老後にも初心がある。
普通は、「初心忘るべからず」というのを、最初の志を忘れてはならないと使う。若い人へ訓戒をたれる場合にも好んで使われる。最近目につくのが、不祥事を起こした企業で経営トップが深々と頭を下げてお詫びの記者会見の時に、「初心にかえりまして。。。。」とやることである。ま、これでも間違いではない。しかし、もうちょっと世阿弥の「花鏡」は書いてある。(世阿弥は、能の大成者である。ご存じだろうけれども。愚生は、能も趣味の一つに入っているので、今日は世阿弥の言葉からちょっと書いている。)
しかれば、当流に、万能一徳の一句あり。
初心不可忘。
この句、三箇条の口伝あり。
是非初心不可忘。
時々の初心不可忘。
老後初心不可忘。
(『花鏡』 奥段)
この言葉を書いた世阿弥は、人生の中にはいくつもの初心があると、云っている。若いときの初心、人生の時々の初心、そして老後の初心、それらを忘れてはならないということをである。
もっとも、世阿弥の時代は、7歳の稚児の時からデビューする。だからかわいいのである。声変わりをして苦労する時期もある。しかし、ずっとやっているとそれなりに風格もでてくる。名人が出てきたとか云われてしまう。それで、云われた本人も「そうか、オレはもしかしたら、名人とか、天才なのかもしれない」と思いこんでしまう。これは、学校秀才にも多いのかもしれない。愚生は、学校秀才と云われたこともないし、ただの劣等生であったからそういううぬぼれはなかった。当たり前である。そんなことを云ったら、BAKAがクチきいてらぁってことになっちまう。
もっとある。「極めた」と思った時が、危ないのである。人に指導をし、話をし、講演会とか呼ばれてくるようになると、アカンのである。
むしろこういう時期こそ、改めて自分の未熟さに気づくべきである。世阿弥のいう「まことの花」にはなれない。いつまでたっても、オノレは未熟だ、まだまだだと修行を怠ってはならないのである。自己満足をしていると芸道は、そこでおしまいになるのである。若い時の名人気取りを世阿弥は、「あさましき事」と云って戒めているのだ。
若いタレントでも、このあさましき事というのを実際やっている御仁はいるだろう。
誰だって、「すげぇ新人が現れた」とほめそやされたら、そうなっちまうだろう。しかしだ。オノレ程度の新人なんか、また来年やって来るものなんだ。つまり、新人というのは新しいからだ。なにか持っているかもしれないからだ。旧が新に変化するかもしれないからだ。
能は、伝統のもとに、いつでも同じことをしていると思われがちである。ちょっとそれは誤解である。世阿弥は、古い能に新作で勝負を賭けた天才である。能の源流である南都仏教で行われていた猿楽に挑んだのである。その功があまりに大きくて、現代は新作能がそんなには作られなくなってしまったが。
もうちょっと云えば、愚生の追求している民俗芸能は能よりも古い。それらを下敷きにして、能は発展してきたと思っているのだが。
元に返ろう。
だから、ある程度ものになったからと云って、安住してちゃならんということなのだ。
さらに、能楽師は、30代半ばに頂点に立たなくちゃならんとも云っている。30代というのは、芸能だからなのだが、学問とか研究者も同じではないのか。頂点というのは、ちょっと極端としても。でも、研究者とか学者というのは、世阿弥の云うように30代半ばが勝負だろうなぁと推測する。
ここからが問題である。後は落ちるだけである。ここに壁があるのだ。年齢という問題が行く先を遮る。
それでも世阿弥は云う。「老いの美学」があると。老いて後の初心がくるというのである。老いてこそふさわしい芸があるというのである。齢を重ねてしまったからと云って、芸は終わりではないのである。一生をかけて完成するものが、能だと云っている。衰えた肉体であっても、その先がまだまだあると考えたのだ。世阿弥は、父の観阿弥の芸をみて、「老木に残る花」を見たと書いているのだ。
このことは、生涯学習にも通じることである。たいしたもんである。さすが天下の世阿弥である。
愚生たちのような老いてもますます盛んに学んでいる「爺&婆」たちへの、最大の応援歌である。ありがたいものだよ。
どうです?
愚生たちの仲間になりませんか・・・