わははっははっははは、わははっはははっはと毎日笑って過ごしている。
驚いた、実に驚いた。
こういう僧侶の方がおられるということに、マジに驚いた。もっとも、このお坊様、以前から注目していた。説教があまりにもお上手であるから。
宗派は関係ない。ボキはそもそも信仰というモノを持っていないから、万教帰一というかなんでもありがたい宗教は全部かじることにしているので。特に仏典の意味について知りたいと思ってきた。でもまだまだわからないことばかり。
あまりにも、オノレの知的体験ばかり追求してきたからである。バカなのに。バカを承知で無駄な本を買い、無駄な出費を繰り返してきた。様々な講座を聞いて、ノートをとっていた。しかも、バカだからその全部を忘れてしまっている。
トホホである。トホホ。
今年になってからやっと気がついた。
それは、ボキはそもそも平凡人であり、悪業三昧を繰り返してきたただのジジイであるということ、さらにそのことに気がつかなかったということ。臭いものにはフタをしていたのである。真実を見たくなかったのである。
オノレのバカさ加減を知りたくなかったのである。かすかに感じてはいた。これまでも。バカなのかもしれないとは。
それが決定的になったのは、こんなアホなボキでも、いかにバイトとはいえ、ささやかながら授業をやらしていただいているからである。つまり、授業でもって、いかにボキは上から目線でもって塾の生徒さんや大学生さんに接していたかということに気づかせていただいたからである。
アホがなにをやっていたんだろうと、今年の5月頃に気がついたのである。やっとである。やっと。あ、こんなんじゃアカンとしみじみ思った。
大学生が反発してきたからである。ボキも悪い。上から目線で指導していたんだろう。無意識で。大学生も、上から目線で自信たっぷりなボキに言い返してきたからである。あ、こりゃ誤解されていると瞬時に思った。
ボキは、その時に「自己否定」というような話をした。
ボキは、自己否定からすべての論理を組み立てているからである。それが、ボキの乏しい文学の知識の根底にあるからである。オノレに自信が無いから、文学にのめり込んで行ったのである。地位や名誉が欲しくて、一番最初の大学学部に進学したのではない。そもそもそんな能力もない。さらに、世間を上手に渡って学者や研究者になろうとしたのでもない。なりたくてもなれなかっただろうし。それこそ無駄な努力であるから(^_^)。
出世もできなかったし、それこそ田舎教師で終わった人間である。
それでもいいと思っている。それが、いろいろと悩んでいる若い生徒諸君のためになっただろうからである。
挫折している若者にはささやかながらも、お役に立ったと思っている。なぜならボキ自身が挫折の連続の人生を送ってきたからである。
今週の土曜日に看護学部の学生さんに、連続の授業をさせていただく。養護教諭として活躍したいという学生さんと対話をしてくる。三時間連続である(一コマ90分だから)。その準備を昨日やっていた。パワーポイントに動画を仕込んでいた。動画そのものは短いけど。でも100枚ほどある。パワーポイントのシートそのものは。
それで自死を選らんでしまう生徒さんや、リストカットをしてしまう生徒さんへの対応を動画で見て考えていく授業である。
臨床的な手法だけでは対応できないものが、教育にはある。命を絶ってしまう若者であってはならない。
そのためには、ボキのような人生に挫折し、失敗を繰り返し、自己否定の底なし沼でおぼれかかった人間が語りかけることもまたある意味必要である。
*
それにつけても、このお坊さんの動画には語りかけの重要性というものを教えていただいたと思っている。
芝浜の台詞が一箇所違っているのは、愛嬌だろうが。落語が専門ではないので(^_^)。
最近、落語ばっかり聞いている。クルマの中でも。
志ん朝、歌丸、円楽(先代)、談志等々のCDがボキの愛車にはたくさんある。どこに行くにも、落語と共にある。
わははっははっははは、わははっはははっはと毎日笑って過ごしている。
楽しいからである。
Bye-bye!
落語説教 「『芝浜』~金が儲かる・病気が治る?」 桜嵐坊