と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

山に抱かれて 木々を愛し 風にとけて

2013年06月04日 11時17分52秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

山に抱かれてという歌がいい

 

 

 

「山に抱かれて」

 

 

山に抱かれて 木々を愛し 風にとけて

生きてみよう

 

 

果てしない 大空 遥か彼方に

呼吸する 星達 数え切れない

限りない 不思議さ 無口な自然

 命ある 営み 計り知れない

 

君は ほんの少しの 後ろめたさも無く

山や川や緑と 話が出来ますか

君は かけがえのない 友を思うように

風や水や光の 話を聞けますか

 

山に抱かれて 自然らしく 自分らしく

生きて行こう

 

 

果てしない いさかい 続く彼方に

踏み砕く 命は 数え切れない

限りない 欲望 見失う夢

 消え行く 美しさ 計り知れない

 

君は 生かされている 嬉しさを感じて

花や木々や木の実に 挨拶出来ますか

君は 一緒に暮らす 仲間の優しさで

虫や鳥や魚の 命を抱けますか

 

暮らしに澱む 濁り憎み 夢の陰り

追い払おう

心に潜む 愛いとしみ 自分らしさ

追いかけよう

 

山に抱かれて 木々を愛し 風にとけて

生きてみよう

山に抱かれて 自然らしく 自分らしく

生きて行こう

 

(作詞・作曲:小椋 佳) 歌:小椋 佳

 


 

 

 この歌、実にいい。特に「心に潜む 愛いとしみ 自分らしさ 追いかけよう」っていう歌詞はなかなかのものだ。書けない。当たり前である。小椋佳様は、オレの大好きな歌手であるし、まるっきり神様のような方である。

 密やかで、いとおしむもの、それが愛である。そんなふうに解釈したが、いかがか?

 しかもそれは潜んでいるのだ。潜在意識に。外に別段出さなくてもいいのだ。内心にあっていいのである。

 最近の世の中は、あるいは映画も、小説も、あまりにも露骨過ぎるというのが、オレの感じていることである。間違いはなかろう。せめて、さわやかに生きていきたいものである。この歌のように。マジに。

 

 

 昨日、実はある教師と指導法について話をしていた。何をどう教えたらよいか、生徒にどう伝えるか、あるいは授業展開の方法等々について。

 愚生は教授法のセンセをやらせていただいているから、そういうことはお手のものである。手段とか、方法等について議論をするわけである。

 しかし、最終的には、根底に愛がなくてはならない。しかもそれは密やかなものでなくてはならない。

 気がついたら、愛されていたというのが一番いい。

 

 そういう文化で優れているのが、日本の文化である。思いやりや、相互のこころのバランスというものを細やかに重視する。なかなか無い、できない文化である。愚生だって未だにできない。がさつな野人であるから。

 言葉というものを大事にしなくちゃならないと、そう思って61年もたってしまった。そして、相手に伝わらなくて、誤解を生じて、トラブルになったことも多々ある。それがオレの生きた証であるのかもしれないが。

 

 昨日の寺社縁起を原文に忠実に写し取っていて、旧字体も多いから、いちいち変換するのがかなり大変だった。今日も、これからやる。間にゼミが挟まっているが、夕方までやる。そして、その原文を打鍵しながら、意味もとっていた。九十九里海岸を治めていた、椎名一族の殿様が、亡くなった自分のお嬢様を親として想う気持ちが書いてあって、オレは、打鍵しながらうっすらと目に熱いものを流していただのだ。

 いいものである。

 古典も。

 

 

 さ、これから打鍵三昧の一日を過ごす。

 また夜にでもお会いしましょう。

 

 

 (^_-)-☆

 

コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

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高齢\(^_^)/