからこそ、この時間だからこそ。きっと彼らは2人そろって確かめに来るだろう。
そんなこと容易く予想が出来てしまう。

「…ようこそ、箱庭の住人たち、」

つぶやいた独り言に英二は小さく笑った。
こんなに自分は偉そうだ?あの自信満々なパートナーに、自分もしっかり感化されているな?
でも、自信過剰なくらいじゃなかったら、50年の束縛なんて断ち切れない。

「お父さん、…俺と、パートナー組んでくれていますよね?」

ベンチに置いたココアに笑いかけて、そっと長い指で缶をとる。
そして立ち上がった喪色の背中へと、怯えたような視線が2つふれた。

うつむき加減のまま振向いて、ゆっくり出口へと歩き出す。
長く白い指にダークブラウンの缶を掴んだまま、英二は2人の男の前に足を運んでいく。

「…っ、」

息を呑む気配が空気越しに伝わって、かすかな恐怖心が行く手に起きた。
いま自分は、亡霊なのだろうな?そんな考えに心で笑って、男2人とすれ違いざま、哀しみの陰翳に英二は微笑んだ。

「桜、満開ですね、」

哀切の想い笑顔に見せて歩き去りながら、英二は男達の目を見た。
動揺を隠す目、怯えた目、困惑の目。それから「おまえは何者だ?」という疑問。
そんな視線が4つの目から向けられるなか、陰翳の笑顔のまま英二は桜の街へと出て行った。

明るい昼間の街に、薄紅の花びらが時おり舞ってくる。
花が舞うなか結び目に長い指をかけて、黒いネクタイを衿から抜きとった。
くるり畳んでポケットに仕舞うと、青い空を見上げながら英二は微笑んだ。

「やっぱり、お仲間なんだね、あなた達は、」

50前後の身形の良い男。
40代の憔悴した頬と鋭い目つきの男。
この2人が揃って、園遊会警邏が終わった頃合に、新宿署ロビーの窓際のベンチを確かめに来た。

あの場所は、馨が最後にココアを飲んだ場所。
あの日の馨は園遊会警邏で新宿に呼ばれた、警邏の後は新宿署の射撃指導を行って、そしてベンチに座った。
それから1時間も経たずに、馨は一発の銃弾に斃れた。

あの場所に、あのタイミングで、現れる。

それがどんな符号なのか?
26年前の今日を知るならば、簡単に解かることだろう。
そして彼らからすれば今日、あの時間あの場所に、黒い服で現れた姿は、どんな意味を持つ?

ブラックスーツ姿で英二は、花舞う空に笑った。



クリスマスの朝に入ったカフェに着くと、窓際の席に案内された。
陽だまりの心地いいソファに座ると、英二は店員に笑いかけた。

「ブレンドを下さい、すこしぬるめで、」
「ホットでぬるめ、ですね?」

若い女性の店員がすこい首傾げ訊いてくれる。
たしかに不思議な注文だろうな?きれいに笑って英二は頷いた。

「俺、ちょっと猫舌なんです。でも、すぐ飲みたくて。お願い出来ますか?」

お願いしていいかな?
そう目で笑いかけて、華やかに英二は微笑んだ。
そんな英二の笑顔に見惚れたよう、頬赤らめながら彼女は頷いてくれた。

「はい、あの、出来ます。すぐ、お持ちしますね、」
「よかった、ありがとう、」

嬉しそうに英二は綺麗に笑いかけた。
可愛らしく頬染めて、彼女は急いでカウンターへと戻ってくれる。
すこしだけ窓の外をながめているうちに、ぬるめのカップが運ばれてきた。

「このくらいの温度で、いかがですか?」

カップに指でふれてみると、ちょうど好さそうでいる。
これなら大丈夫だろな?頷いて英二は微笑んだ。

「大丈夫みたいです、ありがとう、」

感謝して笑いかけた英二に、彼女の頬がまた染まっていく。
英二の笑顔に嬉しげな笑顔向けながら、ウェイトレスが言ってくれた。

「いえ、あの…猫舌なんて、可愛いですね?」
「よく言われます、」

さらり笑いかえした英二に、彼女は「ゆっくりされて下さいね?」と微笑んでカウンターへ戻っていった。
まだ視線を横顔にうけたまま、英二は窓の外へ目を向けるとカップに口をつけた。
そのまま半分ほど飲みほして、ほっと息を吐いた視線の先に小柄な姿が映りこんだ。

「…よかった、」

そっと呟いて英二は、カップをテーブルに戻した。
その後ろで扉が開く音がして、大好きな声が笑いかけてくれた。

「お待たせ、英二…ごめんね、待たせちゃって、」

すこし息がはずんでいる。
きっと急いで走ってきたのだろうな?可愛くて、英二は愛しい想い微笑んだ。

「大丈夫だよ、周太?」
「あ、コーヒーだいぶ飲んじゃったね?…待たせたから、」

困ったように見つめてくれる。
これなら上手に信じて貰えたのだろう、きれいに英二は笑いかけた。

「気にしないでいいよ。周太も何か飲む?それとも、昼飯の店でなんか飲む?」
「ん、…あの、そのコーヒー貰っちゃダメ?」

やっぱりチェックが入るんだな?
考えて正解だったと思いながら、素直に英二はカップを差し出した。

「俺ので良いなら、どうぞ、」
「ありがとう、」

嬉しそうに微笑んでカップを受けとってくれる。
そっと飲み干すと、周太は笑いかけてくれた。

「ぬるくなっちゃったね?…待っていていくれて、ありがとう、」

ずっとここで英二は待っていた。
新宿署には一歩も足を踏み入れていない、そう信じて貰えた。
信じて貰えて良かったと思いながら、英二は綺麗に笑った。

「うん、待ってたよ?」

―…英二、お父さんの身代わりになって、新宿署の署長と会ったでしょう?
  SATの隊長らしい人にも、同じことしたよね?…お願い、止めて?
  危険なこと、しないで?俺のために…嫌なんだ、俺のために英二が傷つくなんて…嫌!

鋸尾根の雪崩に遭い、昏睡状態から覚めた時、周太は英二にお願いしてくれた。
だから英二は約束をした。もう身代わりはしない、そう約束をして周太に安心して貰っている。
けれど、相手を炙りだすには「そっくりな陰翳の微笑」は必要だから、約束は守れない。

亡霊が現れる

罪悪感のある人間は皆、この亡霊を確かめにやってくる。
もう関係者はあらかた調べはついている、けれどその裏付けとして炙りだしてやりたい。
なによりも、罪悪感を煽って怯えさせてやりたい。

―すこしは味わえばいい、苦しみを…罪悪感も、何もかも

法で裁くことは、出来ない。
すべてが合法だったから、司法の名の下に行われたことだから、裁けない。
けれど、どんなに法が許しても、罪は罪。
この罪の名の下に、誤魔化せない自分の心の呵責に、苦しめばいい。
すこしでも苦しんで、誤魔化し続けた「罪」を見つめて、恐怖に怯えていればいい。

それで彼らの心が壊れたって、自分の知った事じゃない。

苦しめばいい、後悔に這いつくばればいい。
勝手に自滅して自壊して、恐怖に怯えて死んで、泣いて侘びに行けばいい。
唯ひとつの幸福だった桜めぐる物語すら、自ら絶切った贖罪の哀切と50年縛られる苦痛を知ればいい。

「英二、見て?窓の外、すごい花吹雪だよ?」

嬉しそうな声に、英二は意識を恋人に戻した。
幸せそうに窓ふる花を見て、きれいな笑顔が心から咲いてくれている。
この笑顔を守るためなら、自分は何だって出来る、冷酷な仮面だって厭わない。
守るためになら、嫌いな「嘘」だって貫き通して見せる。

「うん、きれいだな?出よう、周太。花びら、掴まえたいんだろ、」

愛しい恋人に心から優しい笑顔を向けて、英二は立ち上がった。
会計を済ませて外へ出ると、やさしい風が花を運んでくれる。
花のふる街を歩きだすと、ちいさく周太がくしゃみした。

「大丈夫?周太、」

今日の周太はライトグレーのスラックスに白いシャツと、フォーマルな雰囲気のカーディガンを着ている。
すこし風があると寒いだろう、英二はジャケットを脱ぐと周太に着せた。

「ありがとう、英二…でも、英二がシャツだけになっちゃうよ?」
「俺は大丈夫だよ?いつも寒い所で生活しているし、」

笑いかけながら見る周太は、大きなジャケットが可愛らしい。
そういえばカジュアルラインのジャケットを周太は持っていないな?思いついて英二は、周太の手を繋いで笑いかけた。

「周太、ちょっと昼の前に寄り道するよ?」

すこし歩いて、いつものセレクトショップに着くと英二は扉を開けた。
久しぶりに訪れる店は、昼時で空いている。

「いらっしゃいませ、お久しぶりです、」

懐かしい店員の笑顔が迎えてくれる。
きれいに英二は笑いかけて、階段へと足を向けた。

「お久しぶりです、見せて貰いますね?」
「はい、ごゆっくり、」

店員も、英二は自由に選ぶのを知っているから、ほどよく距離を作ってくれる。
こういう気遣いはありがたいな、思いながら英二は周太を2階へと連れて行った。

「きれいな色がいいな…これ、どう?」
「…あ、ん、…あの、」
「あと、これな?スーツになってるから、便利だよ」

手早く選んで、周太に見せていく。
途惑っている周太から英二のジャケットを脱がせると選んだものを着せた。

「うん、周太、かわいい、」
「あの、えいじ?…ほんとに、悪いから、ね?」

遠慮がちに周太が申し出てくれる。
そんな様子も可愛いと思いながら、英二は笑いかけた。

「悪くないよ、周太?婚約者に服を買って、なにが悪いの?ありがとう、って言ってほしいな?」

言われて周太の頬が桜いろに染まりだす。
そして恥ずかしげに小さな声で頷いてくれた。

「…ん、ありがとう…これで良いの?」

こんな顔で「ありがとう、」なんて言われると、買い占めたくなります。

「うん、良いよ。周太、他に欲しいものある?」
「ううん、…気を遣わせて、ごめんね?」
「気を遣っていないよ、俺がしたいだけ、」

ほんとうに、自分がしたいだけ。
自分が選んだものを着てほしいだけ、いつも自分の気配を感じてほしいから。
そうして少しでも多く自分を想ってほしい、もっと自分に恋してほしい。
そして自分だけ見つめて、自分だけに恋愛してほしい。

周太の初恋は、自分の大切なアンザイレンパートナーが相手。
そんな国村は周太を想いつづけている、諦められないのだと自分も知っている。
それが哀しい、国村の叶わぬ想いは哀しくて切ない。もう国村は、比べられない程に大切な相手だから。
だからこそ国村にも、心繋げた相手と体を繋げたい願いを叶えてやりたい、その幸福を教えてやりたい。
それなのに周太には、自分だけの恋人で居てほしいと、本音は願っている。

―ごめん、国村…やっぱり俺は、離せないよ?周太の願いを、叶えたいんだ

すこしも離せない、このひとの願いを叶えて、このひとの全てが欲しい。
他の全てを懸けても欲しくて、だから嘘だって吐けるし冷酷にもなれる。
この愛するひとが自分の傍にいてくれるなら、どんな願いでも叶えてしまいたい。

こんな自分は本当に恋の奴隷で、愛する恋の主人しか見えていない。
すこしでも喜んでもらえると嬉しくて、笑顔が見たくて、つい何でもしたくなる。
こんなにも大好きな人の手を曳いて、選んだ2着とも抱えると英二は階下へ降りた。

「これはタグを外してください、すぐ着ますから、」
「はい、かしこまりました、」

快く引き受けて店員はチャコールグレーのジャケットからタグをとってくれる。
濃い色だけれど、あわいブルーのストライプが周太に似合う、そう思って英二は選んだ。
準備して貰ったジャケットを受けとると、英二は周太に着せかけた。

「これで寒くないな?うん、似合うよ、」
「ん、…ありがとう、」

気恥ずかしげに礼を言ってくれる唇に、キスしたくなってしまう。
それどころか本音を言えば、恋人の夜の時間が今すぐ欲しくて仕方ない。
これから自分たちは墓参に行く、それも周太の父の命日当日だと言うのに。
それなのに、こんなことばかり考えている自分は、どうなのだろう?

『ホントおまえ、鬼畜弩級エロ』

北穂高岳で国村に言われた言葉がうかんだ。
たしかに自分は、あの言葉に反論なんか出来やしないだろうな?
そんな「仕方ない」を想いながら英二は、店員から紙袋を受け取った。

「お待たせ、周太、」

笑いかけて外へ出ると、植込みの桜が風に揺れている。
ゆるやかな風に舞う花びらを、嬉しそうに周太は掌で受け留めた。

「ね、上手に受けとめられたよ、俺、」
「うん、見てたよ?」

楽しげに花びらを手帳に挟みこんでいる様子は、無邪気で可愛らしい。
これで自分と同じ年齢の男なことが、不思議に想ってしまう。
けれど周太は既に母を支えて、長男として主夫として家を守っている。
そうした責務をきちんと果たしながらも、純粋無垢なままでいる恋人が愛しい。
愛しい想いに英二は、花を見あげている周太をひきよせた。

「ん…英二?」

不思議そうに見つめてくれる、この黒目がちの瞳が愛しい。
この愛しい人を桜の花翳に隠すよう、そっと肩寄せると英二は唇を重ねた。

そっとふれるだけのキス。
やさしい花の香をはさみこんだキス、おだやかで甘い香が融けあっていく。
ふれて、静かに離れて英二は恋人に微笑んだ。

「キス、桜の香だったよ?」
「…はずかしいからそういうこといわれるの…ここそとだしはずかしいから…」

赤くなりながら恥ずかしがってくれる。
けれど、英二を見あげると周太は、幸せに笑ってくれた。

「でも、…うれしい、逢いたかったから、」

自分こそ、本当はずっと逢いたかった。
川崎の家での静養から奥多摩に戻って、ずっと逢いたかった。

「俺こそ、ずっと逢いたかったよ。だからキス、我慢できなくなっちゃった、」

正直な想いのまま英二は笑いかけた。
笑いかけた先、首筋を赤くそめながら黒目がちの瞳が笑ってくれた。

「ん、…ほんとうはね、俺も、その…したかったの、」

こんな告白は、ちょっと幸せすぎます。

「そんなこと言われると、ほんとに困るよ?」

ほんとうに困ってしまうな?
見境なくこんなところで、たくさん抱きしめたくなるから。
そんな気持ちを宥めながら英二は、桜の下で微笑んだ。




(to be continued)

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第42話 雪寮act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-13 23:03:12 | 陽はまた昇るanother,side story
開かれた道、本のむこう


第42話 雪寮act.3―another,side story「陽はまた昇る」

ひと足先に帰っていた母が、扉の音で2階から降りて来てくれた。
ちょうど靴を脱いで上がる足元に、やさしい手が美代のスリッパを置いてくれる。
そして美代と周太に温かな笑顔むけて、出迎えてくれた。

「雪のなか、おつかれさま。ようこそ、美代さん。周、お帰りなさい、」
「ただいま、お母さん、」

母の出迎えが嬉しい、嬉しい気持ちで周太は自分のスリッパを履いた。
その隣で美代は、気恥ずかしげに挨拶をして微笑んだ。

「初めまして、小嶌美代です。お言葉に甘えて、おじゃまさせて頂きました。すみません、」
「周太の母です、こちらこそ急にお招きして、ごめんなさいね?でも、お部屋の準備は、ちゃんと出来ています、」

おだやかな黒目がちの瞳が愉しげに笑っている。
明るく愉しそうな母の笑顔に、ほっとしたよう美代は笑いかけた。

「お気遣いすみません。あと、バレンタインのケーキとお花、ありがとうございました。とても美味しくて綺麗で嬉しかったです、」
「よかった、気に入ってもらえたのね?今夜も楽しんでくれたら嬉しいな、さあ、どうぞ?」

嬉しそうに笑って母はリビングへと案内してくれる。
なんだか、お互いに気が合いそうな感じだな?大好きな母と友達の様子が嬉しい。
台所でエコバッグの中身を出すと、周太は母に声を掛けた。

「お母さん、俺、部屋に荷物を置いてくるね。そうしたら、夕飯の支度するね?」
「ありがとう、周。今日はね、お母さん、ワイン買ってきたんだけど、」

楽しそうに笑って母が打ち明けてくれる。
きっと前に周太が、美代も酒をわりと飲めると言ったことを母は覚えているのだろう。
だからこういうことだろうな?頷いて周太は微笑んだ。

「ん、ワインに合う食事だよね?」
「はい、お願いするね?」

そんな会話を交わしてから、周太は2階の自室に上がった。
鞄を置いてダッフルコートをハンガーにかけると、いつもの紺色のエプロンをクロゼットから出す。
そのエプロンを着こみながら、周太は階下へと降りた。

「あ、湯原くん、エプロン姿も素敵ね?」

素直に美代から褒められて、なんだか周太は気恥ずかしくなった。
こういうのは馴れていないな?首筋が熱くなりながら周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう。でも、恥ずかしいよ?…あ、好き嫌いとかある?」
「大丈夫よ、なんでも食べるの、私、」

素直に美代は教えてくれながら微笑んだ。
それから遠慮がちに美代は母にと申し出てくれた。

「あの、良かったら私も、お手伝いさせて頂いても、よろしいですか?」
「うれしいな、ありがとう、」

気恥ずかしげに微笑んだ美代に、母は微笑んで頷いてくれる。
そして楽しそうに母が提案してくれた。

「じゃあ、3人で一緒に、お料理しましょうか?皆ですれば楽しいし、早く出来るし。周、どうかな?」

こんなふうに母に言ってもらえるのは嬉しい。
楽しそうな母の提案に周太は嬉しくて頷いた。

「ん、皆で良いね?…美代さん、お願いするね、」

そんなふうに3人で台所に立って、一緒に夕食の支度を楽しんだ。
母のエプロンを借りた美代は、3人一緒に立つ台所で手際よく上手に動いていく。
とても馴れた雰囲気に、周太は感心して訊いてみた。

「美代さん、大勢で台所に立つの、上手だね?」
「うちで母や祖母や、姉と一緒に台所するから。それに、農協のイベントでもね、みんなで豚汁作ったりするの、」
「あ、それで、馴れているんだね、」

なるほどねと納得して周太は頷いた。
母も感心そうに頷いて、愉しげに微笑んだ。

「美代ちゃん、本当にお料理、とても上手ね?光一くんも、お料理が上手だったけれど、」
「あ、光ちゃんとは比べないで下さい、」

菜箸で和え物を混ぜながら、美代は軽く首を振って微笑んだ。
そして気恥ずかしげに笑いながら率直に美代は口を開いた。

「光ちゃんはですね、おばあさんが料理の達人なんです。それで、光ちゃんも本当に上手で。私は、そこまでじゃないんです、」
「あら、とっても美代ちゃん、上手だと思うな?それに周に、味噌の作り方も教えてくれたでしょう?」
「あ、恥ずかしいですね?でも、褒めてくれて嬉しいです、」

楽しそうに2人は話しながら手を動かしていく。
こんなふうに複数で台所に立つのも楽しくて良いな?微笑んで周太は、オーブンにハーブチキンをセットした。
これをメインにして、和洋折衷の献立を考えてある。

…美代さんも、お母さんも、気に入ってくれるといいな?

今夜が楽しくなると良いな。
そんな想いで仕度を進めて、19時半過ぎに皆でダイニングに座った。
冷やした白ワインをグラスに注いで、食事を始めると美代が嬉しそうに笑ってくれた。

「おいしい、それに、きれいな盛りつけね?すごいね、湯原くん。レストランで出せるね?」

素直に感心して美代が褒めてくれる。
こんなに喜んでもらえると嬉しい、気恥ずかしさと嬉しさに周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう。美代さんのも、すごく美味しいね?」
「ありがとう、でも私の料理って、田舎のおばあちゃんって感じで。湯原くんのは、おしゃれだし、プロみたい、」

照れながらも美代は微笑んで褒めてくれる。
そんな美代に笑いかけて、母は嬉しそうに口を開いた。

「でしょう?周はね、ほんとに上手なの。きっと主人に似てるのね、」
「おじさまも、お料理をされたんですか?」
「ええ、もうね?ほんとに、プロ級だったの、」

楽しそうに答えながら母は、ワインをひとくち飲んだ。
一緒にワインを飲んだ美代に笑いかけて、母は話し始めた。

「初めて主人に食事を作って貰った時、私ね?『仕出し屋さんを頼んだの?』って訊いちゃったの。
そうしたら主人は、自分が作ったんですけれど、って真赤に恥ずかしがって。それで私、すごく困ってしまったの、」

「どうして困ったんですか?」
「ん、お母さん、なんで困ったの?」

ふたり同時に訊いてしまった。
なんだか楽しくて可笑しい、周太と美代は顔を見合わせて笑いだした。
そんな周太と美代に母も楽しげに笑った。

「なんだか本当に、ふたりは雰囲気が似てるね?英二くんにも聴いていたけど、双子みたい、」
「あ、宮田くん、私のことも話したんですか?」

英二の名前に、ちょっと恥ずかしげに美代は微笑んだ。
きっと英二になんて言われているのか、気になるんだろうな?
そう見た先で母は楽しそうに微笑んで、率直に言ってくれた。

「はい、話してくれました。英二くんね、聡明で可愛い子で、周太の一番の友達です、って教えてくれたの。
ほんとうに英二くんが言った通りだな、って私も思って。周もね、英二くんと一緒にいるより、楽しいなって時があるんでしょう?」

母の言うとおりだと自分で思う。
素直に周太は微笑んだ。

「ん、楽しいね?…いちばん幸せなのは英二との時間だけど、楽しいのはね、美代さんと植物の話する時、だよ?」

もちろん英二と一緒の時間は、いちばん幸せで何ものにも代えられない。
けれど、大好きなことを一緒に楽しめる友人との時間は、やっぱり楽しい。
だから今日の大学での時間は、本当に楽しかった。

…あ、お母さんに訊かないと?

大切なことを思い出した。
申込み期限も迫っていることだから、今すぐ訊いた方が良いだろう。
周太はすこし姿勢を正した。

「あのね、お母さん?今日、大学で講義をしてくれた先生からね、公開講座を薦めて貰ったんだ。
週1回で1年間かけての講座でね…来れる時だけで良いからって、先生が言ってくれて。出来れば俺、受講したいんだけど、どうかな?」

なんて答えてくれるかな?
そう思いながら言い終えた周太に、母は即答してくれた。

「行きなさい、周太」

答えて母は、心から嬉しそうに微笑んでくれる。
ほんとうに嬉しそうに綺麗な笑顔で、母は言祝いでくれた。

「本当はね、お父さんは、周を学者にしたかったでしょう?だから周が大学に通うことを、きっと喜ぶわ。
ぜひ、行きなさい。本当に大好きな植物のことを、きちんと勉強して、もっと好きになったら。きっと周の役に立つはずよ?」

自分が好きなことで、父が喜んでくれたら本当に嬉しい。
そして母が言うのだから、きっと本当に父も喜んでくれるのだろう。
うれしくて微笑んで、周太は素直に頷いた。

「ありがとう、お母さん。あと、英二に訊いてみるね、」
「そうね、英二くんには相談して、決めた方が良いね?今、電話してきても良いよ?」

食事中でも中座を薦めてくれる。
それくらいに大切なことだと母は、考えてくれているのだろう。
この薦めに従おう、すこし気恥ずかしく思いながら周太は美代に笑いかけた。

「中座して、ごめんね?ちょっと電話してくるね、」
「うん、早く相談してきて?きっとOKだと思うな、それで一緒に通おうね?」
「ん、ありがとう、」

美代も同じ申込書を貰ってきた、そして一緒に通えたら計画がある。
この計画を是非、実行して美代の手助けをしたいな?
そう思いながら周太は、着信履歴から通話を繋いだ。

「周太、なにかあったの?」

コール1ですぐ出てくれた向こうが、すこしざわついている。
たぶん夕食で寮の食堂に居るのだろう、申し訳ないと思いながら周太は頷いた。

「ん…夕飯の時間に、ごめんね、英二?」
「周太の電話なら、いつでも嬉しいよ、」

きれいな低い声が笑いかけてくれる。
きっと今、大好きな笑顔が電話の向こう咲いているだろう。
きれいな笑顔を心に見つめながら、周太は口を開いた。

「あのね、英二?今日、美代さんと大学の講義に行ったでしょう?」
「うん、あの本をくれた先生の講義だよな?」

おだやかな低い声が優しく訊いてくれる。
きちんと覚えてくれている事が嬉しい、うれしい想いに頷きながら周太は続けた。

「ん、そう…その、青木先生からね、週1回の公開講座を薦めて貰ったんだ。4月の終わりから1年間で。
来られる時だけで良いからおいでって、好きな事の学問をしませんか?って声かけてくれて…行ってみたいんだけど、どうかな?」

なんて英二は答えてくれるだろう?
ほんの少しの不安を想った周太に、きれいな低い声が嬉しそうに言ってくれた。

「行ってみなよ、周太?」

賛成で即答してくれた。
この即答が嬉しいな?微笑んで周太は訊いてみた。

「いいの?」
「うん、もちろんだよ。お母さんも喜んだだろ?」
「ん、喜んでくれたよ、すごく…お父さんも、喜んでくれるって言ってくれて、」
「俺も、そう思うな?きっとね、お父さんは本当に喜んでくれるよ、」

やさしい笑顔の気配が楽しそうに伝わってくる。
うれしい気持ちでいると、英二は考えを言ってくれた。

「ちいさい頃から好きなことを、憧れの樹医から教えて貰えるんだろ?きっと楽しいよ、それに、周太の夢に繋がるかもしれない」
「ほんと?…英二、本当にそう思う?」
「うん、そう思うよ?そうしたら『いつか』の時には、その夢に周太は生きられるだろ?そんな周太の姿を、俺は見たい、」

きれいな低い声が贈ってくれる言葉が、うれしい。
こんなふうに賛成して貰えることは、当たり前じゃないだろう。

…美代さんは、大学受験自体が、反対されているんだ

さっきの電話で美代も公開講座の受講は許しを貰った、けれど大学への入学は反対されている。
そんな美代が本格的に学問を始めるためには、両親家族の理解を得ることが難しいだろう。
けれど自分は、母にも婚約者にも学問の道を賛成して貰った。
この賛成は当たり前のことじゃない、この感謝を心に見つめて周太は微笑んだ。

「ありがとう、英二、」

心からの感謝に周太は、きれいに笑った。



食事と風呂を済ませると、周太と美代は屋根裏部屋に上がった。
梯子階段を昇り、フロアーランプを点けるとオレンジの光に白とベージュの部屋が浮きあがる。
嬉しそう天窓の星空を見あげた明るい目は、心から楽しげに微笑んだ。

「すてきね、天窓のある屋根裏部屋って、憧れなの、」
「ん、ありがとう。美代さんの部屋も、素敵だったよ?」
「ありがとうね、あ、この子が小十郎?」

ロッキングチェアーの住人に気がついて、美代が訊いてくれる。
ちょっと恥ずかしいなと思いながらも、周太はテディベアを抱き上げた。

「ん、そう…俺のね、宝物なんだ、」
「お父さんの身代わりさん、ね?ほんとに可愛いクマさん。こんばんは、小十郎くん、」

嬉しそうに美代は「小十郎」の頭を撫でてくれる。
美代にもこの不思議なテディベアのことは前に話して「すてきね」と言ってもらった。
こんなふうに褒めて貰えると嬉しくて、それでも、やっぱり23歳の男としては気恥ずかしい。
さすがに照れちゃうな?首筋を赤くしながら宝物を椅子に座らせると、周太は書棚の前に立った。

「美代さん、これがね、俺が受験の時に使った、テキストなんだ…5年前のだけど、参考に、」
「あ、うれしい。見せて貰っていい?」
「ん、もちろん、」

受けとって美代はページを繰っていく。
楽しそうに眺めながら、美代は頷いた。

「うん、このテキスト解かりやすいね?湯原くんは、化学と物理だった?」
「ん、工学部だったから、その2つの方が大学に入って役に立つかな、って…美代さんは、生物と化学にする?」
「そうしたいな、物理より生物の方がずっと得意だったし…ね、生物も、教えて貰える?」
「ん、大丈夫だと思うよ?でも、美代さんの方が生物は得意じゃないのかな、」

話しながらテキストを引っ張り出すと、ライトを消して梯子階段を降りた。
そして周太の机にテキストを広げると、向い合せに座って1冊ずつ眺めはじめた。

「美代さん、苦手な科目ってある?」
「社会科目が、ちょっと苦手なの。湯原くんは、地理で受験したのね、」
「ん、そう。理科Ⅱ類だったら、社会科目はセンター試験だけで2次には無いから、大丈夫。マークシートだし、」

さっき家のパソコンでダウンロードした資料と赤本を見て、周太は微笑んだ。
美代も一緒に募集要項を見て、頷きながら答えてくれる。

「それなら頑張れそう。ね、私も地理にしようかな?今後を考えると、地形とか解かっている方が役に立つよね、」
「そうだね?目標が森林科学だと、地形や気候の知識は必要だよね…じゃあ、受験科目は、これで決まりかな?」
「うん、ありがとう、」

嬉しそうに笑って美代は、メモ帳に受験科目やテキストの出版社を書いていく。
メモを終えると、ほっと笑って美代は訊いてくれた。

「ね、テキスト買うの、明日つきあってもらえる?」
「ん、いいよ。俺も、明日は新宿に戻るから…あ、今、ちょっと問題を解いてみる?苦手が解かると、テキストも決めやすいから」
「それいい考えね、やってみる。あ、問題解いている間、よかったら宮田くんに、メールとかしてきて?」

こんなふうに美代は、いつも英二と周太が恋人だと言うことを優先してくれる。
たしかに美代も英二が好きでいる、けれど互いに英二のことを遠慮はしないと2人で決めた。
だから今も素直に頷こう、周太は笑って席を立った。

「ありがとう、ちょっとメールだけしてくるね?…じゃあ、数学からがいいかな?この模試を解いてみてね、計算用紙、これね?」
「はい、先生。解きます、」
「…先生っていうのは、恥ずかしいよ?」

そんな会話に笑いあうと、周太は屋根裏部屋に1人あがった。
フロアーライトを点けて、ロッキングチェアーに座りこむ。
クマの「小十郎」を膝に乗せて、周太はメールを作り始めた。

T o :宮田英二
subject: 今から
本 文 : いま飲み会かな?こちらは美代さんと勉強会です。
    雪で帰れないのは驚いたけれど、美代さんに遊びに来てもらえて楽しいよ。
    明日は一緒に新宿に出て、本屋と公園に行く予定です。

「…こんなんで、いいかな?」

文面を眺めて微笑むと、周太は送信ボタンを押した。
すこし部屋着の袖を捲ってクライマーウォッチを見ると、21:54と表示されている。
あの模試を解くには30分はかかるだろう。すこし間をおいて戻る方が、美代も集中できて良いかもしれない。

「…ん、ちょっと、のんびりして行こうかな?」

ちいさく微笑んで立ち上がると「小十郎」を戻して、ふるい木製のトランクの前に座りこんだ。
蓋の鍵を外して開くと、木箱が2つと父の時計ケース、それから植物採集帳が数冊入っている。
その採集帳の一番上に乗せた封筒を手にとって、カードを取出すとそっと開いた。

 “花によせる贈り主さまのメッセージ”
 
 “あなただけが、自分の真実も想いも知っている
 そんなあなただから、心から尊敬し友情を想い真剣に愛してしまった
 この純粋な情熱のまま、あなただけが欲しい。あなたの愛を信じたい。
 純粋で美しい瞳のあなたに相応しいのは自分だけ、どうか変わらぬ愛と純潔の約束を交わしてほしい
 毎夜に愛し吐息を交して、どうか毎朝に花嫁として、あなたを見つめたい
 だから約束する「あなたを愛していると最高峰から永遠に告げていく」すべてに負けない心を信じてほしい“

「…最高峰から、永遠に…」

つぶやいた言葉に周太は微笑んだ。
この婚約申込の花束に寄せたカード通りに、いつも英二は山頂の写真をメールで送ってくれる。
そんなふうに夢に輝く姿を魅せてくれるのは、恋人として嬉しくて幸せになってしまう。
それでも、同じ男としては本当は、小さな嫉妬も想っていた。
けれどこの嫉妬も、もう消えるかもしれない。

「ね、英二…俺も、好きなことを一生懸命してみるね?」

警察官として勤務しながら大学で学ぶ。
週1回の講義だけれどシフト都合で欠席も多くなるだろう、そのうえ本配属となれば尚更に解からない。
そうした条件で講義に付いていくには、独学の努力も大きく必要になる。
きっと本配属先では訓練も過酷になる、通常業務も神経を使うだろう。そんな中で学ぶことは決して容易ではない。

それでも、やってみたい。
この自分にも夢が見つけられる可能性があるのなら、挑戦したい。
自分も英二の様に夢に輝けたなら、男として人として、どんなに誇らしいだろう?
その誇りの前にはもう、小さな嫉妬など解けて消えていく。もう今ですら嬉しくて、嫉妬はどこかに消えている。
なんだか嬉しいな?そんな想いでカードをしまったとき、携帯がポケットで振動した。

「…英二、かな?」

予想と一緒に携帯を開いて見る。
その送信人名は予想通りに嬉しい、微笑んで周太は受信ボックスを開いた。

From :宮田英二
subject: 逢いたいよ
本 文 : いま1本目のビールが飲み終わるところだよ。
    勉強会は今日の講義の復習かな、周太の部屋でしているの?
    明日も楽しんでね。俺は明日は通常業務です。
    いまも周太に逢いたいよ、ちょっと俺は危ない人みたい。

「…なにが危ないのかな?」

よく解らないな?
不思議に想いながら眺めて、周太はトランクの蓋を閉じた。
そうして携帯を持って首傾げながらフロアーランプを消すと、梯子階段を降りて行った。

「あ、ちょうどいい所に戻ってくれた、」

美代が嬉しそうに笑いかけてくれる。
母から借りた部屋着姿でデスクに向かっている美代は受験生らしくて微笑ましい。
なんだか様になるな?そう思いながら微笑んだ周太に、美代は模試の答案を渡してくれた。

「いちおう全部解きました。ね、採点ほか、お願いできる?」
「ん、もちろん…早かったね、」

答えながら周太は、次に化学の模試を美代に示した。

「これを解いてみてね?その間に数学を見ておくから、」
「はい、よろしくお願いします、」

素直に頷いて美代は問題を解きはじめてくれる。
周太は赤ペンを持つと、数学の採点を始めた。



ひと通りの勉強が終わったのは、午前0時半を過ぎた頃だった。
お互いに頭をフル稼働させた疲れがある、けれど満足にふたりで笑いあった。

「美代さん、やっぱり頭良いんだね?…今これだけ出来たら、十分に来年の1月には間に合うと思うな、」
「ほんと?うれしい…ね、夢みたい、私が、大学に行けるかもしれないなんて、」

心から嬉しそうに美代が笑ってくれる。
きっと大学で学べる可能性が幸せで嬉しいのだろう、友達の笑顔を嬉しく見ながら、周太は美代の発言に軽く修正をした。

「美代さんは、東大に受かる可能性が大きい、ってことだよ?」
「…ほんとに?…森林科学専攻、行けるかな?」

すこし心もとなげに、けれど期待もこめて訊いてくれる。
周太は想ったとおりに頷いた。

「ん、このまま勉強して行けば。ね、青木先生にも言われたでしょ?挑戦前に諦めたらダメ、って」
「うん、」

―…君が、東大に入るんです。そして、よかったら私の研究室に入ってください。挑戦前に諦めたら、ダメですよ?

青木樹医は美代にそう笑いかけて、青い本に詞書を寄せてくれた。
書いてくれたあと青木樹医は「恥ずかしいから帰ってから読んで下さい」と微笑んだから、研究室では読んでいない。
あの詞書を美代は、もう読んだのだろうか?周太は美代に訊いてみた。

「美代さん、先生、なんて書いてくれたの?」
「私もね、まだ読んでみていないの。湯原くんと、一緒に読もうって思って、」

美代は幸せそうに微笑んで、鞄から青い本を出してきた。
青い分厚い本を大切そうにデスクに載せると、そっと美代は表紙を開いた。


 扉の前に立つ君へ

 いま君は道の入口に立ちました。
 その道は険しく思えるかもしれない、超えられないと立ち止まるかもしれない。
 それでも思い切って超えたなら、大きくなった君を見つけられるはずです。
 なにごとも結果は大切でしょう、けれど、それ以上に大切なことは道に立つ勇気です。
 成ろうと成るまいと、信じて夢に向かい努力を続けていく。
 その勇気こそが学問を志す者の資質であり、心大きな人の道です。
 挑戦を始め、続けていく。
 この勇気を見つめるかぎり、君の夢は君と共に歩き続け、君の人生は豊穣の時に織りなされるでしょう。
 どうか君の夢に誇りを持ち続けて下さい、勇敢な学徒こそが学問に誇りを築くのだから。
 君が、豊かなる学問と人生を拓かれることを祈ります。       樹医 青木真彦


「…ん、すてきだね、美代さん?」

ほっと溜息吐いて周太は微笑んだ。

「なろうとなるまいと、信じて、続けていく、勇気…すてきだね、」

モンブラン万年筆が綴った言葉が周太の心にも沁みていく。
あの樹医に学問を教わったら、きっと「豊穣の時」だろうな。
そんな想いと見つめる周太に、可愛らしい声が言ってくれた。

「ね、私、精一杯、頑張ってみたいな、」

きれいな明るい目が笑いかけてくれる。
幸せに笑う目は強い意志と、そして一滴涙あふれた。

「私ね、本気で力いっぱい努力したこと、無いの。いつもね…親に言われた通りに、しちゃってたの、」

きれいなアーモンド形の目から涙がこぼれる。
可愛らしい笑顔のままに泣いて、美代は話してくれた。

「言われるまま農業高校に入って、お父さんが決めた通りに農協に就職して。どれもね、嫌じゃないの、どれも楽しいの。
でもね…自分で自分のこと、選んでみたい、って今、本気で想えるの。だから、私、絶対に、諦めたくないな、頑張りたいな、」

強い意志あかるい目が、周太を真直ぐ見つめてくれる。
ひとつ呼吸して、美代はきれいに笑った。

「私、東大の理科Ⅱ類に合格する。そして農学部に進んで、森林科学専攻に行きます。私の夢を本気で、自分で掴みに行くね、」

きれいな明るい目から、きらきら涙がこぼれていく。
綺麗で、落ちるのが勿体なくて、そっと周太の掌は美代の頬を拭った。

「ん、…本気で想えるのって、嬉しいね?」
「うん、いま、すごく嬉しいの…あのね、ほんとのこと、言って良い?」
「ん、」

なにを言ってくれるのかな?
そう見つめて掌をおろした周太に、可愛らしい声は恥ずかしそうに教えてくれた。

「あのね、ほんとのこと言うとね。私、光ちゃんがずっと羨ましかったの。いつも自由で、夢を追って好きなことして。
いいなあ、楽しそうだなあって…そういう羨ましくて見惚れる気持ちをね、恋なのかな?って勘違いしていたの…ね、私って馬鹿ね?」

恥ずかしげに美代の頬が赤くなっていく。
美代は女性だけれど、周太と同じ気持ちを抱いている。その連帯感がなんだか嬉しい。
しかも「羨望」と「恋」を混濁した所が純粋な美代らしい、周太は納得しながら微笑んだ。

「ばかとか思わないよ?羨ましくて見惚れる、って俺は解かるから…俺もね、いつも見惚れるから、」

素直な想いが言葉になってくれる。
そんな周太に美代は、嬉しそうに笑ってくれた。

「ほんと?…宮田くんとか、光ちゃんとか?」
「ん、そうだよ?同じ男としてね、夢があって、仕事に誇りを持てるのは、羨ましいなって…英二にはね、恋と一緒にあるんだ、」

すこし言葉を切って周太は微笑んだ。
こんなことは男として、どこか悔しいから人にあまり話せない。だから吉村医師や青木樹医にしか話していない。
けれど今、美代には素直に話せてしまう。
きっと美代から本音を教えてくれたからだろうな?周太は正直に想いを話した。

「同じ男だからね、余計に比べちゃうんだ。とくに英二や光一はね、体も男らしくて大きいでしょ?
俺、体が小さいから…体格も、ひけ目になってて…でも、夢とか誇りは心のことだから、体が小さくても大きく出来るよね?
だから、俺も夢を見つけに、青木先生の講義に行こうって…週1回も通えないかもしれないけれど、頑張りたいな、って考えてる、」

話しを聴いてくれる美代の目から、また涙がこぼれていく。
明るい泣き顔のまま、そっと指で涙拭うと美代は笑ってくれた。

「私たち、同じね…私たち、同士ね?私たち、協力しあえるね?」

涙拭いながら、明るい笑顔が花咲いていく。
こういう「同じ」は嬉しい、周太は笑いかけた。

「ん、同じだね?協力し合って、一緒に勉強しよう?」
「うん、ありがとう。頼りにしています、」

嬉しそうに笑って周太に言ってくれる。
すこし困ったよう、けれど、悪戯っ子に美代の目が微笑んだ。

「私、本当に味方は湯原くんだけなの。受験のこと、職場でも言えないし、友達も無理なの、」
「あ…みんな、家の人と親しいから?」
「そうなの。もうね、誰が何したとか筒抜けちゃうの、田舎って。みんな親戚だったりするから、」
「そういうものなんだ、」

それでは誰にも言えないだろうな?
けれど周太のことは信頼して、美代は話してくれた。
この信頼がうれしい、きれいに周太は美代に笑いかけた。

「絶対に、誰にも言わないよ?そして、美代さんの夢の、協力をする。だから俺もね、なるべく公開講座に出席するね、」
「うん、」

嬉しそうに美代が笑ってくれる。
笑いながら周太の手をとると、指切りげんまんをしてくれた。

「一緒に出席してね?そして講義の前後に、私の受験勉強を見て下さい。よろしくお願いします、」
「ん、約束だね?…電話とかで訊いてくれても、良いからね?」

協力して、夢を追う。
夢のパートナーになる約束を結んで、ふたり春雪の夜に笑いあった。




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