誰も期待してくれないけど
本来木曜日は大学に来ない予定なのだが、そうもいかなくて、今日の木曜日は院生室にいる。なにをしているのかというと駄文書きである。私家版でもなんでも出すことは決めたから、あとはやるっきゃない。
で、明日は大学に来ない。孫と遊ぶためである。孫と。
わはははっははは。
来月の6,7日と上野学園大学にちょっと行く。学会発表があるから聴講をしてくる。法音信仰ということを調べているので、史料について、音楽大学故の研究があるのである。師匠に行ってきなさいと云われて、申込書もいただいたのだ。さっき、大学の中にある銀行から振り込んだ。そしたらびっくりした。なんでか。今日が締め切りだったからである。既に申し込んでおったので、資料代の2000円を払うのを忘れていたのだ。情けないなぁ。間に合って良かったよん。弁当代を含めて2000円なので、かなり安い。しかも二日間だ。
ありがてぇなぁ。
内容について、楽しみにしている。特殊な分野だから、音楽の専門家たちが声明や法音信仰、宗教音楽について、どのような見解を持っておられるのかということを知りたいのである。
8日は、郷土史の会議があって、文化講座があって、古文書講座がある。こちらも月に一度の楽しみである。で、新年度を迎える。文化講座で一度しゃべらないかとも云われたけど、まだまだ早いなぁ。オレごときが、歴史の碩学達の前で講釈たれられるほど、勉強してねぇのだよん。
笑われてしまう。
学問に関しては、オレは謙虚である。バカみたいに他人を見下して、どうだ!オレはすげぇだろう?っていうのはいかがなものか。よくいるけどねぇ。そういうの。バカそのもの。所詮、オレは田舎教師の、ただの高校教師でしかなかったから、そういうことはしないのである。限度を知らなくちゃアカンですな。限度。
こういうように考えるようになったのは、柔道をずっとやってきたからである。そう思う。天下の講道館で稽古させていただいて、オレごときが、生意気なことを云っていたらアカンとしみじみ思ったのである。東京オリンピックに出てきた一流の選手達を同じ畳で見たからである。一流は違うのだ。オレごとき田舎柔道しか知らないじじいとはレベルがちがうのだ。
しかし、柔道精神で、柔らかに生きていくということだけは、マスターしたようである。これがオノレの生き残る道を与えてくれたのだなぁと思うのだ。
だからオレには絶望がない。
まったくない。
柔らかに、生きていくことができるからだ。
認められなくてもいい。
相手にされなくてもいいのだ。
オレはオレ。
「あんたの期待に添うために生きているのではない」のだ。
あ、誰もオレなんかに期待しているわけがねぇか。
わははっははっはははは。