萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第42話 雪寮act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-12 22:18:13 | 陽はまた昇るanother,side story
Mont Blanc 最高峰の夢に立って



第42話 雪寮act.2―another,side story「陽はまた昇る」

講堂の窓からは白銀のキャンパスがまばゆい。
満席の講義が終わり、退席していく人波を周太と美代は、のんびり座ったまま眺めて余韻を楽しんだ。

「ね、このあと売店に寄ってもいい?」
「ん、いいよ?」

何か買うのかな?
そう首をかしげた周太に美代は教えてくれた。

「あのね、湯原くんの宝箱を、私もほしくなったの」
「あ、この本?」

ブックバンドにいま綴じたばがりの本に周太は微笑んだ。
今日の講義テキストになると思って持ってきたけれど、やはり参考になって良かった。
これを買うということは、美代も講義は楽しかったかな?うれしくて周太は聴いてみた。

「美代さんも、青木先生の講義は楽しかったの?」
「うん、すごく」

答えた美代の目が明るく輝いた。
この顔だけで楽しかったことが解るな?そう見た笑顔は楽しげに話し始めた。

「水源林は、よく知っている場所でしょう?知っている所の知らないことを教わるのは、楽しいね?
しかも樹医の先生でしょう?実際に木に触れて向き合ってる方ならでは、って感じの実例が多くて、説得力もあるし解りやすかったの、」

本当にその通りだと自分も思った。
同じように友達が感じたことが嬉しい、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、俺もそう思ったよ?実践的っていいよね…実際の木が出てくると、解りやすいよね」
「ね、こんど水源林に行ってみない?今日の資料と合わせて見たら、楽しいと思うの、」
「いいな、フィールドワークだね?すごく楽しそう…4月だと雪があるかな?」
「場所によっては残っているかも?でも雪解け水の頃に見るの、魅力的よね?」

今日の講義内容とフィールドワークの話題が楽しい。
なによりも本当に興味のある事を、心から一緒に楽しめる友達の存在が嬉しい。
お互い嬉しくて、つい楽しい会話が弾んでいると愉快そうな声が掛けられた。

「やっぱり、君でしたね?」

ふたり揃って顔上げると、眼鏡をかけた笑顔が愉しげにたたずんでいる。
驚いて、けれど嬉しくて周太は立ち上がると頭を下げた。

「お久しぶりです、青木先生。今日は、ありがとうございました」
「お久しぶりです。今日はようこそ、」

落ち着いて快活なトーンで答えてくれる。
一緒に立って礼をした美代にも笑いかけながら、青木樹医は可笑しそうに笑った。

「講堂をね?掃除してくださる方から言われて、見に来たんです。
講義のことを話している高校生がまだ残っている、とても楽しそうで邪魔するのも可哀想だから、そっとしてきたけれど、って聴いて、」

また高校生に間違われたな?
ふたり思わず顔を見合わせて、少し笑いながら時計を見ると16時になっている。

「…もう、4時?」

講義終了から30分も話し込んでいた。
いつのまに時間が経っていたのだろう?驚いて周太と美代はコートと鞄を抱えた。

「遅くまで、すみませんでした、」
「いや、いいんだよ?そんなに楽しんで貰えて、私は嬉しいんですから、」

気さくに笑って喜んでくれる。
それでも2人揃って恐縮していると、青木樹医は笑顔で提案してくれた。

「お時間ありますか?もし、ご迷惑でなければ私の研究室で、お茶をいかがでしょう?狭いところで申し訳ないのですが、」
「はい、おじゃまします」

可愛らしい声が即答して周太はびっくりした。
驚いて隣を見ると、すこし顔赤らめた美代は弁解に微笑んだ。

「でしゃばってごめんなさい、でも樹医の先生と直接お話してみたくて。千載一遇のチャンスだ、って飛び付いちゃいました、」
「そんなふうに言われると、照れますね?」

青木樹医も愉しげに笑ってくれる。その顔がすこし紅潮しているのが、なんだか周太は嬉しくなった。
いつも自分は赤くなりやすくて困っているけれど、憧れの樹医と一緒なら悪くないな?
そんな嬉しい気持ちで周太は、美代と一緒に青木樹医の研究室に向かった。

『森林科学専攻 准教授 青木真彦』

扉のネームプレートに周太は、おや?と気が付いた。
12月にもらった名刺や公開講義の案内書は、確か『講師』になっている。
勧められた椅子に座ると、周太は聞いてみた。

「青木先生は、准教授だったのですか?」
「はい、正式には明後日からですけど、」

すこし気恥ずかしげに笑って青木樹医は答えてくれる。
明後日からなら新年度4月から新任なのだろう、納得をして周太は祝辞と微笑んだ。

「そうだったんですね?おめでとうございます、」

このひとは教師としても立派だろうな?
そんな想いと笑いかけた青木樹医は気羞かしげに赤らめた首を撫でた。

「ありがとうございます。私の恩師が今年で退官されて、まあ、代打なんですけどね」

照れた微笑で答えてくれながら、青木樹医は戸棚をさがしている。
すぐに見つけた急須を手に取ると、照れくさげに教えてくれた。

「その穴埋めで4月から、正式に講座を担当させて頂くんです。それで研究室も引き継いだばかりで、」

言われて見れば、まだ引っ越したばかりの雰囲気がある。
それでも片付けが行き届いた様子に、青木樹医の端正な実直さが偲ばれた。
学者は変わっている人も多いけれど、この先生はきちんとしているんだな?
そんな感想と一緒に周太は立ちあがると申し出た。

「あの、よろしかったら僕に、お茶を淹れさせて頂けますか?」
「そんな、申し訳ないです。私の方から、お招きしたのに、」

すこし驚いたよう眼鏡の奥で微笑んで、遠慮をしてくれる。
けれど可愛らしい声で美代が勧めてくれた。

「青木先生、湯原くんが淹れたお茶は、美味しいんです。よかったら、召し上がってみませんか?」
「そうなんですか?じゃあ、せっかくですから、お願いできますか?」

素直に微笑んで青木樹医はお願いしてくれる。
ちょっと気恥ずかしいけれど、うれしくて周太は頷いた。

「はい、お口に合うか不安ですけど、淹れさせて頂きますね」

研究室の小さな流し台を借りると、周太は茶を淹れた。
茶葉の種類は玉露らしい、この茶に電気ポットの湯は熱すぎてしまう。
ポットの湯を湯呑に汲んで少し冷ましてから、温めた急須にいれた茶葉へと注いでいく。
なるべく空気が湯に入るよう注いで、蓋をして少し蒸らす。そうして並べた湯呑に順繰りに淹れていった。
そうして3つの湯呑に淹れ終わると、最後の一滴を淹れた茶を周太は青木樹医へ供した。

「あ、本当に美味しいですね、」

眼鏡の奥でおだやかな目が笑ってくれる。
うれしくて微笑んだ周太の隣から、美代が率直に褒めてくれた。

「でしょう?湯原くんは、コーヒーを淹れるのも上手なんです、」
「きっと、コーヒーもすごく美味しいのでしょうね、」
「はい、とても美味しいです。お茶菓子がより、おいしくなります、」

素直に賞賛してくれる青木樹医に、美代が嬉しそうに言ってくれる。
そんなに褒められると気恥ずかしいな?ちょっと首筋が熱くなって困っていると、青木樹医が訊いてくれた。

「おふたりは雰囲気が似ていますね、ご親戚か、それとも恋人同士ですか?」

雰囲気が似ていることは、英二や光一にも言われている。
けれど恋人同士は照れてしまう、口を開こうとした隣から美代が明るく笑った。

「いちばんの友達同士です、恋人よりも大切かも知れません、」
「親友、ってところでしょうか?良いですね、いちばんの友達同士、ってお互い想い合えるのは、」

あかるい実直な笑顔が頷いて聴いてくれる。
やっぱり、この先生は良い教師でもあるんだな?嬉しいまま周太は微笑んだ。

「はい、友達、って嬉しいです…あ、」

答えかけて周太は大切な事に気がついた。

「先生、売店は4時半まで、でしたよね?」
「はい、そうですけど?」

青木樹医の答えに美代は、時計を見て慌てて立ち上がった。
鞄を持つと美代は青木樹医に頭を下げた。

「中座を申し訳ありません、ちょっと売店に行ってきます。湯原くん、ありがとう、」

そう言い置いて美代は、コートも着ないで廊下を走って行った。
今から走れば美代は間に合うだろうな?思いながら周太は青木樹医に笑いかけた。

「すみません、どうしても今日、ここの売店で買いたい本があるんです、」
「そうでしたか、お誘いして申し訳ありませんでしたね?」
「いいえ、それは美代さん…あ、小嶌さん本人が、先生にお会いしたくて楽しみだったんです、」
「彼女が私に?それは光栄ですね、とても照れますけれど、」

また首筋を赤らめながら、気恥ずかしげに青木樹医は微笑んでくれる。
どうもこの学者は本来、恥ずかしがり屋で赤面しやすい性質のようでいる。
自分と同じくらい恥ずかしがりなのかな?なんだか気が楽になって、言葉たちも素直に周太から出てきた。

「あの、先生。この本に書いてくださった言葉、ありがとうございました、」
「あ、それですね?お恥ずかしいです、」

周太の礼に照れくさがって、繊細な指の掌が首筋を撫でている。
ちょっと困ったように、それでも率直に青木樹医は言ってくれた。

「どうしても、お礼と気持ちをね、君に伝えたかったんです。それで、下手な文章で恥ずかしいけれど、書かせていただきました」
「いいえ、先生の文章に僕は、とても励まされたんです、」

自分も率直に気持ちを伝えたい。
この青い本を開いた時から考えていたことを、周太は正直に言葉にした。

「君が掌を救った事実には、生命の一環を救った真実があります。君に誇りを持ってください。
そう先生は書いて下さいました、この言葉のお蔭で僕は、警察官の道に初めて誇りを持てたんです…本当に励まして頂きました、」

本当に、うれしかった。

自分は、警察官の道は父への責任と義務に選んだ。
だから12月の痴漢冤罪の時も、事情聴取も義務と責任の1つとして臨んだ。
けれど、義務や責任で行ったことを「生命の一環を救った」と青木樹医は告げてくれた。
そして「君に誇りを持ってください」と言ってくれた。

自分が警察官の道を進むことは、生命を絶つ義務を負うことになるだろう。
この義務は、他の生命を守るために必要なことかもしれない。
それでも、罪は罪。
どんな理由があっても、法で許されても、罪は変わらない。
自分が一番それを知っている。そんな自分の道には誇りを持てないままでいた。

そんな自分の道で、生命の一環を救うことが出来た。
それが自分にとって、心から嬉しくて、励ましになった。

「失礼だったら、すみません。もしかして君は、本当に望んで警察官になったのでは、無いのですか?」

眼鏡の奥から明るい誠実な目は、静かに訊いてくれる。
このひとは信じて話せる人だ、そう眼差しの深くから伝わってくる。
もちろん全ては話せないことばかり、けれど少しでも話してみたい。頷いて周太は微笑んだ。

「はい、…本当は、そうです。義務と責任で選んだ道なんです、だから…同じ警察官の友達のようには、想えないんです。
友達は皆それぞれの適性見つけて、警察官として誇りと夢を持っています。でも僕は何も出来ません、皆のような才能も無くて。
だから本当は、夢や誇りの為に努力する友達に、僕は嫉妬してきました。責任や義務では無い努力が、羨ましかったんです、」

英二のように強靭な体力も精神力も自分には無い。
光一のような鋭敏な頭脳も技術力も、自分には無い。
そして瀬尾のような、懐深く冷静な洞察力も自分には無い。

3人とも天性の才能がある、それに努力を積んでいる。
この努力は夢と誇りのために積んだ明るい努力でいる、けれど自分の努力は義務感と責任だけで積んだ。
父の唯ひとりの息子という誇りはあっても、自分自身で見つけた夢の誇りは、何もなかった。
それが今は樹医の言葉によって、1つの誇りに努力を繋いでもらうことが出来た。

「自分の夢や誇りに胸張って努力できる、そういう姿が眩しくて、ずっと羨んで…それが苦しかったんです。
けれど、先生の言葉に僕は出会えました。そのお蔭で僕の努力も、義務と責任だけから、誇りへと繋げて貰えました。
だから僕も、警察官になったことに、少し胸が張れるようになったんです。もう嫉妬や、羨ましいとか、あまり感じません、」

こうしたことを誰かに話すことは、吉村医師以外では初めてだろう。
いま目の前にいる教師に会うのは3回目、それでも聴いてほしいと素直に話している。
これが不思議で、けれど当然の様にも想いながら周太は、青い本を抱きしめて笑った。

「青木先生。先生は僕が先生の掌を救った事実には、生命の一環を救った真実がある、そう仰って下さいましたね?同じなんです、」

  ひとりの掌を救ってくれた君へ
  樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています。
  そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています。
  この本には樹木と水に廻る生命の連鎖が記されています、この一環を担うため樹医の掌は生きています。
  いまこれを記すこの掌は小さい、けれど君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります。
  この掌を君が救ってくれた、この事実にこもる真実の姿と想いを伝えたくて、この本を贈ります。
  この掌を信じてくれた君の行いと心に、心から感謝します。どうか君に誇りを持ってください。

青木樹医が贈ってくれた青い本『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』によせてくれた詞書。
この励ましから気がついて、自分も警察官としての道に誇りを見つけられた。

警察官として「父がいた世界のレスキューをする」この誇りを見つけれられた。

もし、この詞書に自分が出会えなかったら、あのまま誇りも希望も見出せなかったら?
きっと、父の世界に蹲る精神破綻に自分は、容易く掴まえられた。

「同じように、先生の言葉が僕を救った事実があるんです。僕をめぐる命と心の連鎖、この一環を先生は担って下さいました。
『樹木と水に廻る生命の連鎖、この一環を担うため樹医の掌は生きている』この通りに…だから、僕は先生の言葉は真実だと思います、」

父の世界に立ち、傷つき斃れた同僚を援け、父の世界でレスキューを務める。
山岳レスキューとして山の生命と尊厳を守っていく英二、その姿を自分も追って、父の任務と志を繋ぐ人の援けをする。
そうして人の生命と尊厳を守っていく誇りに、自分は生きる。

この誇りを抱いた自分の心には、一本の強い芯が打建てられた。
この誇らかな心の柱に支えられて、自分は生き抜くことが出来る。そして自分の周囲を救けることも出来るはず。
そうして自分と自分をめぐる生命と尊厳を、守り繋ぐ軌跡を自分は描くことが出来る。

…先生の詞書から、大切なヒントを見つけたんだ、大切な恩人なんだ、

この詞書に自分は「生命」と「軌跡」を見つめた。
この見つめ考えたことを、周太は大切な恩人へと告げた。

「先生は、この本を僕に贈って下さいました。この本には樹木の生命と、年月の記憶の軌跡が書かれています。
けれど僕にとっては、心の生命と軌跡も記されていました。この本は僕の宝です…先生、本当に、ありがとうございました」

ずっと告げたかった想いを言えた。
伝えらえて嬉しい、微笑んだ周太の瞳から、ふっと一筋の涙がこぼれた。

「湯原くん、と仰るんですよね?」

真直ぐな深い瞳が、優しく問いかけてくれる。
そっと涙を拭いながら素直に頷いた周太に、青木樹医は嬉しそうに微笑んだ。

「湯原くん、私の方こそ君に会えたことが宝です。なぜならね、君は私の樹医としての心を受けとってくれました。
これは学徒としても、教師としても、なによりも嬉しいことです。だから、私から君に、ひとつ提案させてください、」

この樹医の提案なら、ぜひ聞かせてほしい。
提案を貰えることが嬉しくて素直に周太は頷いた。

「はい、なんでしょうか?」
「ちょっと待ってくださいね、…あ、これです、」

青木樹医はデスクからファイルを出すと、1枚のプリントを出した。
それを周太に手渡しながら、頼もしい快活な笑顔で言ってくれた。

「私の公開講義の申込書です、こちらは1年を通しての受講になります。これを受講して、私の学生になりませんか?
警察官は忙しいから、全て受講することは難しいでしょう。だから来られる時だけで良いです、好きな学問をしてみませんか?」

週1回ペースの、1年間かけての講座。
実質的には聴講生扱いとして学生、費用は国立大だけあって無料同然になっている。
これなら警察官として勤務しながらでも、無理なく受講できるだろう。

…受けてみたい、でも、迷惑にならないかな

今日の公開講座も満席だったから、これも人気が高い講座だろう。
それを定期的に来られない自分が席を埋めても、良いのだろうか?
遠慮がちな想いと自分の望みのはざま、心でため息吐きながら周太は尋ねた。

「先生、ご提案は本当に嬉しいです。けれど、人気の講座ですよね?…ちゃんと来られない僕が席を埋めるのは、申し訳ないです」

今日の講義は本当に楽しかった。
だから本音は、1回だけでも受講できるチャンスがあれば、また聴いてみたい。
この本意を見つめた先で、眼鏡をかけた樹医は気さくに笑ってくれた。

「大丈夫、1枠だけ特設することにしますから。もし君に学びたい気持ちがあれば、遠慮はいりません、ぜひ来てください、」
「そんなにお気遣い頂いて…よろしいんでしょうか?」

この申し出は本当に嬉しい、もし学べたら楽しいに違いないと思う。
けれど迷惑ではないだろうか?そんな途惑いに佇んだ周太に、青木樹医は微笑んだ。

「義務で立った道で、誇りを見つけられた。それなら好きな事の学問で、君だけの夢が見つかるかもしれない。
私自身は無力で、何も出来ません。けれど、学問の力は強く広いと私は知っています。だから君を学問に導くことは出来ます。
君は私の恩人です、私に出来る恩返しはこれが一番だと思います。私で良かったら、夢を見つける手伝いをさせてくれませんか?」

この先生と、この樹医と、自分はもっと話してみたい、学びたい。

とくん、心を鼓動がノックして肚に起きる熱がある。
ゆるやかに起きあがって肚の底を温めて、ひろやかに心を明るく照らし出す。
この熱はなんだろう?
この初めての感覚は、何と言うのだろう?
この熱が心に大きく明りをくれる、そんな想いに微笑んで周太は頷いた。

「ご厚意、本当に、ありがとうございます。あの、家族に相談させて頂いても、よろしいですか?」

今日は非番だから、美代を見送った足で実家に帰ることになっている。
今夜にでも母に相談して、英二にも電話で訊いておきたい。
大切な家族のことを想う周太に、篤実な教師は嬉しそうに微笑んでくれた。

「もちろんです。ご家族に相談されるなんて、君は本当に誠実ですね?そういう誠実さは、学問にも樹医にも必要です、」
「そうなんですか?…うれしいです、なんだか、」

嬉しい気持ちと一緒に周太は、受講案内と申込書を眺めた。
奥多摩の森を中心にした講義内容は、きっと楽しいに違いない。
もしかしたらこの講義から、英二のブナの木についても大切な事を学べるかもしれない。

雲取山麓に隠れた、大きなブナの木。
その木の下は、英二の大切な憩いの場所になっている。
あの木を手助けできるヒントが見つけられたら、英二を喜ばせてあげられるかもしれない。

…ね、英二?俺にも、英二を援けることが、出来るかもしれないよ?

そう出来たら良いな?
うれしい幸せを見ながら周太は、鞄のファイルに書類を大切に仕舞いこんだ。
そんな周太に青木樹医は、嬉しそうに笑いかけてくれた。

「そんなに大切にしまってくれると、嬉しくなります。君は、本当に植物のことを学びたいんですね?」
「はい、ちいさい頃から花や木が、好きなんです。特に大きい木が好きで…だから、きちんと勉強できたら、嬉しいです」
「こういうふうに言ってくれる学生さんと、夢を一緒に探せたら、私も嬉しいです、」

実直で頼もしい快活な笑顔が、周太に楽しそうに話してくれる。
この樹医の山ヤと似た感じの篤実さは、どこか吉村医師と似ているかもしれない?
そんなふうに見ていると扉が軽やかにノックされて、美代が覗きこんだ。

「中座して、申し訳ありませんでした、」

軽く息を切らしている美代の笑顔は、頬が赤くそめあがっている。
きっと雪のなかを走ってきたのだろうな?
雪ん子のような友人の顔に周太は微笑んだ。

「美代さん、見つけられたんだ?」
「うん、あったの、よかった、」

嬉しそうに答えながら美代は、さっそく紙袋を開いている。
そして青い分厚い本を手にとると、両手で持って青木樹医に差し出した。

「あの、不躾ですみません。サインして頂けるでしょうか?」

気恥ずかしげに微笑みながら、きれいな明るい目は真直ぐに樹医を見つめている。
この申し出に困ったよう照れたよう、樹医の首筋が赤くなった。

「光栄ですね、私のサインなんて望んで頂いて、…とても、お恥ずかしいですが、」

照れて笑いながら青木樹医は、万年筆を胸ポケットから手にとった。
そして美代から本を受けとると、デスクにきちんと座って表紙裏を開いてくれる。
すこし考えるよう首傾げて、落着いたトーンの声が美代に尋ねた。

「小嶌さんも、植物のことが本当に好きみたいですね?失礼だったらすみません、学生さんでしょうか?」
「いいえ、JAの職員なんです、」

明るく笑って美代は、青木樹医に答えた。

「本当は大学に行きたかったんです、でも親に言えなくて、」
「そうでしたか、」

ほっと溜息吐くよう青木樹医が微笑んだ。
すこし考えて、それから一語ずつ確かめるよう、准教授は誠実に言葉を口にした。

「学びたい気持ちがあるのなら、いつからでも遅くないと、私は思います。これからでも受験を考えても、良いかもしれませんね?」

青木准教授の言葉に美代が、周太の方を見た。
計画を話していいと思う?そんなふうに明るい目が見つめてくれる。
こういう相談をされるのは嬉しい、周太は目で「いいと思うよ?」と頷いて微笑んだ。
その微笑に背中押されるよう、嬉しそうに美代は口を開いた。

「これは内緒なのですけれど。来年、受験する計画です。親は反対なので内緒で受けます、だから湯原くんだけが、私の味方です」
「そうなんですね、」

おだやかに深い目が愉しげに笑ってくれる。
愉快に頷いて、まだ40代の若い准教授は美代に言ってくれた。

「親御さんには申し訳ありませんが、学徒の私としては、とても愉快で嬉しい計画です。どうぞ、ここも受験してくださいね?」
「えっ、東大を私が、ですか?」

驚いて美代の目が大きくなった。
けれど周太としては、美代なら出来るんじゃないのかな、と思ってしまう。
ほんとうは周太自身が東京大学も十分に合格圏内だった、だから美代のレベルなら受験も容易いと推定出来てしまう。
受けてみたら良いのに?そんな想いで見ている先で、大らかに笑った青木樹医は万年筆のキャップを外した。

「はい。君が、東大に入るんです。そして、よかったら私の研究室に入ってください。挑戦前に諦めたら、ダメですよ?」

すこし悪戯っぽく青木樹医は、美代に笑いかけた。
そして、モンブラン万年筆の穂先は、夢への励ましを端正な筆跡に綴り始めた。



青木准教授の研究室を辞したのは、17時だった。
小雪舞うなかを地下鉄の駅へと歩きながら、美代は幸せそうに微笑んだ。

「すごい、嬉しかった、今日…ね、なんかもう、色々と夢みたいなの、」
「ん、俺もね、いっぱい嬉しかったな、」

美代の言葉に周太も素直に微笑んだ。
微笑んだ周太に美代は、すこし気恥ずかしそうに嬉しそうに笑ってくれた。

「東大の森林科学ってね、ほんとは憧れていたの。日本の森林科学の最高峰だし、樹木医のカリキュラムもあるし。
でもね、自分が受験するなんて、考えたことなかったの。遠い世界みたいに想ってて。だからね、さっき嬉しかったの、」

話してくれる美代の頬は、雪の冷気と楽しい余韻ですこし紅潮している。
この嬉しさは周太にはよく解る、自分も今日は通年講座の書類が嬉しかった。

「ん、遠い世界が近くなるって、ほんとに嬉しいよね?」
「ね?ほんと、うれしいね。私、頑張ってみようかな?」

心から明るい幸せに美代が笑ってくれる。
幸せそうな笑顔が見ていて嬉しい、今日は一緒に来れて本当に良かった。
けれど予定よりだいぶ遅い時間になっている、周太は美代に訊いてみた。

「この時間だと、もう御苑は閉まってるんだ。だから、今日はちょっと行けないけど、ごめんね?」
「ううん、御苑はまた今度行けるもの?でもね、青木先生の研究室は千載一遇のチャンスだった、でしょう?」
「ん、ほんとにそうだね?…あ、」

ふと周太は携帯の振動に立ち止まった。
ポケットから出して「ちょっとごめんね?」と断りを入れて開いて見る。
見た画面の発信人名に周太は微笑んだ。

「あ、お母さんからだ、」

今日はもう仕事が終わったのかな?
そう画面を見ていると美代が、笑って促してくれた。

「今日は、お家に帰るのよね?お買い物のお願いかも、早く出てあげて、」
「ん、ありがとう、」

素直に頷いて通話を繋ぐと、周太は携帯を耳に当てた。

「周?いま、どこにいるかな?」
「ん、今ね、東大を出て来たとこだよ?もうじき、湯島の駅だけど…」
「あのね、周。中央線が雪で、止まっているみたいなの、」
「え、…中央線、そうなの?」

驚いて周太は立ち止まった。
美代は中央線で奥多摩に帰るから、止まってしまうと帰れない。
困ったなと思っていると、母が電話のむこうで笑ってくれた。

「だからね、周?ご家族に許可を頂けるなら、うちで美代ちゃんに、泊まって貰ったらどうかな?」

それは楽しそうな提案だな?
庭の畑や木を見て貰えたら、きっと嬉しいだろうな?
そんな想いと微笑んで周太は母に訊きかえした。

「泊まって貰えたら、楽しそうだね?」
「ええ、きっと楽しいわ。お母さんもね、美代ちゃんと会ってみたいし。お誘いしてみてね、」
「ん、また決ったら、連絡するね?」

電話を切って隣を見ると、もう美代は携帯を手に持っている。
きっと会話で解かったんだろうな?そう見た周太に美代が携帯の画面を見せてくれた。

「ほんとね、中央線、ダメみたい。あっちは凄い雪なのね?」

英二は今日は週休、だけれど遭難通報があれば召集を受ける。
電車が止まるほどの雪、英二は大丈夫だろうか?心配を思いながらも周太は訊いてみた。

「あのね、母からなんだけど。良かったら、うちに泊まりに来てくださいって。美代さんに会ってみたいって、」
「ほんと?楽しそう、いいな、おじゃまして良い?」

嬉しそうに美代が笑ってくれる。
こんなに喜んでもらえるなら良かったな?微笑んで周太は頷いた。

「ん、もちろん。ご家族の許可をもらえるなら、どうぞ、って」
「それならね、まず大丈夫よ、きっと、」

言いながらも美代は、さっさと家に電話を架けた。
そしてすぐに会話が終わって、美代は可笑しそうに笑いだした。

「シッカリ泊めてもらいなさい、だって、」
「しっかり?」

どういう意味だろう?
そう見た先で美代は可笑しくて堪らないよう笑った。

「あのね?うちの人達、みんな湯原くんのこと、大好きなのよ。いまどき珍しい、上品で良い男の子さんだって。
それで皆してね?湯原くんを、私のお婿さんにしたくって仕方ないの。そういうわけで、泊めて貰うのは大歓迎なんだって、」

なんだかそういうのは恥ずかしいし困ってしまうな?
気恥ずかしく困惑したまま周太は、地下鉄の駅に歩きながら母に電話を架けた。



川崎に着いたのは18時だった。
本屋によって、それから少し買い物を済ませると家路を歩き出した。
雪に鎮まる住宅街は黄昏なずむ空気が優しい、灯り始めた街燈のなか美代が微笑んだ。

「こういうのが、住宅街、っていうのね?いろんなお家がいっぱいね、」

物珍しそうに美代は楽しく辺りを見回している。
奥多摩の農家に育った美代には、こうした景色は珍しいのだろう。
なんだか森の妖精が街に遊びに来たみたいだな?楽しくなって周太は微笑んだ。

「美代さん、明日の朝、すこし散歩してみる?」
「それ素敵ね?でも、こんなに珍しがってる私は、田舎者丸だしよね?」

可笑しそうに美代が笑ってくれる。
けれど、なんて答えたらいいのかな?すこし困りながら歩くうち、家の前に着いた。
ふるい木造門も雪化粧に輝いている、そっと門扉を開くと美代が嬉しそうに微笑んだ。

「雪の森ね?…花と雪、きれい、」

庭は白銀かがやく花々に埋もれていた。
雪の花に晴れ始めた空、銀月が掛かる庭は静謐が優しい。
雪を払ってくれてある飛石を踏んで玄関を開けると、美代は嬉しそうに微笑んだ。

「素敵、洋館なのね。湯原くん、王子さま?」
「ううん、家が古いだけだよ?」

こんなふうに言われると恥ずかしいな。
なんだか色々と困りながら、周太は玄関扉を閉めた。

(to be continued)

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第42話 雪寮act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-11 23:59:02 | 陽はまた昇るanother,side story
学府の扉、ふる雪に開いて



第42話 雪寮act.1―another,side story「陽はまた昇る」

木曜夜の新宿は喧騒賑やかだった。
年度末にかかり送別会も多い街は、アルコールの香が華やいでいる。
繁華な夜22:38、夕方から続く雨が雪に変わった。

「雪だ、」

華美なネオンに真白な粉雪がふりそそぐ。
白く優しい冷たさに、酔った顔が喜び見上げだした。

「うわ、早く帰らないと、電車ヤバいって、」
「もうオールにしようよ?」
「いまから店、入れるかな、」

立哨する交番入口で、様々な声が聞こえてくる。
雪にはしゃぐ人波を見つめながら、周太は雪空の彼方そびえる山稜を想った。

…きっと、奥多摩は雪…英二、すこしは今日は、休めたのかな?

昨日まで英二は穂高連峰で、雪壁の登攀訓練をしていた。
そして青梅署に帰ってきてすぐ召集が掛かり、2日掛かりの遭難救助に今日まで入っている。
きっと登攀訓練もハードだったろう、そのまま救助に入るのでは疲れて不思議はない。

…英二、疲れていないかな?大丈夫かな…

訓練と夜間の救助活動が続いたから、もう4日ほど声を聴いていない。
それでもメールで元気な様子は送ってくれている、けれどやっぱり心配にもなる。
もう雪崩で負った英二の怪我はすっかり癒えていた、でも心配はしてしまう。

…ちょっと、心配性になり過ぎ、かな?

こんな自分は、すこし恥ずかしい。
熱くなってくる首筋をさり気なく撫でていると、交番のガラス扉が開いた。

「おつかれさま、湯原。交替だよ、少し早いけど上がって?」

先輩の柏木が笑顔で声を掛けてくれる。
左手のクライマーウォッチを見ると22:50になっていた、いつの間に時間が経ったのだろう?
すこし驚いて、けれど素直に笑顔で周太は頭を下げた。

「すみません、ありがとうございます」
「このまま、2時間くらい仮眠しておいで?雪も降りだしたから、街も落ち着くし。ゆっくりしてくれて良いよ、」

優しく笑って2階へと柏木は送りだしてくれた。
いつもながら穏やかな先輩の親切な言葉に、素直に感謝して周太は2階へ上がった。
休憩室の扉を閉め、上着と制帽を脱ぎハンガーに掛けて、ネクタイを緩める。
それから仮眠用の布団を敷いてスタンドを点け、目覚ましをセットした。

「ん、これでいいな?」

これで準備はいい、微笑んで周太は携帯をひらいた。
見ると受信メールが入っている。

「英二と、美代さん、かな?」

嬉しくなって受信ボックスを開くと、3件入ってる。
時間が早い順に周太は開封してみた。

From:小嶌美代
subject:明日だね
本 文:こんばんは、当番おつかれさまです。
  いよいよ明日だね、楽しみで今夜眠れるか心配です(><)
  忙しいだろうから、レスはしなくていいからね?それより少しでも仮眠してください。
  明日の講義、もしも寝ちゃったら一生後悔しそうだから。でも湯原君でそれは無いね?(^^)
  では明日12時半にね、午後半休も定時であがります。
  雪でも絶対に行きます!

「ん、ほんと、楽しみだね?」

ほんとうに楽しみにしている様子の友達が嬉しい。
自分が好きな事を一緒に楽しめる、そういう友達は本当に良い。
大好きな友達の文面に微笑んで、周太は短く返信を作った。

T o:小嶌美代
subject:明日
本 文:こんばんは、メールありがとう。
  明日、俺もすごく楽しみ。雪だったら気をつけて来てね?
  では明日12時半に。仕事、がんばって終わらせてください。

送信を押して、次のメールを開封してみる。
その送信人名に、つきんと周太の心は小さく痛んだ。

From:国村光一
subject:無題
本 文:今日も救助があったけど、ほんとは宮田に救助されたのは、俺だった。大好きだね、

文面に微笑んで、周太はそっと呟いた。

「…そんなの、わかってるよ?光一…」

もう最初から、ずっと解かっている。
そうじゃなかったら光一に、あんなにも自分は嫉妬しなかったろう。

「だって、ずっと見てるんだ、俺は…英二のことだけを、」

この1年前に出逢って、ひとめ見た瞬間から心に刻まれた。
美しい冷酷な微笑の底から見つめてくれた、真直ぐな視線が心を浚いこんだ。
あの視線のむこう側にある、素顔のこの人に逢いたい。
そんな想いで迎えた入校式は、同じ教場で同じ班で、隣の部屋で嬉しかった。
あれから、ずっと英二のことを見つめている。

だから解かってしまう。
誰が英二を見つめているのか、どんな想いで英二を見つめているのか?

―…大好きなんだ、雅樹さんのコト。だから本当は俺、雅樹さんをアンザイレンパートナーにしようって思ってた

そんなふうに、光一が話してくれた時にもう、自分は悟っている。
光一にとって英二がどんな存在になっていくのか?

「光一?ほんとうは…雅樹さんの分も、英二のこと、すごく好きだよね?…わかってるよ、」

雅樹が亡くなったのは、周太と光一が出逢う1年ほど前だった。
きっと光一の心の傷は生々しかった頃だろう、そんな時に光一が愛する山桜の下で周太は遊んでいた。
あのとき周太を見て光一が「山桜の精ドリアード」と信じたのは、縋る想いもあったかもしれない。

「俺のこと、好きになってくれたのも…花や木が好きだった、雅樹さんの事もあったから、でしょう?」

もしあのとき、山桜の下に居たのが英二だったら。
それこそ光一にとって唯一の、最愛の恋愛相手との出逢いだったかもしれない。
こんなふうに運命は、どこか小さな擦違いに不思議な足跡を残していく。

「…どんな意味が、あるんだろう?」

ほっと呟いて周太は返信を書くと、送信を押した。

T o :国村光一
subject:おつかれさま
本文:救助おつかれさまでした。俺もね、いつも英二に救助されてる、大好きなんだ。

2つのメールが終わって、3つめのメールを開く。
開封メールを見た瞬間に、周太に笑顔が咲いた。

From :宮田英二
subject:逢いたいな
本 文:おつかれさま、周太。ずっと電話できなくて、ごめんな。
    今日の午後は、すこし昼寝してから吉村先生のお手伝いをさせて貰ってきた。
    今はもう部屋に居るよ、何時でも良いから電話してほしい。声を聴きたい。
    逢いたいよ、あと10日が長いな。

「ん、…俺もね、逢いたい、」

同じように想ってもらえて嬉しい。
嬉しいままに着信履歴から周太は、電話を架けた。
すぐ1コールで繋がって、電話のむこうに周太は微笑んだ。

「おつかれさま、英二?…昨日と今日は救助、大変だったね、」
「周太こそ、おつかれさま。ずっと電話できなくて、ごめんな、」

きれいな低い声が謝ってくれる。
4日ぶりに聴けた声が嬉しい、そっと熱くなる頬を撫でた。

「ん…仕事も山も、英二は一生懸命だから、…そっちは雪、ふってる?」
「うん、夕方から雪が降りだした。新宿はどう?」
「さっき雪に変わったよ?…でも、すこしだけ…あ、」

雪、で思い出したことに周太は笑った。
この4日間に送ってくれた写メールのお礼を言いたい、周太は口を開いた。

「穂高と槍ヶ岳の写メール、ありがとう。雪山きれいだった」
「気に入ってもらえたなら良かったよ?そっか、新宿も雪なんだ、」
「ん、夕方は雨だったけど、…そっちは積もってるよね?気をつけてね、」
「うん、気をつける。周太、明日は美代さんと公開講座だよね?雪積ると、電車とか遅れるからさ。気をつけて行ってこいな、」

自分が楽しみにしている予定を、きちんと覚えてくれている。
きちんと記憶して心配してくれる心遣いが嬉しい、嬉しくて周太は微笑んだ。

「ありがとう、すごく楽しみなんだ、明日は…雪でも絶対行こうね、って美代さんと約束したんだ、」
「楽しそうで、なんか俺も嬉しいよ?」

優しい綺麗な声が笑ってくれる。
きっと今、自分が大好きな笑顔がむこうで咲いている。
その笑顔を心に見つめていると、大好きな声が訊いてくれた。

「ね、周太。4日ぶりの電話だね、寂しいなとか思ってくれた?」

そんなこと決まっているのに。
気恥ずかしく想いながらも周太は正直に言った。

「それは、さびしいよ?…暫く一緒だったから、余計に、ね?」

一週間ほど前まで、英二は静養のため川崎の実家で1週間を過ごした。
あのとき周太もシフト交替のお蔭で休めて、2度の当番勤務以外は実家に帰っていられた。
あの数日間は一緒の時間が幸せで。ずっと一緒に居れたらいいのに?そんな想いが最後の日は哀しかった。

「うれしいな、俺、周太のこと、いっぱい考えてたよ?」

ずっと聴いていたい声が想いを告げてくれる。
うれしくて素直に周太は訊いてみた。

「そうなの?…いつも?」
「うん、いつも。俺ね、ワイン持っていったんだ、だから夜も周太のこと、想いだして話してさ。あの夜が懐かしくて、逢いたかった」

ワイン、あの夜。
この2つの単語が示す意味が、面映ゆい。
恥ずかしいけれど幸せで、あまやかで熱い幸福な記憶が蘇ってしまう。
きっといま顔は赤いんだろうな?気恥ずかしいけれど周太は微笑んだ。

「ん、…恥ずかしいね…でも、うれしいな?…ね、俺のこと、光一と、どんな話をしたの?」

空気が、いったん止まった。
どうしたのかな?首傾げて電話のむこう窺うと、頭を下げる気配がして、申し訳なさそうな声が言ってくれた。

「ごめん、周太。周太を大人にしたこと、自白しました、ごめんなさい!」
「…っ、」

あの夜の話を光一にしちゃったの?

これはすごく恥ずかしい、これから光一にどんな顔すればいいだろう?
けれど光一のメールには、なにも触れていなかった。

―…花の美しさを君に贈ったよ、俺は…周太、俺にはなにか、貰えないの?
  ずっと手つかずだったらね、いつか俺、お初の誘惑に負けちゃうかもしれない…そしたら、ごめんね?

英二の精密検査を待つ梅林で、雪のなか告げられた言葉たち。
光一の想いに自分は応えられない、それが残酷と知りながらも正直な想いを自分は告げた。
また家に遊びに来てくれたら、茶を点て、育てた花をお土産にあげる。そう告げた。
そして告げた通りに自分は、静養を終えた英二を迎えに来てくれた光一に花束を贈った。
あれからも光一はメールや電話をくれる。

そして英二が「自白」した後も光一は今までと変わらず接してきた。
それが何故なのかも本当は解かってしまう。

『大人にしてほしい、』

この望みを周太が英二に言えたのは、光一が自身の望みを告げながら周太の背中を押してくれたからだった。
あのとき光一はもう、周太が英二に望みを告げることも覚悟していた。だから今回も英二に確認したくて聴いたのだろう。
きっと光一なりに答を持って英二に祝福してくれたはず、この潔い初恋相手の面影に微笑んで周太は英二に尋ねた。

「ん、…どんなふうに話したの?」
「うん、誘導尋問っていうか…ね、周太?正直に全部、言っても良い?」
「ん、いいよ?」

正直に全部話して貰えたら、うれしいな?
そう素直に笑いかけた電話のむこうから、覚悟するよう呼吸ひとつ零れて、正直な告白が始まった。

「まずね、『宮田の処女喪失に乾杯』って言われたんだ、『バック貫通したんだろ』ても言われてさ。
それで、セクハラですかって切り替えして。そのあとは暫く別の話題だった、でも周太とワインを飲んだ話になって言われたんだ。
『ワインで眠らせた隙にでも、お初頂戴したんだろ?泥酔に童貞強姦だなんて鬼畜フルコースだね、このケダモノ』
俺、思わず弁解しちゃって。酔っていたけど周太は起きてた、大人にしてって言ってくれたの朝も覚えていたって。その後は済崩しで…」

しょじょそうしつばっくかんつうどうていごうかんってなに?
正直に告げられる単語の洪水に、周太の頭は押し流されて真っ白になった。



翌朝の新宿は白銀の街だった。
交番前の雪かきをして、それから周太は新宿署独身寮に戻った。
勤務明けの風呂を済ませて食堂に行くと、ちょうど同期の深堀がテーブルに座るところに会えた。

「雪、すごいな?今朝起きてさ、俺、びっくりしちゃったよ、」

深堀が人の良い顔で笑っている。
朝食の煮物を茶碗に運びながら、周太も頷いた。

「ん、もう3月も終わりなのに、驚いたな?…駅前も、真白だったんだ、」
「駅前でだと、公園とか奥の方はすごいだろね?あ、雪って言えばさ、宮田、今度は滝谷っていう雪の壁を制覇したんだってね、」
「あ、…百人町の所長に聴いたんだ?」

深堀の所属する百人町交番の所長は警視庁山岳会に所属している。
それで英二の噂を同期だからと深堀は聴かされているらしい。
今度はどんなふうに英二は言われているのかな?すこし首傾げた周太に深堀は気さくに教えてくれた。

「うん、警視庁山岳会で話題みたいだね、宮田とパートナーの先輩、」
「話題なんだ、英二?」
「そうだね、滝沢の三スラっていう難しい所も登っているし、これは本物だな、って言ってたよ」

やっぱり注目を浴びている。
こんな現実を聴かされると、光一が英二の遭難事故を隠匿した理由がよく解る。

…やっぱり、あの判断は的確だったんだ

こんなにも英二は、注目されている。
この注目には「才能あふれる新人」という期待と「エースと組めて幸運なだけ」という嫉視が混じるだろう。
そういう英二の立場を思うと慎重になるべきことも多くなっていく。
今後を考えながら玉子焼きに箸つけていると、深堀が続けてくれた。

「しかも宮田ってさ、遭難者の方への接し方が優しくて、ご遺体の扱いもすごく丁寧なんだってね?
でも、遭難事故で亡くなった方や、自殺されたご遺体って酷いだろ?だから所長も感心していたよ、最初から出来るのは難しい、って」

そのことは周太も、吉村医師や後藤副隊長からも聴いている。
同期の藤岡にも聴いているし、光一も褒めてくれていた。
そういう英二の優しい懐を認めてもらえるのは、うれしい。

「ん、英二ってね、そういうところ本当に、すごいな、って俺も思うよ…藤岡も褒めてた、」
「藤岡も山岳救助隊だもんね、あいつも良いヤツだよな。ずっと会っていないけど、元気?」
「ん、元気だよ?鳩ノ巣駐在ってところにいるんだけど、柔道の指導もしている、」
「へえ、すごいな。藤岡って、柔道強かったもんな?懐かしいな、」

こんな他愛ない同期との話が楽しい。
ほんとうは英二と離れているのは寂しい、けれど、こうした時間があるから英二への第三者の評価も聴かせてもらえる。
きちんと聴けるのは嬉しいし、英二のことを客観的に見る機会にもなって良い。

…やっぱり妻になるんなら、夫のことはね、ちゃんと理解できていないと…あ、

また妻とか夫とか考え始めちゃったどうしよう?
こんなこと考えると昨夜の電話でも話題になったばかりの、あのよるのこととかおもいだしてしまうのに?
あの夜も、それから他の夜も朝も幸せだったから、ひとりの時は思い出して幸福に浸る時もある。
だから今も油断すると、英二の台詞と姿が出てきそうで困ってしまう。

…だめ。英二のせりふとか思い出しちゃダメ、ぜったいいまはだめ、

 『可愛いな、幼妻みたいだ。こんな周太も大好きだよ?』

…それだめっ、このさきはぜったいにおもいだしちゃだめ、えいじ今はでてきちゃダメっ、いまはあさですっ

あの幸せな時間の台詞と美しい姿が、つい思い出されてしまう。
けれど、こんなの今は絶対に恥ずかしい、こんな場所では気恥ずかしい。
食事の箸を運びながらも首筋が熱くなっていく、もう頬まで赤いかもしれない。
なんだか困りながら周太は、深堀の話に頷きながら少しだけ急いで箸を運んだ。


美代と無事に待合わせが出来て、私鉄から地下鉄を乗り継ぎ、本郷に着いた。
白銀にそまる弥生キャンパスの門を潜ると13時だった。

「講義まで1時間くらいあるな。ね、湯原くんは、お昼って食べた?」

明るい笑顔で美代が訊いてくれる。
午前中いっぱい仕事して、そのまま来た美代は食事していないだろうな?
自分も軽くパンを食べただけだし、周太は提案してみた。

「ちゃんと食べてないんだ、俺。学食とか、行ってみる?」
「うれしい、大学の学食って行ってみたかったの。それに実は、お腹空いちゃってて、」

楽しげに笑って美代は賛成してくれる。
美代は農業高校を卒業して、そのままJAに勤務しているから大学を知らない。

…もしかして美代さん、大学に憧れているのかな?

そんなことを考えながら周太は、学食の食券売り場で美代と一緒にメニューを選んだ。
それぞれトレーを持って席に着くと、楽しげに美代は辺りを見ながら箸をとった。

「大学の学食って、こんな感じなのね?ごはんも丼だし、量も多いのね、」
「ん、ここは農学部だから、体動かすから、特にかも?」
「湯原くんの大学はどうだったの?」
「俺は工学部だったけど、男子ばっかりで…だから、量も多かったかな、」

大学の話をしながら、お互いに丼を抱え込んでいる。
なんだか美代が丼を持っている姿は、ある意味様になって可愛らしい。
意外な組み合わせが似合うってあるな?思いながら周太は、さっき思ったことを美代に訊いてみた。

「美代さんは、大学に行こう、って思わなかったの?」

唐揚げに箸を運びながら美代がこちらを見てくれる。
きれいな明るい目は笑って、そして教えてくれた。

「うん、本当はね、大学は行きたかったの。でも、私の周りで大学行く人、あんまりいないの。
しかもね、光ちゃんも高卒でしょ?光ちゃんが大学受けないんじゃ、私は絶対に大学なんて受からないかも、って思っちゃって」
「美代さん、頭良いのに?…どうして、光一と比べて、諦めちゃうの?」

なぜだろう?
不思議で訊いた周太に、美代は教えてくれた。

「光ちゃんってね、すごく頭良いの。小学校から中学まで、ずっとオール5だし、高校もオール10でね。
中学と高校の時は入学式でも卒業式でも代表やってるの、首席だったから。だからね、私レベルだと言いだし難くって、」

光一の頭の良さは周太も納得が出来てしまう。
でも、それと光一が大学に行かなかったことは、観点が違うだろうに?
思ったことを周太は言ってみた。

「光一が大学に行かなかったのは、早く山岳救助隊になって、毎日ずっと山を登って、世界の高い山に行くためだよね?
 大学に行くことが難しいから、じゃなかったと思うけど…だから、美代さんは遠慮すること、無かったんじゃないのかな?」

「そうなのよね?ほんと、後からそれに気が付いちゃって、私。馬鹿よね、」

明るく笑って美代が頷いてくれる。
そして笑いながら、こっそり美代は教えてくれた。

「だからね?私、実は大学に行こうかな、って今、計画中なの、」
「そうなの?」
「うん、まだ誰にも言っていないんだけどね、」

内緒の話よ?
そう明るい目が笑って、計画を打ち明けてくれた。

「JAに勤めてからね、すこしずつだけどお金を貯めてあるの。それを使って、大学に行こうって考えてて。
でもね、ちょっと仄めかしてみたら両親は反対なの。結婚が遅くなるぞ、って言われてね?だから、もう内緒で受験しようと思って、」

こういう夢の内緒話を、友達から聴かせてもらえるのは嬉しい。
この夢になにか自分も協力出来たら良いな、うれしい想いに周太は頷いた。

「ん、絶対に誰にも話さないよ?…あの、俺で良かったら受験の勉強、すこし教えられるかも、」
「うれしい、ほんと言うとね?そう言ってもらえること、当てにしてたの」

当てにしてもらえるのは嬉しいな?
気恥ずかしく想いながら周太は微笑んだ。

「喜んでもらえるなら、うれしいけど…ちょっと恥ずかしいな?」
「恥ずかしくないよ?だってね、湯原くんは教え方が上手って、秀介ちゃんに聴いたの、」

秀介とは暫く会っていない。
いま聴いた自分と似た名前の少年が懐かしい、周太は微笑んだ。

「秀介が?…うれしいな、」

まだ秀介は小学校1年生だけれど、祖父の遭難死を透して医者の道を志し、もう努力を始めている。
そのために熱心に勉強を進める秀介は、御岳に遊びに来た周太にもドリルを教えてほしいと訊いてくれた。
そういう秀介は年齢はずっと下だけれど、尊敬できる友達だと思う。
久しぶりに会いたいな?懐かしい友人の面影に周太は微笑んだ。

「秀介、元気?」
「うん、相変わらず宮田くんに、勉強を教わりに行ってるみたいよ?秀介ちゃんからもね『周太さん会いたいです』って伝言、」
「ん、俺も会いたいな…4月にね、母も一緒に奥多摩に行くと思うんだ、」
「湯原くんのお母さん、すごく素敵なんだってね?光ちゃんも言ってたの、お会いしてみたいな、」

楽しい会話と食事を進めて、トレイの上はきれいに平らげられていく。
ボリュームの多い昼食を終えると、下膳口にトレイを下げて美代と周太は学食の出口に向かった。

「君、一年生?」

出抜けに声かけられて、美代と周太は同時に声の方を見た。
見た先で、ここの学生らしい男が2人で立っている。

なんだろう?

ふたり揃って疑問形の顔で眺めていると、学生達が美代に話しかけ始めた。

「すごく可愛いな、って思って声かけちゃったんだ。春休みなのに大学来るなんて、偉いね?」
「それとも4月の新入生で、今日は見学とか?」

どうやら美代を気に入って声を掛けたらしい。
周太は初めて見るナンパの現場に、目を大きくして眺めこんだ。

…やっぱり、美代さんってモテるよね?

なんだか深く納得しながら周太は、友達の顔と学生たちを見比べた。
美代は聡明さが顔にも明るく表れているけれど、華奢で可愛らしいから若く見えてしまう。
だから学生達も完全に美代を、新入生だと思いこんで話しかけているのだろう。

「見学ならね、俺たちが案内してあげるよ?その友達も一緒でも良いけど、」
「本郷キャンパスの学食の方が、ゆっくりできるからさ?一緒にお茶しようよ、」

ナンパって、いろいろ頑張って喋るんだな?
自分には到底出来そうにないな?
つい感心して周太は眺めていると、美代は可笑しそうに笑って口を開いた。

「ごめんなさい、これから私達、デートなの。ね?」

可愛らしい声で言いながら、美代は周太の掌をとってくれる。
そして手を繋ぐと、愉しげに学生たちに会釈をした。

「じゃあ、失礼します。ね、周くん、早く行きましょ?」
「あ、ん、」

しっかり手を繋いだ美代は、周太を引っ張って歩き出した。
そうして学食を出て、そのまま3号館から雪のなかへ出ると美代は笑いだした。

「あははっ、学生に間違われちゃったね?いまから入学しても大丈夫、ってことかな?」
「ん、充分に大丈夫だと思うけど…やっぱりモテるんだね、美代さん、」

繋がれた手を引っ張られながら、さくさく積もった雪を歩いていく。
白銀にそまったキャンパスは静かで、ほのかな小雪のなか人通りも優しい。
さすがに馴れた足取りで雪を歩く美代は、可笑しくて堪らない顔で笑った。

「ね?意外と私、イケるのね?でも本命はね、誰かさんにぞっこんで、振向かないです」
「…それ言われると、恥ずかしいよ?」
「愛し合っているのは、良いことよ?恥ずかしがらなくていいの、ね?」
「ん、ありがとう…でも、恥ずかしいな?」

美代は英二に恋をしている。
けれど美代は、こんなふうに明るく笑いの種にしてしまう。
そうして周太と一緒に、自分の初恋を楽しもうとしてくれる。
こういう友達が自分に居てくれることが、本当に楽しくて幸せだなと思う。
でも、さっきは急でびっくりしたな?そう思ったままを周太は口にした。

「さっき、いきなり手を繋いで引っ張るから、驚いたよ?…あれって、彼氏のフリする、ってことだった?」
「うん、そうよ?そうしたら、あの人達も諦めてくれるかな、って。あ、ここかな、会場、」

ちょっと面白いデザインの木造建築の前で、並んで立ち止まった。
どこからか現れてくる人々が次々と、この建物の扉を開いて入って行く。
脇にある立派な正門を見ながら、受講証の裏面にある地図と確認した。
どうも位置関係からここらしい、頷いて周太は微笑んだ。

「ん、ここが弥生講堂みたいだね?」

奥多摩の水源林についての、公開講義。
雲取山麓に広がるブナ林の物語を、これから聴かせて貰うことが出来る。
心が喜びあふれるまま微笑んで、周太は抱えてきたブックバンドの本を見た。

『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』

樹木の生命力について、樹木の医師である樹医が記した本。
幼い日に憧れた「植物の魔法使い」が書いた本は、本当に不思議で楽しくて、温かだった。
この本はもう自分の宝物になっている、そんな想いで見つめる隣から、楽しそうに美代が聴いてくれる。

「この青い本でしょ?今日の講師の先生が書いたのって、」
「ん、そう。青木先生が書いたんだ、」

12月、新宿東口交番で青木樹医に初めて出会った。
そして2月に偶然いつものラーメン屋で再会して、この本を周太に贈ってくれた。
そのときに公開講座の案内書と申込書も一緒に渡してくれた、そのお蔭で今、ここに立っている。

「湯原くんの、宝物の本ね?」
「ん、そうだよ?…これはね、俺には宝箱の本なんだ。宝物の知識がね、いっぱい詰まっているよ、」

この青い本には詞書も添えられていた、その詞書は美しく温かい。
この宝箱のような青い本を書いた青木樹医が、今から講義をしてくれる。

…ね、お父さん?これからね、植物の魔法使いの、魔法の話が聴けるよ?

幼い日に父と話していた植物の魔法使い、樹医の話を今から聴く。
幼い日からの夢がひとつ、今日これから叶えられていく。
いま開かれる時間に心が温まるのを感じながら、周太は講堂の扉を開いた。


(to be continued)

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第42話 雪陵Serenade.act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-05-10 23:56:02 | 陽はまた昇るside story
Serenade&Requiem、愛しきひとの安息を



第42話 雪陵Serenade.act.2―side story「陽はまた昇る」

23時になって藤岡は「また明日あははっ」と笑って自室へと引き上げた。
あんなに酔っぱらっても藤岡の足音は、きちんと廊下を歩いて去って行く。

「いつもだけどね、藤岡って、すごいよね?べろべろに酔ってるみたいなのに、足取りはしっかりしてるなんてさ、」
「うん、なんか不思議だよな?藤岡の酒って、」

感心しながら見送る先で藤岡は、擦違った先輩にも陽気な笑顔できちんと挨拶している。
そしてまた真直ぐちゃんと歩いて、自室の方へ向かっていく。

「スゴイ飲んでシッカリ酔って、ものスゴイ陽気な笑い上戸。なんかホント、藤岡って酒の神様みたいだね?」
「そうだな?瓢箪とか持たせたら、似合いそうだな、藤岡」
「あ、それいいね?今度、プレゼントしちゃう?」

扉から顔出して見送りながら、ふたり笑いを堪えてしまう。
明るい元気な性格のまま藤岡の酒は、いつも明るく陽気で楽しい。
そんな藤岡は罹災と祖父の死という困難を越えてきた、けれど悲嘆に翳らず藤岡の心は隈なく明るい。
こういう強靭で大らかな明るさが藤岡の良い所で、レスキューとしての適性になっている。

レスキューの厳しい現場では、救助する側される側の双方にとって明るさは救いになっていく。
しかも青梅署の場合は首都近郊の山域を抱え、遭難救助は勿論のこと自殺遺体の発見件数も多い。
こうした生死の歓びと悲嘆が廻る現場では、強靭な明るい精神が張りつめた心を和ませてくれる。
そんな精神を持った話しやすい同期が居てくれるのは、やっぱり嬉しい。

―藤岡と一緒に配属されて、良かったな

素直な感謝の想いに見送る先で、ちゃんと藤岡は自室の扉を開いて入って行く。
無事の帰室を見届けて、ぱたんと閉じた扉に施錠すると国村は英二に笑いかけた。

「さてと。おまえは、酔っぱらってはいないよね?例の写真、見せてくれる?」
「うん、」

英二は鍵付の抽斗を開くと、底板を外して青色の表装鮮やかな冊子を取出した。
絹張表装の美しいアルバムは、ずしりと持ち応えがある。
手渡すと早速に国村は開いて、まず感心の声に微笑んだ。

「きっちりメモが付いてるんだね、几帳面だな。周太と似てるね、」
「やっぱり国村もそう思う?」

同じように思うんだ?
なんだか嬉しくて笑った英二に、上品な笑顔は頷いてくれる。

「思うね、…なんかさ、ハイクラスの家って感じだね、」
「うん。この頃って写真自体が貴重だろ?なのに、これだけ日常的に写真を撮ってる。すごいことだよな?」
「だね。ふうん、メイドとかもいるんだ。かなりなモンだね…周太、お姫さまなんだな、」

白い指が大切にページを捲っていく。
幾度か華奢な女性の笑顔を見ていくうち、透明なテノールが笑った。

「うん、曾ばあさん、周太と似ているな?」
「だろ?奥ゆかしくて、淑やかっていうのかな。雰囲気とか似てるな、って思う」
「だな、似てる。雰囲気が好いね、可愛い、」

温かに笑んで国村は、丁寧にアルバムのページを捲っていく。
そして一枚の写真にふと白い指の動きは止まった。

「これだな?宮田が言っていた写真は、」

軍服姿の周太の祖父、晉の写真。
その軍服姿の腰あたりに、細い目はじっと注視している。
そして、ほっと息吐いてテノールの声は判断を告げた。

「うん、拳銃のホルスターだって、俺も思うね、」

ごとり、心に重たく昏い塊が墜ちこんだ。

重たく昏く苦い塊。
この塊が落としてくる推論が2つの可能性を示唆してしまう。
この可能性は択一、どちらかが真相になるだろう。重苦しさを抱いたまま英二は訊いた。

「普通はさ、サーベルを提げるんだろ?なのに、お祖父さんはホルスターだ。どうしてだ、って考える?」
「おまえが考えている通りだろうね、」

透明な目が英二を見つめてくれる。
すこしだけ微笑んで、はっきりとテノールが英二に告げた。

「特別に、『射撃が得意』だったからだ、」

周太の祖父、晉の軍服姿に見える拳銃。
晉も拳銃射撃が得意だった、この「得意」が示す2つの可能性が哀しい。
この2つを国村もすぐ気付くだろうな?考えながら英二は微笑んだ。

「でも日記によると、おじいさんは、息子が射撃部に入ることは猛反対したんだ…何故だと思う?」
「息子が射撃をすると都合が悪い理由がある、ってことだな?…ふん、」

透明な目がすこし細められて、覗きこむよう英二を見つめてくる。
ふっと微笑んで、テノールの声は考えを述べ始めた。

「射撃が得意だと知られる可能性は、どんなに小さな芽でも摘みたい。それには『射撃』を身辺から遠ざけておきたい。
だから息子の射撃部は困るんだ、息子が射撃が得意だってなると、自分からの遺伝の可能性を探られるかもしれないからね。
そして、この戦争当時に射撃が得意だった、ってことはね?法律の抵触をしていた可能性が、2つ出てくるだろうな。宮田も思っただろ?」

やっぱり同じ2つに気づくんだな?
こんなふうに解かって、共に考えてくれる存在が嬉しい。
孤独に背負わなくても済むことが心を幾らか軽くしてくれる、すこし笑って英二は頷いた。

「うん、2つあるよな?…やっぱり、国村も思うんだ、」

答えながら、英二はアルバムの最期のページを開いた。
そこに挟みこんだ封筒をだすと、感染防止グローブを出し国村にも渡す。
英二はグローブを嵌めた手で、封筒から古い写真を出した。

「これが、北穂で言っていた写真だな?」
「うん、この写真が貼られていたアルバムの本体は、無かったんだ…」

グローブを嵌めた白い指が、英二の手から1枚の写真を取って細部まで眺めていく。
見つめた細い目が1つ瞬いて、テノールの声は静かに告げた。

「血痕、だな、」

どす黒い斑紋が付着した、セピア色の写真たち。
セピア色に映し出される幸福な笑顔は、暗赤色の染みに蝕まれている。
昏い色彩が翳おとす、1926年から1938年の血痕あざやかな写真たち。
これらが貼られていたアルバム『since 1926』は消失して今は無い。

「アルバムは消えた、そして東屋には血痕があったんだよな?」
「うん。そしてさ、曾おじいさんの亡くなった日は、誕生日の当日なんだ」
「アルバムには、毎年の誕生日会の写真があるな?…でも、その亡くなった日は写真が無いんだ?」
「うん、無いんだ…そしてさ?誕生会の写真見ると、いつもアルバムが曾おじいさんの傍に置かれているんだ、」

ページを捲って周太の曽祖父、敦の誕生会の写真を示す。
そこには今見ているアルバムと同じデザインの冊子が、彼のすぐ傍に映っている。
そして毎年同じ場所で映されている、その撮影場所は、

「撮影場所は東屋なんだ、毎年…その東屋の柱に血痕があった、そしてこの写真にも。国村、どういうことだって考える?」

彼岸桜のもと佇む東屋の、木製の柱に遺された血液の痕。
血痕に染まる1926年から1938年の写真たち、貼られていたアルバム『since 1926』は消失。
周太の曽祖父、敦の死亡月日と誕生日の一致。
周太の祖父、晉の軍服姿に見える拳銃の影が示すのは、晉も射撃が得意だった事実。

そして息子、馨の射撃部活動を猛反対する晉の意図は?
そして、馨が英文学者の道を捨て警視庁に任官した、その理由は?

この全てが指し示す「連鎖の原点」は?

「そうだね?2つの可能性を考るね、」

おまえも思うだろう?
細い目が訊いてくれるのに英二は無言で頷いた。
頷いた英二に微笑んで、冷静なテノールの声が口を開いた。

「曾じいさんが亡くなった日と翌日の新聞記事。俺も今日、web閲覧したんだよ。おまえの言う通りだった」

1962年、敦誕生日の夕方と翌朝に発刊された新聞記事。
これを英二は静養中に、川崎の家のパソコンで閲覧をしている。
50年前の川崎で起きた事件は、新聞掲載されているのか?それを知りたくて閲覧をした。
そして見つけた記事は、予想外なようで想定内の内容だった。

「あの現場は、近所だな?」
「うん、近い…今は家の、3軒隣になる。当時は、あの辺りは殆ど林だったらしい、だから目撃証言は無いんだ」
「宮田は、あの記事に書いてある事は、全て事実だって思う?」
「思いたいけど、でも…自分が見つけたことと、記事に書いてある事は、矛盾が多いよ、」
「だな?…まあ、2つは事実だろうけどね、」

沈思する透明な目が英二の目を見つめてくれる。
見つめながら、国村は淡々と言った。

「遺体の身元と、あの界隈を発砲音が2発響いたこと。この2つは隠蔽出来ない、だから事実だね」

1962年、敦の誕生日当日。
川崎の古い住宅街を、銃声に似た2発の破裂音が響いた。
通報を受けた川崎警察署は界隈を巡回、ちょうど知人宅に訪問中だった警視庁所属の警察官も捜査に加わった。
そして住宅街にある雑木林から、男性の遺体が発見された。

男性は無職50代、こめかみに銃創があり、拳銃を手にしていた。
その拳銃は元軍人だった本人が退役後も隠し持っていた物だった。
銃弾は脳を貫通したらしく左から右へと抜けた弾痕がみられ、銃弾は雑木林に落ちていた。
生活苦による退役軍人の拳銃自殺、それが行政検死の結論だった。

「目撃者がいない、銃声は2発、そしてさ?警視庁の警察官がちょうど近くにいた。これが気になるよね?」
「俺も、同じところが気になったよ?…でも、そうだとしたら、2つの可能性の内、1つは消えるよな?」

この可能性には、消えてほしい。
どちらも残酷な2つの可能性、けれどより残酷な方だけでも消えてほしい。
そんな想いと見つめる英二に、透明な目はすこし笑って頷いてくれた。

「うん、消えるな?不幸中の幸いだね、それでも、もう1つだってキツイ事実だけどさ、」

それでも、最悪な方の可能性は消える。
ほっと溜息を吐いて、英二は微笑んだ。

「でも、よかった。最悪なところだけでも、消えてほしかったんだ、」
「だね。あの記事がなかったらさ、ソッチをまず、考えちゃうよね?」
「うん、考えたとき俺、自分ですごく嫌だった。それもあって、新聞の記事を確認しようって思ったんだ、」

写真を封筒に戻しアルバムの一番後ろに挟みこむ。
それを鍵付の抽斗へと元通りに戻すと施錠して、英二は感染防止グローブを外した。

「銃声の発砲場所は、正確じゃない。そう国村も思うんだ?」
「もちろん。だってさ、おまえの現場検証と矛盾するだろ?だから俺は、違うって思ったね、」

新聞記事よりも、英二の検証を国村は信頼してくれる。
まだ卒配半年程度の自分を信じてくれる、そんなパートナーが嬉しくて微笑んだ英二に、テノールの声は続けた。

「でさ?そう考えると、東屋の血痕は2種類の血液が混合している可能性が出てくる。1種類は写真のと同じ型だろうけどね、」
「うん。この自殺事件っていう判定自体がフェイク、ってことになるよな?」
「だね?そうするとさ、この警察官の存在がポイントなるね、」

グローブを外して英二に渡すと、国村はベッドの窓際に座りこんだ。
窓枠に頬杖ついて外を眺めながら、テノールの声は考えを述べ始めた。

「この警察官が、もし訪問者だとしたら。誰の知人かって考えるとね、キャリアの可能性が高いよな?
 1962年だと、DNA鑑定もまだ無い時代だ。せいぜいルミノール試験だよね、警察関係者かつキャリアなら、隠蔽は容易いよな?」

国村の言う通りだろう。
片づけ終えながら英二は、ちいさくため息を吐いて答えた。

「うん。ルミノール試験は、新鮮な血痕より古い血痕の方が発光が強いから…しかも野外なら、隠蔽は簡単だと思う、」

ルミノール「luminol」
窒素含有複素環式化合物の一種で、科学捜査や化学の演示実験に用いる試薬。

これを用いた「ルミノール試験」は犯罪現場から血痕を探す場合などに利用されている。
試験方法はルミノールの塩基性溶液と過酸化水素水との混液を作り、現場や対象物に塗布または噴霧する。
これを暗所で観察すると血痕であれば青白い化学発光が確認できる、これをルミノール反応と呼ぶ。
そしてこの青色発光は、ヘミンが形成されている古い血痕の方が発光が強い。

「あれって、血液鑑定における予備試験ってトコだよね?」
「うん。まず、本当に血液であるかの鑑定から必要になるよ、」

答えながら英二は脳裏にある鑑識ファイルを開いた。
そこから吉村医師に教わった現場との照合データを言葉に出し始めた。

「血液なのかすら判定できない、だから人間の血液であるのか、ルミノール試験だけでは判断できないんだ。
人間以外の血液に対しても、ルミノール試薬は青色発光する。だから…血痕の偽造も、ルミノール試験だけだと破られない。
あの試験はさ、その後の鑑定をしなければ証拠能力としては低いんだ。でも、1962年当時に自殺案件にされたなら、鑑定までは…」

もし行政検死で「自殺」判定を出したなら?
この場合の可能性について、英二は言葉を続けた。

「前に吉村先生に聴いたんだ。警察医は開業医の嘱託がほとんどで、研修制度も整備されていないって。
法医学の経験者は少ない、しかも検案は検査事項が限られている。それで正確な検案が出来ない警察医も、多いんだ。
行政検死に意見できる自信が警察医に無いから、実際は警察官の行政検死だけで、死因判定をするケースも珍しくないらしい。
この場合に警察官が自殺と判定したら。そのまま検案所に安置して、遺族が引取りに来て、荼毘にふすよな?…簡単に、証拠は消せる」

警察医の実情と、犯罪立件の相関。
この問題はある意味で「慣例」になっている現場も少なくない。
この陥穽を警察官が意図的に利用したのなら?

「警察機構の落とし穴に、ずっぽり嵌めた。ってトコだよね、」

ほっと溜息を吐いて国村は、軽く頷いた。

「ほんとにさ、吉村先生みたいなプロは希少なんだよね?警察医が皆、先生みたいならさ。防げた犯罪もいっぱいあるよね、」
「うん、だから先生、警察医の改善に取り組まれているんだ。今日も、研修用資料を作ってらした、」
「ありがたいよね、俺たち警察官からすると、ホントにさ…こういう落とし穴、減ってほしいよね、」
「俺も、本当にそう思うよ、」

話しながら窓枠に浅く腰掛けて、窓ガラスに長い指でふれる。
雪の冷気が窓ガラスをあわく曇らせている、それでも深夜の底が銀色に輝く様子が美しい。
街路灯に蒼くうかぶ春雪を見つめながら英二は口を開いた。

「この警察官の、その後、って解るかな、」
「うん?そうだね、名前の特定が出来れば、なんとかなるかな。大学のOB名簿とか、手懸りになるんじゃない?」
「OB名簿か、調べやすいし、いい考えだな。あとは…日記に、名前のヒントがあるかな?」

ふれる窓ガラスは冷たい。
指先の冷たさを感じながら雪夜を見つめる傍、テノールの声は静かに言った。

「あると思う、もしあるのだとしたら『その後』が、周太のオヤジさんが警視庁に任官させられた理由、かもしれないね…」

告げられた言葉に、黙ったまま英二は頷いた。
頷いた顔の目許から、ぽつんと涙がひとつ零れて、床に砕けていく。
この「その後」が編み出した哀しい連鎖の束縛が、悔しく、哀しい。

ある男が発砲した、1発の銃弾。

ただ1発の銃弾が、50年間に亘って父子達を廻らす哀しみの連鎖の、原点だという推論。
たった1発、けれどこの1発が、ある家の50年間の幸福を壊し続け、50年を経た今も苦しめている。
そんな推論が本当はもう、哀しいけれど自分の中には見えている。

たった1発、それなのに?

ぽつり、涙がまた零れ落ちていく。
零れる涙には、警察学校の時に周太が言った言葉がリフレインしてくる。
凍える窓の向こう、雪輝く夜を見つめたまま英二は口を開いた。

「周太が前に言ったんだ…おまえは拳銃をなめてる、って、」

涙が頬を伝っていく。
伝う涙のこぼれるままに、英二は泣笑いに微笑んだ。

「ほんとうに、俺は甘かったよ?…1962年だ、銃弾が撃たれて、50年だよ…1発が最初、たった1発が、あの家を、ずっと今も…」

ベッドの軋む音が静かに鳴る。
そっと気配が立ち上がって、隣から温かな腕が英二を抱きしめた。

「どうしてかな?国村…どうして曾おじいさん、そんなことになったのかな?…50年だよ、」

どうして、50年も束縛されなきゃならない?
疑問と哀しみと、50年間の重みが圧し掛かる束縛の痛み。
ただ1発の銃弾が、もし、撃たれなかったなら?痛みと悔しさに英二の目から涙がこぼれた。

「50年を、1発の銃弾に縛られている、あの家は…たった1発の束縛が、50年経っても終わらないままだ。
そんなに重たい堅い、束縛なのか?そんなに難しいのか?それでも周太を、救けられるかな?…周太と、お母さんは、救けたいんだ、」

涙ながれた頬に、頬よせてくれる温もりが優しい。
温もりに佇んでいる英二に、透明なテノールが静かに応えてくれる。

「大丈夫、救けられるね。宮田にはね、俺がいるんだからさ。おまえ1人じゃない、俺が一緒にいるよ?」

やさしいテノールが、そっと心に落ちていく。
抱きしめられるままベッドに腰をおろすと、温かな白い手は英二の頬を拭ってくれた。

「大丈夫、絶対に救けられるね。おふくろさんも、周太も、幸せに出来るよ?」
「…うん、ありがとう、」

素直に涙拭われながら、すこしだけ英二は微笑んだ。
そんな英二に底抜けに明るい目は、からり笑って言ってくれた。

「絶対大丈夫、幸せに出来るね。だってさ?おまえの笑顔は、最高の別嬪だからね、」
「なんだ、俺って、顔だけ?」

思わず英二は笑ってしまった。
笑った英二に底抜けに明るい目が温かに笑んで、透明なテノールの声が言ってくれた。

「ほら、その笑顔だよ?おまえの笑顔ってさ、見てるだけで幸せになれるんだよね。だから、おまえの顔は重要だよ?
しかも宮田はね、優秀な警察官で、この俺のアンザイレンパートナーだ。その上、酒も強い。これだけ出来てりゃ充分、おまえは最強だよ、」

透明な目が真直ぐ英二を見つめて、明るい大らかな優しさに笑ってくれる。
ほっと肩の力が抜けて、可笑しくて英二は笑った。

「俺って、最強なんだ?」
「そ、最強だね。最高峰の竜の爪痕をもつ男だろ、おまえは。だから、さっ、」

ぐいっと引っ張られて、バランスが崩れる。
そして英二は抱きしめられたまま、ふたり一緒にベッドにひっくり返った。

「最強の宮田が一緒にいるからね、俺も、雅樹さんのこと向き合えるんだ。だからね、自信持ちな?」

ふたりベッドにひっくり返ったまま、底抜けに明るい目が微笑んでくれる。
大らかなアンザイレンパートナーの温もりに、英二は笑いかけた。

「うん、ありがとう、国村。おまえに言われると、なんか自信出るよ?」
「だろ?俺ってね、最高のアンザイレンパートナーだろ?」

Yes、って言ってよ?
透明な目が真直ぐ見つめる問いかけに、英二は微笑んだ。

「うん、国村は最高だな?」
「だよね、俺の愛しのアンザイレンパートナー?愛してるよ、で、おまえも俺のこと、愛しちゃってるね?」

無邪気な笑顔で笑って、白い指が英二の額を小突く。
この言葉と笑顔の想いに槍ヶ岳で見つめた想いが重なっていく、素直に英二は笑って頷いた。

「そうだな、パートナーとしてね。でもさ、この体勢は変だよ?」
「変じゃないね。ほらっ、ア・ダ・ム、イヴの腕で安心して眠ってよ、」

愉しげに笑いながら国村は、英二を抱きしめてくれる。
こんなふうにベッドで誰かに抱きしめられるのは、大柄な英二には初めてだった。
なんだか可笑しくて困って、そのままに困り顔で英二は微笑んだ。

「ちゃんと1人で寝れるから、俺。だから安心して、国村は自分のベッドで寝てよ?」
「俺が安心できないね。今夜はここで、イヴはアダムに寄添いたいの…お願い、愛してるなら言うこと聴いて?」
「そんなに抱きついたら苦しいって、こんな馬鹿力のイヴはいないよ?」
「そんなこと言わないで?この力があるから、アダムのこと援けられるのよ。さ、アダム、おやすみのキス、し・ま・しょ?」
「キス無理要らないキス要らないから、って、こらっ、なにまた首にキスしてんの、っ」

―…おしゃぶりの癖で、寝惚けて雅樹の首を吸っちゃうんですよね
 だから朝起きるとね?雅樹の首のところに、いつも可愛いキスマークがついていました
 国村くんが家に来てくれた後は、今でも家内や雅人と話します。おしゃぶり光ちゃんが、あんなに大きくなったな、って

逃げようともがきながら、吉村医師が教えてくれたことが頭をめぐる。
それが可笑しくて思わず英二は笑ってしまった。

「こら、おしゃぶり光ちゃん。23歳になってまだ、おしゃぶり癖が抜けない甘えんぼなわけ?」
「あ、吉村先生に聴いたんだ?」

可笑しそうに国村も笑って、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
けれど、笑んだ透明な目から、ひとしずく涙が頬に溢れた。

「そうだよ?ほんと今も甘えんぼで、寂しいね。だから俺、宮田にじゃれつきたい。それくらい、おまえが大好きなんだよね、」

秀麗な笑顔のままで、涙だけが流れていく。
この涙には弱いかもしれない?こんなふうに周太以外に想うのは予想外だけれど。
もちろん周太に対する想いとは色合いが違う、けれど国村も大切な相手であることは変わらない。
この弱い涙に観念して、英二は大切なアンザイレンパートナーの髪を撫でて微笑んだ。

「うん、俺もね、おまえのこと大好きだよ?だからさ、仕方ないから、今日はここで寝て良いよ。ほら、」

笑いかけながら抱きよせて、ちいさい子にするよう背中を叩いてやる。
きっと今日の遭難救助で国村は、哀しみの記憶で揺すられて不安定にもなっているだろう。
だから今夜は独りになりたくない気持ちも納得出来る、それなのに放り出すことはしたくない。
ここに居て良いよ?目で告げて微笑んだ英二に、テノールの声が笑ってくれた。

「お許し出たね?よし、じゃ、遠慮なく同衾するね、」
「はい、どうぞ?でも変なコトするなよ?」

念のため釘刺しながら英二はブランケットをひきよせた。
うれしそうに国村もブランケットに潜りこむと、無邪気な笑顔は楽しげに言ってきた。

「そんなこと言っても、したかったらするよ?それでもやっぱり、俺のこと可愛いんでしょ、ア・ダ・ム?」
「はいはい、かわいい可愛い。だから、大人しく寝てくれな?」
「はーい、その気分になったらね?」

涙の痕を残したまま、大きな子どもは無邪気に笑っている。
この笑顔が超えた、鋭鋒に聳える蒼穹の点。あの超える瞬間の哀しみと、明るい決意が心の底からふれてくる。
あの想いを今も無邪気な笑顔は抱いている、この想いを今夜は分け持ってやれたらいい。
そんな想いに英二は雪の春宵に微笑んだ。



眠りこんだ春雪の夜、意識の底で歌声を聴いた。



  季節は 色を変えて 幾度廻ろうとも
  この気持ちは枯れない花のように 揺らめいて 君を想う

  奏であう言葉は 心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
  微笑んだ瞳を 失さない為なら…



優しく低く、あまく透明なテノールが、静謐にゆらめいていく。
静かで透きとおる歌声に惹きこまれながら、眠りのまま意識と心は聞惚れている。

この歌声は聴いたことがある、そして、また聴きたいと思っていた。



  降り注ぐ木洩れ日のように 君を包む
  それは僕の強く 変わらぬ誓い

  夢なら夢のままで かまわない
  愛する輝きにあふれ 明日へ向かう喜びは 真実だから…



どこか切ない、あまやかで懐かしい。
求め得ぬものを追うようで、大らかに包むようで、温かい。
やさしい神秘と見つめる峻厳、けれど寄添うよう甘やかせる慕わしさ。

ひそやかな歌声は静かに流れていく。



  残された 哀しい記憶さえそっと 君はやわらげてくれるよ

  はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて 靡く 
  あざやかな君が 僕を奪う

  季節は色を変えて 幾度廻ろうとも 
  この気持ちは 枯れない 花のように…



あまやかで静かな歌声は、無垢の透明にやわらかい。
切ないほど無垢な声に心ごと惹かれていく、横たわる眠りの底にも聲はゆれ響く。
この響きにこもる想いは、なんと言うのだったろう?



  夢なら 夢のままで かまわない
  愛する 輝きに あふれ胸を染める いつまでも 

  君を想い…



心惹きこむ歌声は、やわらかな熱に唇ふれた。





【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】

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第42話 雪陵Serenade.act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-05-09 23:51:08 | 陽はまた昇るside story
Serenade、春の雪に酒を酌み



第42話 雪陵Serenade.act.1―side story「陽はまた昇る」

夕食と風呂を済ませた後、英二の部屋で3人集まって酒を呑んだ。
まず缶ビールを各自1本空けると、いつもと同じ銘柄の一升瓶を国村は嬉しげに開いた。

「やっぱりさ、奢ってもらう酒は旨いよね、」
「うん、今日は特に、なんか旨いな、」

楽しげに国村と藤岡が酒を注ぎ合って喜んでいる。
こんなに喜んでもらえるなら、おごりがいがあるな?
うれしいなと眺めていると、英二にもコップを渡してくれた。

「はい、今宵のスポンサー様、」
「ありがと。その呼び方は、なんか恥ずかしいけど?」

あまい芳香のコップを受けとって英二は笑った。
底抜けに明るい目はすこし考えて、すぐに楽しげに笑って答えた。

「じゃ、パトロン様、」
「…それ、意味が違うんじゃない?」
「あってるよ。可愛い俺を今夜、この酒で、宮田の隣に留めてるんだし?酒で贖うのも、立派なパトロン、」
「いろんな意味で意味違うな?」

可笑しくて英二は笑ってしまった。
そんな英二と国村のやり取りに笑いながら、藤岡はポテトチップを口に入れて感心した。

「うん、この味噌つけて食うとさ?ポテチも上等なツマミになるね、旨いな、」
「だろ?」

藤岡の言葉に国村は得意げに笑った。
白い指でポテトチップつまむと、あわい黄色の散る味噌を付けながらテノールが微笑んだ。

「この柚子味噌はさ?御岳の青年団でちょっと工夫したんだ。でね、美代がメインの開発者なんだよ、」
「へえ、美代ちゃん、すごいな。ここんとこ見てないけど、元気?」
「うん、元気だと思うね。俺もここんとこ、会っていないんだ、」

国村が言った言葉に、藤岡は軽く首傾げこんだ。
首傾げたまま一口酒を飲みこんで藤岡は尋ねた。

「あまりデートとかしないよね?美代ちゃんって、国村の彼女じゃないんだ?」
「だね、姉みたいなもんだよ。昔っからね、」
「俺、最初は彼女だって思ってたよ。でも、違うんだな、」
「否定もしなかったからね、俺も、」

透明なテノールが正直に笑っている。
もう国村は美代との関係を、擬態恋人から公然と脱却し始めた。
ずっと幼い頃から家族同様に想っていた美代を、他の男にとられたくない。そんな我儘から国村は恋人同士のフリをしてきた。
そんな国村に奥手な美代は疑問なくつきあって、結局は23歳まで恋愛しないままでいる。

―…美代はさ?着火点がすごく難しいんだよ、惚れ難いんだ。だから俺が、ここまで独占め出来ていたってワケ

ふっと甦った言葉に、ちいさく英二はため息を吐いた。
北岳で国村から言われた言葉は、あれから時折に現れてしまう。そして今も言葉は1つずつ、ゆるく心を叩きだす。

―…ひとつ教えてやるよ。今は美代、憧れだろうね?でも時間の問題だ、きっと惚れるよ…
 しかも真面目で純情なアノ性格だ?いちど惚れたらね、たぶん梃子でも動かなくなるよ
 生涯ずっと愛され続けるだろね、宮田

美代は、英二に告白をしてくれた。
それは恋というには稚くて「憧れだよ」と英二は笑って答えた。
けれど国村に言われた通りに美代の視線は、会うたびに彩あざやかになってくる。
そんな美代は決して押しつけがましくない、ただ「大切」と大らかに英二の笑顔を喜んでくれる。
美代の恋慕は無償で何も求めない、ただ純粋無垢で綺麗で、まばゆい。
それが、苦しい。

美代は実直で聡明な女性で、純粋な明るい目が綺麗で、素敵だと英二も思う。
今まで会ってきた女の子とは違う、そう解かっている。
けれど、美代へは恋の心は動かない。

自分の恋は、唯ひとりしか見えない。
自分には周太しか見えない、すべて懸けて愛して守りたい。
もう心も体も時間すら、自分の全てを周太に捧げたくって仕方ない。
だから今まで、誰にも絶対させなかった事も、周太には自ら喜んでさせた。
こんな自分は周太以外を恋人として見ることは、到底出来ない。

それでも美代は、周太の大切な友達で、国村の大切な幼馴染で姉代わり。
自分の大切な2人にとって、美代は大切なひと。
そのひとが、こんな自分を心から大切に見つめてくれる。
そんなひとを傷つけたくはない、大切にしたいと想う。けれど、どうしていいのか解らない。

美代の想いが綺麗であるほどに、哀しい、苦しい。

―女の子のこと、こんなに真剣に考えるの、初めてだな…

心にため息が零れてしまう。
そんな心に、快活な面影が黒目がちの瞳で笑いかけてくれた。

―あ、お母さんに相談しようかな?

周太の母なら、きっと良いアドバイスをくれるだろう。
ちょっと恥ずかしい話題だけれど、でも今度会ったら話してみよう。
周太の父の法事であと1週間もすれば川崎に帰省する、そのときに話せるだろうな?
そんなふうに解決の糸口を見つけて、英二は微笑んだ。

「俺もさ、兄ちゃんの奥さんならいるんだよ。姉ってなんか、甘えられるって言うか良いよな、」
「そ、姉って気楽なんだよね?好き勝手させてくれるしさ。」
「なんかわかるな、それ」
「だろ?美代って、のんびりしてて寛容でね。そういうとこが姉っぽいんだ、」
「うん、美代ちゃんってさ、なんでも受け留めて聴いてくれるよね。確かに姉キャラだな、」

ふたりの会話を聴きながら、英二は酒を啜りこんだ。
英二には姉がいるけれど、たしかに姉はそういう感じだなと頷ける。
そういう意味では周太の母は英二にとって、姉のような存在でもあるかもしれない。

「聞き上手なんだよね、美代。そういうとこ、周太も同じだよね、」
「あー、確かに。湯原って物静かでさ、聴いてくれる雰囲気あるよな。癒し系の天然でさ、あの2人ちょっと似てるよな、」
「だろ?」

たしかに美代と周太は似ている雰囲気がある。
やっぱり藤岡もそう感じるんだ?なんだか感心していると国村が笑って言った。

「で、2人は気が合うみたいでさ?今日はデートなんだよね、周太と美代は、」

―周太と美代さん、確かに今日はデート、だよな?

ほっと溜息吐いて英二はコップの酒を啜りこんだ。
さっき周太からもらったメールの内容が、本音を言えば気になって仕方ない。
いったい今頃は周太、どうしているのだろう?考え巡る前で、藤岡は人の好い笑顔で頷いた。

「美代ちゃんと湯原か。うん、天然系優等生同士で、お似合いかもな?」

“お似合い”
この言葉が英二の掌から、コップを滑らせた。

「…っ、」

滑り掛けたコップを英二は、もう片方の手で受けとめた。
いま自分が考え込んでいたことを指摘されたようで、途惑ってしまう。
それでも落着いてコップに口付けると、愉快にテノールの声が言った。

「だろ?で、美代のばあちゃんと、おふくろさんに俺、言われたんだよね。美代の婿にしたいから、協力しろってさ、」

酒が、英二の気管に落ちこんだ。

「…ごほっ、ごほんごほこほっ、ごほっ、」

盛大に喉が振るわされて、咽こんでとまらない。
咽せながら英二の目の端に、激しい咳で涙が浮んだ。

― 美代さんの、婿に、協力…

婿にしたい、そう言われたと周太自身にも聴いている。
優しくて家庭的かつ優秀、そんな周太を婿に欲しがる家庭も女性も多いだろう。
そのことは英二も元から解かっている、だから周太に聴いた時も「やっぱりね」と笑っていられた。
けれど国村に根回しを頼むだなんて、結構本気なんじゃないだろうか?

美代の家は代々の農家で古い家柄らしい、そういう居住まいの良さは美代を見ていても解かる。
だから美代の家族が、古風に端正な周太を気に入ることも理解できてしまう。
そして周太の家柄の雰囲気と、美代の家の雰囲気は、きっと相性が良い。

― 確かに、お似合いだよ、な…

ふたりは今日、午後からずっと一緒に過ごしている。
大学の公開講座を一緒に受講して、本屋に行って、食事をして。
ふたりはお互いに、大好きな友達と一緒の時間を純粋に楽しんでいるだろう。
けれど、傍から見たら周太と美代は、さぞ似合いの可愛らしいカップルに見えるに違いない。
それがなんだか、哀しい。

ふたりとも植物と料理が大好きで、共通の話題も豊富。
ふたりとも純粋で真面目で優等生、好きな場所や本の趣味も合う。
そして美代と周太なら、男女のカップルだから正式な結婚だって出来る。
なによりも、跡取りを望むことが出来る。

自分と周太では、子供は望めない。
だから父も英二を連れ戻すべきだと周太の母に頭を下げた。
けれど周太の母が英二を息子に迎えたいと言ってくれたから、留まることが出来ている。
周太の母も周太も、英二を家に迎えたいと心から望んでくれる、信じ、頼りにしてくれる。
それでも、英二の存在が湯原家の「血統の断絶」を意味することは変わらない。
けれど、美代なら「断絶」を「継続」に繋ぐことが出来るのに?

「…っ、ごほごほっごほんっ、こんこんっ、」

言いようのない哀しみが、激しい咳の涙に零れていく。
この捉えようのない、どうにもならない哀しさが、咳と一緒に吐き出せたらいいのに?
そんな哀しいまま咽こむ英二に、白い手がコップを差し出してくれた。

「ひどい咽せ方だね、はい、」
「…ありが、ごほごほっこほ、こほんっ、」
「礼は良いからさ、早く飲んで落着きなね?ほら、」

底抜けに明るい目が優しく笑んで、英二の掌にコップを持たせてくれる。
素直に受け取って英二は、コップに口付けて飲みこんだ。

「…ん?」

なんで水が甘いんだろう?
そんな疑問の答えの様に、ふわり芳香と強い熱が胃からはい昇った。
この味と香はそうだろうな?可笑しくて英二は笑った。

「国村?これ、おまえの作った酒だろ、」

問われて底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑っている。
その愉しげな笑顔から透明なテノールが、あっさり自白した。

「そうだよ、俺の特製お手製の、日本酒だよ。旨いだろ?」
「旨いけどさ、アルコール度数すごいだろ、これ?」

ちょっと呆れながら英二はコップに口をつけた。
さっき咽たとき、一息に半分ほど飲んでしまっている。
さすがに少し良い気分かな?少し熱る頬を撫でる英二に、国村が笑った。

「うん、普通の日本酒の3倍くらいかな?ちょっとで酔えていいだろ?」
「まあね、でも日本酒でこれって凄いな?ズブロッカみたいな後口がある、」

日本酒は基本、米と米麹だけで醸造する。
ウィスキーのような蒸留をしないで、これだけのアルコールが出るのは難しいだろうな?
そう思っていると実家が米農家だった藤岡が、興味深く質問をした。

「なあ、この酒ってさ、普通に醸造酒だろ?普通の酒米だと、ここまでのアルコール生成って難しいよな?」
「米の開発からしたからね、俺。米自体の糖度を上げたんだ。で、アルコールは糖分の転化で生成されるだろ?」
「あ、なるほどね。それでアルコール度数を高く醸造できるんだ?じゃあ、米自体がかなり甘いよね?」
「甘いよ、だからさ?和菓子屋の餅用にも作ってほしいって頼まれてるんだよね。でも、そんなに大規模にやるのは、難しい」
「酒米って、品種によったら難しいもんな?俺んちも酒米やっててさ、山の田んぼだから無事だったんだけど、兄ちゃん奮闘してるよ、」

現場の人間らしい会話に感心しながら、英二はコップを傾けた。
ふわっと抜ける熱感はアルコール度数が高い酒特有のもの。
こんなのを酒が弱い人間が呑んだら、一発KOだろう。

― あ、バレンタインの時、周太がそうだったな

あの夜は、藤岡も美代も一緒に御岳の河原で酒を呑んだ。
あのとき周太はコップを間違えて、国村が呑んでいたこの酒を一気飲みしてしまった。
そして周太は一挙に眠りこんで、夜中まで目を覚まさなかった。

あのときも周太、可愛かったな?
ふと浮かぶ幸せな記憶が嬉しい、けれど半面で「婿に、協力」がぐるり頭を廻って哀しい。
思わずため息を吐いた英二に、からり笑って藤岡が話しかけてくれた。

「宮田、その酒でも酔わないんだな?さすがだね、」
「うん?ちょっとは酔ってると思うけど…いや、酔っていないな、」

元から酒が強い方だとは思う。
けれど、こんな気分の時は酔っぱらう方が楽だろうな?
いろいろ何だか落ち込みながら、英二は酒のコップを空けた。
そんな英二に藤岡が人の好い笑顔で訊いてくれた。

「なあ?宮田はさ、湯原が美代ちゃんとデートしても、大丈夫なわけ?」
「うん、今回はさ、大学の公開講座に行ったんだよ、あの2人、」
「あ、そういうことなんだ。なんの講座?」

納得したなという顔で藤岡が頷いてくれる。
こんなふうに納得してもらえるのがなんだか嬉しい、すこし気分が上向いて英二は微笑んだ。

「奥多摩の水源林についてらしいよ?この講座を担当している先生から周太、本を貰ったんだ。それで、行きたいって」
「あ、その本の話、俺も湯原から聴いたな。樹医で東大の先生だろ?じゃあ、ふたりで東大に行ったんだ?」
「うん、美代さんも植物のこと詳しいだろ?それで、その先生の講義を聴いてみたかったらしくて」
「なるほどね、納得。それなら2人で楽しく出掛けるよな?」

にこにこ笑って酒を呑みながら藤岡は頷いてくれる。
笑いながら国村と英二を見、明るく嬉しそうに言ってくれた。

「デートって言うから俺、ちょっと気まずかったよ?湯原と宮田、喧嘩しちゃったのかと思ってさ。よかったあ、」
「うん?恋人いたってさ、デート位はイイだろ?」

テノールの声が「なんか問題なのか?」と笑っている。
そんな飄々とした顔を見て藤岡が可笑しそうに反論をした。

「それは国村ならね?でも、宮田と湯原だとさ、どっちも真面目だろ?真面目なヤツが恋人以外とデートしたら、拙いって、」
「ふうん、そういうモン?じゃあ、ちょっと拙いかもね?」

からり笑いながら国村は酒を啜りこんでいる。
すこし首傾げこんで藤岡が、笑っている細い目に質問をした。

「なにが拙いんだ?」
「そりゃ、決ってるだろ?ね、」

答えながら底抜けに明るい目が隣から英二を見てくる。
なにかなと見返すと、上品な貌は嫣然と微笑んで、透明なテノールが愉しげに答えた。

「宮田はね、俺と山ってエデンで、お泊り同衾デートしちゃってるからね?やっぱり拙いかな、ね、ア・ダ・ム、」

だってアンザイレンパートナーなら普通だよ?
そう答えたかったけれど「同衾」は普通じゃないかもしれない。
なんて答えよう?困惑していると、丸い目を大きくして藤岡が言った。

「同衾は、拙いよなあ?…どうしよ、初任総合で俺、2カ月間も湯原と顔合せるのに…黙秘し通せるかなあ…俺、困るよ、」

その話に戻るんだ?
今朝の話に戻ってしまって、英二は肩から力が抜けた。
力が抜けるとなんだか気楽になって、可笑しくて英二は笑いだした。

「大丈夫だよ、藤岡?周太も知ってるし、拗ねる時もあるけど、国村なら仕方ないなって許してる。だから気にしないでよ?」
「あ、湯原の許可あるんだ?良かった、俺、焦っちゃったよ。湯原、ほんと優しいな、良いヤツだよね、」

うれしそうに笑って藤岡は酒を飲んだ。
ほんとうに藤岡は人が好いな?感心しながら英二もコップに口付けると、藤岡が笑って口を開いた。

「湯原が正妻で、国村が愛人なんだ。宮田、やっぱりモテるよなあ、さすがだね、」

酒が、ひとしずく英二の気管に落ちこんだ。

「…ごほごほっ、ごほこほんこほっ、」

なんでそういう結論になるんだよ藤岡?

そう言いたいのに咽こんで言葉が出ない。
コップをサイドテーブルに置いて、英二は掌で口押さえながらら咽こんだ。
咳と藤岡の解釈に困っている隣から透明なテノールが、さも愉しげに答え始めた。

「違うね、藤岡。俺は宮田のイヴだよ?愛人じゃなくって、運命のパートナー。ソコントコ間違えないでよ、」
「そっか、ごめんな?ふうん、湯原が正妻で、国村がパートナーか。可愛いと美人に囲まれてるね、贅沢だな、宮田って、」
「だろ?俺のアダムは、ホント贅沢で困っちゃうんだよね。こんなに可愛い俺がいるのに、周太も必要だなんて。元気すぎ、」
「あ、そういうことなんだ?アダルトだなあ、飲み話ならでは、って感じだな?」
「酒で話せる愉しいコト、だよね。今夜は俺、ご披露する気分かも。アダムとイヴのこと、聴きたい?」

話が勝手に転がっていく。
手遅れにならないうちに話を止めたい、なのに咽こんで言葉が出やしない。

「ちがっ、ごほごほごほっ、ふじおっごほんっごほ、ごかいだっ、こんこんっ、」

アルコールがピンポイントに染みこんで、咳が止まってくれない。
どうしよう?困っていると隣から、透明なテノールが可笑しそうに微笑んだ。

「あら、アダム?また咽ちゃって、困ったわね、キスしたら治るかしら?」

細い目が愉しげに笑いかけながら、口許を押えた掌を白い手が外してしまう。
艶麗な微笑が近づいて、英二は咽こみながら抵抗の声を上げた。

「キスいっごほごほこんっ、キスしっこんこんっ、」

キス要らない、キスしない。
そう言いたいのに、咽こむ咳が邪魔をする。
上手く伝えられないもどかしさに困る英二に、国村流の解釈が微笑んだ。

「キス要る、キスして、って言ってくれてるのね?解かったわ、さ、ア・ダ・ム、」

可笑しくって堪らないね?
そんなふうに底抜けに明るい目が笑いながら、白い掌が英二の頬を包みこむ。
冗談だよねと見つめ返したのに、嫣然と微笑んだ上品な顔がアップになった。

「やだっ、ごほごほんっこんっ、ふじおっごほん、とめてよごほごほっ、」

ちょっと助けてほしいよ?
そんなSOSに見た同期は、酒に頬赤く上機嫌に笑いかけてくれた。

「あはははっ、目の前で友達同士のラヴシーン?すごいなあ、美形同士だな、あはははっ、」

あんまり上機嫌すぎる?
見ると、藤岡は英二のコップを持っていた。
あのコップには、アルコール度数30度超の国村製日本酒が入っている。

「ちょっふじおかっ、ごほごほっ、それおれのっごほんっ、こんごほっ、よっぱらって?ごほっ」
「あははっ、酒も旨いしさ、美形の絡みは、良い肴かもね、あははっ、良い気分だなあ、」

ダメだ、完全に酔っぱらってる。

これでは全く、助けてもらえそうにない。
コップを間違えたのだろう、この酔っぱらい大丈夫だろうか?
そんな心配に困りながら咽ていると、雪白の顎が視界に入りこんだ。

「さ、アダム?お待ちかねの、キ・ス・よ、」

お待ちかねじゃない。
そう言いたいのに咽こむ喉は、言葉の自由を奪ってしまう。それでも英二は抵抗の声を上げた。

「ごほこほっ、やめろっくにむっ、ごほんっ」
「恥ずかしがらないで、ね?…愛の行為を恥じるべきではないわ、さ、ア・ダ・ム、」
「あはははっ、すごいなあ、映画のラヴシーンより、きれいだね。あははっ、」
「眼福だろ、藤岡?さ、これから本番だよ?…アダム、愛してるわ…」
「だめっごほごほごほっこんっ、やだっごほっ、」

言葉が出ないことは、本当に困難だ。
そして酔っぱらいにしか救助を求められない、これは救助は無いのと同意義だ。
普段話せることと、素面なことに感謝しながら英二は、今の状況に困り果てた。

―周太、いますぐ、助けてほしいよ?

無駄だと思いながらもつい、優しい恋人の面影に英二は助けを求めた。
今頃は、何をしているんだろう?



(to be continued)

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第42話 雪陵act.7―side story「陽はまた昇る」

2012-05-08 23:58:50 | 陽はまた昇るside story
繋ぐトレース「Requiem」に超えて 



第42話 雪陵act.7―side story「陽はまた昇る」

いつもの定食屋で遅い昼を済まし、店を出ると冷たい粒子が頬を撫でた。
傘を広げながら仰いだ空は、吸いこまれる真白に雪雲の厚みを増していく。
北西からの風がミリタリーコートの黒い裾を翻す、この風に心配が頭もたげて英二は眉を寄せた。

「また雪と風が強くなりましたね。朝の雪は、止んだのに、」

見あげる空は、降雪が増えていく気配が充ちている。
きっと夜まで雪は降る、そして北西風に吹雪く可能性が高い。
この予想を空に読み取っている英二の隣で、山ヤの医師も同じ見解に頷いた。

「はい、テレビの天気予報は外れでしょう。こんな時は、気軽なハイカーの入山が危ぶまれます、」

春3月の末、いま春休み期間で登山客も多い。
特に奥多摩は都心からのアクセスが容易で、気軽に考えがちになる。
そしてこの時期は春だからとアイゼンを持たないハイカーも多い、けれど奥多摩の3月はアイゼン無しでは危うい。
こんな時に吹雪になると怖い可能性が増えてしまう、この可能性への予兆に英二は首傾げた。

「はい、春休みの金曜で、今日の登山計画書は事前提出も多かったんです。中止してくれたのなら、良いんですけど、」

一昨日から昨日にかけての救助活動のあと、英二は御岳駐在所で仕事をしてきた。
本当は昨日は非番だった、けれど救助で岩崎も出たのを知っているから、仕事が溜まっているだろうと覗いてみた。
すると案の定、ネット提出での登山計画書が盛りだくさん届いていた。そして今日が山行日のものも多かった。
きっとテレビの天気予報だけを信じたら、入山するだろう。奥多摩はそういう「気軽」が命取りになりやすい。
同じ考えを巡らしただろう吉村医師も頷くと、登山靴の足をすこし速めた。

「それは心配です。私も、スタンバイしておきましょう、」

白銀に埋もれていく街を、急ぎ足で青梅署へ戻っていく。
そうして歩く英二のポケットで、携帯が振動した。

―来た、

「先生、ちょっと済みません、」

断りを入れて、歩きながら携帯を開く。
着信相手は予想通り、国村だった。

「宮田、今どこに居る?」
「いま昼から戻るとこ。もう署に着くよ、場所は?」

隣の吉村医師に頷くと、「解かった、」と頷き返してくれる。
青梅署の門を通りながら片手で傘を閉じると、携帯の向こうからテノールの声が指示を出した。

「石尾根のどっかだよ、吹雪に巻かれて道迷いらしい。しかもダブルだよ?なんだってこんな天候で登るんだよなあ、ねえ?」

語尾に「あ」「ねえ?」がついている、きっとご不満で堪らないのだろう。
それも当然だなと納得しながら英二は、通用口を潜って吉村医師と別れると寮の自室へ足早に向かった。

「国村は、今どこ?」
「芥場峠だよ、早めの巡回に出ていたんだ、下山を促したいからね。で、この状況だから、お迎えの時間かかっちゃうんだよね、」
「解かった、電車で出るから、途中でピックアップしてもらっていい?」
「よろしくね、じゃ、」

電話が切れたとき、ちょうど部屋に着いて英二はすぐ山岳救助隊服に着替えた。
冬用のアウターシェルを着こんで登山靴にゲイターを履くと、ザックの中身を目視点検する。
今朝も起きて直ぐにチェックしてあるけれど、念のために英二は必ず確認する癖をつけてある。

「あ、そうだ、」

思いついて予備のテルモスを出すと、自分の分と2つ持って給湯室へ向かう。
両方に熱い紅茶を充たしザックに納めると、廊下を足早に歩いた。
そして食堂の前を通りかかったとき、調理師が呼び止めてくれた。

「おにぎりだけで悪いけどね、持って行きなさい、」

渡された袋はまだ温かい、きっと英二の足音を聞いて気づいてくれたのだろう。
気遣いが嬉しくて英二はきれいに笑った。

「いつもすみません、ありがとうございます、」
「宮田くんこそ、いつもお疲れ様。昨日の今日で大変だけれど、気をつけてね」

温かい笑顔に送りだされて、また足早に歩き始める。
そして階段を降りるとき、後ろから同期の藤岡が追いついた。

「宮田、石尾根だろ?俺も出る、」

藤岡もスカイブルーのアウターシェル姿でザックにピッケルを持っている。
今日の藤岡は非番で柔道の稽古日だった、途中で切り上げて素早く着替えてきたのだろう。
きっと今回は救助隊全員に召集が掛かったろうな?そんな予想を思いながら英二は、袋から2つ出して藤岡の掌に載せてやった。

「今、ちょうど貰ったんだ。俺の半分で悪いけど、」
「やった、ありがとう。大野さんと分けるな、」

藤岡のパートナーは、鳩ノ巣駐在の隣在になる白丸駐在所属の先輩になる。
仲が良く訓練も一緒によく行っているらしい、嬉しそうに握飯をザックへ仕舞いながら藤岡は提案してくれた。

「でさ、道場で木下さんが声かけてくれたんだ、パトカー出すから一緒に行こうって。宮田も、って言ってくれたよ、」

木下はこの3月に第七機動隊から奥多摩交番に赴任したばかりの先輩になる。
まだ藤岡も英二も話したことは殆どないのに、気さくに声を掛けてくれた。良い人だなと感謝しながら英二は頷いた。

「ありがたいな、乗せてもらうよ。ちょっと無線使うな、」

丁度良かった、ほっとして英二は無線から国村を呼び出した。
すぐに出て、テノールの声が応答してくれる。

「こちら国村、宮田だね?」
「うん、俺だよ。ちょうど木下さんと藤岡と一緒に出れるんだ、だからパトカーで奥多摩交番に直行する」
「OK、同じくらいに到着かもね。俺、いま御岳山頂だから、」
「了解、じゃ、奥多摩交番で、」

無線を切ってロビーに着くと、木下もパトカーの鍵を持って来たところだった。
すぐ駐車場へ出ると、さっきより視界が白い。

「ちょっとキツイ捜索に、なりそうですね、」

運転席に乗り込みながら木下が、困った顔で微笑んだ。
助手席に座ってシートベルトを締めながら英二も頷いた。

「はい、石尾根縦走路だと、分岐が幾つかあるので…この視界で、もし仕事道だと厳しいですね、」

話しながら見たクライマーウォッチは14時半を過ぎていく。
この天候では気温も下がり出す、今日の日没は18時だから16時には暗くなるだろう。
あまり時間が無い、考え巡らす背後では藤岡も自分のパートナーと連絡を終えて無線を切った。

「大野さん、今どこだって?」
「うん、ウスバ乗越だって。ちょうど奥多摩交番で一緒になれそうだよ、」
「じゃあ、皆さん。ちゃんとパートナーと落合えますね、良かった」

優しい笑顔で木下がハンドルを捌いていく。
まだ第七機動隊から異動して1ヶ月だけれど、危なげなく青梅街道を緊急走行させている。
雪道にとても馴れている様子に、英二は邪魔にならない呼吸を測りながら訊いてみた。

「木下さん、奥多摩は何度かいらしたんですか?」
「はい、七機の時からプライベートでも登りに来ていました。なので道路は知っているんです、でも登山道はまだまだ、」

雪削るチェーンの音も安定させて木下は走らせていく。
その横顔はまだ20代後半だろう、青梅署独身寮にいるから家庭もまだ持っていない。
あまり年齢が違わないのかな?考えながら英二は笑いかけた。

「七機だと、岩崎さんとは機動隊の頃からですか?」
「そうなんですよ、岩崎さんのチームに僕はいたんです。だから奥多摩に配属が決まって、嬉しかったな。また一緒に仕事できるなあって」

楽しげに笑って木下は答えてくれる。
きっと岩崎は第七機動隊でも良い先輩で上司だったろう、英二は微笑んだ。

「岩崎さん、俺も一緒に仕事していて嬉しいです。たくさん学ばせて貰っています、」
「そうでしょう?岩崎さんって、七機の山岳レンジャー時代はね、海外遠征とか凄かったんです。でも気さくで、いい上司で先輩でね」

ふりしきる雪をワイパーで払いながらも、木下は視界を保って走らせていく。
優しい丁寧なトーンで話す木下は、山ヤの青年といった快活が爽やかでいる。
きっと岩崎は可愛がっているだろうな?こんなふうに尊敬する上司の違う面が見れるのは嬉しい。
嬉しくて微笑んだ英二の、座席に後ろから藤岡が口を開いた。

「木下さん。山岳レンジャーと山岳救助隊は、やはり違いますか?」
「雰囲気は似てるかな、同じ山ヤの警察官だからね。ただ、いろんな山域に行きます。機動救助隊も兼務するので、災害救助も行きました、」

機動救助隊、この言葉に藤岡の丸い目が真剣になった。
真直ぐな目で木下の目をバックミラー越しに見て、静かに藤岡は口を開いた。

「東北にも、行かれましたか?」

藤岡は宮城県出身で、震災の津波に罹災した。そして元警官だった祖父を失っている。
このことを藤岡が話してくれた想いが、瞳の奥で熱いものとふれてしまう。
そんな藤岡と英二をミラー越しに見、木下は優しい笑顔で頷いた。

「はい、行きました。僕は宮城県の海岸線でした、」

ちいさく息を吐く気配が、そっと後部座席に流れる。
そして穏やかに笑って、藤岡は頭を下げた。

「俺、宮城県出身なんです、あのとき津波で罹災しました。お世話になりました、」

こうした実直な姿勢の同期が英二は好きだ。
ミラー越しに木下は会釈して、藤岡に笑いかけた。

「こちらこそ、お世話になりました。宮城の方達には、とても親切にしてもらって。逆に励まされてばかりでした、ありがとうございました」
「いいえ、本当に、ありがとうございました、」

ゆっくりひとつ瞬いて藤岡が笑った。
バックミラーに映る優しい眼差しを見つめて、藤岡は口を開き言葉を続けた。

「俺、あのとき機動救助隊の方に勧められて、青梅署に卒配希望を出したんです、」
「そうだったんですか。救助隊員に声を掛けてくれたんですか?」

ミラー越しに藤岡に笑いかけて訊いてくれる。
その優しい眼差しに藤岡は頷いた。

「はい、祖父の遺体収容の時に、声を掛けさせた頂きました」
「そうでしたか…津波で?」

おだやかなトーンがごく自然に問いかける。
すこし微笑んで藤岡は明瞭に答えた。

「はい、行方不明でした。でも救助隊の皆さんに見つけて頂いたんです。遺体の姿でした、それでも嬉しかったんです。
あの状況でよく見つけて頂きました…本当に感謝しています。それで俺も救助隊を目指してみたくて、相談させて頂いたんです」

木下の大らかな目が、優しい温もりに笑んだ。
そして和やかなトーンに、藤岡へと言祝ぐよう言葉をおくってくれた。

「第七機動隊の主義の1つは『人の痛みがわかる警備』です。ご自身の経験がある藤岡くんは、この主義に相応しいと思います。
ですから、アドバイスされた方は、藤岡くんの事を誇りに思うでしょう。その方と一緒に任務に就くかもしれない、その時は、きっと喜びます、」

優しい木下の言葉に、藤岡の丸い目から涙がひとつ頬をながれた。
涙ながしながら笑って、藤岡は頭を下げた。

「ありがとうございます、」

助手席の肩越し見つめながら英二は、同期の姿に心から敬意を想った。
そんな藤岡にミラー越し優しく笑いかけて、木下はパトカーのエンジンを停めた。

「僕は何もしてないですよ、でも嬉しいです。こちらこそ本当に、ありがとうございます、」

きちんと振向いて木下は藤岡に微笑んだ。
第七機動隊のマークは「疾風迅雷の警備、人の痛みがわかる警備」を象徴している。
この先輩は七機の象徴に相応しい。英二は新任の先輩への敬意に微笑んで、パトカーの扉を開いた。

奥多摩交番の脇に停まったパトカーの内、1台の見慣れたミニパトカーが待っている。
このパトカーの運転手は無事に御岳から下山した、そして先着している。
そんな予想にほっとして、英二は奥多摩交番に入った。

「待ってたよ、俺の愛しのパートナー、」

透明なテノールが笑って、がばり英二は抱きつかれた。
そのザックを背負う背中を軽く叩いて、英二は微笑んだ。

「お待たせして、ごめんな?ほら、副隊長の説明が始まるから、ちゃんと聴こう?」
「うん、聴くよ、」

素直に離れて国村は隣に立った。
けれど藤岡は丸い目を大きくして、感心したように言った。

「こんなとこでも抱きつくなんてさ、よっぽどなんだね?」

こんなときにまで、こんなこと引っ掛からないでよ藤岡?
そう言おうとした英二より先に、可笑しそうに細い目が笑んでテノールは答えた。

「そ。俺たちはね、よっぽどだよ?ね、ア・ダ・ム、」
「…もう、なんでも良いからさ。説明を聴こうよ?」

こんな急場でも国村は笑ってくれる。
これだけ余裕があるなら国村は大丈夫、そう思いたい。
けれど国村の傷は、そんなに単純じゃないとも解かっている。
さっき吉村医師から聴いた懸念を想いながら、英二は後藤副隊長の説明を待った。



「どうやらな、鷹ノ巣山あたりで2組とも迷っているらしいよ。だから捜索は3方向から同時に登ろう。
奥多摩交番起点で石尾根縦走路からのルート、東日原から稲村岩尾根ルート、そして浅間尾根ルート。この3方向から入山する。
ここが起点のチームは縦走路を登りつめて行くよ、稲村岩ルートは鷹ノ巣山頂付近を見た後にここへ抜けて下山していこう。
浅間尾根ルートは鷹ノ巣山避難小屋から七ツ石山まで抜けて、七ツ石周辺の脇道を見てくれ。トラメガで呼びかけながら、頼むよ
そしてこれは重要だよ?全員、絶対に無理はするな。この悪天候だ、危ないと思ったら避難小屋でも、テントでもビバークしてくれ」

一挙に説明すると後藤は、3チームに隊員を分割した。
英二と国村は浅間尾根の隣のノボリ尾根ルートを分担する。
このルートは現在は廃道になり迷いやすいポイントになる、ここに英二と国村は秋も捜索で入った。
その経験で今回も担当する。素早い打ちあわせが終わると英二は、馴染のミニパトカーに乗り込んだ。

「あー、やっぱりさ?助手席に宮田がいると、落着くよね、」

からり透明なテノールは笑って、機嫌よくハンドルを捌きだした。
ほんとうに懐かれているな?そんな内心の感想が自分で可笑しくて英二は笑った。

「そういうもん?」
「そういうもんだね、」

そんなふうに笑いあってすぐ、峰の登山口に着いてミニパトを降りた。
アイゼンを履いて仰いだ空は、すこしだけ雪が弱まっただろうか?
それでも風のなか細かな粒子の白銀が、あわい光に容赦なく奔っていく。
この悪天候の中、遭難者は今どうしているのだろう?

「じゃ、行くよ?」

明るいテノールの声にひきもどされて、英二は頷いた。
ふたり一緒に入山していくと、テンポよく登るごと雪は深くなっていく。

「秋とは違って雪が深いから、結構ラッセルがキツイかもだけど。ま、イイ訓練だよね?」
「そうだな、訓練って思えばさ、なんでも楽しくこなせるな、」
「ほんと、そういうとこ。宮田って、真面目だよね?」
「うん、俺は本来、堅物だよ?」

そんな会話を交わしながら、高度を稼いでいく。
そして榧ノ木尾根との分岐にある落葉松で、トラメガをだして呼びかけをした。

「青梅署山岳救助隊です、聴こえたら、大きな声で返事してください!」

いったん切って耳を澄ませる、けれど何も応えない。
この降雪と風に遮られて音自体があまり響いては行かない、この状況は困難だと身に沁みてしまう。

「雪がこれだけあると、音自体が吸いこまれて聴こえないな、」
「うん…吹雪の捜索は、きついな、」

この風雪のなか、行動するのは難しい。
さっき後藤が最後に言った「絶対に無理をするな」の意味が解かるなと思う。
ときおりラッセルしながら英二と国村は、榧ノ木山を抜けて水根山へと辿り着いた。
見渡す尾根上には誰の姿も見えない、それでも視界はすこしずつ回復され始めている。すこし吹雪が弱まっただろうか?
考えながら見たクライマーウォッチの時間は、15時を回っていた。

「日没って何時だった?」
「18時、出来れば、あと1時間で見つけたいな?」
「だよね?さて、副隊長に連絡するかな、」

言いながら国村は無線を後藤副隊長に繋いだ。
こちらの現在地を伝え、遭難者たちの近況を聴いていく。
無線の向こうに頷いて、ため息交じりに国村は無線を切った。

「どこかの樹林帯に居るみたいだね、ま、雪を少しでも避けられる場所に居るのは、正しいけどさ?」
「でも、どこに居るのか全く分からない?」
「そ、この雪で目印らしきものも解からないしね、景色も真白で訳わかんないみたい。音も、吹雪の音で消されちゃうし、」

捜索自体が目隠しされている。
そんな感想がため息にもなってしまう、それでも自分たちは探し出さないといけない。
英二と国村は石尾根を、雲取山頂方面へ登り始めた。

「行方不明の方の方は?」
「相変わらず、連絡とれないらしい」
「そっか…このあたり携帯は繋がり難いから。無事にビバークしているなら、いいな、」

すぐに鷹ノ巣山避難小屋が現れて、日蔭名栗峰へとゆるく登って行く。
積雪は深い、軽いラッセルをしなが進む道は、膝上まで充分に潜ってしまう。70cmはあるだろうか?

「この3月で、この積雪ってさ。都心から来ると、びっくりするだろうね?」
「うん、ちょっと考えられないだろうな。途中で引き返してくれるひとは、良いんだけどね、」

話しながら登って行く、その防火帯に蛍光色のグリーンが見えて英二は立ち止まった。
英二の気配に気がついて、国村も立ち止まる。
そして英二の視線を追った国村の手元から、ピッケルが離れた。

「国村?」

名前を呼んでも応えない。
登山グローブの手はピッケルを離したまま、ぼんやりと竦んで動かない。

「おい、国村?…」

様子がおかしい。
すぐに英二は雪を踏みこして国村の隣に行った。

「くにむらっ、」

名前を呼んで抱きかかえるよう顔を覗きこむ。
覗きこんだ細い目が、ようやく焦点が合って英二を見てくれた。

「…あ、みやた、…」

手から離れたピッケルは、肩掛けしたベルトからぶら下がっている。
英二の顔を見つめる透明な目は、心が傾ぐような色にどこか宙を見るよう定まらない。
きっと、吉村医師の懸念が的中した。

「国村、大丈夫だ、」
「…ん、」

呆然と風雪のなか立ちつくすパートナーを、英二は抱きしめた。
ぽん、とザックの背中を叩いて覗きこんだ雪白の顔は、泣き出しそうに見つめてくれる。
その目を見つめ返して、英二はきれいに笑った。

「大丈夫だよ、国村。あれは雅樹さんじゃない、いいな?」
「…うん、…ん、だね、」

英二の言葉に頷いて、ほっと肩で息を吐く。
そうして少し微笑んだ顔に、英二は大らかに微笑んだ。

「なあ国村、俺たちは山岳救助隊員だよ。今から、あの緑色の確認をしよう?行けるよな?」
「うん、俺は行けるよ、」

見つめてくれる透明な目に、いつもの冷静が戻ってくる。
ひとつ呼吸して、ピッケルを握りなおすと国村はラッセルをして森へ進み始めた。

― たぶん、揺り戻しが来る、

数日前に国村は、15年越しの痛みに向き合い始めたばかりでいる。
そんな国村の心は赤剥けのような状態で揺れやすい。
この状態の為に国村の心は、今から目撃するものに大きく傾ぐ可能性が高い。
それでも自分は、唯一のザイルパートナーとして支えきる。この覚悟を据えながら英二は、蛍光緑へと雪を進んだ。

直ぐ前を、スカイブルーのウェアの背中が歩いていく。
この半年間、ずっと見つめ追いかける最高の山ヤの背中が、今日はどこか儚く見える。
この感じは北鎌尾根でも見つめていた、そしてあの時と同じように心が軋みそうになる。

あのとき約束のルートをアンザイレンの約束に繋いで、15年の時空と傷を国村は超えた。
そして今この奥多摩に立つ現場でも、15年の傷を国村は超えようとしている。
けれど、15年間ずっと疼き続けた傷は、簡単には癒せない。

この癒しは、難しいと解っている。
それでも、なにがあっても支えたい、トレースをきちんと繋がせてやりたい。
そうして国村には、最高の山ヤに相応しい道を真直ぐ歩いてほしい。
この想いと覚悟は、慰霊登山が終われば完了とはならない。
むしろあの瞬間がスタートだろう。

雅樹と「永訣」をした瞬間。
あの瞬間が雅樹と、最愛の存在と死別した哀しみを受容れ背負って生きる、スタートになっている。
このスタートはきっと、哀しい苦しい寂しい。
誰でも本気で愛したのなら「最愛の人を亡くす」不幸を自分に認めたくはないから。
だからこそ国村は北鎌尾根に15年間登れなかった、認めたくない心のままに。

それでも自分は国村を超えさせた。
あんなふうに、英二の危険を盾にするやり方は強引だと解かっている。
それでも国村は英二を慕い信じて超えてくれた、だから英二には責任がある。

雅樹と国村の「永訣」を明るい先への道標にすること。
永遠の別離でありながら、永遠の連理となる約束であること。
そう国村が抱いて行けたなら、この先もずっと山ヤとして誇り高く生きていける。
そうして誇り高い最高の山ヤとして相応しいように、支えていく。この責任がある。

―信じて、任せてくれたんですよね?

いま目の前を歩く無垢の瞳。
この瞳を愛した山ヤの医学生へ祈りながら歩いている。
この敬愛する先輩と自分は似ていると誰もが言う、ならば「似ている」にも役割があるだろう。
だから自分には、きっと出来る。そう信じて向き合っていけたら良い。

そして今きっと、支える瞬間が近づいてくる。

雪は防火帯の奥の森に近づくごと、深くなっていく。
ふる雪はすこし弱まり視界が幾分明るくはなってきた。
昨夜からの積雪と日中からの降雪に埋もれながら、ラッセルをして進む。
あと1m程になったとき、英二は国村に声を掛けた。

「国村、リードを交替しよう、」

透明な瞳が提案を凝っと見つめてくる。
真直ぐに瞳見つめ返すと、国村は微笑んだ。

「いや、大丈夫だね。いつもどおり、俺がリードで行くよ?俺がエースなんだ、だから俺が行く、」

静かな落着きと覚悟が細い目に映っている。
もし自分の意志で行けるなら、超えるためにその方が良い。英二は頷いた。

「うん、付いていくよ、」
「おう、キッチリ付いて来てね?」

底抜けに明るい目は笑ってくれる、けれど瞳の奥ひとすじ張りつめている。
ひとつ呼吸して英二は、体を沈める蒼い雪のなかアンザイレンパートナーのすぐ後ろを進んだ。
さくりさくり、雪を進んでいく、けれど森の蛍光緑は動かない。きっと予想通りの結末なのだろう。
哀しみと予想を同時に見つめる先で、のびやかな背中が止まった。

蛍光グリーンのウェアを着た、冷たく凍りついた生命の抜け殻が雪に埋もれていた。

「国村、」

声、掛けてもテノールの声は応えない。
細い透明な瞳はただ、凍れる死体を見つめ立ちつくす。
想ったとおり、揺り戻しが国村を浚いこんでしまった。

― 無理もない、

このことを吉村医師も懸念し、英二にも教えてくれた。
だから覚悟はして今も現場に立っている、ひとつ呼吸して英二は秀麗な貌を覗きこんだ。

「国村、報告の連絡しよ、」
「…あ、」

透明な瞳の焦点が合って、英二を見つめ返してくれる。
優しく笑いかけて英二は言葉を続けた。

「国村、刑事課への連絡をお願いできる?」

凍死体は行政見分が必要になる。
その行政見分の執行者は警察官になる、まず刑事課への連絡をしなくてはいけない。
この業務に意識をひきもどされて、国村の顔が山ヤの警察官に切り替わった。

「うん、するね。宮田は副隊長に掛けてくれる?」
「了解、」

声をかけながら英二は、国村の腕を掴んですぐ隣に寄りそった。
その腕の感触に細い目が笑って、登山グローブの手が無線を掴んでくれる。
そして国村は無線を青梅署に繋ぐと報告を始めた。

「山岳救助隊の国村です、凍死体を発見しました。場所は日蔭名栗峰、男性…」

落着いた声は正確に報告を続けていく。
その表情を見つめながら英二も無線連絡を入れると、すぐ応答が戻ってきた。

「宮田、発見か?」
「はい、副隊長。ご遺体を日蔭名栗峰で発見しました。男性1名、新雪を被っている様子から、本日正午前には死亡と思われます」
「そうか、…たぶん、ご家族から通報があった方だな。50代くらいだろう?」
「はい、その位です。見たところ外傷もありません、このあと見分を始めます」
「ああ、頼むよ。収容だが、ヘリの依頼をかけてみるよ。雪雲がすこし薄くなってきた、飛んでくれるかもしれん、」

報告連絡を終えて無線を切ると、隣でも報告を終えたところだった。
無線機を握りしめたまま、透明な目は緑色のウェアを見つめている。

「国村、」

声を掛けたけれど、応えてくれない。
また沈黙の底に意識は潜りこんで、ただ透明な目は凍死体を見つめている。
その目が痛切に哀しくて、英二はザイルパートナーを隣から抱きかかえた。

「国村、大丈夫だ。あれは雅樹さんじゃない、」
「…あ、」

透明な瞳が動いて、英二の顔を見てくれる。
縋るような視線を柔らかく受けとめると、英二は温かに笑んだ。

「よく見ろよ、年齢だって違う。全くの別人だよ?」
「ん、…ちがうね、」
「そうだよ、全くの別人だ。大丈夫だ、そうだろ?」
「うん、」

話しかけながら英二は、見分用グローブを嵌めると遺体の傍らに雪の中で片膝をついた。
合掌して敬意を捧げると、自分のパートナーを見あげた。

「国村、状況写真の撮影を頼む、」
「うん、」

すぐに見分用のカメラを出し、国村も合掌して撮影を始めた。
ウェアのポケットなど調べると運転免許証が出てくる、これで通報があった行方不明者と判明した。
外傷等はやはりない、硬直が見られるのは凍結と時間の経過を知らせてくれる。
確認を終えて英二はグローブを外すと、無線連絡を再び後藤副隊長へ繋いだ。

「宮田です、運転免許証で確認がとれました。やはりご家族の通報があった方です。軽装備の為に低体温症を起こした様子です」
「軽装備か、…」

ほっと溜息が無線の向こうで零れ落ちる。
こんな初歩的な装備ミスが山では死を招来してしまう、そして奥多摩はこの初歩的ミスが多すぎる。
首都近接の山岳地域という特殊な条件が生み出す、この陥穽を傷みながら英二は続けた。

「低体温症により身動きが取れず、凍死に至ったとみられます。死亡推定は、ご遺体の積雪状態からも午前0時以前だと思います、」
「そうか、昨日の夕方からの吹雪に巻かれたんだな…うん、見分、雪の中ありがとうよ。
収容だがな、消防のヘリが飛んでくれるよ。今なら雪も雲も薄まっているから行ける、ホイスト準備と発煙筒を頼むな、」
「はい、ありがとございます、」

無線を切ってすぐバスケット担架の準備をする。
ふたりで協力して遺体を乗せて、担架に固定していく。
そうして手を動かしていく国村は、いつもより口数が少ない。

国村が雅樹の死を受けとめて、まだ3日程度。
このタイミングで雅樹と同様の凍死体を見ることは、衝撃が大きい。
それでも山岳救助隊員として山岳レスキューのプロであるなら、私的感情など許されない。
なにより山ヤであるなら、真正面から乗り越えるしかない。遺体のホイスト準備を終えて、英二は国村に微笑んだ。

「雅樹さん、山でレスキューされていたから。凍死した方を見送ったことも、あったんだろ?」
「うん、あったよ…」

テノールの声がぽつり呟くよう教えてくれる。
細い目がすこしだけ笑んで英二を見つめながら、そっと教えてくれた。

「この辺りでだった、俺も一緒に登ったときにね、…それで、後藤のおじさんに連絡してさ、」

ほっとため息吐いて国村は小さく微笑んだ。
この今と同じような状況に、記憶が国村の心を揺らしたのだろう。
頷いて英二は自分の大切なザイルパートナーに笑いかけた。

「きっと今、一緒に雅樹さんも作業してくれてるな?」

透明な目が英二を見つめる。
その目がすこし和んで、そして笑ってくれた。

「だね…きっと、一緒だよね?」

素直に笑って頷いた顔は、明るさが戻ってきている。
もう少し笑わせてあげたくて、ゆるやかな降雪のなか英二は微笑んた。

「このあと御岳駐在まで一緒に戻るよ、仕事あがるの待つから、一緒に青梅署に戻ろう?夜は国村の酒も奢ってやるよ」
「うん、いいね。じゃあさ、署への帰りがけに酒屋、寄ってく?」

好きな酒の話になって、すこし嬉しそうに笑ってくれる。
良かったなと思いながら英二は相槌を打った。

「制服姿で酒を買うのも、なんか悪いな?」
「うん?そうかな?でも宮田は気にするか、堅物だからさ、」

いつもの調子で飄々と聞いてくる。
その顔も笑顔がも、いつもの明るさが戻っていく。

「堅物だよ?俺は、」
「そうだね、堅物エロ別嬪なんてさ、ギャップ萌えるね、み・や・た、」

明るく笑った国村の向こうから、ヘリコプターの機影が小さく光った。

「国村、ヘリが来た、」
「お、助かったね。発煙筒だな、」

どこか憔悴があるけれど、国村は笑って発煙筒をセットしてくれる。
いま国村にとって、この凍死者の姿には2重の記憶が重なってしまうだろう。
幼い日に雅樹と発見した遭難死の姿。
そして、雅樹が左腕と左足を負傷したままに、冷たく凍えた姿。
どちらにも国村の哀惜と愛慕が映りこむ、それが傷みになっている。

―…遺体の姿でした、それでも嬉しかったんです。
  あの状況でよく見つけて頂きました…本当に感謝しています。

藤岡の言葉がふと心にふれてくる。
この言葉を励みに山岳救助隊員も現場に立っている、それは雅樹も同じだったかもしれない。
山ヤの医学生として救命救急士として、山の遭難現場にも立っていた雅樹なら、今なんて国村に声を掛けるだろう?
そんな考えを巡らす英二の頬に、強い風が雪と一緒に叩きつけはじめた。

「あとちょっとでヘリが真上に来る!宮田!風に気をつけろよ、煽られるから!」
「ありがと!気を付ける、」

ホバリングの風が雪の梢を揺らし、尾根の雪をふるわせる。
南の方の雲が切れて、いくらか明るくなり始めた。
上空に飛来した消防庁の大型ヘリコプターから、航空隊員が下降してくれる。
ホイスト準備を整えると、航空隊員は短く礼を言った。

「準備ありがとうございます。もう死亡されているので、奥多摩へリポートに降ろします」
「助かります、ありがとうござます、」

午後17時過、遺体のヘリ収容が完了した。
南の空に飛び去る翼を見送りながら、無線で後藤副隊長に報告をする。
それらが終わると一休みに、鷹ノ巣避難小屋に座りこんだ。
英二はザックから紅茶を入れたテルモスと握飯を出すと、国村に渡してやった。
熱い紅茶をひとくち飲んで、握り飯を頬張ると透明なテノールは幸せに笑んだ。

「うん、生き返るな。宮田のこういうトコ好きだね、ありがとう、愛しのアンザイレンパートナー。」

やっぱり淹れてきて良かったな?
喜んで貰えたことを嬉しく思いながら、英二は1個の握飯を食べ終えて微笑んだ。

「握飯は、調理師さんに感謝して?」
「そりゃ、もちろんね。でもこれって、おまえの仁徳ってヤツだよ。さすが俺のアダムだね、」
「ありがたいけれど、なんか申し訳ないな?」

きれい笑って英二は紅茶を啜りこんだ。
まだきちんと熱いままの茶は温まる、ほっと息を吐く温度が嬉しい。
熱い茶に目を細めていると国村が聴いてくれた。

「まだ1個しか食ってないね、宮田にしちゃ、ゆっくりだな?早く食べちゃいなよ、まだ捜索があるんだからさ」
「うん、もう俺の分は食べたから。あとは国村のだよ、」

微笑んで答えた英二に、底抜けに明るい目がひとつ瞬いた。
手に持っていた2個目の握飯を飲みこんで、国村は口を開いた。

「全部で5個あったよね?だから、少なくともあと1個は宮田のだよ?」
「ありがとな、でも本当は8個で4個ずつだったんだ。だから、あとは国村の分だよ」

礼を述べながら英二は微笑んだ。
そんな英二を見て細い目は温かに笑んで、白い手は2個残っている1つを半分に割った。

「藤岡と木下さんにあげちゃったんだろ?ほら、あと1個半は宮田の分だよ、」

半分を掌に乗せてくれながら笑って、半個の片割れを国村は口にした。
素直に掌の半分を食べながら、英二は笑いかけた。

「俺、昼飯も遅かったからさ?この1個、国村にやるよ。巡回で腹、減ってるだろ?」
「そうか?じゃあ、はい、」

また残り1個も半分に割って英二に差し出してくれる。
悪いなと目を見ると、底抜けに明るい目は愉しげに笑ってくれた。

「俺たちはさ、生涯のアンザイレンパートナーだろ?食料もちゃんと分け合おう、俺たちは一蓮托生なんだ、」

ちゃんと対等でいよう?
そう示してくれるのが嬉しい、なにより元気そうなパートナーの様子が嬉しくて英二は笑った。

「ありがとう、うれしいよ?」
「あ、また良い顔して笑うね?ホント宮田って笑顔がイイね、この笑顔で皆、親切にしたくなるんだよな、」
「なんか、申し訳ないな?」

そんな会話をしながら休憩を終えると、ふたり小屋の外に出た。
白銀の尾根に、あわい黄昏の陽光が射しはじめている。ふる雪に陽のかけら輝いて、白い空からふりつもる。
尾根の遥か遠くに灯りだした街の明りが、どこか切ない望郷を想わせた。
ふりかえった防火帯の森にも雪はふり、どこに死者が倒れていたのかも雪は跡隠していく。
あの男性も自宅への望郷を見つめただろうか?

「あ、無線。副隊長かな?」

テノールが笑って国村は無線を繋いだ。
そして短いやり取りの後、からり笑って教えてくれた。

「見つかったって、もう一組の遭難者。疲れているけど、元気だってさ、」
「よかった、」

無事が一番うれしい。うれしくて英二は綺麗に笑った。
この想いはレスキューの現場に生きるなら、誰もが抱いているだろう。
きっと雅樹はこの想いに山ヤの医学生として生きていた。
そして国村も同じ想いを抱いていることが、嬉しそうな笑顔から解る。

「ホント良かったよね、でもさあ?」

嬉しそうな笑顔が「さあ」の語尾に唇の端を挙げる。
そして国村節が、いつもの口調に始まった。

「三ノ木戸あたりの仕事道で見つかったらしい、疲れたから近道しようとして迷ったんだってさ。
でもね、ヘッドライト持っていないし、地図も無いんだってさ?そんなんで近道したら、あの世への近道になっちゃうよな、ねえ?」

相変わらずの国村節が遭難者にぶつけられる、そう思うとちょっと怖い。
けれど元気に怒っている姿は嬉しくて、英二は困りながらも微笑んだ。


(to be continued)

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第42話 雪陵act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-05-07 23:59:11 | 陽はまた昇るside story
「Requiem」安息を、永訣と祝福に



第42話 雪陵act.6―side story「陽はまた昇る」

英二が周太の声を聴けたのは、穂高連峰から戻った翌日の夜だった。
当番勤務に詰める新宿東口交番の休憩室から、夜23時コールが繋がる。
着信の名前に微笑んで、英二は通話を繋いだ。

「おつかれさま、英二?…昨日と今日は救助、大変だったね、」

大好きな声が労いを贈ってくれる。
ほっと心が温まる、窓ふる雪を見ながら英二は微笑んだ。

「周太こそ、おつかれさま。ずっと電話できなくて、ごめんな、」
「ん…仕事も山も、英二は一生懸命だから、…そっちは雪、ふってる?」

素直に謝った英二に電話の向こうで微笑んでくれる。
昨日は青梅署に戻った途端に召集が掛かり、夜間捜索に入って今日まで続いた。
そのために昨夜は電話が出来ず、穂高連峰にいる間は当然メールしか出来ないから、4日ぶりになる。
久しぶりに聴く穏やかな気配が嬉しい、寛いでゆく心に英二は笑った。

「うん、夕方から雪が降りだした。新宿はどう?」
「さっき雪に変わったよ?…でも、すこしだけ…あ、穂高と槍ヶ岳の写メール、ありがとう。雪山きれいだった」
「気に入ってもらえたなら良かったよ?そっか、新宿も雪なんだ、」
「ん、夕方は雨だったけど、…そっちは積もってるよね?気をつけてね、」
「うん、気をつける。周太、明日は美代さんと公開講座だよね?雪積ると、電車とか遅れるからさ。気をつけて行ってこいな、」
「ありがとう、すごく楽しみなんだ、明日は…雪でも絶対行こうね、って美代さんと約束したんだ、」

何気ない会話が安らがせてくれる。
この4日ほど電話できなかった分、尚更に心がほっとさせられる。
この4日間に周太は、拗ねたりしてくれたかな?そんな期待に英二は訊いてみた。

「ね、周太。4日ぶりの電話だね、寂しいなとか思ってくれた?」
「ん、…それは、さびしいよ?…暫く一緒だったから、余計に、ね?」

気恥ずかしげな声が、そっと言ってくれる。
寂しがって想ってくれるのは嬉しい、うれしくて英二は微笑んだ。

「うれしいな、俺、周太のこと、いっぱい考えてたよ?」
「そうなの?…いつも?」

優しいトーンが遠慮がちに聴いてくれる。
この穏やかな空気が大好きで嬉しい、素直に英二は応えた。

「うん、いつも。俺ね、ワイン持っていったんだ、だから夜も周太のこと、想いだして話してさ。あの夜が懐かしくて、逢いたかった」
「ん、…恥ずかしいね…でも、うれしいな?」

きっといま真赤だろうな?そんな気配が電話越しに伝わってくる。
紅潮に桜染まる恋人の肌をふっと想って、幸せに微笑んだ英二に穏かな声は尋ねた。

「ね、俺のこと、光一と、どんな話をしたの?」

この話が、問題。
けれど正直に言わないわけにはいかない、申し訳ない気持ちいっぱいに英二は電話の向こうへと頭を下げた。

「ごめん、周太。周太を大人にしたこと、自白しました、ごめんなさい!」
「…っ、」

きっと新宿東口交番の2階休憩所では、真赤な顔の困惑が座りこんでいる。



ゆるやかな夜明けの部屋で、ベッドに片胡坐に座りこんだ英二はぼんやりしていた。
見つめる窓の外は春の雪に曙光が射しはじめていく、静かな雪の静謐に世界は眠っている。
そっと目を瞑ると聴いている曲の歌詞が、一昨日まで立っていた場所の記憶にふれだす。



まだまだ夢は覚めないね この道の向こう何が待ってるんだろう?
きっときっと答えはあるから 諦めきれない立ち止まれないんだ
でも後ろ髪ひくあと少しだけでも その柔らかな笑顔の隣に居たいけれど
まっすぐに駆けだす晴れ渡る青空が眩しい
追い風に煽られ新しい旅が始まる
いつかまた会えるよう振り返らずに明日へ向かうよ

きっときっと後悔しないで
笑い合えるよう進み続けるんだ

移り行く世界の片隅で君に会えてうれしい
あふれそうな想いを言葉に出来なかったよ
いつかまた会えたらもっとうまく伝えられるかな?
遥かな虹を超えて
Good luck my way 信じる道へ



この曲を、穂高連峰から戻る車中で国村はカーステレオにかけていた。
これは自分が前に買ったCDにある曲、そしてIpodに入れたことを思い出した。
そして今、改めて聴いてみると歌詞も曲も、槍ヶ岳で見つめていた想いに重なってしまう。
明るい曲調で、けれど歌詞は大切な相手との別離を詠っている。

…永訣の歌、だ

国村は雅樹と永訣をした。
北鎌尾根を歩き槍の穂先を超えて、雅樹最期のトレースを国村は自分に繋げた。
雅樹が槍ヶ岳で眠りについて15年。ようやく雅樹の死を受容れて、国村は泣いた。

―…会いに来てよ!一度きりで良いから、大人の俺とアンザイレン組んでよ、俺との約束を果たしてよ…
  救けたかった、生きて一緒にいたのに、嫌だ、いやだよぉっ…ふれられないのは寂しいよ…
  一緒に山に生きたかった、救けたかったのに、ごめんなさい…もっと早く大人だったら…あの時、俺が、大人だったら

北鎌尾根で、雪洞で、見つめた涙は今も胸に痛い。
それでも涙を流した国村は、どこかまた明るさを増した。
そして帰って来た日から昨日まで、遭難救助に一緒に立っている。
救助現場ではいつもの国村節で遭難者に怒っていた、そんな変わらない様子に安心した。

これで壁は、越えられたのだろうか?

「…そうだといいな、」

ふっと呟いて英二は窓の外を見た。
いま午前5:58、夜明けは空と雪をあわい朝へと染めていく。
そろそろ仕度しようかな?立ち上がりながらIpodのイヤホンを外すとデスクに置いた。
今日は週休だから久しぶりに丸1日、吉村医師の手伝いに入る約束をしている。
こういう診察日用と決めている組合わせで服一式を出すと、スラックスから履き替えた。
そしてシャツのボタンを外し始めたとき、かちり開錠の音がして扉が勝手に開いた。

「おはよう、国村、」

ふり向かないで挨拶しながら、英二はシャツを脱ぐとTシャツに手を伸ばした。
その背後から白い手が伸びて背中から抱きつかれた。

「おはよ、俺のアンザイレンパートナー、今日も美人だね、」

肩に雪白の顔を乗せて、機嫌よく国村が笑っている。
Tシャツを掴んだまま英二は、肩に乗った頭を掌で撫でて微笑んだ。

「褒めてくれて、ありがとな。ほら、着替えるから離して?」
「嫌だね、」

からりテノールの声が笑って断った。
肩越しにふり向くと、底抜けに明るい目は悪戯っ子に微笑んだ。

「昨夜はさ、ちゃんと俺、自分の部屋で寝たんだよ?だから今ちょっと甘えさせて貰うからね、」
「おまえ、今日は出勤だろ?こんなことしてる暇ないよ。俺だって寒い、風邪ひくから、ほら、」

仕方ないなと笑いながら英二は腕から抜けようとした。
けれど活動服のネクタイとシャツ姿の国村は笑ったまま離さない。

「まだ6時前だからね?時間は5分は充分にあるよ、おさわりを楽しませて?ね、ア・ダ・ム、」
「雪の朝に5分も裸は寒いよ、おさわり解禁してないし。って、こら!そんなとこさわるなって無理!」

くすぐったくて英二は笑いだした。
こんな早朝に騒いでいたら拙い、けれどくすぐられて可笑しくって仕方ない。

「ちょっ、やめてってば国村!それ無理無理っ、やめろって、」
「あら、アダム?ちょっとこの表情、ス・テ・キ。もっと悶えて?愛するイヴの為に、ね?」
「こんな馬鹿力のイヴはいないってば、やっ、待てって、やめろってば、」

朝から笑い過ぎて腹筋が痛くなってくる。
なんどか腕から逃げようとするのに、国村は笑って離さない。

「ホントすてきね、悶え顔。愛してるわ、ア・ダ・ム、」
「なにしてんのダメ!キス要らないキス要らない、っ」

やわらかい感触が首筋にふれて英二は笑いながら、顔を逸らした。
そんな英二を見て底抜けに明るい目が愉快に笑いながら、活動服のシャツの腕はしっかり抱きついている。
これは雪洞の続き?困りながら笑っている背後で、がちゃり扉が開いた。

「なに騒いでんの宮田?…あ、」

開いた扉には、人の好い笑顔のまま藤岡がびっくりした目をして立っていた。
そんな藤岡に国村は、さらり指示を出し嫣然と笑んだ。

「藤岡、ソコ閉めて?いま、愛の営み中だから。お・ね・が・い、」
「あ、うん。ごめんな?」

テノールの声で我に返って、藤岡は素直に謝った。
そして扉を閉めながら、英二と国村に手を振り笑いかけた。

「黙秘するから安心しろよ、湯原にも言わないから。じゃ、仲良くしなね、」
「違う!そうじゃないよ藤岡、助けてよ、」

声を掛けたけれど、ぱたんと扉は閉じられた。



食堂に行くと、藤岡は2杯目の丼飯を受けとっている所だった。
国村と3人で食卓に就くと、可笑しそうに笑って藤岡が英二の衿元を指さした。

「宮田?それ、やばいって、」
「うん?なに?」

海苔の袋を開けながら英二は首傾げこんだ。
そんな英二の衿元に白い指を入れて、隣から国村が上機嫌に微笑んだ。

「ココ、ちゃんとマーキングしてあるからね?」
「マーキング?…っ、」

すぐ意味が解かって、英二はワイシャツのボタンを一番上まで閉めた。
今日はネクタイを締めることにしよう、そうすれば衿元を自然に隠せる。
そう決めながら肉じゃがに箸をつけた英二に、からり藤岡が笑った。

「穂高で仲良くなっちゃんたんだな。ま、恋愛は自由かもな?」
「それは大きな誤解だよ?」

きっぱり笑顔で断言して英二は箸を口に運んだ。
そんな英二の隣で国村は、底抜けに明るい目を細めて艶麗に笑いかけた。

「つれないこと言わないでよね、宮田。俺たち、深ーく、愛を確かめ合っちゃったのにさ?」

じゃがいもが英二の喉に詰まった。

「…っ、」

声も詰まったままコップの水に口付けて、一息に飲みこむ。
ほっと息吐いている英二を余所目に藤岡は、感心したよう頷いている。

「へえ、やっぱりそうなんだ?宮田って、ほんとモテるな?」
「ね?そんな男と愛し合っちゃってさ、お蔭で俺、ちょっと嫉妬深くなりそう。困るよね、」

可笑しそうに笑いながら国村は、空いた英二のコップに水差しから注いでくれる。
注いでもらったコップを素直に受けとりながらも、断固と拒否を口にした。

「藤岡、それ誤解。俺は国村とは、そういう愛じゃ無いよ?アンザイレンパートナーとして、だから、」
「あ、そういう意味?」

素直に笑って藤岡は頷いてくれる。
丼飯に目玉焼きを乗せながら、藤岡は明るく言葉を続けた。

「よかった。初任総合で湯原に会ったら俺、困るなって思ってたんだ。黙秘してもさ、なんか気まずいだろ?」
「大丈夫、後ろめたいこと無いから、」

微笑んで英二は味噌汁の椀に口付けた。
けれど藤岡は首傾げて、なにげなく訊いてくれた。

「でも宮田、さっき裸で抱かれてたよな?あれって後ろめたくないか?」
「…っ、」

英二の口付けた椀から味噌汁が、藤岡のトレイにぶちまけられた。

「あーあ、全部が味噌味になっちゃったね?ま、肉じゃがは味噌味もあるけど?」

飄々と言いながら国村は、持ち上げていた自分のトレイをテーブルに戻した。
そして食卓の隅にあるティッシュ箱を手にとると、英二と藤岡の間に差し出してくれた。
口許をティシュで拭いながら英二は藤岡に謝った。

「ごめん、藤岡…、」
「うん?」

謝った先で藤岡もティッシュを手にしながら、いつもの人の好い笑顔を向けてくれる。
トレイを拭き始めながら、からり明るく藤岡は言ってくれた。

「まあ、ほとんど食べ終わってるしさ。味噌味も好きだから、俺、」

なんて人が好いんだろう?

いつもながら英二は、この同期の人柄に感心しながら溜息を吐いた。
すぐ詫びを示したいけれど、自分の膳をほぼ食べ終えているから膳の交換をするわけにもいかない。
困りながら英二は、申し訳なくて提案した。

「ほんとごめん、お詫びにさ、今夜ちょっと呑もうよ?俺、今日は週休で吉村先生の手伝いだけだから、酒買ってくる」
「あ、うれしいな。でもさ、なんか逆に悪いな?」
「いいんじゃない?タダ酒は、特別に旨いしさ。ね、俺のア・ダ・ム、」

さらり笑って透明なテノールが英二に言ってくる。
その言葉に、藤岡が軽く首を傾げた。

「宮田がアダム?なんでそんな呼び名になったんだ?」
「なんでもないから、」

笑いながらも遮って英二は話題を封じようとした。
けれど透明なテノールは愉しげに笑って、由来を言ってしまった。

「俺たちね、山のエデンで雪の花に祝福を受けちゃったんだよね。それがアダムとイヴの失楽園シーンと一緒なワケ、」

失楽園シーン、ってなんか嫌だな?

この妙に艶っぽい禁忌な雰囲気はなんなんだ?
なんだか呆気にとられた英二を置き去りに、藤岡と国村は愉しく話し始めた。

「それで宮田がアダムなんだ?じゃあ、国村がイヴ?」
「だよ。それで可愛いイヴはね、山のエデンでアダムと愛を深めたのでした、」

透明なテノールが幸せに笑っている。
こういう笑顔は嬉しいけれど話の内容が困る、なのに話を止める言葉も浮ばない。
ちょっと憮然としたまま朝食に口動かす前と隣は、艶っぽい話に笑っている。

「なるほどね。確かさ、イヴがアダムを誘惑するんだよな?やっぱり国村が宮田を誘惑したんだ?」
「俺の場合はさ、この可愛い姿自体が誘惑になっちゃうからね、」

飄々とテノールが自賛の言葉に笑っている。
無事だった目玉焼き丼を食べながら、藤岡も笑って頷いた。

「たしかに国村って、きれいだよな。身長でかいし、細くても筋肉質だから男っぽいけど、女顔だしさ?」
「うん、おふくろに似てるからね。藤岡も誘惑されたい?」
「国村は美形すぎてパス。それにイヴは、アダムと愛を深めないといけないだろ?」
「そ、イヴはアダムにぞっこんだからね。愛してるわ、彼のこと。相思相愛なの、」

話しながら、底抜けに明るい目が可笑しくて仕方ないと笑っている。
あのとき雪洞で号泣していた姿を思えば、こんなふうに笑っている姿は嬉しい。
けれど困ってしまう。食べ終えてコップを手に取りながら英二は、話の付け足しをした。

「その愛はね、ザイルパートナーとしてだから、」

言って微笑むと英二はコップの水に口付けた。
藤岡もコップの水を飲んで、感心と困惑のハーフ顔で口を開いた。

「そっか…ザイルの方が赤い糸より強力だよな?そんなに堅く愛し合っちゃたんだ?俺、初任総合のとき困るなあ?…湯原どうしよ、」

だから違うって藤岡?
そう言おうとした英二の気管に、飲みかけの水が落ちこんだ。

「…ごほっ、ごほこほんっ、こんっ、…」

今度は水に咽て、また英二はティッシュ箱をアンザイレンパートナーから受け取った。
ティッシュで口押さえて咽こんでいる隣で、機嫌よく国村が藤岡に答え始めた。

「黙ってれば大丈夫、周太ってアダルト系は鈍いからね、」
「あー、確かに。湯原って、大人の話とか無理っぽいよな?普通にしてれば平気かな?」
「そ、普通にしてれば解んないから大丈夫。俺たちのエデンを守るのに、協力よろしくね?」
「うん、黙ってる方がさ、平和だよな?俺は平和な方が好きだよ、」

人の好い笑顔と悪戯っ子の笑顔の間を、話が勝手な方向へ転がっていく。
早く話を止めたいのに、すっかり咽こんで口がきけない。

「こほっこんこんっ、ちがっ、ごほっ…ごかい、だごほっごほっ、」
「あら、アダム?咽ながら話しちゃダメよ、ほら、水呑んで?」

優しいトーンで話しかけながら嬉しげに笑んだ細い目は、まさに小悪魔か悪戯な天使のよう。
そんな様子に人の好い同期は微笑ましく笑いかけてきた。

「なんか幸せそうだな、ほんとイヴなんだ?」
「そうだよ?俺はアダムに愛されているイヴだね、愛されてホント、し・あ・わ・せ、」
「ちがっ、ごほんごほっ、…こんこほっ、」

否定したくても声が出ない、この状況に英二は心底、困り果てた。



診察室の朝のセッティングを終えて、留置人の検診に行く支度も整えた。
定期的な検診がちょうど今日に当った、吉村医師が忙しい日に丸一日を手伝えるのは嬉しい。
今日が週休で良かったな?思いながら隅にあるロッカーから白衣を取出し羽織ると、英二の姿に吉村医師が微笑んだ。

「白衣もすっかり馴染みましたね、宮田くん、」
「ありがとうございます。でもちょっと面映ゆいんですけどね、」

素直に礼を言いながらも英二はすこし照れた。
この白衣は現場立会や検診などには必要だろうと、吉村医師が支度してくれた。
せっかくの厚意だから着させてもらっているけれど、文系だった英二は白衣自体が珍しい。
なんとなく気恥ずかしいな?思いながら診察用具を持とうとした英二に、吉村医師が言ってくれた。

「宮田くん、ネクタイ外しましょう。たぶん大丈夫ですけど、念のため、」
「あ、…はい、」

素直に頷きながらも英二は内心困った。
留置人の診察時は絞首防止のため、精神科医と同様にネクタイなど首回りのものは外す。
やはり留置人には精神的不安定が見られることもある、そうした相手に犯罪を重ねさせない注意が必要となる。
だから当然外さないといけない。仕方なしに英二はネクタイを外し、けれど第一ボタンは外さなかった。

「おや?どうして今日は第一ボタン、外さないんですか?」

何気なく吉村医師に訊かれて、英二は困り顔で微笑んだ。
この質問は当然だろう、いつも英二はネクタイをしない時はボタンを外している。
診察用具を持ちながら、観念して英二は答えた。

「今朝、国村の悪戯でキスマーク、つけられちゃったんです、」
「国村くんが?ああ、はははっ、」

可笑しそうに吉村医師は声を出して笑い始めた。
診察室を戸締りして「留置所」の看板を扉に掛けると、廊下を歩く英二の左足元を見て吉村医師は軽く頷いた。

「うん、調子いいですね。穂高でも問題なかったでしょう?」
「はい、ご心配をおかけしました、」

鋸尾根の雪崩から2週間、負傷した左足は完治している。額の傷も綺麗に痕なくふさがった。
けれど、この遭難が周知されることのリスクは大きい。いかなる理由でも2度と、同じ過ちは繰り返せない。

―…これは、最高峰の竜の爪痕だよ。ここに山っ子がキスをした、これで最強の護符になったね。
  もう、おまえは遭難には掴まらない

北穂高岳の雪洞で国村が贈ってくれた言葉は、最愛のひとへの哀惜と懺悔が紡いだ。
あの言葉の想いと温もりに応えていけたらいい。そんな想い微笑んだ英二に、吉村医師は笑いかけて口を開いた。

「国村くんね?雅樹にも同じこと、していたんです、」
「雅樹さんにも?」

雅樹は英二や国村より15歳年上になる。
だから当時の国村は8歳以下だろう、そんな頃からこんな悪戯をしていたなんて?
でも納得かな?そんな考え巡らす英二に、吉村医師は教えてくれた。

「雅樹は、月一は私の実家に帰っていました。その度にね、いつも国村くんは遊びに来てくれたんです。
保育園に入った4歳からは泊りに来てくれて。その翌朝は山を登りに行って、下山の後も泊まって。ふたりは本当に仲良しでした。
寝る時も一緒で、いつも雅樹が抱っこして。それでね、雅樹の首のあたりに顔くっつけて寝ていたんですよ、国村くん。そうするとね?」

いったん切って、ちょっと可笑しそうに吉村医師は笑った。
その可笑しい懐かしい記憶に吉村は微笑んだ。

「まだ小さかった所為もあるかな?おしゃぶりの癖で、寝惚けて雅樹の首を吸っちゃうんですよね。
だから朝起きるとね?雅樹の首のところに、いつも可愛いキスマークがついていました。それが可笑しくて可愛くてね。
国村くんが家に来てくれた後は、今でも家内や雅人と話します。おしゃぶり光ちゃんが、あんなに大きくなったな、ってね」

おしゃぶり光ちゃん。
その呼び名が可愛くて、今の大人になった姿とのギャップが可笑しい。
ちょっと笑いながら英二は訊いてみた。

「ずいぶん可愛い呼び名ですね?雅人先生まで、仰るんですか?」
「可愛い呼び名でしょう?雅人がつけたんですよ。雅人も、国村くんを可愛がっていますから。でも、雅樹にべったりでしたね、国村くん」

兄と慕う青年に抱きついて、首筋をおしゃぶりにして幼い子が眠っている。
それは微笑ましい可愛い光景だったろう、そして、ふたりはお互いに大切な存在だったと解かる。
こんな大切な記憶があるから国村は、いつもあんなこと言うんだな?納得しながら英二は笑って頷いた。

「国村、俺に言うんです『甘えん坊の俺は、おしゃぶりがほしくなる』って。それで山でも一緒に寝て、つけられちゃうんです」
「ほんとうに彼は、変わっていませんね?」

楽しそうに吉村医師は笑っている。
懐かしい幸せな光景が心を充たしている、そんな優しい笑顔で吉村医師は言ってくれた。

「きっとね?寝ている時のキスマークは、無意識だと思いますよ。彼はずっと雅樹にしていましたから。だからね、」

ほっと、ひとつ息を吐いた。
そして穏やかに微笑んで、吉村医師は教えてくれた。

「あの時も雅樹は私の実家に泊まって。いつものように国村くんと眠って、朝早く送り届けて。それから上高地へと入ったんです。
その翌日に雅樹は亡くなりました、だからね?雅樹の首には、可愛いキスマークが残っていました。薄いけれど、ちゃんと、あったんです」

微笑んだまま、ゆっくり1つ吉村医師は瞬いた。
そして懐かしみ、哀しみ、愛おしむ目で英二に微笑んだ。

「山っ子のキスマークつけたまま、雅樹は逝ったんですよ。山と医学ばかりの男には光栄で、幸せだった、そんなふうに想います」

きれいな笑顔は慈愛と敬意に、おだやかだった。
こんなふうに親から話して貰える雅樹は幸せだろう、英二は微笑んだ。

「はい、きっとそうですね…幸せです、きっと」

そんなふうに笑いあって、吉村医師と英二は留置所に入った。
いつもどおりに診察を進めて、無事に終わらせると英二は診察室でコーヒーを淹れた。
熱いマグカップに掌を温めながら、芳ばしい湯気の空気に吉村医師は、さきほどの続きを話してくれた。

「我が息子ながら雅樹は、本当に佳い男でした。けれどね、年頃なのに恋人らしい女性も、いなかったんです」
「そうなんですか?」

意外で英二は訊きかえしてしまった。
この診察室の机に微笑んだ写真の雅樹は、英二の目から見ても佳い男だと思う。
端正な顔立の長身、優しい穏やかな笑顔は美しくて、真直ぐな視線が強靭な芯を感じさせる。
きっと女性にも人気があったろうに?不思議で首傾げた英二に、ちょっと得意げに吉村は笑ってくれた。

「意外でしょう?それがね、雅樹は見た目ソフトな癖に、物堅い性格でね、いわゆる遊ぶことは少なくて。
学校と家と山の他には、本屋か図書館にしか行かないような、堅物だったんです。恋人の付合いをするには、面白みが無いでしょう?
たぶん、女性とキスしたことも、無かったんじゃないのかな?ほんとうに雅樹は、山か医学ばかりの男でした。親として困る位、真面目でね」

本当に少し困っていた、そんな雰囲気に吉村医師は笑っている。
英二も微笑んで、思ったままを正直に言った。

「そういう人、俺は好きです。でも雅樹さん、女性から声は掛けられていたと、思いますよ?」
「宮田くんが言うと信憑性が高いですね?私もそう思います。だってね、雅樹と歩いていると、よく女性がふり向きましたから、」

愉しそうに笑って吉村医師はコーヒーを啜りこんだ。
英二もひとくちコーヒーを飲むと、吉村医師は可笑しそうに笑いながら教えてくれた。

「そんな雅樹が学校の友人以外で、定期的に逢ったのはね?考えてみたら国村くん位なんですよ。
可笑しいでしょう?大学生や高校生の男が、小さな男の子に逢いに通うなんて。 いくら山ヤ仲間で奥多摩だからって、ね?
でも雅樹はね、国村くんと山に登ることが、本当に楽しかったんです。だから想いました、年齢を超えた繋がりもあるんだな、と」

そんな紐帯が雅樹と国村にはある。
それを断ち切られた国村の痛みを想いながら、英二は口を開いた。

「俺も、雅樹さんのこと大好きです。先生、今回ね?槍の穂先から、北鎌尾根の独標まで往復してきたんです、国村と一緒に」
「国村くん、北鎌を登ったんですか?」

驚いたよう吉村医師が訊いてくれる。
きっと吉村医師なら、国村が竦んでいたことを気付いていただろう。
そして心配してくれていた、その想いに英二は静かに笑って頷いた。

「はい。国村と一緒に、雅樹さんの慰霊登山をさせて頂きました。間ノ沢を見つめて、そこから独標まで行って頂上へ折り返したんです」
「宮田くんが一緒に登ってくれたんだね。ありがとうございます、雅樹は喜んだでしょう。国村くんの様子は、どうでしたか?」

うれしそうに微笑んで、すこし心配そうに訊いてくれる。
あの瞬間に立会わせて貰った素直な感謝を抱きながら、英二は口を開いた。

「国村、槍の点に雅樹さんと手形を押して、泣いて笑いました。そうやって国村はね、雅樹さんのトレースを繋げたんだと思います。
だから雅樹さん、今は国村と生きています。きっと、ふたりはアンザイレンしていますよ?見えなくても、ずっと一緒に山を登っていくんです、」

「そうでしたか、…よかった」

ほっと息吐いて吉村医師はコーヒーをひとくち飲んだ。
穏かに微笑んで、英二を見て言ってくれた。

「うん、そうですね?あの2人なら、きっと一緒です、」

微笑んだ吉村医師の目許には、うすく涙が浮んだ。
きっと想いがあふれるだろう、英二は空のマグカップを手にとり立ち上がった。

「先生、おかわり淹れますね、召し上がるでしょう?」
「はい、ありがたいですね、お願いします、…」

笑顔で頷いて吉村医師は、そのまま顔を俯けている。
そっとティッシュ箱をサイドテーブルに置くと、英二は背を向けて流しに立った。
流しの水をいつもより強く流す、やさしい水音が白い部屋を穏やかに充たしていく。
そして、かすかな嗚咽が診察室を温めた。

マグカップを洗い、水を流したままカップを拭く。
拭いたカップにインスタントのドリップコーヒーをセットして、ゆっくり湯を注いでいく。
やさしい水音と湯の音を聴きながら、眺める窓の外は春の雪が静謐の底ふりつもる。
奥多摩にふる雪に、蒼穹の点に舞った雪の花を見つめて、15年の涙に英二は佇んだ。

15年、その雪陵の壁を今、超えていくのは、山っ子の涙が繋いだアンザイレンザイルのトレースが道しるべ。





【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「Good luck my way」】

(to be continued)

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第42話 雪陵act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-05-06 23:59:55 | 陽はまた昇るside story
最愛、雪陵に蒼穹の点を超えて



第42話 雪陵act.5―side story「陽はまた昇る」

雪洞の夜にやさしい静謐がおりてくる。
温かなシュラフに潜りこんで向き合うアンザイレンパートナーから、やさしい記憶たちは紡がれ出した。

「俺が生まれたとき、ちょうど吉村先生と雅樹さん、奥多摩に居たんだよ。先生の実家に遊びに来ていたんだ。
それでさ、おふくろの山頂出産に驚いちゃった後藤のおじさんが、吉村先生を呼び出してね。雅樹さんも一緒に天辺に来てくれた」

国村は、東京最高峰で奥多摩の第1峰になる雲取山頂で生まれた。
この話を英二は、吉村医師と後藤副隊長から聴き、国村自身からも少し聴いている。
雅樹がいたことは初めて聞くけれど、吉村医師が奥多摩に帰るなら山好きの雅樹も一緒な方が自然だ。納得しながら英二は微笑んだ。

「お母さん、富士山見て伸びして、それで産気づいたんだよな?」
「そ。秋にちょっと話したよな?で、雅樹さん達が来た時は、もう出産が始まっていたんだ。
すぐに吉村先生は、おふくろを診てくれた。で、俺の産湯をね、奥多摩小屋まで取り行ってくれたの、雅樹さんなんだよ」

後藤副隊長も奥多摩小屋から産湯を運んだと話してくれた、それを運んだのが雅樹だった。
この運命の交錯、山ヤの赤ん坊と少年の出逢いは温かい。語ってくれる元赤ん坊の細い目も温かに笑んで続けた。

「居合わせた産婆さんと、吉村先生が俺を取り上げてくれた。そのまま先生、おふくろの処置してくれてさ。
それで産婆さんを手伝って雅樹さんが、俺に産湯を浸からせてくれたんだ。で、生まれてすぐの俺を、抱っこしてくれた。
あの瞬間から俺、雅樹さんが大好きになったよ、きっと。それからずっと、あのひとの事が俺は大好きなんだ。ほんと愛してる、」

語る底抜けに明るい目は、産湯を浸からせてくれた人への想いに輝いて優しい。
いつもより優しいテノールは、嬉しそうに語っていく。

「中学生だったんだ、雅樹さん。俺が生まれて間もなくかな?15歳になってすぐ雅樹さん、救急法の試験に満点合格してさ。
それで吉村先生が救急用具をプレゼントしたらしいね?だから雅樹さん、俺が物心ついたときには、いつも救急用具を持ってた。
山で困った人を助けてね、きれいな笑顔で元気づけてた。美人で頭良くって、優しくってさ。山を心から愛する立派な山ヤだったよ」

山を心から愛する立派な山ヤ。
この国村が誰かをそんなふうに褒めることは、滅多に無い。
どれだけ国村が雅樹を、深く敬愛していたのかが解かってしまう。その痛みの深さを想いながら、英二は語ってくれる目を見つめた。

「初めて一緒に登ったのは、俺が4歳だな。ウチの梅林に案内したんだよね、雅樹さんが大学の春休みで奥多摩に来たんだ。
あの日はさ、オヤジは仕事で写真撮りに行っちゃって、おふくろはピアノ教室だったんだ。で、俺が1人で案内することになったね」

なにげない会話の中に初耳があった。
けれど納得できるな?思いながら英二は聴いてみた。

「お母さん、ピアノの先生だったんだ?」
「あ、…うん、まあね、」

訊かれて、珍しく国村は言葉を濁した。
なにか訊かれたくない理由があるのだろうか?本当はピアノのことは訊いてみたいと思ったけれど、英二は止めた。
以前、巡回中偶然に国村のピアノと歌声を聴いた事がある。
それは玄人に巧くて、けれど国村はこのことは内緒にしたい風でいる。
だから訊かない方が良いかなと英二は、ずっと黙っている。今日も黙ったまま微笑んで、英二は促した。

「あの梅林、きれいだな?雅樹さんも喜んだだろ?」
「うん、すごく喜んでくれたよ?雅樹さんはね、花や木も好きだったんだ。名前のとおりだよね、」

嬉しそうにテノールの声が微笑んだ。
花木が好きだなんて、誰かさんに似ているな?英二は相槌を打った。

「雅樹さんの名前、奥多摩の樹木の意味だって吉村先生も言ってた。花や木が好きなんて、周太と似てるな?」
「そうなんだよね、だから俺、周太と逢った時は嬉しかったんだ」

英二の言葉に素直に頷いてくれる。
そして大切な初恋の思い出を少し話してくれた。

「雅樹さんが亡くなって最初の冬が来て。その次の冬に周太と逢ったんだ。でさ、雅樹さんが亡くなってから、初めてだった。
あんなふうに見惚れて、大好きだな、って話せたのは。でも、周太はプラスアルファの感情があったから、完全に恋だって自覚した」

最愛のアンザイレンパートナーを亡くした山ヤの少年。
その傷に周太の優しい純粋な心は、おだやかに癒しを与えただろう。
なぜ国村が周太を恋し、ずっと14年間を待ち続けたのか。その理由がまた解かったように想える。
そして自分と周太の繋がりが国村を傷つけているのではないかと、また哀しみが起きかけてしまう。

―でも、もう、決めたんだ…ごめん、国村

ずっと俺だけのものでいて。
そう周太に告げてしまった、そして体の繋がりを二重に持ち、約束を重ねている。
あの愛しい存在を幸せにする、それ以上の願いは自分には無い。だからあの夜を後悔はしていない。
それでも、この純粋無垢な子供の瞳を持ったアンザイレンパートナーの深い哀切と愛慕を今日、目の当たりにしてしまった。
そして雅樹の想い遺された自分の心は、このパートナーの幸せを心から祈りたい願いがある。

どうしたら、幸せに出来るだろう?
そんな祈りを見つめるむこう、底抜けに明るい無垢な目は微笑んだ。

「でね、雅樹さんとは奥多摩の山は、ほとんど登ったんだ。休みで奥多摩に来るたび、誘ってくれてさ。嬉しかったね。
小学生になってからはね、ふたりで他の山にも登りに行った。夏の富士に北岳、谷川岳、どれも一般登山道だけど楽しかった。
それで小2の夏、ここに一緒に登ったんだよ。小屋とテントに泊まって縦走、で…楽しかった、だから、余計に哀しかった…ん、だ」

ぽとん。
隣に寝転んでいる無垢な目から、涙がこぼれた。

「今回の、前穂高から槍の縦走ルートはね?そのときの…俺と雅樹さんの、ルートなんだ…だから、槍で雅樹さんが…っ、さ…」

透明な目から涙が頬伝ってシュラフにこぼれていく。
涙こぼしながら、ひとつ息を吐いて透明なテノールは想いを言った。

「槍で、雅樹さん…っ、な、亡くなって…ほんとは、約束だった、っ…北鎌尾根、いつか…俺が、大きくなったら一緒に…っ、」

涙流しながら秀麗な貌は笑っている。
この顔を見つめている、この心が軋みあげてくる、この痛みは誰のものだろう?
この痛みの目の前、泣笑いの頬を涙ぬらしながら国村は約束のトレースに微笑んだ。

「槍の穂先から、き…北鎌尾根、いっしょに眺めたんだ…っ、ぅ…いつか、いっしょに、のぼろう、ね、て…
だから余計に、怖かったんだ、さびしくて哀しくて…あの場所は、登れなかったんだ…っ、ルートは頭に入ってる、でもむりだった…
今日、一緒に、きたかまおね、っ…あんざいれんして、うれしかった、やくそくのルート、だったんだ…でも、あそこで、まさきさん…っ」

あふれていく涙が、ろうそく揺れる雪洞の灯に煌いていく。
この涙と告げてくれる「約束」に、なぜ国村が15年間を慰霊登山できなかったのか理由が解かる。
幸せな約束の場所が哀しみ墓標になった、この痛みに竦んでしまう心を誰に責められるだろう?

「あ、あのとき、っ、…まさきさん、奥多摩で、い、一泊してから、上高地、入って…っ、だから俺、直前にあった、んだっ、…
なんか、いつもと違うって、おもった、っ、…でも、わからなくて、でも、約束して…くれたから!俺のパートナー、なるって約束…っ、
雅樹さん、ぜったい約束まもる、だから、だいじょうぶ、っておも、った…でも、かえってこなかったんだっ…やくそくのルート、で…さ、
俺との、約束の、ルートで、やくそくごと消え、た…っ、…だから今日、うれしかったんだ、約束まもって、くれた、うれしかった、…っ、」

凍りついた哀しみを、今日、国村は泣きながらでも超えた。
この強靭な純粋無垢を今は、心ゆくまで思い切り泣かせてやりたい。
そっと長い腕を伸ばすと英二は、大切なアンザイレンパートナーを抱きしめた。

「うん、雅樹さんも今日、嬉しかったな。約束のルートで、約束のアンザイレンが出来た。きっと、本当に、嬉しかったよ?」

抱きしめて寄せた頬に、涙が温かい。
肩に額つけて国村は泣笑いに微笑んだ。

「…そ、うだよね?…っぅ…雅樹さん、も、うれしいよね?…っ、あ、…うっ、…っ、」

青いウェアの腕がそっと英二を抱きしめてくれる。
どこか涙こらえている気配に、英二は綺麗に笑いかけた。

「泣けよ、国村?今夜はさ、存分に泣けよ。もう雅樹さんは、ずっと一緒にいてくれるよ?だから大丈夫だ、泣けよ、」
「…うん、っ…泣くよ?…お、れ、…まさきさ、っ…」

回してくれる白い手が背中を掴んで、そして透明なテノールは泣いた。

「あっ、あああああ…っま、まさきさん…やくそ、く…ありがと…ぅ、っ、…ああっ、あ、…なんでっ、」

温かい涙が嗚咽と一緒に、そっと英二の心へと静かに沁みこんでいく。
抱きしめて、遠慮なく泣いてくれる。そんな姿にどこか喜びがふれるのは、心に残った雅樹の想いからだろうか?
ただ何も言わず英二は、友人でアンザイレンパートナーの涙と慟哭を抱きしめた。

「なんで?…なんで死んじゃうんだよぉっ…生きて!…ぅ、っ…帰ってきてほしかった、ぁ、ああっ…救けたかった、
いっしょに…っ、もし、一緒ならぁっ…救けられた、のに…なんでだよぉ…っ、…もっと…あ、あああっ、ま、さきさんっ…
ごめん、なさ、い、まさきさん…っ、もっとおれ、はやく、おとなにっ…たすけたかったよぉっ…ぅ、うあああああっあ、ああっ、ごめ、ね…」

悔恨と、哀惜と、どうにもならない望み。
すべて言っても詮無いことと解かっている、それでも吐き出せば楽になる。
すこしでも多く吐き出して、楽になってほしい。そんな想いと抱きしめている英二の頬を、涙がこぼれた。

「たすけたかった!…生きて、いっしょにいた、のに…っ、嫌だ、いやだよぉっ…ふれられない、のは…さびしいよぉっ…!
いっしょに心いて、くれる…うれしいけどっ!でも、…ふれたい、よぉ、まさきさん!あ、あ、っあああああああっ…うあああっ!」

慟哭が、この心に刺さる。
憧れて、兄のよう、愛して、尊敬して、大好きだった。
この15年間ずっと雅樹を求めて、死を受け止めきれず慰霊登山も出来なくて。そして受けとめた今、泣き叫んでいる。
いま泣き叫ぶ透明なテノールが前に言った、あの言葉が心に哀しく聞こえてしまう。

―…心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ

心を繋いだ相手と体ふれ合いたい、それはシンプルで誰もが願う幸せの1つだろう。
けれど国村が求める周太は英二しか求めようとしない、そして最愛の雅樹とはもう生きては触れあえない。

「ま、さきさんっ、…ぅ、だきしめて、ほしいよぉっ、むかしみ、たいに、…ぅっ、すごいな、って…笑って、ほし…っ、
さびしいよぉ、…いっしょに山に生きたか、っ…たすけた、かったのに…っ、ごめ、なさいっ…もっと、はやくおとなだったら、ああっ、」

心を繋いだ相手と体ごとふれ合いたい
もう、国村の願いは叶わないかもしれない。
そんな想いが今、尚更に痛い。そんな痛みに言葉の続きが響いてしまう。

―…だから俺はね、おまえ見るといつも、じゃれつくんだよ。宮田はさ、恋愛じゃないけど、俺にいちばん近いよ
  宮田とくっつくと安心するよ、温かいなって想える。無条件に許してもらえる、そういう安心があってさ、信じられるんだ

射撃大会の夜に透明なテノールが、言ってくれた想いが心に響く。
もう自分の全ては周太に捧げた、けれど、この慟哭を抱きしめている今が哀しくて愛しい。
この心突き刺す哀しみを止めてやりたい。

「雅樹さ、んっ…ま、さきさんっ、ごめんなさいっ…あのときおれがおとなだったら!っあ、たすけられた…っう、ああっああ、
ごめん、なさ…っ、もっとはやく、うまれてっ…ぅっ、た、たすけたかったっ、さびし、よっ…ごめ、なさ、っ…うあああっあああ…」

身代わりでも受けとめて安らがせてやりたい。
この想いが、雅樹の願いと重なり合って温もりが心を充たしてくる。
その温もりが涙になって、そっと英二の頬を伝って雪白の頬へとこぼれた。

「大丈夫だよ、国村?…雅樹さんのね、心はもう、国村が救けたよ?」

涙を重ねながら、そっと英二は想いを告げた。
透明な嗚咽が肩で息吐きながら、すこし顔ずらして無垢の目が英二を見つめた。

「っ、…そ、うかな?…ほんと?…おれ、たすけられたかな…?」

赤いアンザイレンザイルに雅樹の想いを繋いで、国村は北鎌尾根から槍ヶ岳の点を超えた。
そして途切れたトレースを終わらせて、繋げて、明日へ続くトレースと一本にして国村に繋がっている。
だからきっとそう、静かな確信に英二はきれいに笑って頷いた。

「うん、おまえが雅樹さんを救けたんだ。大丈夫だ、おまえが救けてくれたこと、すごく喜んでるよ?ほんとだよ、」

微笑んで答えながら、そっと掌で涙拭ってやる。
拭う掌を涙の瞳が見つめて、そして英二の目を見て笑ってくれた。

「こういうとこがさ…なんか、似てるんだよ、ね…みやたと、雅樹さん…っ、ぅ…俺さ、正直に言うけど、さ…」
「うん、」

たぶんそうかな?
いつも背中から抱きついてくれる雰囲気に感じること、これが答えかな?
そんな想いと見つめた先で、底抜けに明るい目が泣笑いに微笑んだ。

「俺、最初に宮田とあったとき、雅樹さんだ、って想ったんだ…っ、ぅ…別人って解ってたよ?でも、同じだった。
背が高くて、色白でさ…おだやかで、静かで温かい気配がね…同じだった、ちょっと悩んでいる雰囲気とか、真面目で色っぽいとことか。
初めて逢った瞬間に、俺、逢えたね、って…もう生きて逢えないと想ってた、俺のアンザイレンパートナーに逢えた、って…最初に想ってた」

ゆっくり瞬いて、無垢な笑顔に笑ってくれる。
笑って、透明なテノールは言葉を続けた。

「一生懸命、レスキューの勉強してさ…吉村先生と、いつも一緒で…山、初心者なのに、俺に付いてくる…話していて、楽しい。
雅樹さんと似てるけど、それだけじゃない。今度こそ、生涯のアンザイレンパートナーになる相手…そう思って俺、うれしかったんだ」

ほんとうに嬉しかったよ?
透明な目が温かに笑んで想い伝えてくれる、そんな想いが嬉しくて英二は微笑んだ。

「うん、俺も、うれしかったよ?国村に生涯のパートナーだって言ってもらえて、うれしかった、」
「うん、…っ、ぅ、…ありがと、…ほんと、おれ、宮田だけ、でさ…っぅ、」

笑った顔がまた、涙に濡れていく。
泣いて、しがみついて国村は、英二の目を真直ぐ見つめて泣き出した。

「だから俺っ…の、鋸尾根の雪崩のとき、おまえを救けられて、うれしかったんだっ…ほんとにうれしいんだ、おれ…っぅ、
おれ、っ…雅樹さんはたすけられなくて、でも、おまえはたすけられたっ…っぅ、うれしいんだよぉ…っ、俺、おまえだけなんだ、」

背中を掴んでくれる掌が、ぎゅっとウェアを握りしめてくれる。
首元に額付けて涙こぼして、透明なテノールが泣き笑う声で想いを紡いだ。

「俺もう解ってるんだ…ほんとは、わかってるんだ、周太はもう、俺にはふりむかないよ?それでも諦められないだけ、で…っ、
周太の幸せはさ、おまえのとなりだから…それでいいよ、あのひと幸せに生きていたら、それでいいんだ、…っ、ぅ、でも寂しい、
おれは…おまえしか傍にいないんだよ…、誰もいないんだ、他に、もういない…まさきさん、ふれられないから…抱きしめられ、ない」

抱きしめられない、寂しい。
この気持ちは英二には痛切に解かってしまう、自分も同じ寂しさを抱いてきたから。
けれど自分は周太に出逢った、そして幸せを抱きしめられている。けれど国村にはそうした存在は居なかった。
けれど国村は今、すこし英二に求めようとしている。そんな国村の痛切な寂しさごと英二は抱きしめながら、声に心傾けた。

「だから、おまえが、俺の、アンザイレンパートナーにさ、認められたの、うれしくて…おまえのクライマー任官、嬉しくって、さ…
これでもう、警視庁でも俺と一緒にいるのは、決まりだ、って…ずっと一緒にいてくれる、それが、うれしいんだよ?ほんとに、さ、
最高峰も、山岳レスキューも、これで一生傍にいられる、って、っ…俺、孤独じゃない…大好きな、おまえが傍にいれば…いい、んだ、
だから今日も、北鎌尾根、怖かったんだ…っ、…雅樹さんと同じになったら、って…だから今が、うれしいんだよ…無事が、うれしい、よ」

英二の肩に温かな涙が融けていく。
ただ抱きしめて、頬ふれ合って、互いの涙の温度を融かしあっている。

―こんなふうに大切な相手がある

友人で、それだけではない相手。
恋人や伴侶とは違う、けれど深く響き合うものがある。
ザイルに生命と運命を繋ぎ合う、生涯のアンザイレンパートナー。その意味が今初めて解かり始めたかもしれない。
この温かい想い抱きながら英二は、大切なザイルパートナーに話しかけた。

「うん、俺もうれしいよ。国村と、ずっと一緒に山を登って、一緒に笑える。それが幸せだって思うよ?
俺は周太を伴侶にしている、けれどザイルパートナーは国村だ。ふたりとも、比べられない程に大切な相手だよ?」

「…っ、ほんと?…っ、ぅ…おれのこと、周太くらい、大切なのか…?」

涙のんで透明な目が見つめてくれる。
ほんとだよ?優しく笑んで頷きながら英二は、率直な想いを告げた。

「うん、大切だよ?だから俺は今日、命を懸けても北鎌尾根に登ろうって思ってたんだ。国村の山ヤの誇りを、守りたかったから」
「俺の、誇り…?」

透明なテノールの短い呟きに、英二は頷いた。
そして今日の自分の想いを、おだやかな笑顔で口にした。

「最高の山ヤとして、最高のザイルパートナーとして、国村に雅樹さんの慰霊登山をさせたかった。そうして壁を越えてほしかった。
哀しいのも辛いのも当然だ、けれど山ヤなら、仲間の慰霊登山が出来ないといけない。だから今日、一緒に北鎌尾根に登りたかったよ」

最高のクライマーを嘱望される国村、その唯一のザイルパートナーに自分は選ばれた。
それが嬉しい、山ヤとして最高の幸せだと心から嬉しく想っている。
だからこそ、パートナーとして国村の誇りを守りたい。
そんな想いに微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「ほら?…こんなに、俺のこと、…愛しちゃってるね?おまえってさ、」
「うん、そうだな?…これも愛だな、周太のとは違うけど、愛してるな?」

確かにこれも愛情だ。
素直に認めて頷いた英二に、うれしそうに無邪気な笑顔が咲いて、思い切り抱きついてくれた。

「ほらっ、愛だよな?俺のこと、愛しちゃってるね、宮田っ!ずっと一緒だねっ、」

幸せに笑って頬寄せて、素直に喜んでくれる。
この笑顔が嬉しくて愛しいと思うのは、雅樹の心と自分と、2人分の想いを抱いた所為かもしれない?
こんな自分は懐が少し広く出来ただろうか?そんな想いも嬉しくて、笑いながら英二は応えた。

「一緒だよ。俺は生涯ずっと、おまえのアンザイレンパートナーだよ?もう、寂しくないだろ?」
「うん、寂しくない、」

楽しげに頬寄せて底抜けに明るい目が笑ってくれる。
その目がすこし悪戯っ子になって、無邪気に笑いながら言った。

「そういえば、おまえ言ったよな?雪の花は天使からのアダムとイヴへの励ましだって、」
「うん、周太から聴いた話だろ?」

北鎌尾根での会話を思い出して英二は頷いた。
ふたり北鎌尾根で雅樹の最期の場所を見つめたとき、雪のかけら風花がナイフリッジの風に舞い降った。
そのとき英二は泣いている国村を笑顔にしたくて、周太に教わった雪の花の伝説を話している。
頷いた英二を可笑しそうに見て、透明なテノールが笑いだした。

「じゃあ、2人一緒に雪の花から励まされた俺たちってさ、アダムとイヴだね、み・や・た、」
「励ましは嬉しいけど、なんか違うと想うな?」

アダムとイヴなんて恋人同士だ、ちょっと自分達とは違うだろう?
可笑しくて笑った英二に、雪白の顔も可笑しげに笑った。

「俺たち、山って名前のエデンでふたりきり、だろ?こんなの、アダムとイヴまんまだね。さ、仲よくしよ?」
「もう充分仲良しだよ?それにさ、アダムとイヴは男と女だろ?俺たちだと男同士で違うよ、」

シュラフの中で抱きつかれながら、英二は可笑しくて笑った、
けれど国村は飄々と笑って答えた。

「性別とか、関係ないね?ま、俺がイヴやってあげてもいいよ、俺のが可愛いしさ。ほら、愛してるわ、ア・ダ・ム、」

白い指が顎に掛けられて、秀麗な貌は涙の頬で無邪気に微笑んだ。
その笑顔が近づいて、笑いながら英二は素早く顔を逸らした。

「いま人工呼吸は要らないからさ、って、なに頬っぺたにキスしてんのキス要らないから!」

やわらかな感触ふれた頬に驚いて、けれど可笑しくて英二は笑った。
素直に唇を離して英二の目を覗きこむと、楽しげに国村は笑ってキスの痕を小突いた。

「おまえ、この頬の傷、やっぱり消えないね?」
「あ、冬富士の氷の?…」

そっと自分でも指ふれて、けれど触れても傷痕は解からない。
細く浅い小さな傷、けれど富士の雪崩に跳んだ氷の裂傷は消えない。普段は気にならないけれど、ふと浮かび上がる。
これも「山の秘密」の不思議かな?すこし考え込んだ英二に、無垢の山っ子は言祝いだ。

「これは、最高峰の竜の爪痕だよ。ここに山っ子がキスをした、これで最強の護符になったね。もう、おまえは遭難には掴まらない、」

透明なテノールの聲が謳いあげる、祈りの言葉が雪洞に響いた。
この祈りに籠る想いが切ない、そして温かい。心からの感謝と哀惜に英二は微笑んだ。

「うん、そうだよ?俺は遭難死はしない、簡単には死なないよ。いつかは死ぬけれど、それは約束を全て叶えてからだ、」

見つめてくれる透明な瞳に、真直ぐ英二は笑いかけた。
この瞳が15年前に美しい山ヤと結んだ約束も全て、どうか叶えてトレースを繋ぎたい。
そんな祈りを心に見つめて笑いかけた透明な瞳の山っ子は、幸せに笑ってくれた。

「その約束は、この愛するアンザイレンパートナーとの約束も入ってるね?」

‘Yes’って応えてよ?

幸せな笑顔のなか底抜けに明るい目が、切ない祈りに訊いてくれる。
この祈りの為に今日、自分は北鎌尾根を踏んで永訣に立会った。その想い率直に頷いて英二はきれいに笑った。

「もちろんだ。最高峰もビッグウォールも、俺が国村と一緒に登るよ?約束だ、」
「よしっ、約束だね、」

切ない祈りは、大らかに歓び輝いた。
歓びに明るい目が幸せに笑ってくれる、この笑顔と自分はずっと山に登っていけたらいい。

「俺のアンザイレンパートナー、ずっと一緒だね?」
「ずっと一緒だ、俺が傍にいるよ。だからもう、寂しくないな?」
「うん、寂しくない。愛してるよ、俺のアンザイレンパートナー、」

無垢な笑顔が底抜けに明るい目で、幸せに笑ってくれる。
どうかこの無垢な笑顔を無垢のまま、アンザイレンに懸けて守っていけますように。
そんな祈りに笑いかけた幸せな笑顔は、愉しげに英二を見つめて、おねだりを始めた。

「じゃ、愛と約束を確かめ合うために、オサワリ解禁してくれる?ね、ア・ダ・ム、おねだり聴いて?」
「確かめなくて大丈夫だよ、絶対に俺は約束守るから。寒いし、そんな必要ないよ?」

きれいに笑って英二は断った。
けれど無垢な目は悪戯っ子に笑って、遠慮なく英二のTシャツをウェアごと捲りあげた。

「なに捲ってんの、ダメ!」

驚いて裾を戻そうとするけれど、白い手はしっかり捲って離さない。
可笑しそうに細い目を笑ませて透明なテノールが楽しげに笑った。

「やっぱり綺麗だね、おまえの肌ってさ。ソソられちゃうな。さ、アダム?愛するイヴの為に、このまま裸になって?」
「こんなに力強いイヴはいないよ?…って、こら!」

服を肩から抜かれかけて英二は急いで戻した。
けれど国村は愉快に笑って容赦なくまた捲りあげてくる。

「ここはエデンだからね?裸が基本でしょ、ね、アダムも男なら、すっぱり、脱・い・で?」
「やめろってば、寒い、風邪ひく、低体温症で遭難する、無理、」
「大丈夫、すぐに素肌で温め合うから。ね、俺の、ア・ダ・ム。愛しいイヴを、温めて?…、」
「わっ、どこキスしてんのキス要らないから!愛してるなら、おとなしく寝させてってば、いやだって!」

さっきまで号泣していたくせに、この変わり身の早さは何だろう?
いつもながら、アンザイレンパートナーの明るく素早い心の建替えには感心してしまう。
感心しながらも抵抗して、こんな今の状況が可笑しくて英二は笑った。

「こら、国村ってば!さっきまで泣いてたくせに、もうエロオヤジなわけ?」
「そうだよ?泣いて哀しんだ分だけね、エロで癒して元気になるんだよ。さ、俺の癒しに協力して?愛してるなら、ね?」
「愛していても、この協力は無理!」

受容れと断りを明確に告げて、英二は笑った。
そんな英二に国村も、心底から愉快に笑い転げてくれる。

「無理って決めつけたらダメ、ほら、癒してよ?こんなに可愛い俺が、こんなに泣いちゃったんだから、」
「癒したいけど、裸はダメ。ほんと風邪ひいたら困るから、」
「平気だね、裸で温め合うのが一番だよ。さ、アダム?お願い、脱・い・で、」
「だめだって寒い!セクハラだよ、止めてろってば、わっ?!なにやってんのっ、」

こんな調子が既に癒しなんだろうな?
こんないつものエロトークに笑ってくれる様子は楽しげで、困りながらも英二は嬉しかった。
どこか無邪気で明るい悪ふざけが楽しくて可笑しい、なによりも今日の涙を想うと笑顔がうれしい。
明るい笑顔の今が幸せで、静かな夜の雪洞で文字通り笑い転げた。



陽光の気配に目を開くと、雪洞の入口があわい光に白く見える。
きっと夜明け時だろう、クライマーウォッチを見ると5時半を少し過ぎていた。
ちょうど日出の時間になる、英二は懐にしがみついている大きな子どもの背中を軽く叩いてやった。

「ほら、起きろよ?朝日の槍ヶ岳、撮るんだろ?」
「ん、…」

肩に埋められた黒髪の頭がゆれて、雪白の顔があげられる。
眠たげに細い目が開いて、さらり揺れた前髪から幸せに微笑んだ。

「おはよ、まさきさん、…けさも美人だね?」

どうやら寝惚けているらしい。
けれど、切ない寝惚け方に英二は困ってしまった。
ここは雅樹が山の眠りにつく連峰、しかも昨日は慰霊登山を行っている。
そして幼い日に雅樹と共に歩いたルートだと言っていた、だから夢で雅樹に逢っても当然かもしれない。
きっと良い夢を見てきた、それを壊してしまうのも可哀そうで英二は優しく微笑んだ。

「おはよう、光一。今朝も生意気に可愛いね、」
「ふ、…おれ、かわいいでしょ?ね、だいすき、…まさきさ、ん……」

無邪気な笑顔残して、また眠りこんでしまった。

「…雅樹さんには、ホント素直で可愛いんだな?」

友人の初めて見る顔を昨日から幾つも目にしている。
どれもが無邪気で無垢な少年の姿だった、大好きな人への素直な想いあふれる姿が愛しかった。
こんな姿を青梅署の面々が見たら、ちょっと驚くだろうな?そんな考え事に3分待って、英二はまた起こしてみた。

「国村、写真撮るんだろ?起きろよ、」
「う、…」

雪白の顔で長い睫が披くと、底抜けに明るい目が見つめてくれる。
そしていつもの調子で透明なテノールが笑った。

「おはよ、みやた。うん、写真、だねっ」

愉しげに起きだして、登山靴とゲイターを履いてアイゼンを着けていく。
装備を整えるとカメラを持って、国村は外へ出た。
英二も一緒に出てみると、まばゆい白銀の暁が大らかに広がった。

あわい赤が稜線の底から太陽を呼んでくる。
遠い地平線から蘇える朝が天上のブルーを呼んで、夜の深い色が眠りについていく。
はるか雪稜は陽光に照るやさしい黄金にそめあがり、白銀へと姿を変えて煌いた。

ナイフリッジの風が光かがやく雪稜を駆けていく。
風は、夜の静寂から朝のおだやかな静謐を運び、空の彼方へ融けていく。
この風に昨日、山頂を廻り去った東風と青い肩に舞いおりた、ひとひらの雪の花を想って英二は微笑んだ。

―雅樹さん、あなたのアンザイレンパートナーは、今朝も元気ですよ?

いま底抜けに明るい目は愉しげに笑んで、ファインダー覗きこんでシャッターを切っていく。
どこまでも自由で楽しい空気はあざやかで、山の歓び弾んでいく無邪気は今日まばゆい。
そんなアンザイレンパートナーがふり向いて、幸せな快活が英二に笑いかけた。

「今日はさ、滝谷のクラック尾根とか行こうね?で、ジャンダルムも行きたいな、」

今日の予定に笑う顔は、すっかり明るく愉快に輝いている。
昨日の国村は涙を幾度も流している、あの涙で心の滓が流されたのかもしれない。
何もしてあげられなかったけれど、少しは自分も役に立てたかな?そんな想いと微笑んで英二は頷いた。

「うん、いいな。今日もよろしく、俺のアンザイレンパートナー、」
「こっちこそ、よろしくね。今日もイイ天気だ、寒いし、雪山日和だよ?ほら、槍の『点』が輝いている、」

楽しげに笑いながら答えて、国村はシャッターを押している。
大らかな朝陽ふる稜線に立つザイルパートナーに微笑んで、英二は白銀の鋭鋒を見つめた。

無垢の雪まばゆい鋭鋒は、底抜けに輝く青の一点を指さし、太陽を映す。
どこまでも眩い光に充ちる、空満つ青を一点に集めて、繋がれたトレースの起点は輝いていた。

雅樹さん、
あなたのトレースは、あなたの山っ子が繋ぎましたよ?
そして俺も、あなたの繋がるトレースに、ずっと添って輝かせたい。

こんな祈りが湧きあがるのは、もうひとりのザイルパートナーが心深くに繋がれた証かもしれない?
いま見つめる、まばゆき輝く蒼穹の点に、微笑み眠るひとを想う。
この想いに、山に生き始めて幾度も見つめた一節が、また雪陵に浮びだす。

 The Clouds that gather round the setting sun
 Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
 Another race hath been,and other palms are won.
 Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
 To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

 沈みゆく陽の雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
 時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
 生きるにおける、人の真心への感謝 やさしい温もり、歓び、そして畏怖への感謝
 慎ましく開く花すらも私には、涙より深く心響かせる。

英国の詩人ウィリアム・ワーズワースの詩の一節。
この一節に描かれる姿は周太だと想った、自分たち山岳救助隊員の姿だとも思う。
いま朝陽と蒼穹の点をレンズに捕える、自分のアンザイレンパートナーにも姿が重なっていく。

「…That hath kept watch o’er man’s mortality、」

 “人の死すべき運命を見つめた瞳” 

この「死すべき運命」は途絶え、また繋がれていくトレース。
昨日、国村はザイルパートナーの慰霊登山を行い、愛する山ヤのトレースを繋いだ。
それと同じように愛するひとは、亡父のトレースを繋ぐために警察組織の暗部へ立ちに行く。
この危険にもどうか、無事に帰ってきてほしい。そのために自分は尽くして守り抜きたい。

いま見つめる雪陵の頂、蒼穹の点を国村は涙と笑顔で超えた。
同じように、どうか周太も無事に超えることを祈りたい、叶えたい守りたい。
この祈りに登山グローブの指でウェア越し、胸元にしまいこむ合鍵にふれた。

―…涸沢っていうところのね、小屋まで登ったんだ。父とココアを飲んだよ?

この合鍵の元の持主は、今立つ雪稜の麓に息子と訪れている。
きっと幸せな時間を父子は過ごしたのだろう、こんなふうに朝陽を見つめて山の時を笑いあって。
そんな幸せな父子を冷たい孤独に押しやった、残酷に絡みつく哀しみの連鎖を自分は解きたい。

  “Another race hath been,and other palms are won.”
   時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた

周太の本配属まで、あと3ヶ月。運命の分岐は夏に姿を変えて来る。
そして、もうひとつの掌に勝ちとるものは?



【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワース詩集』‘Ode:Intimations og Immortlity from Recollection of Early Childhood】


(to be continued)

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第42話 雪陵act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-05-05 23:54:24 | 陽はまた昇るside story
眠り、想いを抱いて



第42話 雪陵act.4―side story「陽はまた昇る」

北穂高岳まで戻ってきたのは16時半だった。
本気の国村が全力を出したお蔭で、17時には雪洞の中で落着けた。
相変わらずの手際よさと馬力だな?パートナーの底力に感心していると国村がザックの中身を広げ始めた。

「これだけあれば、足りるよね?」

からり笑って白い指が並べたのは、1ダースの500mlビールと2Lペットボトルに詰め直した日本酒2本だった。
これだと酒だけで約10kgの重量、これに2泊3日分の装備だから総重量は成人女性には充分なってしまう。
それでも普段から山岳救助隊員として互いを背負っての訓練は積んでいるから、この程度は自分達には軽い。
だとしても、よくこんなに酒を背負ってきたな?呆れながら英二は自分もザックの中身を出した。

「あのさ、今回って俺が酒、買ってくる約束だったよな?」
「うん、でも足りないと困るだろ?自販機なんか無いんだしさ。お、宮田、ワイン持って来たんだ?」

機嫌良く1.8L紙パック入りの白ワインを持って、国村は眺めている。
もう1つ日本酒の同サイズを出して英二は首を傾げこんだ。

「なあ?こんなに大量に酒ばっかでさ、飲み切れるわけ?」
「言っただろ?今日は呑みたいんだ、ってね。さ、飲みの準備するよ、」

からり笑いながら酒を集めると、さっさと雪の穴へと埋めていく。
喜んで酒を埋めるようすが楽しげで、なんだかリスとかの冬支度みたいだな?
そんなことを想いながら英二は、コンロに鍋をセットして下拵えしてきた材料を入れた。
チーズや生ハムを並べると鍋が煮えるのを待ちながら、国村は早速ビールを1つ渡してくれた。

「ほら、乾杯しようよ、」
「うん、ありがとう、」

素直に受け取って英二はプルリングを引いた。
それを待ちかねていた白い手が持つ缶ビールを、英二のビールにこつんとぶつけて国村が笑った。

「じゃ、尋問の夜に乾杯、」

あやうくビール缶を落とすところだった。
尋問だなんて穏やかじゃない、困らされる予感を想いながらも英二は微笑んだ。

「なに言ってんの、国村?」
「言った通りだよ?今夜は密談日和だ、イロイロ聴かせて貰うからね、」

ビールに白い喉を鳴らしながら、細い目はご機嫌に笑んでいる。
きっと今夜は、タイミング悪く酒に口付けたら噴き出す羽目になるな?
警戒をしながら英二は素早くひとくち飲みこんだ。

「うん、旨いな、」

雪に埋めて冷やしたビールは、独特の甘みが旨い。
なにより今日は行動距離が長かった、すこし疲れた体にアルコールが快い。
ほっと息吐いて微笑んだ英二に、透明なテノールの声が訊いた。

「じゃ、酔っぱらう前に案件からな?おまえ、染み抜きって言っていたけどさ、どこに血痕を見つけたワケ?」

やっぱりあの電話だけでも解ってくれていた。
こういう呼吸の理解が嬉しい。本当に良いパートナーだなと思いながら英二は答えた。

「東屋の柱と、写真の一部だよ。それでさ、写真を貼ってあったはずのアルバムは、無かったんだ」
「ふうん、アルバムはじゃあ、焼却処分ってトコだろな?でさ、柱の血痕部分って少しでも削れそう?」
「うん、実は削ってきたんだ。写真のと照合くらいなら、出来るかな?」
「1962年の血痕だよね、いまから半世紀前か…ちょっと考えてみるけどね。で、じいさんの謎が解かったんだよな?」
「解かった、ってまでは、まだ言えないんだ。ホルスターらしい影が写真に写っている。帰ったら、ちょっと見てくれる?」
「もちろん、見てみたいね?で、じいさん達、周太と似てた?」

急に平和な話題になったな?
なんだか楽しい気持ちになって、英二は素直に答えた。

「曾おばあさんの雰囲気が一番、周太と似ていたよ、」
「ふうん、やっぱり女の子系なんだね、周太って。今回も周太、着物も着たんだろ?」

どうも国村は和装が好きらしい。
北岳の後で川崎に訪問した時も「お代官サマしたい」とか言っていた。
ほんとうを言えば英二も着物を着た、けれどそれは言わない方が良いかもしれない?
もし無理矢理に「お代官サマ」されたら困る、訊かれない事実は秘匿して英二は答えた。

「うん、父さんたちが来た時と、お茶の稽古の時にね、」
「いいね、見たいな?」

今回は1週間の滞在だったから、2度ほど周太も袴姿を披露してくれている。
その2回とも英二は写真を撮った、そのうち1枚を携帯から呼び出すとチェーンを付けたまま国村に渡した。

「へえ、可愛いね、今回も。あわい色が似合うな。で、ご対面はどうだった?」

幸せに携帯の画面に微笑んで見てくれる。
この笑顔に見える想いに切なくなってしまう、雅樹の願いと周太の想いは矛盾すると思い知らされる。
そして今はもう、雅樹の想いが心に遺って温かい。この分身のような想いに自分はどう応えたらいい?
この哀しみと温かな愛情を心深く見つめたまま、英二はいつもどおりに微笑んだ。

「うん、お互いに気に入ったみたいだったよ。でも俺はね、ほんと言うと綱渡りだった、」
「連れ戻されそうになった、とか?」

コップにワイン注ぎながら訊いてくれる。
まるっきり図星だなと可笑しくて、笑いながら英二は頷いた。

「当たり。湯原の家に、ご迷惑ではありませんか?こんな感じで切りだされた、」
「跡取り問題か?」

打てば響くよう応えてくれる。
こういう間合いが国村とは気楽で、楽しくて嬉しい。
ありのまま英二は頷いて微笑んだ。

「うん、周太、ひとりっこだからね。俺とだと、子供は出来ないだろ?」
「そうだね、遺伝子的には無理だな。オヤジさん、真面目だね。ホントおまえと似てるんだ?」

細い目を温かに笑ませながら聴いてくれる。
こういう理解が嬉しい、素直に微笑んで英二は頷いた。

「うん、似てる。父さんの考え方は、俺にはよく解るんだ。だから俺、なにも反論できなかったんだ。
父さんの言う通りだって思ったし、父さんに頭下げさせた責任が俺にはあるから。でも、お母さんは俺を、受け入れてくれたよ、」

素直に答えながらコップを受けとって、ひとくち飲んで息を吐いた。
父に言われた時なにひとつ反論が出来なかった、それが悔しいけれど仕方ない。
そんな英二に国村は、優しく笑いかけてくれた。

「そういう真面目なおまえがさ、俺は好きだね。おふくろさんもだろな、」
「ありがとう。あのとき俺、自分の未熟が心底悔しかった。早く自分の始末は全部自分で出来るようになりたい、って思った」

もっと自分で身を処せるようになりたい、あのときそう思った。
そして今はもう自分だけで考えるしか出来ない、この立場はもう覆されることは無い。
ほんの数日前から自分に生まれた責任に微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑いかけてくれた。

「おまえ、分籍したって言っていたな?」
「うん、父さんたちが来た後の、最初の平日にね、」

もう英二は分籍をした。
分籍は戸籍を完全に独立させること、これをすれば2度と元の戸籍には戻れない。
こうすれば両親との扶養義務すら切れる、もう英二の戸籍は英二が戸籍筆頭者になった。
そして今の英二には戸籍上、家族は誰もいなくなった。

「7月の予定だったのに、ずいぶん早めたな?正式任官と、今回のご対面の影響?」

啜りこむワインに目を細めながら訊いてくれる。
重くも無く軽くも無い自然な雰囲気が居心地いい、この雰囲気に感謝しながら英二は素直に答えた。

「対面のこともあるけど、一番のきっかけは事故かな?…連れ戻される口実を作る可能性が、多すぎるって気づいてさ、」
「救助、山、周太のオヤジさん。危険だらけだもんな?親だったら、子供を危険から離したいだろね、」

底抜けに明るい目が大らかな温もりに笑んでくれる。
こういう優しい大らかさが自分は好きだ、頷いて英二は微笑んだ。

「うん、親の気持ちは、本当にありがたいけどね。守ってくれようとすると逆に危険だろ?
父さんたちを巻き込みたくないし。出来るだけ早く、独立したかったんだ。だから正式に任官した時、副隊長にも相談しておいたんだ」

周太を守って生きる。
そう決めたときからずっと、見つめてきた危険の可能性と今既にある辛い予兆たち。
これらから周太を守るには、警察組織のある部分は敵に回すことになってしまう。
この影響が計り難い、だから独立したかった。分籍して家族との縁を切れば、累を及ぼす可能性が軽減できるだろう。
そして今、戸籍上の英二は天涯孤独になった。

「後藤のおじさんも通したんだ、じゃあ人事の方も問題ないね?」
「うん。奥多摩に戻ってすぐ、戸籍謄本とか提出した。手続きは済んだよ、これでもう履歴書の家族欄は、真白になった、」

法律上の天涯孤独、家族欄も親族欄も空白になった自分。
すこし寂しいなと思う。
けれど周太の危険が終わるまでは、英二の身辺は出来る限り「謎」にしたい。
この「謎」が自分の自由を守ってくれる、そして自分の危険も減らされる。
この想いにアンザイレンパートナーは、大らかに笑んで頷いてくれた。

「そっか。じゃ、戻ったら人事ファイルもチェックしてみようね。ここが白くなっていないと、困るもんな?」
「うん、ありがとう、」

この「白」は寂しい、けれど幸せになる為の手段だから嬉しい。
分籍すれば英二が単独の戸籍だから、戸籍筆頭者の権利を得ることが出来る。
そうすれば周太と縁組をして戸籍に迎え法律上家族と認可される事も、全て英二の自由になる。
この権利と自由がほしかった。

―早く周太、嫁さんにしたいな?

1週間ほど静養を過ごした、川崎の家での時間。
周太と一緒にいる時間は心から幸せだった、なにより「大切な夜」が嬉しかった。
その記憶に重なる白ワインに幸せと口付けると、白い指に額を弾かれた。

「エロ顔になってるよ?どうせまた、お初のことでも考えてるんだろ?」

英二の口元から、ワインがすこしだけコップに戻された。

「…っこほっ、」

お初、って、何の?

この問いに続いて胸せりあがる感触が、喉を振るわせてしまう。
急いでコップを口から離すと、掌で口元を覆った。

「…っ、ごほっ、ごほこふっ、ごほっ…」

咽て止まらない。
困りながら咽こんでいると、国村が水のコップを渡してくれた。

「ほら、ゆっくり飲みなね、」
「…あり、ごほっごほっ、」

水を飲んで、ほっと息つくと何とか落着いてくる。
とりあえず喉は落着くだろうけれど、「お初」の追及は落着くか解からない。
まさか国村に事実は解っていないだろうと思う、けれど何か勘付いているのだろうか?
今夜はやっぱり黙秘かな?考えながらコップをテーブルに戻すと、愉しげにテノールが笑った。

「ふうん、図星みたいだね?ま、めでたいな、ほら、」

ぽん、と掌に何かを渡された。
何かなと見ると、コンビニで買ったらしい赤飯の握飯だった。
こんな準備までしている、そして「お初」と赤飯の組み合わせは恥ずかしい。
また得意のトラップだろうか?それとも何か証拠を掴まれている?
けれど証拠なんかある訳が無いだろう、とりあえず英二はパッケージを開いて微笑んだ。

「初登頂の祝い、ありがとうな、」
「うん?まあ、そっちのお初もあるよね、」

答えながら国村も、赤飯の握飯を頬張っている。
さっさと食べて飲みこむと、クライマーウォッチの時間に国村は笑った。

「星の良い時間だな、俺、ちょっと見てくるよ。カメラ使いたいしさ、」

言いながらカメラのレンズをセットし始めている。
星空はいいな?英二もコップを置いて、コンロの火を一旦落とした。

「俺も一緒に見るよ、鍋、一旦消したけど良いかな?」
「うん、良いよ。まだ途中だしさ、」

話しながら外へ出ると、青藍深い空に銀砂が輝いていた。
ふる星の光に雪陵が呼応するよう発光していく、深々と星の静謐が白銀にふりつもる。
ナイフリッジの鋭鋒は夜の虚空を突き聳え、峻厳が輝いていた。

「きれいだな…」

こぼれる賞賛に吐息は白く凍っていく。
凍れる真白な吐息の彼方、天指す鉾は冷厳の息吹を夜の沈黙へと吹きかける。
いま零下30度は軽く下回っているだろう、冷厳が頬撫でる体感が標高3,000mの夜だと知らせてくれる。
この高度感と眼前に聳える鋭鋒は、ずっと写真で見てきた世界だった。
いま、その世界に自分は立っている。この今の喜びと友人との約束に微笑んだ。

「日本のマッターホルン、っていう通りだな?」
「だろ?本物のマッターホルンに、登りに行こうな?」

―…今度の夏はね、俺、友達とマッターホルンに登るんだ。俺の生涯のアンザイレンパートナーで、一番の友達だよ

北鎌尾根の独標で、国村が雅樹に話してくれた言葉。
あの言葉がうれしかった、そして雅樹の想いが温かかった。
ふたつの想いに微笑んで英二は応えた。

「うん、登りに行こう。楽しみだな?」
「おう、楽しみだね、」

カメラのセッティングを調整して、国村は槍の穂先へレンズを向ける。
そしてシャッターを切りながら、からり笑った。

「ほんと楽しみ、マッターホルン。俺たちのハネムーン旅行だね?み・や・た、」
「ハネムーンは、やらないよ?」

すっぱり断って英二は微笑んだ。
けれど意に介さない顔で国村は、愉しげにシャッターを切って笑った。

「うん、今夜は星もイイ感じだね、」

凍れる夜の空ふる星は、張りつめ冴え渡る大気に響くよう輝いている。
この星々の光を雅樹は、この山で15年の星霜ずっと見つめていたのだろうか?
ふっと心ふれた想いに自然と口が開かれた。

「雅樹さん、この星空が好きだな、」

カメラ扱う手が止まる。
ゆっくり振向いた底抜けに明るい目が、凝っと見つめてきた。
真直ぐに無垢な視線を頬受けながら、空見つめて英二は微笑んだ。

「宇宙に近いな、この夜空は。星の光が近くて、鳴っているのが解かるよ。この空を見られて、幸せだよ、」

心に映る想いを素直に言葉に変えていく。
あふれる想いたちに、隣の純粋無垢な目は呆然と見つめてきた。

「それ、なんで…?」

不思議そうに驚いたように細い目が英二を見つめている。
なんか変だったかな?こちらも不思議に想いながら素直に英二は答えた。

「思ったままを、言っただけだよ?なんか変だったか?」
「思ったまま、か、…」

無垢な瞳は考え込むよう小首傾げている。
そして嬉しそうに笑って、青いウェアの腕が英二を抱きしめた。

「やっぱり宮田は、俺の最高のアンザイレンパートナーだね?愛してるよ、み・や・た、」

嬉しそうに笑いながら抱きついてくれる。
なんだか小さな子供みたいだな?微笑ましくて笑いながら、軽く背中を叩いてやった。

「愛してる、って台詞は周太に言うべきだろが?」
「周太にも言ってるよ?でも、おまえにも言いたいんだ、なんか問題あるわけ?」

無邪気に笑って訊いてくれる。
こんな顔で笑われると、ちょっと弱いかもしれない?

―雅樹さんの心が、残ってるのかな?

こんな不思議も、あるのかもしれない。
あの美しい医学生の山ヤを自分も好きだ、だからこれで良いのかもしれない?
想い素直に英二は微笑んで、アンザイレンパートナーに言った。

「大事に想ってくれるなら、うれしいよ?ありがとな、でも変なコトするなよ?」
「変なコト?俺、なんかしてるっけ、」

抱きついた腕をほどくと、可笑しそうに笑いながら国村は槍の鉾先に向き合った。
カメラを構えてシャッターを切りながら、さらり訊いてくれた。

「たとえば、どんな変なコト?」

カメラのファインダー見つめながら、テノールの声が訊いてくれる。
すこし困りながら英二は笑った。

「首のとこにキスマークつけるとかさ、ちょっと困るんだけど?」
「ふうん、ま、我慢しといて?…よし、」

さらり答えながらカメラをおろすと、愉しげに英二の顔を覗きこんだ。
覗いてくる底抜けに明るい目が愉快に笑っている、今の英二のお願いは「却下」だと告げてくる。
困ったな?そう微笑んだ英二の左腕を掴むと国村は、機嫌良く笑いながら雪洞へと踵を返した。

「さ、俺たちの愛の巣に戻ろう?熱い鍋食って酒呑んで、熱い夜を過ごそうね、」
「熱いと雪洞が溶けて困るだろ、普通の夜にしたいよ、」
「それとこれは別問題だよ?さ、今夜は呑もうね、」
「うん、呑むのは良いけど、」

相変わらずの国村節なエロトークが可笑しい。
笑いながら英二は引っ張りこまれるよう雪洞に入った。
元の席に落ち着くと国村は、コンロに火をつけてコップにワインを充たした。

「はい、改めて乾杯な、」

うれしそうに笑いながら国村はコップを持って笑っている。
英二も素直にコップを持つと、白い手が持つコップを軽くぶつけてくれた。

「じゃ、宮田の処女喪失に乾杯」

思わずコップを落としかけて、素早く英二はもう片方の手で受けとめた。
無事にコップを受けとめられて、ほっとしながら英二は微笑んだ。

「なに言ってんの、国村?」
「言った通りだよ、おまえバック貫通したんだろ?」

どうして解るんだろう?
そんな驚きが内心起きるけれど、さらり英二は微笑んだ。

「それってセクハラですか?国村警部補、」
「ふうん?このタイミングで上司扱いしちゃうんだね、エロ別嬪巡査殿は」

この呼名はちょっと拙いだろう?
可笑しくて笑いながら、英二は反撃した。

「その呼び名、かなりセクハラだって。国村こそセクハラ警部補になっちゃうよ、」
「セクハラ警部補か。うん、宮田限定付でなら、悪くないね?」
「悪くないんだ?」
「うん、おまえだけならね?俺のセクハラ相手は限定付だからさ、好みが難しんだよね、」

からり笑って国村は機嫌よくワインを飲んでいる。
証拠があるわけではないだろうし、このまま逃げ切れるかな?
この核心部への沈黙に微笑んで、冷静に英二はワインをすすりこんだ。
そんな英二に細い目が可笑しげに笑んで、からりテノールが訊いた。

「ワインなんて、珍しいよな?」
「うん、川崎の家でね、お母さんと飲んで楽しかったんだ」

あの席はなかなか楽しかったな?
周太の母との楽しい「呑兵衛」な時間に笑った英二に国村も笑った。

「おふくろさんと呑むの楽しいよね。北岳の帰りの時、楽しかったよ。今回はサシ呑み?」
「そうだよ、周太が当番勤務の夜に2回とも、」
「へえ、仲良しで良いね。おふくろさん、サシだともっと面白いんだろ?」

言う通り2人でサシ呑みは面白かった。
楽しかった時間のお蔭で周太がいない夜の寂しさを紛らわせたな?素直に英二は頷いて微笑んだ。

「うん、なんかさ。お母さんって言うよりも、お姉さん、って感じで楽しかったな」
「そりゃ良いな。まさに、きれいなお姉さんって感じだね。周太は初心だからな?サシのが話せる範囲、広がるんだろ?」
「うん、お母さん自分で言ってた。『周だと、ちょっと言えないのよね』って、」
「あー、それ仕方ないよね?周太ってさ、エロトーク無理だし、アダルト系は一切アウトだもんな、」
「そんなにまで際どい話は、サシでもしないけどね?」

周太の母と父の桜の物語が、ふっと心を撫でていく。
出逢ったその日に夜を共にする、当時としては相当に「アダルト系」な話だったろう。
けれど桜の精だと互いに想い合って恋に墜ちた姿は、とても綺麗だと想ってしまう。
どこか神秘的で優しい桜の恋物語は、花木を愛する純粋な心の両親に相応しいなと素直に想える。
良い話を聴かせて貰えたな?そんな想いとワインを啜りこんだ英二に、国村もコップに口付けて笑いかけた。

「おふくろさん、湯治に行った、って言っていたな?ご対面の後に」
「うん、2泊3日が出来るチャンスは珍しいから、って言ってさ。楽しんできたみたいで、うれしかったよ」
「そりゃ良かったな。2泊3日は周太とサシか、それで、料理教わってきたんだ?」
「うん、酒のつまみになる簡単なのから教えてくれた。今度また続きを教わるんだ、」

一緒につくった料理は楽しかったし旨かった。
今度は何を教えてくれるかな?幸せな「今度」に微笑んだ英二に国村は訊いた。

「その共同作業の料理囲んで、周太ともワイン飲んだんだ?」
「うん、あまいのなら飲めるかな?って。周太、気に入ったみたいでね、結構たくさん飲んでたよ、」

本当に気に入ったらしく、周太は2晩続けて甘いワインを楽しんでくれた。
そして2晩とも英二に幸せな感覚と時間を贈ってくれた、あの「初めて」が幸せな記憶が嬉しい。
うれしい記憶に微笑んだ英二に、テノールの声は容赦なく笑った。

「ワインで眠らせた隙にでも、お初頂戴しちゃったんだろ?泥酔に童貞強姦だなんて鬼畜フルコースだね、このケ・ダ・モ・ノ」

酷すぎる誤解だ、驚いて英二は口を開いた。

「違う、酔っていたけど周太は起きてた、大人にしてって言ってくれたの、ちゃんと朝も覚えていたし…あ、」

しまった。

「へえ、周太ちゃんと自分から言えたんだ。で、可愛い童貞をモノにするために、おまえも処女を捧げちゃったんだね」

また国村の誘導尋問にひっかかった、それもこんな重大事で。
そして尋問者の上品な貌は、愉快でたまらないと笑っている。
心底から困った溜息と一緒に英二は曖昧な相槌を打った。

「…ん、まあ…」
「なに濁してんのさ?今更もう遅いよ、自白は取っちゃったからね、」

心底から愉しげに底抜けに明るい目が笑っている。
もう誤魔化しなんか効かないだろう、きっとこれから追及が始まってしまう。

―ごめんね、周太

話したと解ったら、周太は恥ずかしがって怒るかもしれない。
けれど嘘もつけない、英二が言わなくても国村が周太に話してしまうだろう。
どうしよう?困惑する心では愛する婚約者が真赤な顔に恥ずかしがっている。
心底困っている英二を眺めながら、愉しげに笑って国村はコップにワインを追加してくれる。

「ほら、祝杯しようね?お初交換に乾杯だ、」
「…なんて答えたら良いか、わかんないんだけど、」

さすがにこれは恥ずかしい。
頬が熱くなるのを感じながら、英二はワインを啜りこんだ。

「ほら、乾杯前に勝手に口付けてんじゃないよ?これでペナルティ1な、」
「あ、ごめん…」

困惑のまま謝った英二のコップに、またワインを追加してくれる。
注ぎ終わって、底抜けに明るい目は心底愉しげに笑いながら、コップをこつんとぶつけてくれた。

「はい、攻守チェンジに乾杯、」

かたん、
コップが手から滑り落ちて、雪洞の床に転がった。

「へえ、北穂にも祝杯のオスソワケか?粋なコトするね、み・や・た、」
「…いや、…うん、」

攻守ってなに?
そんな言葉が廻っている英二の前で、国村はコップを拾うときれいに拭いてくれる。
またワインでコップを充たして渡してくれると、愉快で堪らない目が尋問をスタートした。

「とうとう宮田がバック許すなんてね。ソンナに、お初に目が眩んじゃった?それとも実は周太、すんごいテクニシャンだったとか?」
「違う、俺が周太にしたんだ、…あ、」
「へえ、おまえが受けでも、攻め担当なんだ?じゃあ周太、されるがままか。可愛いオトナだね、おまえの婚約者はさ、」
「ん…可愛いよ?」
「そんな可愛い子をさ、おまえは前から後から愛しちゃったんだ?さぞオタノシミだったろね、どうせ昼間もヤリっぱなしだろ?」
「違う、朝はしたけど昼はキスだけ…う、」
「ふうん、朝もねえ?夜も朝もじゃ、周太も大変だな。で、昼はキスでイかせて愛しちゃったんだ。ホントおまえ、エロだね?」
「…なんて答えていいか、わかんないよ、」

恥ずかしい単語が次々と、上品な笑顔から発せられてくる。
とんでもない罰ゲームに遭わされている、どうしてこうなったんだろう?
国村は今日、最愛のザイルパートナーの慰霊登山に無垢の涙をそそいでいた。その姿は一途で、純粋な少年のまま美しかった。
それなのに今、同じ無邪気な笑顔はエロオヤジ発言に笑い転げている。

「着物姿が可愛くって、お代官サマやったんだろ?着替え中にでも、無理矢理にさ?ホントおまえ、鬼畜弩級エロ、」
「無理やりじゃない、着替え方を教えて貰って、それでつい…あ、」
「着替え方を教わった?へえ、おまえも着物、着たんだ?イイね、ぜひ、ご披露願いたいね?」
「こっちには置いてないから、無理だよ、」
「じゃ、川崎に行ったときな?楽しみだね、おまえの襦袢、ピンクとか?」
「そんなじゃないよ、黒っぽい赤だよ、」
「そりゃまた、妖艶な色だな?イイね、襦袢姿を拝みたいよ。その白い肌に黒紅が絡む、サイコーにエロだね。周太が羨ましいな、」

羨ましいと言う目が「最高の獲物を発見」と笑っている。
こんな目に襦袢姿を曝したら、何をされるのか解らない。
出来たらそんな事態は避けたい、けれど周太の母は国村をまた招きたいと言っていた。

―たぶん、桜の季節が危険だろうな?

花見に招待して英二に茶を点てさせる。
こんな展開は充分に有り得る、だからこのタイミングで着物を贈ってくれたのではないだろうか?
なんとか阻止できないかな?そう考えている目の前に、白い手が携帯の画面を差し出した。

「ほら、おふくろさんからメール貰ったんだ。染井吉野が咲いたら、花見の茶をしますから来てね、ってさ。
そんとき、おまえが点法だって言ってるよ?楽しみだな。着替えの時に、お代官サマさせてね。俺の麗しのアンザイレンパートナー?」

逃げられない。
それでも抵抗しようと英二は口を開いた。

「お代官サマはダメ、絶対ダメ、」
「ふうん?じゃ、代わりに周太を剥いちゃおうかな。周太だったら俺、好きに出来ちゃうもんね。恥らって可愛いだろな、ソソられちゃうね」
「もっとダメ!」
「嫌だね、身代わりになってもらうよ、周太にはさ?ほら、考えな?本人と身代わり、ドッチが良いかな、エロ別嬪パートナー殿?」

無邪気な笑顔は幸せそうに愉快に咲いてくれる。
この笑顔は嬉しい、けれど笑顔の理由が本気で困る。
困惑のまま尋問と要求に晒されて、途方に暮れながらもこんな自分が可笑しくて英二は笑った。



食事の片づけも済んで、シュラフを出そうと英二はザックを開いた。
けれどすぐ白い手がザックのファスナーを閉めて、当然だと国村は笑った。

「シュラフはコッチだよ、手伝ってよね」

笑ってる国村の手には、谷川岳でも見たLLサイズの寝袋が掴まれている。
やっぱりそういうことなのかな?仕方ないなと英二は微笑んだ。

「やっぱり一緒に寝るんだ?」
「その方が温いだろ?ほら、ソッチの端、持ってよね、」

そんな調子に巻きこまれてLLサイズのシュラフに潜ると、結局また英二の背中には大きな子どもが張りついた。
いつものように英二の肩に白い顎を乗せて、無邪気な子供は心地よさ気に目を細め欠伸している。
こんなに懐かれるなんて、初対面の時は思わなかったな?半年前の記憶に英二は笑った。

「俺さ、最初に国村と会った時。大人っぽい物静かな人かな、って思ったんだよね、」
「よくそう言われるよ。外見が俺、お上品で美形だからね。でも今はエロオヤジって思ってるだろ?」

しれっと自分で言って国村は飄々と笑っている。
言う通りだろうけれど、可笑しくて英二は笑ってしまった。

「自分で美形だって、解かってるんだ?」
「まあね。俺って美白の美肌だし、体毛も薄いだろ?でかいし、顔も和顔の別嬪だしね。この美貌の所為で、好みのハードルが高いよ、」

のんびりと自賛して無邪気に笑っている。
普通なら嫌味になりそうなのに、国村だと率直に無垢で嫌みがない。
こういう所は好きだな、素直に英二は頷いた。

「うん、国村は確かに美形だよな?それでハードルを超えたのは周太なんだ?」
「うん?好みって意味では、周太はちょっと違うんだよね、」

意外な答えだな?
すこし驚いて英二は、肩に乗った上品な貌をふり向いた。

「周太、好みじゃないんだ?」
「そうだよ?きれいで可愛いし、大好きだけどね。でも、好みとか、そういう問題じゃないんだよね、」

ごく当然という顔で無垢な目が笑っている。
笑いながら透明なテノールの声は言葉を続けた。

「好みって意味ではね、宮田が弩ストライク。そして雅樹さんだよ。この2人だけだね、俺をゾッコンにさせるのはさ、」

すごいことを言われているな?
そんな感想と、そして雅樹への哀切と愛慕があまい痛みにふれてくる。
そっと寝返りをうって英二は自分のパートナーに向き合うと、きれいに笑いかけた。

「嫌じゃなかったらさ、雅樹さんの事、話してくれる?」

向き合った底抜けに明るい目がすこし大きくなる。
けれどすぐ嬉しそうに微笑んで、透明なテノールの声が話し始めた。

「俺が雅樹さんと出逢ったのは、雲取山の天辺だ。あそこで俺が生まれた時、立会ってくれていたんだよ。あの瞬間から大好きだ、」

鋭鋒に聳える雪陵の星宵。
静謐に抱かれて、ザイルパートナー達の物語は白銀の室に紡がれ始めた。



(to be continued)

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第42話 雪陵act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-05-04 23:15:04 | 陽はまた昇るside story
銀陵の向こう、蒼穹の点



第42話 雪陵act.3―side story「陽はまた昇る」

北鎌尾根独標からは、尖鋭な鉾の天突く山容があざやかに見える。
この山容から称えられる言葉を、英二は雅樹と一緒に口にした。

「槍のこと、日本のマッターホルン、って言うけど。本当に似ているよね?光一も登ってきたんだろ、」
「うん、」

訊かれて国村は嬉しそうに笑ってくれる。
アーモンドチョコレートをごりごり噛んで飲みこむと、透明なテノールが愉しげに答えた。

「高1の夏休みにさ、後藤のおじさんと登ってきたよ。雅樹さんも、高校の時だよね?」

訊かれた質問に雅樹の父、吉村医師の物語が蘇える。
この物語に英二は雅樹の想いを抱いて、綺麗に笑った。

「そうだよ、父と登ってきた。俺の夏休みに合わせてね、父が休暇を取ってくれたんだ。楽しかったな、」
「うん、マッターホルン、イイよね。でさ、雅樹さん、」

底抜けに明るい目が素直に笑いかけてくれる。
いま雅樹に話したい、そんな想いのせてテノールの声が心を紡いだ。

「今度の夏はね、俺、友達とマッターホルンに登るんだ。俺の生涯のアンザイレンパートナーで、一番の友達だよ。
そいつさ?俺の初恋のひとの恋人で、婚約者なんだ。でも憎めないよ、羨ましいけど、許せちゃうんだ。それくらい大好きなんだ、」

こんなふうに自分を雅樹に話してくれるんだな?
この想いが嬉しい、そして雅樹なら今は何て答えるだろう?
口の中の飴を噛み砕きながら、すこし考えて英二は雅樹と一緒に微笑んだ。

「きっとね、その友達も光一のこと、一番の友達で、大好きだよ。マッターホルン、気をつけて行ってこいな?」
「うん、ありがとう、雅樹さん。ちゃんと無事にそいつと、一緒に登って帰ってくるね、」

楽しそうに笑って頷いてくれる、その笑顔は無垢の喜びに眩しかった。
けれど、笑顔がすこしだけ寂しげになって、左手首に視線を落としていく。
その仕草が何を意味するか解ってしまう、そっと英二もクライマーウォッチの時刻を確認して、微笑んだ。

「もう正午になるね?そろそろ、槍の穂先に向かおう。目標タイムは2時間で良いかな?」

言葉に、底抜けに明るい目が哀しげになっていく。
それでも国村は笑って、明るいトーンで頷いた。

「うん、2時間で行こう。雅樹さんなら、それくらいで行けるよね?」
「大丈夫だよ、光一と一緒ならね。さあ、行こうか?」

きれいに笑いかけると国村は、ゆっくり1つ瞬いた。
瞬きに1つ涙こぼれて、けれど底抜けに明るい目は愉しげに笑ってくれた。

「うん、いよいよ槍の穂先だね?天を刺す鉾の先に、立ちに行こう、雅樹さん、」

笑って、国村は槍ヶ岳山頂へ続くルートを歩き出した。
英二も一緒にアイゼンの足を踏み出すと、どこか心が軋んだ。
この痛みは、誰の心の聲だろう?

さくりさくり、
小気味よくアイゼン雪ふむ音が2つ、連れだって進んでいく。
ゆるやかな斜面を下り、懸垂下降、際どい岩場のトラバース、雪陵歩き。
通っていく道をアンザイレンザイルに繋がれて、ふたり槍ヶ岳山頂を目指して雪氷を踏んで行く。

道のりは、どこか哀しい。
もうじき雅樹と国村の時間が終わる、この哀しみが英二の心を軋ませる。
だから想ってしまう、きっと本当に雅樹の心は今、英二の心に入っている。

―そうじゃなかったら、こんなに哀しいなんて、無いよな?

いま少し前を歩いていく青いウェア姿、その腰と胸は赤いザイルで英二と繋がれている。
この赤いザイルの絆は今、英二ではなく雅樹と繋いだものだと、ごく自然に想ってしまう。
そんな想いを抱きながら、間ノ沢の風花が降った場所に戻った。

15年前の晩秋、水俣乗越から北鎌沢右俣を登って雅樹は北鎌尾根に入った。
右俣の雪壁を登攀し北鎌のコルへ、直登して独標を踏んで幾多の小ピークが重なっていく。
この岩峰連なる途次の小さい平なポイント、ここで突風に雅樹は浚われた。

「雅樹さん?ここで、…寂しくない?」

透明なテノールが訊いてくれる。
この問いに雅樹なら何て答えるだろう?問いかけた心の応えに英二は微笑んだ。

「寂しくないな、ここは俺が好きな山だから。父との思い出もあるし、今も光一と一緒に歩いて楽しいよ?」
「ほんと?俺と一緒で楽しい?」

訊きかえしてくれる笑顔は、すっかり子供の顔に戻っている。
こんなにも慕っている少年を置いて逝った、その哀しみは雅樹にも深かっただろう。
この15年前から尽きない哀切たちに英二は微笑んだ。

「うん、光一と一緒だと楽しいよ?」
「俺もね、雅樹さんと一緒だと、うれしいんだ、」

底抜けに明るい目が笑ってくれる。
そして槍の穂先を指さすと、透明なテノールが謳うよう笑った。

「行こう、雅樹さん。一緒に天辺に行って、三角点タッチしようよ?」

三角点に手形を遺す。
これがラストシーンだと、底抜けに明るい目が笑って告げてくれる。
この覚悟が愛しいと想えてしまうのは、きっと雅樹の心だろう。この雅樹の心のままで英二は微笑んだ。

「うん、三角点タッチしよう?光一が1番手で、俺が2番だね?」
「そうだよ、いつもそうだったよね?…っぅ…ね、まさきさ…っ」

透明な目から涙こぼれて雪陵に融けこんでいく。
それでも国村は無邪気に笑って、英二の左掌をとると手を繋いでくれた。

「行こう、まさきさん…っ」

ここは雅樹が滑落し亡くなったポイント。
ここから頂上までが雅樹の途絶えたトレースを繋ぐ道になる。
ここから手を繋いだ国村の想いは、哀切にも逞しい。

ここが、トレースを繋ぐスタート地点。

「行こうよ、雅樹さん…槍の穂先を、俺と超えてね、俺と一緒に…っ、…ぅ…て、ね、」

繋いだ掌を握りしめて、透明な明るい目が笑って、涙こぼれた掌を曳いてくれる。
泣笑いの瞳見つめて、綺麗に笑いかけて、英二と雅樹は一緒に頷いた。

「うん、一緒に超えよう?さあ、行こう、光一、」
「…うん、行くよ…っ、」

哀切の涙から、きれいな明るい笑顔が無垢な貌いっぱいに花ひらいた。
ゆっくり掌を曳きながら握った掌を離していく。
そして、前に立って国村は歩き始めた。

「さあ、北鎌平を抜けたら、雪壁だね?俺、壁登るの、すごい速くなったよ?」

透明なテノールが明るく謳うよう雪稜を透りぬく。
この声ならきっと大丈夫、やさしい安堵に微笑んで声に応えた。

「すごいな、いっぱい練習したんだ。光一は天才だけど、努力家だな?」

天才だけど努力家。
すらり出た言葉に英二は驚いた、これは雅樹の言葉だろう。
だって自分は国村を、山のことでは雲上の存在だと想っている。だからこんなふうには言えない。

「うん、練習したよ、雅樹さん?ちゃんと家の畑も手伝って、それから山で遊んでるよ?」
「お手伝い、いつも偉いな、光一は。今年の梅はどう?」
「見事だよ?雪がなんどか降ったのに、ちゃんと花咲いてくれる。でね、初恋の子に今年は見せてあげれたよ?」
「光一、すごく嬉しかったんだね。雪のお花見は、幸せだったんだ?」
「うん、うれしかったよ。約束だったんだ、ずっと、」
「その子もきっと、うれしかったよ?光一、」

自然と会話が英二の口からこぼれてくる。
この会話の内容は英二だったら出てこない、どこか慈愛のような温もりがあふれていく。
ずっと見守りたい慈しむ想い、これは雅樹が山ヤの少年に抱いている温もりではないだろうか?
やさしい温もりに微笑んで、ふたり北鎌尾根の稜線を登っていく。

―もうじき、終わってしまう、

近づいてくるラストシーンへと心が揺らめいている。
この心には本当に雅樹が入っている、こんなに心が悲鳴をあげそうに痛い。
だから解かってしまう。きっと今、国村の心を慟哭が切り裂いている。

どうしたら、この慟哭を止めてやれる?

この願いの答えがほしい、どうかヒントだけでも与えてほしい。
そんな願いと雪稜を歩くうちに、白銀の傾斜は急になっていく。
この急峻な雪稜を登った後、正面の岩場を天井沢側の左から巻いて進むと、正面が数m程の雪壁となる。
この雪壁を見あげて、英二は微笑んだ。

「光一、ここを登ったら、頂上だね?」
「うん、そうだよ、雅樹さん。槍の穂先に出られるね、…」

透明なテノールはいつもより弾みが無い。
この声に国村の哀しみが解かってしまう、尽きない慟哭が聴こえてくる。
この慟哭を止めたい、雪壁を前に英二は隣のアンザイレンパートナーに綺麗に笑った。

「ごめんね、光一?約束を守れなくて。でも信じてほしいよ、俺はね、一生懸命、帰ろうとしたんだ。光一との約束を守りたかった、」

底抜けに明るい目が瞠られる。
明るい目の奥から「ほんとうに?」と問いかけが響いてくる。
この問いかけに英二は、雅樹の心から微笑んで頷いた。

「光一の約束の為に俺は、帰りたかったんだ。救急用具は忘れてきたけどね、這ってでも帰ろうとしたんだよ」

滑落した雅樹は左足と左腕が骨折し、動かせない状態だった。
それでも右腕と右足だけで、滑落現場より数百メートル先まで移動した跡が遺されている。
おそらく尾根の北西から吹き上げた突風に巻かれ、雅樹は東方向の間ノ沢へと滑落した。
そのため左側の腕と足を負傷、他は頭部打撲も無く右半身は無事だった。

だが救急用具をこの日に限って雅樹は忘れた、積雪で添木も見つけられない。
それでも雅樹はダブルピッケルの1本を左足の添木に使い、ザイルで固定した。
左腕にはザックの底板をサムスプリント代わりに使い、裂いたTシャツで縛りつける。
そして雅樹はもう1本のピッケルを右掌に握りしめ、間ノ沢から水俣乗越をめざし歩き始めた。

けれど10月下旬、槍ヶ岳の夜は零下を遥かに超える。
急激に低下する気温の底で、激痛と負傷による発熱で体は進まない。
積雪が無いならビバークも手段だった、けれど、あの日の間ノ沢は積雪が多すぎた。
生き残る可能性に懸けるなら、すこしでも雪崩の多発帯から遠く逃れるしかない。
高熱と痛みが体力を奪っていく、力尽き倒れて、それでも這って移動する。
雪に凍る地面が体を沈めこむ、それでも雅樹は決して諦めずに前へ進み続けた。
けれど山の冷厳は、この美しい若き山ヤを抱きこんだ。

この検死結果を判定したのは、雅樹の父親である吉村医師だった。
長野県警からの連絡で検案所に駆けつけ、吉村は自ら検死と鑑定を申し出ている。
如何に医師といえども感情がある、冷静な判断が困難になるため普通は近親者を診ることはない。
けれど吉村医師は自身の掌で、愛する息子の現実を全て受けとめた。

―…雅樹の右腕も足も、筋肉の動いた形跡が残っていました。
 きっと最期の瞬間まで、前へ進もうとしたのでしょう。帰ろうと、してくれたんです、雅樹は…

検死結果と想いを吉村は、この縦走に発つ直前の朝、昨日の朝に話してくれた。
この医師として親として強い心に深い敬意を英二は抱いた、そして雅樹の想いを心に刻んだ。
その全てを今ここで伝えたい、英二は雅樹の想いを声に乗せた。

「あの夜の地面は雪で凍ってね。それでも、凍傷になっても良いから帰ろうとしたんだ。
でもね、気づいたらもう、眠っていたんだよ。信じてほしいよ、俺は帰ろうとしたんだ。光一と一緒に、最高峰に登りたかったから」

この雅樹の最後まで諦めなかった心には、きっと山ヤの少年との約束が温かかった。
そんな確信に微笑んだ英二に、透明に無垢な目は微笑んだ。

「うん、信じるよ?雅樹さんは、帰ろうとしてくれたね、」
「そうだよ?だから俺はね、体は無くなったけど帰ったんだ、」

真直ぐに子供のままの目が見つめてくれる。
その目に優しく微笑んで、英二は雅樹が遺していくトレースを言葉に変えた。

「いつも俺は見ていたよ?光一が山に登っているとき、一緒に登っていたんだ。冬富士も、マッターホルンもね。K2も一緒だ。
ご両親が亡くなった時も俺は、光一と一緒にマナスルにいたよ?田中さんが亡くなった時も御岳にいた。ずっといたよ、だから光一、」

ひとつ言葉を切って英二は微笑んだ。
真直ぐ目を見つめたまま、登山グローブの両掌をパートナーと繋ぎ合せる。
固く繋いだ掌を握りしめながら、輝く高峰を心に見つめ大らかな想い微笑んだ。

「これから光一は世界中の山に登るだろ?そのとき俺はね、光一と一緒に登っているから。
光一の目には見えないけれど、ちゃんと俺は光一とアンザイレンしているから。そうやって光一の、山に登る自由を守るよ。約束だ、」

約束、この言葉が自然とあふれた。
だから確信してしまう。今、きっと本当に雅樹が一緒にいてくれる。
こんな感覚は不思議だ。けれどここは山、山は不思議なことが起きる。
そして、この山は雅樹が眠りについた山、雅樹の最期のトレースが刻まれている。
だから自然と受容れらてしまう、この想いと率直に笑いかけた先で無垢な目の少年が頷いた。

「約束だね、雅樹さん?」
「うん、約束だよ?」

約束したい、そんな響きかけに素直に英二も微笑んだ。
そして真直ぐ瞳見つめて、雅樹のトレース最期の想いをザイルパートナーに告げた。

「覚えていて、光一?俺はね、光一のアンザイレンパートナーだ。見えなくても、ずっと光一とアンザイレンしてる。俺は隣にいるよ」
「うん、…アンザイレンしてるよ?雅樹さん…ありがと、…っ、」

底抜けに明るい目から涙が零れて、穂先の基部に吸い込まれていく。
きっとこの温かい涙は間ノ沢まで沁みこんで、沢の陵にねむる山ヤを温めてくれる。
この確信に心から感謝して、英二は綺麗に笑いかけた。

「よし、じゃあ光一?山頂に出よう、そうしたら思いっきり笑えよ?俺はね、光一の明るい笑顔が好きだから、笑顔で送ってほしい」

この半分は英二の本音、そして、もう半分はきっと雅樹の想い。
この想いに笑う英二に、底抜けに明るい目が愉しげに笑ってくれた。

「うん、笑うよ?俺もね、雅樹さんの笑顔が最高に好きだ、だから最後は笑ってよね?俺、一生、覚えているから、」
「そうだね。じゃあ、一緒に笑おう、光一」

―そしたら、さよならだ

そう心に告げた言葉は誰のものだったろう?

光一と雅樹。
このアンザイレンパートナー達の永訣が、雪陵の頂に待っている。
この永訣は「別離と連理」相反する2つの意味が無くてはいけない。
この2つの意味を抱くことで国村は、きっと心の氷壁を超えられる。

山の永遠の眠りにしずむ。
これは山ヤなら誰もに可能性がある終焉の姿。
親しい山ヤを山に見送ることは、避けられない氷壁になって山ヤの道に聳え立つ。
この哀しみ凍れる壁を真正面から山ヤは超える、このために仲間が眠る場所へ慰霊登山を行い魂を貴ぶ。
そうして仲間の途絶えたトレースを自分に繋いで、生死を超えて共に山登る自由を言祝ぐ。
これが出来なければ、山ヤとして生きることは出来ない。

けれど国村は、雅樹の慰霊登山が出来なかった。
いつも北鎌尾根だけは登ってこなかった、槍ヶ岳山頂の入口から眺めては引き返していた。
最愛の山ヤの死に、純粋無垢な山ヤの魂は傷つきすぎ、超えられなかった。

それでも英二は、この壁を何としても超えさせたかった。
最高の山ヤの魂に相応しい、最高のザイルパートナーとしての慰霊登山を手向けさせてやりたかった。
この道を通り真直ぐ壁を超えられなかったら、この先ずっと雅樹の死に国村は傷つき続けていく。
それは最高の山ヤに相応しい生き方じゃない、だから超えさせたかった。

そして今、超える。

「じゃあ、俺のリードに付いて来てね?行くよ、」

赤いザイルを掴んで底抜けに明るい目が笑う。
そして雪壁にとりついて軽やかな登攀が始まった。

雪陵の頂へ聳える氷壁を、青いウェアが登って行く。
この氷壁を超えた向こうには、明るい白銀の世界が待っている。
この壁を超えさせる覚悟に微笑んで、英二はザイルを掴み登攀を始めた。

「ここ、ちょっと脆いから!気をつけてね、雅樹さんっ」
「ありがとう!気をつけるよ!」

リードして登攀していく青いウェア姿を見つめている。
この心が切なくて哀しくて、心配で愛しくて抱きしめていてやりたい想いあふれていく。
きっと今、雅樹は英二と一緒に登攀している。そして愛する山ヤの少年へ、哀切と愛情ふたつながらの想いに見守っている。
この自分をアンザイレンパートナーにと、心から望んでくれた誇り高き山ヤへの、深い想いが温かい。
この望まれた歓びは英二と重なる、この想いの交錯が導くトレースが温かい。

自分と似ていて、けれど違う人生を歩んだ1人の山ヤ。
美しい山ヤの医学生だったと、佳い男だったと、誰もが彼を慕い惜しむ。
この彼が志した「生命の尊厳を守る」道は、山ヤの医者としてだった。
この自分は山ヤの警察官として同じ道を志し今、彼のアンザイレンパートナーと共に生きている。

一度も会ったことのない山ヤ。
けれどこんなにも自分は雅樹の想いが沁みてくる、どこか深い縁を感じてしまう。
だからこそ、彼の最後のトレースを自分も歩き見つめてみたかった、途絶えたトレースの続きを繋ぎたかった。
彼の最も心残りだったろう「山ヤの約束」大切なザイルパートナーとの約束を身代わりにでも果たしたかった。
だから今日は、必ずアンザイレンパートナーと一緒に、雅樹のトレースを踏みたかった。

そして途絶えたトレースが、今、完登され繋がれる。
この先もずっと、彼が愛した山っ子が明日へ繋いでいく。

「雅樹さん、頂上だよ?ほら、360度が、雪山だね、」

底抜けに明るい目が笑って、雅樹の想いを頂上で迎えた。
赤いザイルでアンザイレン結びあう、自分のパートナーが泣きそうな笑顔で見つめてくれる。
ここで全て泣かせて心のゲートを1つ通らせてやりたい、この願いに微笑んだ。

「うん、すごいな?白銀と蒼の世界だ、綺麗だね、光一」

誰もいない山頂を、ナイフリッジの風が抜けて行く。
風が奔りさる白銀かがやく雪陵に、透明なテノールが泣笑いに答えた。

「だね、すごいよね、…山は、…いいよね…まさきさん、」

底抜けに明るい目が笑って、涙が頬伝っていく。
この明るい泣顔の頬を、登山グローブ外した右掌で拭ってやった。

「泣き虫だね、光一は?ちょっと水分不足が心配だな、水筒は持って来たよね?」
「当たり前、だね、…っ、…飲むよ、」

すこし甘えたトーンで話しながら、涙呑みこんで笑ってくれる。
素直に座りこんでザックからテルモスを出すと、ひとくち飲んでからこちらに差し出した。

「ほら、雅樹さんも飲んでよね?雅樹さんだって、水分不足だよ?」

甘えたような生意気な口調が笑っている。
笑う頬伝う涙を見つめて笑いかけて、素直にテルモスを受けとった。

「相変わらず生意気だね、光一は?」
「そうだよ、…っ、俺はね、一生ガキだよ?でも、山ヤとしては俺、大人になれてただろ…っ、…」
「うん、大人になったね、」
「だろ?…っ、」

笑っている明るい目から涙こぼれていく。
この泣顔はずっと忘れられないだろうな?そんな想いと一緒にテルモスの茶を飲みこんだ。
温かい茶が喉を降りるのに微笑んで、テルモスを返しながら笑いかけた。

「大人になったね、光一。すごく立派な山ヤだ、アンザイレンパートナーとして誇らしいよ?」
「だろ?…俺、雅樹さんのパートナーだよね?…っ、…まさきさん、…っ…今日、一緒に登れて…うれし、かった、」

透明なテノールが涙に詰まっていく。
受けとったテルモスを握りしめたまま、底抜けに明るい目が泣笑いしている。
溢れていく涙に微笑んで、長い腕を伸ばすと泣いている青いウェアの肩を抱きしめた。

「僕もうれしいよ。ありがとう、光一。会いに来てくれて嬉しかった。もう、ずっと一緒にいるよ、約束だ、」
「…っ、ぅ、約束、だよ?…絶対、約束だよ?…ずっと俺と、一緒に、山、…登ってよね?」
「うん、絶対の約束だ。ずっと一緒に山に登ろう、」

抱きしめた背中をあやすよう軽く叩いてやる、その背中がのびやかに広い。
中学生だった時に生まれた赤ん坊は、こんなに大きな男になって山ヤになった。
大きな夢と誇りに笑う泣顔に笑いかけて、素手の右掌で涙の顔を拭ってやる。
素直に涙拭われる顔は、子供の頃のまま嬉しげに笑って見つめてくれる。
この無邪気な顔がずっと幸せでありますように、この祈りと一緒に微笑んだ。

「さあ、光一?三角点タッチ、するんだろ?光一からしないと、僕が出来ないよ?」

底抜けに明るい目が哀切に泣いて、唇を噛みしめる。
けれどすぐに1つ瞬いて、ひとつ呼吸すると大らかに誇らかな笑顔が咲いた。

「うん、するよ?…ちょっと待ってね、『点』を探すから…、っぅ、」

泣きながら笑いながら、国村は雪を掘り出していく。
この槍ヶ岳山頂には、正確に言えば三角点は無く「点」だけがある。
元は2等三角点が設置されていた、けれど現在は標石が地面に埋設固定されていない。
そのため国土地理院の点の記で成果使用不能扱いとなり、地形図でも槍ヶ岳山頂は単なる標高点扱いとなっている。
けれど「点」であることには変わらない、この「点」を青いウェアの腕は雪の中から掘り出した。

「さあ、雅樹さん?天を突く槍の、先っちょに跡をつけるよ?…」

からり泣顔に明るく笑って、点に積もる雪へと手形が押された。
いつもより深く押し刻まれた手形は、真青な穹天のした白銀に輝いている。
雪光る手形を見つめながら、透明なテノールは涙のむ聲と微笑んだ。

「ほら…俺、やったよ?…見てよ、雅樹さん、…っ…おれ、うまいだろ?…ぅ、っ…」

白銀の手形に嬉しそうに笑った瞳から、涙こぼれて蒼穹の点にふりかかる。
点を見つめる泣笑い顔を覗きこんで、温かな頬に右掌でふれる。
もう一度だけ涙の頬を拭いながら、おだやかな想いと笑いかけた。

「うん、巧いな?光一は、子供の頃からずっと、上手だね、」
「だろ?…っ、…ぅ、」

純粋無垢な目が涙の底から笑ってくれる。
温かな想いと哀切と、尽きない愛情が涙ふれてくる。
拭ってやる掌に温かな涙が沁み込んでくれる、この温かな想いごと掌に登山グローブを嵌めた。
そして白銀の手形を覗きこんで、心からの祈り見つめて綺麗に微笑んだ。

「こうやって手形を押しながら、世界中の山を元気に登っておいで?そして必ず無事に帰るんだ、いいね?」
「ん、…帰るよっ、…絶対に、かえる…っ、どこの、山からも、ね?」

元気に、そして必ず無事に帰る。
このことが結局は一番大切なことだろう。
このアンザイレンパートナーの山に生きる誇りを言祝いで、綺麗に笑った。

「必ず帰るんだよ?笑顔で、元気に、幸せになるんだよ?」
「うん、…なる、…だから、一緒にいてよね?…約束だよ、」

底抜けに明るいまま笑う目から温かい涙が白い頬伝う、白銀の手形にふりそそぐ。
この純粋無垢な目が自分は大好きで、ずっと見守っていたいと願っている。
だから願いのまま正直に寄添いたい、この約束を無垢な目に見つめて綺麗に笑った。

「約束するよ、だから忘れないで?僕はずっと一緒に山に登っているよ。そうやって僕は、光一と一緒に生きている、」

どうか忘れないで?
願いを見つめる綺麗な笑顔を、大切なアンザイレンパートナーに向けた。
その笑顔に応えるように、明るい泣笑い顔が素直に頷いた。

「うん、一緒に生きているね?…約束だよ、そっちこそ忘れないでよ?」
「最後まで生意気だな、光一は、」

綺麗に笑いかけて、愛しい泣笑い顔の額小突いてやる。
その顔が嬉しそうに笑った。
こんな顔で笑ってくれるなら、もう大丈夫だろうな?
こんな幸せな笑顔を見せてくれるなら、きっとトレースを繋いで山に生きていけるね?
この大好きな笑顔を見届けて、ひとつ呼吸して、そして長い指の掌を白銀の手形の上に押し当てた。

「さよなら、光一。でも、ずっと一緒にいるから、大丈夫だよ?」

大らかな想いまばゆく笑って、ゆっくり掌を雪からあげていく。
そうして白銀の点の上に、2つの重なり合う手形が残された。

「さよ、なら…っ、…」

透明なテノールの別離の聲と温かな涙が、点に重なる2つの手形にふりそそいだ。

ふわり、
一陣の谷風が昇って、蒼穹に白銀の花ひとつ顕れた。
ゆるやかに空めぐり雪の花ひとつふる、そっと青いウェアの肩に白銀は舞い降りた。

ナイフリッジを風が昇る、東から間ノ沢から風が吹く。
東風はゆるやかに雪陵の頂をめぐり、遥か西へと透りぬけていく。
黒髪をゆらし、涙を払い、紅潮した頬撫でて、やさしい笑顔遺しながら、最期の風は西へと駆け去った。
そして真青な空の下、白銀の手形は蒼穹の点に残った。

「ま、さきさ…っ、」

ぽとん、手形に涙こぼれていく。
ぽとり、ぽつん、温かな涙は白い頬こぼれて、雪陵の頂を温める。
涙こぼす顔あげて、遥か西の蒼空を見つめて、底抜けに明るい目はきれいに笑った。

「まさきさん、っ、…ぅ、ぁ…ありがと、…っ…」

青いウェアの肩がふるえている。
槍ヶ岳山頂から北鎌尾根独標までの往復、約4時間半。
この間に幾度と青い肩は泣いただろう、そして笑ってくれただろう?

「…ぅ、っ、ありが、と、…っ、」

西の空から視線戻して、遺された手形を見つめて、愛する面影に笑いかける。
雪陵の頂に座りこんで、点の手形に涙こぼれていく、けれど瞳は底抜けに明るく笑っている。
その笑ったまま泣いている瞳を覗きこんで、英二は綺麗に笑いかけた。

「ほら、国村?雪洞、掘るんだろ?さっさと終わらせて、酒を呑もうよ、」

覗きこんだ顔に細い目が涙の底を動いて、こちらを見てくれる。
そして愉しげに笑って、青いウェアの腕が力一杯に英二を抱きしめた。

「おかえりっ!俺の、別嬪アンザイレンパートナー。愛してるよ、み・や・た、」

涙こぼしながら、けれど底抜けに明るい目が思い切り笑っている。
嬉しそうに笑って英二を抱きしめて、そのまま狭い頂上にふたり雪に寝転がった。

「国村、危ないってば!ここ狭いんだから、」

雪にザックごと押し倒されて英二は笑った。
押倒して抱きついたまんま国村も、愉しげに目を細めると飄々と答えた。

「大丈夫だよ、宮田。こうして1つになっているからね、場所とらないよ?」
「1つになってって、なんか嫌だな?他の表現にしてくんない?」
「じゃ、『合体』?」
「もっと嫌だな、」

いつものエロトークが可笑しい、楽しくて英二は笑った。
国村も可笑しげに笑いながら、軽やかに英二を抱き起してくれる。
そして向き合って真直ぐ目を見ると、すこし恥ずかしげに微笑んだ。

「ありがとうな、宮田。本当に俺、うれしかったよ?」

恥ずかしげでも明るい笑顔は幸せに咲いている。
真直ぐに国村は「壁」を超えた、それが嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「うん、俺も、うれしいよ、」

雪を払って一緒に立ちあがりながら、うれしいまま笑いかけた。
その笑顔を見て国村は、うれしそうに笑った。

「この笑顔がイイよね、おまえってさ。ホント、マジ愛してるよ、可愛い俺のアンザイレンパートナー?」

明るい笑顔をまた見られた。
それが嬉しくて微笑ながらも英二は、きっぱり断った。

「褒めてくれるの嬉しいけどさ、愛は要らないよ?」
「遠慮するなって。今夜はね、存分に愛をささやくから。よろしくね、み・や・た」

涙に紅潮した顔のまま、けれど目はもう愉快に笑っている。
そんな様子に安心しながら英二は、釘刺しながら笑った。

「俺はちゃんと寝たいよ?だから、パス」
「パスは無効だね、さて。北穂へ向かうかな?そのまえに、この下の冬期小屋でさ、飯にしたいね。腹減っちゃったよ、俺、」

呑気に言いながら下山へと踏み出していく。
いつもながら明るい国村の笑顔は前よりも、また底が抜けて明るくなっていた。



(to be continued)

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第42話 雪陵act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-05-03 23:59:29 | 陽はまた昇るside story
白銀の陵、愛しきひとに



雪陵act.2―side story「陽はまた昇る」

槍の鉾先をナイフリッジの風が吹き上げる。
青く輝いた中天を突く白銀の点で、2人の山ヤは真直ぐ向き合っていた。

「国村、北鎌尾根を往復縦走しよう。俺たち2人なら、今からの時間で行けるよな?」

さあ一緒に行こう?目で告げながら英二は微笑んだ。
こっちの道を行こうと惹くように、青いウェアの腕を掴む掌に軽く力を入れる。
けれど掴んだ青いウェアの下は、掌を跳ね返すよう強靭な筋肉に力が奔った。

「嫌だね、」

透明なテノールが一言、拒絶した。
拒絶する言葉のとおり細い目は「嫌だね」と告げてくる。
それでも英二はザイルパートナーの目に真直ぐ微笑んだまま、言葉を重ねた。

「北鎌尾根を歩こう、国村。俺と一緒に、独標を見に行こうよ」
「嫌だね、行かないよ、」

明確な拒絶にちいさく笑って、国村は腕を掴まれたまま踵を返した。
それでも英二は掴んだ腕を離さなかった。

「行こうよ、国村。俺は北鎌尾根を歩いてみたいよ?」

告げた言葉にザックを背負う肩が一瞬、揺れた。
けれど振り向かない肩の向うから、透明なテノールは明るい調子で笑った。

「嫌だよ。昨日は俺、勤務だったからね?さっさと雪洞掘って、酒を呑みたいんだ…ほら、行くよ、」

からり笑った声がどこか揺れている。
この揺れが痛々しい、けれど今は一歩も退くわけにいかない。
しっかり青い腕を掴んだまま、国村の正面に英二は回りこんだ。
回りこみ向き合った秀麗な顔はすこし笑って、けれど奥歯を噛みしめている。

行かないよ、嫌だよ

細い目は頑なに告げてくる、噛みしめた口許が断固動かないと無言の雄弁を奮っている。
自分の誘いは、難しいだろうか?そんな疑問と不安が起きかけて、かるく英二は首を振った。
絶対に自分は今、退いてはいけない。なんども見つめた覚悟と一緒に英二は、大切なアンザイレンパートナーに笑いかけた。

「行こう、国村。雅樹さんの歩いた道を、俺も見てみたい、」

底抜けに明るい目に一閃、大きく感情が閃いた。

「嫌だって言ってるだろ!」
「いいかげんにしろ、国村!」

透明なテノールの叫びに重ねるよう、英二は低い声を鋭鋒に響かせた。

「俺は雅樹さんじゃないんだ!俺は遭難では死なない!」

怒鳴りつけた向う、国村の細い目が大きくなった。
きっと自分は、この友人を心から驚かせただろう。
卒配以来ずっと真面目で冷静と英二は言われてきた、温厚で優しいと誰もが言う。
だから驚かせて当然だろうな?ちょっと可笑しく思いながら英二は、いつもの笑顔になって笑いかけた。

「国村。俺は、宮田英二だよ」

怒鳴られた呆然に細い目が英二を見つめている。
その視線を逸らさずに英二は、おだやかに言葉を続けた。

「たしかに俺は、雅樹さんと似ているな?でも、俺は俺だ。雅樹さんとは違うんだ。
おまえと同じ年で、同じ警察官で後輩で、おまえの友達だ。おまえの恋敵だよ?そして俺は、簡単には死なない。大丈夫だよ、」

大丈夫だよ、そう目で笑いかけた。
けれど大きくなった透明な目は哀しげに瞠って、テノールの声が叫んだ。

「そんなこと解ってるよっ!」

叫んだ声が雪稜の風に薙がれた。
哀しい透明な目は真直ぐに英二を見つめて、哀しいテノールが押し出された。

「おまえは雅樹さんに似てる、でも別人で、俺と同じように登れる、だから大丈夫だって、俺だって思ってたんだよ!
俺のこと冬富士でも救助出来た、おまえなら俺とザイルパートナー組んでも死なない、そう思った…でも、死にかけたじゃないか!」

俺とザイルパートナー組んでも死なない。
この言葉が傷の根源だろうか?穏かに微笑んだまま英二は尋ねた。

「国村とザイルパートナーを組んでも死なない?どういう意味だ、国村」
「言った通りだよ、」

雪風が吹きつけて黒髪を乱す。
ながれる髪のはざまから透明な目が英二を見つめて、叫んだ。

「俺が自分からザイルパートナー組んだ相手はね、みんな死んだんだ!」

叫んだ声が雪風に浚われる。
浚われた声を追うようテノールの声に心が叫びだした。

「マナスルでオヤジとおふくろは死んだ、御岳で田中のじいさんは死んだ。俺が大好きな相手は、皆、山で死んだんだ!
だから!仮のパートナーだけどさあ?後藤のおじさん50歳になって、パートナー解消した時。ほんとは俺、安心したんだよ!
これで、おじさんは死ななくてもイイってさ?4人と比べたら、おじさんには俺、そこまで想っていない。でも不安だっ…
だってさあ?田中のじいさんは、俺とパートナー解消して8年も経ってた、なのに、山で死んじまったんだ!しかも御岳でだっ!
なんであの山で死ぬんだよ!おかしいだろ?!なんで皆、死ぬんだよ?!なんで俺のパートナーは全員、山で死ぬんだよっ!」

ひとつ大きく国村は息を呑んだ。
そしてすぐまた開かれた唇から痛切な叫びがあがった。

「俺とザイルを繋いだ相手は、みんな死んじまったんだよ!その最初が雅樹さんだった!皆、俺の所為かもしれないんだよ!
だから!おまえが遭難したのは、俺の所為だって思っちゃったんだよっ!俺が、おまえとザイルを組んだからだってね!だから嫌だ!」

晴天に風花がどこからか吹きつけだす。
氷の花の舞うなか透明な目から涙あふれて、雫ながす風に声が響いた。

「俺とザイルパートナー組んでいたら、おまえも山で死ぬ?そう思って怖かったんだ、でも、おまえと離れたくないんだよっ…
一緒に山に登っていたいんだ、おまえと最高峰行きたいんだ、だからパートナー解消しない。絶対に一緒にいたい、だから!
おまえが目を覚ました時、ずっと一緒にいろ死ぬなって言った!でも不安なんだよ、だって宮田は、雅樹さんと同じなんだよっ…」

涙に声が呑まれて、言葉が途切れる。
哀しい透明な目を見つめて、おだやかに英二は言った。

「俺は、雅樹さんと同じじゃないよ、」
「同じなんだよっ!」

痛切なテノールが遮って、心沈めた想いを吐き出した。

「俺は、雅樹さんを、生涯のアンザイレンパートナーにしたかったんだ!」

いつも底抜けに明るい目は今、涙に沈みこんでいる。
透明な声は悲痛なままに、声の主から言葉を紡いだ。

「俺の夢だったんだ、大好きなひとと山に、ずっと登りたかったんだ。あのひとを俺は大好きで、憧れて、愛してた。
だから俺は言ったんだよ?まだ8歳のガキだった、でも言った、生涯のアンザイレンパートナーになろう、最高峰行こうって!
そしたら言ってくれたんだ、俺が大人になったら、生涯のパートナー組もうって…ガキの俺と本気で、約束してくれたんだよっ!」

約束、その重みを英二は知っている。自分も愛するひとと多くの約束を結んでいるから。
だから国村の「本気での約束」が破られた痛切が予想できてしまう。
その予想の哀しみに見つめた先で、秀麗な顔が涙に叫んだ。

「でも死んだんだ!俺と約束をしてすぐ、ここに登って、ここで死んじまったんだよっ!俺との約束ごと、雅樹さんは死んだんだ!」

細い目から涙が想いと一緒に溢れていく。
その涙と想いを見つめている英二に、テノールの声は真直ぐに泣いた。

「最初の俺のアンザイレンパートナーは雅樹さんだ!ガキの俺と、本気で最高峰に行く約束をしてくれた、大好きなんだ!
今も大好きなんだ、会いたいんだ!だから俺は、ここにも何度も来たんだよ!俺は、怖いんだよ、悔しいんだよ、寂しいんだよっ!
ここでだ!ここで俺の大好きなアンザイレンパートナーは死んだんだ、だから!だから、おまえをここに登らせたくないんだよっ!」

泣き叫ぶ声が風花に舞い散っていく。
泣きながら国村は掴まれていない右腕を広げて、北鎌尾根への入口を英二から遮った。

「もう、嫌なんだよ!俺のザイルパートナーが死ぬのは、嫌なんだ!ザイル繋いだ4人とも皆、俺を置いて山で死んだんだ!
でも宮田だけは死なせない、絶対に離さない、だから嫌だ!ここは嫌だ!雅樹さんが死んだここは絶対に嫌だ!ここは登らせない!」

広げた右腕の掌が握りしめたピッケルのブレードが陽に光る。
ブレードの先端をかすかに震わせながら、国村は叫んだ。

「ほんとうに、おまえだけなんだよ!俺にはさあ、おまえしかいないんだっ、俺とアンザイレン出来るのは、宮田だけだ!
だから死なせたくない、嫌だ!絶対に離れたくない、死なせたくない、おまえだけは離さない絶対に守って死なせない!ここは嫌だ!」

透明な純粋無垢の瞳が泣いている。
行かせない嫌だと英二に訴えかけて泣いてくれる。
この寄せられる想いが嬉しい、嬉しいまま素直に微笑んで、英二はアンザイレンパートナーに歩み寄った。

「俺のアンザイレンパートナーも、国村だけだよ?友達で、同僚で、大好きで大切だよ、」
「…っ、ぅ」

掛けた言葉に、涙呑む吐息で国村は頷いてくれる。
この大切な友人の想いも哀しみも全て受けとめたい、そして超えさせたい。
この想いに微笑んで、長い腕を伸ばすと国村を抱きしめた。

「雅樹さんは遭難して帰ってこなかった。でも俺は遭難しても帰って来ただろ?大丈夫だよ、国村。俺は死なないよ、だから、」

涙温かな雪白の顔に、そっと英二は頬寄せて微笑んだ。
そして見つめてきた覚悟を言葉へと変えて、おだやかなトーンに告げた。

「俺、北鎌尾根を歩いてくるよ。独標からここまで往復してくる、俺一人でも行きたいんだ」

告げた言葉に、雪白の貌が息を呑んだ。

「…なに、言ってるんだよ?」

驚かれても当然だな?
息呑む驚きと哀しみごと友人を抱きしめて、静かに英二は笑った。

「単独行で行く、そう言っているんだよ?」

このルートを自分だけで無事に往復できるのか?そんな自信は100%あるなんて言えない。
まず北鎌尾根には登山道が無い、そのためルートファインディング能力が必要になる。
そして痩せた尾根は急峻でトラバースルートも際どく、岩登りの装備と技術が要求される。
熟練者にのみ許された完全なバリエーションルート、それが北鎌尾根だった。
まだ自分にとって単独行では難易度が高い、それでも退くわけにいかない。ずっと見つめてきた覚悟に英二は微笑んだ。

「俺もね、雅樹さんが好きなんだ。会ったこと無いけれど、俺と同じ気持ちの人だった、って解るんだよ。
だから、雅樹さんが最後に歩いたところを、俺も歩いてみたいんだ。雅樹さんの想いを、俺はトレースしたい。そして受け留めたいよ」

「…いやだ、」

テノールの声が抵抗を呟いてくれる。
それでも英二は静かに腕を緩めると、そっと青いウェアの長身から離れた。

「俺はね、おまえのアンザイレンパートナーとして警視庁からも認められた男だよ?あの雪崩からも帰ってきた男だ、俺は。
それに俺、周太といっぱい約束があるんだ、そして国村とも約束している。それを全部叶えるまで死ねないんだ、だから大丈夫だよ」

ずっと考えてきた想いを言葉に変えながら、英二は国村の横を通りぬけた。
そして北鎌尾根への入口に佇んで、真直ぐアンザイレンパートナーを見つめて綺麗に笑った。

「約束する、俺は絶対に帰ってくるよ?独標まで行って戻ってくる、そしたら北穂に追いかけるよ。目標は17時だ、」
「無理だ!ダメだ、行くなよ嫌だ!」

青いウェアの腕が伸ばされて、強い掌が深紅のウェアの腕を掴んでくれる。
けれど英二は綺麗に笑って、そっと手頸の関節を押すと軽く掌を外した。

「俺も山ヤだよ、国村?山ヤは自由に山を登るために、努力をする。俺もその努力はしてきたつもりだよ?
この俺の努力を一番よく認めてくれているのは、国村だろ?だったら行かせて欲しい、俺は雅樹さんが見た世界に、立ちたいんだ」

透明に無垢な目が縋るように見つめてくれる。
その目を真直ぐ見つめて、英二は掌を自分のアンザイレンパートナーに伸ばした。

「もう一度だけ、言うよ?俺と一緒に行こう、国村。俺と一緒に雅樹さんのトレースを見に行こう。
そして、雅樹さんと一緒に北鎌尾根から槍の天辺に登ろう?15年前に雅樹さんが途中になったルートの、最後を終わらせよう?」

細い目がゆっくり瞑られて、ひとつ大きく呼吸をする。
そして長い睫が上げられて、涙の中から底抜けに明るい目が真直ぐ英二に笑った。

「うん、一緒に行くよ?俺だけが宮田のアンザイレンパートナだ、一緒の道を登るのは当然だね、」

ひとつ涙こぼして国村は、肩に斜め掛けしたザイルを外した。
その片端を英二が差し出した掌に渡すと、唇の端を挙げて悪戯っ子に微笑んだ。

「ほら、俺の可愛いアンザイレンパートナー?この赤いザイルで俺たち、シッカリ愛を繋ぎ合おうね?」

泣き顔のまま国村は、明るく笑ってくれる。
ひとつめのハードルを超えた自分のパートナーに英二は心から笑った。

「おう、アンザイレンして行こうな?でも、愛は周太だけだよ、」
「無理するなよ、み・や・た。俺のこと、本当は可愛いって思っている癖に、」
「それは大きな誤解か妄想だよ?」

お互い笑いながら手早くシットハーネスと胸部をアンザイレンしていく。
ザイルの調整をして互いに確認し合うと、国村のピッケルが北鎌尾根を指し示した。

「独標まで、一般的なタイムはこの時期、片道6時間ってトコだ。だから俺たちは目標2時間だ。山岳救助隊員なら当たり前だろ?」
「うん、当然だな。俺は、国村のペースに付いていくよ、」

いつもの調子を見せ始めた友人に、素直に英二は微笑んだ。
そんな英二に満足げに目を細めて、愉しげに国村は笑った。

「よし。じゃあ、北鎌尾根をヤリに行こうかね?まず、直下の雪壁下降からだ、」

午前10:18、国村リードで北鎌尾根縦走をスタートした。




数メートルの雪壁を慎重に降り、急峻な斜面が混じる雪稜を下っていく。
先行してくれる青いウェア姿を追いながら、慎重にアイゼンとピッケルを使っていく。
急斜面をザイル確保で降り雪陵を辿っていく、北鎌平を通り細かなアップダウンを越える尾根は痩せていた。
まさに竜の背の鬣を歩いていく、そんな急峻な氷河地形の稜線をアイゼンで踏んで行く。

「ここはさ、夏はザレて浮石も危ないんだ。今の時期だと、その心配はないけどね、」
「冬は寒いけど、落石の怖さは無いよな?」

会話を交わしながら慎重に進んでいく。
稜線に絡むトラバースルートも幅が細い、このルートファインディングは難しい。
けれど国村は迷わずにルートをとって独標を目指していく。
もし単独行だったら、こんなふうに歩けたか解からない。

―早く自分も、こうなりたいな

この前を行く友人でアンザイレンパートナーの、長身のびやかな背には学ぶものが多い。
そんな実感をしながら辿っていく白銀のトレースに、ふっと国村が立ち止った。
止まった背中の雰囲気には、この場所の意味悟るものを感じてしまう。
アンザイレンザイルを手繰り調整して英二は、国村の隣に並んだ。

「国村、」

名前を呼んでも友人の視線は無言のまま、間ノ沢方向を凝視して動かない。
なにも言わず、ただ奈落の哀しみが一点を見つめている。
無言で佇む青いウェア姿を英二は隣から抱きかかえた。

「国村、座ろう?」

白銀に眠る雪の稜線に、英二は抱えた友人ごと座りこんだ。
座りこんでも細い目は真直ぐ一点を見つめている、その雪白の顔を肩に凭れさせて英二は微笑んだ。

「泣けよ、国村。大丈夫だ、俺が抱えているよ?」
「…ん、」

微かな頷きが秀麗な唇から零れた。
頷きに栓切るよう嗚咽が、ネックゲイターの奥から白い喉を震わせ始めた。

「…っ、…ぅ、…ふっ、……っ、う、う…うっ」

嗚咽の響きが徐々に高くなっていく、細い目は涙あふれていく。
そして心からの慟哭が北鎌尾根に謳いあげられた。

「っ、うわああああっ…あっ、あ…ああ!まさきさんっ…!雅樹さん!」

透明なテノールが英二の肩から大きく泣いていく。
そして白銀の竜の背に、山っ子の悲痛な叫びがあがった。

「見てよっ、俺、大人になったんだよ!俺と約束してくれた、あのときの雅樹さんと、同じ年になったんだよ!
雅樹さん!俺、山ヤの警察官になったんだよ…救助隊になったっ…雅樹さんと同じように、山で、レスキューしてんだよっ!」

雪蒼い断崖の底、眠りについた美しい山ヤの医学生へと、山っ子の涙が山風に乗って降り注ぐ。
ここに眠る1人の山ヤへと最高の山ヤの魂が叫び、呼びかけ始めた。

「俺、警視庁でさ…っ、山岳会のエースって、言われてんだ…っ、う、…最高のクライマーになれるって、言われてるんだっ!
見てよ、雅樹さんっ…見てよ!大人になった俺を…雅樹さんのアンザイレンパートナーは、今、最高の山ヤって、言われてるよ!
雅樹さんのこと尊敬してる愛してるよっ…同じレスキューもやってる!だから会いに来てよっ…会いたいんだ、大好きなんだよっ、」

透明な呼び声の哀切は、心に響く。
深紅のウェアの肩を温めていく涙と一緒に、英二の目から涙が零れだす。
ただ静かに頬伝う涙に佇む、この隣に抱えこんだ最高の山ヤは15年の願いを叫んだ。

「約束どおり、ちゃんと大人の山ヤになったよ!だから会いに来てよっ、約束を果たしてよ、俺と山を登ってよ!まさきさん…っ、
会いに来てよ!一度きりで良いから、大人の俺とアンザイレン組んでよ!俺との約束を果たしてよぉ…っ、雅樹さん!まさき、さ…っ」

尽きることの無い涙は、ナイフリッジの風に払われ雪壁に散っていく。
無垢な目は涙の底から真直ぐ雪壁の底一点を見つめて、そして尖峰へと視点を飛ばし叫んだ。

「槍ヶ岳っ、雅樹さんを、返せよっ!…なんで突風なんか吹かせたんだよ!」

透明な目は真直ぐに、槍の鉾先を見据えて泣いている。
そして透明なテノールが大きな慟哭に、山に向かって罵声を飛ばした。

「槍ヶ岳!雅樹さんはミスなんかしていない!おまえが変な風で、無理矢理に浚ったんだっ…返せよぉっ、俺のパートナーを返せ!
槍ヶ岳ぇっ!俺の大好きな人を返せ!愛しているんだ、尊敬してるんだ、大切なひとなんだよぉっ…雅樹さんを返せよっ!…かえせ!」

山を敬愛する国村が、山を罵倒していく。
山っ子と呼ばれ、最高の山ヤの魂を持つと言われる、その国村が山を罵倒していく。
こんなふうに山を怒鳴りつける国村を、英二は初めて見た。

愛する山を罵倒する。
それほどまでに国村にとって、雅樹の存在は大きい。
この存在の大きさの分だけ、愛情が深い分だけ、国村の傷は大きく深く穿たれている。
この傷の哀しみを、どうしたら受けとめられる?
この今共に涙こぼれていく英二の隣から、悲痛な慟哭が雪稜をふるわせ叫びあげた。

「槍ヶ岳ぇっ、雅樹さんを返せ!約束を果たしてよ、雅樹さん!大人になった俺と、山に登ってよ!会いに来てよぉっ、まさきさん!」

透明なテノールの鬼哭が、北鎌尾根を奔りぬけて槍の鉾先を射した。

その瞬間ふっと東風の一陣が吹きこんだ。
そのまま東風は吹き抜けて、北鎌の稜線彼方へ奔っていく。
そして間ノ沢からナイフリッジ昇って、大らかな風と白銀のかけらが雪稜を包んだ。

「…雪?」

白く冷たい花びらが、晴れた空から降ってくる。
ナイフリッジの上昇風に、雪壁の底から雪は空へ舞い昇り、花となって蒼穹高くから降り注ぐ。
大らかな風奔る、真青な空満つに白銀の花びらは輝いた。

「風花、…谷底から…」

透明なテノールの声が呟きこぼして、涙の目が雪の花を見つめている。
白銀の花ふるなか並んで吹かれる風に、ふっと英二は微笑んだ。

「雅樹さんの風だな、」

ゆっくり振向いて、涙の目が英二を見つめてくれる。
すぐ隣の目を見かえして、英二は綺麗に微笑んだ。

「周太に前、教えて貰ったんだ。雪の花って名前の花があるんだけどさ、花言葉が希望と慰めなんだ。
エデンを追われたアダムとイヴを励ますために、天使が雪を変えた花らしい。だからきっとさ、この風花は雅樹さんの励ましだよ」

優しかった雅樹なら、こんなふうに友人を励ますかもしれない。
いまこの谷に眠るひとを想いながら口にした言葉に、透明なテノールが呟くよう言った。

「励まし、希望、か…でも俺、約束を、さ…」

ぽつん、涙がひとつ尾根の雪に融けた。
叶わない約束への諦められない想いと終わらない哀しみが、尽きせぬ涙になっている。
この涙を拭うことは、すべて泣かせて笑顔に変えることは、出来るだろうか?
この願いに英二は右の掌を、白銀ふる青空へと向けた。

―雅樹さん、俺の考えが正しかったら、ここに雪の花をくれますか?

そっと英二は谷に眠るひとへ心裡呼びかけた。
心に祈った想い応えるように風花は、ひとひら英二の掌に舞いおりた。
この雪の花に微笑んで、英二は隣のアンザイレンパートナーに告げた。

「国村、この風花はね、雅樹さんの涙だ。涙は心から生まれる、だからこれは雅樹さんの心だよ、」
「…雅樹さんの、心…」

登山グローブの掌を見つめて、透明なテノールが復唱する。
掌の風花を見つめる泣きはらした目に、英二は笑いかけると掌を口に当てた。

ふっ、と冷たい感触が唇にふれる。
ふれた途端にとけて生まれた水を飲みこんで、綺麗に英二は微笑んだ。

「さあ、行こうか、光一、」

名前を呼ばれた細い目が大きくなる。

「今、なんて呼んだ?」
「光一、って呼んだよ?君の名前だろ?」

さらり笑って英二は、雪白の額を登山グローブの指で小突いた。
抱えた体を起こしながら一緒に立ち上がると、英二は無垢な目に笑いかけた。

「独標に行く、そして槍の頂上に戻る。この間の俺は、雅樹さんだ。いま俺は雅樹さんの心を呑んだ、だから俺の中に雅樹さんがいる」

こんなの子供騙しかもしれない、それでも少しでも傷が癒えたらいい。
この願いを抱いて英二は、アンザイレンパートナーに大らかに笑いかけた。

「俺の中で雅樹さんは、一緒にこのルートを歩くんだ。そして途中になった道を終わらせる、国村と一緒にね。
今から雅樹さんは、国村との約束を叶えるんだよ。おまえのパートナーである俺を使って、雅樹さんが国村とアンザイレンを組むんだ」

立ち上がった同じ目の高さから、細い透明な目が瞳見つめてくれる。
見つめながら透明なテノールが、呟くよう訊いてくれた。

「…いいのかよ?だって、おまえ、俺は雅樹さんじゃない、って…」
「今は良いんだ、雅樹さんの涙を心ごとを呑んだからね、」

きれいに笑って軽く英二は頷いた。

「雅樹さんの涙は、この尾根の谷が生んだ風花で出来ている。だから、この尾根に居る間は、効果があるんだ。
この尾根を歩く間の俺は、雅樹さんの心が入っている。槍の頂上を抜けたら、効果は消えるから俺は俺に戻る。いいな、国村?」

これは山っ子が山を罵って創りだした魔法、きっと山の不思議だろう。
そんな不思議が温かで微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「期間限定の魔法なんてさ?シンデレラみたいだね、雅樹さん、」

透明なテノールが、すこしだけ甘えたトーンになって笑ってくれる。
うれしそうな細い目が悪戯っ子に笑って、そして言ってくれた。

「だから俺が王子になってさ、雅樹さんを独標から槍の天辺まで、エスコートするよ?俺の大好きな、アンザイレンパートナーさん」
「うん、よろしくな、光一、」

さらり笑って英二はテノールの声に答えた。
そんな英二に嬉しそうに笑いかけて、国村は英二の左掌をとると右掌と繋いだ。

「行こう、雅樹さん。もう独標まですぐだよ、」
「ああ、すぐだな。この先はね、ちょっとザイル使うよ?気をつけろよ、光一」

笑って答えながら、繋がれた掌の想いが切なかった。
きっと幼い日の国村は雅樹と山に登るとき、よく手を繋いでいたのだろう。
大好きな頼もしい存在と共に山を登っていた、そんな幸せの記憶が今、国村に甦っている。

「雅樹さん、この尾根ってさ?ほんと冬は人がいないね、竜の背中みたいで面白いのにね、」
「うん、バリエーションルートだから、ちょっと難しいんだ。特に冬は気温が低いだろ?」
「冬だから良いのにさ。雪の北鎌は、ほんとうに白銀の竜だよね。雅樹さん、俺たち今、竜の背に乗ってるね、」

尊敬している、兄のよう、心から愛している、大好きだ。
この想いたちが、話すトーンから視線から率直にあふれている。
こんなにもストレートに国村は雅樹を想っている、この存在の喪失は8歳の子供にはどれだけ苦しかったろう?
この切なさを心の底で見つめて英二は、きれいな笑顔で雅樹と笑いながらアイゼンで雪稜を踏みしめた。




(to be continued)

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