昨日読んでいた山崎豊子氏の「沈まぬ太陽」をめぐって、フィクションか、それともノンフィクションかという大きな議論があったのを知りました。こういうジャンルのものは好きで、主として経済小説と言われる分野を好んできたのですが、事実かどうかということで争いまであるということではちょっとびっくりしました。
いろいろ調べたら難しいことがたくさんあるようです。コメントは避けます。どうしても、仕事と本名を名乗ってブログを書いている以上、仕方の無いことです。
しかしながら、こういう論争があるということを知ることもまた読書の楽しみです。
読書はさておき、今日も天候があまりよくないです。しかし、県銚生は朝から好調に勉強にとりくんでいます。昼食後の明るい声が校内のあちこちから聞こえます。読書している人もいる。にぎやかにおしゃべりを楽しむ人もいる。いいものです。
そんな学校生活の中でも日々変わらぬ態度で勉強できる人が一番です。言葉遣いもそう。相手によって、右の人には敬語、左の人にはダチ言葉。くるくる、くるくると使い分けている器用な人がたくさんいますが、あんなにみっともないことはありません。中には笑顔とコワモテを使い分けている百面相もいる。誰にでも丁寧な言葉といい笑顔を使えるようししてくださいね。それが首尾一貫ということですよ。
勉強もそうです。ウサギのように、だぁーっと速攻で勉強できる人と、遅々たる歩みでもいいから、少しでも知識を増やそうと言う人では違ってきます。わたくしは、所詮ウサギでした。もっと地道に、かめさんのようにゆっくり確実に、日々変わらぬ態度で知識を身につけたかったのですが、もう遅いです。だからここに要らざる心配としてあなたがたにいろいろと書き込みしてしまうのです。
また、人間関係学としては「沈思黙考」ということをお勧めしたい。しかしまったくしゃべらないというわけにもいかないでしょうから、その場合「声」を重要視したいのです。ぺらぺらと軽薄才子を気取ってはならんのです。中身の無さがいっぺんにばれるようではしょうもないのです。中身がないなら、黙っていた方がもっといい。
しゃべるときは、自分の知識が本当になったかどうか試すときがいい。人に話すことによって自分のものになります。ただし、人を試すのに使ってはいけません。「あなた、こういうこと知っている?」と言って人を試みる人がいますが、これこそ思い上がりです。そういうのはたいてい自分では勉強していない。コピペ文化の申し子でしかない。
人生すべて創作、作り話で生きているとこれもまたしょうもないことです。しかし、全部が全部ノンフィクションでも息が詰まる。事実の重さに耐え切れなくなります。
山崎豊子さんという作家の書いた小説をめぐって、誰がモデルか、事実と違うとかそれこそたくさんの書き込みがありました。詳細に研究しておられるかたもある。フィクションとノンフィクションの間で、あっちふらふらこっちふらふらしているのもいいでしょう。時間がたっぷりあるのならばです。
重要なのは読み手である「自己」です。自分の視点です。自分は何を人に求め、書籍に求めるのかという視点をきっちりしておかないと、ふらふらさ迷いあるくだけになってしまいます。
あっちふらふらこっちふらふら。
これは進路を決めるときもそうでしょう。
人に影響されない自己を、ものを見つめる、考える視点をしっかり持っていただきたいと思います。そうすれば、小説などの世界に表現されているものが、事実がそうでないか、作り話か、事実かということは、味わっているうちに解決してくるような気がするのですが。
時間です。
また明日。
いろいろ調べたら難しいことがたくさんあるようです。コメントは避けます。どうしても、仕事と本名を名乗ってブログを書いている以上、仕方の無いことです。
しかしながら、こういう論争があるということを知ることもまた読書の楽しみです。
読書はさておき、今日も天候があまりよくないです。しかし、県銚生は朝から好調に勉強にとりくんでいます。昼食後の明るい声が校内のあちこちから聞こえます。読書している人もいる。にぎやかにおしゃべりを楽しむ人もいる。いいものです。
そんな学校生活の中でも日々変わらぬ態度で勉強できる人が一番です。言葉遣いもそう。相手によって、右の人には敬語、左の人にはダチ言葉。くるくる、くるくると使い分けている器用な人がたくさんいますが、あんなにみっともないことはありません。中には笑顔とコワモテを使い分けている百面相もいる。誰にでも丁寧な言葉といい笑顔を使えるようししてくださいね。それが首尾一貫ということですよ。
勉強もそうです。ウサギのように、だぁーっと速攻で勉強できる人と、遅々たる歩みでもいいから、少しでも知識を増やそうと言う人では違ってきます。わたくしは、所詮ウサギでした。もっと地道に、かめさんのようにゆっくり確実に、日々変わらぬ態度で知識を身につけたかったのですが、もう遅いです。だからここに要らざる心配としてあなたがたにいろいろと書き込みしてしまうのです。
また、人間関係学としては「沈思黙考」ということをお勧めしたい。しかしまったくしゃべらないというわけにもいかないでしょうから、その場合「声」を重要視したいのです。ぺらぺらと軽薄才子を気取ってはならんのです。中身の無さがいっぺんにばれるようではしょうもないのです。中身がないなら、黙っていた方がもっといい。
しゃべるときは、自分の知識が本当になったかどうか試すときがいい。人に話すことによって自分のものになります。ただし、人を試すのに使ってはいけません。「あなた、こういうこと知っている?」と言って人を試みる人がいますが、これこそ思い上がりです。そういうのはたいてい自分では勉強していない。コピペ文化の申し子でしかない。
人生すべて創作、作り話で生きているとこれもまたしょうもないことです。しかし、全部が全部ノンフィクションでも息が詰まる。事実の重さに耐え切れなくなります。
山崎豊子さんという作家の書いた小説をめぐって、誰がモデルか、事実と違うとかそれこそたくさんの書き込みがありました。詳細に研究しておられるかたもある。フィクションとノンフィクションの間で、あっちふらふらこっちふらふらしているのもいいでしょう。時間がたっぷりあるのならばです。
重要なのは読み手である「自己」です。自分の視点です。自分は何を人に求め、書籍に求めるのかという視点をきっちりしておかないと、ふらふらさ迷いあるくだけになってしまいます。
あっちふらふらこっちふらふら。
これは進路を決めるときもそうでしょう。
人に影響されない自己を、ものを見つめる、考える視点をしっかり持っていただきたいと思います。そうすれば、小説などの世界に表現されているものが、事実がそうでないか、作り話か、事実かということは、味わっているうちに解決してくるような気がするのですが。
時間です。
また明日。