水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

センター試験の小説

2009年01月22日 | 日々のあれこれ
 小説もまた古い作品だ。この「雨の庭」を収める短編集が出版されたのが1984年で、「かんけりの政治学」が発表された年。何か深い意味がかくされているのだろうか(隠されてないって)。
 こんな注がついていた。

注1 塵芥の山に火を付けた … 当時、家庭の廃棄物を個人で焼却することは禁止されていなかった。

注4 盆碁には業者から山なす付け届けをもらい … 当時の商慣習として、出入りの業者が便宜をはかってもらおうと、取引先に贈答品を届けるということがあった。

 なるほどねえ。
 今の高校生には、こういう注が必要なのね。
 たしかに現在においては、自分の家でゴミをかってに燃やす人はいないし、業者さんの付け届けなんていう風習はなくなっているから、注が必要になるのだろう。
 って、ほんとすか?
 そういう思いで注をつけたのですか? この注がないと読解に支障があると。では、ここで問題です。

問 「注1」「注4」をつけた問題作成委員の気持ちを説明したものとして最も適当なものを選べ。

 ア 自宅でゴミを燃やすことが禁じられている現在、そのような光景を目にしたことがない受験生にとって、この部分の記述は全体の読解の妨げになるほど不可解な表現であろうと判断したから。
 イ 自分でゴミを燃やすことや、付け届けをもらうといった行為が、父親の人間像を表現しようとしたものではないということを明らかにしておきたいと考えたから。
 ウ 出入り業者による盆暮れの付け届けというような商慣習は、現在の感覚からはきわめて非倫理的なものであり、この一節を読むことによって純粋な受験生が嫌悪感をおぼえることを避けたかったから。
 エ 自分でゴミを燃やす、付け届けの商慣習といった表現がある文章を問題として選んだことに対して、公のテストとしては不謹慎ではないかとの批判を受ける心配をしてしまったから。

 だいたいこの2カ所に注をつけておいて「無聊にたえられない」の意味を問うのはおかしいでしょ。
 つまり読解の補助としての注ではないのだ。

 入試の問題文は、不道徳な内容が含まれない文章を用いるという暗黙の了解がある。ひょっとしたらセンターは、暗黙ではなくマニュアルがあるのかもしれないな。お役人の仕事だし。
 中学入試や高校入試だと、かなり徹底してこのルールは守られているので、題材にはかなり偏りができる。
 主人公は少年か少女、父親と和解する話とか、友人関係に悩む話とか。
 さすがに大学入試レベルになると、そこそこきわどい文章も見ないことはないけど、ふつうに本屋で売っているような文学ちっくなものは出題されない。
 山田詠美も『風葬の教室』の学校の場面は出題されたが、『ベッドタイムアイズ』のばしばしヤってるとこがでるはずはない(ここでもすでにやばいかな … )。
 日本文学の中心話題は古代から現在にいたるまで「愛」と「死」だ。
 中心をはずしながら小説問題を作らねばならない作成委員の先生が大変だと思うけど、だからといって、こんなお役人的な注をつけて責任回避しようとするのは、あまりにも志が低いと思ってしまうのだ。
コメント
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