心に響くインディアンの言葉・格言・教え・名言
Native Americans!! インディアン・アメリカ先住民【西部開拓時代の古写真】
ブラブラ・ジジイはなにか他にすることがないのか?とか趣味をモテと言われてしまうが、これでもまだまだダメなのかねぇ~マジに
ブラブラしていて何が悪いのか?と思うことがある。
さっきまで雨が降っていたから、ちょいとwalkingに行ってきた。しかし、小雨が降っているから、2900歩だけであった。この万歩計は、ある一定速度でないと計測してくれない。だから普通にブラブラ歩いていると、4081歩と表示されている。こっちの普通に歩いている歩数は、私のwalkingのノルマには入っていない。あくまで、exで何歩歩いたかということだけに関心がある。
でないと、再入院になっちまうからである。
もうあんな入院はしたくないからである。(^-^)/
だからブラブラ・ブラブラ歩いている。見た目は速歩である。しかし、私にはブラブラ歩きである。雨でも行く。傘を持って。あまりにも激しく降る場合は、ショッピングセンターの立体駐車場を歩く。わざわざ遠回りして歩く。
これもまたブラブラ歩きである。ラブラブだったらぇぇんだけどね(^w^)。そんな相手はいないし。
だから、ブラブラばかりしていないで、たまには出かけてみたらとか、趣味をモテと言われることがある。
え?
このブログを読んでくださっている友人知人は、私のことを病気にもなっているのに、エネルギッシュでジジイのくせして八面六臂だと言ってくださるのにである。
わははっははっははっはははっはは。
毎日毎日、なにかをやっているのだ。
一つのことをじっくりとやっているわけではない。陶芸をやっているのが知人でいるが、ああいう座ったままというのはアカン。座っていると、またまた病気になるからだ。
書道もできない。座ったままだからである。それに字が汚いから、チャレンジするだけ無駄である。
ブラブラしているのが楽しいのである。
これが一番私の能力にあっているのだと感じる。まさに当たっているだろう。
若い時は、クルマの運転も大型オートバイも楽しんでいたが、これらも座ったままである。
・・・・・・・・・・・・・・・
放っておいてほしいというのが正解ですな。
正解。
ブラブラが趣味なのである。
ブーラブラしていれば満足しているからだ。
これもまた老いたジジイの一つの事例である。
なんでもかんでも、趣味をモテだの、やることないのかとか、ジジイを責めるだけではアカンのでっせ。
やることはやっているんだから。
こっちは。
できる範囲で。
楽しく。
わははははははっはははっははっはっはは、と笑っているのも健康の源である。
おかしくなくても笑っているから。
こっちのジジイは。
もっともアレか。あんまり笑いすぎていると、基地外と思われるから用心にこしたことはない。
もう一回。
わあっはははっははっははは!
けふはこれで二回目の書き込みなり。
暇だなぁ~!
午前中は、数学と英語の教材研究をやっていてそれも終わったし。
だからけっこうやることはやっているんです
午後からまた書き込みしたりして。
(;_;)/~~~
青年や中年は、不安から逃避しているということである。そこでもって、「生きる不安」を「なにかする」ことによってできるだけ遠くの世界に放り投げているのではないのかねぇ~
退職後「なにもしない」あるいは「なにもできない」ということでもって、叱られることがある。
しかし、「なにもしない」自由というのもある。これがすこぶる気持ちがいい。他人は、「なにもしないからダメ」とよく言うが、「なにもしない素晴らしさ」というのもあるからである。
たまには逆転の発想でもって考えてみることもいいことである。
なにもしないと、世の中のくだらないことでもって悩まされるということがない。会社とか所属している組織団体のトラブルに巻きこまれることもない。上司もいない。上司もいないから部下もいない。ダレもいない。孫くらいだ。あ、古女房ドノがいたっけ。忘れたら恐ろしいことになる。
わはははっはははっははは。
あらゆる人間関係で苦しむこともない。もう関係ないからである。前の仕事を背負っているとのたもうご老人も、老人大学のクラスメイトにはたくさんいるが、私はそんなふうには考えないことにしている。
だって、背負っているものなんかなんにも無いというのが正直な私の感覚であるからだ。
むしろその方が正常であると思っている。いつまでも前の仕事世界の人間関係だの、役職だのというくだらないことでこだわっていると、ノイローゼになる。老人性うつ病になってしまう。それでなくても、脳が衰えているのである。だから、脳を鍛えるしかないのだ。
?
頭蓋骨を鍛えるのではない。中身である。脳内をである。
塾でバイトをするようになって、しみじみ感じることがある。けっこう暗記することができるし、数十年前に教えていただいたことを思い出したりするのだ。こっちが。それこそこっちがびっくりしたのである。マジにそうなのである。英和辞典の使い方も高校時代とそんなに変化していないから、不思議なものだなぁ~と思っている。さらに古典文法の活用も完全に覚えているからおもしろいものである。しかし、知らないこともかなり出来てきた。
だからこその「生涯学習ごっこ」である。これだけは死ぬまで背負っていきたい。前の仕事を背負っていないからである。
永遠に未来のことである。「生涯学習ごっこ」というのは。過去のことではないからである。「今」のことであるからだ。今から未来にかけてのことだからだ。
私は、過去の歴史や文学、民俗芸能を追究してきた。これは確かに過去のことである。もう変化しない過去のことである。平家物語だって、書かれた時からなにも変化していない。だから、これは「変化しない情報」である。
しかし、今現在を生きている人間は「変化しない」存在ではない。日々「変化しつつある」存在である。カミの毛だってそうだろう。日々減少したから私の現在のスキンヘッドがあるのだ。むしろ感謝している。こういうスキンヘッドになったことをである。変化した結果こうなったからだ。
負け惜しみではない。気に入っているからである。しかし、冬の寒風は、スキンヘッドにはきつい。直に頭皮を攻撃してくるから、こりゃたまらん!である。こういのは、なってみないと実感できない。ま、野球帽をかぶればいいだけの話ではあるが。
情報というのは、特にインターネットに出てくる情報というのは、過去のことでしかない。これから起きることを、インターネットで書くことはできない。予想はできるかもしれないが、そんなもんは当たり外れがある。当たったり、外れたりするということは、「変化」があるということだ。それをインターネットでもって予想して・・・ということはできないだろう。もっとも、こっちのジジイはインターネット「も」素人である。知ったかぶりはよくない。
今日は、なにを書きたいのかというと、老人になった私のことではない。
青年や中年が、あれだけ現在の仕事にこだわり、走り回り、あれもこれもオノレの出世のためにと精一杯生きているのは、仕事にかこつけて「生きる不安」をごまかしているからであろうということを書きたかったのである。
つまり、青年や中年は、不安から逃避しているということである。そこでもって、「生きる不安」を「なにかする」ことによってできるだけ遠くの世界に放り投げているようなものである。
そして、青年や中年も絶体に退職がきて、定年がきて、老人になる。自営関係者でも退職や定年はないだろうが、老人にだけはなる。なってしまう。
そこから考え始めても、もう遅いのである。今から、考えた方がよろしい。人間とはなにか、死ぬとはなにか、病気になるとはなにか、生きるとはなにか、老いるとはなにかということをである。
生老病死のことである。何度も言っているが、人間はやがて100%この世から消えてしまうのである。死んでしまうのである。
いつもそう思っているから、先日あるドクターとしゃべっていたら、つい「人間は100%死んじゃうんですもんねぇ」と言ってしまった。そしたら、ドクターは呵々大笑された。当然であろう。だったら、医者にかかる必然性はなくなってしまう。死んじゃうんだったら、医療は必要がないからだろう。
医療は生きるために存在するんだろうから。
さ、今日は市営のgymで高校のバスケット大会がある。夕方まで駐車場が満杯だろう。夕方遅く行ってみる。そしてヨルバイトの塾がある。
タノシミ、タノシミ。
それでは、なにもしないジジイ生活に戻ります。
(;_;)/~~
【静岡・子育て地蔵】伊豆の国市小室にある岩肌に彫られた地蔵尊と約200体の小さな地蔵尊。子宝を望むものは近所の家で当番の家を教えてもらい、地蔵を一体持ち帰る。授かるともう一体を添えてお礼参りする。お礼参り用の地蔵尊は用意されてある。 pic.twitter.com/CWk2r6B15p
Retweeted 奇祭ファン倶楽部(KFC) (@clubkisai):... fb.me/2r7iKSws8
「ボランティア やってみるより される方」かも知れないけど、まずは実践してみるしかないですなぁ~
この連休は孫に会いに行ったりしていたが、まったくまったくジー... goo.gl/6FtKxd
2015年10月29日東京・永田町、新党大地主催・東京大地塾 fb.me/4oIlOFvlM
「ボランティア やってみるより される方」かも知れないけど、まずは実践してみるしかないですなぁ~
この連休は孫に会いに行ったりしていたが、まったくまったくジー様は暇である。暇だから生きていられるんだろうなぁ~とは思う。
もっと社会とつながっていきたいとは思うのだが、社会がそれを許してくださらない。ジジイだからである。そんなにオレはじじいなのかとがっかりしてしまうが、現実は厳しい。出番がないからである。ま、仕方ないか。定年で退職したのだから。
で、考え出したのが、老人ホームでのボランティアである。老人ホームに入所しておられる方々とそんなに年齢が変わらないジジイがやる。ちょっとだけ先輩たちを訪問して、やるのである。何でもやる。そういうのをやる。老人大学のグループでやることにした。さらに古着を集めて、支援活動もやることにした。私はそれを広報する係りにもなった。もうすでにそういうFacebookを立ち上げてある。そして介護職とか、福祉関係の方々との連絡もとっている。
「ボランティア やってみるより される方」という嫌みも聞こえてくるが、まずは実践である。
あれこれ考え、逡巡していればいいというものではない。
それに、老人大学でもってそういう活動をしていると友達ができる。ただし、残念ながら、まことに残念ながら夜のおつきあいができなくなってしまったのである。アルコール抜きでいると、なんだか実にバカバカしいのである。特にアルコール抜きで喰う刺身ほどうまくないものはない。がっかりしてしてしまう。
理由は、それほど私のアタマがシステム崩壊をしているからである。刺身は、美味い日本酒と一緒に喰いたいという固定観念で凝り固まっているのだ。
バカなんだ。結局。
なにも酒なしでもいいじゃないか。
それが納得できないのである。この一年かけて、オノレを説得していたようなものである。
オノレの説得ということでは、大学院を中退したことも一年かけて自分自身に説得していたようなものである。納得できなかったのであった。健康上の理由でもって退学せざるを得なかったという現実がである。
退学した大学院は九十九里浜のほぼ真ん中にある。通学に便利だから選んだのと、ご指導をいただきたかった教授が一人だけおられたからである。憧れの教授であったからだ。
ご縁が薄かったが。
感謝だけはしている。今でもである。こんなバカジジイをご指導いただいて、どんなに面倒であっただろうと思う。申し訳ない気持ちでいっぱいである。
だから、なんでも自分が納得するというのは時間がかかるのである。
私は、そういうのをブログに書くことによって、自分を説得している。文章優先である。書くことによって自己確認をしている。潜在意識も明瞭になる。もっともあれか。あんまり深く考えてもいないけど。
思いつきで書いているからである。思いつき。まさに心に浮かんできたことを、デタラメに書いているだけである。それで惚け防止になるのなら、こんないいことはないからである。
昨日、NHKの瀬戸内寂聴さんの特集を見た。録画していたから、いつ放送されたか覚えていない。NHK特集は自動的に拾ってくれるから、なんでもテレビ任せである。それで後から見て楽しんでいる。
瀬戸内先生、93歳。
まだまだ衰えることを知らない。現役で小説を書かれておられる。たいしたもんである。考えてみたら、私の亡母と同じ年齢ではないか。
あああああああああああああああ、我が母と同い年の女性がテレビの中でほほえんでおられるのだ。にっこりと。素敵な笑顔であった。
そう思ったら、ナミダが出てきた。
我が母も、生きていたら、こうやってバリバリやっていただろうかと思ったからである。無理だったろうが。
瀬戸内先生は、「元気というびょーきなのよ」ともテレビで言われていた。なるほどである。Twitterでしばしばそういう瀬戸内先生のつぶやきを拾ってくださっている方から教えていただいたっけ。それでなかなかいい言葉だと思って、私のシステム手帳に書いてある。それを時々見ては、自分を鼓舞しているのである。
そうなのである。「元気」で生きていきたいものであるからだ。
なにもボランティアをされる方だオレはアタシは、と威張っている必要もない。アタシより年齢が低くても、ボランティアでもって訪問してバリバリやっていればいいのである。
それが唯一の社会との窓口であるから。
そういうことである。そういうこと。
それをやることによって、再度社会とのつながりが出来てくる。それでいいのだ。
なにも今更リキんで生きている必要も無い。無駄な力は可能な限り排除していくことである。
ジジイになって老いらくの恋なんぞやっている輩もいると聞く。バカなことじゃ。なんにも考えていないってぇことである。
どうせ死ぬのに、なにを血迷っているのであろうか。カントも言っている。老年になって恋愛をしているのは、気取り屋であるとかなんとか。
「恋をする老人は気取りやであり、女性の同様な思い上がりは、吐き気をもよおす」と。
まぁ~どうでもいいような話ではある。
さ、今日からwalking復活である。
昨日は5700歩しか歩いていないから。往復六時間もクルマを運転していたので。
じゃぁねぇ~。
(;_;)/~~~
英語を勉強するメリットは、英語で文章を書けるようになるとか、英語でコミュニケーションができるようになる、というだけではない。英語の素晴らしいスピーチを(すべては聞き取れなくても)感動できるようになったのも、英語を勉強したおかげ。欧米人のスピーチはやっぱり凄いから。
Retweeted 竹内健 (@kentakeuchi2003):... fb.me/2dvKZTFbR
大地震があったらあったでいいじゃあないか。
絶対に動かない地面なんかないよ。
人間というものは死ぬときは死ぬよ。
何にもなくても死ぬときは死ぬのだから、
そんなことを心配するよりも、
もうちょっと気の利いたことを… bit.ly/1dhT6gi
Retweeted 中村天風 (@NakamuraTenpu):
大地震があったらあったでいいじゃあないか。
絶対に動かない地面なんかないよ。
人間というものは死ぬときは死ぬよ。
何にもなくても死ぬときは死ぬのだから、... fb.me/7z8Zx4HOQ
光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。 ―1Q84 BOOK 2
Retweeted 村上春樹bot (@bot_M_Haruki):
光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。 ―1Q84 BOOK 2
美容師が特別養護老人ホームをボランティア訪問〈常陸太田市〉茨城新聞ニュース(2015.9.9) goo.gl/Ac8las
ダンス・マツケンサンバ2(2012.12.9).老人ホームにて goo.gl/snwRoX
2014年7月30日 老人ホームでボランティア その2 ゾンビーボール goo.gl/8vKwF5
KSC南箕輪老人ホーム 童謡・唱歌 ボランティアコンサート goo.gl/bbF76y
涙そうそう/ギター弾き語り・cover(老人ホームの夏祭りにて)★高1 goo.gl/cZ5koN
東京国立博物館 阿弥陀三尊像:白鳳期に制作された阿弥陀三尊で、台座背面に刻まれた「山田殿像」の銘から大化の改新で活躍した蘇我倉山田石川麻呂が制作に関わっているのではないかと考えられる。pic.twitter.com/BwFMfKAvja
Retweeted 仏像紹介BOT (@butsuzobot):
東京国立博物館... fb.me/4i0VMnvpL
この都市において多元的で、しかも美しいもの、それは記号だ。ここを記号の帝国とよんだバルトの直感はやはり正しかったのだ。ここでは、記号は生まれながらにして横断的、生まれながらにして多元的だ。~「地上にひとつの場所を」
Retweeted 中沢新一語録 (@nakazawa_quotes):... fb.me/4bTwQ5sq9
音楽はその全身のあらゆるレヴェルをもって、ピュシスに直接的に触れたまま、それを人間の感覚的知性の内に、開き、立てることができる。このとき人間は、音楽をとおして、世界を了解するのである。~「バルトークにかえれ」
Retweeted 中沢新一語録 (@nakazawa_quotes):... fb.me/4L2bvxoJV
カントと、おバカキャラのミニスカオネーチャンが対談したら・・
哲学者カントというのはチョ~有名人である。
しかしながら、その著作群は、それこそ群を抜いて難しい。つ... goo.gl/FdV11s
【自由の哲学者】 イマヌエル・カントの心に突き刺さる名言集 goo.gl/h9iRJN
夫婦(47):カント:コペルニクス的転回 ~ 竹下雅敏 講演映像 goo.gl/gzm7AT
カントと人間の自由の形而上学的問題 - ヴォルフガング・エアトル goo.gl/YVP2zU
ドイツ観念論哲学の父カント はじめに 観念論の3つのタイプ goo.gl/R16bby
【大阪・四天王寺どやどや】<1月14日>元旦から執り行われる修正会の結願日に行われる。人々が「どやどや」と押しかける様子から名がついたという。五穀豊穣を願って護符を取ろうと東西に分かれたふんどし一枚の若い男たちがぶつかり合う。 pic.twitter.com/C8mGrHH6ER
Retweeted 奇祭ファン倶楽部(KFC) (@clubkisai):... fb.me/4wsoaFPmG
マルセル・モースの『贈与論』からは、二十世紀の構造主義が生まれた。だがそれによって、贈与の主題の秘め持つ思想的可能性のすべてが、つくされたというわけではない。新しい贈与論が可能だ。それはいずれ、生命の自由について語ることになるだろう。~「新贈与論序説」
Retweeted 中沢新一語録 (@nakazawa_quotes):... fb.me/7GOKWBkNL
【滋賀・おかみそり】葬儀で僧侶が故人の額にかみそりをあてる儀式。実際にかみそりで剃ることはしない。正式には浄土真宗の帰敬式という在家信者が仏弟子になるための儀式で、これを故人に行うことによって、仏弟子になったという意味を持たせる。 pic.twitter.com/VRWLpEOxHE
Retweeted 奇祭ファン倶楽部(KFC) (@clubkisai):... fb.me/z1ymStpI
東京国立博物館 摩耶夫人及び天人像:ルンビニ苑にてゴータマ・シッダッタの生母・摩耶夫人が無憂樹の花枝をた折ろうとすると、釈迦が腋下から誕生したという仏伝中の一場面を造形化したもの。当像は橘寺や法隆寺を転々とし、トーハクに寄贈された。pic.twitter.com/P7ETM0dsLy
詩の様式でなければ表現することのできないリアリティというものが存在します。それはちょうど、数学という言葉の様式でなければ表現することができないリアリティがあるのと、同じです。~「映像のエティック」
Retweeted 仏像紹介BOT (@butsuzobot):
東京国立博物館... fb.me/4B38zdLRd
Retweeted 中沢新一語録 (@nakazawa_quotes):
詩の様式でなければ表現することのできないリアリティというものが存在します。それはちょうど、数学という言葉の様式でなければ表現することができないリアリティがあるのと、同じです。~「映像のエティック」
言葉は、人の意識を見えない領域、観念の世界につなげていく力をもっている。しかし、いっぽうで言葉は肉体からでてくる音としての、なまなましい物質性ももっている。~『バルセロナ、秘数3』
Retweeted 中沢新一語録 (@nakazawa_quotes):
言葉は、人の意識を見えない領域、観念の世界につなげていく力をもっている。しかし、いっぽうで言葉は肉体からでてくる音としての、なまなましい物質性ももっている。~『バルセロナ、秘数3』
涙そうそう/ギター弾き語り・cover(老人ホームの夏祭りにて)★高1
KSC南箕輪老人ホーム 童謡・唱歌 ボランティアコンサート
2014年7月30日 老人ホームでボランティア その2 ゾンビーボール
ダンス・マツケンサンバ2(2012.12.9).老人ホームにて