「イイコ・イイコしてチョーダイ」・・・・? なんじゃそりゃ(^0^)
塾で実にかわゆいワラシベがいて、楽しい・楽しい。こういうバイトをさせていただくだけで、実にボキは幸せな気分になる。むろん男児である。小学生。女児にはまったく人気がないからだ。
わあはっあはっははっははははっは。
問題集を二人で解いて、正解だねぇ~ってボキが言うと、「イイコ・イイコしてチョーダイ」とのたもうのである。だから、アタマをなでてあげるのである。そしたら喜んでくれる。そして、さらにやる気になってくれる。他に二人ほど高校男子がいたが。彼らは吹き出していたけど。
こういうのを楽しいと言うのである。あるいはかわゆいいと言うのである。
本当に天から授かった趣味である。そして、それを36年間も仕事でやらせていただいたのだ。こんなにありがたいことはない。
しかしである。
「イイコ・イイコしてチョーダイ」というのは、どっかで聞いたことがあると思ったのだ。
家に帰って、古女房ドノに聞いてみた。この歌詞はどこから来たのか?ということである。
そしたら、即答。
「歯磨きじょうずかな」の歌じゃないかということになった。
あ、っと思った。
まったくそのとおりである。
これは、幼児を孫として持っていないと知らない歌であろう。
ボキは、孫がいるからわかる。二人もいるから。
ボキの長女が苦労しながら、歯磨きをさせていたからである。たまに、ボキも手伝わされたから、その歌は知っている。知っているどころか、一緒に歌って歯磨きをしていたのである。
思い出した。
で、歯磨きが上手にできたら、おかぁさんが「イイコ、イイコ」してあげるわけである。
その必然的結論として、「イイコ・イイコしてチョーダイ」というクダンの坊ちゃんの発言となるのである。
つまり、この事例の場合は、保護者の子どもへの接し方が想像できて実に興味深い。つまり、子どもの美点を見つけて、子育てに役立てようとしているのが、よくわかるからである。
逆に、けなしてばかりの子育てをしていたら、こうはならない。
当然であろう。
いじけてしまうからである。
ま、ほめてばかりだと、別の問題も起こるという指摘もある。あるが、今日の場合は、この程度にしておこう。
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それでもなんでも、ボキは、人の美点を見つけようとして人間関係を良好に保つというのは、いいことだと思っている。
結局は、人柄であるからだ。人柄こそが人間関係の基本である。あいつがキライだ、あるいはスキだというのは、瞬間的な判断でしかないからである。アタマで考えてやっていることではない。
武道の勝負と一緒である。瞬間に判断して、行動に移しているのが武道である。あれがいいかな?それともこっちの技でいこうかな?と逡巡していたら、勝負にならないからである。
身体的に、瞬時の判断を受容できる体勢でいないとならない。それが武道の鍛えかたである。
アタマでっかちではどうしようもない。
アタマと、身体が一緒になっていないと判断できないのが、武道の世界であるからだ。
子どもだってそうである。
むしろ子どもたちの方が、瞬時に、「あ、このじーさまは、いい人だ」とか「うへぇ~、あのじーさまは、ヤァ~ナ・ジジイだ」とか判断しているのである。
それに、子どもは、身体そのものである。脳がすべてを支配しているのではないからである。身体の成長がままならないから、身体すべてでもって動いているのである。
だからかわゆい時代には、せいいっぱいかわいがっておくことである。そうやって育てたら、元気に育つ。明るく育つ。とくに、ボキのようなじーさまに育てられたら、成功する。
?
マジにそう思う。
明るく、元気に、一生懸命生きるしかないのである。そうやって生きていると、身体のすべてが活性化する。これがありがたいのである。
ボキのように、病を抱えていても、元気で生きられるからである。
一病息災とはよくも言ったりである。
ありがたいではないか。
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今日は、千葉市にいた。
ボランティアでやっている郷土史の団体で、文化講座と古文書講座の手伝い・下準備をやっていたからである。
しかも、行くときは電車で行って、千葉駅の二つ前(蘇我駅)で降りた。降りて徒歩で歩いていった。行くときで、7000歩は稼いだ。
こういう姿は天が見ていてくださるだろう。
もうこれで病気は治ったと。
わははっはっははっははっはっははっはは。
そんなこたぁ、あり得ない話じゃ。
Bye-bye!