学校六日制の根底にあるもの
学校五日制が検討されているという。インターネットのニュースで知った。いよいよ本格的に始動したのだなぁと感じた。これをどう考えるか、ということである。学力向上の点から考えるべきなのか...
学校六日制の根底にあるもの
学校五日制が検討されているという。インターネットのニュースで知った。いよいよ本格的に始動したのだなぁと感じた。これをどう考えるか、ということである。学力向上の点から考えるべきなのか...
郷土史の原稿を書いて、さらに日課にしている駄文書きをしていた。そしたら、拙ブログの記事を書かないでダイレクトに始めてしまったから、難渋していたのだ。
一つの勘違いがあって、郷土史の方は研究ノートにするつもりだから、詳しい脚注は不要だと思っていたら、どうもそうでもないことに気がついた。そして脚注をつけていたのだ。
愚生の悪い癖で、どんどんどんどん書き進めていくから、当然穴がある。そこにいろいろ気がついて訂正をしていた。郷土史の方である。
駄文書きは161枚になったから、こっちは順調だった。
しかもちょっと喉が痛い。一昨日寒かったからなぁ。マスクをしていた。院生室で。目立つなぁ。スキンヘッドにマスク。わはははっはは。
悪党そのものだよ。哀れんでくれた友人が、蒸気の出てくる機械を貸してくださった。小さいスチームという奴だ。ありがたいものである。感謝である。
明日は夜大嫌いな酒を飲まなくちゃならんので、大事にしまひょ。
あ、今日の夜は楽しみにしている塾だ。塾。
夕方までには直しましょう。
(^-^)/
Kikaigashima Shunken Noo theater(+ 再生リスト)
今朝起きたら雪が降っているのかなと思って、起きた。降っていなかった。ある意味、雪国育ちの愚生には降って当たり前のような雪である。随分苦しめられた。雪かきというやつである。なにしろ、お袋さんが勤務... goo.gl/Qpbivm
【青山繁晴】仁徳天皇陵と戦後教育、若者と中年の自立への問いかけ blog.goo.ne.jp/tym943/e/f4f0b…
アダモAdamo/雪が降るTombe la neige~日本語Version blog.goo.ne.jp/tym943/e/f2942…
昨日の朝日夕刊には興味深いコーナーが三つもあった。①鈴鹿市に伝わる伊勢型紙のおこり:昔々、久太夫という翁が子安観音寺の境内で、虫に食われた桜の葉に目をとめた。その模様を美しく思い家に持ち帰った。それを紙の上に置き、小刀で虫食いの通りに切り抜いた。
@ito_denwa ②「民謡をたどって」アイヌ民謡には、日本民謡にない3拍子(マリモを送る唄、杵つき唄)、5拍子(馬追い唄)、7拍子もある。「ウコウク」という輪唱:車座になった数人が微妙な時間差でフレーズを重ね合わせる。
@ito_denwa ③小滝ちひろさんの「幸せの国のブッダ」:ブータンのパロという町で、薬師寺執事の大谷さんが修行歴20年以上の僧の質素な時計を見て、もっといいものが欲しいと思わないか?と問うた。「時計は時を知るもの。時計を欲しいというような『私』というものはありません」
私もわかった。海部さんの記事。コミュ障にやさしく……。
“@hachiya: なんで自分が Facebookよりツイッターが好きなのか分かった。:ツイッター混沌の歴史と知れば知るほど深まる謎 business.nikkeibp.co.jp/article/world/…”
私にとってファンタジーとは、新しい観念を形成する、または、既存の観念を新しい関連形態におく人間の能力なのです。その意味では、私たち現代の人間にとって、具体的なファンタジーを発達させることほど必要なものはないのです。 『エンデの文明砂漠』
本当は少年が主人公の映画が必要なんです。だけど、それはものすごく悲劇的な映画になってしまうんです。『魁!!男塾』みたいなものを作るんだったら、そりゃあ、ぼくじゃなくても誰かがやってくれるだろうけど。でも、そういうのじゃないから
amzn.to/s9kpqt
神戸市須磨区車の大歳神社の翁舞。三番叟が黒色尉の面をかけるのに、後見と翁大夫がお世話。翁大夫が面をかける時もですが、面をかける時に烏帽子は一度外すのが車の翁舞の形。能楽でも、奈良豆比古神社でも、烏帽子をつけたまま面をかけますが…。 pic.twitter.com/Dt2j01HxyH
【続報】
どこにいたのか・誰といたのか・どうやって交番に来たのかなど、「わからない。覚えてない」と話したがらない様子。家出の可能性は低く、第三者の関与、または事件に巻き込まれた可能性が高い。/相模原市中央区田名で篠崎倫ちゃん行方不明 keimusho.net/crime/2014/01/…
今日は危ないと聞いていた。雪である。降りそうだけど。
今、院生室にいる。駄文は、今日でようやくA4で160枚に突入した。しかし、まだまだやることがいっぱいある。日中の芸能比較をやっているの... goo.gl/STolgU
「公約」が「嘘」と同義に用いられることを嫌った政治家たちが差別化をはかるために「マニフェスト」とか「アジェンダ」とか言い替えてみましたけど、結局「嘘」だったので、ばかばかしくなって、もとの「公約」に戻りました。
…一般民衆は裸足の生活であり、家へはいって座敷にあがるときも、べつに足を洗わぬ者が多かった。一般民衆の家には畳などはなかったのであるから、座敷も板敷か莚や薦の敷いてある程度で、今日の生活とはおよそ異なっていた。/宮本常一『絵巻物に見る日本庶民生活誌』
5:02なり。
昨日NHKでやった100分で名著の「世阿弥」を、録画していたので、見ていた。朝からである。見たくて、見たくて早起きしたのだ。もの好きである。テキストも買ってある。もっとも、買った当日には全部読んでしまったが。
入門用だけれども、さすがNHK。いいテキストであった。いろいろ考えさせていただいたからである。
愚生は能楽学会にも参加させていただいて、勉強している。しかし、この学会が一番困難である。能と宗教の比較というそもそものスタートがここにあるからだ。
書きたいのだけれども、書けないのだ。一番書きたいことが書けない。これわかりますかなぁ。書く材料はたくさんある。しかし、学べば学ぶほど、こんなんで良いのかという自省が出てくる。参るのだ。参る。
風姿花伝を読んでいると、いつも美人のことを思う。美しい女性というのは、それはそれでいいものだが、そんな美女でも「老い」という問題から逃れることはできない。かわいさ、美しさだけでいつまでも生きていくことはできないのだ。哀しいけれども、それが事実である。
だからアンチエイジングということで、フィットネスクラブで一生懸命ダンスをやったり、プールをやったり、ウオーキングマシーンをやったりしているというのは、哀しい。じゃ、おめーさんはどうなのだ?と聞かれるかもしれない。おめーだって、アンチエイジングではないのかということである。愚生の場合はちと違う。健康のためである。あちこち痛んできているからである。じじいそのものである。甘んじて、じじいを許容しているのだ。年齢なりに過ごしていこうと思っているからである。それに、愚生に若作りは似合わないだろうからね。(^0^)
その年代の時々で、おのれはどうあったらよいのだろうかという課題を世阿弥はつきつけてくれるのである。
愚生は、普段、ふざけたことばかりを云って、楽しく・おかしく生きている。おちょくりも相当やる。嫌みもかなり云う。じじいだから、世間のことがよく見えてくるようになったからだ。今でも、前の仕事で後輩諸君からいろいろ云われることがあって、ふんふんと聞いている。しかし、そのことは、仕事をやっている現役の人間だからという条件がついていることを忘れてはならないのである。定年で追い払われた愚生のような人間には、まだまだなぁ、世間が狭いなぁ、人間理解がまるでなっていないなぁと思わされるからである。むろん、その点に関して愚生が優れていると云っているのではない。
その年代、年代でどれだけ自分を客観視できるかということを問題にしたいのである。こいつはよ~く考えると実に怖いことである。
だから、アンチエイジングを気取って、ミニスカートなんかはいて、アイシャドーを濃くして、なんだか夜のチョウチョをきどって、しゃなりしゃなりと歩いている自称「美女」を見ていると、哀しくなってしまうのだ。
いつまでも続くわけがないからである。
いつどこで折り合いをつけるのか。自分と。老いた自分と。そういうことを考えていただきたいのである。美女に。
ついでに云えば、60過ぎたら老いたのではない。年齢は関係ないのである。いつでも老いのことを自覚して、対応できるかということを申し上げたいのである。
花を扱った風姿花伝である。花というのは、限りがあるからだ。放っておくと、しぼんじゃいますぜ。そこのあーた。年々年々、自己をイノベーションしていく。それこそが、「新しきが花」でありますぜ。まったく。
うっぷ。
あまりマジなことを書いていると、腹一杯になるなぁ。わはははっはっはは。これにておしまい。