水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

センター試験の評論

2009年01月19日 | 日々のあれこれ
 土曜日はセンター試験の応援、日曜日はアンサンブルコンテストの駐車場係を担当しながら、センターの問題を解いていた。
 国語の先生らしく感想をかいておきます。
 1番の評論は、20年以上も前にかかれた文章である。
 ここまで古い文章が出題されるのは珍しい。
 繰り返し読んでみたが、なにゆえこの文章が? という疑問は消えない。読解力が足りないのだろうか。
 自分が入試問題を作る時には、数百人の中3生に50分真剣に読んでもらうのだから、読んで価値ある文章を使いたいと考える。
 できることなら、その文章が入試が終わったあとも記憶の片隅に残り、高校に入ってから、または大学で何か読んだときに、ふと思い出してもらえるようなものでをあってほしいと願う。
 そして設問を解くことによってその文章への理解が深まり、新たに生じた問題意識で頭の中がぐわんぐわん回りはじめてしまうような問いを作りたいとも思う。
 ささやかな志である。
 もちろん毎年ほぼ同じレベルにするとか、得点結果を正規分布に近いものにするとかは、プロとしては当然である(かっこいい! ていうか、センターの人はなんでできないの?)
 今回の文章には、出題者としての志がまったく感じられなかったのである。
 それはちょうど朝日新聞の天声人語の読後感と似ている。

 筆者(栗原彬氏)は、こどもたちの遊びが、ただの「隠れん坊」から「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」になっていることをとりあげる(20年以上前の話)。
 そして外での遊びに飽きた子どもは「人生ゲーム」に興ずるという。
 たしかに私たちが子どものころ、人生ゲームと野球盤が、室内での一番の遊びだった。
 で、「人生ゲーム」についてこう述べる。

 ~「人生ゲーム」は、周知のように、金を操作することによって人生の階段を上昇することを争うゲームである。ルーレットをまわすたびに金が動く。人生の修羅場をくぐって他人を蹴落としながら、自動車を買い、会社に入り、結婚し、土地を買い、家を建て、株を売買する。こうして最終的に獲得した財産の(ウ)タカに応じて、その人の人生の到達度が量られる。成功の頂点は億万長者、ついで社長で、最底辺は浮浪者である。その間に万年課長とか平社員とかレーサーといった地位・職業が位階づけられて配列されている。~

 天声人語ぽくね?
 そして「人生ゲーム」も「陣オニ」も同じ性質をもつ身体ゲームだという。
 これらを通して子供達は、近代市民社会の「私生活主義と競争民主主義」を身につけるというのだ。
 なるほどねえ、と思う人はいるだろう。
 でも、ふつうの高校生の感覚だと、ほんとに? というところではないだろうか。
 筆者は「かんけり」にはこんな意味を見出す。
 「かんけり」には、「人生ゲーム」にも「陣オニ」にも飽きた、つまり市民社会のルール学びに飽きた子供の遊びだというのだ。

 ~ かんを蹴るとき、人は市民社会の「真の御柱」を蹴る身ぶりを上演している。輪が市民社会を示すとすれば、かんは秩序の中心であり、管理塔でもある。子どもたちはかんを蹴ることによって、家、学校、塾、地域、社会一般、そして自己内面の管理社会のコスモロジーに蹴りを入れているのだ。 ~

 まあ、そう思うのは自由で、一つの考えとしてはありでしょう。
 筆者は小学校6年生から聞いた話を何カ所か挿入している。

 ~ 小六の少年はまたいう。かんけりは隠れているとき、とっても幸福なんだよ。なんだか温かい気持ちがする。いつまででも隠れていて、もう絶対に出て来たくなくなるんだ。 ~

 いわねえって。そんなこと、とつっこみたくなったのが、日本中でオレだけということはないだろう。
 いまはすっかり落ち着いた私だが、もし高校生のとき読んでたら「つくり話だろ、おっさん!」と叫んでいたような気がする。

 
コメント (1)
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