Mont Blanc 最高峰の夢に立って
第42話 雪寮act.2―another,side story「陽はまた昇る」
講堂の窓からは白銀のキャンパスがまばゆい。
満席の講義が終わり、退席していく人波を周太と美代は、のんびり座ったまま眺めて余韻を楽しんだ。
「ね、このあと売店に寄ってもいい?」
「ん、いいよ?」
何か買うのかな?
そう首をかしげた周太に美代は教えてくれた。
「あのね、湯原くんの宝箱を、私もほしくなったの」
「あ、この本?」
ブックバンドにいま綴じたばがりの本に周太は微笑んだ。
今日の講義テキストになると思って持ってきたけれど、やはり参考になって良かった。
これを買うということは、美代も講義は楽しかったかな?うれしくて周太は聴いてみた。
「美代さんも、青木先生の講義は楽しかったの?」
「うん、すごく」
答えた美代の目が明るく輝いた。
この顔だけで楽しかったことが解るな?そう見た笑顔は楽しげに話し始めた。
「水源林は、よく知っている場所でしょう?知っている所の知らないことを教わるのは、楽しいね?
しかも樹医の先生でしょう?実際に木に触れて向き合ってる方ならでは、って感じの実例が多くて、説得力もあるし解りやすかったの、」
本当にその通りだと自分も思った。
同じように友達が感じたことが嬉しい、うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、俺もそう思ったよ?実践的っていいよね…実際の木が出てくると、解りやすいよね」
「ね、こんど水源林に行ってみない?今日の資料と合わせて見たら、楽しいと思うの、」
「いいな、フィールドワークだね?すごく楽しそう…4月だと雪があるかな?」
「場所によっては残っているかも?でも雪解け水の頃に見るの、魅力的よね?」
今日の講義内容とフィールドワークの話題が楽しい。
なによりも本当に興味のある事を、心から一緒に楽しめる友達の存在が嬉しい。
お互い嬉しくて、つい楽しい会話が弾んでいると愉快そうな声が掛けられた。
「やっぱり、君でしたね?」
ふたり揃って顔上げると、眼鏡をかけた笑顔が愉しげにたたずんでいる。
驚いて、けれど嬉しくて周太は立ち上がると頭を下げた。
「お久しぶりです、青木先生。今日は、ありがとうございました」
「お久しぶりです。今日はようこそ、」
落ち着いて快活なトーンで答えてくれる。
一緒に立って礼をした美代にも笑いかけながら、青木樹医は可笑しそうに笑った。
「講堂をね?掃除してくださる方から言われて、見に来たんです。
講義のことを話している高校生がまだ残っている、とても楽しそうで邪魔するのも可哀想だから、そっとしてきたけれど、って聴いて、」
また高校生に間違われたな?
ふたり思わず顔を見合わせて、少し笑いながら時計を見ると16時になっている。
「…もう、4時?」
講義終了から30分も話し込んでいた。
いつのまに時間が経っていたのだろう?驚いて周太と美代はコートと鞄を抱えた。
「遅くまで、すみませんでした、」
「いや、いいんだよ?そんなに楽しんで貰えて、私は嬉しいんですから、」
気さくに笑って喜んでくれる。
それでも2人揃って恐縮していると、青木樹医は笑顔で提案してくれた。
「お時間ありますか?もし、ご迷惑でなければ私の研究室で、お茶をいかがでしょう?狭いところで申し訳ないのですが、」
「はい、おじゃまします」
可愛らしい声が即答して周太はびっくりした。
驚いて隣を見ると、すこし顔赤らめた美代は弁解に微笑んだ。
「でしゃばってごめんなさい、でも樹医の先生と直接お話してみたくて。千載一遇のチャンスだ、って飛び付いちゃいました、」
「そんなふうに言われると、照れますね?」
青木樹医も愉しげに笑ってくれる。その顔がすこし紅潮しているのが、なんだか周太は嬉しくなった。
いつも自分は赤くなりやすくて困っているけれど、憧れの樹医と一緒なら悪くないな?
そんな嬉しい気持ちで周太は、美代と一緒に青木樹医の研究室に向かった。
『森林科学専攻 准教授 青木真彦』
扉のネームプレートに周太は、おや?と気が付いた。
12月にもらった名刺や公開講義の案内書は、確か『講師』になっている。
勧められた椅子に座ると、周太は聞いてみた。
「青木先生は、准教授だったのですか?」
「はい、正式には明後日からですけど、」
すこし気恥ずかしげに笑って青木樹医は答えてくれる。
明後日からなら新年度4月から新任なのだろう、納得をして周太は祝辞と微笑んだ。
「そうだったんですね?おめでとうございます、」
このひとは教師としても立派だろうな?
そんな想いと笑いかけた青木樹医は気羞かしげに赤らめた首を撫でた。
「ありがとうございます。私の恩師が今年で退官されて、まあ、代打なんですけどね」
照れた微笑で答えてくれながら、青木樹医は戸棚をさがしている。
すぐに見つけた急須を手に取ると、照れくさげに教えてくれた。
「その穴埋めで4月から、正式に講座を担当させて頂くんです。それで研究室も引き継いだばかりで、」
言われて見れば、まだ引っ越したばかりの雰囲気がある。
それでも片付けが行き届いた様子に、青木樹医の端正な実直さが偲ばれた。
学者は変わっている人も多いけれど、この先生はきちんとしているんだな?
そんな感想と一緒に周太は立ちあがると申し出た。
「あの、よろしかったら僕に、お茶を淹れさせて頂けますか?」
「そんな、申し訳ないです。私の方から、お招きしたのに、」
すこし驚いたよう眼鏡の奥で微笑んで、遠慮をしてくれる。
けれど可愛らしい声で美代が勧めてくれた。
「青木先生、湯原くんが淹れたお茶は、美味しいんです。よかったら、召し上がってみませんか?」
「そうなんですか?じゃあ、せっかくですから、お願いできますか?」
素直に微笑んで青木樹医はお願いしてくれる。
ちょっと気恥ずかしいけれど、うれしくて周太は頷いた。
「はい、お口に合うか不安ですけど、淹れさせて頂きますね」
研究室の小さな流し台を借りると、周太は茶を淹れた。
茶葉の種類は玉露らしい、この茶に電気ポットの湯は熱すぎてしまう。
ポットの湯を湯呑に汲んで少し冷ましてから、温めた急須にいれた茶葉へと注いでいく。
なるべく空気が湯に入るよう注いで、蓋をして少し蒸らす。そうして並べた湯呑に順繰りに淹れていった。
そうして3つの湯呑に淹れ終わると、最後の一滴を淹れた茶を周太は青木樹医へ供した。
「あ、本当に美味しいですね、」
眼鏡の奥でおだやかな目が笑ってくれる。
うれしくて微笑んだ周太の隣から、美代が率直に褒めてくれた。
「でしょう?湯原くんは、コーヒーを淹れるのも上手なんです、」
「きっと、コーヒーもすごく美味しいのでしょうね、」
「はい、とても美味しいです。お茶菓子がより、おいしくなります、」
素直に賞賛してくれる青木樹医に、美代が嬉しそうに言ってくれる。
そんなに褒められると気恥ずかしいな?ちょっと首筋が熱くなって困っていると、青木樹医が訊いてくれた。
「おふたりは雰囲気が似ていますね、ご親戚か、それとも恋人同士ですか?」
雰囲気が似ていることは、英二や光一にも言われている。
けれど恋人同士は照れてしまう、口を開こうとした隣から美代が明るく笑った。
「いちばんの友達同士です、恋人よりも大切かも知れません、」
「親友、ってところでしょうか?良いですね、いちばんの友達同士、ってお互い想い合えるのは、」
あかるい実直な笑顔が頷いて聴いてくれる。
やっぱり、この先生は良い教師でもあるんだな?嬉しいまま周太は微笑んだ。
「はい、友達、って嬉しいです…あ、」
答えかけて周太は大切な事に気がついた。
「先生、売店は4時半まで、でしたよね?」
「はい、そうですけど?」
青木樹医の答えに美代は、時計を見て慌てて立ち上がった。
鞄を持つと美代は青木樹医に頭を下げた。
「中座を申し訳ありません、ちょっと売店に行ってきます。湯原くん、ありがとう、」
そう言い置いて美代は、コートも着ないで廊下を走って行った。
今から走れば美代は間に合うだろうな?思いながら周太は青木樹医に笑いかけた。
「すみません、どうしても今日、ここの売店で買いたい本があるんです、」
「そうでしたか、お誘いして申し訳ありませんでしたね?」
「いいえ、それは美代さん…あ、小嶌さん本人が、先生にお会いしたくて楽しみだったんです、」
「彼女が私に?それは光栄ですね、とても照れますけれど、」
また首筋を赤らめながら、気恥ずかしげに青木樹医は微笑んでくれる。
どうもこの学者は本来、恥ずかしがり屋で赤面しやすい性質のようでいる。
自分と同じくらい恥ずかしがりなのかな?なんだか気が楽になって、言葉たちも素直に周太から出てきた。
「あの、先生。この本に書いてくださった言葉、ありがとうございました、」
「あ、それですね?お恥ずかしいです、」
周太の礼に照れくさがって、繊細な指の掌が首筋を撫でている。
ちょっと困ったように、それでも率直に青木樹医は言ってくれた。
「どうしても、お礼と気持ちをね、君に伝えたかったんです。それで、下手な文章で恥ずかしいけれど、書かせていただきました」
「いいえ、先生の文章に僕は、とても励まされたんです、」
自分も率直に気持ちを伝えたい。
この青い本を開いた時から考えていたことを、周太は正直に言葉にした。
「君が掌を救った事実には、生命の一環を救った真実があります。君に誇りを持ってください。
そう先生は書いて下さいました、この言葉のお蔭で僕は、警察官の道に初めて誇りを持てたんです…本当に励まして頂きました、」
本当に、うれしかった。
自分は、警察官の道は父への責任と義務に選んだ。
だから12月の痴漢冤罪の時も、事情聴取も義務と責任の1つとして臨んだ。
けれど、義務や責任で行ったことを「生命の一環を救った」と青木樹医は告げてくれた。
そして「君に誇りを持ってください」と言ってくれた。
自分が警察官の道を進むことは、生命を絶つ義務を負うことになるだろう。
この義務は、他の生命を守るために必要なことかもしれない。
それでも、罪は罪。
どんな理由があっても、法で許されても、罪は変わらない。
自分が一番それを知っている。そんな自分の道には誇りを持てないままでいた。
そんな自分の道で、生命の一環を救うことが出来た。
それが自分にとって、心から嬉しくて、励ましになった。
「失礼だったら、すみません。もしかして君は、本当に望んで警察官になったのでは、無いのですか?」
眼鏡の奥から明るい誠実な目は、静かに訊いてくれる。
このひとは信じて話せる人だ、そう眼差しの深くから伝わってくる。
もちろん全ては話せないことばかり、けれど少しでも話してみたい。頷いて周太は微笑んだ。
「はい、…本当は、そうです。義務と責任で選んだ道なんです、だから…同じ警察官の友達のようには、想えないんです。
友達は皆それぞれの適性見つけて、警察官として誇りと夢を持っています。でも僕は何も出来ません、皆のような才能も無くて。
だから本当は、夢や誇りの為に努力する友達に、僕は嫉妬してきました。責任や義務では無い努力が、羨ましかったんです、」
英二のように強靭な体力も精神力も自分には無い。
光一のような鋭敏な頭脳も技術力も、自分には無い。
そして瀬尾のような、懐深く冷静な洞察力も自分には無い。
3人とも天性の才能がある、それに努力を積んでいる。
この努力は夢と誇りのために積んだ明るい努力でいる、けれど自分の努力は義務感と責任だけで積んだ。
父の唯ひとりの息子という誇りはあっても、自分自身で見つけた夢の誇りは、何もなかった。
それが今は樹医の言葉によって、1つの誇りに努力を繋いでもらうことが出来た。
「自分の夢や誇りに胸張って努力できる、そういう姿が眩しくて、ずっと羨んで…それが苦しかったんです。
けれど、先生の言葉に僕は出会えました。そのお蔭で僕の努力も、義務と責任だけから、誇りへと繋げて貰えました。
だから僕も、警察官になったことに、少し胸が張れるようになったんです。もう嫉妬や、羨ましいとか、あまり感じません、」
こうしたことを誰かに話すことは、吉村医師以外では初めてだろう。
いま目の前にいる教師に会うのは3回目、それでも聴いてほしいと素直に話している。
これが不思議で、けれど当然の様にも想いながら周太は、青い本を抱きしめて笑った。
「青木先生。先生は僕が先生の掌を救った事実には、生命の一環を救った真実がある、そう仰って下さいましたね?同じなんです、」
ひとりの掌を救ってくれた君へ
樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています。
そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています。
この本には樹木と水に廻る生命の連鎖が記されています、この一環を担うため樹医の掌は生きています。
いまこれを記すこの掌は小さい、けれど君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります。
この掌を君が救ってくれた、この事実にこもる真実の姿と想いを伝えたくて、この本を贈ります。
この掌を信じてくれた君の行いと心に、心から感謝します。どうか君に誇りを持ってください。
青木樹医が贈ってくれた青い本『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』によせてくれた詞書。
この励ましから気がついて、自分も警察官としての道に誇りを見つけられた。
警察官として「父がいた世界のレスキューをする」この誇りを見つけれられた。
もし、この詞書に自分が出会えなかったら、あのまま誇りも希望も見出せなかったら?
きっと、父の世界に蹲る精神破綻に自分は、容易く掴まえられた。
「同じように、先生の言葉が僕を救った事実があるんです。僕をめぐる命と心の連鎖、この一環を先生は担って下さいました。
『樹木と水に廻る生命の連鎖、この一環を担うため樹医の掌は生きている』この通りに…だから、僕は先生の言葉は真実だと思います、」
父の世界に立ち、傷つき斃れた同僚を援け、父の世界でレスキューを務める。
山岳レスキューとして山の生命と尊厳を守っていく英二、その姿を自分も追って、父の任務と志を繋ぐ人の援けをする。
そうして人の生命と尊厳を守っていく誇りに、自分は生きる。
この誇りを抱いた自分の心には、一本の強い芯が打建てられた。
この誇らかな心の柱に支えられて、自分は生き抜くことが出来る。そして自分の周囲を救けることも出来るはず。
そうして自分と自分をめぐる生命と尊厳を、守り繋ぐ軌跡を自分は描くことが出来る。
…先生の詞書から、大切なヒントを見つけたんだ、大切な恩人なんだ、
この詞書に自分は「生命」と「軌跡」を見つめた。
この見つめ考えたことを、周太は大切な恩人へと告げた。
「先生は、この本を僕に贈って下さいました。この本には樹木の生命と、年月の記憶の軌跡が書かれています。
けれど僕にとっては、心の生命と軌跡も記されていました。この本は僕の宝です…先生、本当に、ありがとうございました」
ずっと告げたかった想いを言えた。
伝えらえて嬉しい、微笑んだ周太の瞳から、ふっと一筋の涙がこぼれた。
「湯原くん、と仰るんですよね?」
真直ぐな深い瞳が、優しく問いかけてくれる。
そっと涙を拭いながら素直に頷いた周太に、青木樹医は嬉しそうに微笑んだ。
「湯原くん、私の方こそ君に会えたことが宝です。なぜならね、君は私の樹医としての心を受けとってくれました。
これは学徒としても、教師としても、なによりも嬉しいことです。だから、私から君に、ひとつ提案させてください、」
この樹医の提案なら、ぜひ聞かせてほしい。
提案を貰えることが嬉しくて素直に周太は頷いた。
「はい、なんでしょうか?」
「ちょっと待ってくださいね、…あ、これです、」
青木樹医はデスクからファイルを出すと、1枚のプリントを出した。
それを周太に手渡しながら、頼もしい快活な笑顔で言ってくれた。
「私の公開講義の申込書です、こちらは1年を通しての受講になります。これを受講して、私の学生になりませんか?
警察官は忙しいから、全て受講することは難しいでしょう。だから来られる時だけで良いです、好きな学問をしてみませんか?」
週1回ペースの、1年間かけての講座。
実質的には聴講生扱いとして学生、費用は国立大だけあって無料同然になっている。
これなら警察官として勤務しながらでも、無理なく受講できるだろう。
…受けてみたい、でも、迷惑にならないかな
今日の公開講座も満席だったから、これも人気が高い講座だろう。
それを定期的に来られない自分が席を埋めても、良いのだろうか?
遠慮がちな想いと自分の望みのはざま、心でため息吐きながら周太は尋ねた。
「先生、ご提案は本当に嬉しいです。けれど、人気の講座ですよね?…ちゃんと来られない僕が席を埋めるのは、申し訳ないです」
今日の講義は本当に楽しかった。
だから本音は、1回だけでも受講できるチャンスがあれば、また聴いてみたい。
この本意を見つめた先で、眼鏡をかけた樹医は気さくに笑ってくれた。
「大丈夫、1枠だけ特設することにしますから。もし君に学びたい気持ちがあれば、遠慮はいりません、ぜひ来てください、」
「そんなにお気遣い頂いて…よろしいんでしょうか?」
この申し出は本当に嬉しい、もし学べたら楽しいに違いないと思う。
けれど迷惑ではないだろうか?そんな途惑いに佇んだ周太に、青木樹医は微笑んだ。
「義務で立った道で、誇りを見つけられた。それなら好きな事の学問で、君だけの夢が見つかるかもしれない。
私自身は無力で、何も出来ません。けれど、学問の力は強く広いと私は知っています。だから君を学問に導くことは出来ます。
君は私の恩人です、私に出来る恩返しはこれが一番だと思います。私で良かったら、夢を見つける手伝いをさせてくれませんか?」
この先生と、この樹医と、自分はもっと話してみたい、学びたい。
とくん、心を鼓動がノックして肚に起きる熱がある。
ゆるやかに起きあがって肚の底を温めて、ひろやかに心を明るく照らし出す。
この熱はなんだろう?
この初めての感覚は、何と言うのだろう?
この熱が心に大きく明りをくれる、そんな想いに微笑んで周太は頷いた。
「ご厚意、本当に、ありがとうございます。あの、家族に相談させて頂いても、よろしいですか?」
今日は非番だから、美代を見送った足で実家に帰ることになっている。
今夜にでも母に相談して、英二にも電話で訊いておきたい。
大切な家族のことを想う周太に、篤実な教師は嬉しそうに微笑んでくれた。
「もちろんです。ご家族に相談されるなんて、君は本当に誠実ですね?そういう誠実さは、学問にも樹医にも必要です、」
「そうなんですか?…うれしいです、なんだか、」
嬉しい気持ちと一緒に周太は、受講案内と申込書を眺めた。
奥多摩の森を中心にした講義内容は、きっと楽しいに違いない。
もしかしたらこの講義から、英二のブナの木についても大切な事を学べるかもしれない。
雲取山麓に隠れた、大きなブナの木。
その木の下は、英二の大切な憩いの場所になっている。
あの木を手助けできるヒントが見つけられたら、英二を喜ばせてあげられるかもしれない。
…ね、英二?俺にも、英二を援けることが、出来るかもしれないよ?
そう出来たら良いな?
うれしい幸せを見ながら周太は、鞄のファイルに書類を大切に仕舞いこんだ。
そんな周太に青木樹医は、嬉しそうに笑いかけてくれた。
「そんなに大切にしまってくれると、嬉しくなります。君は、本当に植物のことを学びたいんですね?」
「はい、ちいさい頃から花や木が、好きなんです。特に大きい木が好きで…だから、きちんと勉強できたら、嬉しいです」
「こういうふうに言ってくれる学生さんと、夢を一緒に探せたら、私も嬉しいです、」
実直で頼もしい快活な笑顔が、周太に楽しそうに話してくれる。
この樹医の山ヤと似た感じの篤実さは、どこか吉村医師と似ているかもしれない?
そんなふうに見ていると扉が軽やかにノックされて、美代が覗きこんだ。
「中座して、申し訳ありませんでした、」
軽く息を切らしている美代の笑顔は、頬が赤くそめあがっている。
きっと雪のなかを走ってきたのだろうな?
雪ん子のような友人の顔に周太は微笑んだ。
「美代さん、見つけられたんだ?」
「うん、あったの、よかった、」
嬉しそうに答えながら美代は、さっそく紙袋を開いている。
そして青い分厚い本を手にとると、両手で持って青木樹医に差し出した。
「あの、不躾ですみません。サインして頂けるでしょうか?」
気恥ずかしげに微笑みながら、きれいな明るい目は真直ぐに樹医を見つめている。
この申し出に困ったよう照れたよう、樹医の首筋が赤くなった。
「光栄ですね、私のサインなんて望んで頂いて、…とても、お恥ずかしいですが、」
照れて笑いながら青木樹医は、万年筆を胸ポケットから手にとった。
そして美代から本を受けとると、デスクにきちんと座って表紙裏を開いてくれる。
すこし考えるよう首傾げて、落着いたトーンの声が美代に尋ねた。
「小嶌さんも、植物のことが本当に好きみたいですね?失礼だったらすみません、学生さんでしょうか?」
「いいえ、JAの職員なんです、」
明るく笑って美代は、青木樹医に答えた。
「本当は大学に行きたかったんです、でも親に言えなくて、」
「そうでしたか、」
ほっと溜息吐くよう青木樹医が微笑んだ。
すこし考えて、それから一語ずつ確かめるよう、准教授は誠実に言葉を口にした。
「学びたい気持ちがあるのなら、いつからでも遅くないと、私は思います。これからでも受験を考えても、良いかもしれませんね?」
青木准教授の言葉に美代が、周太の方を見た。
計画を話していいと思う?そんなふうに明るい目が見つめてくれる。
こういう相談をされるのは嬉しい、周太は目で「いいと思うよ?」と頷いて微笑んだ。
その微笑に背中押されるよう、嬉しそうに美代は口を開いた。
「これは内緒なのですけれど。来年、受験する計画です。親は反対なので内緒で受けます、だから湯原くんだけが、私の味方です」
「そうなんですね、」
おだやかに深い目が愉しげに笑ってくれる。
愉快に頷いて、まだ40代の若い准教授は美代に言ってくれた。
「親御さんには申し訳ありませんが、学徒の私としては、とても愉快で嬉しい計画です。どうぞ、ここも受験してくださいね?」
「えっ、東大を私が、ですか?」
驚いて美代の目が大きくなった。
けれど周太としては、美代なら出来るんじゃないのかな、と思ってしまう。
ほんとうは周太自身が東京大学も十分に合格圏内だった、だから美代のレベルなら受験も容易いと推定出来てしまう。
受けてみたら良いのに?そんな想いで見ている先で、大らかに笑った青木樹医は万年筆のキャップを外した。
「はい。君が、東大に入るんです。そして、よかったら私の研究室に入ってください。挑戦前に諦めたら、ダメですよ?」
すこし悪戯っぽく青木樹医は、美代に笑いかけた。
そして、モンブラン万年筆の穂先は、夢への励ましを端正な筆跡に綴り始めた。
青木准教授の研究室を辞したのは、17時だった。
小雪舞うなかを地下鉄の駅へと歩きながら、美代は幸せそうに微笑んだ。
「すごい、嬉しかった、今日…ね、なんかもう、色々と夢みたいなの、」
「ん、俺もね、いっぱい嬉しかったな、」
美代の言葉に周太も素直に微笑んだ。
微笑んだ周太に美代は、すこし気恥ずかしそうに嬉しそうに笑ってくれた。
「東大の森林科学ってね、ほんとは憧れていたの。日本の森林科学の最高峰だし、樹木医のカリキュラムもあるし。
でもね、自分が受験するなんて、考えたことなかったの。遠い世界みたいに想ってて。だからね、さっき嬉しかったの、」
話してくれる美代の頬は、雪の冷気と楽しい余韻ですこし紅潮している。
この嬉しさは周太にはよく解る、自分も今日は通年講座の書類が嬉しかった。
「ん、遠い世界が近くなるって、ほんとに嬉しいよね?」
「ね?ほんと、うれしいね。私、頑張ってみようかな?」
心から明るい幸せに美代が笑ってくれる。
幸せそうな笑顔が見ていて嬉しい、今日は一緒に来れて本当に良かった。
けれど予定よりだいぶ遅い時間になっている、周太は美代に訊いてみた。
「この時間だと、もう御苑は閉まってるんだ。だから、今日はちょっと行けないけど、ごめんね?」
「ううん、御苑はまた今度行けるもの?でもね、青木先生の研究室は千載一遇のチャンスだった、でしょう?」
「ん、ほんとにそうだね?…あ、」
ふと周太は携帯の振動に立ち止まった。
ポケットから出して「ちょっとごめんね?」と断りを入れて開いて見る。
見た画面の発信人名に周太は微笑んだ。
「あ、お母さんからだ、」
今日はもう仕事が終わったのかな?
そう画面を見ていると美代が、笑って促してくれた。
「今日は、お家に帰るのよね?お買い物のお願いかも、早く出てあげて、」
「ん、ありがとう、」
素直に頷いて通話を繋ぐと、周太は携帯を耳に当てた。
「周?いま、どこにいるかな?」
「ん、今ね、東大を出て来たとこだよ?もうじき、湯島の駅だけど…」
「あのね、周。中央線が雪で、止まっているみたいなの、」
「え、…中央線、そうなの?」
驚いて周太は立ち止まった。
美代は中央線で奥多摩に帰るから、止まってしまうと帰れない。
困ったなと思っていると、母が電話のむこうで笑ってくれた。
「だからね、周?ご家族に許可を頂けるなら、うちで美代ちゃんに、泊まって貰ったらどうかな?」
それは楽しそうな提案だな?
庭の畑や木を見て貰えたら、きっと嬉しいだろうな?
そんな想いと微笑んで周太は母に訊きかえした。
「泊まって貰えたら、楽しそうだね?」
「ええ、きっと楽しいわ。お母さんもね、美代ちゃんと会ってみたいし。お誘いしてみてね、」
「ん、また決ったら、連絡するね?」
電話を切って隣を見ると、もう美代は携帯を手に持っている。
きっと会話で解かったんだろうな?そう見た周太に美代が携帯の画面を見せてくれた。
「ほんとね、中央線、ダメみたい。あっちは凄い雪なのね?」
英二は今日は週休、だけれど遭難通報があれば召集を受ける。
電車が止まるほどの雪、英二は大丈夫だろうか?心配を思いながらも周太は訊いてみた。
「あのね、母からなんだけど。良かったら、うちに泊まりに来てくださいって。美代さんに会ってみたいって、」
「ほんと?楽しそう、いいな、おじゃまして良い?」
嬉しそうに美代が笑ってくれる。
こんなに喜んでもらえるなら良かったな?微笑んで周太は頷いた。
「ん、もちろん。ご家族の許可をもらえるなら、どうぞ、って」
「それならね、まず大丈夫よ、きっと、」
言いながらも美代は、さっさと家に電話を架けた。
そしてすぐに会話が終わって、美代は可笑しそうに笑いだした。
「シッカリ泊めてもらいなさい、だって、」
「しっかり?」
どういう意味だろう?
そう見た先で美代は可笑しくて堪らないよう笑った。
「あのね?うちの人達、みんな湯原くんのこと、大好きなのよ。いまどき珍しい、上品で良い男の子さんだって。
それで皆してね?湯原くんを、私のお婿さんにしたくって仕方ないの。そういうわけで、泊めて貰うのは大歓迎なんだって、」
なんだかそういうのは恥ずかしいし困ってしまうな?
気恥ずかしく困惑したまま周太は、地下鉄の駅に歩きながら母に電話を架けた。
川崎に着いたのは18時だった。
本屋によって、それから少し買い物を済ませると家路を歩き出した。
雪に鎮まる住宅街は黄昏なずむ空気が優しい、灯り始めた街燈のなか美代が微笑んだ。
「こういうのが、住宅街、っていうのね?いろんなお家がいっぱいね、」
物珍しそうに美代は楽しく辺りを見回している。
奥多摩の農家に育った美代には、こうした景色は珍しいのだろう。
なんだか森の妖精が街に遊びに来たみたいだな?楽しくなって周太は微笑んだ。
「美代さん、明日の朝、すこし散歩してみる?」
「それ素敵ね?でも、こんなに珍しがってる私は、田舎者丸だしよね?」
可笑しそうに美代が笑ってくれる。
けれど、なんて答えたらいいのかな?すこし困りながら歩くうち、家の前に着いた。
ふるい木造門も雪化粧に輝いている、そっと門扉を開くと美代が嬉しそうに微笑んだ。
「雪の森ね?…花と雪、きれい、」
庭は白銀かがやく花々に埋もれていた。
雪の花に晴れ始めた空、銀月が掛かる庭は静謐が優しい。
雪を払ってくれてある飛石を踏んで玄関を開けると、美代は嬉しそうに微笑んだ。
「素敵、洋館なのね。湯原くん、王子さま?」
「ううん、家が古いだけだよ?」
こんなふうに言われると恥ずかしいな。
なんだか色々と困りながら、周太は玄関扉を閉めた。
(to be continued)
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第42話 雪寮act.2―another,side story「陽はまた昇る」
講堂の窓からは白銀のキャンパスがまばゆい。
満席の講義が終わり、退席していく人波を周太と美代は、のんびり座ったまま眺めて余韻を楽しんだ。
「ね、このあと売店に寄ってもいい?」
「ん、いいよ?」
何か買うのかな?
そう首をかしげた周太に美代は教えてくれた。
「あのね、湯原くんの宝箱を、私もほしくなったの」
「あ、この本?」
ブックバンドにいま綴じたばがりの本に周太は微笑んだ。
今日の講義テキストになると思って持ってきたけれど、やはり参考になって良かった。
これを買うということは、美代も講義は楽しかったかな?うれしくて周太は聴いてみた。
「美代さんも、青木先生の講義は楽しかったの?」
「うん、すごく」
答えた美代の目が明るく輝いた。
この顔だけで楽しかったことが解るな?そう見た笑顔は楽しげに話し始めた。
「水源林は、よく知っている場所でしょう?知っている所の知らないことを教わるのは、楽しいね?
しかも樹医の先生でしょう?実際に木に触れて向き合ってる方ならでは、って感じの実例が多くて、説得力もあるし解りやすかったの、」
本当にその通りだと自分も思った。
同じように友達が感じたことが嬉しい、うれしくて周太は微笑んだ。
「ん、俺もそう思ったよ?実践的っていいよね…実際の木が出てくると、解りやすいよね」
「ね、こんど水源林に行ってみない?今日の資料と合わせて見たら、楽しいと思うの、」
「いいな、フィールドワークだね?すごく楽しそう…4月だと雪があるかな?」
「場所によっては残っているかも?でも雪解け水の頃に見るの、魅力的よね?」
今日の講義内容とフィールドワークの話題が楽しい。
なによりも本当に興味のある事を、心から一緒に楽しめる友達の存在が嬉しい。
お互い嬉しくて、つい楽しい会話が弾んでいると愉快そうな声が掛けられた。
「やっぱり、君でしたね?」
ふたり揃って顔上げると、眼鏡をかけた笑顔が愉しげにたたずんでいる。
驚いて、けれど嬉しくて周太は立ち上がると頭を下げた。
「お久しぶりです、青木先生。今日は、ありがとうございました」
「お久しぶりです。今日はようこそ、」
落ち着いて快活なトーンで答えてくれる。
一緒に立って礼をした美代にも笑いかけながら、青木樹医は可笑しそうに笑った。
「講堂をね?掃除してくださる方から言われて、見に来たんです。
講義のことを話している高校生がまだ残っている、とても楽しそうで邪魔するのも可哀想だから、そっとしてきたけれど、って聴いて、」
また高校生に間違われたな?
ふたり思わず顔を見合わせて、少し笑いながら時計を見ると16時になっている。
「…もう、4時?」
講義終了から30分も話し込んでいた。
いつのまに時間が経っていたのだろう?驚いて周太と美代はコートと鞄を抱えた。
「遅くまで、すみませんでした、」
「いや、いいんだよ?そんなに楽しんで貰えて、私は嬉しいんですから、」
気さくに笑って喜んでくれる。
それでも2人揃って恐縮していると、青木樹医は笑顔で提案してくれた。
「お時間ありますか?もし、ご迷惑でなければ私の研究室で、お茶をいかがでしょう?狭いところで申し訳ないのですが、」
「はい、おじゃまします」
可愛らしい声が即答して周太はびっくりした。
驚いて隣を見ると、すこし顔赤らめた美代は弁解に微笑んだ。
「でしゃばってごめんなさい、でも樹医の先生と直接お話してみたくて。千載一遇のチャンスだ、って飛び付いちゃいました、」
「そんなふうに言われると、照れますね?」
青木樹医も愉しげに笑ってくれる。その顔がすこし紅潮しているのが、なんだか周太は嬉しくなった。
いつも自分は赤くなりやすくて困っているけれど、憧れの樹医と一緒なら悪くないな?
そんな嬉しい気持ちで周太は、美代と一緒に青木樹医の研究室に向かった。
『森林科学専攻 准教授 青木真彦』
扉のネームプレートに周太は、おや?と気が付いた。
12月にもらった名刺や公開講義の案内書は、確か『講師』になっている。
勧められた椅子に座ると、周太は聞いてみた。
「青木先生は、准教授だったのですか?」
「はい、正式には明後日からですけど、」
すこし気恥ずかしげに笑って青木樹医は答えてくれる。
明後日からなら新年度4月から新任なのだろう、納得をして周太は祝辞と微笑んだ。
「そうだったんですね?おめでとうございます、」
このひとは教師としても立派だろうな?
そんな想いと笑いかけた青木樹医は気羞かしげに赤らめた首を撫でた。
「ありがとうございます。私の恩師が今年で退官されて、まあ、代打なんですけどね」
照れた微笑で答えてくれながら、青木樹医は戸棚をさがしている。
すぐに見つけた急須を手に取ると、照れくさげに教えてくれた。
「その穴埋めで4月から、正式に講座を担当させて頂くんです。それで研究室も引き継いだばかりで、」
言われて見れば、まだ引っ越したばかりの雰囲気がある。
それでも片付けが行き届いた様子に、青木樹医の端正な実直さが偲ばれた。
学者は変わっている人も多いけれど、この先生はきちんとしているんだな?
そんな感想と一緒に周太は立ちあがると申し出た。
「あの、よろしかったら僕に、お茶を淹れさせて頂けますか?」
「そんな、申し訳ないです。私の方から、お招きしたのに、」
すこし驚いたよう眼鏡の奥で微笑んで、遠慮をしてくれる。
けれど可愛らしい声で美代が勧めてくれた。
「青木先生、湯原くんが淹れたお茶は、美味しいんです。よかったら、召し上がってみませんか?」
「そうなんですか?じゃあ、せっかくですから、お願いできますか?」
素直に微笑んで青木樹医はお願いしてくれる。
ちょっと気恥ずかしいけれど、うれしくて周太は頷いた。
「はい、お口に合うか不安ですけど、淹れさせて頂きますね」
研究室の小さな流し台を借りると、周太は茶を淹れた。
茶葉の種類は玉露らしい、この茶に電気ポットの湯は熱すぎてしまう。
ポットの湯を湯呑に汲んで少し冷ましてから、温めた急須にいれた茶葉へと注いでいく。
なるべく空気が湯に入るよう注いで、蓋をして少し蒸らす。そうして並べた湯呑に順繰りに淹れていった。
そうして3つの湯呑に淹れ終わると、最後の一滴を淹れた茶を周太は青木樹医へ供した。
「あ、本当に美味しいですね、」
眼鏡の奥でおだやかな目が笑ってくれる。
うれしくて微笑んだ周太の隣から、美代が率直に褒めてくれた。
「でしょう?湯原くんは、コーヒーを淹れるのも上手なんです、」
「きっと、コーヒーもすごく美味しいのでしょうね、」
「はい、とても美味しいです。お茶菓子がより、おいしくなります、」
素直に賞賛してくれる青木樹医に、美代が嬉しそうに言ってくれる。
そんなに褒められると気恥ずかしいな?ちょっと首筋が熱くなって困っていると、青木樹医が訊いてくれた。
「おふたりは雰囲気が似ていますね、ご親戚か、それとも恋人同士ですか?」
雰囲気が似ていることは、英二や光一にも言われている。
けれど恋人同士は照れてしまう、口を開こうとした隣から美代が明るく笑った。
「いちばんの友達同士です、恋人よりも大切かも知れません、」
「親友、ってところでしょうか?良いですね、いちばんの友達同士、ってお互い想い合えるのは、」
あかるい実直な笑顔が頷いて聴いてくれる。
やっぱり、この先生は良い教師でもあるんだな?嬉しいまま周太は微笑んだ。
「はい、友達、って嬉しいです…あ、」
答えかけて周太は大切な事に気がついた。
「先生、売店は4時半まで、でしたよね?」
「はい、そうですけど?」
青木樹医の答えに美代は、時計を見て慌てて立ち上がった。
鞄を持つと美代は青木樹医に頭を下げた。
「中座を申し訳ありません、ちょっと売店に行ってきます。湯原くん、ありがとう、」
そう言い置いて美代は、コートも着ないで廊下を走って行った。
今から走れば美代は間に合うだろうな?思いながら周太は青木樹医に笑いかけた。
「すみません、どうしても今日、ここの売店で買いたい本があるんです、」
「そうでしたか、お誘いして申し訳ありませんでしたね?」
「いいえ、それは美代さん…あ、小嶌さん本人が、先生にお会いしたくて楽しみだったんです、」
「彼女が私に?それは光栄ですね、とても照れますけれど、」
また首筋を赤らめながら、気恥ずかしげに青木樹医は微笑んでくれる。
どうもこの学者は本来、恥ずかしがり屋で赤面しやすい性質のようでいる。
自分と同じくらい恥ずかしがりなのかな?なんだか気が楽になって、言葉たちも素直に周太から出てきた。
「あの、先生。この本に書いてくださった言葉、ありがとうございました、」
「あ、それですね?お恥ずかしいです、」
周太の礼に照れくさがって、繊細な指の掌が首筋を撫でている。
ちょっと困ったように、それでも率直に青木樹医は言ってくれた。
「どうしても、お礼と気持ちをね、君に伝えたかったんです。それで、下手な文章で恥ずかしいけれど、書かせていただきました」
「いいえ、先生の文章に僕は、とても励まされたんです、」
自分も率直に気持ちを伝えたい。
この青い本を開いた時から考えていたことを、周太は正直に言葉にした。
「君が掌を救った事実には、生命の一環を救った真実があります。君に誇りを持ってください。
そう先生は書いて下さいました、この言葉のお蔭で僕は、警察官の道に初めて誇りを持てたんです…本当に励まして頂きました、」
本当に、うれしかった。
自分は、警察官の道は父への責任と義務に選んだ。
だから12月の痴漢冤罪の時も、事情聴取も義務と責任の1つとして臨んだ。
けれど、義務や責任で行ったことを「生命の一環を救った」と青木樹医は告げてくれた。
そして「君に誇りを持ってください」と言ってくれた。
自分が警察官の道を進むことは、生命を絶つ義務を負うことになるだろう。
この義務は、他の生命を守るために必要なことかもしれない。
それでも、罪は罪。
どんな理由があっても、法で許されても、罪は変わらない。
自分が一番それを知っている。そんな自分の道には誇りを持てないままでいた。
そんな自分の道で、生命の一環を救うことが出来た。
それが自分にとって、心から嬉しくて、励ましになった。
「失礼だったら、すみません。もしかして君は、本当に望んで警察官になったのでは、無いのですか?」
眼鏡の奥から明るい誠実な目は、静かに訊いてくれる。
このひとは信じて話せる人だ、そう眼差しの深くから伝わってくる。
もちろん全ては話せないことばかり、けれど少しでも話してみたい。頷いて周太は微笑んだ。
「はい、…本当は、そうです。義務と責任で選んだ道なんです、だから…同じ警察官の友達のようには、想えないんです。
友達は皆それぞれの適性見つけて、警察官として誇りと夢を持っています。でも僕は何も出来ません、皆のような才能も無くて。
だから本当は、夢や誇りの為に努力する友達に、僕は嫉妬してきました。責任や義務では無い努力が、羨ましかったんです、」
英二のように強靭な体力も精神力も自分には無い。
光一のような鋭敏な頭脳も技術力も、自分には無い。
そして瀬尾のような、懐深く冷静な洞察力も自分には無い。
3人とも天性の才能がある、それに努力を積んでいる。
この努力は夢と誇りのために積んだ明るい努力でいる、けれど自分の努力は義務感と責任だけで積んだ。
父の唯ひとりの息子という誇りはあっても、自分自身で見つけた夢の誇りは、何もなかった。
それが今は樹医の言葉によって、1つの誇りに努力を繋いでもらうことが出来た。
「自分の夢や誇りに胸張って努力できる、そういう姿が眩しくて、ずっと羨んで…それが苦しかったんです。
けれど、先生の言葉に僕は出会えました。そのお蔭で僕の努力も、義務と責任だけから、誇りへと繋げて貰えました。
だから僕も、警察官になったことに、少し胸が張れるようになったんです。もう嫉妬や、羨ましいとか、あまり感じません、」
こうしたことを誰かに話すことは、吉村医師以外では初めてだろう。
いま目の前にいる教師に会うのは3回目、それでも聴いてほしいと素直に話している。
これが不思議で、けれど当然の様にも想いながら周太は、青い本を抱きしめて笑った。
「青木先生。先生は僕が先生の掌を救った事実には、生命の一環を救った真実がある、そう仰って下さいましたね?同じなんです、」
ひとりの掌を救ってくれた君へ
樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています。
そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています。
この本には樹木と水に廻る生命の連鎖が記されています、この一環を担うため樹医の掌は生きています。
いまこれを記すこの掌は小さい、けれど君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります。
この掌を君が救ってくれた、この事実にこもる真実の姿と想いを伝えたくて、この本を贈ります。
この掌を信じてくれた君の行いと心に、心から感謝します。どうか君に誇りを持ってください。
青木樹医が贈ってくれた青い本『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』によせてくれた詞書。
この励ましから気がついて、自分も警察官としての道に誇りを見つけられた。
警察官として「父がいた世界のレスキューをする」この誇りを見つけれられた。
もし、この詞書に自分が出会えなかったら、あのまま誇りも希望も見出せなかったら?
きっと、父の世界に蹲る精神破綻に自分は、容易く掴まえられた。
「同じように、先生の言葉が僕を救った事実があるんです。僕をめぐる命と心の連鎖、この一環を先生は担って下さいました。
『樹木と水に廻る生命の連鎖、この一環を担うため樹医の掌は生きている』この通りに…だから、僕は先生の言葉は真実だと思います、」
父の世界に立ち、傷つき斃れた同僚を援け、父の世界でレスキューを務める。
山岳レスキューとして山の生命と尊厳を守っていく英二、その姿を自分も追って、父の任務と志を繋ぐ人の援けをする。
そうして人の生命と尊厳を守っていく誇りに、自分は生きる。
この誇りを抱いた自分の心には、一本の強い芯が打建てられた。
この誇らかな心の柱に支えられて、自分は生き抜くことが出来る。そして自分の周囲を救けることも出来るはず。
そうして自分と自分をめぐる生命と尊厳を、守り繋ぐ軌跡を自分は描くことが出来る。
…先生の詞書から、大切なヒントを見つけたんだ、大切な恩人なんだ、
この詞書に自分は「生命」と「軌跡」を見つめた。
この見つめ考えたことを、周太は大切な恩人へと告げた。
「先生は、この本を僕に贈って下さいました。この本には樹木の生命と、年月の記憶の軌跡が書かれています。
けれど僕にとっては、心の生命と軌跡も記されていました。この本は僕の宝です…先生、本当に、ありがとうございました」
ずっと告げたかった想いを言えた。
伝えらえて嬉しい、微笑んだ周太の瞳から、ふっと一筋の涙がこぼれた。
「湯原くん、と仰るんですよね?」
真直ぐな深い瞳が、優しく問いかけてくれる。
そっと涙を拭いながら素直に頷いた周太に、青木樹医は嬉しそうに微笑んだ。
「湯原くん、私の方こそ君に会えたことが宝です。なぜならね、君は私の樹医としての心を受けとってくれました。
これは学徒としても、教師としても、なによりも嬉しいことです。だから、私から君に、ひとつ提案させてください、」
この樹医の提案なら、ぜひ聞かせてほしい。
提案を貰えることが嬉しくて素直に周太は頷いた。
「はい、なんでしょうか?」
「ちょっと待ってくださいね、…あ、これです、」
青木樹医はデスクからファイルを出すと、1枚のプリントを出した。
それを周太に手渡しながら、頼もしい快活な笑顔で言ってくれた。
「私の公開講義の申込書です、こちらは1年を通しての受講になります。これを受講して、私の学生になりませんか?
警察官は忙しいから、全て受講することは難しいでしょう。だから来られる時だけで良いです、好きな学問をしてみませんか?」
週1回ペースの、1年間かけての講座。
実質的には聴講生扱いとして学生、費用は国立大だけあって無料同然になっている。
これなら警察官として勤務しながらでも、無理なく受講できるだろう。
…受けてみたい、でも、迷惑にならないかな
今日の公開講座も満席だったから、これも人気が高い講座だろう。
それを定期的に来られない自分が席を埋めても、良いのだろうか?
遠慮がちな想いと自分の望みのはざま、心でため息吐きながら周太は尋ねた。
「先生、ご提案は本当に嬉しいです。けれど、人気の講座ですよね?…ちゃんと来られない僕が席を埋めるのは、申し訳ないです」
今日の講義は本当に楽しかった。
だから本音は、1回だけでも受講できるチャンスがあれば、また聴いてみたい。
この本意を見つめた先で、眼鏡をかけた樹医は気さくに笑ってくれた。
「大丈夫、1枠だけ特設することにしますから。もし君に学びたい気持ちがあれば、遠慮はいりません、ぜひ来てください、」
「そんなにお気遣い頂いて…よろしいんでしょうか?」
この申し出は本当に嬉しい、もし学べたら楽しいに違いないと思う。
けれど迷惑ではないだろうか?そんな途惑いに佇んだ周太に、青木樹医は微笑んだ。
「義務で立った道で、誇りを見つけられた。それなら好きな事の学問で、君だけの夢が見つかるかもしれない。
私自身は無力で、何も出来ません。けれど、学問の力は強く広いと私は知っています。だから君を学問に導くことは出来ます。
君は私の恩人です、私に出来る恩返しはこれが一番だと思います。私で良かったら、夢を見つける手伝いをさせてくれませんか?」
この先生と、この樹医と、自分はもっと話してみたい、学びたい。
とくん、心を鼓動がノックして肚に起きる熱がある。
ゆるやかに起きあがって肚の底を温めて、ひろやかに心を明るく照らし出す。
この熱はなんだろう?
この初めての感覚は、何と言うのだろう?
この熱が心に大きく明りをくれる、そんな想いに微笑んで周太は頷いた。
「ご厚意、本当に、ありがとうございます。あの、家族に相談させて頂いても、よろしいですか?」
今日は非番だから、美代を見送った足で実家に帰ることになっている。
今夜にでも母に相談して、英二にも電話で訊いておきたい。
大切な家族のことを想う周太に、篤実な教師は嬉しそうに微笑んでくれた。
「もちろんです。ご家族に相談されるなんて、君は本当に誠実ですね?そういう誠実さは、学問にも樹医にも必要です、」
「そうなんですか?…うれしいです、なんだか、」
嬉しい気持ちと一緒に周太は、受講案内と申込書を眺めた。
奥多摩の森を中心にした講義内容は、きっと楽しいに違いない。
もしかしたらこの講義から、英二のブナの木についても大切な事を学べるかもしれない。
雲取山麓に隠れた、大きなブナの木。
その木の下は、英二の大切な憩いの場所になっている。
あの木を手助けできるヒントが見つけられたら、英二を喜ばせてあげられるかもしれない。
…ね、英二?俺にも、英二を援けることが、出来るかもしれないよ?
そう出来たら良いな?
うれしい幸せを見ながら周太は、鞄のファイルに書類を大切に仕舞いこんだ。
そんな周太に青木樹医は、嬉しそうに笑いかけてくれた。
「そんなに大切にしまってくれると、嬉しくなります。君は、本当に植物のことを学びたいんですね?」
「はい、ちいさい頃から花や木が、好きなんです。特に大きい木が好きで…だから、きちんと勉強できたら、嬉しいです」
「こういうふうに言ってくれる学生さんと、夢を一緒に探せたら、私も嬉しいです、」
実直で頼もしい快活な笑顔が、周太に楽しそうに話してくれる。
この樹医の山ヤと似た感じの篤実さは、どこか吉村医師と似ているかもしれない?
そんなふうに見ていると扉が軽やかにノックされて、美代が覗きこんだ。
「中座して、申し訳ありませんでした、」
軽く息を切らしている美代の笑顔は、頬が赤くそめあがっている。
きっと雪のなかを走ってきたのだろうな?
雪ん子のような友人の顔に周太は微笑んだ。
「美代さん、見つけられたんだ?」
「うん、あったの、よかった、」
嬉しそうに答えながら美代は、さっそく紙袋を開いている。
そして青い分厚い本を手にとると、両手で持って青木樹医に差し出した。
「あの、不躾ですみません。サインして頂けるでしょうか?」
気恥ずかしげに微笑みながら、きれいな明るい目は真直ぐに樹医を見つめている。
この申し出に困ったよう照れたよう、樹医の首筋が赤くなった。
「光栄ですね、私のサインなんて望んで頂いて、…とても、お恥ずかしいですが、」
照れて笑いながら青木樹医は、万年筆を胸ポケットから手にとった。
そして美代から本を受けとると、デスクにきちんと座って表紙裏を開いてくれる。
すこし考えるよう首傾げて、落着いたトーンの声が美代に尋ねた。
「小嶌さんも、植物のことが本当に好きみたいですね?失礼だったらすみません、学生さんでしょうか?」
「いいえ、JAの職員なんです、」
明るく笑って美代は、青木樹医に答えた。
「本当は大学に行きたかったんです、でも親に言えなくて、」
「そうでしたか、」
ほっと溜息吐くよう青木樹医が微笑んだ。
すこし考えて、それから一語ずつ確かめるよう、准教授は誠実に言葉を口にした。
「学びたい気持ちがあるのなら、いつからでも遅くないと、私は思います。これからでも受験を考えても、良いかもしれませんね?」
青木准教授の言葉に美代が、周太の方を見た。
計画を話していいと思う?そんなふうに明るい目が見つめてくれる。
こういう相談をされるのは嬉しい、周太は目で「いいと思うよ?」と頷いて微笑んだ。
その微笑に背中押されるよう、嬉しそうに美代は口を開いた。
「これは内緒なのですけれど。来年、受験する計画です。親は反対なので内緒で受けます、だから湯原くんだけが、私の味方です」
「そうなんですね、」
おだやかに深い目が愉しげに笑ってくれる。
愉快に頷いて、まだ40代の若い准教授は美代に言ってくれた。
「親御さんには申し訳ありませんが、学徒の私としては、とても愉快で嬉しい計画です。どうぞ、ここも受験してくださいね?」
「えっ、東大を私が、ですか?」
驚いて美代の目が大きくなった。
けれど周太としては、美代なら出来るんじゃないのかな、と思ってしまう。
ほんとうは周太自身が東京大学も十分に合格圏内だった、だから美代のレベルなら受験も容易いと推定出来てしまう。
受けてみたら良いのに?そんな想いで見ている先で、大らかに笑った青木樹医は万年筆のキャップを外した。
「はい。君が、東大に入るんです。そして、よかったら私の研究室に入ってください。挑戦前に諦めたら、ダメですよ?」
すこし悪戯っぽく青木樹医は、美代に笑いかけた。
そして、モンブラン万年筆の穂先は、夢への励ましを端正な筆跡に綴り始めた。
青木准教授の研究室を辞したのは、17時だった。
小雪舞うなかを地下鉄の駅へと歩きながら、美代は幸せそうに微笑んだ。
「すごい、嬉しかった、今日…ね、なんかもう、色々と夢みたいなの、」
「ん、俺もね、いっぱい嬉しかったな、」
美代の言葉に周太も素直に微笑んだ。
微笑んだ周太に美代は、すこし気恥ずかしそうに嬉しそうに笑ってくれた。
「東大の森林科学ってね、ほんとは憧れていたの。日本の森林科学の最高峰だし、樹木医のカリキュラムもあるし。
でもね、自分が受験するなんて、考えたことなかったの。遠い世界みたいに想ってて。だからね、さっき嬉しかったの、」
話してくれる美代の頬は、雪の冷気と楽しい余韻ですこし紅潮している。
この嬉しさは周太にはよく解る、自分も今日は通年講座の書類が嬉しかった。
「ん、遠い世界が近くなるって、ほんとに嬉しいよね?」
「ね?ほんと、うれしいね。私、頑張ってみようかな?」
心から明るい幸せに美代が笑ってくれる。
幸せそうな笑顔が見ていて嬉しい、今日は一緒に来れて本当に良かった。
けれど予定よりだいぶ遅い時間になっている、周太は美代に訊いてみた。
「この時間だと、もう御苑は閉まってるんだ。だから、今日はちょっと行けないけど、ごめんね?」
「ううん、御苑はまた今度行けるもの?でもね、青木先生の研究室は千載一遇のチャンスだった、でしょう?」
「ん、ほんとにそうだね?…あ、」
ふと周太は携帯の振動に立ち止まった。
ポケットから出して「ちょっとごめんね?」と断りを入れて開いて見る。
見た画面の発信人名に周太は微笑んだ。
「あ、お母さんからだ、」
今日はもう仕事が終わったのかな?
そう画面を見ていると美代が、笑って促してくれた。
「今日は、お家に帰るのよね?お買い物のお願いかも、早く出てあげて、」
「ん、ありがとう、」
素直に頷いて通話を繋ぐと、周太は携帯を耳に当てた。
「周?いま、どこにいるかな?」
「ん、今ね、東大を出て来たとこだよ?もうじき、湯島の駅だけど…」
「あのね、周。中央線が雪で、止まっているみたいなの、」
「え、…中央線、そうなの?」
驚いて周太は立ち止まった。
美代は中央線で奥多摩に帰るから、止まってしまうと帰れない。
困ったなと思っていると、母が電話のむこうで笑ってくれた。
「だからね、周?ご家族に許可を頂けるなら、うちで美代ちゃんに、泊まって貰ったらどうかな?」
それは楽しそうな提案だな?
庭の畑や木を見て貰えたら、きっと嬉しいだろうな?
そんな想いと微笑んで周太は母に訊きかえした。
「泊まって貰えたら、楽しそうだね?」
「ええ、きっと楽しいわ。お母さんもね、美代ちゃんと会ってみたいし。お誘いしてみてね、」
「ん、また決ったら、連絡するね?」
電話を切って隣を見ると、もう美代は携帯を手に持っている。
きっと会話で解かったんだろうな?そう見た周太に美代が携帯の画面を見せてくれた。
「ほんとね、中央線、ダメみたい。あっちは凄い雪なのね?」
英二は今日は週休、だけれど遭難通報があれば召集を受ける。
電車が止まるほどの雪、英二は大丈夫だろうか?心配を思いながらも周太は訊いてみた。
「あのね、母からなんだけど。良かったら、うちに泊まりに来てくださいって。美代さんに会ってみたいって、」
「ほんと?楽しそう、いいな、おじゃまして良い?」
嬉しそうに美代が笑ってくれる。
こんなに喜んでもらえるなら良かったな?微笑んで周太は頷いた。
「ん、もちろん。ご家族の許可をもらえるなら、どうぞ、って」
「それならね、まず大丈夫よ、きっと、」
言いながらも美代は、さっさと家に電話を架けた。
そしてすぐに会話が終わって、美代は可笑しそうに笑いだした。
「シッカリ泊めてもらいなさい、だって、」
「しっかり?」
どういう意味だろう?
そう見た先で美代は可笑しくて堪らないよう笑った。
「あのね?うちの人達、みんな湯原くんのこと、大好きなのよ。いまどき珍しい、上品で良い男の子さんだって。
それで皆してね?湯原くんを、私のお婿さんにしたくって仕方ないの。そういうわけで、泊めて貰うのは大歓迎なんだって、」
なんだかそういうのは恥ずかしいし困ってしまうな?
気恥ずかしく困惑したまま周太は、地下鉄の駅に歩きながら母に電話を架けた。
川崎に着いたのは18時だった。
本屋によって、それから少し買い物を済ませると家路を歩き出した。
雪に鎮まる住宅街は黄昏なずむ空気が優しい、灯り始めた街燈のなか美代が微笑んだ。
「こういうのが、住宅街、っていうのね?いろんなお家がいっぱいね、」
物珍しそうに美代は楽しく辺りを見回している。
奥多摩の農家に育った美代には、こうした景色は珍しいのだろう。
なんだか森の妖精が街に遊びに来たみたいだな?楽しくなって周太は微笑んだ。
「美代さん、明日の朝、すこし散歩してみる?」
「それ素敵ね?でも、こんなに珍しがってる私は、田舎者丸だしよね?」
可笑しそうに美代が笑ってくれる。
けれど、なんて答えたらいいのかな?すこし困りながら歩くうち、家の前に着いた。
ふるい木造門も雪化粧に輝いている、そっと門扉を開くと美代が嬉しそうに微笑んだ。
「雪の森ね?…花と雪、きれい、」
庭は白銀かがやく花々に埋もれていた。
雪の花に晴れ始めた空、銀月が掛かる庭は静謐が優しい。
雪を払ってくれてある飛石を踏んで玄関を開けると、美代は嬉しそうに微笑んだ。
「素敵、洋館なのね。湯原くん、王子さま?」
「ううん、家が古いだけだよ?」
こんなふうに言われると恥ずかしいな。
なんだか色々と困りながら、周太は玄関扉を閉めた。
(to be continued)
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