見えた・・・けど、ずいぶん勝手なものだと感じた。
1 全共闘世代の文学 村上春樹の「鼠」の台詞 「俺は俺なりに頑張ったよ。自分でも信じられないくらいにさ。自分と同じくらい他人のことも考えた」という人々によって、生み出されたもの・・・・・
←そうかなぁ。。。。。フン
2 昭和40年代の騒乱・・・近代の極としての都市を浮遊するしかない人生を描く文学←これも疑問だ。オイラのようなルンペンプロレタリアートは、どうやって生きていったらよかったのだ?
3 武田泰淳、野間宏、中上健次等々に描かれた男ども・・・・「男の行動原理は常に性欲だ」・・・だから男は男同士でけんかする?←そうかねぇ。。。ホンマにそうかねぇ。
4 高橋たか子:「産む性」への憎悪と拒否。母性憎悪。産む、そして母になるという意識が、女性の個人としての自己の実存を侵す。・・・・・←「個」としてなのだ。個としてならば、そうではない場合はどうなんだろうか?
5 自我(男と対等な主体的自己を観念の袋小路から救い出す方法)を、男性との性関係におく。高橋たか子・・・・・・・←文学上の話だけど、これもまた?である。
社会的な立場からものを考えて、行動するというのは、「個」ではない。そもそも、そこから抜け出して、なにをしてもいいのだろうか?だからと言ってなんでもありきなのだろうか?
今日は、そこのところをずっと考えたり、読書したりして、上記のようなことを考えた。少なくとも、職業を持っている以上、制約は受ける。それすらも取っ払えというのだろうか。いいのか、そんなので。文学なんてソンな程度なのか。
今日は母性への憎悪というフレーズに出くわして、非常に驚愕した。なるほど、一部の女性達にその種の方々がおられるのではないかということは、うすうす感じていた。しかし、それが著名なる女流作家で、非常に真剣に議論されてきたのだと知って、誤解がいっぺんに解けた。なるほど、そういうことであったのか。
それほど、女性として生まれ、子どもを産み、母親になることを拒否したかったのだということに、暗然となったのだ。そういうものなのだろうか。そういうもの。だから晩婚化という問題が起きているのだと、理解した。馬鹿野郎、そりゃ誤解だと言われるかもしれない。しかし、そうでもないだろう。
女でありたくないという思想があるかぎり、そうせざるを得ない社会システムとか、歴史、あるいは政治状況等々を責めるのはわかるような気がする。
全共闘時代の文学への切りこみについても、オイラは納得がいかない。普段からずっと言っていた、いい気なもんだという感じは不変である。
大都会に出てきて、ふわふわと浮きに浮いて、くだらない大学生活を送って、女と遊びまくり、政治屋ごっこしながら、結局サラリーマンに戻っていったやつらをいくらでも知っているからである。
そんなのが、いかにも権威者ぶって、エラクなっていることもよく知っている。
オイラのように、社会の底辺で、苦しみながら、呪いながら、やっとこすっとこ大学学部を卒業させていただいた貧乏学生には、奴らは、安易で、バカで、だらしねぇだけの糞ガキとしか見えないのだ。
まったくハラが立ってきた。
所詮文学なんてそんなもんなのかね?
金持ちぼっちゃま、おじょーちゃまのお遊び程度のもの。
オイラは、生活が苦しかったから、どうしても文学に「助けてくれぇ」という救済の叫びを求める。否、求めてきた。今でもそうだ。あの有名な水俣病を扱った「苦海浄土」だって、遊びではない。人々の救済の叫びであり、呪いである。
オイラは、そういう現実から目を背けたくはない。
それほど苦しかったからである。ノータリンの、バカ女子大生と同棲したり、いちゃいちゃしていて、それがなんなんだ?それでどうしたというのだ。
あああ、馬鹿馬鹿しい。
そんなものを買って読んできたオイラの青春を返してくれと言いたくなっちまったよ。
古典を選んでよかったと思う。今なら。
そういうことである。そういうこと。
(「講座昭和文学史」有精堂を読みながら・・書籍自体はいいものであるが)