治療家という仕事

2012年10月15日 | よもやま話

来週の大阪の講義で使う資料を作りつつ、

頭が疲れたのか手が止まったのでしばし休憩。

頭を空にして休もうとしたはずが、

様々な想い(雑念か!?)が去来してきます。

で、いっそのこと抗わず、物思いにふけってみることに…

 

あ、今、いささか酔ってます。 

はい、飲んでます。

飲みながら書き物してると手が進むと、

ある作家さんに聞いたもので(笑)

でも、進むのはお酒ばかりのような気も…

 

きっとこの後書くことは、素面になったら削除になるかもしれません(笑)

 

もの想うテーマは「お仕事」

 

この仕事を、

私はどう考えているんだろう。

と、頂き物のウイスキーを片手に考えるとなく考える。

 

普段は飲まない(飲めない)上等なウイスキーが、

まわらない頭を回しだす。

 

そうね…

 

職人としては、

患者さん、を中心に据えて

己が技を磨いて、

自分の限界を超える。

一歩でも、いや、

半歩でも、

絶えず今の自分と勝負して、

で、競り勝つ努力を繰り返す。

そうした挑戦を、

きっと、死ぬまで続けると思う。

たぶん。

 

 

人としては、どうだろう?

 

患者さんの想いに寄り添う?

いや、ちょっと違うかもしれないですね。

 

好かれようが嫌われようが、その人が前に進むために力を尽くす…

 

そんな感じでしょうか…

 

 

何にしても、

世のため人のため、とか

そんな大それたことなんて、

出来ようもない存在なのは確かで、

その点、しっかりと自覚してます。

 

 

 

無用の用

だったと思います。

 

道端の大きな木。

 

材木としては何の役にも立たない、

節くれだってねじ曲がった大きな木があったと。

その木は材木としては役に立たないから切られずに済むわけです。

 

その一方で、道行く人はその木陰で休んで、

それで元気を取り戻して、日常に戻るわけです。

 

材木としては役に立たないから切られずに済む、役立たずの「無用」の木。

 

でも、木陰で道行く人を励ます「無用」の木。

 

私の想う治療家って、そんな感じかもしれません。

 

 

木、つながりで蛇足かも?ですがもう一つ。

 

寄らば大樹の陰とかいうじゃないですか。

どうせ、身を寄せるなら大きな木がいいねってことかと思います。

 

ただ、

間違っても、専門職の人は大きな木に身を寄せる「だけ」の人になってほしくない。

 

なるなら大樹の方でしょう。

 

で、

仮にその大樹を目指すなら、独りで、自分の脚で立っていることが大切なんだと思うんです。

 

何かにすがるんじゃなくって、自分で立って、広く枝を伸ばして。

 

私が勉強会を通じて共有したい治療家像って、そんな感じです。

 

でも、それがなかなか難しい。

難しいけど、ただまっすぐに進んでみようと思います。

 

変に濁ってゆかないように、

生真面目でいつづけたいと思います。


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