白石一文『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』を読んでいて、ふと考えてしまったことば。
~ 「あなたの目の前に二つの道があったとします。一つは、やがて神と出会い、自分がなぜ生まれてきたかを悟ることが約束された稀有の道。もう一つは、神に出会うことも自分の誕生の意味を知ることもできないものの、莫大な金銭を与えられ、数々の欲望を満たしながら一生を安楽に暮らすことが約束された凡庸な道。さて、あなたは一体どちらを選択しますか? 仮にいま生まれ変わったとしたらどの道をあなたは進もうと望みますか?」
要するに「あなたはもしなれるのだったら、ブッダやキリストのようになりたいですか? それともロックフェラーの子孫やビル・ゲイツの子供たちのようになってみたいですか?」ということだ。
女性でいえば「あなたはマザー・テレサのような女性になりたいですか? それともアンジェリーナ・ジョリーのような女性になりたいですか?」 ~
「音楽の真の喜びを知りたいですか、コンクールで金賞とりたいですか」というのも同じだろうか。
「本当の読解力を身につけたいか、センター国語で満点とる力がほしいか」ならどうだろう。
これは間違いなく後者をとる。
「本当の読解力」とか、「真の国語力」なんてのは、言葉としては存在しても、これまで誰も定義できなかったものだから。
たとえば「センター試験では本当の国語力は測れない」という言い方で、センター試験を批判する方はいる。
批判はしても、代案を出された方はいない。
たしかにセンター試験の型式よりは、国立二次のような記述問題の方がよりたしかな国語力を測れるような気がする。
まあ、それもそんな気がするだけで、それを証明した人はいないのだ。
センターで半分しかとれない人が、東大二次なら満点とることはありえないし、逆もまたしかり。
小論文ならどうか。かなり「真の国語力」に近づくような気がするけれど、じゃあ誰がそれを客観的に評価できるだろう。
大学の先生にそれができるだろうか。
この程度の問題しか出せない大学なら、その大学の先生の書いた本もつまんないだろうなあなどと思うときはあって、予想はふつうはずれない。
「本当の国語力をつけさせるべきだ」などと述べる国語教育研究者の本は、たいがい日本語そのものがおかしいものが多い(攻撃的すぎますか?)。
「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と孔子はおっしゃられた。
ここで言う「道」は「真理」と置き換えて理解するのが一般的だ。
「朝に真理を知ることができたなら、その日のうちに死んでもかまわない。」
それほど手に入れにくいものであり、孔子でさえ知ることができたらいいなあ、と思いながら亡くなったのだ。
われわれ一般人に、この世の真理なるものを手に入れられるはずがない。
金も名誉もいらない、わたしは生きる意味がわかればいいなどと言うのは、畏れ多いことなのではないか。
つまり、コンクールの賞よりも、もっと大事なものを手に入れたいという言葉は、まず賞とってからでいいでしょ、ということではないだろうか。
昔(ほんとに昔)沢田研二が、「人気と実力とどっちがほしいですか」という問に、「そりゃあ、もう人気にきまってます」と答えたという話をなぜかずっとおぼえている。
~ 「あなたの目の前に二つの道があったとします。一つは、やがて神と出会い、自分がなぜ生まれてきたかを悟ることが約束された稀有の道。もう一つは、神に出会うことも自分の誕生の意味を知ることもできないものの、莫大な金銭を与えられ、数々の欲望を満たしながら一生を安楽に暮らすことが約束された凡庸な道。さて、あなたは一体どちらを選択しますか? 仮にいま生まれ変わったとしたらどの道をあなたは進もうと望みますか?」
要するに「あなたはもしなれるのだったら、ブッダやキリストのようになりたいですか? それともロックフェラーの子孫やビル・ゲイツの子供たちのようになってみたいですか?」ということだ。
女性でいえば「あなたはマザー・テレサのような女性になりたいですか? それともアンジェリーナ・ジョリーのような女性になりたいですか?」 ~
「音楽の真の喜びを知りたいですか、コンクールで金賞とりたいですか」というのも同じだろうか。
「本当の読解力を身につけたいか、センター国語で満点とる力がほしいか」ならどうだろう。
これは間違いなく後者をとる。
「本当の読解力」とか、「真の国語力」なんてのは、言葉としては存在しても、これまで誰も定義できなかったものだから。
たとえば「センター試験では本当の国語力は測れない」という言い方で、センター試験を批判する方はいる。
批判はしても、代案を出された方はいない。
たしかにセンター試験の型式よりは、国立二次のような記述問題の方がよりたしかな国語力を測れるような気がする。
まあ、それもそんな気がするだけで、それを証明した人はいないのだ。
センターで半分しかとれない人が、東大二次なら満点とることはありえないし、逆もまたしかり。
小論文ならどうか。かなり「真の国語力」に近づくような気がするけれど、じゃあ誰がそれを客観的に評価できるだろう。
大学の先生にそれができるだろうか。
この程度の問題しか出せない大学なら、その大学の先生の書いた本もつまんないだろうなあなどと思うときはあって、予想はふつうはずれない。
「本当の国語力をつけさせるべきだ」などと述べる国語教育研究者の本は、たいがい日本語そのものがおかしいものが多い(攻撃的すぎますか?)。
「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と孔子はおっしゃられた。
ここで言う「道」は「真理」と置き換えて理解するのが一般的だ。
「朝に真理を知ることができたなら、その日のうちに死んでもかまわない。」
それほど手に入れにくいものであり、孔子でさえ知ることができたらいいなあ、と思いながら亡くなったのだ。
われわれ一般人に、この世の真理なるものを手に入れられるはずがない。
金も名誉もいらない、わたしは生きる意味がわかればいいなどと言うのは、畏れ多いことなのではないか。
つまり、コンクールの賞よりも、もっと大事なものを手に入れたいという言葉は、まず賞とってからでいいでしょ、ということではないだろうか。
昔(ほんとに昔)沢田研二が、「人気と実力とどっちがほしいですか」という問に、「そりゃあ、もう人気にきまってます」と答えたという話をなぜかずっとおぼえている。