と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

森の生活

2008年09月14日 08時43分17秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 H.D.ソローの「森の生活」があります。岩波文庫から出ています。昨日、これとエミールを読んでいて、思わず時のたつのを忘れて、昼食も遅くなりました。お昼は外でとりましたが、これではまるで奇人変人のようだと苦笑しました。

 配偶者が勤務先の運動会ということで、誰も家にはおらず、十分に読書ができたというわけです。そのほか、10冊くらいリビングのテーブルに並べて悦に入っていました。庭では携帯CMで有名になった北海道犬とそっくりな白い体に赤い首輪の愛犬が、寝そべっています。オヤジがふたりいるようなものです。ちらちらとお互いに視線を送りながら、読書に没頭するのもまたいいものです。

 ソローのことはよく分からないのですが、「森の生活」の「読書」のところはいい。実にいい。森の中に手作りの自宅を建てて、自給自足の生活をしたというくらいしかソローについては知りません。そして、どうしてもそういう隠者的生活をした人に興味を持ってしまうのがわたくしの若いときからの傾向性です。しかし、今回ソローは「私は隠者ではない」と言っておられた。すてきな湖のほとりで、小さな家で思索にふけったという人ですが、実はガンジーやキング牧師にも影響を与えていたのです。アウトドア派の人が好む人ですから、それなりのと思っていたら大間違いでした。読書のところで。なんと言っても、軽薄な旅行記なんぞ読んでいるより、古典を読み給えというアドバイスが堪える。しかもギリシャ語で。????ギリシャ語????。参りました。完敗です。やったことありません。

 あっと思いました。読みが足りないということです。勉強不足です。

 良寛にしろ、ペスタロッチにしろ、どうしても隠者的な生活をした偉人に憧憬してしまいますので。基本に、自己否定がありますから。このブログを読んでいただいて、そのあたりのわたくしの傾向性を察知された方もおられるようです。そうです、わたくしも自己否定から出発します。全ての事象をとらえるのに。

 どうしても人間は他者否定から始まります。つまり傲慢。それが老害にも結びつく。いろいろな社会的なつながりの中で、わたくしの最も嫌悪する部分です。

 過去の栄誉、実績を鼻にかけて、今はなんの実力もないのに、他者否定を繰り返しているのは、愚の骨頂。ルソーの言うところの、事物からの教育でしかない。

 学歴もそう。鼻にかけちゃいけない。勉強しない、非常に狭い、事物からの教育一辺倒しか考えない人間の考えることでしかない。学歴社会に生きている人間は注意すべきです。黎明高校の民間人校長であられた先生が特にそのことを言っておられて、学歴社会に生きている人間ほど勉強しないと喝破されていた。勉強しないから他人の学歴が気になって、それで人を評価すると。

 わたくしはまったく現場のたたき上げで、傲慢不遜とか勉強しないとかそんな心配もないのではありますが。否、大ボラ吹けるほどの学歴がないからこそ一生勉強です(^0^)/

 柔道もそう。実力もないのに、しかもオリンピックにも出たこともないのに、わたくしは柔道のプロを自称することはできない。柔道くらい体力のへたりを如実に示す武道もない。自称専門家ヅラをすることはありますが。それは虚像ですけれども。したがって、今でも修行中。二段・三段のつもりで、寝技の開発に大いに夢中になって笑われているのですけれども。

 ルソーは、教育は人間の作り出した事物(システムと言い換えてもいい)からなるばかりではなく、自然からも学ぶし、人間そのものから学ぶことがあると言っているのです。考えなくちゃいけません。わたくし自身もそうですが。

 夜になって、読書にも飽いたので、大急ぎでもう一人のオヤジ犬と散歩をして、日課のスポーツジムに行き、それから柔道着を持って柔道教室へ。

 所詮素人。老害の垂れ流し。木更津総合で県チャンプになった今はわが教室の指導者になっていただいている関羽のような豪傑に、「先生、あまり熱入れてやると怪我しますぞぉ」と言われながらも、懲りずに老害を垂れ流してまいりました。週に一度の大汗流しの健康タイム。

 ソロー先生が見たらお笑いになるのでしょうか。


コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/