夜になって再登場
また来ました。ブログに。他にやることないのか?と言われそうです。いやぁ、今、この時間に家にいるということは、オレは外に呑みに行っているわけでもないし、ましてやデートしているんでもない。当たり前でございます。日々、読書ばかりしているチョー堅物でありますから。それに、呑み会もまったく行かないし、おつきあいに至っては、ひたすら面倒くさいだけ。あ、相手がいないっちゅうだけだけど。あたりまえだな、そりゃ。
今日はお昼は城西国際大学で、博論担当の指導教授からご指導をいただいてきたのであります。それもいつもながらのシビアな指導の中に、慈愛あふるる至福の時をすごさせていただきました。本当に、師匠には感謝しておるのです。生涯、追いつくこともできないし、だいいちそんなことは考えもしなかったですが。それにしても、そういう体験をさせていただくということが、通学することの意義なんでありましょう。ありがたいことであります。まことにありがたい。
さらに、今日は、塾のヨルバイトをしてきただけ。それもたったの一コマ。教授法を教えているんだから、これは嫌でも続けていくしかないので。教えるということの体験抜きに、教授法を教えちゃいけませんです。(^-^)/(これ、オレの信念)
楽しいことばかり多くて、こんなんでいいのかとしみじみ思うのです。高校生を教えていると、**高校で誰が数学や英語を、あるいは国語を教えているのかというのが、自然と伝わってきて実におもしろい。オレが聞き出すのが上手だというのもあるけど。(^0^)
特に、進学校で古典文法をどうやって教えているのかが、塾にいると全部わかっちまうからこりゃまた楽しいもんです。へぇ・・・とかふうううんとか言っているんですよん。必ずしも肯定的ではないのだけれども。(^0^)/
あまりそういうことにこだわりたくないから、平穏に生きているつもりではあります。
しかし、これからの時代を生きていかなくちゃならない若い人にとっては死活問題なんでしょうなぁ。
なんだか知らないけど、屁の突っ張りみたいなことを言って粋がっている若い人も多いからです。かわいそうになってくる。なんでそんなくだらんことに拘って、苦悩するんですかい?って思うことが、かなりあるから。
学問の世界で実績を残すというのもシビアな世界なんだそうです。そうですって、オメェ!そんなことを言っていいのか!って叱られそうですが。
諦念という言葉があります。これ、諦めが肝心っちゅう意味ではごじゃりません。物事の本質を明らかにするっていうことだそうです。だから、普通にいう諦めるというのも、本質に沿っているわけですよん。
だから、オレは、諦めてばかりいるんどす。物事の本質ばかり追求しておりまするから。(ホンマか?)
諦めているというと、ほら、男女の関係になるとかいって、これって小説のテーマではかなり大きなモノですが、ホントカねぇって思う部分もあるんです。なんだか、勘違いしていませんかって思う時もあるからです。和歌なんかこれのオンパレードですもんねぇ。分からない世界ですが、愚生には。
ヽ(^。^)丿
諦めよ、すべては空虚なのだからとつまんねぇことばかり言っていると、オレはつまはじきにされっちまうなぁ。
そもそもそんな程度だけんどね、
オレなんて。