万が一
2014年5月25日(日)
「万が一」。大飯原発訴訟判決要旨(朝日新聞掲載)を何度も読みましたが、「万が一」という言葉が3回出てきます。(朝日新聞は要旨ですので、原文はもっと多いかも知れません。)
私は、この福井地方裁判所の判決を非常に高く評価していますが、上級審において覆るのではないかと危惧していまして、その「万が一」というロジックが現実的でないと反論されるのではないかと予想しているのです。
福井地裁は、「大きな自然災害や戦争以外で、この根元的権利(注 人格権)が極めて広く奪われる事態があるのは、原発の事故のほか想定しがたい」と述べ、「少なくともそのような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差し止めが認められるのは当然だ。」と結論付けています。つまり、被害が甚大なので、「万が一」のようなリスクでも認める訳にはいかないという趣旨なんです。
しかし、世の中の現実として、「万が一」のことが切り捨てられています。例えば、自動車を運転していて死亡事故を起こすことは究極の人格権の侵害になりますが、自動車を運転することはごく当然のごとく行われています。つまりリスクはある程度割り切らなくては、人間社会そのものが存在できなくなる、と言われると、そういう側面を否定することはできなのです。
かつて、福島原発事故の後の国会答弁で、原子力安全委員会の班目春樹委員長は、「原子力発電所は安全対策を割りきらざるを得ない」という趣旨のことを述べました。これが、現政府の基本的考え方であることは明らかだと思います。政府関係者は原発について「安全が確認されたら」という説明をしますが、万が一のことを想定すると「安全」ということを言えるハズがありません。つまり、安全対策を「割り切った」うえので「安全」なんです。
上級審に行くにしたがって、政府よりの判決が出ているのが司法の現実ですが、政府のし放題を止めるのは司法の役割です。ただ、その司法も国民世論を背景として判決せざるを得ない側面があると思いますので、国民が声を挙げることが根元的に重要なことと思います。